September 01, 2008
Don't Think. Feel!(考えるな、感じろ!)
ブルース・リー主演『燃えよドラゴン』のあまりにも有名な台詞である。
マーケティングのプランニングは、「感じろ」という感性だけでは大ハズレを繰り返すことになる。しかし、「考える」だけでもダメなのだ。
最近、学生のビジネスプランのコンテストを審査したり指導したりすることが多い。答えの出ていない課題に取り組むというリアルなビジネス体験ができることはとても貴重だ。
しかし、残念なことに「これは!」というプランに出会うことはあまりない。そこには「学生だから経験が足りない」というのではない、我々ビジネスマンでも陥りがちな問題点が隠されていることが少なくない。
何の手がかりもなくプランを構築していくというのは困難であり、また効率的ではない。故に、マーケティング戦略の王道を踏襲する。「環境分析」を行う→「セグメンテーション」「ターゲティング」「ポジショニング」(略してSTPという)を明確にし、戦略の方向付けを行う→展開内容として「4P」を検討する。
さて、フレームワークに従って、一通り書き上げ「やれやれ」と一息ついて、プランを読み返してみると、「こんなのでいいのかなぁ?」と改めて悩み始める人が多い。なんだか、そのプランにある製品・サービスや事業が魅力的に映ってこないのだ。
何がいけないのか。フレームワークの弊害が出ていることが多いのだ。思考プロセスを早め、モレ抜けなくファクトを集めて、プランを形にして行くにはフレームワークは極めて有用だ。しかし、「穴埋め」的に進めたのでは「魂」が入らない。
では、その「魂」はどのようにすれば込められるかと言えば、自分自身が策定した「ターゲット」になりきって考えるということだ。
ターゲットが「30~40代・男性・サラリーマン」などと書かれれていることがある。企画者は本当にそのターゲットの気持ちになりきって考えただろうか。
自分は「30~40代の男性で、会社勤めをしている」ようだ。果たして年齢は30歳なのか?49歳なのか?30~40代でも、上限下限では肉体的にも精神的にも大違いだ。
会社勤めとはいえ、どんな仕事をしている?役職は?年収は?会社はどこにあるんだ?都市部か地方か。それ以外にも、家族はいるのか。休日など何を楽しみに生きているのか。などなど・・・。
ターゲットが明確にならなければ、そのターゲットが購入する理由(KBF=Key Buying Factor)がわからない。KBFは、その製品・サービスのポジショニングを設定するための重要な要素となる。ここがプランニングのキモなのだ。
Don't Think. Feel!(考えるな、感じろ!)では困ってしまう。しかし、アタマで考えただけだと「30~40代・男性・サラリーマン」などという設定をしてしまう。
Think and Feel! 考えながら、なりきって、徹底的になりきって、感じてみる。そこまでの思い入れが必要なのだ。
画家のミレーは「人を感動させるためには、まず自らが感動しなくてはならない」と、自らのポリシーを言葉にして遺した。ターゲットになりきって、その製品・サービスや事業に惚れ込むようでなければ、企画に魂が入っているとはいえないのである。
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August 29, 2008
ハムレットよろしく悩んでいるのは禁酒の話ではない。禁酒など、悩むまもなく朝に誓ったその夜には破ってきたのが、成人してから20余年の人生である。
水。
当然、毎日水を飲む。どんな水を飲むかが問題なのだ。
研修の際に、「マーケティングとは”価値の交換活動である”」と説明する時に、ペットボトル入りのミネラルウォーターを例にする。
「タダとは言わないが、極めて安価であるはずの水、主に水道水のことであるが、をれを飲用せずに、ペットボトルの水を買うのはなぜか」という話。
まず、水を買う人がどれくらいいるか、挙手を求める。都内だと約8割。地方に行くと少し比率が下がるが、過半の手は挙がる。
では、改めて、買う理由を聞くと、「美味しいから」「身体に悪い成分が入っていないから」という答えがだいたい出る。つまり、「味」や「安全性」という「価値」があるから商品と対価の交換が成立しているのだという理解を得るわけだ。
だがしかし、ペットボトルの功罪として、環境負荷が高いという側面もある。採取地から運搬する。(海外からも!)。ボトリングして配貨する。店頭に並べ、冷却しておく。どれだけのCO2が排出されることになっているのだろう。
今年の2月にロンドン市長が「水道水を飲もう」と呼びかけた。(2008年 02月 20日)
<ロンドン市長、ボトル入り飲料水のボイコットを呼び掛け>
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-30414720080220?feedType=RSS&feedName=oddlyEnoughNews<ボトル入りの水は水道水に比べて価格が500倍、環境への悪影響は300倍>という主張だ。
一方、<シカゴでは今年の4月からプラスチックボトル入りの水に5セント(およそ5円)の税金がかかるようになった>という。それにつれて、水道水利用が復活していると。
<水道水の利用が復活!?@シカゴ>(2008年6月24日)
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091213864245.html<アメリカのボトルリサイクル率は20%未満で、他80%はゴミとして埋め立てされ終わってしまう>ということと、<水道法と食品衛生法で定められている基準で見ると、水道水の方が安全という結果も出ている>ということで、<「ボトル水じゃなくて、水道水がいいわ」と言うのがエコを意識している人にとってはとってもクール>というムーブメントも起こりつつあるという。
さて、日本の話。<内閣府は8月11日、水に関する世論調査結果の概要>が発表された。
<水道水 そのまま飲む人約4割 ミネラルウォーター 利用者3割>(2008年08月24日)
http://www.gamenews.ne.jp/archives/2008/08/_4_3_1.html
3割というのは、ちょっと意外な数字。但し、<「水道水をそのまま飲んでいる人は4割にも満たない」ということになる。次いで「浄水器を設置して利用」が32.0%と3割超え、「ミネラルウォーターを購入して飲んでいる」が3割近くに登っている>という結果だ。また、地方での研修で感じていたとおり<都市規模が大きくなるほど水道水をそのまま飲むことはなく、浄水器を利用したりミネラルウォーターを使っている>という。
一方、興味深いのが<「浄水器の設置・利用」が40代をピークにしていること。1985年~1990年には直近の浄水器ブームが起きているが、この時に買った二十歳台の人が現行でも使い続けているということなのだろうか>という点だ。
確かに我が家にも浄水器が設置してある。しかし、料理には使うが、なかなかそのまま飲まない。
前出のシカゴの例では<「冷やす」というのがポイントで、「生あたたかい水道水だと気持ち的に美味しくない」ので冷やすと抵抗がなくなる>ということで、<冷やされたプラスチックの水入れからゴクゴク飲んでいる>という人も増えたようだ。
そのための道具も増えてきた。象印は「マイボトルを持とう」と呼びかけている。
http://www.zojirushi.co.jp/cafe/index.htmlベネトンもさらに力を入れてきた。
<ベネトン・エコシリーズに新商品! カラフルな「マイカップ&マイボトル」を持って出かけよう>
http://greenz.jp/2008/08/27/benetton/
どうやら、ペットボトルの水を「飲むべきか、飲まざるべきか」では、環境意識の高まりから、水道水が形成優位になって、「水道水を(浄水して冷やして)飲むべき」なりそうだ。加えて、シカゴの例では<食料品やガソリンの値上げ。市民の財布のヒモはきつく、かたくなってきている>という背景がある。日本でも同じだ。
だとすると、マイボトルを「持つべきか持たざるべきか」で悩むことになるのだろうか。
いやいや、マイボトルが当たり前になれば、「どんなマイボトルにしようかな」と楽しげな悩みになるのかもしれない。
最後に、「浄水・冷却した水道水をマイボトルで飲む」の普及をロジャースの普及要件で整理してみよう。
■相対優位性
ペットボトルに比べると安い。味・安全性はデータによれば大差ない。(雑菌混入などのリスクは水道水が少ない。消毒の薬剤はかつてより極めて微少とされている)。
■両立性
ミネラルウォーターが飲みたい時や、マイボトルが邪魔な時は、ペットボトルを買えばいい。両立性は確保されている。
■複雑性
複雑さは全くない。ただ、単に買えばいいペットボトルと、浄水・冷却やボトルのメンテナンスはちょっと面倒かも。但し、「どんなボトルを選ぼうかな」という複雑ではないが、選択の楽しみはあるように思う。
■試行可能性
マイボトルをまず買わなくてはならないというのは、ちょっとしたハードルになるだろう。まずは、空きペットボトルに浄水器から水道水を入れて、冷蔵庫で冷やして飲んでみることから始める感じだろうか。試してみると、やはり、シカゴの例ではないが、驚くほど抵抗はなかった。
■観察可能性
「効果の観察・実感」はなかなか難しいが、完全に実行すると、週に一度、たまったペットボトルを踏みつぶして、回収ボックスに持って行く時の量を見て良心の呵責に苛まされることはなくなるだろう。それは確かに観察可能な効果であるといえる。
・・・さて、週末にマイボトルをちょっと物色してみようかな。
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August 22, 2008
「食育」なる考え方が登場し、あっという間に「食育基本法」が制定された。2005年のことだ。日経新聞の表現を借りると<子供が食に関する知識と選択力を身につけ、健全な食生活を実践することで、豊かな人生をはぐくむのが食育の目的>とある。
そして、今度は「旅育」なる考え方が登場し、5年後をめどに全公立小学校で実施を目指しているという。(日経本紙連載コラム「観光立国への挑戦」8月21日より)。
父から「食は三代」と教えられて育ったように思う。贅沢をしたり、豪華な食事をする必要はないが、きちんとした食事をしなければ舌が育たず、それは自分の子供にも影響するという。おかげで、子供にも現在、あまりいい加減なものを食べさせずにいると思う。
そのように、本来、食は親から子へ、子々孫々受け継がれていくものであるのだが、あまりにも今日、食というものが変質してしまっているのが今日である。三代もさかのぼろうものなら、現在40%前後をふらふらしている日本の食糧自給率は100%近い時代になってしまうだろう。個人の努力ではそこまでさかのぼって、子に教えることができないことを、「地産地消」を基軸として伝えていこうというのが「食育」の要諦のようだ。その意味では、大いに賛成できる。
では、「旅育」はどうなのか。旅育もその要諦は、<都市部の子供が地方都市を訪れる機会が増え、地域振興につながる>ということだという。(同紙)
食と同様、今日、旅も大きく変質している。「若者の海外旅行離れ」なるキーワードがささやかれて久しい。その理由を「インターネットの疑似体験で十分満足してしまっているから」とする識者もいるが、その意見には全く賛同できない。インターネットでは旅行によって現地を「体感」や「体験」はできないからだ。当の若者からも「行きたくとも金も時間もないだけだ」との反対意見が数多く上がっている。
しかし、インターネット云々は一遍の真実も含んでいるかもしれない。旅に出る先のことを「知る」だけなら、十分な情報が入手できる。旅行も以前のように何カ所もの名所を「確認(視認)」するだけの、慌ただしい周遊型の人気は絶えて久しい。一層、「体感」「体験」が重要になってきているのである。
さて、食は三代とすれば、旅は何代なのだろうか。筆者東京育ち故、帰省という習慣がなかったことにも起因しているが、海外はともかく、幼少期から日本全国各地をずいぶんと親に連れ回してもらって育った。おかげですっかり旅行好きだ。
しかし、親と旅した内容を思い出せば、当時のご多分に漏れず、前述の周遊型に近かった気がする。現在の自身の旅行スタイルとはずいぶん違う。だとすると、教えられたのは「旅をする心」というか、「きっかけ」ではなかったのだろうか。
「旅育」は<小学生が、農山漁村で長期の宿泊体験活動>や<田植え体験>などが現在モデル的に行われている内容として紹介されている。「体験型」中心なのは大変結構なことだと思う。
ただ、「旅は何代か?」と考えれば、きっかけさえ与えれば、自身で体験し、何らか自分の中に残るものができるため「旅は一代」ではないかと思う。その意味からすると、せっかくの「体験」があまりに「お仕着せ」にならないようにしてもらいたいのだ。「食」に関しては、あまりに情報が錯綜したり、偽装や隠蔽が横行したりしているので、しっかりとした教育が必要だろう。しかし、あくまで「旅」は本人に任せる部分が大きい方が良いはずだ。「食は三代、旅は一代」なのだから。
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August 14, 2008
いつも訪れる名古屋から少し足を伸ばし、高山に行った。高山は豊臣秀吉の命を受け、金森長近が三木氏討ち飛騨の領主になって、6代100余年を治めた地。金森姓としては縁深いのだが、なかなか訪れる機会がなかった。
特急「ひだ」がディーゼルエンジンをとどろかせ、山間の単線をひた走る。車窓からは飛騨川などの渓谷が目に美しい。名古屋から2時間と少しで高山駅に到着。
列車の中から気付いてはいたものの、駅前で改めて外国人観光客の多さに驚く。昨今の日本を訪れる外国人観光客の傾向通り、中国をはじめとしたアジア圏の人も多いということだったが、この日は北京オリンピック開催中という影響も多いのだろう。欧米人が過半を占めていたようだった。バックパックを背負った比較的若い人が多い。
欧米人が多いのはもう一つ理由がある。高山は2007年に初めて刊行されたミシュランの日本に関する観光ガイド「MICHELIN Voyager Pratique Japon」に「必ず訪れるべき場所」として、三つ星で紹介されたのだ。ユーロの強さも手伝ってか、独立行政法人国際観光振興機構(JNTO)によれば、日本を訪れるフランス人は2004年から2006年の2年間で22 %増加しているという。旅行ガイドがフランス語で書かれているためか、やはり英語よりもフランス語が多く飛び交っているように思われる。旅行ガイドを片手に海外の街を歩く。「地球の歩き方」を片手に旅行している日本人のようで、ちょっと面白い。
とはいえ、他所の国で刊行された観光ガイドに地元が頼っているわけではなく、外国人観光客のブームに対応する街の取り組みも見事である。駅正面の観光案内所には各国語のパンフレットがぞろりと揃っている。パンフレットによっては距離の単位をキロだけでなく、マイル表記にするなどの細かい配慮もなされている。
現在、国を挙げた「ビジット・ジャパン・キャンペーン」が展開されている。しかし、かけ声だけではなく、こうした細かな配慮こそが重要なのだ。既存の観光資源があるだけでも、新たな「ハコモノ」を造るのでもなく、ソフト面の充実こそが求められるのだ。
そうした細かい配慮の一つとして、地元のすてきな取り組みを見つけた。
高山市内を歩くと、古い街並みにもよく似合うきれいな蒼い朝顔を随所で目にする。なぜか、昼日中でも花がしおれていない。
地元の人に聞いてみると、「ヘブンリー・ブルー」という名の西洋朝顔だという。婦人会が中心となって、高山の街を訪れる人に、朝だけでなく昼間でも花を楽しんでもらおうと各家々に苗を配ったのが始まり。開花時間が長く、花芽が多くついてきれいに咲くこの品種を選んだという。今では市も協力し、小学校で栽培・観察し、各家庭に児童が持ち帰るのもこの品種だ。
古い街並みを流れる用水から打ち水をし、目に涼しげな蒼い朝顔で旅人を迎える。そんな細やかな心遣いこそが、単に観光資源を有しているというだけでなく、街を活性化させることにつながるのだろう。
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August 08, 2008
分子生物学者・福岡伸一教授の示唆に富んだコラムからご紹介したい。
日経新聞08年8月7日付夕刊「あすへの話題」。執筆者は青山学院大学理工学部化学・生命科学科教授・福岡伸一氏。氏は著書「生物と無生物のあいだ(講談社現代新書)」でも知られている。
コラムは「つくるまえにこわせ」と題され、生物の細胞の仕組みについて述べられていた。
最近の研究で、細胞を構築する<タンパク質の合成ルートは一通りしか存在しない。しかし、タンパク質を分解するルートは何通りも存在>するという。そして、氏は<細胞の内部空間は限られている>故に、まず、こわすことは当たり前の帰結であると説いている。
さらに、このコラムの冒頭でも触れられている、分子生物学の発展の歴史も興味深い。<生命のミクロな分子群が緻密なメカニズムで作られる仕組みを追いかけそれを解明してきた>という<つくることばかりに目を奪われてきた>流れから、昨今、コラムの本題である<こわす仕組み>への注目がなされていると指摘している。
生物の細胞の仕組みは「つくるまえにこわす」設計が幾重にも施されているということが、コラムのキモであるが、転じて、我々の思考プロセスはどうなっているだろうか。
論理思考の基礎はWhy so?, why,why,why,why・・・と「なぜ」を繰り返すことにある。しかし、さらにそれを進めて、自らのロジックを打ち壊すのはなかなかに勇気がいる。故に、「自説への固執」が起きる。
論理思考の基本としては「ゼロベース思考」も挙げられる。既存の常識や既成概念も一旦リセットして、ゼロベースでものごとを考えていこうというものだ。特に世の中の環境や仕組み、ルールが大きく変化している昨今、このゼロベース思考は重要だとされている。
確かに、思考の原点をゼロからはじめるのは重要だろう。ただ、思考の途中から、何度でもその原点に立ち戻るのも、やはりなかなか勇気がいる。やはり「固執」が起きる。
もし、原点に戻ったり、ロジックを自ら否定することが苦に感じられ、少しでも固執を感じた時には、コラムにある「つくるまえにこわす」という仕組みが自らの中にも自然と備わっていることを考えてみてはどうだろうか。
ものを考える時、どうしても先に進めようと、<つくることばかりに目を奪われ>がちになってしまう。まず、「壊す勇気」を持つことが重要なのだと認識したい。
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July 25, 2008
夏×(モノ+コト+食の安全)×省時間・・・なぁんて方程式にズバリ合致して衝動買いをした。Amazonに発注済み。商品到着を楽しみにしているところである。
■夏
夏といえばかき氷だ。家で子供と一緒に氷をガリガリと削るのは楽しい。
だが、削るのはともかく、実は味が苦手なのだ。氷のキーンと冷えた口当たりはうれしいものの、あのシロップそのものというプアな味わいは一夏に1〜2回食べれば十分だと思ってしまう。
もう少しよく考えれば、削るのもすごく楽しいかというと、あまりにあっさり作れすぎて味気ない。ガリガリガリガリガリガリガ・・・終了。・・・寂しい・・・。単調ですぐに飽きてしまうのだ。
台所の片隅に箱に入って鎮座し、貴重なスペースを占有しているかき氷器は、毎年数回しか登場しない。出来上がった食べ物としてのスペック、作る課程の楽しさという、”モノ”と”コト”としての価値が意外に低いのが原因なのだ。”夏の風物詩”というキーワードでちょっと惰性的に作って食べていたのかもしれない。
■モノ+コト+食の安全
となると、もう一一つの氷菓の雄、アイスクリームだ。
アイスクリームなら60円のガリガリ君から、1カップ500円の高級品まで昨今よりどりみどり。だがしかし、市販のものは概ね甘い。甘すぎるのである。
そんなわけで、手作りアイスクリーム器=アイスクリーマーなるものを使っている人の話を聞くにつけ、興味を抱き、物欲メーターが少しずつ上昇していたのである。
手作りなら甘さのコントロールも自在にできる。こだわろうと思えば素材も自由に選べるし、もちろん、添加物などの心配もしなくていい。”食の安全”対応である。
斯様に”モノ”としてのスペックを自由にカスタマイズできるのは何ともうれしい。
さらに制作過程の”コト”を考えると、単に氷を削るだけでなくいろいろな素材を混ぜ合わせたり、かき回したりと、かき氷より複雑なプロセスを踏む故に、エンターテイメント性は高いだろう。
■省時間
アイスクリーマーなる商品を物色してみた。が、その結果は絶望的であった。
確かに具材を子供と一緒にまぜまぜ・コネコネするのは楽しそうだが、何とも時間がかかるのだ。
具材を容器に入れて冷凍庫で冷やすこと10時間。その後、取り出してはコネコネかき回し、また冷凍庫に戻しと数時間繰り返すという。・・・考えられない・・・。
確かに作成プロセスに価値があることは理解できる。だが、人間は等しく1年365日・1日24時間と与えられた時間の中で生きている。それをアイスクリーム作りにそんなに費やして良いものだろうか。いや、良いはずがない。故に、却下した。
しかし、技術の進歩とはすばらしい。なんたる人類の英知の結晶か。やるな、ナショナル。(もうすぐパナソニック)。面倒なところは全自動だという。
<混ぜ合わせた材料を入れ、スイッチを押すだけの簡単操作。マイコン制御で自動かき混ぜ、自動停止してくれるので、出来上がるまで(約3時間ほど)、冷凍庫に入れっぱなしでいい>という。
具材を用意し、容器に入れ、わずか3時間。10数時間が3時間だ。なんという”省時間”。
考えてみれば、制作過程で楽しいのは材料のレシピを考えて容器に混ぜ入れるところと、後は仕上がりの瞬間だろう。まぜまぜ・コネコネも楽しいかもしれないが、作業過程如何では失敗のリスクを大きくはらむという。ならば自動の方がいい。
というわけで、夏×(モノ+コト+食の安全)×省時間=National 電池式コードレスアイスクリーマー BH-941 なのである。
この夏はたっぷりアイスを食うぞーと思いつつ、物を一つ買うのに、こんなにめんどくさい考え方をする自分はあまり「省時間」ではないなとも思ったりする・・・。
だがしかし、ここで今一度、視点を転じてみると、この一連の流れは消費者のモノの購入に至る心理・態度変容の変遷と、モノを買う理由(Key Buying Factor)の抽出そのものでもある。
筆者は一般的な消費者像とは多少の乖離があり、モデルとしては些か複雑なパターンすぎるかもしれない。しかし、心理・態度変容やKBFは既存のフレームワーク(例えばAIDMA)や、安いとか便利とかでは計れない例として考えられなだろうか。
ちょっと自分の衝動買いの理由付けをしつつ、後付けっぽく真面目にまとめてみる。
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July 23, 2008
今日は記事ではなくお願いです。
-----------------<まずはお願い>-------------------
当Blogの左フレーム内にある「MOTTAINAIクリック募金」のスポンサーロゴを「ポチッ」とクリックしていただきたいのです。
クリックすると、別ウィンドゥが立ち上がりますので、「1クリック×7日で苗1本」と書いてある所・オレンジ色に白抜きの「クリック!」というボタンを「ポチッ」とクリック。
さらにもう一つスモールウィンドゥが立ち上がって、募金が完了したことがわかります。
・・・ちょっとウィンドゥがいくつも立ち上がってうっとうしいのですが、お願いします。 m(_ _)m
---------------<募金先について>--------------------
MOTTAINAIキャンペーン
http://www.mottainai.info/about/
伊藤忠商事と毎日新聞が事務局になり、1クリック1円が「グリーンベルト運動」に寄付されます。
<キャンペーンサイトより>
「グリーンベルト運動ではこれまでにケニアとはじめとするアフリカ大陸全土で4000万本を超える木を植えており、植林の参加者は女性を中心にのべ10万人。環境保全にとどまらず、植林を通じて貧困からの脱却、女性の地位向上、ケニア社会の民主化に大きく寄与しています。」
-----------<詳しい経緯については以下にて>---------------
約1年前、8月10日に「お知恵拝借:ドネーションプログラム」という記事をアップした。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/08/post_75ea.html
ちょうどその頃、電子マネーが伸長している影響で、1円、5円、10円、50円硬貨の流通量が激減しているというニュースが伝えられた。時を同じくして、コンビニエンスストアを経営している知人からレジ横の募金箱に入りが悪くなったと聞かされた。
日本では欧米に比べDonation(ドネーション=寄付・寄贈)の習慣が育っていない。また、改まってまとまったお金を寄付するという機会はさらに乏しい。故に、少額をチマチマと寄付できる、コンビニの釣銭募金にかわるしくみは考えられないかと思ったのだ。
昨年の記事に対して、いくつかのアイディアをコメントとして寄せていただいたが、すぐに実行できるようなものは残念ながらなかった。
最も気軽なしくみは、昨年の記事中でも紹介した「クリック募金」だ。
募金Webサイトに行って、スポンサーのバナーなどをクリックすると、1クリックで1円が慈善団体にスポンサーから支払われる。
これは確かに気軽なのだが、そのサイトのURLをブックマークするなどしていちいち飛んでいくのが何とも面倒。結果、クリックするのも忘れてしまう。・・・何かよいしくみみはないかと気にはなりつつ、なにも為さずに時間は過ぎた。
それから1年あまり経って、最近見つけたのが、左のブログパーツ。クリック募金へのリンクを自分のブログに組み込むことができる。
自分自身でも1日1回はブログを確認する。1クリックで1円は募金できる。
さらに、このブログはおかげさまで毎日250人以上の方が来訪されているので、皆さんも「ポチッ」とクリックしていただければ、数百円募金できる。
先週の土曜日に、このBlogにさりげなく設置しておいたのだが、まだほとんどクリックしていただいていないようなので、改めて、是非にお願いしたい。
貴重な時間を割いて記事をお読みいただいている上に、さらにクリックをお願いするのは心苦しい限りですが、今後、一手間お願いできないかと考えています。
よろしくお願いいたします。
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July 09, 2008
仕事の効率と生産性を向上させるコツである「ライフハック」においては、ちょっとした空き時間、いわゆる「隙間時間」の有効活用術は定番だ。しかし、ふと考えてみると、最近、「自分に時間の隙間はあるのだろうか」などと考えてしまう。いや、筆者だけのことではないと思う。世の人々、特にビジネスパーソン全般、そうなってはいないだろうか。
「隙間時間」の定義は様々あるものの、予定と予定の間にできたふとした時間を指すことが多い。さらに今回は、予定と予定を繋げるための移動時間などもそこに入れて考えたい。つまり、ぼうっと過ごしてしまえばそれまでだが、何か目的を持てば有効活用できる時間のことと定義すればいいだろう。
と、考えると、常に何か時間ができたらやろうということを決めておき、実行することが有効活用のポイントとなるわけで、資格取得や語学学習なでおにおいては成功の必須条件となっている。「隙間時間をいかに埋めるか」が課題なのだ。
前述の資格や語学などであれば、参考書やテキストを開くこととなるが、一般に隙間時間の定番といえば、情報収集ではないだろうか。そして、昨今、情報収集の定番といえばインターネットだろう。こんな記事もその一端ではないだろうか。
<超小型・軽量のモバイルノート、「できれば欲しい」と4割強が回答>
http://news.livedoor.com/article/detail/3719591/
筆者の所有しているASUS社のEeePCを追撃する、日本 HP や工人舎小型軽量のモバイルノート PCが話題になっている。記事にある、本来モバイル用でありながらいつも持ち歩かないユーザーは、軽量とはいいつつもB5サイズ1㎏強あるPCが文字通り重荷なのだろう。超小型・軽量化でようやく弾みが付きそうだ。マクドナルドやスターバックスでPCを使っている人がさらに増えるだろう。
ネットワークへの接続環境もさらに整備されてくる。
<新幹線無線LAN開通でビジネススタイルが変わる!>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080708-00000002-dol-bus_all
<JR東海は、東海道新幹線最新車両「N700系」に於いて、平成21年3月を目処に、無線LAN接続の導入を開始すると発表した。>
現在は東京を出て、熱海あたりからか、トンネルが多くなって接続が安定しない。その区間を抜けるまで、約30分ぐらい軽くまどろむ時間があったが、その間もつなぎ放題となり情報収集タイムとなるのだろうか。
だが、ちょっと違う種類の気になる数字もある。
<PCからのネット利用時間、初めて減少 博報堂DY調査>
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/09/news058.html
<東京に住む人のPCからのネット利用時間が2004年の調査開始以来、初めて減少した。携帯電話からの利用時間は増えている>という。実際の数字は、まだまだPCの方が多いのだが、徐々に携帯にシフトしてきているとも言える。
PCと携帯の大きな違いは当然、その手軽さだ。PCが超小型化したとしても、「さて、使うぞ」という感じになるが携帯ならポケットから取り出してすぐ接続できる。今日、PCサイトも携帯での閲覧用に変換する技術が進んでいるので、かなりの部分が携帯で閲覧できる。
さて、こんな環境の中で、隙間時間は特にネットからの情報収集はいつでも・どこでもできるようになっており、PCか携帯の液晶画面をいつでもにらんでいる自分に気付かされる。
確かに日々のネタ収集にはこの上なくありがたい環境だが、これで良いのか?とも思う。
視覚を液晶画面に固定し、思考力をその情報処理だけに割り当てる隙間時間の使い方。どこか不自然な気がする。しかし、情報収集というインプットはある種の中毒症状を引き起こしがちだ。暑い時、水を飲み始めると止まらなくなるのに似ているかもしれない。
アルキメデスが「浴槽からあふれ出るお湯」を観察し、「浮力の法則」を発見したのは有名な話だ。入浴というある意味の、ふとした「思考の隙間」に視覚から「あふれ出るお湯」という新鮮な情報が入り、解放していた思考が起動し理論に結実したということだろう。
習慣的な情報収集行動で隙間時間を埋めていたら、そんな新鮮な発見と、自由な思考ができるだろうかと考える。恐らくは難しいだろう。
これからは、意図して「隙間時間」を作らないといけないのかもしれない。
ピーターパンの作者である、サー・ジェームス・マシュー・バリー(1860~1937)の言葉。『珠玉の時間を無為に過ごさないようにと注意を受けたことがあるだろうか。そうなのだが、無為に過ごすからこそ珠玉の時間となる時もある』。
世界の誰からも愛されるピーターパンも、バリーの「無為の時間」、つまり「隙間時間」から生まれたのではないだろうか。
「時間の隙間を埋める」のではなく、「珠玉の無為の時間」の過ごし方をこれからは考えてみたいと思う。
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July 08, 2008
ちょっと飛んだ話に聞こえるかもしれないが、パソコンを太陽電池駆動にしようかと思っている。
本格的な夏を前に、暑さでアタマがおかしくなったかと思われるかもしれないが、ご心配なきように。一応、考えてのことだ。
プリウスに太陽電池が搭載される。
<ハイブリッド車「プリウス」、太陽光発電を搭載 トヨタ >
http://car.nikkei.co.jp/news/business/index2.cfm
<屋根部分に発電パネルを設置。エアコン駆動に必要な2―5キロワットの電気の一部を太陽光でまかなう計画>だとのこと。
どの企業でも最近は広告に「地球にやさしい」という表現がなくなってきたように、どこまでいっても自動車は環境負荷を高める象徴である。それが、ハイブリッドによって負荷軽減をし、燃料電池車によってさらなる軽減をしようというロードマップが示されている。
しかし、燃料電池車の実用までの道程はなかなかに厳しい。故に、この「太陽電池搭載」は「少しでもそれまでにできることを」という象徴的な取り組みなのだと思う。
実際に、プリウスの太陽電池がエアコンのどの程度を担えるのか、また、それによるCo2削減効果がどの程度なのかわからないが、努力する姿勢、象徴的な取り組みは大切なことだと思う。
さて、「パソコンの太陽電池駆動」に話を戻そう。実にすばらしい商品が登場している。
<太陽光でMacBook Airを動かしちゃう「Apple Juicz MacBook Air Solar Charger」>
http://greenz.jp/2008/07/04/apple_juicz_macbook_airsolar_charger/
<満充電まで14時間を要する18Wタイプ(500ドル)と8時間で充電できる27Wタイプ(600ドル)の2種類>だそうだ。残念ながら、Mac専用のようだが、他の機種に対応しているものも探せばあるかもしれない。
毎日8時間太陽にあてて充電。1セット600ドル。現実的でないかもしれない。しかし、自分が毎日使っていて、結構な勢いで電力を消費する製品に対する環境負荷軽減策としては、重要な取り組みではないだろうか。
何より、自らが、さらなる環境負荷軽減に努めようと意識するための象徴的な製品になると思う。
ところで、環境問題への取り組みが焦点となっている、洞爺湖サミットの初日が終了した。
環境への取り組みの象徴として、クールビズスタイルが大嫌いな福田首相も、ついにその装いを披露すると目されてる。しかし、初日には残念ながら行事の内容からか、首相のクールビズスタイルは筆者の見た限りでは、テレビのニュースなどでは報道されていなかった。
6月25日の日経新聞・朝刊のコラム「春秋」に面白い記述があった。
既にネット上にリンクがないため、ちょっと記憶に頼って記述する。
『閣僚がネクタイをはずしているのに、福田首相だけネクタイを締めた姿が報じられるのは不自然』という指摘だった。そして哲学者・サルトルの言葉”実存は本質に優先する”を引用。『姿形が伴ってないと実行が伴わない』と評した。
好き嫌いでは済まない。象徴的な姿勢を示すことが大切なのだ。
さて、筆者は自家用車を所有しない主義なので、プリウスを購入することはないだろう。しかし、パソコンへの太陽電池導入はまじめに検討してみたいと思う。
明日は、福田首相にも、クールビズスタイルで決めてもらいたいところだ。
やる気をみせてくれることを切望する。
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July 04, 2008
ものごとは、あまり細部に入り込むと分かりにくくなる。細かいことばかりを言っても人に伝わりにくくなる。まず、全体像をきちんとおさえることが重要なのだ。
ちょっと面白いネタを見つけた。
<携帯のバッテリー残量、なぜあの表示?>
エキサイトニュース 速報・コネタ http://www.excite.co.jp/News/bit/00091213626678.html
<携帯電話のほとんどは、電池残量が「3、2、1」の段階表示。具体的に「100%~0%」で表示してくれたらいいのに!>
<「携帯電話はパソコンなどと異なり、ポケットに入れるなどするので、外部からの熱や湿度の変動が大きく、それに伴い電池の状態も刻々と変化します。そのため、あまり細かく表示を分けると、推定される残量の数値が増減し、お客さまに対して不信感を与えるので、大まかな3段階の表示としています」(KDDI株式会社)>
つまり、よかれとできるだけ正確な表示をしようとすると変動要素が働いて、かえってユーザーに情報がきちんと伝わらなくなってしまうということ。それ故に、3段階という「ざっくり」した表示の方が、「あ、もうすぐ電池なくなる」と理解できるということなのだ。
転じて、ビジネスに用いられる「フレームワーク」の話。
「フレームワーク」とは、モノゴトを考える際に手助けとなる「枠組み」である。ちょっと違うのかもしれないが、武道における「型」のようなものだといえるかもしれない。うまく使いこなせば、モノゴトを論理的に、かつ、スピーディーに考えられるようになり、「モレ」や「抜け」を防ぐことができる。人に整理して伝えやすくもなる。それ故、昨今のビジネスパーソンにとっての基礎知識として各企業における社員研修やビジネススクールなどで、その「使いこなし」を学ぶ人は数多い。しかし、そこには大きな「使用上の注意」が存在する。その一つが「ざっくり」なのだ。
例えば、フレームワークを用いた環境分析は、ポピュラーなものにPEST・3C・SWOTなどがある。分析に足りるファクト(事実情報)がある程度揃っていれば、かなり詳細な分析も可能となる。
しかし、ここで注意しなくてはならないのが、ついつい、分析が細部に入り込んでしまうことだ。「ファクト情報をフレームワークで整理しただけ」という、「分析した結果・意味合い」を導出できていない状態というのは最悪なのだが、何らか意味合いを出そうとしても、全体感がなく、やたら細かいところばかりを掘り下げてしまうことも多々あるのだ。
そうなると、上記の携帯電話の電池残量を%で表示した時のように、ちょっとした変動要素で分析結果が大きくブレて、結局何が言いたいのか分からないことになる。
フレームワークはうまく使いこなせば大きな効用がある。しかし、使い方を間違えると「さんざん時間を使って、だから何が言いたいの?」ということになってしまうので注意が必要だ。
「フレームワーク」使いこなしの大原則は、「まずは、ざっくりと概観をつかむこと」である。ピンポイント情報を列挙するのではなく、人にストーリーを持って人に伝えられるような結果を導出することが重要なのだ。正しい使い方を守って、効率的・効果的にビジネスに役立てていただきたい。
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June 24, 2008
※6月25日:タイトルを変更し、加筆・修正しました。
今年の夏もまた、ボルヴィックによる「 1L(リッター)for 10L 」キャンペーンが始まっている。
アフリカの「水汲み」から、日々の仕事をどうしたら楽にできるのかを考えてみた。
店頭によってはまだ、キャンペーンが記載されたボトルが並んでいないようだが、今年のキャンペーンは6月1日から9月30日までのようだ。
http://www.volvic.co.jp/1Lfor10L/
昨年第1回が開催され大きな反響を呼んだこのキャンペーン。ボルヴィックのミネラルウォーターを消費者が1リッター購入するごとに、10リッターの清潔で安全な水がアフリカに生まれるという。具体的にはユニセフを通じ、飲料水を確保するための井戸づくりと、10年間に渡るメンテナンスを行う資金に充てるということだ。
筆者は環境負荷を考えると湧出地が近い製品を普段は選んだりしているのだが、この季節ばかりは積極的にキャンペーンに乗って、ボルヴィック製を飲み続けてしまう。同社の戦略に乗せられているのはわかっているのだけれど、悪いことではないのかなとも思う。
さて、同キャンペーンでアフリカに作られるのはごく普通の手押し式ポンプ井戸のようだが、気になる井戸を見つけた。
「プレイポンプ」というらしい。
http://greenz.jp/2008/06/23/playpumps/
上記リンク先に仕組みは詳しく書かれているが、簡単に言えば、手押し式ポンプの代わりに、人力で回すメリーゴーランドのような子供たちの遊具が手押し式ポンプの代わりになっているのである。子供が遊具を回して遊ぶ。すると、水が汲みあがって地上7メートルに設置された2,500リッター入りのタンクに収容される。
ボルヴィックによって設置される手押し式ポンプでも十分役に立つ。だが、この「プレイポンプ」はさらにその上を行く発想であると思う。
「仕事が楽しみならば人生は極楽だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ。」
そんな言葉を遺したのはロシアの作家、マクシム・ゴーリキー(1868~1936)。
「仕事というものは決して楽しいものではないが、同じ働くのであれば、その仕事を楽しいと感じるような方法を身につけるべきだ」と解釈されることが多い。
確かに、同じ仕事でも気持ちや心の持ちようで辛くも楽しくもなる。それが義務ではなく、自分にとっての楽しみであると考えることができれば、同じ仕事でも全く違った気持ちであたることができる。
だが、もう一歩進めて考えてみれば、それは気持ちの持ちようだけではなく、仕事自体を全く違うプロセスに変革できれば、本当に仕事を楽しくできるのだともいえる。今回紹介した「プレイポンプ」はそんな好例ではないだろうか。
遊具を回すことが、今まで辛かった水汲みの労働に代わる水を確保するための仕事になると、今まで誰が考えただろうか。
安全な水を確保できるということでは手押し式のポンプと代わらない。
しかし、遊ぶこともままならず、毎日何時間もかけて長距離を重いタンクを持って水汲みに行かされていた子供たちのことを考えると、それが遊具になるということは画期的なことではないだろうか。
「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ。」
これは、夜間飛行や星の王子様を著わしたサン・テグジュぺリの言葉。
遊具で遊びながら水が汲み上げられるようになった子供たちは、足下の水資源に気づき、感謝し、辛いばかりの自分たちの生活環境をやっといい場所だと考えられるようになったのではないだろうか。
「変革は大胆に」と思う。
水が必要なのでポンプを設置する。これはとても必要なことだ。
しかし、できればさらにそれが「苦役からの解放」だけではなく、「楽しみ」になるような大胆な変革ができればすばらしいことだ。
我々の日々の仕事や生活の中にも変革の機会は眠っているのだろう。
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June 23, 2008
6月4日に以下の記事を記した。『「せんとくん」に勝てない?「まんとくん」の悲劇』
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2008/06/post_ddfa.html
何とも評判の悪い平城遷都1300年祭のマスコットキャラクター「せんとくん」への、”刺客”として誕生した「まんとくん」。
記事にて筆者は<「キャラがかぶる」という事態は「チャレンジャー」に取っては最悪なポジションである。>として、標題のように「まんとくん」は「せんとくん」の刺客たり得ないと評したのである。
はたして、ネットを中心としたそれ以後の反応はと言えば、やはり「きもかわいい”せんとくん”の勝ち」という意見が大勢のようだ。
確かに「せんとくん」の悪評は高いものの、次第に”慣れ”によって「きもかわいい」というポジションを確立しつつある。さらに、「まんとくん」は「キャラがかぶっている」という問題だけでなく、インパクトにも欠けているのだ。
そして、満を持して登場した第三の男、「なーむくん」。
<第3の遷都キャラ「なーむくん」登場 仏教界が「擁立」>
http://www.asahi.com/national/update/0620/OSK200806200100.html
・・・これまた、イタダケナイ・・・。
新たなキャラクターを作ったのは、<奈良市や周辺の19寺でつくる親睦(しんぼく)団体「南都二六会(なんとにろくかい)」>という団体。<十七条憲法を制定した太子にちなんで眉と目で「一七」を表現し、愛称は南無阿弥陀仏などからヒントを得た>という。
別の報道によれば、南都二六会は<記者が「せんとくんはライバルですか?」と質問すると、「ライバルではなく、せんとくんを超越した存在。一緒に並ぶこともないと思う」と突き放した返答だった。>とのことだ。
うーん、何だか超越できない気がする・・・。
最大の問題はやはり「まんとくん」同様、2つ。キャラがかぶることと、インパクトだ。
「インパクト」に関してはデザインクオリティーの問題もあり、「まんとくん」「なーむくん」とも、「せんとくん」とは費用のかけかたが何桁も違うので如何ともしがたいが、せめてキャラがかぶるという、「まんとくん」の轍を踏むことは回避できたのではないかと思う。
繰り返すが、「チャレンジャー」は「リーダー(もしくはチャンピオン)」と同じ土俵で戦ってはいけない。
しかし、「まんとくん」同様、「なーむくん」は幾重にもかぶっているのだ。
まず、ネーミング。
「~くん」。
・・・どう考えても前の2つのキャラクターとかぶる。
ネット上に「なんだ”おくとくん”(億とくん)じゃないのか」と多くの意見が記されているように、間に「まんと」がいるだけに、連続性を期待されてしまう。
かぶらないためには、絶対に「~くん」は避けたかったところだ。
イラストレーターのみうらじゅん氏が命名した、全国各地でPR活動に活躍する「ゆるいキャラクター」、略して「ゆるキャラ」は、概ね「~くん」と名付けられる場合が多い。だが、今回ばかりはそれを踏襲する必要はなかったのではないだろうか。
次にキャラクターのモチーフ。
今回は「聖徳太子」という実在の人物がモチーフであるが、「せんとくん」の「童子」、「まんとくん」の「鹿と朱雀門を合体させ擬人化」したのとと同じく、人の形をしている。
「ゆるキャラ」は着ぐるみとなる場合が多いので、やはり人の形をしていた方が便利かもしれない。しかし、各地の特産品をアピールするキャラクターは、その特産品を模して、かなり人が入るのには無理がある形状をしているものもある。今回はそんなガッツを見せてほしかったところだ。
・・・ちなみに、全国にはどんな「ゆるキャラ」がいるのかといえば、年1回、鳥取砂丘でゆるキャラたちが集まって運動会を開くという、これまた脱力ものの「キャラカップin鳥取砂丘」の画像を見るとよくわかる。
http://www.tottori-guide.jp/fileyurukyara02.htm
と、ここまで筆者もつられて「ゆるキャラ」前提で論を進めてしまったが、そもそも、キャラクターが「ゆるキャラ」である必要はないのだ。
彦根城400年のキャラクター「ひこにゃん」 http://hikonyan.hikone-150th.jp/ 以来、ご当地キャラと言えば、広い年代から愛されそうだという無難さから「ゆるキャラ」が一つのスタンダードになってしまった。
通常ならそれでいいだろうが、今回は”刺客”だったり”超越した存在”を目差すのであれば、もっとエッジを効かせても良かっただろう。
考えてみると、このあとも”刺客”が送り込まれるのかもしれないが、もはや「ピン」で戦うこともどうかと思える。
「せんとくん」「まんとくん」「なーむくん」の三人(?)を並べてみると、トリオ漫才でもやれそうだ。
1300年祭事業組合は<「まんとくん同様、新しい友達が増えたという印象」>という余裕のコメントを発している。明らかに取り込まれている。
確かに、「なーむくん」は聖徳太子のキャラクターであり、眉毛とまぶたが「十七」の文字になっており、聖徳太子が制定した「十七条の憲法」を表している。十七条の憲法は第一条に「一に曰く、和を以て貴しとし」とあるので、みんなで仲良くするのは得意そうなのだけれど・・・。
ともあれ、新キャラクターを出すのであれば、最初から「セット売り」にしてはどうだろうか。少なくとも3~4体がまとまっていれば、取り込みにくいだろうから。
さて、「ではこれでどうだ!」と、代替のキャラクター案を描いてみせる度胸は筆者にはないが、ここまで記した条件をまとめてみよう。
・脱ゆるキャラ
・人の形にこだわらない
・セット売り
・ネーミングも「~くん」的なゆるいものではなくする。
例えば、人の形にこだわらないのであれば、「まんとくん」の頭に載っている平城京のシンボルである「朱雀門」の「朱雀」なんてどうだろう。描き方によっては結構カッコよくなりそうだ。「白虎」「青龍」「玄武」とのセット売りも可能だ。
・・・と、しかし、よく考えたら「朱雀」「白虎」「青龍」「玄武」の「四神」に護られているのは「平安京」の方だった。
うーん、ここまで書いてきて結論がいささか情けないが、キャラクター作りは「言うは易く行うは難し」なのであった。
だが、今後も1300年祭のさらなる”刺客キャラ”を作るのであれば、何度も言うようだが、くれぐれも「同じ土俵で戦わないこと」をオススメしたい。
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June 16, 2008
推理小説はお好きだろか。筆者はなかなかのファンである。事件が起こる。そして浮かび上がってくる犯人像や証拠の数々。トリックの解明・・・。そうしたドキドキさせられる展開がたまらない。
しかし、それを途中から、例えば半分進んだあたりから読み始めたらどうなるだろうか。
小説に限らず、サスペンスものの映画やドラマなどは、前半、特に冒頭を見逃すと面白さが半減してしまう。なので、最初を見逃したら見るのを諦めてしまう人も多いだろう。「いったい何が起きているんだ?」と事件のあらましも判らずに、推理や捜査が進んでいくのを見ていてもやはりモヤモヤとした感が強く、エンディングを迎えてもスッキリとしないはずだから。
だが、推理小説なら本の冒頭に遡ることができる。しかし、そこにもう一つ制限をかけてみよう。一気に冒頭に戻るのは禁止。真ん中から読み進めながら、同時に少しずつ前に戻って読むこと。
真ん中から読み始めたとしても、ストーリーはどんどん展開し、状況も刻一刻と変わっていく。それを追って、自分なりに推理をしてみながら、前半にさかのぼりつつ、証拠の数々を探し、そもそも何が起こっているのかとい事件の全容を明らかにしていくのだ。
こうして考えてみれば、日々のビジネスとはタイトルに示したように「ビジネスとは途中から読む推理小説のようなもの」だと言えないだろうか。
推理小説も作家のストーリー展開の手法次第でなかなか何が起こっているのかわからないものもある。しかし、読者に推理そのものを楽しませてくれる古典的な展開なら、状況は冒頭に記されているはずだ。しかし、真ん中から読んではそれを知ることができない。にもかかわらず、先に読み進めて自分なりの結論を出さなければならないのだ。自らの仕事に置き換えて考えると、そんなことが日々起きていないだろうか。
名探偵であれば、たぶん、小説の途中から登場しても、天才的な閃きで推理を進めるのだろう。しかし、基本は「現場百回」。捜査が進んでも、徹底的に現場を見直し、証拠にモレ・ヌケがないかを検証するという。これは推理小説ではなく、刑事ドラマからの受け売りなのだけれど。
さて、名探偵を諦めて、地道な足で稼ぐ捜査を覚悟したとしよう。「現場百回」で現場を検証するにしても、捜査には道具が要る。ビジネスの場合、その「七つ道具」たる強力な武器が「フレームワーク」なのだ。特に環境分析に関わるフレームワークは、「そもそも何が起こっているのか?」を把握するには重要だ。
・世の中の大きな動きを押さえ、そこから何が起こっているのかという概観を掴むなら「PEST分析」。
・関係者の力関係や利害関係を把握するなら「5F(5つの力)分析」。
・関係者が絞り込まれ、その競合状況にフォーカスするときには「3C」分析。
・総合的に、外部環境と自らの内部に存在するプラス要因とマイナス要因を整理するなら「SWOT分析」。
最低でもこれらをきちんと押さえておくのは基本中の基本なのだ。
推理小説を半分過ぎたあたりから読み始めたら、上記のフレームワークに関わる事件のあらましや、利害関係者の洗い出しとその相関関係の把握などは済んでおり、「では、誰が犯人なのか」という「ターゲティング」や、「どうやって犯人を追い込むか」という「打ち手(施策)」の検討がなされているだろう。はっきり言って、その段階から読み始めても面白くはない。
しかし、実際のビジネスでプロジェクトがずいぶん進んだ状況から参画する場合、自ら「現場を見直す」ことをせずに、「ターゲティング」や「施策(4P)の検討」にそのまま加わってはいないだろうか。
推理小説を楽しく読むには、途中から読んだとしてもきちんと冒頭に遡って状況を確認すること。実際のビジネスにおいて、プロジェクトの成功確率を高めるなら、自らフレームワークを用いて納得がいくまで「そもそも何が起こっているのか」という状況把握をすることをお勧めしたい。
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June 10, 2008
毎年この時期になると「サマータイム導入」が論じられるが、今年は特に洞爺湖サミットを前にして政府の気合いが入っているようだ。「諸外国はみんなやっている」そうだが、「時計の針を国中が一斉に1時間進める」というのは、考えてみれば随分と不自然なコトではないだろうか。
歴史をひもといてみれば、日本でもかつてサマータイムが導入され、そして廃止されている。敗戦後、GHQの占領下において、1948年公布された夏時刻法だ。それこそ「米国がやっているから」という理由で導入されたのだが、しかし、1952年4月の占領終了に伴い、日本には馴染まないということで廃止された。
今度は「環境負荷軽減」が錦の御旗になっている。環境負荷軽減には賛成だが、サマータイムには筆者は一貫して反対している。もはや年中行事の感もあるが、今年も反対論を展開しつつ、一つ、対案を提示したい。
最も日照時間が長いこの時期、残念ながら空は雨雲に覆われていることが多いのだが、今日、東京地方は「梅雨の晴れ間」で快晴。いっていい朝を迎えている。こんな日は僥倖に感謝し、朝の柔らかな陽光と、湿気を帯つつ幾分ひんやりとした空気が満喫できる。
今朝は5時半に家を出た。この時間に仕事に向かうことは年間を通して比較的よくあることなのだが、正直、冬は辛い。まだ星が暗い空に瞬いており、寒気もひとしおである。それがやがて春に向かい、同じ時間でも空が明るくなっているようになり、寒さも和らいでくる。そして、初夏こそが、この時間の最もすてきな季節なのだ。
これが、時計を1時間進めてしまっていたらどうだろう。本来の太陽の運行に合わせた自然な季節の移り変わりが感じられなくなってしまう。
さて、仕事が終わったあとものこと。6時半には仕事を始めると、だいたいの場合、12時間か12時間半もあれば一区切りつく。18時から18時半に仕事を切り上げる。日は傾いているものの、空はまだ十分明るい。この季節ならではの格別なうれしさだ。
時計を進めてしまっていたのなら、19時か19時半。サマータイムにしていないからこそ、空が明るい時間で18時台なのだ。1時間のアドバンテージは大きい。
この季節こそ、辛くなく、朝早く起きることができて、加えて終業後の時間も長くとれる。「まだ明るい時間に仕事を終え、その後の時間を有効に使う」というサマータイム導入の効用を説くのであれば、時計を進めてしまっていたのでは、結局は終業時点の時間は遅くなるので、本来的な意味は乏しい。
同じ時間に規則正しく生活をし、季節の移り変わりを体感する。これは、四季の変化が豊かな日本に生まれたからこそ、享受できる感覚だといっていいだろう。しかし、ものごとの感じ方は人によって異なる。前述のような喜びを感じる人もいれば、全く関心がない人もいるだろう。それはそれでいい。ところが、サマータイムの導入は、全ての人の時計を強制的に1時間進めてしまうのだ。やはり不自然ではないだろうか。
この季節の朝の明るさを楽しむ筆者にとっては、1時間進んでしまえば、その前の季節と同じく、まだ薄明るい空の元、目覚めなければならないことになる。
朝型のワークスタイルで終業後の陽の明るさを楽しむ人でなければ、まだ明るい19時や19時半は、「もう一仕事」とさらなる残業に突入してしまうかもしれない。
平成も20年まで来ている昨今、戦後の復興期や高度成長期の如く、「みんなが一斉に同じことをする」というのはどうにも世の流れに馴染まないように思うのだが、「環境」というキーワードも前にはいけない考え方なのだろうか。
「サマータイム導入による環境負荷軽減効果」に関しては、いくつかの疑義が寄せられている。また、労働効率の観点からも、時計を進めたからといって、仕事は早く終わらないという反対論もある。
全ては「全員一律」で事を進めようとするから問題になるのではないだろうか。
「自主サマータイムのススメ」である。
朝、早く起きられる人、筆者の如く、朝の空気の好きな人。そんな人は積極的に早起きすればいい。たまに早起きするのではなく、この季節はできれば毎日。そして、早起きの効用を説けばいい。共感してくれる人が試し、気に入ったら実践し、また、仲間を増やせばいい。
朝の清々しい空気のうちに仕事ははかどり、薄暮の迫る前に仕事を終えようという気になるかもしれない。エネルギー消費量も抑えられるし、業務効率も上がるだろう。そんな人が自然に増えるような「自主サマータイム」の呼びかけをすればいいのではないだろうか。
「環境負荷軽減の取り組みは、もはや一刻の猶予もないのである」という論もあるかもしれない。しかし、「サマータイム導入」の前にやるべきことはもっとたくさんあるように思う。
蛇足ながら、「サマータイムつながり」で、筆者の好きな歌を一つ。ジョージ・ガーシュウィンのオペラ『ポーギーとベス』より、「サマータイム」。
Summertime, and the livin' is easy.
Fish are junpin' and the cotton is high.
Oh your duddy is rich , and your ma is good lookin'.
So hush, little baby, don' yo' cry.
サマータイム・・・。過ごしやすい季節。
魚は跳ね、綿花は伸びる。
あなたのパパはお金持ち。ママは美人。
なにも心配することはないの。泣くのはおよし。
オペラの内容は1920年代の黒人たちの過酷な生活を描いたものであり、”Summertime, and the livin' is easy.”は、事実よりもむしろ願いや祈りにも似た歌詞だといえる。
今日の日本の経済環境、労働環境は当時の黒人たちに比べれば天国のようかもしれないが、衰退と劣化の兆しが見て取れるのは否めない。また、日本の夏は決して「過ごしやすい季節」ではない。
しかし、その中でも「過ごしやすい時間」である、早朝と、夕方の時間の使い方は、一律に時計を進めて同じような行動を促す無粋なことをするのではなく、思い思いに過ごさせて欲しいと思うのだ。
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June 09, 2008
ある講演会に参加した。そこで伺った話と、そこからの筆者の気付きを備忘のため記したい。気付きを共有していただければ幸いだ。
講師の方は今年60歳になられる、伊藤良男氏というパンの製造販売を営んでいる方だった。
<株式会社 グランパ:http://www.grandpa.co.jp/corporate/>
プロフィールによると、「食品関連の企業を経て開業」ということだったが、講演中の開業経緯の紹介によると、15年前に突然のリストラに遭われたという。その後、様々な苦労を経て10年前に開業と相成るわけであるが、その間、様々な蹉跌や挫折を経験されたとのことだった。
講演のタイトルは「つまづいたおかげで」であった。その由来は相田みつをは数々の珠玉の言葉の中の代表的な一つ、「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」だろう。詩人であり、書家である相田みつをが、伊藤氏の15年間の苦労を支えた精神的支柱であったようだ。伊藤氏の店には「相田みつをギャラリー」が併設されている。
講演内容は、意外なことに伊藤氏の苦労話や講演タイトルにあるような「つまづき」の紹介はほとんどなく、多くの人に共通する、苦労・懊悩に対する心構えや、それらとの付き合い方を説いたものであった。いや、正確には説く表現や教え諭すという話し方ではなかった。「これが正しい」と語るのではなく、「気付き」を促すものだったように思う。
その講演の中で、講師である伊藤氏が相田みつをの「悩みはつきねぇんだなぁ生きているんだもの」という言葉を紹介しつつ、「悩み」について問いかけをした。
「皆さんの中で悩みを持っている方はいらっしゃいますか?」。会場の聴衆は、ほんの数人しか手を挙げなかったが、筆者は挙手をした一人だった。
講師から「悩みはあった方がいいか? 悩みは身体のどこにある?」と質問をされた。平素「悩みなくして成長なし」と考えているので先の問いは問題ない。しかし、「悩みの在処」は一瞬、「心か頭か?」と躊躇しながら「悩みはあった方がいい。悩みは身体の中心・心の中にある」と回答してみた。
講師からはそれに対し、何が正解という回答はなかったが、演壇の黒板に「悩みとはこのような字を書きます」との紹介があった。立心偏(忄)があるので、やはり「心」と関係していると言うことだろう。
その講師とのやりとりの中で、筆者は一つの気付きを得た。確かに「悩み」は心の中にあるのだろう。しかし、悩みを悩みとして抱えていたのではいつまで経っても解決しない。人間としても成長しない。筆者の頭にひらめいたのは「悩みは胸に・課題は頭脳に」だ。胸中、もしくは心にある「悩み」を分析し、解決すべき「課題」に昇華させ、頭脳に送り届けることが大切なのではないだろうか。そして、解決すべき目標を定め、計画を立て、実行する。分析(Analysis)→目標(Objective)→計画(Plan)→実行(Do)。通常のP・D・C・A(Plan・Do・Check・Action)といわれるものに、前に2段階足してみたようなものだ。分析した結果、課題抽出ができれば、目標が立てられる。計画的に解決のための行動もとれるということだ。
しかし、今ひとつ疑問も残る。全ての悩みが分析しきれるほど、人も世の中もは単純ではない。分析できない「心のもやもや」はどうしたらいいのだろう。
伊藤氏はもう一つ、相田みつをの言葉を紹介した。「アノネ がんばんなくてもいいからさ具体的に動くことだね」。そして氏は「がんばる」という文字を「顔晴る(がんばる)」という文字で表わした。ただ足掻くだけではなく、結果として顔が晴れ晴れするようになれることが大事ということなのだろう。
再び考えた。分析しきれない、課題に昇華もできない「心のもやもや」。それは、気持ちを切り替えて、忘れてしまえばいいのではないだろうか。誰の言葉か失念したが、「神が人間に与えた最もすばらしい力は”忘却力”である」という。全てを忘れることが正しいとは思わないけれど、解決しようもないもやもやは、忘れてしまえば「顔が晴れる」のではないだろうか。
伊藤氏は、自分は話すことが専門ではないと、前置きして講演を始められたが、「こうあるべき」という内容ではなく、多くの人に考えさせ、気付きを与えてくれるすばらしいものであった。筆者も日々「なやみはつきねぇ」のだが、今回気付いた、「悩みの昇華」と「忘却力」でがんばって「顔が晴れやかになる」日々を過ごしていきたいと思った。
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June 06, 2008
同じものも視点を切り替えれば全く異なって見える。そこから思わぬ価値が生まれることもある。「視点の切り替え」の例としてちょっと紹介しよう。
「工場萌え」をご存じの方は多いだろう。工場やコンビナートの複雑に絡み合った煙突や配管などの構造体、特に夜間照明に映える景観を愛でることを指す。公害問題のトラウマからか、工場は忌みこそされ愛されることのない存在であった。
しかし、そこに「美」を見いだしたのがイラストレーター石井哲である。SNSのmixi「工場・コンビナートに萌える会」というコミュニティーと「工場萌えな日々」と題したBlogを立ち上げ、昨年、『工場萌え』という写真集を出版した。各メディアでも数多く取り上げられたのでその内容は多言を要しないだろう。
工場の造形などにどうして「萌える」のかと思われる、未見の方は、是非、上記のBlog「工場萌えな日々」をご覧あれ。怪しく絡み合う配管と様々な構造体。煙突からの煙が照明に浮かび上がっている様は、まさに怪しい「美」そのものであると言えよう。筆者も一目で「萌え」てしまった。その「工場萌え」を本格的に体感したいなら「工場夜景クルーズ」がオススメだ。筆者も未体験だが、一度試せばものの見方や価値観が大きく変わることだろう。
「ものの見方と価値観の転換」という点では、もう一つオススメしたいのが「トマソン」である。「超芸術トマソン」と呼ぶのがフルネームだ。「トマソン」を知ったのは筆者が学生の頃なので、かれこれ20年以上。以来、タウンウォッチの趣味と相まって、続けている。
「トマソン」とは、「無用の長物」を意味し、かつて巨人軍に在籍していた、「全く打てない助っ人外人選手、ゲーリー・トマソン」の名に由来している。(ちなみに「無用の長物」として名を残しているのは何とも気の毒ではあるが、打っては、「舶来扇風機」、守ってもミス連発と、「トマ損」とまでいわれる始末だった)。転じて、何らかの理由で本来の機能が失われているにも関わらず、保持されているものを示している。
具体的な例では、窓や郵便の差し出し口が使われなくなって、壁として塗り込められた後にも残っている庇(ひさし)。このパターンは結構目にすることができる。または、行き着く先のなくなった階段などである。そこに不思議な芸術性を見いだしているわけだ。詳しくはウィキペディア(Wikipedia)の記述を参照していただいた方がいいだろう。
また、こちらも書籍「超芸術トマソン」として残されている。
「トマソン」の流行はとうに失われているが、これもまた、ものの見方を転換・視点の切り替えをした結果、無用の長物が芸術に昇華した結果であると言えるだろう。
最後にもう一つ。「東京タワー」。「東京タワーがきれいに見える場所」といえば、辻交差点から、前の赤羽橋交差点まで一直線に抜ける「三田通り」が人気スポットだ。特に最近道路の拡幅工事が行われ、東京タワーのすくっと立ち上がった偉容をより愛でることができるようになった。
さて、ここで 視点の切り替えだ。東京タワーの展望台に登って欲しい。そしてそこから三田通りを見下ろすと、拡幅工事と同時に切り替えられた暖色系に見える照明。車のテールランプの赤い色。何に見えるだろうか。
「地上の東京タワー」。三田通り全体が、横たわるタワーのように見えるとして、展望台の人気ビュースポットになっているという。
「工場萌え」と「トマソン」」と「東京タワー」。今回は3つの例を紹介したが、他にもちょっとした視点の切り替えで、思わぬ価値を発見できるかもしれない。いや、趣味の世界だけではないのだ。ビジネスの世界でも、視点の切り替えによって思わぬ成功を収めた例など枚挙にいとまがない。
固定観念や同じものの見方に捕らわれることなく、多面的なものの見方とフレッシュな視点を常に忘れずにいたいものである。
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June 05, 2008
読者の会社では「会社でお菓子を食べる」という行為は容認されているだろうか?
<“男おやつ”はすっかり定着?――男性社員の約9割は職場でお菓子を食べる >こんな記事がしばらく前にネット上に掲載されていた。(Business Media誠)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0704/03/news005.html
記事は電通消費者研究センターの「オフィスにおけるおやつ事情についての調査」を元にしたもので、<職場でお菓子を食べるかどうか、という質問>の回答が男女別で<「よく食べる」は男性19.0%、女性が36.3%。「ときどき食べる」は男性69.3%、女性53.0%>であり、<女性の方がよく食べているとはいえ、男性にも「オフィスでおやつ」の習慣は根付いていると言えそうだ。>
「男おやつ」とは、なかなか凄いネーミングだと思う。それほどに「男」、特に「男の子」ではなく、オトナの「男」と「おやつ」という言葉は結びつきにくい気がする。
なぜ、そういう感覚になるのかと、年齢別の回答に言及している箇所を見ると<男女ともに若い層ほどよくお菓子を食べている。>ということだ。筆者は40代前半にして老け込んでしまったのだろうか。
しかし、江崎グリコによる調査結果(ITmedia News)によると<江崎グリコは「『男おやつ』は日常的な職場風景になっている」としながらも、年齢が上がるほど「職場で食べるのはみっともない」と考えている傾向><「みっともないと思う」と答えた人の割合が上がり、50代は13.6%と、20代の倍以上>としている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0609/08/news091.html
40代前半の筆者としては、「自分では食べないが、気にもならない」が正直な感想だったが、調べてみると、ネット上の各種掲示板などでも「職場のおやつは是か非か」は結構活発な議論がなされていた。そして、全体的な傾向としては不思議なことに、論理的で弁(筆)の立つ人の意見は「自粛すべき」という傾向が強いように思えた。それを書き込んでいる人の年齢は全く分からないけれど。
しかし、先の電通消費者研究センターの調査による記事は重要なポイントが記されている。
<職場でのお菓子のやりとりが話題づくりやコミュニケーションに役立っているかどうかを聞いたところ、52.5%が「とても役に立っている/役に立っている」と回答。お菓子のやりとりはしていない、と答えた人は1割しかいなかった。>
残念ながら、これは年齢別のブレイクダウンが記されていないが、「職場のコミュニケーションの媒介」として、お菓子が機能しているのは間違いないようだ。
さて、もう一歩考えを進めてみよう。同調査によれば、<お菓子を食べる目的は男女ともに「小腹を満たす」「気分転換」を挙げる人が多い>とある。
「気分転換」と「コミュニケーション」に加えて「仕事」「職場」という言葉の組み合わせで何を連想するだろうか。
「タバコ」と思い浮かべた人も多いのではないだろうか。
喫煙所、つまり「タバコ部屋」は「アンオフィシャルなコミュニケーションの場」として重要な役割を担ってきていたのは事実だ。そこでの会話の中には、実は優れたアイディアやイノベーションが潜んでいることも多い。また、部門や役職を超えて本音が語られるので社内の情報共有回路としても機能する。
しかし、日本の喫煙率は先進国の中では突出しているとはいえ、年々低下している。ビジネス環境においては、禁煙のオフィスビルも多くなり、喫煙者はかろうじて片隅に設けられたタバコ部屋か、館外の喫煙所で何とかニコチン補給をしている現状だ。冬の寒い日や雨の中、外でタバコを吸う姿は修行のようでもある。
もはや喫煙者はマイノリティーになりつつある。タバコをやめた、もしくは、そもそも吸わない、そんな人々がタバコの代替として用いているのが「お菓子」なのではないだろうか。ちょっとした気分転換は、何かを口に入れた方がよりリラックスするという人も多い。また、気分転換の機会に人と人とコミュニケーションを図るには、何か媒介があった方がいい。やはり手軽なのは「お菓子」だ。
筆者の前職は日米合弁の広告会社勤務だったが、米国のオフィスではオフィスの中央に、コーヒーや軽食をいつでも、誰でも取りに行けるコーナーがあった。その会社だけではなく、欧米のスタンダードだと聞かされた。一足先に完全禁煙が進んでいるあちらでは、このコーナーがタバコ部屋に代わる「アンオフィシャルなコミュニケーションの場」として機能しているのだ。
これからも「ちょっとタバコでも吸いながら話そうや」というスタイルはどんどん消えていくだろう。
「女もすなる、お菓子といふものを、男もしてみむとて、するなり」で広まりつつある「男おやつ」。 社内のコミュニケーションを円滑にし、また新たなアイディアやイノベーションを創発するためにはこれからは、男にも女にも、職場のお菓子は奨励されこそすれ、禁忌されるものではないはずだ。
もちろん、節度やマナーをわきまえてのことだけれど。
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June 04, 2008
とかく評判の悪かった「せんとくん」の刺客として「まんとくん」が登場した。が、筆者は一目見たときに「こりゃイカン!」と思ってしまった。そのわけは・・・。
奈良県で2010年に開かれる平城遷都1300年祭のマスコットキャラクター登場したのが2月12日のこと。しかし、世間の反応は冷たかった。
平城遷都1300年記念事業協会によるデザイン案選定過程の不透明性や、デザインの著作権を500万円で買い取るという金額妥当性に対する疑義。デザインそのものにも、「可愛くない」「(頭に角を生やすなど)仏を侮辱している」と批判殺到だった。
そのガス抜きの意図も込めてか、委員会はキャラクターの愛称を公募し、4月12日に「せんとくん」という名前が決まった。
さて、こうした一連の騒動に対し、市民団体の「クリエイターズ会議・大和」が6月2日に「せんとくん」の対抗馬、もしくは刺客を発表した。その名は「まんとくん」。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0806/02/news073.html
デザインと名前の由来は<鹿のキャラクターが、朱雀門を模した帽子をかぶり、白いマントを着けたデザイン。白いマントには「1300年という節目、新たな気持ちで次代へ」という意味><漢字は「万人くん」で、万人に愛されて大きく育つよう祈りを込めて名付けたという。「万葉集」の万人、都に満ちる「満都」もかけた。>だそうだ。
と、コトの経緯と「まんとくん」の紹介は以上にして、筆者の感想。冒頭に記したとおり、「こりゃイカン!」である。残念ながら「まんとくん」は「せんとくん」をcheer up(盛り上げ)こそすれ、対抗も討つこともできないように思う。
多くの人が気付いたであろう。まず名前。
「せんと」に対して「まんと」。せんとくんの「せん」」は「遷都」に由来するのだろうが、「せん・まん」となれば「千・万」で、セットに感じてしまう。まんとくんのデザインも鹿なので、やはり角から離れられていない。
「せんとくん」対抗を意識し、それを上回ろうとするあまり、結果として似通った路線になってしまった感が否めない。
こうした「キャラがかぶる」という事態は「チャレンジャー」に取っては最悪なポジションである。悪評は多々あれど、投下費用や今までのメディアへの露出度からすれば、「せんとくん」は間違いなくディフェンディング・チャンピオンである。マーケティングの定石からすれば、チャレンジャーの戦い方は「徹底した差別化」である。「自分たちは違うんだ!」というポジションの示し方や、差別化要素をできるだけ多く盛り込んでアピールしなければ、チャンピオンの存在に「同質化」し消し去られてしまうことになる。
その意味からして、「まんとくん」は残念ながら、デザインでもネーミングでも「せんとくん」を超えることはできないように考えられる。
さらに注目したいのは、前述の通り「せんとくん」はメディアへの多数の露出で、世間の人々にある程度「慣れ」が生じていることだ。その影響は米国の心理学者、フェスティンガーの「認知的不協和理論」で説明できる。簡単に言えば、人は自分の認識にそぐわない要素(不協和)に対し、新たな要素を探してそれを弱めようとする心の働きがあるということである。
今回の例に当てはめて考えてみよう。
彦根城のキャラクター「ひこにゃん」に代表されるような、いわゆる「ゆるきゃら」は「なんとなくかわいい」という世間の共通認識が形成されている。
それに対して、何やら、かわいくない「せんとくん」というキャラクターが登場する。
ここに矛盾が生じ、不協和が発生する。
目の前の不協和を解消する新たな要素が提示されるまでは、不満を提示しているが、ここで「まんとくん」が登場してしまった。
残念ながら「まんとくん」のデザイン的な完成度はそれほど高くないように思う。また、前述の通り、「せんとくん」に対する強力な差別化要因も持っていない。
すると、「また似たようなキャラクターが出てきた」という認知のされ方がなされ、結果として「『せんとくん』でもいいんじゃないか?」という「認知的不協和の解消」が起こる。
もちろん、全ての人が同じように考えるはずはないのだけれど、ネットの書き込みなどを見ると「せんとでいいや」という発言も散見される。
今後、「まんとくん」がどのような運命を辿るのかは分からない。
アサヒコムの記事では、平城遷都1300年記念事業協会が<友達が生まれるのは歓迎したいが、公式キャラはあくまで『せんとくん』。『まんとくん』との共演は要請があれば検討したい>と余裕のコメントをしている。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200806020063.html
案外、「せんと&まんと」なんて、お笑いコンビみたいに仲良く活躍するのかもしれない。
しかし、選考過程や費用問題、デザインに対する疑義や不満を元に刺客として誕生した経緯からすれば、本来のミッションを果たせそうもないのは明らかだ。
「チャレンジャーは徹底した差別化に命をかけよ」。「まんとくん」は大きな教訓を示してくれたと考えたい。
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June 03, 2008
クールビズの季節がやってきた。
思い起こせばクールビズ元年の2005年7月に「cool!じゃない? クールビズ」などと題して、日経Bizplusにコラムを書いた。
(バックナンバー:http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2005/07/post_970d.html)
ご丁寧に、E.M.ロジャースの「普及論」まで引っ張り出して、「どうせ飛びつくのはイノベーターだけ」として、ロジャー・ムーアの「キャズム論」まで持ち出し、「絶対に定着しない!」と断言した。・・・大ハズレ。
その後、同・日経Bizplusで10月に初年度の総括としてロジャースの「普及要件」を用いて、前期多数採用者(アーリー・マジョリティー)までは採用するので、50%程度まで普及するのではと訂正した。
(http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2005/10/__700c.html)
昨年の内閣府の調査では、「クールビズを実践している」との回答は46.6%だったので、現在の所は修正予測まではハズレていないと言うことだろうか。
筆者は当初、「ネクタイを外しただけのオジサンみたいでカッコワルイ」とアタマから拒絶反応を示していたが、なかなかにオシャレな装いが百貨店などに揃っているようになった。かなりビジネスっぽくないものでも、クールビズ4年目ともなれば、世間もだいぶ許容してくれるようになってきたようだ。
実践してみると何より楽だし、涼しい。
クールビズの要諦である、「冷房温度を28℃までに」も、湿度と窓際の直射日光さえなければ、かえって不自然に身体が冷え過ぎないので調子がいい。
さて、4年目の今年はどうなるだろうか。
古新聞も、ネット上のリンクも探せなくなってしまったのだが、連休明け頃の新聞では、「4年目に入りさすがに定着したので、今年は百貨店各社もあまり大げにコーナーを作ったり、”クールビズファッションショー”などはやらない模様」と伝えられていた。
しかし、例えば伊勢丹などはなかなかナイスなスタイルを提案してくれている。
<伊勢丹の最新クールビズ 今年はジャケット&タイ >
http://www.business-i.jp/news/sou-page/news/200806010004a.nwc
あえて、タイド・アップというのもいい。タイは<目の粗いシルクのフレスコ織り>がオススメという。また、<ノーネクタイ派には胸元を飾るピンズ>だそうだ。襟元のピンズは筆者の愛用アイテムなのであまり流行って欲しくない気もするが・・・。
ともあれ、<昨年までは、軽くて清涼感のあるスーツなど機能面が重視されたが、今年はファッション性を打ち出したい>とのことなので、今年は一工夫いりそうだ。
が、どうやらイヤイヤ実践する人もいるようだ。
<福田首相 来月から渋々クールビズ>リンクが残っていないので、北海道新聞から引っ張る。http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/94799.html
<首相は会社員時代からの習慣で「仕事中は背広」との考えを持っており、二〇〇五年のクールビズ導入後も服装を変えなかった。>が、<北海道洞爺湖サミットで議長国として温暖化問題への姿勢をアピールする立場上、こだわりは捨てざるを得ないと判断した>そうだ。
そんな、意固地になってやるほどのことじゃないと思うのだけれど。
福田首相に伊勢丹の「目の粗いシルクのフレスコ織りのネクタイ」オススメだ。バッジも外して「ピンズ」に代えればもっといいだろう。
しかし、「率先垂範」なのか、霞ヶ関では黙々と官庁の人々がクールビズを実践している。
<クールビズ進化? 官庁スタート 環境重視、マイはし提案も>
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008060202014500.html
さすが旗振り役。<環境省は今年、マイバッグやマイはしの持参など、環境への配慮をさらに重視した「クールビズ・プラス」を提案>加えて、<紙の消費を減らすための両面コピーや、リサイクル促進によるごみ削減、公共交通機関を利用した外出、一階分程度の移動は階段を上り下り>だそうだ。
「当たり前」と言うなかれ。カタチだけではなく、暑ければ服を身軽にし、不要な使い捨てのモノを排除。無駄の削減と省資源。言うは易く行うは難しだろう。「有言実行・凡事徹底」。
他の省庁も是非見習いつつ、各々の課題に対し、「有言実行・凡事徹底」をお願いしたい。
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May 31, 2008
<少年ジャンプの歴代人気キャラが駅貼りポスターで競演、缶コーヒー「ルーツ」キャンペーン>
http://markezine.jp/a/article/aid/3813.aspx
<アラレちゃん、悟空、両さん…今年40周年を迎える「週間少年ジャンプ」の歴代人気漫画キャラクターが、JTの缶コーヒー「ルーツ」のキャンペーンポスターに登場。駅ごとに変わるご当地ポスターも展開する。>
・・・とのこと。
首都圏、大阪、名古屋、福岡、札幌の5エリア171駅で展開しているそうです。
プランナーの美谷広海氏がBlogで<CGMの威力を利用して全パターンをみんなで集めてみたいところです(笑)>と呼びかけていたので、早速3つばかり集めてみました。
青山一丁目・市ヶ谷・錦糸町。
美谷氏の言うように、みんながアップして、リンク集なんかできるとおもしろいですね。
今日もどこかで見つけたら追加してみようっと。
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May 30, 2008
まずは、以下の画像を見てほしい。
自宅近くの歩道脇にうち捨てられたビニール傘。死屍累々。
雨が降るたび、いくつかの残骸が散見され、ちょっと風が強い日はこのような有様になる。
3月21日に「脱・使い捨ては、まずこれから」と題して、ビニール傘でなく、もっと丈夫な傘を使おうと記したが、逆に何やら最近、遺棄される傘の残骸は、その数が増している気がする。
地元の駅周辺だけではない。
5月21日に神奈川のJR大船駅では80本以上の傘が捨てられていたという。
<神奈川新聞社ローカルコミュニティーサイト”カナロコ”より:嵐にマナーも置き去り?/大船駅に壊れた傘ずらり>
http://www.kanaloco.jp/localnews/entry/entryxiiimay0805374/
以前にも触れたが、日本の年間雨傘消費量は1億本だという。多くは使い捨てられるビニール傘ではないだろうか。
大学で学生に聞いたところ、ビニール傘は「存在自体が主張しないのでファッションに合わせやすい」とか、「カジュアルな気分にぴったり」という意見もあった。「傘を深く差しても前方の視認が効き安全」という意見もある。確かにそうかもしれない。だが、すぐ壊れるのは事実。
再三にわたってこのテーマで恐縮なれど、また傘の提案だ。
前回紹介したのがこれ。
通常の倍、16本の骨が優美なシルエットを描き、風雨にも強い、皇室御用達「前原光榮商店」の傘。
もう一つ、実は筆者はこれも最近愛用している。
24本もの骨で強風にもびくともしない傘。
但し、骨が多いので少々重い。また、強風で折れることはないが、その風を受けた傘を支えるのは、結構膂力を要する。
なので、その弱点を克服した、最終兵器はこれだ。現在、筆者の物品購入リストのトップランクに入っている。
オランダ製・時速100キロメートルの風に耐えられる傘。
傘の中心が前にずれていて、背中まですっぽり包み込まれる。また、<風の流れの中で傘が自然に動いて、風の抵抗を抑えながらベストなポジションを維持する>という優れものだ。
すぐに、安くに買えて、ぽいと捨てられるビニール傘は気軽かもしれないが、風にあおられて傘が壊れる瞬間の姿は結構ギャグっぽい。また、その後濡れそぼって歩く姿も惨めではないだろうか。
筆者の価値観を共用するつもりは毛頭ないが、「もったいない精神」が注目されている今日、ここらで一本、壊れず、長持ちする傘の購入を検討されてはいかがだろうか。
東京地方の雨は週末まで続くようだ。
また、梅雨の季節もすぐそこまできている。
是非。
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May 29, 2008
筆者は40歳を前に、3社、16年に渡るサラリーマン生活に終止符を打ち、独立・起業し、現在4期目に入っている。昔の言葉でいえば「脱サラ起業」となるのだろうが、しかし、同じような経緯を辿った人でも意外とその狙いやゴール設定、そして仕事術は異なるようだ。そうして考えると、自らは「起業家」ではなく、「職人」なのだと改めて感じた。
大学で非常勤講師として「ベンチャービジネスとマーケティング論」という講義を持っている。売り手市場となった就職戦線を反映し、学生の起業熱はここ2年ほど低い状態にあるが、4年ほど前は、なかなか内定がもらえず「起業して一発逆転」を夢見る者もいた。「ヒルズ族」華やかなりし頃であったため、無理からぬことではある。
しかし、翌年からライブドアや村上ファンドの問題が続々と露わになり、一方、景気も上向き就職も希望が叶いやすくなってきたことから、前述の通り学生の起業熱は低下していった。現在、それでも起業したいという希望を持っているのは、いわゆる「好きを仕事にしたい」という考えの者だ。デザインだったりITだったり、はたまたイベントや飲食など、自分の好きな道で食べていきたいという、言ってみれば学生らしいピュアな希望に戻っているように感じる。
学生らしい起業希望理由は上記の通りなのだが、社会経験を積んだ上で起業する人にも同じような分類が当てはまるのではないかと最近思うようになってきた。いわゆる「起業によって大きなチャンスを手にしよう」というのか、「好きを仕事にしよう」とするのかである。
筆者の場合、サラリーマンとしての最終役職は部長職であった。部長職といってもプレイングマネージャーであったのだが、経営層から徐々にマネジメントに徹せよというプレッシャーが高くなってきた。
「40歳を前に自らの成長を止めたくない」。が、独立の理由であった。「職人道を極める」ことを目標としてみようと思ったのだ。「マーケティング職人」である。つまり、職人として、好きを仕事にしようというわけだ。(ちなみに、マーケティングという領域は広いが、筆者は「マーケティング・コミュニケーション」が専門であり、「顧客との関係最適化」が得意領域である。)
職人故、会社規模を大きくしようという計画はない。また、間違ってもIPOをして、上場益をエンジョイしようというような野心は全くない。
お一人様起業で、職人としてビジネスをしていく最大のメリットは、人を抱えているリスクがないということだ。人件費は仕事があろうとなかろうと、その人材が優秀であろうとなかろうと、常に一定の支出として発生する。筆者は一昨年、不慮の事故で1ヶ月半の入院生活を送ったが、独立2年目の時点で社員を抱えていたら完全にアウトだったと思う。もちろん、自分が稼がなければ誰も稼いでくれないというのは正反対の弱点にもなるのだけれど。
一方、お一人様職人の最大の弱点は、自らの手に余る仕事は受けられないということだろう。しかし、これは実は解決できる。昨今、一人で仕事を切り盛りしているコンサルタントやプランナー、デザイナーは実は大勢いる。その「横つながり」をうまく作ることができれば、それなりに大きな規模や、自分の専門領域でない部分が含まれるプロジェクトに手を出すこともできる。
お互いの実力を認め合った職人同士が得意技を出し合ってプロジェクトを推進する。最近、このやり方が実にうまくいっている。マンガやアニメでおなじみの「ルパン三世」になぞらえて、「ルパン一家方式」とよんでいる。もっと大きなプロジェクトで専門特化した職人が大勢必要になれば、映画になぞらえて「オーシャンズ11方式」にしてもいいのだろう。
上記のような仕事のやり方は、個人が組織に縛られたり埋没したりしていては実現できない。しかし、昨今は企業の看板ではなく、個人個人が自らの実績や信用で仕事ができる時代になってきたと言えるだろう。
独立する。起業すると言っても、様々な目標や目的があるだろう。今回は筆者自らの経験を元に、お一人様起業で職人道を目指し、横つながりでプロジェクトを展開するという仕事術もあると紹介をした。
ともあれ、独立起業する際に、自分はあくまで「起業家」を目指すのか、「職人」を極めるのかを考えるのは大事なことではないだろうか。もちろん、途中で路線変更は可能であるだろうが、出だしの方向感は自ら認識しておいた方がいいだろう。学生でも、これから独立をしようという社会人でも、一つの検討ポイントとして、参考になれば幸いだ。
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May 26, 2008
東京界隈は週末に雨が降り、あと少しで梅雨の季節がやってくるのだと思った。
と、同時に雨はビジネスシーンでたびたび語られる佳話も思い出させてくれた。
ご存じの方も多いだろう。「ある部族が日照りに雨を乞う祈りを捧げると、必ず雨が降る」というものだ。なぜ、雨乞いが必ず叶うのかといえば、「雨が降るまでひたすら祈るから」だという。転じて、ビジネスシーンでは「諦めずに続けることの大切さ」という訓話に用いられる。
今日、景気は不透明感を増している。日経新聞の景気予測、「日経の産業天気図」は産業別に景況が天気のマークが描かれるが、4~6月は「曇り」が過半となっていた。この後「梅雨入り」の様相を呈するのではないだろうか。雨乞いとは全く逆で、一刻も早く不景気という雨雲が去り、太陽が顔を出すことを祈らずにはいられない。
思い起こせば2001年、ITバブル崩壊やデフレ不況の頃。筆者が勤務していた会社では、クライアントへの提案がなかなか通らず、受注できたとしてもプロジェクトの規模が小さくなかなか収益が上がらなかった。
当時、提案が通らないのであれば、提案数をひたすら増やそう。受注規模が少ないのなら、何とか数をこなそうと必死だった。止まない雨はないと信じて、雨模様の空から日が差すまで、祈り続けていたようなものだ。
だが、考えてみれば、「雨乞い」と違うことがある。雨乞いの訓話は「諦めないこと」としては重要だが、祈りと降雨に直接的な因果関係はないはずだ。祈る以外にできることがないときに、部族の結束が離散することを防ぐ効果はあるだろうが、事態打開策にはなっていないだろう。
やはり、日差しを望むなら別の話を思い出した方が良いのではないだろうか。
古事記における高天原(タカマガハラ)の神話。太陽神である天照大神(アマテラスオオミカミ)が天岩戸(アメノイワト)に隠れてしまい、世の中が闇に包まれた。そこで、鈿女(ウズメ)が岩戸の前で一心不乱に舞い、その様子を見に顔を出した天照大神を、手力雄(タヂカラオ)が引きずり出した。
「雨乞い」で祈りと降雨の直接的な関係はない。しかし、「高天原」では太陽を呼び戻すという結果を出すために、「舞い」という奸智と、「引きずり出す」という強引さをもってまで事態打開を図っている。
「雨が降るまで祈る」のか「太陽が出るまで踊る」のか。
企業文化や個人の性格にもよるだろうし、あまりの狡猾さや強引さは企業活動においてはコンプライアンスの問題もあるかもしれない。
しかし、祈るだけではもはや今日の環境は改善しないようにも思う。
雨の日に少し考えてみた次第だ。
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May 22, 2008
歩行者天国を散策していたカップルの女性が、ふと「あ、お父さん」とつぶやき、彼氏が「あ、ホントだ」と言った。偶然、彼女の父親と出くわしたのかと思いきや、その視線の先には・・・
・・・飼い主に連れられた一匹の白い日本犬がいた。二人だけではなく、道行く人々が口々に「お父さんだ」「かわいい」とほめそやしていた。もはや「白戸(ホワイト)家のお父さん」は日本の父親の代表になったようだ。
よくできた広告は、大流行し、一種の社会現象をおこす。特に概ね単一民族で構成されている日本においては価値観や行動の同質性が高いため、その傾向が顕著なようだ。ソフトバンクモバイルの広告は、CM総合研究所による、会社別・作品別・銘柄別のCM好感度で07年8月から三冠を7回獲得しているほどの大人気。もはや白戸家の人々と、特に「お父さん」を知らない人はほとんどいない状況だ。
日本中が誰でも知っている、一種の社会現象となったCMといえば、「エリマキトカゲ」を記憶している人も多いのではないだろうか。1984年放映なので、あまり若い方は分からないかもしれないが。
岩混じりの砂漠を、首に奇妙な傘を広げたような器官を持ったは虫類が、後ろ足で立ち上がり、がに股でドタドタと走り回っている映像は非常にインパクトが高かった。当時、そのは虫類「エリマキトカゲ」は一種のブームにもなり、小学生などはそのユーモラスな走る姿を模して遊んだものだった。
さて、では「エリマキトカゲ」のCMを覚えている方、問題です。何のCMだったでしょうか?
・・・「自動車」と思い出せた方。いいセンいってます。では、どのメーカーの、何の車種だったでしょうか?
・・・答えは三菱自動車の「ミラージュ」。ほとんどの方が覚えていなかったのではないだろうか。「何十年も経てば忘れていても無理ない」という意見もあるだろうが、実は放映当時も、商品の想起率は非常に低かったという。
生活者の購買態度変容を表わすモデルに「AIDMA」がある。生活者に商品を認知させてから、購買させるまでをAttention(認知・注意喚起)→Interest(興味獲得)→Desire(購買欲求喚起)→Memory(記憶)→Action(購買喚起)の5段階に分けて考える。最初のAから最後のAまでの段階を、広告や広報、販売促進、人的販売などによって進めていくのがポイントだ。その中で、広告はAttentionかInterestあたりまでを担うと言われている。
「エリマキトカゲ」はAttentionは抜群だった。しかし、映像の動物と商品が結びついていなかったのが問題だった。「史上元も有名で、効果がなかったCM」などと評する口の悪い広告関係者もいる。「面白い!」とInterestを獲得できているじゃないかと思われるかもしれないが、Interestはあくまで商品に対する興味を獲得しなくてはならないのだ。
転じて、「ホワイト家」。これは秀逸な広告だといえるだろう。この広告がソフトバンクモバイルのものであると知らない人はいないだろう。そして、「ホワイト」が同社の「ホワイトプラン」を表わしていることも多くの人が分かっているはずだ。
この広告のポイントは、そうした認知・注目のレベルを超えて、何やらオトクな料金プランがあるらしいぞと、概ね内容を理解させるところまで、きっちりと「語っている」ことだろう。
白い犬がしゃべる。とりあえの興味喚起、つまりツカミはOKだ。そしてサービスのメリットをしっかり語っている。語りを聞かせる工夫もある。「ホワイト家」というだけあって、ちゃんと家族が登場する。が、お父さんが犬なだけでなく、長男が黒人だったりとどこか不思議な構成で関心を高めている。その家族が「どのようにメリットがあるのか」をストーリー仕立てでしっかり語り、さらに最も「誰にとって」メリットがあるのかをシリーズものにしてシーンを変えて伝えている。該当する視聴者はそのメットを理解すれば、「ソフトバンクに変えちゃおうかな」とDesireまで進むかもしれない。
こうして比較すると、「エリマキトカゲ」は「一発芸の芸人」のようなもので、それに対し「お父さん」は「ストーリーテラー」として機能しているのが分かる。
エリマキトカゲから20余年が経っている。今日の広告・CMはツカミだけでは許されない。Attentionが主たる機能とはいえ、しっかりと効果を期待されているのだ。今後も「白戸家の人々とお父さん」はしっかりと演じて、語ってくれるに違いない。
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May 21, 2008
「エコロジスト」を名乗るつもりはないが、環境意識は高い方ではないかと自分では思う。しかし、それと全く逆の思いが常にあるのも事実。それって、いけないことなのだろうか?
スーパーカーブームが起こったのは1970年代。小学生の頃、車をかたどった消しゴムや、トレードカードを一生懸命収集した。そんな筆者はある画像に久々にドキリとした。だって、男の子だもん。
本田技研工業の米国子会社、、American Honda Motor社が開発したモンスターマシン。
VTEC(可変バルブタイミング・リフト機構)20リッターV型10気筒エンジン搭載のレーシングマシン。2リッターじゃなく、20リッターですよ!
http://wiredvision.jp/news/200804/2008043020.htmlと、上記リンクにあるとおり、これは同社が玩具メーカーのマテル社のためにデザインしたミニカーの話。他にも、米Ford Motor社、米Lotus Cars USA社、米Mitsubishi Motors North America社などが参加しているという。
自動車業界は全世界的に低環境負荷なテクノロジー開発とそれを基軸とした車種の製品化にしのぎを削っている。もう一つはインドのタタ社を先鋒とした低価格車開発競争だ。
が、正直な所、面白くないのは事実。もっと、夢のある車はないものかと思ってしまう。だって、男の子だもん。
というわけで、ミニカーとはいえ、上記のAmerican Honda Motorの開発者はかなりノリノリでデザインしたのではないかと思う。
しかし、ミニカーで我慢できない人たちもまた存在する。時速412.28 km/hを記録し、ギネスブックに昨年登録された市販車が米国にある。
「SSC アルティメイト・エアロ TT(SSC ULTIMATE AERO TT)」
http://www.hobidas.com/blog/akimoto/archives/2008/03/post_355.html
6.3リッター・V型8気筒(OHV)I.C.付きツインターボエンジン、最大出力 1183 馬力。
価格は65万4500ドル(邦貨105円換算で約6872万円)。
何でこんな馬鹿げたスペック、しかも飛行機でもないのに400km/hオーバーを目指さねばならないのかとも思うが、恐らく男の子魂がそうさせたのだろう。
しかし、「アルティメイト・エアロ」には目標があったようだ。
「ブガッティ・ヴェイロン」。
http://www.nicole-racing.jp/bugatti/news/index2.html
7993 cc・W16気筒/ 4ターボチャージャーエンジン、最大出力1001馬力。最高速 407 km/h。
ブガッティ社は1909年の設立以来、拠点や経営者を転々としながら、最上級・最高性能の車を手作業・少量生産で作り続けてきたメーカーだ。2005年よりフォルクスワーゲングループに属しており、「ヴェイロン」は、その新生ブガッティブランド初の市販車で、限定300台生産という。
お値段1億9900万円也。とてつもない価格だが、自動車評論家たちは口を揃えて、価格に見合った性能だという。米国の「アルティメイト・エアロ」の速度以外の性能は不明だが、「ブガッティ・ヴェイロン」は恐ろしく安定的かつ、乗り心地、取り回しがいいらしい。そこに惚れ込んで、デザイナーのラルフ・ローレンが乗り回していることも知られている。
全く実用的には必要ないぐらいの、超ハイスペックで超高級な車。大金持ちでオトナだけど、でも男の子心を忘れていない人に愛されているのだろう。普通の男の子には全く縁がないが。
さて、ミニカーや、チャレンジャー精神いっぱいの米国の400km/hカーや、超セレブなブガッティがもたらすものはなんだろう。
エコな世の中に逆行した、全く不要な存在にも思える。しかし、例えば世の中の車が、電気自動車や低価格なマイクロカーだけになってしまったらどうだろう。筆者は世の男の子(の心を持った人々)に問いたい。
筆者は運転が好きなわけではない。事実、現在、車を所有していない。
しかし、上記のような車たちの情報を目にすると、やはりどきどきする。だって男の(以下略)。
世の中には「多様性」が必要なのではないだろうか。ましてや、ミニカーならともかく、約7千万円や2億円の車なんて、そんなに走っているもんではない。言ってみれば、スーパーカーなんて、「絶滅危惧種」なのだろう。大目に見てあげたい。
もう一つ見逃せないポイントは、「技術の開発と伝承」だ。常識外れの性能をたたき出す車を開発するのは、普通の技術の組み合わせでは無理なのだ。例えば、全くカテゴリーは異なるが、大人気のi-Podは、既存の技術をうまく組み合わせて大成功した事例として有名だ。しかし、非常識な性能はそれでは叩き出すことができない。
「ブガッティ・ヴェイロン」の開発は、創意工夫・試行錯誤と挫折の繰り返しだったという。開発が終わっても、製造・組み立ての工程の多くは手作業だ。2億円×限定300台で600億円がブガッティ社の売り上げとなるが、開発と製造の手間を考えればかなり利益は厳しいだろう。
しかし、それでもフォルクスワーゲングループが出資している意味とは、技術開発とその伝承ではないだろうか。エコや低価格精算の技術ももちろん重要だ。しかし、車のメーカーとしては、その最高峰を作り出す技術を無くしたくないのではないだろうか。
世界は環境負荷軽減に向けて大きく舵を切った。一方、日本は少子高齢化をはじめとした市場縮小に対する備えが重要視されている。縮小均衡は重要だが、常に前のめりに開発していく心と姿勢だけは忘れてはならないだろう。
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May 19, 2008
効率的にものごとを記録する。記憶する。そして、その成果として学習や仕事というアウトプットをする。をする。「良質なアウトプット」のためには、実は大きなポイントがある。今まで何度か触れてきたことではあるが、様々な記事・コラムの引用と、新ネタを加え全体を整理してみたい。
■なぜ、アタマに入らないのか?
日常生活において、何かをアタマにインプットしなければならない局面は多々ある。端的な例では、学校での勉強がそうだろう。新しい仕事を覚えることもそうだ。そんな時、どのようなインプット方法、つまり、覚え方をするだろうか。
恥ずかしながら、筆者は学生時代、暗記科目が全くダメだった。自らの物覚えの悪さに閉口したものだった。・・・今でもその傾向は否めないのだが。
しかし、実はそのインプットの「方法論」が間違っていたようなのだ。
■脳科学で実証されている、効果的なインプットのための「アウトプットの効用」
少し前にNBonline Associeに掲された脳学者・池谷 裕二氏による記事、「潜在“脳力”を活かす仕事術」の第1回は非常に示唆に富んでいた。「脳は”入力”より”出力”で覚える」というタイトルだけでも「なるほど!」と思ってしまうが、少し要点を見てみよう。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nba/20080402/152046/?P=1
<私たちの脳は、情報を何度も入れ込む(学習する)よりも、その情報を何度も使ってみる(想起する)ことで、長期間安定して情報を保存することができる>
<参考書を繰り返し丁寧に読むより、問題集を繰り返しやるほうが、効果的な学習が期待できる>
<営業職のビジネスパーソンなら、自社製品の技術資料を繰り返し読むより、顧客先で何回もプレゼンテーションをこなす方が、製品の情報がよく頭に入るということ>
そして、第1回の結論はこうだ。
<入力よりも出力を重視 ── 脳はそうデザインされているらしい。 >
とにかく、「出力(アウトプット)すること」。これは重要なキーワードなのだ。思い起こせば、筆者の学習はいつも一生懸命、参考書を「読んでいた」。「ノートに書き写せ」とか、「問題集をやれ」と言われても、手を動かすことを面倒がってやらなかった。決定的に方法論が間違っていたのだ。
■コンサルタントは常に「アウトプット」を意識している
この「アウトプットする」ということは、筆者の生業であるコンサルティングにおいては最も重要なことだ。その質と量によって評価が決まることは言うまでもない。しかし、インプットがなければ、当然、アウトプットはできない。いかに効率的に、かつ、良質な情報を整理してアタマにインプットするかが勝負の分かれ目になる。
そこで、大切なのは、「アウトプットを前提として、インプットすること」なのだ。
筆者が参画している、「INSIGHT NOW (http://www.insightnow.jp/) 」という、総勢70余名の独立系コンサルタントが集っているコラムサイトがある。そのコンサルタンを対象に、アンケートを実施し、「Think!春号(東洋経済新報社)」に「大公開!コンサルタント50人の”勉強力”」記事が掲載された。( http://www.insightnow.jp/blogs/id/5 )
記事が仕上がって驚きつつも、納得したのが、コンサルタントは皆、学習法でも情報収集法でも、共通して「アウトプットを前提としたインプット」を実践していたということが顕著に浮かび上がってきたと言うことだ。
筆者自身のことを記そう。自らの「情報収集術」について、囲み記事で紹介していただいたが( http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2008/04/post_3bb4.html )、ポイントは、同様に、「アウトプット前提のインプット」である。
手前味噌ながら、Blogは、平日は基本的に1500文字程度の記事を書いて毎日更新している。それ以外にも雑誌原稿やメルマガ原稿など、執筆量は月産3万字を超える。加えて、コンサルティングのレポートや、研修講義資料。書き物だけでなく、プレゼンや講義もアウトプットだ。その膨大な量は、同等以上のインプットがなければ実現できない。
しかし、人間は誰しも1日24時間、1年365日の等しく与えられた時間の中で生活している。となれば、インプットを効率化するしかない。その方法が「アウトプット前提」なのだ。
何かを目にする。読む。聞く。全てを「何かに使えそうか?」というアウトプットをイメージして、アタマの中に「仮置き」しておく。それがインプットのコツだと思う。
人の記憶は時間の経過と共に、急速に減衰していく。「忘却曲線( http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2008/04/post_7ed7.html )」というものでよく知られている。しかし、忘却曲線の実験は、ランダムな言葉(意味を持たない言葉)をどれだけ覚えていられるかというものだったため、きちんと「意味づけ」して、アタマに整理しておけば、かなりの長期記憶に転換することができると筆者は考えている。
しかし、この「インプットとアウトプット」は、コンサルタントだけに有効な方法ではない。以下に、2つの事例を示したい。
■新入社員にブログを書かせる
通信教育の「Z会」では、「新入社員にブログを書かせる」という教育をしているという。( http://www.zkaiblog.com/histaff/archive/442 )
新入社員にはとかく教えなければならないことが多い。さらに、学生気分から、社会人・組織人へとの意識転換と気付きを与えなければならない。言うは易く行うは難い、伝統的なテーマだといえるだろう。
詰め込んだり、プレッシャーをかけても効果はない。新入社員の情報処理能力はそんなにまだ高くはないし、意識など簡単に変わるはずもないのだ。そこで、大切なのは「自ら気付かせること」である。そして、そこでも効果的なのが「アウトプットさせること」なのだ。ブログを書かせることによって、当然、ネタを自ら探す。そして、整理して記事にする。その課程で、重要なことがきっちりとアタマの中にインプットされることになるのだ。
この取り組みは同社だけでなく、採用している企業も多くなっているようだ。今年、数社から同じような取り組みとその成果を聞くことができた。是非多くの企業で取り入れてもらいたい内容だ。
■「傾聴」のためのアウトプット施策
上記のような取り組みは、さらに幅広い応用が可能だ。筆者の社会人としてのキャリアはコンタクトセンターから始まったが、その業界のカンファレンスで最近面白い話を聞いた。
コンタクトセンターの重要な任務の一つは、いかに「顧客の声(Voice Of Customer)」を収集するかである。そのために、センターで顧客と電話応対を行うコミュニケーターは、「顧客の声に耳を傾けろ「傾聴せよ」と教育される。しかし、これがまた、なかなか言うは易く行うは難いのだ。ついつい、大切な話をスルーしてしまったり、自ら思い込みで判断してしまったりと、なかなか顧客の思いまでを汲み取るまでは難しいのである。
そこで、メーカーのお客様相談室では「提案制度」を採用した。「提案制度」事態は珍しいものではないかもしれないが、その徹底度がすばらしい。
週に1つ以上は、末端のコミュニケーターも、その管理をするスパーバイザーも、センターマネージャーも、顧客の声を元にした提案を提出することが義務化されている。新製品でも、製品改良でも、応対業務に関する改善でもかまわないが、何らか、論拠となる顧客の声を示し、そこから自説を加えて提案を作るというのだ。
これによって、コミュニケーターは、より丁寧に顧客の声を汲み取るようなオペレーションを実施する。また、スーパーバイザーは、応対内容を聞き漏らさないよう、応対のモニタリング業務に注力する。マネージャーも部下からの話から、きちんと重要な顧客の声を吸い上げようとする。
つまり、「週1回の提案」というアウトプットの義務化によって、センターの誰もが、一層、顧客の声の耳を傾けるという、「インプットの良質化」を図ることに繋がったということなのだ。
インプット←→アウトプット。このバランスは、ついつい、より良いアウトプットを仕様とするが故に、ただひたすらインプットに注力しがちで、結果的にそれは効果的ではなく、プアなアウトプットになってしまいがちだ。今回整理した、「アウトプットを前提として、インプットすること」には、様々な方法があろうかと思う。しかし、その根本にある考え方を理解し、実践することをお勧めしたい。
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May 15, 2008
東京ビッグサイトで毎年開催されている巨大展示会「DWH(データウェアハウス)&CRM EXPO」。いくつもの専門セミナーが併催されているが、コンタクトセンターに関する講演を本日行ってきた。
http://www.conc.jp/jp/conference/conference.phtml#5
今日はその概要をご紹介したい。
この講演は昨年も行ったが、今年、主催者から依頼されたテーマは「コンタクトセンターの品質向上」。同様なテーマで、コンタクトセンター業界の諸先輩が別のコマでも講演をされるようだった。正直、どのような内容を話そうか悩んだ。そこで、得意技である「正論一本勝負」で行くことに決めた。
何が正論なのかといえば、「コンタクトセンターにおいても、マーケティングの基本は不変である」ということだ。
企業活動と、それを担う各部署・部門は、顧客に対して直接・間接の別はともかく、どこかで必ずつながっている。それを「マーケティング・サイクル」という。
そのサイクルがうまくつながっていない企業は、顧客との良好な関係を築くことができない。これは基本だ。
しかし、コンタクトセンターにおいては、そうした基本概念や、マーケティングの基礎が末端にまで教育されていないように思えるのだ。事実、筆者はコンタクトセンター出身であるが、マーケティングの基本を残念ながら教えられたことはなかった。
そこで、自説を聴講にお集まりいただいたコンタクトセンターの管理者、企画担当者の方々にぶつけてみた次第だ。
以下、講演内容の概要をまとめる。
講演は過去に執筆した内容を踏襲しているので、そのリンクも設置した。
聴講いただき、このBlogをご覧頂いている方は、参照しながら本日の講演内容を思い出していただければ幸いだ。
------------------------
・「4Cで考える」
マーケティング環境分析の定番フレームワークである「3C」」に、もう一つのC=communicatorを加え、コミュニケーター自身が、「Customer:顧客」「Competitor:競合企業」「Company:自社」の中で、いかに行動すべきかを考えさせることを提唱。教え込むのではなく、「考えさせる」のがポイントだ。コミュニケーターだけで考えるのではなく、スーパーバイザーやトレーナー、マネージャー自身も考えることが肝要。以下、この4Cで考えることを全てのフレームワークを読み解く切り口として講演した。
・マーケティングとは何か?
「マーケティングとは企業と生活者の”価値の交換活動”である」
参照: http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/11/1_9de4.html
・自社の価値構造を理解する
自社の提供価値とはどのような構造になっているのか。また、競合と比較して、どこが勝負のしどころなのかを考える
参照(記事中後半部分): http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/01/3_cae3.html
・カスタマーインサイト
顧客のニーズを理解し、さらにより深くその心の中を洞察する。
参照(記事中後半部分): http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2006/10/2_952d.html
・ミッションステートメントの構築
センターの役割を再確認し、自らの行動指針を作る。
参照: http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/02/4_053b.html
・コミュニケーションの本質
「コミュニケーションとは何なのか?」を深く考える
参照: http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/02/post_7821.html
講演は、以下、良好な「コミュニケーションを実現するためには」という、実務面に移る。今回のもう一人の講師である、インサイト(株) 代表取締役 鈴木 美佳氏にバトンタッチした。
鈴木氏のBlogにやがて概要がアップされるかと思うので、そちらをご参照いただきたい。
http://blog.insightcorp.jp/
約100名収容の会場には80名余りが聴講にお集まりいただいていたが、まだアンケート結果を見ていない段階ではあるが、講師としては概ね反応がよかったように思う。
マーケティングの基本と、顧客視点は、企業のどの部門・部署でも、やはり不変であると感じた60分間であった。惜しむらくは、如何せん、時間が短すぎた。機会があれば、コンタクトセンター担当者にこのテーマで、もっとたっぷりと講演をしてみたいと思う。
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May 07, 2008
連休が終わり、世の中がいつものリズムで動き出した。
この連休、筆者は仕事がずれ込んだり、飛び込んできたりと、膨大な仕事を抱え込んでしまっていた。今日は如何にしてその仕事と戦ったかの記録である。極めて個人的なことではあるが、お時間のある方は、これも一つの”ライフハック”や”ワークスタイル”の事例としてお付き合いいただきたい。
さて、今年は祝祭日の並びが悪かったとはいえ、世間は黄金週間を謳歌する空気に充ち満ちていた。そんな中、元々意志力が強い方ではない人間が集中力を発揮するのは並大抵のことではない。全く自慢にはならないが。
その1・「籠城」
何はともあれ、楽しげな人々の姿に脇目もふらず、朝、事務所に急いだ。途中、コンビニで食料を買い込む。事務所でものを食べるのも、コンビニ飯も好きではないのだが、昼食を外に食べに行こうものなら途端に集中力が途絶してしまう。近くの汐留には行楽客がいっぱいだ。そんな空気に触れてはならない。とにかく籠城を決め込む。
その2・「ネット断ち」
これは重要。調べ物をするにはどうしてもネットにアクセスしたくなるが、我慢。調べ物は一旦ペンディングにする。なぜなら、何かを調べたら、関連事項にも興味が湧いて、どんどんアクセスする範囲が広がっていく。本来的にはそうやって情報をインプットして、ネタを蓄積するのだが、ふと気がつくと1時間や2時間は経ってしまう。追い込まれている状況では禁物だ。何日もネットにアクセスしていないとセキュリティーソフトがアップデートしろとうるさくアラートを出してくるが、それも無視。
その3・「ダサい服」
そうは言っても、何日目かになると少し外を歩きたくなる。事務所の窓から見下ろすと、人もまばらな都心を散歩したりサイクリングしたりする人々の姿が見える。きっと汐留ではイベントなんかをやっているのだろう。確か新橋の烏森神社もお祭りのはず・・・。いかんいかん。出歩いている余裕はない。そんな誘惑を断ち切る究極の手段が、ダサい服を着て家を出ること。汚かったり、みすぼらしかったりするわけではないけれど、自分としてはあり得ないカッコ悪いコーディネートを選択。途中で知り合いに会っちゃったらどうしようと思いながら、さっさと事務所に直行。そして籠城。そんな服装では、仕事の途中でブラブラしたり、早めに仕事を片付けてどこかに行こうという邪な心さえ起きない。これは効果的だった。恥ずかしいけど。
以上、列挙してみれば何ということはないのだけれど、とにかく何らかの仕掛けをすることで、集中力を維持することができた。人それぞれ、方法論はあると思うけど、工夫することは大切だと思った。
おっと、まだ山は越えていない。この記事をアップしたら再びネット断ち。集中集中。
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April 25, 2008
東洋経済から出版されている、”実践的ビジネストレーニング誌”と題されている「Think!」
http://www.toyokeizai.co.jp/mag/think/index.htmlにありがたいことに、金森の関連記事が掲載されていますのでご報告です。
実は、このBlog記事をあるサイトに転載提供をしています。
INSIGHT NOW http://www.insightnow.jp/
そのサイトは独立系コンサルタントが集い、自説をコラムの形にして投稿し、記事の閲覧と評価のランキングを競い合うというものです。参画しているコンサルタントによって、「これぞ!」という記事を書き下ろしで投稿したり、自分のBlogの記事をサイトの読者層に合わせてリライトして投稿したりと色々ですが、恐縮ながら、私は毎日執筆しているこのBlogを更そのまま転載しています。(微妙に表現を変えているときもありますが、大意はありません。)
で、そのサイト、INSIGHT NOWの独立系コンサルタントが自分の「勉強術」を公開しました。雑誌「Think!」の特集が「キャリアを高める勉強力」で、サイトが編集部からの協力依頼に応じたためです。
その中で、50名余りのコンサルタントの中から、恥ずかしながら、金森の「情報収集術」が取り上げられました。
なぜ、「恥ずかしながら」かというと、本文中にあるとおり、「特別なことはなにもしていない」からです。
ご参考まで、以下にその内容を記します。
<情報収集法ですが、実は「特別な情報収集をしない」というのがその方法です。個人の記憶・思考方法によると思うので、一般化できないかもしれませんが、私の場合、目に触れたものが不思議と何でもインデックス化されて記憶に残るのです。本来、脳の働きとして、すべての人にそんな機能があるのだと、解剖学者の養老孟子先生が言っておられました。おそらく、アウトプットすることを前提にしているのだと思います。そして、複数の情報のインデックスが結合したとき、アウトプットが可能となります。
アウトプットの際は、ほとんどの場合、単一のネタではなく複数のネタを絡ませて書いています。情報が結合したときが書くときなのです。
情報収集については、特別なことはしていませんが、普段やっているのは、「時間があればウェブを見ることです。また仕事の帰りに書店もしくはコンビニで、雑誌の棚の端から端までざっと立ち読みをします(”cawaii”から”アサヒ芸能”まで)。それから、できるだけ多くの人の話を聞くようにしています。
また私はよく、街を眺めながらたくさん歩きます。時間があれば1時間、5kmぐらい歩きます。例えば新橋~銀座~新日本橋~神田~秋葉原と複数の表情を持った街を歩くと、発見があります。雑誌の立ち読みにしても町歩きにしても、「普通のこと」を極端なくらいにやると、他の人では得られない情報を得ることができるのだと思います。普通のことを普通にやっていては得るものも多くはないでしょう。>
ここでのメッセージは、最近いつも記していることもありますが、
1.「アウトプット前提で、インプットする」こと。
2.当たり前なことも「極端にする」ことで、新たな発見がある。
です。
今後も、「極端なインプット」で、「新たな発見」をお届けしたいと思っています。
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April 24, 2008
「今だけの期間限定」というスペシャル感は生活者の購入を促進する常套手段。ましてや、人気ブランドの周年記念。加えて「自分だけのオリジナルが作れる」というカスタマイズ性があれば、人気は弥が上にも高まる。
ディズニーリゾートが今年25周年を迎えた。夢と魔法の国として、テーマパークのトップに四半世紀の間、君臨してきたのだ。正に開園25周年のディズニーランドと、同じリゾート内ということで後発のディズニーシーでも様々な周年イベントが繰り広げられている。
そんな中で、密かに人気が大爆発しているグッズがある。
ドリームキー http://www.resort25.jp/goods/goods2.html
特設売り場で販売されているのだが、何と、最長8時間待ち!
8時間と言えば、成田で出国手続きをして、ハワイまで飛行機で飛んで、入国審査を終える・・・ぐらいの時間だ。普通でも5時間待ち。香港まで行ける。
なぜにそこまで人気が出たのか。冒頭に記したように、ディズニー開園25周年という節目の記念で、期間限定。さらに、自分の名前が入れられるというカスタマ性はある。しかし、それだけでそんなに人気が出るものなのだろうか。
25周年記念イベントは4月15日にスタートし、ドリームキーも同時に発売開始された。
そして、25周年のキーワードは、<合い言葉は、「夢よ、ひらけ。」>なのだ。
同日、新聞では全面見開きのカラー広告が掲載された。紙面にはキャラクターが取り囲んだシンデレラ城に続く赤い絨毯で、ミッキーが腕を開いて出迎えるというイラストが描かれている。
長文だが、そこに添えられたコピーがまた、秀逸。
できれば全文転載したいところなのだが、こと、ディズニーに関してそんな恐ろしいことはしたくないので、一部だけ謹んで引用させていただく。
<ときがきました。/心にしまってあるすべての夢をかなえるときが。>
<そんな夢をひらく鍵があるところ。/それが、25周年の東京ディズニーリゾートです。/ミッキーマウスやミニーマウス、すべてのキャストが、魔法の鍵を手にゲストひとりひとりの夢をひらいていきます。>
この「夢をひらく鍵」。単に販売されているだけでなく、上記コピーにあるようにショーでは実際にキャラクターが身につけている。それ以外にも、他のグッズにもキーがあしらわれている。要するにリゾート全体に鍵がちりばめられているのだ。
その中で自分だけの「夢をひらく鍵」を手に入れ、さらにキャラクターたちと一体感が持てるとしたら、これは人気が出ないのがおかしいというものだ。
現実的な話としては、ドリームキーはパーツを組み合わせて購入するが、結局組み合わせ価格は2,900円となる。それなりに値の張るグッズだ。1つ作るのに5分ぐらいかかるだろう。同時に6人ぐらいのオーダーを受けているようなので、1時間に72セット。開園時間は1日13時間だから、1日936セット販売。25周年の1年間で341,640セット。単純計算すれば、総額990,756,000円。
実際にはそんなにスムーズにお客が入れ替わらなかったり、迷う人がいたりと5分で1つ作れないかもしれないし、1日13時間、365日まんべんなく作り続けられるわけでもないかもしれない。しかし、特設売り場という、いわゆる出店で販売する売り上げとしてはかなりのものだ。しかし、ディズニーにとってはさらにそれが25周年の象徴として人気が出るという効果の方が大きいのかもしれない。
普通に考えれば、せっかく入園して、なにも5時間も8時間も並んでまで買うのかと思うかもしれない。しかし、ファン心理とはそうした合理性だけで割り切れるものではない。
さて、無類のディズニー好きとしては、仕事が少し片付いたら、ちょっくら5時間並びに行くとしますか。
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April 22, 2008
日経新聞の4月21日夕刊。「レジ袋追放 米で加速」という記事が掲載された。世界最大のレジ袋消費国で、流通業者が一気に配布中止や有料化に踏み切ったとのことだ。日本でもあちこちで有料化が始まっているが、これでレジ袋包囲網は一気に狭まった感がある。
告白する。普段、エコロジーのことや環境負荷軽減のことを取り上げて、「地球のためでも何でもない、自分自身のため実践せよ」と言っている割には、筆者は実は「レジ袋削減運動」に対してはちょっと積極的に与したくなかった。なぜって、全くの個人的感覚なのだが、レジ袋をぶら下げているより、昨今の「エコバック」をぶら下げている方がカッコわるく思えたからだ。特にスーツ姿では。根拠を問われても困るのだが。
店頭ウォッチングは必須の情報収集だし、料理も好きだ。なので、スーツ姿で買い物をすることも割とよくある。スーツにレジ袋もどうかと言われればそれまでなのだが、買い物をしてから、アッシュケースからいわゆる「エコバック」を取り出して、商品を詰め込む姿が自分では、どうしてもイタダケナイと感じてしまっていたのだ。
しかし、レジ袋完全追放はすぐそこまで来ている。有料化されたら、たぶんイヤイヤ何円か払ってもらうのだろうけど、完全廃止は困るなぁ、などと考えていた。
さて、話は変わって、先週末、ある地方に出張した。帰りの飛行機では有名なカジュアル衣料の製造販売会社の経営者と乗り合せた。自然に着こなしたビジネスカジュアルが板についている。
筆者は土産を買い、袋に入れてもらいぶら下げて機内に乗り込んだ。その経営者もちょっとしたものを買ったようだ。しかし、品物はさっと、持参の手提げに収納した。ブリーフケースとは別に持っていた、ジーンズ製の袋だ。自社製品かは分からないが、彼が持つと実にオシャレに見える。
その経営者は3年で撤退したものの、かつて安全な食材にこだわり畑違いの事業にチャレンジした。環境問題に関しても独自のこだわりがあると言うことなのだろうか。サラリと布バックに品物をしまい、持ち歩く姿は自然でカッコイイ。自分のこだわりを実践しているのだろう。
レジ袋の撲滅はもはや時代の趨勢だ。後戻りはしないだろう。一方で、エコバックは一部のブランドまで参入し、ブームの感まである。そんな中で、抵抗する出なく、ブームに乗る出なく、自分の自然にスタイルを作っていくのは素敵だと思った。
抗わず、流されず。これは買い物袋だけの話ではないのだろう。
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April 17, 2008
この季節、毎年担当している大学での授業が始まる。
同じく、恒例になりつつある、新入社員研修講師の仕事も始まる。
新しく始まるのはビジネススクールも同じだし、標題の件が大切なのは誰にとっても同じこと。
しかし、あえて言うなら、筆者の担当する講義では、大学生と大学生から社会人になったばかりの人たちが、圧倒的にメモを取っていないように思うので少し触れたい。
筆者もあまりノートの取り方が上手な生徒ではなかったのだが、高校受験の時に教わった大学生の家庭教師に徹底的にしつけられた。「ノートの取り方と成績は比例するぞ!」と。
さすがにこれはヤバイと思い、まじめにつけるようになった。が、高校、そして大学へと進学するようになって、怠けた。何たって、大学にはノート提出などがない。授業のノートをコピーさせてくれる親切な友達もいた。そうなるとダメダメだ。
一変したのはやはり就職してから。厳しいが優秀な上司の下に就き、徹底的に仕込まれた。「メモをとれ!」とは何度か言われたが、言われなくともきちんと記録しなければとてもついて行けないことに気がついた。
「忘却曲線」なる言葉を教わったのもその頃だ。人がどれぐらいすばらしく忘れっぽい存在なのかを科学的に証明したものだと。
改めてWikipediaで調べてみる。以下要約。
<心理学者のヘルマン・エビングハウスが自ら「子音・母音・子音」から成り立つ無意味な音節を記憶し、その再生率を調べ、長期記憶の忘却を表す曲線を導いた。>
<20分後には、42%を忘却し、58%を覚えていた。
1時間後には、56%を忘却し、44%を覚えていた。
1日後には、74%を忘却し、26%を覚えていた。
1週間後には、77%を忘却し、23%を覚えていた。
1ヶ月後、には79%を忘却し、21%を覚えていた。 >
「無意味な音節」ではなく、学問などは上記ほど直後の忘却が激しくないという説もあるが、覚えたと思っても実際にはあっという間に忘れてしまうのだ。
やはり、せっかく講義をしても、教室を出てすぐ忘れられてしまうのはつらい。受講している方も無駄だろう。
なので、「メモを取ろう」。取り方は文章にしても、箇条書きでも、勝手に何かのチャートを作ってもいい。人それぞれの脳みその使い方でスタイルは変わるはずだ。肝心なのは当たり前だが、後からそれを見て思い出せることだ。
ハンドアウトをきちんと渡すように心がけているが、書いてあることだけを伝えているのではない。そうなら最初に神を渡して読んでもらうだけでいい。
というわけで、「メモを取ろう!」。
このBlogを読んでくれている受講者の人、よろしく。・・・講義の時にも言うけどね。
上記の「忘却曲線」は「メモの重要性」を理解させるにはいい例です。部下に伝えたい上司の方、私のように受講者に伝えたい講師の方、是非おためしください。
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April 15, 2008
「顧客の立場で、顧客の目線でものごとを考えよう」という「顧客視点」を日々、力説するものの、では「それは具体的にどうやればいいのか?」の例示は意外と難しい。しかし、一つの逸話を見かけたのでご紹介したい。
読まれた方も多いかと思うが、日経新聞4月13日の「春秋」。
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080412AS1K1100612042008.html
1週間で上記リンクは消失するので、以下にその要約を記す。
落語家の柳家小三治さんと師匠である故五代目柳家小さんの話。師匠の十八番、「気の長短」という噺を聞いてもらったところ、「面白くねぇな」と評された。
「気の長短」は度外れて気の長い男と短い男の掛け合いで笑わせる滑稽(こっけい)噺。師の教えはただ「その了簡になれ!」だった。
注目したいのはこの後の、「了簡になる」とは、どういうことかということ。
ちなみに「了簡(りょうけん)」とは「考えをめぐらすこと。思案。所存。(広辞苑)」
ある日、師匠の高座をそでから見て気づく。師匠は自ら気の長い男の話をしながら、足の指がピクピクしていたという。客から絶対に見えない足の指まで、間の抜けた話しっぷりにイライラしてくる短気な男の了簡になっているのだと。
春秋はこの後、新入社員に向けて、入社以来2週間あまりで色々あっただろうが、<周りに目を凝らせば、ヒントがきっとみつかる。>と優しく語りかけて結んでいる。
いいまとめだが、これを新入社員だけに理解させるのではもったいない。
「その了簡になれ!」は顧客視点そのものだ。そしてマーケターや接遇を教える講師などが、懸命に伝えようとしているものでもある。
相手の立場に立ってものごとを考えよう。相手の望むことを的確に捉えようと、言葉にすることは簡単だ。しかし、本当に「その了簡」になれていたのか、思い起こせば忸怩たるものがある。
人の気持ちを読めなくては落語家はつとまらないであろうが、さすがである。「その了簡になれ!」。しっかりと胸に刻みたい。
ついでに、顧客対応の極意を伝える落語家の例として、過去に書いた記事であるが、桂文珍さんの話を紹介する。
大阪で980円カメラのワゴンセールをしていた。
そこはさすがに客の心が良くわかる大阪の商人がすることで、東京だったら『激安!!』と書くところを、ズバリ一言。
『写る』。
980円が安いのは当たり前で見てわかる。
「おっ、カメラ980円か。やっすいなぁ。でも”ちゃんと写るんやろか?”」という客の不安を先回りして取り除くことが大切。
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April 14, 2008
人に勧められて毎日Blog記事を書くようになって1年ちょっとが経つ。勧めてくれた人ももちろん毎日書いているし、「毎日更新派」は結構多いようなので、そうした人には今更かもしれないけれど、「毎日書くコツを教えて」と言われることも多いので、ちょっとまとめてみたい。
■日課にすること
毎日書くためには、ともかく日課にすることだと思う。筆者は基本的に1日1時間、記事を書く時間を確保するようにしている。できるだけ朝イチ。無理ならば、1日のうちどこかで。例え夕方や夜になっても必ず書いてアップする。そうして日課にすれば、書くことが「特別」ではなくなる。
■時間を区切ること
基本は毎日1時間限定。一気に書く。乗ってきて、もう少し時間をかければ良い記事になりそうなときと、どうにも筆が進まないときは1時間だけ延長する。最大2時間。絶対にそれを超えないようにして、多少自分自身でも不満が残っても仕上げる。そうでなければ日々の業務が圧迫される。本業をおろそかにしたら続かなくなる。
■時間を見つけて溜め書きする
時間に余裕があって、ネタもあるときは思い切って溜め書きする。実際には最近忙しくて、なかなかできていないのだが、基本的には翌日分の記事は前日中に書き溜めておく
■「特別な日」を作らない
忙しい日もあるし、休みたい日もある。体調の悪いときもある。しかし、「今日は特別だから」と考えたら、どんどん特別な日が増えてしまう。毎日書かなくなる。忙しくなるのがわかっていたら、溜め書きする。休む前には当然溜め書き。体調の悪いときは根性だ。
■常にネタをストック
ある意味、一般にはこれが一番難易度が高いかもしれない。しかし、案外と慣れで何とかなるものだとわかってきた。
以前は気がついたことを全て、ある程度文章にしてネタ帳に記録していたが、最近はある程度文字数の多い雑誌原稿を書くときなど以外はあまりネタ帳を付けていない。
代わりにどんな断片でも、ネタになりそうな気になることはアタマの片隅に止めておくことにした。これが意外に忘れないのだ。
そして、そのネタの断片はいつでも何かと「結合」するような記憶への留め方をしておく。この状態をうまく人に伝えるのは難しいのだが、Aというネタの断片に、後から放り込まれたDとかXが勝手に反応してくっつき、A-D-Xというような一連の文脈が出来上がる。
例えば、最近の記事”「ダメだからダメ」の先にあるもの”では、まず、映画館の顧客対応が記憶に残った。その次に日経MJの記事がアタマに放り込まれ、ふと考えたときにMJの記事と、過去に書いた「銀座伊東屋」のコラムが結びついて、さらにその前にストックされていた映画館の件と「結合」して記事が書けたのだ。
■常に「アウトプット前提」でものを見て、インプットする効用を知る
上記のネタのストックは、やはり記事にするという、アウトプットを意識して常に情報をアタマに放り込んでいるからできるのではないかと思う。
この「アウトプット前提」というのは記事を書くだけではない効用がある。日経ビジネスオンラインに脳学者・池谷 裕二氏が記された ”脳は「入力」より「出力」で覚える”という記事があった。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nba/20080402/152046/
アウトプットを前提として学習し、それを実行すると、単に覚え込もうとするより格段に効果が上がるとある。事実、コンサルティングや講師業では、いかに数多くの事例を知っているかがポイントとなるが、一旦記事にして整理して覚えたことは確実に忘れない。
単に趣味や、自分の名前の露出度を高めるために記事を書いているのではなかなか続かない。こうした実務上の効用があることも体感しておくといいと思う。
以上、簡単にまとめてみようと思ったら、意外と長くなってしまった。少しでもご参考になれば幸いだ。
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April 07, 2008
コンサルティング、講師業、執筆業。この3つの仕事の比率を三分の一ずつに保つ。それが自分自身のナレッジのインプットとアウトプットの一番いいバランスになる。
・・・とは、わかっているのだが最近ちょっとバランスが崩れ、講師業が4割強を占めている。
講師業は実はとんでもない肉体労働だ。(当然頭も使うけど)。何といっても一日立ちっぱなし。しかも教室中をずっと歩きながら講義やインタラクティブ・レクチャー、グループワークのファシリテーションを行うのだ。1日7~8時間。更に、夜にもう1コマ、3時間のビジネススクールのクラスが入ってるようなときもある。
腰にくる。足がむくむ。
しかしポリシーとしてあくまで立ち姿はスッキリしゃきっと。実際に背中を丸めていたのでは、おなかから声は出ない。教室の隅々まで声が届かなくなる。
と、そんな悩みを解決してくれるグッズがある。ワコールのCW-Xという製品。
http://www.cw-x.jp/index.html
テーピング効果のある特殊な縫製で作られたスポーツ用のインナーウェア。イチローも古くからのユーザーだ。金森も元々はスキーの時着用していたものを、講義用に転用した。
「そんな変わった使い方をしているのは珍しい」と、ワコールから取材を受けてしまった。
上記の使用に至るまでのきっかけや、金森の講義に対するこだわりが取材インタビューでまとめてもらっている。
http://www.wacoal.jp/c/cw-x/archives/2008/04/cwx_10.html
こんな使い方をしているのは珍しいと自分では思っていたら、ビジネススクールの講師で他にも二人、使っている人がいた。残念ながら、この日他の二人は都合がつかずに、金森単独取材となったのだけれど、やはり腰や膝をかばうために愛用しているとのこと。
プロはやっぱりコンディション作りも仕事のうちだもんね。
というわけで、教壇に立つ仕事をしている方がおられたら、オススメします。
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April 02, 2008
「飽食の時代」と言われて久しい。そしてこの季節、日本の美徳である「もったいない」はどこへ行ったのかと思うような光景を目にする。花見の会場に設置された仮設ゴミ捨て場にあふれかえる残飯の山だ。
日本の食料における食べ残しや廃棄の割合は、少し古いデータだが農林水産省のWebサイトにある。
http://www.maff.go.jp/soshiki/syokuhin/syouhiseikatu/shishin/mate1414.html
11年前の時点で24%であり、「上昇中」とのコメントが添えられている。
食品偽装の問題で、「消費者は消費期限と賞味期限の違いもわからないくせにくせに」と開き直った経営者がいた。ここで行数を割きたくないので、消費期限と賞味期限、食品衛生法JAS法の定めに関しては厚生労働省のWebサイトへのリンクを提示しておく。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2002/12/s1211-8f.html
平たくいえば、消費者の多くが感覚的にわかっていたとおり、賞味期限は過ぎても食べられないわけではない。が、一方で一連の食の安全をめぐる報道の中で、その賞味期限を守ろうとするが故に、大量の食品廃棄がなされていることも世間が知ることとなった。
また、数多の製品回収騒動が発生したが、例えば材料の表示が本来の含有量順になっていないという理由で大量に回収された食料品はそのほとんどが廃棄処分されるという結果になっている。
ファストフードに目を向けて見る。誰もしなびたフライドポテトやふやけたうどんなど食べたくない。しかし、揚げたてポテトや、ゆでたてシコシコうどんを客に待たせず提供するため、一定量を作り置きして、時間が経過したものは捨てるというオペレーションが組まれている。つまり、廃棄前提だ。
さて、タイトルに示したドイツのこと。ドイツでの優れた取り組みを知ったので、二次情報ではあるがお伝えしたい。
「廃棄直前の食べ物がおいしい食事に変身!」
http://greenz.jp/2008/03/28/berliner_tafel_ev/
<ドイツの市民活動「Berliner Tafel e.V.」は、賞味期限切れ直前の食料を有効利用し、失業者などの食事を作っている。>
同国の失業率は8.7%と深刻だが、上記の食事を提供するボランティア施設がベルリン市内だけでも300カ所はあるという。
冒頭、筆者が見た花見会場のゴミ捨て場にはホームレスの人々が多数集まり、食べ残しを物色していた。日本でももっと「もったいない精神」を発揮して、「捨てる→拾う」の関係ではなく、「回収する(捨てない)→加工する→ふるまう」のような好循環が作れないものだろうかと考えさせられた。
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March 25, 2008
ネット上のBlogや掲示板、QAなどから「クチコミ情報の解析」を行うサービスを展開するリクルートと電通の子会社、「ブログウォッチャー」が創業一年を迎えようとしている。同社が運営する「クチコミポータル”SHOOTI”(シューティ)」というサービスでは、当該記事筆者の「実体験」を伴った記事だけを対象としてクローリング(抽出)し、検索結果を表示するという。
社長の羽野仁彦氏のインタビュー記事が掲載されていた。それによると<最近の消費者は、クチコミやブログの体験談を参考にして商品を選ぶという人が増えています。生の声を知りたいとか、レビューを知りたいという潜在的なニーズが非常に高い>という。そのため、実体験に基づいた評価が重要であり、それこそが事業の狙いであると。
ふむふむと読み進めると、ドキリとするような言葉が続いていた。
<(検索対象として)ただ単に新聞記事をコピペしただけのような、体験や評価が入っていないものは載せていません。なので、何百万PVもあるような、有名なアルファブロガーのサイトでも取り上げていないものは結構あります。アルファブロガーは評論ばっかりしていて、体験談が少なかったりするので(笑)。>
筆者はアルファブロガー(アクセス数が膨大で社会的にも影響力の強いブログを運営している人)といわれるほどの存在では全くないが、果たして自分が毎日このように発信している情報はどうなのかと。
基本的にはいつでも実体験を伴う、一次情報を発信したいと思っている。しかし、「毎日が新発見」な日々を過ごそうとしているものの、自ずと限界がある。また、発見の粒が小さく、単体で伝えるには厳しいこともある。ので、いったんストックされることも多い。
次に頼るのはやはりメディアからの情報だ。新聞・雑誌・ネットをくまなく眺め、読み込み、気になるニュースについて書く。ただ、一つの記事の感想文のようなモノは書きたくない。そのニュースをもっと分解し、何らかのフレームワークや理論でわかりやすく、再構成する。もしくは複数のニュースや、上記の自分の実体験から共通項や因果関係を読み解いて再構築することを心がけている。<ただ単に新聞記事をコピペしただけのような>とならないため、上記のような「分解と再構築」を心がけているつもりだ。
ブログは当然、無料公開しているのだが、読んでくれる人の限りある貴重な時間を割いてもらっているのだから「価値」のあるモノでなければならない。自分は価値を提供できているのか。この記事には価値があるのかと、いつも自問している。
表題の「ブロガーは何を伝えていくべきなのか?」という問いに答えはないのかもしれないのだが、筆者としてはどんな人に読んでもらいたい。また、自分としてはどのような価値提供をしていこうとしているのかを、以下のようなターゲティングとポジショニングで考えてみた。
・ターゲティング:既存のメディアでは飽き足らない情報を求めている人。
・ポジショニング:既存のメディアにはないニッチな情報や切り口で、読者に新たな気づきと視点を提供する。
今後もご愛読いただければ幸いです。
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March 23, 2008
「桜ギャラリー、始まるよー」。
http://kmo.air-nifty.com/photos/sakura/index.html
全国に先駆けて、東京のソメイヨシノが開花しました。
1953年に統計を取り始めて以来、9番目の早さで、平年より6日早い。
但し、昨年よりは2日遅いそうです。
さて、今年も携帯片手に町のあちこちに咲く桜の花をお届けします。
ご期待ください。
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March 21, 2008
以前、同じ傘ネタを逸品の紹介的なコラムで書いたのだけれど、別の意味でもう一度読んでもらいたいと思ったので記すことにする。
昨日の東京はものすごい風雨が吹き荒れた。暖かい空気と冷たい空気が上空でせめぎ合い、昨日の所はまだ冬が競り勝ったのだろう。冷たい雨と風だった。そうして、南の風や北の風に吹かれて、毎年、春がやってくる。
しかし、夜でもまだ衰えない風雨は、路上に悲惨な姿のあるモノを散乱させることになる。いや、正確には散乱させたのは風ではなく人で、風がその原因を作っただけだ。
ビニール傘。
筆者の自宅は駅のすぐそばなのだが、駅の改札口から自宅のエントランス付近まで死屍累々といった感じで、ビニールがはがれ、骨がおり曲がり、うち捨てられたビニール傘がいくつも散乱していた。わずか250メートルぐらいの間に、数えてみれば7本も。
確かに昨日の風は強烈だった。目の前でビニール傘がオジャンになるシーンも見た。普通のナイロン傘でも、折りたたみの人はあきらめてたたんで手に持ち、濡れて歩いていた。長傘でも風を受け、骨が大きくたわんでいた。
そんな天気でビニール傘を差そうなどとはどだい無理な話なのだ。なのに、なぜかみんなビニール傘が好きなのだ。
最近では中国製のナイロン傘が駅のコンビニで500円も出せば買える。確かにビニール傘は300円ぐらいとそれよりも安いけど。
透明なので前が見えて安全などという利点もある。また、講師をしている大学で、学生に話をしたら、「ビニール傘は透明なので、自分のおしゃれに影響しないから愛用している」という意見もあった。だがしかし、「使い捨て」というその存在の根本は変わらない。
「世界一雨に濡れるのが嫌い」と言われる日本人。また、多雨な気候でもある。そうした背景からか、日本の傘の年間生産数は1億本に上る。平均すれば、ほぼ日本人一人が一本、傘を消費していることになる。ビニール傘が占める比率がどれぐらいなのか調べられなかったのだが、少なからぬパーセンテージを占めているだろう。
「もったいない」は世界に誇れるすばらしい日本語だ。そして環境負荷軽減は、誰のためではなく、自分たちのために一層注力しなければならないテーマだ。そろそろ、使い捨ての傘はやめにしたらどうだろうか。
人それぞれ好みがあるので、ここから先は参考までに読んでいただければ結構だが、筆者は使い捨てにしないためにも傘は自慢の逸品を使っている。皇室御用達、「前原光榮商店」の傘。常の傘の倍、16本の骨が優美なシルエットを描く。当然、風雨にも強く、昨日もびくともしない丈夫さを見せてくれた。骨の数だけでなく、素材や細部の作りにもこだわった商品は、1万円台前半から、高いものは20万円ぐらいまである。筆者のものは一番安いぐらいのレベルなのだが、やはりうっかり電車で忘れるわけにはいかないので、いつもしっかりと握りしめている。しっかりと手入れもする。そうして、もう何年も使っている。
「いいものをながく」。
筆者はいろいろなモノに対してオタク的な所があるのだが、ものを買うときには「いいものをながく」をモットーにしている。モノにこだわり、大切に、ながく使うということは、今日の環境負荷軽減の取り組みにも沿っているはずだ。まずは、ビニール傘をやめることを提言したい。
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March 19, 2008
「Less is more」 は建築家、ミース・ファン・デル・ローエの言葉。無駄を削ぎ落としたものは美しい。さりとて、その削ぎ落とすという行為はなかなかに難しい。そんなことを考えさせてくれた、最近の商品を二つご紹介。
■レーシング・カートに似た「ASUS Eee PC」
http://eeepc.asus.com/jp/
米国で199ドルパソコンとして注目され、日本ではWindows XPを搭載し、49800円で発売された「ASUS Eee PC」。価格の安さで初期ロットは即完売。今でも店頭では品薄が続いているので、この記事を読んで気になった方、見かけたら即ゲットをお勧めする。
と、いうわけで、最近このPCを持って出かけることが多い。結構、使えるのだ。これが。
もちろん、出先でPCを本格的に使うシーンが想定されればフルスペックのノートPCを持って行くが、Eee PCは何とも気軽でいい。
バックアップは取っているとはいえ、メインマシンを持ち歩くのは結構気を遣う。故に、重いハードアタッシュケースに入れて持ち歩く。セキュリティーはかけてあるが、ハードディスク内のデータが気になるので、奪われる危険を考えると電車でうっかり居眠りもできない。
Eee PCの気楽さは、何といっても、なーんにも積んでいないこと。ハードディスク(HDD)がない。わずか4GBの内蔵フラッシュメモリー+4GBのSDカードのみ。HDDがないので物理的な故障の心配が少ない。薄っぺらいカバンにぽんと放り込んで持ち歩ける。
アプリケーションソフトも積んでいない。否、積めない。4GBの内蔵フラッシュメモリーは3GBがXPに占有されている。軽めのセキュリティーソフトしか入れられない。
基本的にテキストエディタでの文書作成と、インターネット接続専用端末となるが、メールソフトもインストールせずに、Webメールを使う。利便性は下がるが、メールデータも本体に残っていない。万が一の盗難も怖くない。
さらに言うと、Eee PCは重量的に軽いだけでなく、やはり動作もサクサクと軽い。CPUはプアなものだが、ソフトをほとんどインストールしていないので、引っかかるものが何もない。立ち上がりも早い。ストレスフリーなのだ。正に贅肉を削ぎ落とした「Less is more」な軽快さなのである。
ストレスが全くないと言えばうそになる。サイズの小ささに連動して、キーボードはさすがにフルサイズではない。少し小さいが故に、ミスタイプも発生する。しかし、その分、集中力が高まる気もする。
例えて言うなら、以前、試したら気に入って何度か乗った、レーシング・カートのようなのだ。90CCのエンジンがパイプ剥きだしのフレームに納められ、サスペンションもなく、ステアリングの遊びもほとんどない。ダイレクトに路面の感触が伝わってくる。決して高性能なわけではないが、無駄を削ぎ落とした故のおもしろさが感じられるのは共通したところである。
■贅肉を削ぎ落とせない男の味方「ワコール・クロスウォーカー」
http://www.mens-wacoal.jp/crosswalker/mechanism/
さて、「Less is more」と贅肉を削ぎ落とした機能美を好むものの、自らの贅肉はなかなか削ぎ落とせず、美にはほど遠い状況に一縷の望みを与えてくれる新製品が登場した。
「”スタイルサイエンス”はいて歩いているうちに体型を引き締めるという、ワコール人間科学研究所の研究開発によって生まれた全く新しい技術です」とある。
形状は少し太ももの部分が少し長めのスパッツのよう。そのの太もも部分に秘密がある。特殊な織りと縫製によって、ももが加圧され、自然と歩幅が広がり負荷のかかる歩き方になる。結果として、日常の歩行がエクササイズになるというものだ。週に5日着用、1日6,000歩目標。決して高いハードルではない。
この商品、女性用がずいぶん前から販売されており、かなりのヒットを記録している。ヒットしているということは、「効果あり」なのだ。
続いて、企業の健保組合ルートで昨年末から販売されていた。実は筆者はワコールの知人に頼み込んで、密かに試していたのだ。「効果あり」。
少々ウェイトオーバーだったので、食事にも気をつけるようになっているため、定量分析的に考えれば、食事の変更がクロスウォーカーの効果のバイアスとなっている。故に、正確性には欠けるかもしれないが、体組成計に乗って調べてみると、体重減少分以上に、筋肉量が増えている。恐らくこれは、クロスウォーカーの効果だと思って間違いないだろう。
何より、歩き方が変化したことが体感できる。大股でぐいぐい歩いている感じがする。もともとタウンウォッチを兼ねた散歩は大好きなのだが、更に、歩くのが気持ちよくなった。
「男子たるもの、女性の下着メーカーの製品に頼ってまで」という論もあるかもしれないが、メタボ検診はもうすぐ始まってしまう。背に腹は代えられない。というか、その腹を何とかせねばならないのだ。溺れる者は藁をもつかむというが、この商品は藁どころか、間違いなく強力な救命ボートとなってくれる。自分で漕がねばならないボートであるのは間違いないが。
「Less is more」な商品を二つ紹介したが、「持たざる豊かさ」を実践するには、やはり工夫が必要だということだろう。
最小限のスペックを活かす使い方。Eee PCは新しいPCの使い方を考えるきっかけを与えてくれた。
日常のウォーキングの質を変え、また、日頃より少し長く歩くという行為を日常に組み込むというきっかけを与えてくれたクロスウォーカー。
春は新しいことを始める季節でもある。もし、どちらかの商品が気になった方がいたら、是非、お試しあれ。
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March 17, 2008
役職者の机の前には、部下の人間を呼びつけて説教をするための椅子が置いてある。「ちょっといいか。まぁ、座れよ」。などと言われると、「うゎー、長くなりそう・・・」。と冷や汗が出てきたものだった。その「じっくりと話す」という機会をうまく作って成功している商売があるようだ。クリーニング屋である。
日経新聞3月15日付夕刊の記事「アーバンBiz」。「クリーニング店、個性光る」として最近のクリーニング業界の変化を取り上げている。そもそも、その業界は<洗濯機や洗剤の高機能化と「ユニクロ」に代表される低価格カジュアル衣料の普及>によって家庭の年間洗濯代は1992年の19,243 円をピークに、昨年は8,915円と半減以下になってしまったそうだ。<今後、生き残りをかけた競争の激化が必至>と記事は結ばれている。
その生き残りの方策の一つが、「顧客を座らせる」というもの。クリーニング大手の白洋舎が新宿高島屋に構えた「白洋舎スペシャルケアサロン」では、顧客をカウンターの前の椅子に座らせ、約10分も接客するという。通常の倍以上の時間だ。来店客の<「腰を落ち着けると、細々した注文をしてしまう」>というコメントが象徴的だ。
通常のクリーニング店の利用を考えてみれば、何かの用事のついでに、放り投げるようにワイシャツを預けたり、衣替えの季節にスーツをドサッと持ち込んだりと、いつも忙しない感じだ。何となくちょっとした汚れが気になっていてシミ落としを頼もうと思っていても、忘れてしまうことも少なくない。また、雨の日などに「ああ、撥水加工しておけば良かったな」などと思っても、預ける段ではほとんどの場合、思い出せない。
同「白洋舎スペシャルケアサロン」は背広が上下で3,570円からと、ただでさえ高額な白洋舎価格の倍だそうだ。しかし、立派に商売として成立している。
クリーニング不振の原因として、前述の通り「低価格カジュアル衣料の普及」があり、それを着る機会もビジネスシーンでのカジュアル衣料着用の許容という流れが大きいのだろう。しかし、その反面、きちんとした服はちゃんとした手入れをしたいという需要も大きいだろう。決して安くない服を預け、その仕上がりが悪ければ文句の一つも言いたくなる。事実、クリーニング業はある種、クレーム産業でもあるのだ。
モノが何でも低価格化と時間短縮に向かう世の流れに逆らい、顧客を椅子に座らせ、じっくりと説明。納得とさらなる注文を獲得するという逆転の発想。顧客とじっくりと時間を共有し、満足を高めるというこの手法からは学ぶところが大きい。
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March 14, 2008
顧客満足度調査のアンケートシートを前にしたとき、あなたはアベレージでいくつを付けるだろうか。そして、どんなときに「非常に満足」の5を付けるだろうか。
顧客満足度調査の場合、総じて日本人は暗黙の了解としてアベレージ3ぐらいを中心に採点する。対して米国では5がアベレージで不満を感じたときに点数を減点するようだ。
日経ビジネスNB onlineでそんな記事を読んだ。
「危機感駆動型ニッポンの危機!?ネガティブなニュースの濁流に流されるな」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080310/149475/?P=1
記事の主旨は、満足度調査だけでなく、教育においても両国の違いは<褒める米国、けなす日本>であると指摘する。そして、要諦は日本はニュースの記事の取り上げ方も、ネガティブアプローチで「危機感駆動型」であるが、そうしたスタイルでは今の閉塞した経済環境を打破できないというものだ。
その記事の主旨にも賛同しつつ、前段の満足度調査の部分が特に気になった。
米国で車を購入した際、販売店のサービスに対する購入者の満足度を調査を依頼された際のことだ。<諸項目について「素晴らしい(Excellent)」「とても良い(Very Good)」「良い(Good)」「普通(Fair)」「不満足(Unsatisfactory)」の5段階評価で選べと言う。普通に満足していたので「とても良い」と「良い」を中心に「素晴らしい」も少し交ぜて回答した。 >
すると、後日担当者から「何か問題があっただろうか?」と慌てて連絡があったという。なぜなら、彼らのアベレージは<「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッドスコア>だからだという。
確かに、今もホテルでこの記事を書いていて、満足度調査のシートが目の前にあり、評価が5段階になっている。ホテルの建物は少々古いが整備されていて、清掃に不備もない。顧客応対にもそつがない。普通に満足できているので3かな。まぁ、サービスして4かな。と日本人的感覚で考えていた。しかし、その結果を受け取る側の立場で考えると、また別の見方ができるように気がついた。
以前、企業で管理職をしていたときのことだ。部下の業績評価をめぐってしばしば役員と対立した。上司の評価として「多大な功績を挙げた」の5を付ける。定量的な業績貢献も、定性的な目標達成度も高く、目標管理制度(MBO)との整合も高い。しかし、役員からは安易に最高点を付けるなとたしなめられた。最高点のサービスしすぎは成長の芽を摘むとの理由で、「求めても中々手に入らないからこそ、最高点は意義があるのだ」と。
一理あるようにも思うが、あまりに手に入らないのであれば、最高得点は取れなくて当たり前になってしまうと反論するも、一項目でも5を認めさせるのはかなり至難の業だった。
独立して、現在、仕事の三分の一は講師業をしている。講演や企業・ビジネススクールで研修を行い、大学で授業をする。昨今はその一つ一つで講師は受講者から評価を受ける。
独立する以前から、講演活動は時々やっており、そこでの受講満足度アンケートを見ると、そこそこ4や5がついているのを見るとうれしく思った。
しかし、大勢のオーディエンスを前に、主に一方的に話す講演と異なり、インタラクティブな要素が多く、個々の受講生の顔や動き、発言に注目することができる研修では、受講生からの満足度の意味が異なるように感じるようになったのだ。
受講生には学びを最大化して欲しい。それ故に、一つでもわからないことを無くしたいと考える。だとすると、5ではなく4や3を付けるということは、学びに対して「不満足」というよりは「不十分」な部分があったというメッセージだと理解するべきだと考えたのだ。つまり、自らの受け取るべき得点のアベレージを3ではなく、5とセットし直したのである。
先の役員の言葉「求めても中々手に入らないからこそ、最高点は意義があるのだ」ではなく、米国式の<「素晴らしい(Excellent)」以外は「問題あり」のバッドスコア>という認識の方が実は遙かにハードルは高まる。しかし、認識を変えハードルを自ら上げることによって緊張感も高まる。受講者の一挙手一投足も見逃せない。自分の発言にも最大限の留意をするという、動き方も変わってくるのだ。
満足度のアベレージが5の「素晴らしい(Excellent)」とは、付ける側は甘く、付けられる側は奢りと思ってしまいがちだが、遙かに緊張感のある関係なのである。
さて、今日もこれから企業研修だ。取れればラッキーの5ではなく、当たり前な5となるべく、研鑽を積もうと考えている。
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March 13, 2008
今日は自戒の意味で記すのだが、ちょっと馬鹿馬鹿しいお話にお付き合い願いたい。
「考えるということは分解するということである」が、教鞭を執っているビジネススクールの合言葉になっているようだ。論理思考(ロジカルシンキング)をさらに進め、ものごとを批判的にとらえるというクリティカルシンキングが人気科目である。そこではまず、ものごとをカタマリでとらえずに、細かく分解して見て、考えることを仕込まれる。
「分解する」という考え方は、マーケティングにおいても重要だ。「セグメンテーション」とは、市場、つまり世の中をカタマリでとらえるのではなく、同質な条件で切り分けて、狙いを定める「ターゲティング」に繋げていく。
マーケティングの講師として受講者にはいつも「分解しろ!」と言っている。
例えば、「若い女性」などといった市場の分解のしかたをすれば、「”若い女性”って具体的には?」と突っ込む。「二十代前半・・・」という回答があれば、「二十代前半の女性はみんな同じニーズを持っている?」 と更なる分解を要求する。「都市部在住の二十代前半女性・・・」「都市部在住の二十代前半女性はみんな同じ?」・・・と、本当に意味のあるセグメントになるまで分解を続ける。単純かつ、大括りのセグメントからは何の意味も見えてこないからだ。
と、上記は本当に真理なのだけれど、恥ずかしながら「紺屋の白袴」をやってしまいました・・・。
このBlogの管理ページでアクセス状況を見ると、ここ一ヶ月、ものすごくアクセス数が上昇していることがわかった。来訪数で今までの倍。ページビューでは5倍ぐらい。
このサイトはどこからかのリンクではなく、ブックマークしたり、URLを直打ちして見ていただいているレギュラーユーザーの方に支えていただいている。それが、新規の流入数がやたらと増えたのだ。しかも、今まで一度の来訪で閲覧するページは、(トップページで複数の記事が閲覧できるという特性もあって)1~2ページに留まっていた。それが3~5ページに伸びている。ただでさえ理屈っぽいテキストコンテンツをいくつも読んでいただくのは大変なことだなぁと、ありがたく思っていた。
しかし、ありがたくも、何が起こったのか正直、理解できなかった。「もしかすると、今まで地道にコツコツ書いてきた成果が出たのか?」などと自惚れてみたりもした。
が、Blogを置いているニフティーがアクセス解析を少し詳細化したことでわかってしまった・・・。
来訪ユーザーの方々。もしかすると、今日もこの記事を読んでいただいている、あなたや、あなたかもしれないが、「花見」をされていたようなのだ。
このBlogには左ナビゲーション領域にフォトギャラリーを3つ設けている。金森が日課であるタウンウォッチをしながら携帯カメラで街の風景や情景を切り取った写真を公開しているのだが、その中で「桜ギャラリー2007」というものがある。昨春、歩きながら、あちこちの桜を撮影したものだ。昨年の桜の季節が終わってからもぽつぽつとアクセスがあったのだが、陽光が柔らかくなり始め、春の気配が感じられるようになってきた今月の初めからアクセスが急増したようだ。詳細化されたアクセス解析でしっかりわかってしまった・・・。
アクセス数が詳細化されるまでわからなかったといえば、明らかに言い訳になる。春が近づいた頃に、あり得ないほどのアクセスの急増が発生した。しかも、あり得ないぐらいの来訪あたりのページ閲覧数。
一つ一つ時間をかけて読まねばならないテキストコンテンツと異なり、ギャラリーの桜の画像は、一つクリックして眺めるだけ1ページビューとなる。このページビュー数の異常増加で気づくべきであった。
自Blogのアクセス変化をカタマリでとらえ、喜んでいたのは「分解せよ!」と言っている身としては誠に恥ずかしい。が、あえて失敗に学んで欲しいと思い、カミングアウトした。カタマリでとらえることを、今以上に、厳に慎みたいと思った。
とはいえ、桜の季節も近い。昨年の桜も楽しんでいただきたい。
また、予想以上にご好評頂いていることがわかったので、今年は一層、「桜ギャラリー」に力を入れてみようかと思う。基本的には都内のふとしたところで目に触れた桜を携帯で写す方針なのだけれど、もしかすると、本格的に撮影に出かけてしまうかもしれない。
なにぶん、昨日記したように、金森はカメラオタクなのだから。
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March 12, 2008
製品ラインナップはただ数多く揃えればいいというものではない。どのように製品間のポジショニング図るかという微妙なさじ加減が要求されるのだ。今回はちょっと注目したい事例をご紹介する。
注目はリコーのデジタルカメラだ。
筆者は実はちょっとカメラオタクだったりする。そしてデジタルカメラはリコー製を愛用している。リコーのコンパクトカメラはレンズがとてもいい。
フィルムカメラでリコー GR1vという機種を使っていたので、GR DIGITALという機種を買おうかと思ったのだが、せっかくデジタルにするなら、28ミリ広角単焦点レンズというのも少々不便だと思って、もう少し普通の機種にした。Caplio R3。カメラの色もローズレッド。
GR DIGITALはプロカメラマンもスナップ撮りなどで愛用している人も多いものの、やはり多少はズームがほしいという要望が高かったようで、ズーム機能の付いた機種が発売された。「単焦点でなければGRじゃない!」という声が上がらないようにしたのか、機種の名前は違うものになった。Caplio GX100。
こうなるともういけない。物欲に火が付いてあっという間に購入。前のR3と持ち物としてかぶってしまうので、もったいないと思ったのだが、実際には全くかぶらなかった。R3はどちらかというとちょっとしたお出かけに持って行くカジュアルな撮影用。GX100はここ一番でしっかり撮るぞと、気合いを入れて使う。そんなポジショニングが何となく自分の中であった。
ところが昨日、ヤマダ電機に行ったついでにデジタルカメラ売り場をのぞいたところ、リコーの3機種が並べられていて、ちょっと混乱してしまった。
GR DIGITAL II ・ GX100 ・ R8
もともとGRとGX100はズーム機能が一番の違いで、但し写真としての仕上がりのきれいさなどは、ほとんど差のない異母兄弟のような存在だ。まぁ、ユーザーがどこにこだわるかで棲み分けがなされていると言っていいだろう。
R8はそれらとは本来全く異なるカジュアルな機種だ。リコーの商品サイトでもGRとGX100は「パーソナル・プロフェッショナル」というカテゴリーで、R8は「パーソナル・スタンダード」で棲み分けている。・・・はずなのだが、実物を見るとそんな気がしない。
結論から言うと、R8の質感が妙に高いのだ。Rシリーズは数字が大きくなるほど最新機種なのだが、この8でぐっと質感が高まった。スペックも申し分ない。実際に使ってみていないのでレンズの性能などはわからないのだけれど、「スタンダード」という域は超えている。
プライシングもまた微妙。GR DIGITAL IIは63,300円。GX100が60,800円。R8が49,800円。
これは恐らく、リコーのデジタルカメラにおけるローエンドモデル伸長作戦なのだろう。
ローエンドモデルを投入すると、ユーザーの裾野が広がるという効用の一方で、既存ユーザーの離反が懸念されると、過日「BMW1シリーズの深謀遠慮」というタイトルで書いた。そんなおおげさなものではないのだが、何となくBMW1シリーズが投入されたときの3シリーズとか、5シリーズユーザーの気持ちが実感できた。
GRやGX100ははっきり言ってオタクカメラだ。そのコアなオタク・リコーファン層を同社がどうやってグリップしていくのか、これからがちょっと見物だ。
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March 11, 2008
誠に恐縮ながら、今日はコラムをお休みいたします。
昨夕から事務所の引っ越しをしており、本日は新しい部屋で荷物の整理中です。
・・・ちょっと、コラム書いていられる環境じゃなく、頭がまとまらないのでご容赦ください。
新住所は下記の通りです。
〒105-0021
東京都港区東新橋2-10-10東新橋ビル1009
電話・FAX03-3432-8279
「もう少し読んでもいいよ」という方、金森の独立以後の引っ越し歴を少し綴ってみたいと思いますので、おつきあいください。
独立を決めてから実行するまでは、2ヶ月ぐらいと比較的短かったので、仕事の仕込みはしたものの、事務所のあてがありませんでした。
自宅で仕事をとも思いましたが、性格的に切り替えないとだらけてしまいそうで、それは断念。事務所探しを始めました。
といっても、先立つものがありません。
その時、ちょうど発足したばかりの大学系コンサルティングファームに兼任で参画することになったので、その事務所に間借りすることになりました。場所は新橋と御成門と大門のちょうど真ん中ぐらい。
正確には、その事務所も、同じ出資者の持ち物であるベンチャー企業のオフィスに間借りしていたので、間借りの間借りでした。ベンチャーらしく、本当に若い人ばかりで活気があり、楽しい事務所でした。
金森のスペースは机一個でしたが、会議室も借りられたし、電話番もしてもらえ、さらに時々コーヒーまで出していただいていました。
非常に居心地のいい環境でしたが、そのコンサルティングファームとの提携解消に伴い、1年ほどでそこを出ることになりました。急なことだったので、またまた先立つものがありません。
その時見つけたのが、新橋駅前のニュー新橋ビルの中にあるレンタルオフィスです。
ニュー新橋ビルは、新橋駅のSL広場と烏森口に渡る大きなビルで、地下はほぼ飲み屋だらけ。4階までの商業施設にはチケット屋や釣具屋、マッサージ屋などなど、サラリーマンの天国のようなビルなのです。
築後40年近くなる古いビルですが、レンタルオフィスの会社はその一角を借り、間取りを小分けし、内装を整え、セキュリティーとLAN環境、共用会議室を整備します。そうして、だいたい本来の倍ぐらいの賃借料で転貸しするのがビジネスモデルです。
レンタルオフィスのありがたいことは、初期費用が全くかからないことでした。ランニング費は上記の通り、相場の倍ですが、ともかくまったく世話がかかりません。
ただ、如何せん高い。どれくらい高いかというと、坪単価7万円です。坪単価7万というと、もしかすると六本木ヒルズ並ではないでしょうか。
なので、借りられたのは1坪の部屋。2畳です。オフィスと言うより、エレベーターの中にいるような感じです。窓もありません。外の様子がわからない。建物を出てみると雨が降っていたなどと言うこともあります。なので、いつもインターネットのWEBカメラを探して、パソコンの中で銀座五丁目の映像を流していました。窓代わり。なかなか泣ける環境でした。
事務所にいる時間はそんなに多くないので、何とかなりましたが、2年が過ぎようというころ、いい加減いやになってきました。何となく、近くの賃貸物件を検索すると、「銀座中銀カプセルタワービル」が見つかりました。黒川紀章の遺作です。
「そんな貴重な物件に入れるなんて、すごいことだ!」とすぐ、不動産業者に問い合わせ。すると、「ああ、あそこ、出るんですよねぇ」とのこと。うわー、いやなこと聞いちゃったよ・・・と思ったら、出るのは「アスベスト」だそう。空調が集中管理されており、そこに石綿が使われていて、空気に混ざるとか。それもそれで、ものすごく怖いので断念。その時知り合った不動産業者に紹介されたのが、今回引っ越した物件です。
場所は新橋駅から8分ほどの第一京浜沿い。すぐ裏は、汐留の外れにあたる「イタリア街」。前に勤めていた電通ワンダーマンのオフィスがある所。3年かけて新橋界隈をぐるりと一回りしてきたわけですね。
今度の事務所はワンルームで6畳強あります。冒頭に記したとおり、まだ部屋がゴチャゴチャで写真公開できませんが、第一京浜に面した側の窓が広く、明るくて気持ちがいいです。10階建ての10階に部屋があり、写真のように東京タワーも少し見えます。
お近くにお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
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March 07, 2008
”KKD”。もはや誰もが知る略語である”KY”の親戚ではない。その遙か以前から現場たたき上げのビジネスマンにとっての精神的支柱ともいえる言葉だ。
”KKD”とは「勘」と「経験」と「度胸」。自らを強く信じて行動する判断軸とでもいえるだが、昨今ではそれは前近代的と批判されることが少なくない。
しかし、それがダメなのかと問われれば、筆者は否と言いたい。
筆者と同年代以上ぐらいの現場でバリバリ働いてきたミドル層には、やはりKKDの人が多いのだが、あるきっかけで驚くような変身を遂げることがある。そのコツとは何かはもう少し先にして、そもそものKKDとは何かをもう少し掘り下げてみたい。
「勘」とは英訳すればintuitonであり、直感力だ。もっと創造的なinspirationと解釈してもいいだろう。
「経験」practicalなknowledgeと解釈できよう。
「度胸」はこれまた直訳すればcourageだが、最終的には責任を持ってdecisionを下さす力だといえよう。
つまり、現場での実行力とマネジメント力には欠かせない要素を表わしていると言うことができるのだ。
ちなみに、一部ではKKDを「気合い」と「根性」と「努力」という解釈もあるようだが、さすがにそれは「気持ち」だけに偏っており、バランスを欠くと思うので、この際はその解釈はいったん横に置いておきたい。
さて、「勘と経験と度胸」に問題があるとすれば、それが全く個人のアタマの中に存在していたり、カラダに染みついていたりして、客観的に判断できないことではないだろうか。故に、時に失敗をする。また、失敗を繰り返す。
できるだけ失敗を回避し、成功率を高めるためにはほんの少しのコツが必要なのだ。それは、フレームワークを用いた論理的思考法である。現場力を蓄積した人間が、自らの経験を今一度、フレームワークに落とし込み、ロジカルに組み立て直すことができると驚くほどの変身を遂げる。また、思考のスピードが上がり、人に伝える力も向上するなど、その効用は大きい。
端的に言えば、いわゆる5W+1Hだって思考や伝達のためのフレームワークなのだ。
他にも、PEST、3C(4C)、5F、SWOT、VCなどの代表的な環境分析のフレームワークなど枚挙にいとまがない。
各フレームワークにはそれぞれ適した使い方やクセがあるのだが、それをふまえた上で使いこなしができると思考生産性は飛躍的に向上する。また、自分が考えやすいようにカスタマイズしたり、自分オリジナルのフレームワークを作ってもいい。
フレームワークを使う上での唯一の留意点は、情報整理に留まらないことだ。フレームワークにファクトを落とし込むと、実にうまく整理できる。しかし、それに満足してはいけない。そこから何が言えるのかという、結論。「意味合い」が重要なのだ。最終的にはdecisionmakingができなければ意味がないのである。
このBlogでも数多くのフレームワークを紹介している。是非、実際の課題解決に使ってみていただきたい。
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March 06, 2008
日経新聞3月3日夕刊・生活面の「キャリアの軌跡」。マーケティング企画会社・株式会社ハウの大隈和子社長が紹介されていた。「女は男の3倍働かないと認めてもらえない」というフレーズが印象的だった。
大隈社長は第17代内閣総理大臣であり、早稲田大学の創始者・大隈重信侯爵のひ孫。外交官の娘として豊かな海外生活を長く続けていたが、33歳で二度目の離婚を経験。初のフルタイムでの仕事を探したという。クリスチャン・ディオールの美容部長、クリニーク・ラボラトリーズの日本支社マーケティング部長を経て、87年に広告代理店と共同出資でマーケティング企画会社・株式会社ハウを設立。社長に就任した。
一見鮮やかに見えるそのキャリアの軌跡とは裏腹に、紙面で<「女は男の3倍働かないと認めてもらえない」というのが持論。そのため子育ては母らに”おんぶにだっこ”。仕事に専念するための苦渋の選択だった。>と自らを振り返っている。
菅野美穂の主演ドラマにもなった人気漫画、「働きマン」。主人公の女性編集者は、仕事モードになると「男スイッチ」が入り、衣飾・寝食・恋愛も忘れ猛烈に働く。漫画は「仕事とは何か」「働く意義とは何か」そして「一生懸命働く人にとって、男女の性差など関係ない」ということをテーマとしていると思う。
しかし、現物を見たわけではないのだが、英国のタイムズ・オブ・ロンドン紙で『「働きマン」は日本の男女不平等を覆せるか』というテーマで取り上げられた取り上げられたらしい。正に大隈社長のごとく、「女は男の3倍働かないと認めてもらえない」象徴と見られたようだ。
女性、外国人、少数民族など多様性を受容し、人材確保と活用を促す「ダイバシティー・マネジメント」も、もっぱら日本では女性の管理職登用に関心が集まっているように思われる。男女雇用機会均等法施行以来22年が経とうとしているのに、男女格差はまだまだなくなっていないことの現れだろう。
仕事において女性にハンデがあるのは事実だ。しかし、それを乗り越えようとする女性は強い。前職では部下の過半は女性だったが、皆、優秀だった。既婚者や子供のいる者、シングルマザーもいたががんばっていた。
しかし、よく考えれば「認められるために人の3倍働く」のは女性だけの話ではない。自慢するわけではないが、筆者は新入社員の時から永く仕えた上司から「いい大学を出ているわけでもないお前が人より上に出たければ3倍働け」と仕込まれ育った。いろいろな意味でラディカルな上司だったが、「人の1.5倍の時間、倍の効率で働いて、3倍やれ」という教えには感謝している。
女性は確実に強くなっている。優秀になっている。徐々にではあるが、社会も平等になってきている。「仕事に男女の差など関係ない」という論には大賛成だが、うかうかしていると危ないのはむしろ男性の方だと思う。
もうすぐ4月。新しい年度になる。ここらで男も気を引き締めて、「人の3倍働こうぜ、Men!」
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March 04, 2008
観月ありさがひたすら正義の道をひた走る主婦を演じるドラマ「斉藤さん」。その潔さに毎週溜飲を下げる人も多いようだ。その斉藤さんがドラマ中で使っている服や持ち物も静かなブームになっているようなのはご存じだろうか。
服はGAPのものが多いのだが、話題なのはカバン。斉藤さんが第1回からずっと愛用している赤いカバンだ。
番組公式サイト:斉藤さんファッションhttp://www.ntv.co.jp/saito-san/fashion/saitou/1.html「キプリング(kipling)」というブランド。http://kipling.jp/(注:音が出ます)
指しゃぶりをする、かわいいサルのマスコットが付いたナイロンバッグだ。定番色は4色あるが、シーズン毎に限定色を多数展開するのも特徴で、そのカラー毎にマスコットのサルもバリエーションが展開される。
さて、話題の斉藤さんのカバンであるが、実は上記の通りシーズン限定商品で2007年秋冬モデルのため、既にソルドアウトなのだ。あちこちのショップで探し求める人も多いようだが、徒労に終わっている模様。シーズン限定のそんな希少性を売りにしているので仕方がない。
もはや買えないモデルは仕方ないとして、定番ものや新作を購入する人も多いので、宣伝効果はばっちりだ。
テレビ番組や映画の中で企業の商品を登場させる宣伝広告の方法をプロダクトプレイスメントというが、斉藤さんに持たせて話題となったキプリングは成功事例の一つといえるだろう。
ところで、その特徴であるサルのマスコットなのだが、ショップに行くとそれだけ単品販売されている。バッグに下げられるようなキーホルダータイプや携帯ストラップもある。
マスコットだけ買われて、他のカバンに付けられたらブランド価値が低下しないかなぁと思った。
同社のカバンはメインが1万3千円ぐらい。一番小さなポーチのようなものでも、ちゃんとマスコットは付いているのだが、7千円ぐらいする。にもかかわらず、マスコット単体なら千円ちょっとなのだ。
実は妻が同社のカバンを一つ持っていて、娘がそのマスコットをほしがっていた。なので、数寄屋橋高架下にショップを見つけたので、早速マスコットのみ購入してみた。
で、早速他のカバンに付けてみた。・・・なんだか違和感がある。
なるほど、マスコットだけ買って済ませてしまう人も確かにいるかもしれないが、この違和感がいやで、ちゃんと購入する人も多いのではないかと思った。
多くの欧州ブランド、グッチにしろ、ヴィトンにしろ、携帯ストラップなんてちゃちなものをなぜ販売するのかと思ったこともあるけれど、小さなものまで統一したいというファンだけでなく、それをエントリー商品として新たなユーザー獲得ができるという意味もあるらしい。
軽い気持ちで買ったサルのマスコットなのだが、高いものにつきそうな予感がしてならない。
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February 29, 2008
どうも知らない間にトイレが進化して、すごいことになっている。日経新聞に新製品として取り上げられたINAXの「レジオ」。その極端な商品スペックと狙いを少し考えてみたい。
本質的なところではないのだが、商品紹介としてその便器が設置されているトイレの画像に、まず驚いてしまう。トイレというより書斎の趣で、「うーん」、こんなところで仕事がしたいなぁ」と訳の分からない感想すら持ってしまうのだ。
http://www.nikkei.co.jp/newpro/life/20080226e000y89326.html
もとい、商品であるそのトイレの便器・・・と、もはや便器と呼ぶのすら、はばかられるのだが、古来、便所は「はばかり」というのがまた妙な話だ。
再びもとい、商品であるが、しばらく前から高級ラインには取り入れられてきた、「貯水タンクなしトイレ」だ。<貯水タンクがないため小さく、空間を有効活用できる。>とのことだが、まぁ、上記の商品紹介写真のようなトイレはともかく、もともとあまり広い空間ではないとすれば、圧迫感を無くすため有効かもしれない。
しかし、「レジオ」のすごいところはそれだけではない。こだわりは「音」にあるようだ。<洗浄時に水を渦巻き状に流すほか、便器内の空気を吸引して水が排水口を通る際に空気と混ざらないように工夫したため、洗浄音を低減できる。>
・・・えーと、既によく分からないテクノロジーが駆使されているところが、なんだかすごい。バブルの頃からだろうか、高級なマンションのお宅に伺ったときや、高級ホテルに宿泊したとき「なんだか力なく流れるトイレだなぁ」というのが登場したのは。後に、高い便器は最初ゆっくり流れ、最後に一気に吸い込むようにできているのだと知った。
個人的には、最初から「ザザーッ!」と流れてくれた方が気持ちがいいのだが、やはり高級品に向いていない性だろうか。
だが、まぁ、そんな流れ方が好きな人もいるだろうと思うと、さらに「音」へのこだわりがあった。<使用時にジャズ音楽が流れる機能も付けた。>・・・・。排泄音を消すために水を流しちゃう人は後を絶たず、エコロジー的には良くないので、立派なソリューション(問題解決)になってはいるのだが、トイレ使用中に自動的にジャズが流れるのは、個人的には何とも違和感がある。
子供の頃、地域のゴミ回収車が「乙女の祈り」を流して毎日やってきたので、哀れ、「乙女の祈り」は「ゴミ屋さんの曲」になってしまった。「トイレの曲」になってしまうジャスの名曲は何だろう?と心配していたら・・・何と!名ジャズピアニスト・木住野佳子さん(http://www.kishino.net/html/all.html)の書き下ろしだというではないか!!
ああ、ここまで書いてきて、少し疲れた。最後、「色」。<艶(つや)を抑えた黒色など、トイレでは珍しい色使いを取り入れてデザイン性も高めた。>だそうだ・・・。確かに「カラーリングはコトラーの製品特性分析から考えれば、差別化のための最終手段だ」とかつて書いた。が、この場合は人を唸らせる「だめ押し」だ・・・。
さて、値段。55万6500円。・・・インドではタタ財閥ががんばって28万円で自動車を作る時代にですよ。一人しか座れない、しかも動かない便器に55万円!
いつも書いていることだけれど、ニーズとは、人が理想とする状態とのギャップであり、その不足状態を解消する対象物がウォンツなのだ。
だけれど、この場合は明確なニーズはない。潜在ニーズですらないように思う。「これならどうだ!」と圧倒的なスペックを提示して、「そういえばこんな機能があればいいねぇ」というニーズを喚起するやり方なのだろう。
もはやトイレの便器などのコモディー化した商品は、当たり前なニーズ対応をしていても差別化はできない。これぐらい極端にやらなければ、何不自由のない生活を送っている人々の購買意欲を引き出すことはできないのだという事例としてはとても面白いと思った。
最後にこの商品のターゲティングとポジショニングを整理してみよう。
ターゲット:生活の中にほんの少しの不自由・不満を持ちたくない人。少しでも改善ポイントを感じたら、解消し、完璧を求める人。
ポジショニング:トイレにおけるあらゆる問題を解決した究極のトイレであり、トイレを安らかなゆとりの空間に変えるソリューション。
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February 28, 2008
昨日の記事「脳科学から考えた睡眠仕事術」は、金森のヒミツの一つを明かしてみたわけだが、意外(?)にも、当初予想していたような、「そんなワケねえだろ!」的なコメントやメールもなく、今のところ平穏無事だ。
なので、せっかく自分としては少々レアなネタを出したつもりでもあるので、この話題をもう一回だけ引っ張ることにする。
「朝型にして効率がいい」「眠っている間にもものを考えている」と、事実ながら我ながらカッコつけたことを書いたものだと思う。
が、その前の日に「ものごとはオモテとウラから眺めよう」と書いたとおり、はい、ウラがあります。
すみません、けっこう「二度寝」してます。
おっと、ここでブラウザを閉じないように。昨日と同じく、科学的な、効果的な二度寝法が最後のオチなので。
仕事柄、完全に朝型にしたいものの夜遅くなることも多い。たとえばこの季節、コンサルティングの仕事は年度内に結果を出さねばならないため、クライアントとの打ち合わせやレポート作成がかなり集中している。
研修の仕事も、3月中旬を過ぎるとさすがに年度末で受講者の負担が大きいため開催できないが、さりとて今期の予算がまだ消化しきれていないとして、駆け込み需要がありがたいことに多い。そして、業務との兼ね合いで、遅い時間の開催となることもある。
で、さすがに朝が辛い。・・・辛いのだが、どんなことがあっても、出張や早朝出勤の時以外は、子供とちゃんと朝食をとるポリシーだけは曲げられない。6:15に子供とともに起床。「いってらっしゃい」と妻とともに子供を送り出すのが7:30。で、そこはそれ、アポイントがない限り出勤時間に定時というものがない自営業の強みを発揮。60分限定で二度寝。
さて、二度寝とはどんな常態かというと、昨日SNSのミクシィにコラムが出ていた。
少し転載すると<(二度寝の気持ちよさは)「二度寝の際は眠りが浅くなるため、外部からの刺激がマイルドに感じられるのが原因でしょう。起きている時でも、日なたでまどろんでいるような状態って気持ちいいですよね。あれと同じで、半覚醒の状態では光や物音、布団の触感などが、ほんわかとした信号としてキャッチされるという説が有力です」(オールアバウト「睡眠・健快眠」ガイドの坪田聡さん)>だそうだ。
結論としては、<短時間の浅い睡眠なので、疲労回復の効果としては弱い><だらだらと寝床にいるのは時間の無駄>となるのだが、実はそんなことはない。
上記の「半覚醒の状態」は実に使える。ここでも二度寝の前に脳に命題を与える。しかも「半覚醒の状態」なので、思考がある程度コントロールできる(気がする)。加えて、人々がそろそろラッシュの通勤電車に揺られている時間に二度寝しているのだから、良心の呵責から脳味噌も頑張って働こうというものだ。
そして1時間後に目覚ましをかけてあるので、茂木健一郎氏のように、目覚めてから全速で仕事モードに突入する。目覚めた時に頭に浮かんでいたものを、すぐにパソコンに打ち込むか、紙に書き入れる。この方法なかなか成功率が高いのだ。
おっと、だからといって、いつもいつも二度寝していると思われるのは心外だ。基本は朝型実践派の金森なのである。あくまで、昨日に引き続き、もう一つ自己流ライフハックをご紹介したまで。ゆめゆめ誤解なきように。・・・と自分でも言い訳なのかわからなくなってきた。ので、おしまい。
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February 27, 2008
<目が覚めるとベッドサイドのパソコンに電源を入れ、メールをチェックしブログを書き始める。いきなりフルスピードで仕事モードに入ります。>
いや、そんなカッコイイ姿は筆者のことではない。脳科学者茂木健一郎氏が自身の仕事術を紹介した日経新聞のコラムである。
<午前中が創造的な仕事をするゴールデンタイム>と語る氏によれば、<寝ている間に脳が無意識のうちに記憶を整理してくれ、体験の意味がより明確になり熟成してくる>からだという。
睡眠中における脳の無意識下の働きについては、養老孟子氏も述べている。
http://eco.nikkei.co.jp/interview/article.aspx?id=20070529i3001i3&page=2
要約すれば「人間の脳は、意識するとせざるに関わらず、昼間目にしたものや聞いたものを記憶し、溜め込んでいる。また、思考し何らかの考えも蓄積する。そうして、脳内のエントロピーが増大した状態で夜を迎え、眠る。眠りながら脳が働き整理する」ということだ。
筆者が上記リンクの養老氏のコラムを読んだのは昨年の10月だが、それ以来、目覚めた時が一番脳が整理された状態であることが分かったので、茂木氏のように仕事を朝型に切り替えた。実に効率がいい。
もう一つ実践していることが、無意識下の脳に意識的に働かせることだ。
「無意識で意識的?」と完全にロジックとしてはおかしいのだが、不思議とそれができるのだ。
眠りに入る直線。意識が少し遠のく瞬間に一つの命題を脳に与えておく。例えばコラムで書きたいと思うようなテーマの断片を。すると、眠りに落ちる瞬間までそのことを少し思考する。眠ったあとは無意識の脳に任せる。茂木氏や養老氏の言うような情報整理のプロセスを脳が行っているうちに、その命題と脳内の情報や記憶の断片が結びつく。うまくいけば、目が覚めると何んらかの考えが浮かんでいる。ベッドサイドにパソコンはないけれど、できるだけ早くパソコンに向かうか、必死にメモをとる。毎回うまくいくわけではないが、なれてくると結構、勝率がいい。
そんな話をすると、「眠っている間までそんなことをしていたら、気が休まらないでしょ?」と人に言われることがある。しかし、養老氏は<この脳の働きを裏付けている最大の証拠は、寝ていても起きていても、脳が使っているエネルギー量は変わらないということだ。> と語っている。誰しも眠っている間も脳を動かしているのだ。どうせなら、それを効率的に使った方がいいだろう。これは一つのライフハックと言えると思う。
騙されたと思って、今夜にでもお試しあれ。
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February 22, 2008
今日はコラムではありません。御礼です。
明日、2月23日は当社の設立記念日です。
なので、今日で独立してちょうど丸3年たちました。
3年間、何とかやってこられたのは、支えてくださっている皆様のおかげだと思っています。
心より御礼申し上げます。
創業当初は企画業務が中心でしたが、3年目に入ってからは、
コンサルティング、講師業、執筆が1/3ずつのバランスになっています。
自分としてはそれぞれの仕事でのインプット、アウトプットがあって
ちょうど良いバランスになっていると思っています。
しばらくはそんな比率でやっていくのかなぁと思っています。
これからもよろしく御願いいたします。
それからもう一つ。1周年。
なにがかと言えば、このBlogを平日毎日更新体制にしてから1周年です。
毎日お読みいただいている読者の方も多く、大変感謝しております。
アクセス数が毎日わかるのですが、大変励みになっております。
もっと本当に休みの日も毎日書いている人もいるので、偉そうなことはいえませんが、
読んでいただいている人がいるということを励みに、コツコツ書いてきたつもりです。
(あ、年末年始だけ休みましたが)。
一つ裏話を。
実は昨年のお盆に家族でハワイに行きました。8日間。
平日が5日ありますので、実は出発前に書き溜して、タイマーをセット。毎日7時に自動でアップしていました。
何とか休まずに続けられました。
もう一つ。
昨年10月に足の手術で入院しました。1週間。
残念ながら、事前に書き溜ができませんでした。
なので、手術日と、翌日のベッドから動けない日だけはタイマーでアップした分で対応。
その次からは、病院内の携帯が使える場所で、ひたすら親指一本で携帯から記事をアップしました。
(その様子も以前記事にしましたが・・・)。
そんなこんなで、Blogも毎日1周年。これも皆様のおかげです。
これからもご愛読いただけますよう、よろしく御願いいたします。
では、気持ちも新たに4年目と2年目に向けて全速前進!!
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February 21, 2008
ビジネスのため、自己啓発のためと、昨今様々な研修やトレーニングに参加する人は多い。せっかく参加するのだから、成果が出た方がいい。いや、出さねばならない。なので、講師でもある筆者から、参加する前後のポイントをお伝えしたい。
当サイトでも何度か紹介したが、筆者の専門領域である、マーケティングにおける「ニーズ」の解釈を少し詳しく考えてみよう。
様々な事象に対して、人には何らか理想とする状態がある。そして、現状がそれを満たしていない場合は、不足状態だ。そして、そのギャップのある不足状態こそがニーズだ。
有名な言葉「顧客はドリルが欲しいのではない。穴が空けたいのだ」。
その人は何らかの理由で目の前に穴が空いていないと困る状態なのだが、それがない。なので、そのニーズを満たす対象物として、穴を空ける道具であるドリルを欲している。この場合、ドリルは「ウォンツ」である。
さて、研修・トレーニングに参加するということは、何らか自分の理想の状態に届きたいと思ってのことのはずだ。理想との不足を埋めるというニーズだ。
自己啓発だけではなく、会社から指名された場合もあるだろうが、その場合、会社が自身の今後進むポジションに不足している部分があると判断したのだろう。
その不足状態を埋める手段として、研修・トレーニングに参加することになるということだ。つまり、研修・トレーニングは、対象物である「ウォンツ」なのである。
さて、そうした状況下で最も必要なことは、「自らの不足部分の認識」だ。
「何となく」とか、「命令されたから」と、自らの参加する研修・トレーニング内容がどのようなものか理解せずに参加するのは時間の無駄以外のなにものでもない。そして、さらに必要なことは「覚悟」を持つことだ。
そのために、筆者は一つの答えを持っている。「宣言」だ。
時間がタイトなビジネススクールや短時間の研修などではなかなかやれないのだけれど、余裕があるときには、開講から程なく、この研修・トレーニングに参加して「何を学びたいのか」「達成目標は何か」「研修・トレーニングから持ち帰りたいのは何か」を冒頭で宣言させる。
あまり意識していない。もしくは具体化していない受講生はそこで考えることになる。
その後、自らが宣言した内容を意識して受講する。
さらに最後に、受講の仕上げとして、研修・トレーニングで一番学んだものと、それを今後の業務にどう活かしていくかを、正に宣言させる。全受講生の前に立って。
計画を立てる。その計画通りに学ぶ。その後の活用計画を考える。より、学びの意味を明確にするには、それぐらいの覚悟が必要なのだ。
筆者は自身が講師を務める、いくつかのプログラム中に組み込んでいるが、そうでない研修・トレーニングに参加し、効果的に学ぶ時にも、「なりたい自分をイメージする」ことをお勧めする。研修・トレーニングは、先ず自らが「なりたい人」、つまり、「あるべき姿」をイメージすることが重要だ。そして、その「ニーズギャップ」を認識する。宣言のように声に出さなくともいい。
筆者は受講生に講義のはじめに5分間与え、「今回の研修・トレーニングの自分のゴールをテキストの表紙に明記してほしい」と指示する場合もある。要するに、表出化させることが重要なのだ。そして、プログラム終了後、達成度をチェックさせるのである。
研修・トレーニングの重要性が個人にも企業にも高まっていいる。そこに費やす自らの貴重な時間を無駄にしないためにも、達成目標イメージを明確に持って取り組むことを切に願う。
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February 20, 2008
鏡に向かって目に映るあなたの顔。それに満足していますか?特に30代、40代以上の方々・・・。
「30歳を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持て」。それを言われたのは、小学校3年生の時。9歳。言ったのは二十歳そこそこの新米の女性教師。とてもいい先生だったが、今にして思うとなぜその年齢の彼女が十にも満たない子供にそれを伝えたのかは謎だ。「自分の行動に責任を持て」というメッセージだったのだろうかと思う。意味は理解できないまま、ずっとその言葉は記憶に残っていた。
さて、30歳になりました。その頃、ちょうど3つめの会社に転職。自分の顔つきといえば、「30になってもまだまだ若いじゃん」ぐらいの感覚しかなかった。
さて、数年前、40を過ぎた。さすがに「若いじゃん」はない。しかし、問題はそこではない。元々、色々と考え込むクセがあった。「ゆとりある人生・暮らし」にあこがれつつ、常に時間に、仕事に追われる境遇に自らを追い込むクセがあった。結果として、眉間に常にシワができた。
眉間のシワならまだちょっと渋い感じもする。往年の名優、天知茂 (あまちしげる)、代表作「非情のライセンス」など、ゴルゴ13実写版か思うほど、今、思い返してもシビレる。
が、問題は眉間ではなく、口元なのだ。「口角」というらしい。広辞苑によれば、「口の左右のあたり」。眉間にしわが寄っているぐらいは自分としては許せた。いや、むしろその渋さを演出しようとしていたフシもある。が、口を”へ”の字に曲げるクセが、いつしかついていた。
これはいけない。口をへの字に曲げると頬にシワが寄る。いや、それだけではない。どうにも気む難しく、かつ貧乏ったらしい表情になる・・・ように感じる。朝、鏡に向かう度にその表情と対面するのだ。この先人生が何年あるのかは神様しか知らないのだけれど、鏡を見る度にこの男の顔と相対するのは少々つらいと思っていた。30歳では感ず、40をいくつか過ぎて、先生の「自分の顔は自分で責任を持て」が現実化されたのだ。親の遺伝子のせいではない。生き様が顔に出るのだと。
そんな日々の悩みなのか、懊悩というレベルまでなのかわからない思いを胸に秘めている中で、書店で雑誌をふと手に取った。小学館の「サライ」2月21日号。第一特集は「城山三郎の生涯に学ぶ」だ。
城山三郎については、以前このBlogで”品格ブーム”へのアンチテーゼとして、「粗にして野だが、卑ではない」「男子の本懐」を紹介した。ちょうど没後一年だという。
彼の人は「気骨の人」と評される。「気骨」とは広辞苑をひもとけば<自分の信念に忠実で容易に人の意に屈しない意気。気概。>とある。その信念の源泉が紙面で紹介されていた。<人生を強靱に生きるには、自己を保つ、実績を積む、親しい人を大切にする>と。
そうして生きた男の顔が、紙面で歳を追って紹介されている。
何ともいい顔だ。憧れ。いや、むしろ「男惚れ」という言葉がふさわしいかもしれない。
カメラをしっかり見据えたその視線はどこかやさしい。
そして、最も注目すべきなのは、その口元だ。
どの写真を見ても、必ず口角は引き上げられている。常に微笑を絶やしていないのだ。「微笑」といっても形だけの「スマイル」や「チーズ」ではない。何とも見る者に語りかけるような笑みなのだ。今はこの世にない男に、「なぜ、こんな素敵な顔ができるのか」と、嫉妬すら覚える。
享年79歳。「気骨の人」は常に口元に笑みを絶やさなかった。そんな男になりたいと思った。
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February 19, 2008
パワーポイントを開いてプレゼンを作成しようとしたとき、あなたは先ず何をするだろうか。
一概に「これが正解」というほど、プレゼンやパワーポイント使いの達人ではない。だが、つとに思っていたことを少し記したい。
謎解きのような問いかけをしてオーディエンスを引き込み、最後に「これだ」とばかりの結論を示して、「なるほど!」と膝を叩かせる。そんなプレゼンは聞いていて実に面白い。広告代理店がクライアントに提案するときなどによく用いられる手法だろう。だが、これが一般的かというと、実は特殊な手法だと思った方がいいと思う。
報告や提案などプレゼンの目的は多々あれど、基本は「結論先だし」ではないだろうか。特にオーディエンスがエライ人な場合はなおさらだ。しかし、多くのプレゼンを見ると、「だから何が言いたいの?(So what?)」な展開が実に多い。別にエライ人でなくとも、今日のビジネスは時間が勝負だ。プレゼンを楽しんで聞いている時間などないのは誰も同じことなのだ。
では、なぜ「結論先だし」にならないのかと考えると、日本語という言語の特性がそうさせるのかもしれない。少々物騒な例えだが、外で「おまえ!、ぶっ殺してやる!」と叫んだ人間がいるとする。すると、目の前の対象者は「おまえ!」で自分に何かが起こることがわかる。同時にその他大勢はその時点で対象外だ。続く「ぶっ殺してやる!」でその当人は慌てることになる。英語ならどうか。”Kill you!”先ず、”Kill”で「おいおい、危ないやつがいるな」とその場の全員が警戒する。何が起こるか結論がわかるからだ。このほど左様に、我々は「結論先だし」に関してはハンデを負っているといっていい。
しかし、今日のビジネスは「結論先だし」が求められている。日本語のせいにはしていられない。もう一つ問題があるとすれば、パワーポイントが求める「お作法」ではないだろうか。
パワーポイントを起動すると、最初にスライド画面が表示される。ロジカルにプレゼンを構成しようと思ったら、本来的にはアウトラインで階層構造をもって書き進む方がいいと熟練者は言う。しかし、パワーポイント2007になってから、アウトラインでも、スライドと同じ画面表示になってしまった。パワーポイントは実にうまくお絵かきができるので、やはりスライド画面で図表を使いながらプレゼンを作り込んでいくのが好きな人が多いからだろう。実は筆者もそうなのだが。
くせ者なのは、起動時に「クリックしてタイトルを入力」と表示されることだ。プレゼンの表紙、各ページのタイトルを言われるまま、「何となくこんな感じかなぁー」と入力する。そして「クリックして本文を入力」と言われるままに、本文を書き進む。そのページ終了。また、次のページも同じこと。そして、そこは悲しき「結論先だし」の苦手な国民性からか、タイトルは「こんなことをここで述べます」という宣言になり、ページの最後でも何となく結論が出ているような、出ていないような構成になるケースが多い。
いろいろなプレゼン作成方法があるので、「これが正解」と言うつもりはないのだが、「結論先だし型」にするのであれば、実はページのタイトルはキモなのだ。各ページで一番言いたいことがタイトルになっているとわかりやすい。そして、各ページのタイトルをつなげば、そのプレゼンの概略がわかるようにするとオーディエンスに言いたいことがきっちり伝わるはずだ。
ここで問題なのは、「クリックしてタイトルを入力」と表示されるパワーポイントが促すお作法だ。もしかすると英語のS・V・Oでものごとを考える、パワーポイントの故郷、米国人たちはそれでうまく作れるのかもしれないが、我々には向いていないように思う。タイトルは最後に。もしくは最後にきちんと書き直すという習慣が必要なのだ。
ほんのTipsだが、これだけでプレゼン内容が随分と変わるはずだ。騙されたと思って一度おためしあれ。
おっと、このコラム、「結論先だし」になっていませんね。ちょっと、引き込んで最後に結論を提示する構成にしたかったと言えば言い訳になりますか・・・。
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February 18, 2008
遅ればせながら電波腕時計を買った。それを機に、少し「時間」というものについて雑考してみた。
腕時計はどちらかというと、クラシカルな手巻きや自動巻が好きで、1分2分ぐらい日によって時間が狂うぐらいの愛嬌のある物の方が好きだ。しかし、新しく作った企業研修のプログラムは、短い時間の刻みでワークの指示を出す設計にしてしまったので、ストップウォッチ付きのとにかく正確なやつが必要だったのだ。
電波腕時計は1995年にカシオが発売したのが最初なので、今回買ったのはその末裔にあたるようだ。時間の正確さを尊ぶ国民性からか、正確な数字はわからないが日本は世界でもダントツに普及しているらしい。大勢の人の腕で、ほとんど狂いなく、同じ時を刻む時計。それこそが価値なのだけれど、なんだか少し気持ちが悪い気もする。
土曜日の日経新聞の記事。ゲーム機Wiiの快進撃を阻む物は何かというと、ソニーのPS3でもマイクロソフトX-BOXでもなく、PCや携帯を意識しているという。そして、何より生活者がゲームで遊ぶことに時間を振り向けてくれるかが一番問題だとの主旨だった。確かに今日の生活の中では「時間がない」ということばかりだ。ひたすらゲームにに熱中する時間を取れる人も、そう多くはないだろうと思う。何度もこのBlogで書いているように、今のビジネスは、生活者の財布の中の可処分所得を取り合うのではなく、可処分時間の取り合いなのだから。
とはいえ、もう少しだけ誰しもゆとりを持って暮らせないかと考えてしまう。
電車やエレベーターを降りるとき、最近感じるのだが、昔より乗り込んでくる人のタイミングが早くなっていないだろうか。まだ動作が鈍くなるほど老いてはいないので、確かに早くなっているのだと思う。降りる人がきちんと全員降りてから乗る。幼稚園で習うことだ。「待てない」人が増えているのではないだろうか。世の中からどんどんゆとりが消えているように思う。
あるBlogで、面白い記事を見つけた。
大阪弁では忙しい、落ち着かないを表わす「忙しない」を二つに分けているようだ。『せわしない(忙しない)』『イラチ(苛ち)』。その二つの違いは「イラチは、体はここにあっても、気ぃがここにない人。せわしないは、ちゃんと話は聞いてくれる」だそうだ。
何やら、最近の忙しない世の中の正体は、実は「イラチな世の中」なのではないかと思う。
どんなに忙しくても、人の話をきちんと聞くゆとりだけは無くさないようにしたい。
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February 15, 2008
「傾奇者・かぶきもの」という言葉が頭に浮かんだ。
傾奇者とは、端的に言えば、異形と異様な振る舞い、突飛な行動を愛する者のこと。その言葉が世に広く知られるようになったのは、原哲夫の歴史漫画「花の慶次 -雲のかなたに」の影響だろう。1990年に少年ジャンプで連載され大人気となった作品は、前田慶次郎利益の生涯を描いた隆慶一郎の歴史小説「一夢庵風流記」が原作だ。
傾奇者のスタイルといえば、漫画で描かれたように、女物の着物を羽織ったり、動物の毛皮を用いたりと、常識外れの派手な装束に代表される。しかし、彼らは地味な着物に袴。腰には二本差しと、正統な侍のスタイルである。それが、バンドをやっているのでなければだ。
「和装侍系音楽集団・MYST」と名乗っていた。ストリートライブを見かけた。全国で年間300回のライブをこなす強者であるらしい。その怪しい出で立ちとは裏腹に、奏でる音楽は本格的である。近頃のJ-POPというものには明るくない筆者であるが、恥ずかしながら、かつてはバンドを組み、ハードロックに傾倒していた。その筆者をして唸らしめる魅力が彼らの音楽にはあった。リズミカルではあるが、軽くはない。しっかりしたメロディーは聴く者に訴えかける。「己の生き方はそれでいいのか」と。見かけだけではない。正統にして傾(かぶ)いている。それが彼らの音楽なのだ。
「何者だ」と問われれば、「怪しい者です。しかし、悪しき者ではありません」と応えるようにしているが、筆者もビジネスマンとしてはかなり傾いたスタイルではあると思う。特に独立したからは、自分自身が広告看板のようなものだから、なおさらだ。
しかし、そうした出で立ちも中身あってこそ。見かけだけといわれないように常に努力を欠かしていないつもりだ。
筆者が好んで用いるフレームワークに、モノの提供価値構造を分析するフィリップコトラーの「製品特性3層モデル」がある。それで考えれば、出で立ちは一番外側の「付随機能」にあたる。製品の中核たる価値を表わす「コア」、それを実現する「実体」。その外側の、なくてもいいが、あればコアの価値をより高めるものである。つまり、コアがしっかりしていなければ意味をなさない。
異様な出で立ちのバンドマンたち。そのしっかりとした実力に、自らのコアももっと強化しなくてはと思った。
和装侍系音楽集団・MYST ホームページ http://www.kagami.tv/
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February 13, 2008
また一つ、流行の予感がした。「デジタル写真たて」。
http://www.dream-maker.co.jp/index.html
デジカメの普及に伴い、通常のフォトフレームのイメージで、小さな液晶をはめ込んだフレームにSDカードなどの撮影済みメディアを入れ、写真を楽しむ。プリントした銀塩写真と異なり、スライドショー機能で複数の写真を楽しむことも可能だ。
そんな商品に少し違った意味で、流行の予感を感じた。
土曜の夜に久々にテレビを見た。テレビ東京の「美の巨人」。その日はルイス.コンフォート.ティファニーの物語。宝飾王・チャールズ・ティファニーの息子だ。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/onair/index.html
彼は父の家業を継がず、画家を目指した。そして、パリ万博でガレに触発された。エミール・ガレ。アール・ヌーボー・ナンシー派の指導者である。
ルイスが目を見張ったのは、ガレが作り出した「透過光の美しさ」。ガレは彼の代表作である「ガレ・ランプ」というテーブルランプを通して色ガラスの美しい世界を形成した。そしてルイス.コンフォート.ティファニーもランプを製作し、大成功を果たす。しかし、そんな彼が最も傾倒したのはステンドグラスである。彼が魅了されたのは、光を通した色。つまり、透過光の美しさだ。
実は筆者は写真マニアでもある。中学・高校は写真部にも属していた。そして写真の一番の美しさはスライドフィルムをブライトボックスに載せ、ルーペを通して覗いた透過光だと思った。暗室で印画紙に映像を映し出し、刻み込むことはとても楽しいことだけれど、美しさは実は透過光のほうが上なのだ。
さて、流行の予感だが、「デジタル写真たて」だ。デジカメ全盛時代の今日、液晶で手軽に透過光の美しい写真を楽しむことができるようになった。しかも、その美しい写真をスライドショーで複数楽しめる。まだまだ大ヒットとはなっていないが、近くブレイクする予感がするのである。
ルイス.コンフォート.ティファニーを魅了した透過光の美しさを家庭で手軽に楽しめる時代になった。なんともありがたい世の中だ。
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February 12, 2008
新幹線が停まるあるスキー場の駅。数年前に駅を大改装して、どことも代わり映えしないみやげ物コーナーを、地酒と地元の味覚を並べる駅ナカ商業施設に変え、以来シーズンには大盛況となっている。
その商業施設の繁盛の秘密は、地酒がテーマなので、造り酒屋風の手の込んだ内装で統一されていることも一つだろう。同じ商品も見せ方一つで魅力が変わる。
いや、見せ方だけではない。テーマ性も重要な要素となっている。前述のとおり、テーマが地酒と地元の味なので、全体に”和”な雰囲気が店内装飾ともよく調和している。普通の土産物屋に陳列されれば、あまり魅力的でない漬物や海産の干物類(塩干物・えんかんもの)や瓶詰めさえ、なにやらありがたく見える。さらにそのカテゴリーの商品の中に、「おや?」と思う、ほかの土産物屋では目にしたことのない商品がいくつか発見できる。そのいくつかの目新しい商品は、ほかでも目にする商品に新たな輝きを与え、併売を促進する効果がある。
その店には、基本的には駅併設のみやげ物店であるにもかかわらず、スーパーでおなじみの買い物カゴが設置されており、一人当たりの客の購買点数、購買額はかなりのものに上ると目で見てわかる。
ところが、「実にもったいない」と思われる店舗オペレーションを目にした。
3連休の最終日。明日からの予定に備えて日のあるうちに新幹線に乗り込もうと、スキー客が余裕を持って駅に押し寄せる。時間に余裕を持つと、意外と時間が余る。もしくはそのために時間を捻出した客もいるだろう。結果として店はその魅力もあいまって、買い物客を大量に吸引しごった返すことになる。
店が繁盛することは結構なことなのだが、困ったことにレジには大量の列ができる。連休のピークに合わせた台数を設置したら、普段は稼働率が悪くなりすぎるのはわかるが、それにしても長すぎる列。
筆者はほんの少しの商品を購入しようと思っただけなので、列を見た瞬間に、即座に撤退。しかし、時間をかけて選別したであろう商品を満載した買い物カゴを放棄して出て行く客も散見される。
駅で買い物する客を支配している絶対的なものは、「列車の出発時間」だ。その時間とレジの待ち行列の兼ね合いを計り損ねた客の時間感覚も問題だが、そこまで列を伸張させてしまう店も問題ではないだろうか。いや、問題というよりもったいない。
もっともったいないと思うのは、そうした混雑を極めたレジの状況にもかかわらず、店内ではさらに販売促進の掛け声が購買を煽っていることだ。
その店の繁盛の秘訣のもう一つの要素は、惜しみない試食サービスだといえる。各商品の前にはどんどんと試食サンプルが供される。買わないのに手を伸ばしにくいなぁ、と思う筆者のような感覚とは違うのか、まず食べてみる。ほかも食べる。いっぱい食べておいしいものを買うという人が多いようだ。試食の効果は満点だ。
しかし、その試食もせっかく商品を決定して買い物カゴに入れてレジに並んでも、会計前に列車の出発時刻が来てしまっては意味をなさない。
その商業施設の戦略はバッチリあたっているのだろう。しかし、もう少し「オペレーション」を見直してみてはどうかと思う。既存のレジに加え、臨時のレジを開いたり、店内販促をやっているコーナーで、単品商品購入を受け付ける会計行うなど、せっかくの販促効果をスポイルしない方法を考えればよいのではないかと思う。
いやいや、そんなことをせずとも、多少、あきらめて帰る客はいても、大勢の客がたくさんの商品を結局買って帰るのだ。などとということは思っていないだろうか。度が過ぎた賑わいはただの混雑。混雑した店はどんなに店内装飾や商品が素敵でも魅力を失うものだと思う。
戦略とオペレーションは一体なのだ。
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February 09, 2008
※昨日アップができませんでしたので、週末ですが1日遅れの更新です。
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人の輪の中をのぞき込んだときには、そのパフォーマンスは終わりを迎えようとしていた。POPINというのだと後でわかったが、わかりやすく言えばロボットダンスやマイケルジャクソンのムーンウォークのような不思議な動きをするストリートダンスだ。無言で体を動かし、何かを訴えかけているように感じられる。
人々の拍手の後、パフォーマーは「終わる直前に最前列から観客が立ち去ってショックだった」と言った。笑いを取るための発言ではなかった。真剣な表情で言っている。ストリートパフォーマンスは見るも立ち去るも自由が原則のはず。何とも挑戦的な言葉だ。
続けて自己紹介として、自分はどんなコンペティションでどんな受賞歴があると述べた。さらに、あと6分間真剣に見てくれと発言した。
ではその挑発に乗ってやろうと、最前列に陣取った。ダンスが始まり、なるほど、確かに言うだけのことはあると感心した。彼の身体は常識では考えられない動きを見せ続ける。その体術を会得するにはどれだけの努力を要するのか想像もできない。
やがてありがとうございましたと、彼は頭を垂れた。観客からは大きな拍手。
しかし、筆者には少々納得がいかなかった。無言で何かを訴えかけるようなダンス。しかし、どうにもその訴えかけていることが伝わってこなかったからだ。ストーリーが見えなかった。
その疑問を彼にぶつけてみた。すると思わぬ答えが返ってきた。
自分はストーリーを語ろうと思っているのではない。観る人が何かを想像できるように心がけているのだと。
さらに彼は続けた。昨今のアーティストは主張が強すぎるように思う。自分がこう思う、こうあるべきだと人々に訴えかけるのではなく、想像力を喚起させることの方が大切なのではないかと。
筆者の仕事である講師業も、執筆も、コンサルティングも、いかにロジックを構築し、相手を設計したとおりの落としどころへ導くかが肝だ。しかし、同時に相手に「考えさせる」という行為を喚起することも実は重要なのだ。語りすぎない。考えさせる。若いパフォーマーから少し学んだ。
パフォーマーのサイト:http://www.kerapop.com/
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February 07, 2008
車が売れていない。若者の自動車離れに加え、原油高を背景としたガソリンの高騰と、さらには環境意識の高まりから不要不急な自動車利用を控える動きもある。自動車を使わなければ暮らしが立ち行かない地方でなければ、さらにユーザーは減っていくだろう。
そんな中で、エンスーとも言われる熱心な自動車ファン、特にちょっと大人な層を狙ったと思える車が発売されたニュースを見つけた。
マニアックな商品で自動車販売総数が大きく変わることはあり得ないが、何となくブームの萌芽が感じられる。
一つが「monoCRAFT DA1」。オートバックスセブンが、ダイハツ工業の軽オープンスポーツの名車「コペン(COPEN)」をベースにしたカスタマイズカーとして発売した。
http://waga.nikkei.co.jp/vehicle/car.aspx?i=MMWAh1000004022008
もう一つが光岡自動車の「ガリュー204」。こちらはトヨタ自動車の「カローラ・アクシオ」をベース車両に、クラシックな外装を施したものだ。
http://car.nikkei.co.jp/news/newcar/index.cfm?i=20080205c0000c2
どちらも機能的には定評のあるベース社を用い、さらにカスタマイズによって付加価値を高めている点が特徴だといえるだろう。
もう一つのポイントはコンパクトさだ。従来の「ガリュー」は中大型セダンをベース車両とした大排気量車だったが、今回は5ナンバーで登場させた。「monoCRAFT DA1」もベース車に軽自動車のスポーツカー「コペン」を選んでいる。車にこだわるエンスーとはいえ、昨今のガソリン高騰は頭の痛い問題だろう。「こだわりの小型車」はそんな問題を解決一つの形ではないだろうか。
「こだわりの小型車」といえば、カスタムカーではないが、「フィアット 500(チンクエチェント)」の日本発売が3月に控えている。
http://waga.nikkei.co.jp/vehicle/car.aspx?i=MMWAh1001015012008
あのルパン三世の愛車が30年ぶりにニューモデルとして復活するのだ。ローバーのミニがBMWに移籍してニューモデルが発売されたのが日本では2002年。大きなブームとなって、ミニの人気は今でも衰えていないが、フィアット500はそれに勝るとも劣らぬ話題になりそうな気がする。
李御寧が ”「縮み」志向の日本人”で指摘したとおり、小さい物好きな日本人としては、「こだわりの小型車」からは目が離せないだろう。
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February 05, 2008
随分と久しぶりで、前回訪れたのがいつなのかも思い出せない。新しい通帳を発行するために銀行に来て思った。結局、記帳機で続きを記帳しながら新しい通帳が発行できるので、窓口に並ぶことはなかったのだが。
別に並ぶのが好きなのではない。むしろ嫌いな方だ。しかし、考えてみると、銀行の顧客接点は、顧客をどんどん遠ざける設計になっているのだなと気づく。
昔はどんな取引でも窓口に並ぶことになっていた。それがATMによって銀行の入り口で用事が済むようになった。銀行間が提携して、他銀行のATMも利用できるようになって、自分の口座のある銀行に行かなくなった。インターネットやコンビニエンスストアでも取引できるようになって、銀行という所に全く行かなくなった。
大きなポスターに、「住宅ローンのことなど、お気軽にご相談ください」と書いてあるものの、これだけ店頭から遠ざかっていたのでは、なかなか改めて出向いて相談するという行為はしにくい。もう10年も前に組んだローンなので、見直しなどした方がよいのだろうけど。
考えてみれば、証券会社もそうだ。もうずっと支店に行って人と話すと言うことなどしていない。持っている株を今はあまり動かす気はしないけど、少しは情報収集がてら、話を聞いてみてもいいのだろうが、どうも腰が重くなってしまう。
もちろん、銀行も証券会社も、対面接客に値する富裕層には手厚いコミュニケーションを行っているのだろうが、一般層とは随分と距離が開いているのが実際だ。
顧客にとっては便利であり、企業にとっては効率的。両者の利害は一致している。しかし、それだけでは割り切れない何かを感じるのは、単なるセンチメンタリズムだろうか。
「かんぽ生命・保険料の集金原則廃止・三菱UFJニコスと提携引き落とし拡充」との記事が新聞に載っていた。今まで山間地から離島までくまなく集金をしていた職員を、新規保険獲得の営業担当として効率化を図る。集金業務圧縮で年間数十億のコスト削減も図れるという。
民営化によって効率を追求しなくてはならないのは当然だが、ここでも一つ、対面での顧客接点が消えたわけだ。
既存の流通に比べ、通信販売も伸びている。ネットスーパーも活況だ。金融取引だけでなく、買い物もどんどん非対面化していく。
便利で効率的な非対面の関係でも、いざとき、顧客も企業もお互いの顔を思い浮かべられる関係でありたいと思うのは無理というものだろうか。
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February 01, 2008
母校・東洋大学の図書館にいる。調べ物をしながら仕事をしたいと思ったのと、気分を変えつつ、集中力を高めようと思ったのだ。期末のテスト勉強のため館内には学生があふれ、その様相もなかなか鬼気迫る感がある。こちらの集中力もつられて高まろうというものだ。
少子化で大学は懸命の生き残りを図っているが、東洋大学はキャンパスを倍の広さにするなど強気の戦略を展開している。それ以前にも校舎の全面建て替えを行っており、筆者が通っていた頃のキャンパスの面影は全くない。
講師をしている青山学院大学のような、いかにも大学のキャンパスらしい雰囲気と、伝統ある校舎も捨てがたいが、実際にそこに通う学生としては使い勝手が重要だろう。この東洋大の図書館は蔵書量だけでなく、その検索のしやすさや、閲覧や勉強のためのスペースの広さ、ネットワーク環境など、とても充実している。
しかし、変わったのはハードウェアだけではない。大学の教育体系も変わった。
東洋大学の現在の教育内容は知らないので青学の話になるが、例えばシラバス。昔の「履修要項」では授業の概要程度しか、学生に提供されなかったが、シラバスは科目の狙い、授業の概要、1回ごとの授業内容、教科書・参考書、成績評価の方法・基準などについて詳細かつ、具体的な記載がなされる。学生はこれで真剣に授業選びをしているようで、講師としては、学生に響かないシラバスを書いてしまうと人が集まらずに寂しい思いをすることになる。青学のシラバスを書くときには結構真剣になったりする。
学生による教員の評価も昔はなかった制度だ。授業内容、教材のわかりやすさ、教員の熱意など様々な項目が期末のアンケートで収集され、教員にフィードバックされる。3年連続でありがたいことに高評価をもらっているが、大学から結果が送られてくる時には結構ドキドキする。
大学と産業界の結びつきも強まっている。企業からの寄付講座や、筆者のような講師を招くということも多くの大学で行われている。学生には実践的なビジネスの話を聞くいい機会となっているだろう。
恵まれた設備、カリキュラムがそうさせるのか、はたまた、学生の気質が変わったのか、どうも講師をしているとずいぶんと自身が学生だったときとの違いを感じる。シラバスを真剣に見るというのもそうだ。「いかに楽に単位が取れるか」で判断するのではないのだ。せっかく出席しているのだから、ちゃんと出席をとってくれと学生から促されることもある。・・・まぁ、まじめな学生だけではないのだろうが、総じて筆者が学生だった頃よりきちんと学んでいる。再び東洋大学の図書館の風景を見回して思う。この図書館の盛況さ。昔はテスト前でもかなり閑散としていたのに。
社会に出てからの彼らの活躍にも期待したい。
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January 31, 2008
価格戦略におけるプライシングの大きな方向性は2つ。「スキミング」か「ペネトレーション」。
「スキミング」は高価格・高利益を目標として、市場の上澄みをすくい取るり、早期に投資回収を図る。競合が参入してきたら、じりじりと値下げをするか、さっさと撤退する戦略。
「ペネトレーション」は低価格で市場に浸透させ、早期にシェアを獲得。大量生産・大量販売で固定比率を下げる規模の経済を効かす戦略。
さて、そのペネトレーション・プライシングをとったのではと思える、ASUS社の「EeePC」。別名「199ドルノートPC」。
日本での発売価格はOSをLinuxではなく、Windows XP Home Editionとしたため49,800円だが、圧倒的なロープライスであることは間違いない。
CPUはIntel モバイル。液晶は800×480の7インチカラーTFT液晶。記録媒体は4GBフラッシュメモリドライブ。バッテリー駆動時間は3.2時間。
予約してしまった・・・。衝動買い。
実はEモバイルの端末申し込みをしようとヨドバシ店頭を訪れたら、クロスマーチャンダイジング(抱き合わせ)で何と3万円。しかも、Eモバイル端末も2回線目なので無料!
通信キャリアのレベニューモデルは典型的な「アフターマーケティング型」。Eモバイルは2年間契約なので、違約金に縛られ、ロックインされることになる。初期に特典として顧客に与えた分のコストは、月額4,980円の定額制、2年間で119,520円は確実に回収できるわけだ。
が、それをわかっていても「通信端末を買うと、PCが3万円で付いてくる」というようなキャンペーンは、なかなかインパクトがある。ASUS社のペネトレーション戦略の賜物だ。
ペネトレーションプライシングは微妙に安くとも効果がない。競合が参入意欲をなくすぐらいの低価格を実現しなければ、あっという間に競合も低価格戦略を打ち出してきて、血みどろの戦い、”レッドオーシャン”となってしまう。つまり、そこには競合なき”ブルーオーシャン”が実現できるほどのイノベーションによって達成されたプライシングであることが理想だ。
では、ASUS社はブルーオーシャンを開けたのかというと、残念ながらそうでもないようだ。
海外ですでにEeePCと同価格、少しスペックが上のノートPCが発売されている。Everex社の「CloudBook」。
筆者のメインマシンであるPanasonic CF-W7はカスタマイズしまくった結果、35万円以上の価格で購入することになった。他にも高価なPCはまだまだある。しかし、一つの流れとして低価格化に拍車がかかるのは否めないだろう。極端な低価格機は価格なりのスペックで、安さとトレードオフになっている部分も現実にある。しかし、割り切って使う人も多く出てくるはずだ。
かつて、電卓は非常に高価で貴重品だった。それが昨今は文房具店の店先で、ビニール袋に入れられ、つるされて売られている。技術の進歩とはこういうものなのだろう。ノートパソコンがそんな風に売られる日も遠くないと感じる。事実、すでに通信端末のオマケのようにして筆者が購入したのだから。
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January 30, 2008
このカオス(混沌)から何が生み出されるのか。
ア−ティストは躊躇なく筆を走らせていく。下書きや設計図があるわけではないのに。
そして・・・
こんな世界が描き出されていった。
こんな世界。
場所は東京国際フォーラムのミュージアムショップ。
アートを扱う店らしい試みだ。
それにしても、アーティストの全身を使って作品を創造していく姿には感動させられた。
アウトプットをしていく。創造するというのは、斯様な行為なのかと。
以前拝聴した一ツ橋大学イノベーション研究センター教授米倉誠一郎氏の講演。
「イノベーションは言葉にならない。だから懊悩し、身悶えながら捻り出していくのだ」という言葉が印象的だった。
では、物書きの端くれとして、自らはどのような過程を経てアウトプットしているのかと省みる。
ある新聞社のデスクとの会話。
最近のものを書く姿勢は、「感触が伴っていない」という。
原稿用紙に文字を刻み込んでいく感触。
機械式のタイプライターの、文字ごとに重さが異なるキーを押し込んでいく感触。
そうした感触なしに、一律に軽いパソコンのキーボードから紡ぎ出されていく文章というアウトプットはどこか軽くないかと。
決して回顧的な意見ではない。
米倉教授の講演にあるように、アーティストの活動にあるように、創造的行為には動きが伴っているべきなのかもしれない。
しかし、考えてみると決して自らの創造も動きを伴っているように思う。
パソコンのキータッチにこだわる人は少なくない。筆者もそうだ。
そのキータッチは一律だけれど、書こうと思った文章が頭に浮かぶと同時に、タイピングの指の動きが同時に浮かんでくる。
創造するということは、心、頭、身体の相互作用でなされるものなのだと、アーティストの姿から感じた。
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January 29, 2008
JR東日本の社内中吊り広告で気になる調査データを発見。「毎日朝食を食べる子供ほど、ペーパーテストの成績が高い傾向」というもの。何となく違和感を覚えた。
電車の中で一瞬見ただけで細かい点を忘れてしまったのでWEBで検索すると、大本の調査結果が出てきた。http://www.hayanehayaoki.com/database/tairyoku.html
子供の生活習慣の悪化を食い止めようと、一昨年「早寝早起き朝ごはん運動」を開始。活動推進母体として全国協議会が設立され、各地で啓発活動を行っているという。調査もその一環のようだ。
活動主旨を見ればとても賛同できるのだが、しかし、件の調査はどうもいただけない気がする。
確かにグラフを見れば朝食を「必ず摂る」「たいてい摂る」「摂らないことが多い」「全く、またはほとんど摂らない」という回答毎に、各科目のテストの成績が大きく異なり、有為な因果関係があるように見えてしまう。しかし、当たり前だが朝食を摂ればテストの成績がよくなるわけではない。「勉強時間に差異がないが、朝食摂取の有無で得点に開きが認められた」などの事実があるのであれば、まだわかるが、そんなデータは示されていない。
因果関係が合致しないのに断定的な結果を提示する。これは「バイアス」というものだ。結果ありきでそれを補強する事実を集める「確証バイアス」。
同協議会の主旨である「早寝早起き朝ごはん」に代表されるような、規則正しい生活を送れば学習意欲も向上し、計画的な学習を行うようになり、成績も向上するということを言いたいのだろう。しかし、それを述べるためにデータを後付けしたような調査結果はどうもいただけない。せっかくの立派な活動主旨が台無しになってしまうのではないだろうか。
しかし、こうした因果関係が明確でないものでもそれらしく語られることは世の中で数多い。
例えば、「インフルエンザの予防接種を受けている人は風邪をひきにくい」ということを語る人がいた。当然、インフルエンザのワクチンは普通の風邪に効果はない。にもかかわらず、差異があるとしたら、予防接種を受ける人は健康意識が高く、うがい、手洗い、マスク着用などを行っているから風邪の罹患率が低いという結果だろう。
まことしやかに語られていることを、「それホント?」と感じる直感と、冷静なロジックチェック。情報が氾濫する世の中で、ますます必要になっていくのだろうと考えさせられた。
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January 25, 2008
隣り合った二つの港町。一方は「ブランド魚」を水揚げし隆盛を誇る。もう一方は衰退。同じ海に面し、同じ魚が取れるにも関わらずだ。その両者を分けるのは何だったのか。
二つの街の漁師たちは、不思議なことに随分と気質が違ったという。二つの街、仮に一方を甲、もう一方を乙としよう。
甲は何事にもオープンで、「今日はこれぐらい魚が捕れました!」と毎日発表し、大漁の日には人を招き、宴を開いた。
乙の漁師たちは内に籠もる性格だった。どれくらい魚が捕れたかを発表することはない。むしろ大漁の時こそ、その数を過小に申し立てた。過小申告すれば、税金が抑制できるからだ。その甲斐あって、乙の漁師たちは豊かになった。テレビや家電が揃い、いい車にも乗っていた。
だが、次第に甲の港の名声が高まり、魚も珍重されるようになり、高く売れるようになっていった。いわゆる「ブランド魚」となったのだ。そして誰も乙の港の魚には見向きもしなくなった。同じ魚なのに、実に三倍の値段の差がつくようになってしまったのだ。
両者の決定的な違いは「オープンさ」だ。甲がどれだけ魚が捕れたかを発表したことによって世間の人々から、「甲は随分とたくさん魚が捕れるらしい」と喧伝されるようになった。大漁の成果を祝い、周りの人々にも利益配分をすることによって、更に「甲の港はすばらしく景気がいい」と評判が加速された。乙は自らの利益のために漁獲高を隠蔽し、過小申告し続けた。その結果、一時的には利益が高まったが、「甲は賑わっているのに、乙はダメらしい」と人々から評されることになってしまったのだ。
あえて街の名前を甲・乙として伏せたが、この話は寓話ではない。日本海に面した二つの港町にまつわる実話だ。とかく物事を隠蔽する風潮のある昨今、この話から学ぶべき所は多いのではないだろうか。オープンマインドによって、世間の人々から評価され、それが自らのブランドを高めていく。それは魚や漁業の話だけではないのは明らかである。
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January 24, 2008
30秒、10分、4時間という時間。あなたはどのように使うだろうか。
エスカレーターは概ね人が歩いて昇降する倍のスピードで運行されているのだろう。故に、じっと立っていれば1分の所、歩いて登れば30秒に時間短縮ができる。
実際に時間を計測した人がどれだけいるかわからないが、気忙しい昨今、エスカレーターは、関東なら右側、関西及び国際標準的には左側を歩いて昇降する人のために空けておくのが慣習となっている。しかし、その暗黙のルールを全ての人が理解しているわけではない。
ある朝の東京駅。毎日のラッシュに紛れ込んできたような老婆が一人。エスカレーターの歩いて登る右側に立ってしまい、後ろには大勢の乗客が列をなすことになった。右側を選択し、時間短縮をしようと思ったにも関わらず、不如意な状態な人々は、一様にイライラ感を呈している。そしてエスカレーターの上昇中、老婆の後ろの男性が「お婆さん、左によけてよ」と声をかけた。老婆は意味を理解できないでいる。声をかけた男性の後ろの人は、更にイライラしたように咳払いをする。ようやく事態を把握した老婆は、筆者の前のステップに潜り込むようにして道を空けた。ほとんどエスカレーターが階上に到着する寸前に。
そのエスカレーターは、じっとして乗れば約1分。歩いて登れば30秒の時間節約になる。しかし、その捻出した30秒を人々は何に使おうというのか。
とはいえ、筆者も人を批判できる立場ではないのを実感した。麻布十番の法務局出張所。会社登記簿謄本と印鑑証明の発行は地下一階。待ち時間は10分ぐらいだろうか。
さて、その10分をどう使うか。待ち時間を想定せずに何の用意もしてこなかった。本も新聞もない。あまつさえ、手帳さえ事務所に置き忘れた。頼みの携帯も地下なので圏外だ。たった10分がひどく長く感じる。と、同時に、自分はこんなにも待つということに我慢ができなくなっているのかと驚いた。
インターネットの人気個人サイトを運営している男性が、視力回復手術体験記を綴っていた。
術後、眼球を外気に触れさせたくないので自室で過ごそうとしたが、さりとて目を使うパソコンやテレビ、読書などはできない。眠ってもいけない。4時間をどう過ごすかに悩んだという。その人は録り溜めしたラジオ番組を聞いて過ごしたようだが、事前に用意していなければどのようにして過ごしたのだろうか。そして、自分が全く目を使わないで4時間を過ごす立場になったら、何をするのだろうか。
一昨日「活況を呈する時間対応型ビジネス」として、一つのビジネストレンドを紹介した。人に等しく与えられた1日24時間の使い方を提案するのは確かにビジネスチャンスとなる。有効な時間活用に対する需要は高い。しかし、時間の使い方として、「待つ」という行為は、その後に来たる期待をより豊かにする妙薬でもあるはずだ。その時間を思索に当てるのもいいだろう。決して無駄ではないはずだ。とかく「時間がない」と嘆く今日、「待つ」という時間の使い方にもう少し工夫をしてみようと思った次第だ。
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January 01, 2008
新年あけましておめでとうございます。
東京の元旦はよく晴れ、自宅からは遠く富士山がくっきり望めました。
今年の正月は寒くなると言われていた割には暖かで、昔のピンと張り詰めたような冷気を思い、地球温暖化の一端を感じた朝でした。
私たちには新春の陽光でも、太陽は昨日と変わらず地球を照らしているだけです。
しかし、人は区切りをつけることで意味を見いだそうとします。
「今日は昨日の続きでも、明日は今日の続きではない」。
百八つの除夜の鐘と共に年が切り替わる様は、新年は確かに前の年の続きだと感じさせます。
しかし、善きことは旧年に引き続き。それ以外は全く新しく改める。そんなチャレンジ精神を持ち続けたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。
※本日は新年のご挨拶だけで失礼します。
記事の更新は7日よりお届けします。
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December 27, 2007
何を隠そう、筆者は少しばかり「鉄」である。「鉄」つまり、「鉄道ファン」だ。
その鉄にとって2007年はちょっと特別な年であったように思う。
今年を振り返りつつ、最後にイノベーション論で読み解いてみたい。
「鉄」は昨今注目される”Cool Japan”、つまり日本独自のサブカルチャー的「オタク文化」とは少し様相が異なる気がする。日本独自という意味では、ほとんど独自性はなく、世界的にも「レール・ファン(Rail Fan)」という人々があちこちに存在する。歴史的にも新しいものではなく、その始まりは昭和初期とか、SL時代とか諸説ある。
「鉄」は同じ鉄道というものを対象としつつも、その関心領域によって多彩なバリエーションがあることも特徴だろう。
鉄道に乗車しまくることを喜びとし、青春18切符を使い倒したり、片道切符で最長距離に挑んだりする「乗り鉄」。鉄道の写真を撮りまくる「撮り鉄」、走行音や発車音を録音する「録り鉄」。時刻表を多々時も離さない「時刻表鉄」。列車の車両研究の「車両鉄」などなど・・・。挙げればきりがないほどだ。
ちなみに筆者は「車両鉄」と「乗り鉄」の変形版、「新幹線鉄」とでもいおうか。開業間もない東海道新幹線が見える公園で幼少期に遊んでいた影響かもしれないが、新幹線専門だ。
ともあれ、そんな鉄にとっても2007年は特別な年ではなかっただろうか。
何といっても、10月14日の鉄道の日に「鉄道博物館」が開館したことは大きな出来事だ。
その前身の秋葉原にあった交通博物館も子供時代、何度も胸をわくわくさせて通ったものだが、今度は規模も、投入されているテクノロジーも桁違い。また、交通博物館時代は他の交通機関の展示と混在であったが、今度は何といっても鉄道オンリー。正に鉄道ファンの「聖地」と呼んでもいい。聖地を手にした集団はやはり勢いづくものだ。
2007年が特別なのは鉄道博物館開館だけではない。ファン層が拡大した年でもあろう。
前述の鉄道博物館オープニングセレモニーでテープカットをつとめたのは女優の吉永小百合さん。JR東日本「大人の休日倶楽部」のイメージキャラクターでもあるが、セレモニーの挨拶で鉄道への思いを語り、吉永小百合=鉄道ファン説がささやかれている。
鉄道ファンの女性は「鉄子」とも呼ばれるが、女性にファン層が広がれば、ファンのほとんどが男性という男臭いイメージが払拭できようというものだ。
さらに年齢層も拡大している。2007年は団塊世代の大量定年元年だが、リタイヤ後の趣味として「乗り鉄」や「撮り鉄」になった人も多いようだ。定年後の消費で「国内旅行」や「デジタル一眼カメラ購入」が実は「鉄がらみ消費」であるという説だ。また、その世代は「永遠の吉永小百合ファン」である「サユリスト」も多いため、吉永小百合=鉄子説が彼らの背中を押したのかもしれない。
一方、さらなる一般化もしている。昨年連載が終了した菊池直恵のノンフィクション漫画「鉄子の旅」がアニメ化。2007年6月24日~9月23日に、CSのファミリー劇場で放送された。「鉄子」はかなり一般的な言葉として普及し、2007年の新語・流行語大賞の候補ともなったのだ。この言葉や作品で鉄道の旅に興味を持った人も多い。「乗り鉄」予備軍が増大したわけだ。
こうした断層の拡大をE.M.ロジャースのイノベーション論で考えてみるとさらに興味深い。
「鉄」の歴史は古いが、それがファン層だけにとどまらず、一般に伝播していくことを考えれば理論的な裏付けになるだろう。
ロジャースはイノベーションの普及を、山型を描くいわゆる「S字曲線」で表し、イノベーションを受け入れる層を5段階に分類した。
いち早く飛びつく「革新的採用者(イノベーター)」。吟味して取り入れる「初期少数採用者(アーリーアダプター)」。それに続く「前期多数採用者(アーリーマジョリティー)」。慎重に見極め採用する「後期大量採用者(レイトマジョリティー)」。イノベーションが伝統に変わるまで採用しない保守的な「遅延採用者(ラガード)」。
さて、「鉄」はどこに入るかというと、当然、「革新的採用者」だ。「革新的採用者」の特徴は、特に進められなくても、自分の価値観に合致すれば飛びつくこと。何か新しい商品がでると、特にプロモーションがなくともニュースリリースなどで情報収集し、購入予約をするような行動を取る。いわゆる何かのファン層はそんな行動を取る典型ではないか。
しかし、実はこの「革新的採用者(イノベーター)」だけでは後に続く影響力を発揮できないのだ。間違ったマーケティングのノウハウ本などには「イノベーターを狙え!」などと書いてあるが、ロジャースのフィールドワークによれば、後に影響力を発揮するのは「前期多数採用者(アーリーマジョリティー)」である。
「ごく一般的な人々」は「前期多数採用者(アーリーマジョリティー)」以降に存在する。その人々はアーリーマジョリティーの採用行動を見て、安心して自分たちも同じような行動をするのだ。一般の人には、イノベーターは少々自分たちとは違った存在に見えるのだ。
イノベーターは別にイノベーター以外に何かを普及させようとは思わない。しかし、2007年の「鉄の世界」には、団塊の世代や女性などアーリーマジョリティーともいうべき、新たな層が入ってきた。さらに、鉄道博物館のような、一般の人々がこの世界により興味を持つ装置が完成した。「今まで興味はあったけど、ちょっと踏み込めなかった」とする層もアーリーマジョリティーに加わるだろう。
鉄はサブカルチャー的に、「カッコイイ日本」を海外に宣伝してくれるような貢献はしないだろうが、来年以降、もっと国民の一般的な興味の対象となっていくように思う。
なぜなら、日本ほど鉄道が発達した国は少ないのだから、それに興味を持つのはごく普通のことだろうからだ。一般化すると鉄は嫌がるんじゃないかという心配もあろう。だが、筆者は鉄はそんなに狭小な度量ではないと思っている。
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December 24, 2007
久々の休日アップです。少しばかりクリスマスらしい話題を・・・。
日比谷公園に「日本一大きなクリスマスツリーが登場」というニュースを聞き、「何だ事務所の近所じゃないか」と公開初日の連休前、21日の金曜日に見に行ってきました。
新橋から歩くことしばらく。日比谷公園の入り口が見えてきました。
幾筋ものサーチライトが夜空を照らし出し、何やら雰囲気を盛り上げています。
日比谷公会堂側の入り口から入ると、早速木立の向こうにツリーが透けて見えてきます。
あれ?・・・小さい?
高さ42メートル。日本最大でも、林立したビルに囲まれた広い公園の中ではずいぶんと小さく見えてしまうのか・・・。
ツリーだけでなく、会場となっている公園の一角はくまなくライトアップされてなかなか綺麗です。
赤く映し出された並木は紅葉と見紛うよう。
ライトアップの今年の流行は、やはりこれ。
青色ダイオード。
近隣のビルを借景に、海を思わせる光が広がります。
ただ、なんとなく青い光はギラギラとして目に痛い。
消費電力が少なく、地球に優しいといわれれば文句も言えませんが、
温かみのあるムギ球の方が落ち着く気がします。
さて、巨大ツリーはこれ。
高さ42メートル。総重量130トン。スペック的には巨大ロボットのようです。
鉄骨にテントが張られ、様々な映像が内部から照らし出されます。
ツリーというより、立体クリスマス映像スクリーンですね。
ツリーは日比谷公園の大噴水の上に設置されています。
噴水もライトに映えて綺麗です。
会場には飲食の屋台が並びます。
あの、人気シェフ、落合氏の屋台も。
が・・・ガラガラ・・・。
やはり単品800円オーバーからの料理は少々高かったか?
ビールの屋台もありますが、紙コップ1杯700円と高く、買っている人はあまりいません。
まぁ、クリスマスのど真ん中、24日、25日にはどうなるかわかりませんが、前哨戦ではなかなか財布の紐は緩まないようです。
人気はこちら。
単品400円のドイツソーセージの店。みんな並んでいます。
というわけで、21日はまだまだ人手は少なかったですが、今日・明日は大混雑になるでしょうね。
しかし、この日比谷公園だけでなく、皇居周辺や丸の内界隈まで、今年は例年にも増した規模でライトアップが行われるようです。
混雑覚悟で行ってみるのも一興かもしれません。
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December 20, 2007
年末の追い込みのため、更新が遅れがちで申し訳ありません。
実際に金森とお会いいただいた方はおわかりだと思うが、私は「赤い」。
このBlogの写真は少し抑えめで、ネクタイが真っ赤なぐらいなのだが、この記事を書いているパソコンも赤いし、画面を見ている眼鏡もフレームが赤い。
最近買ったゼロ・ハリバートンのアタッシュケースも赤。
「何でそんなに赤いんですか?」。
会った人にはほぼ間違いなく言われる。
実はこれ、いわゆるセルフブランディングでもあるのだ。
赤くなったのはここ2年ぐらい。独立してから1年たった頃からだろうか。
何の看板も背負っていない、独立したマーケターとしては、やはり人に印象を残したい。
それにその頃から業務内容が変化したことも大きい。
比較的長いお付き合いになるコンサルティングの仕事と同じぐらいの比率で、講師業が多くなってきたのだ。
講師と受講者の付き合いは意外と短い。
いつも担当しているビジネススクールは1科目全6回。企業研修は1回1日~数日。
何らか自分自身に興味を持ってもらわなければ、それだけのお付き合いだ。
印象に残ればこのBlogに来てもらったり、他の人に受講を薦めてくれるなどの口コミ効果も期待できる。
もちろん、講義の中身が伴っていなければ何にもならないけれど、独立してやっていくには結構大事なポイントなのだ。
赤のもう一つの効果はセルフモチベーションコントロールにある。
赤いものを身につける。持つ。その瞬間にスイッチが入る。戦闘モードに切り替わる。
集中力が高まり、背筋もぐっと伸びる。声も腹から出るようになる・・・などなど。
結果として人に与える印象も変わる。
もちろんずっとスイッチオンでは身が持たないので、オフタイムはあまり赤くない。割と落ち着いた色を身に付けている。
わかりやすすぎるぐらいに切り替えることによって、自らをコントロールしやすくなる効果がある。
少々、金森のやり方は極端かもしれないが、何らか自らのブランディングとモチベーションコントロールの方法を持つことをお勧めしたい。
誰しも、何らかやっていることかもしれないが、中でもテーマカラーを持つことは上記のようにわかりやすい効果をもたらしてくれる。
是非、ご検討されたい。
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December 14, 2007
「ライフハック」という言葉がしばらく前から話題だ。
はてなダイアリーによれば「効率良く仕事をこなし、高い生産性を上げ、人生のクオリティを高めるための工夫」とあり、デビッド・アレン著の「仕事を成し遂げる技術―ストレスなく生産性を発揮する方法」が紹介されている。
では、忙しい朝、1時間目的地に早く着いたら、あなたは何をして過ごすだろうか。
時間の使い方についての、筆者なりのライフハック的話題をお届けしたい。
筆者は企業研修講師の仕事が現在、業務の三分の一を占めている。
研修にはクライアント企業の社員が業務時間を割いて、各地から出席してくる。
そんな中、講師が「遅刻しました」では洒落にもならない。いや、寝坊するなどというとぼけた理由ではなく、危ないのは交通機関事故だ。
企業の研修所は出席者を日常業務から隔離するためか、郊外にある場合も多い。移動距離が長くなるとその分危険性も増す。また、経験的に、特に人身事故は朝8時台に起きると思っている。すると、8時前には研修所のある駅には着いていなければならなくなる。
故に、通常ではあまり考えられない、「朝に1時間の余裕」ができるというわけだ。
元々朝型、というよりも夜よりも朝に無理が利くタイプだったのかもしれない。
前職で管理職を拝命した三十代前半の頃、プレイングマネージャーであったことから、自分の仕事の時間確保が難しく、始発通勤をしていたこともあった。
しかし、日常業務のために朝、時間を作るのと、業務と切り離された時間ができるのでは意味合いが違うようだ。
1時間では通常の業務を行おうと思っても、なかなかペースが上がらないうちに時間切れとなってしまう。その制約条件の中でいかに価値ある時間の過ごし方ができるかを、研修の仕事が増えてから真剣に考えた。日々、1時間を漫然と過ごしてしまうにはあまりにもったいないからだ。
新聞を読む。ものを読むのは早いほうなので、1時間あれば、普段は読み飛ばしてしまうような記事まで読み込むことができる。ほとんど耽読というレベルだ。思わぬ発見がある。いや、正確には、「何かを発見するまで読み込む」のである。
本を読む。恥ずかしながら、あまり読書の時間が普段とれない。月に何冊も読破する知人のマーケターにはいつも頭が下がる思いなのだが、とはいえきちんとインプットしなければ枯れてしまう。「1時間集中読書」は時間を決めずに読んでいるよりずっと集中でき、後で思い出してみても富士気とよく内容が頭に残っている。
人の流れを眺める。外の風景が見える喫茶店などに席が取れれば、タウンウォッチの格好のチャンスだ。1時間たっぷり人々の姿を眺める。これもぼんやりと眺めるのではなく、必ず何んらかの「意味合い」を見つけてメモを記す。抜群な思考トレーニングにもなり、それがBlogのネタにもなる。
そして、Blogの記事を書く。雑誌やメルマガなどの依頼原稿はきちんと事務所で机に向かって書くようにしているが、Blogの記事はこうした朝の時間や新幹線での移動時間などで書くようにしている。じっくり書くのも良いのだが、限られた時間で集中して書くことによって、自分としては内容が冗長になっていないように思っている。もちろん、クライアント業務に支障を来さないためにも限定時間で書くことは必須なのだ。
「早起きは三文の得」とはよく言ったもので、斯様に朝の1時間は実に内容の濃い充実した時間となる。
確かに1時間早く起きるのは、慣れるまで結構つらい。だが、早く起きることを前提にすれば、よほど忙しい時期でなければ自然と夜が早くなる。効率的に仕事を片付けようと思うようになる。無論、飲み過ぎへの注意も。
師走の書き入れ時、忘年会シーズンに提案するのは少々時期が悪いかもしれないが、是非とも「朝1時間のゆとり」をお勧めしたい。
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December 13, 2007
百貨店の売り場を商品を見ながらゆっくり歩く。
年末だが、平日の日中なので店内はすいている。
何人もの店員が各コーナーに待機し、時折「いらっしゃいませ」の声がかけられる。
だが、ふとしたことでひどく違和感を覚えた。
店員と目が合うと、なぜかその多くが、すっと視線を外すのだ。
辞書をひもとけば、目礼とは 「目つきで会釈すること」(広辞苑第五版)とある。
教えられたのは親からか学校か記憶は定かではないのだが、多くの人がごく普通に行っていることだ。と、思っていた。
客に対し目礼することは、店員が客の存在を認識し、何かあれば声をかけてくださいという無言のメッセージになる。客も目礼を返すことで必要あれば声をかけるという、暗黙の約束ができあがるわけだ。
無論、目礼を欠いたからといって、その店員に声をかけても答えないということではなく、ごく普通に応対をしてくれるだろう。しかし、こちらから声をかける前に、声をかけられる用意ができているという、サインを受け取っているといないのでは随分と気軽さが違うように思える。
店員の非礼を責めているわけではない。事実、店員にこちらから声をかければ実に丁寧に応対をしてくれた。その百貨店の教育がどうなっているのかはわからないが、店員には目礼という習慣、もしくは認識がないのではないかと思える。
客と店員の関係だけではなく、町中で袖すり合う他人同士でも、何んらかのきっかけで目礼を交わしあうこともある。
歩行中に進路が交差するようなとき、一方が道を譲り、互いに目礼を交わす。取り立てて「どうぞ」「ありがとう」と口に出さずとも、目礼だけできちんとコミュニケーションがとれているのだ。
そういえば、昨今路上や街のそこここで見ず知らずの人同士が諍いを起こし、傷害事件に発展するようなことまでが起きている。
もしかすると、目礼という所作が現代において失われてきたこともその一因かもしれない。
ホンダの人型ロボット「ASIMO」がまた進化したと11日発表された。互いの状況を把握し合うネットワークシステムによって、複数のASIMOが自立的に協調しあい、共同作業ができるようになったという。また、正面から人が来ると、一歩下がって道を譲ったり、迂回路を選択するなどの人工知能化技術も追加された。
互いの状況を把握し合い、人を認識して道を譲る。ふと考えれば、人間が忘れ去ろうとしている所作をロボットが身につけている。
ロボットは人の写し身であるが、その創造主たる人間より礼儀正しくなっているのは何とも皮肉な話だ。
ロボットに感情が備わるのはまだまだSFの世界のことかもしれないが、昨今の技術の進歩を見るとそんなに遠いことではないようにも思える。
その日がきたとき、ロボットから笑われないことを祈りたい。
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December 07, 2007
情報収集をしようと思えばインターネットと検索エンジンがいつでも使える。
考えをまとめようと思えばいくつものフレームワークが存在する。
しかし、それらを使っても、理論構築にかかる時間やその仕上がりには個々人で大きな差が生じる。
それは「仮説力」とでもいうべき能力の差だと言えるだろう。
確かに検索エンジンは便利だ。頭に思い浮かぶキーワードを検索窓に入力し、ボタン一発で様々な情報を掲出したサイトの候補が表示される。
しかし、問題はこの後。多数リスティングされている候補サイトから欲しい情報を取捨選択するのは意外と難しい。
複数のキーワードをスペースでつないで入力・検索すれば、さらに絞り込み検索ができることももはや一般的になった。
だが、これもどのようなキーワードをつないでいけば、より求めるサイトにヒットするのかが、検索の巧拙の分かれ目だろう。
検索能力はもはやインターネット時代に求められるリテラシーの一つといっていい。より的確に短時間で検索成果を上げるために求められるのは「仮説力」だ。
「このような文脈で自分が求められる情報は語られているに違いない」と仮説を立ててキーワードをつないでいく。漫然と思い浮かぶキーワードで検索を繰り返すより格段に成果が上がるはずだ。
漫然と検索しても、仮説を立てて検索しても、検索エンジンは結果を表示してくる。しかし、その結果の差は大きい。
一見差がわからないが故に、便利な機能に依存して仮説力を働かせない人も多い。
さて、検索をして情報が集まったら、その情報を整理して自分なりに考えをまとめる段階になる。そこで役に立つのがフレームワークだ。
マーケティングでよく使われる環境分析のツールはPEST、3C、5F、SWOT・・・などなど。また、施策に落とし込むならSTP、4Pと、もはや定番となっているものも多い。
しかし、ここでも要注意なのが、フレームワークという思考の補助ツールに頼りすぎて仮説力を忘れてしまうことだ。
分析は思い込みを排してフラットに行うのが基本だ。
しかし、何の仮説もなしに進めるとなかなかそこから意味合いが見えてこないのも事実。ともするとフレームワークを使った単なる情報整理で終わってしまう。
仮説を立て、分析し、仮説を検証、修正しさらに分析をするめる。フレームワークはあくまでツールであることを理解し、自分なりの仮説を繰り返し、明確な結論に至るストーリーを作ることを忘れてはならない。
便利な道具はともすると考える力をスポイルする。
道具を使いこなすためにも、まずは「仮説力」を錬成したい。
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December 04, 2007
某ニュースで不思議な発表を発見。しかし、こうした勘違いは実際のビジネスでも散見される。ビジネスパーソンはどのような視点を持つべきなのか。
インターネットのニュースで<エコノミー症候群 女性客に集中発生>というタイトルをみた。このタイトルだけ読むと、「女性は発症の危険性が高いのか!」と勘違いしてしまいそうだが、記事をきちんと読むとそうではない。
「女性患者にはトイレに行きたくないから水分を取らなかったという人が多い。水を飲まないのはよくない。」という医師のコメントが記載されていた。
エコノミー症候群→女性に発症が集中、という勘違い。
エコノミー症候群→[血液濃度の上昇によりうっ血性心不全や肺血栓塞栓症を発症する→水分の摂取と体を動かすことが対策として必要→女性は飛行機内でトイレに行きたくないと考える→結果として水分を取らなくなる→トイレに行くために体を動かすこともしなくなる]→女性に発症が集中、が正解だ。
つまり短絡的に考えると[ ]内をすっ飛ばしてしまい、根本原因を見誤るのである。
因果関係を明確にすれば、エコノミー症候群→水分摂取をしない・体を動かさない人に集中発生という従来から知られた結果となり、今回の報道は女性に集中発生のメカニズムを実証したことに価値があるのだと理解できる。
こうした過ちはビジネスの世界でも散見される。
マネージャーが呈する自部門における問題点。代表的な意見に「業務ミスがなくならない」というものがある。
「業務ミス」は問題ではあるが、それは「現象」であり、「根本原因」ではない。
先の例における「女性に集中発生」のようなものだ。そこに至る因果関係が重要なのだ。
業務ミスの原因は何か。ちょっと考えれば、業務知識が足りないのか、モチベーションの低下により集中力を欠いた状態なのかが推察できる。
問題は知識か意識か、もしくは複合的なのか。
根本原因を追及しなければ対処方法はわからず、「業務ミスが多いという問題が発生している」→「ミスを削減するため全員慎重に業務を遂行するように」という解決に至らない指示を出すことになってしまう。
数学者のジェフリー・S・ローゼンタールもベストセラーの著書、「運は数学にまかせなさい」(早川書房)で因果関係の重要性をおもしろい例で示している。
<現代では喫煙によって肺癌になる危険性が大幅に高まるというのが定説だけれど、かつてはこの関係が議論の的になっていた。ところで、タバコのせいで喫煙者の指にうっすらと(無害な)黄色い染みができることがあるのも事実だ。(喫煙にあまり詳しくない研究者がいたとして)本当は指の肺癌も黄色い染みも喫煙が原因だけれど、それを知らなければ勘違いして”黄色い染みが肺癌を引き起こす”と結論する可能性がある>。
もちろん、ローゼンタール自身、誇張した例だとしているが、先のエコノミー症候群の例のように、よく考えれば、またはきちんとした情報解釈をすればわかる因果関係を取り違えている例である。
問題解決能力は全てのビジネスパーソン、とりわけマネージャーのスキルとして求められるものである。その根本には原因追及と、因果関係の解明能力が欠かせないことを忘れないようにしたい。
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December 03, 2007
「コミュニケーション」が変容している。過去にも人々のcommon senseの移ろいや、コミュニケーション不全について述べてきたが、もはやコミュニケーションという言葉そのものを考え直さねばならない時がきているのだ。
現代の家族関係を考えるときに「家族のコミュニケーションが減っている」は、問題点の定番として頻出するキーワードだ。教育問題では「学校と家庭、教師と生徒、生徒間のコミュニケーションのありよう」が取り上げられる。
ビジネスの世界では「上司と部下、社内全般のコミュニケーション」がなかなか取りづらいということが問題視される。
では、そもそもコミュニケーションとは何なのか。
広辞苑(第5版)をひもといてみる。「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達」とある。
とすれば、コミュニケーションの本質は「伝達」であると解釈できる。
では、「伝達」とは何か。「命令・連絡事項などを伝えること。つぎつぎに伝え届けること」とある。
この時点でおや?と思う。
様々なシーンで指摘されているコミュニケーションの問題点は、端的に言えば、「伝わらないこと」である。
コミュニケーションの本質である「伝達」をしても、伝えても伝えても伝わらない。それが今日のコミュニケーションの問題点なのである。
だとすれば、コミュニケーションの本質を「伝達すること」ととらえることが間違いなのではないだろうか。
「伝えようとすれば伝わる」と考えることは、島国の単一民族が育んできた極めて日本的な発想であるといえる。言葉を発せずして意思伝達をする。当たり前なこととして言葉を発生ない「言わずもがな」の発想だ。「阿吽の呼吸」という言葉などもこの思想が現れている。
しかし、もはやそれは「幻想」に過ぎないのだ。
「伝わるはずが伝わらない」ことから、昨今の様々な対人トラブルが起きている。
些細なことから傷害事件に発生するような数々の事案もその表出化である。
また、若者から始まりすっかり広まった「KY」、「空気読め(ない)」も翻って考えれば、相手に対し、自らの意志を推察せよと強制する、理解できない者を指弾するという行為を正当化することによって、伝わらないことを自らに起因させない思考停止の表れでもある。
コミュニケーションは、ラテン語の「共有」もしくは「共有物」に語源があるという説があることは過去にも紹介した。
ミドルマネージャーの研修で、「部下とのコミュニケーションが重要」との発言に、その意味を聞くと「意識共有」であると回答されることがある。正解だ。今日的なミス・コミュニケーションは、一方的な伝達だけして、全く意思疎通ができないという姿に現れる。伝達しただけではダメなのだ。
「共有すること」。
例えば、「部下とのコミュニケーション」といった場合は、話をしただけでは無駄なのだ。
「ミーティングを頻繁にする」との応えをよく聞く。それもいいだろう。しかし、ミーティングの結果、何らかのメモや議事録、または本人との明確な約束(commitment)をすることが重要なのだ。それは企業内だけでなく、学校でも家庭でも同じだ。
人と人とのコミュニケーションにおいて、何も四角四面でcommitmentを確定させることは「息が詰まる」という論もあろうし、現実的に「ではこういうことですね!」と会話の最後に確認をするのがふさわしくないシーンもあろう。
初対面や行きずりの人とはましてそうだろう。
しかし、「伝わる前提」のコミュニケーションは幻想に過ぎず、何らか、共有物を残すという意識を持つことは重要だろう。
日本古来の人と人の関わり方を否定するつもりはない。しかし、それが破綻しかけていることも事実なのだ。
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November 29, 2007
ちょっとしたしぐさ。ふとしたしぐさで人に与える印象はずいぶんと異なる。そしてそこには、人の意外な人間性が表れると考えられないだろうか。
家路を辿る道すがら、今日は時間が早いので開いている書店に立ち寄る。
特に収穫はなく店を出ようとすると、とび職風の若者と出口でかち合う。
携帯に電話がかかってきてしまい、店外に出るところらしい。
何という髪型なのか、刈り込まれた髪にさらに細く剃り込みを幾筋も入れている。無精髭。ちょっと見た目こわそう。
一歩譲ると扉を開け、続く筆者のために扉を支え軽く会釈をして先を譲ってくれた。
思わず「ありがとう」というと、電話を耳に当てたまま、ニコリと微笑んできた。
次にドラッグストアに立ち寄り「のどスプレー」を購入。
レジで会計をした際、単品なので「そのままで結構です」とレジ袋を断ると、アルバイトと覚しきレジ係が右手にPOSレジのスキャナーを握りしめたまま、ズズッと品物をレジカウンターに押しつけ突き出した。
続いてコンビニ。
入り口を入ろうとすると、背後に人の気配。すぐ後ろに若い女性が続いているのに気づいた。
扉を引いて開け、女性に先を譲る。女性は無言で扉を支えている筆者の前を通過する。
晩酌のビールを一缶レジに持って行く。
レジ係のアルバイトと覚しき店員は、「ありがとうございます」と、缶ビールを両手で差し出した。
店ドアを通過する際のしぐさ。商品を手渡す際のしぐさ。
どちらも、ほんのちょっとしたことだ。だが、印象が大きく異なる。
人のしぐさをとやかく言うつもりはないが、「人のふり見て我がふり直せ」だ。
袖触れ合った他人と再び接することはないかもしれない。
しかし、人と人の関係が殺伐としがちな今日この頃。
少しでもお互いの印象を気遣う心のゆとりを持つことができれば、世の中少しずつ変わるかもしれないのにと思った次第である。
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November 27, 2007
スターバックスが日本に初上陸したのは1996年。今でも営業している銀座・松屋裏の二階建て店舗からスタートした。スターバックスの店内といえばどんな風景を思い出すだろうか。コーヒーの香りを損なわないために全席禁煙。オシャレなBGMと少しゆとりのある店内空間・・・。
筆者は原稿を書くときに気分転換のため、事務所を出てカフェを利用することも多い。
値段が高い割には店員が水を頻繁に持ってくるので落ち着かない旧来型の喫茶店。たばこ臭くて狭くて落ち着かないドトールなどの低価格カフェ。それに比べれば、スターバックスに代表される「シアトル系」といわれるカフェは落ち着く。タリーズ、ブレンズもいい。だが、やはり並んでいるとスタバを選んでしまうのはブランドが刷り込まれているからだろうか。
今では少々手狭な点も多くなってしまったが、スターバックスといえば、コーヒーの味わいだけでなく、ゆったりとした店内空間も商品のうちだ。そこではおしゃべりをする人以上に、読書や勉強、仕事というような個々人の時間を過ごしている人々が多いことも特徴だ。その風景はこの10年あまりで完全に定着したといっていいだろう。
と、思っていたらそうでもない場合もあるようだ。
「ここ空くのかい?」原稿が一区切りしてそろそろ退席しようかと、マグカップのさめた最後のコーヒーを口に含んだ時声をかけられた。
60代半ばとおぼしきの白髪の男。ベージュのブルゾンにウールのパンツ。手にはセカンドバック。あまりおしゃれな感じはしないが、カジュアルさ加減はリタイヤ組か。
「あ、はい。」ちょうど席を立とうと思っていたところなので、返事をして片付けを始める。パソコンをシャットダウンしながら、資料をまとめ、アタッシュケースにしまおうと知る。
ふと男を見ると、目が合ったのを合図にするように「早くしてくれないか。こっちは時間がないんだ」と言う。
せっかちなやつだなと思い、資料をしまうも、パソコンをスリープではなくシャットダウンにしてしまったので少し時間がかかってしまう。
すると男は追い打ちをかけてくる。「何をパソコンなんかやっているんだ。ここはコーヒーを飲むところだろう。人の迷惑を考えろ!」。
ちょうどパソコンの電源が落ちたことだし、無用なトラブルを避けたいので黙って席を立ったが、どうにも間尺に合わない気持ちで一杯になった。
ふと考えると前回のトラブル、新幹線で弁当を広げた際に、「食べ物のにおいをさせるな」と言われたことと通底する部分を感じた。
今回のスターバックス。男は「スターバックス(喫茶店)はコーヒーを飲むところであり、パソコンをするところではない」という主張だ。前回の新幹線のビジネスマンは「新幹線は食事をするところではない」という主張。
しかし、周りを見回せばスタバでパソコンを開いている人間は他にもたくさんいる。新幹線車中でも駅弁を開いている人は数多い。
本来的には喫茶店は「コーヒーを飲む空間」、列車は「移動のための空間」である。しかし、原理原則だけではなく、世の人々は時と場合に応じてcommon senseを形成し、お互いに許容しあって暮らしているのが現実だろう。それは新幹線のビジネスマンも、スタバの初老の男にもわかるのではないだろうか。だとすれば、「俺の周りではやるな」ということか。
自分の周りを絶対空間として、自分のルールを押しつける。スタバでも、新幹線でも筆者はあえて反論しなかったが、言われた方もまた、絶対空間を持って抵抗すれば確実に衝突、トラブルになるだろう。
最近、世の中には些細なことで発生するトラブルが多い。ひどい場合は傷害にまで発展している。なにやらcommon senseの崩壊と、許容性のない絶対空間を持った人々の増加を表しているように感じる。まして、昨今流行のKY、「空気読め」はどうだろうか。周りの空気やその場で求められるcommon senseに適合できなかったとしたら、それは本人の問題もあるだろうか、許容性が極度に低く、自分の絶対空間を主張する人間にKYを振りかざされたのではたまらない。
今回の原稿はどうにもオチが付けられないが、人々、もしくは人々全体でないにしても、許容性が低下しているのは確かな気がする。その解決策は思いつかないが、少なくともそうした人々が増加しているとしたら、より無用なトラブルを避ける自己防衛をするしかないのが悲しい現実なのだろう。
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November 23, 2007
「吉兆」とは幸か不幸か縁がなかった。
が、不二家の製品も白い恋人も赤福も、甘いものが好きではないので摂取量は少ないだろうが、お土産でそれなりに食べていた。比内鶏は赤坂あたりの串焼き屋で何度かありがたがって食べた。なんちゃって牛肉ミンチはどこかで食べたかもしれない。
偽装国家ともいうべきこの日本。耐震基準偽装などの建築物は厳に取り締まり、必要な措置を施さねばならないが、まぁ、それ以外はそんなモンだろうとの思いがあったのも確かだ。
だがしかし、やはり愛して止まないものが「偽装」と言わないまでも、「本物」であると言い切れなかった時のショックがいかに大きいか、ようやく身をもって知った。
Blogの自己紹介欄で趣味の一つに掲げるほど箱根の湯は愛して止まないものであった。が、ヤラレタ・・・。
週刊文春のスクープ記事「箱根の湯の16%は人工の温泉であった」。
今日の帰宅時、電車の吊り広告を見て、コンビニで雑誌を買い記事を読んでからどうにも脱力感にとらわれて仕方ない。
箱根の「ゴールデンルート」と言われる、元箱根から登山鉄道からケーブルカーに乗り継ぎ、大型ロープウェイを降りた所に箱根の名所であり、火山火口である「大湧谷」がある。火口の熱湯で茹でた「黒温泉玉子」も有名だ。
そこからゴールデンルートは更に小型ロープウェイに乗り換え、芦ノ湖畔に続く。芦ノ湖から少し登れば、秋はススキ野原で有名な仙石原である。
ありふれた観光ルートであるが、このゴールデンルートは筆者の幼少期からの最も愛するスポットなのだ。
信じていた、というより疑いもしていなかったのだが、記事によると箱根の湯は本来透明で、筆者の好んでいる白濁湯は人工だという。大涌谷から噴出する火山ガスを水にくぐらせその成分を含ませて温泉にしているということだ。
何より、大型ロープウェイの眼下に広がる火口にいくつも並び煙を上げる煙突を見て「さすが火山らしい!」と興奮し、小型ロープウェイに乗り、乗り場の駅にほど近い貯水池に「防火用水でもないのに何に使うのかなぁ」などと子供と話していた自分の間抜けさが哀れだ。
何のことはない。その水を煙突のあたりまで運び、ガスを含ませ温泉に仕立て、そこから仙石原まで運んでいたのだ。
「この湯は大涌谷から運ばれています」と旅館から説明され、「さすが、火口から来る湯はたっぷり白濁だね!」と喜んでいた自分が情けない。
箱根は温泉としては全国的な人気スポットであることは間違いない。日経新聞の土曜別刷・プラスワンの先週の一面には「行ってみたい古湯」大規模温泉の部で7位にランクインしている。が、古来「富士山の見えるところに温泉は出ない」といわれていたようで、その中でも芦ノ湖周辺、つまり仙石原周辺はほとんどが人工であるようだ。
人工の白濁湯は火山成分がたっぷり含まれていることから、温泉の分類でいう「療養温泉」としての大いなる価値があるとの関係者のコメントも記事には取り上げられていた。確かに湯から出てからの体の温かさは特筆すべきものがある。その効能を人工温泉を作っていた関係者は強弁する。また、問題の旅館・ホテルも効能があることを理由に人工であることを明示しなかった言い訳をする。
効能はありがたい。更に完全なる偽装であった白骨温泉の「入浴剤使用」などに比べれば成分自体は天然だ。
が、やはりきちんと言ってほしかった。
人工温泉の歴史は古く、記事によれば昭和初期からのことだという。
白濁湯が天然のものでなく人の手が入っていたとしても、成分が人工であるわけではない。入浴剤なら興醒めであるが、成分はきちんと火山由来のものでもあるし、今となっては歴史もあり効能たっぷりの人工温泉は、人間の英知の結果としてきちんと説明してくれれば筆者は納得できる。
この人工温泉は法的には何ら問題がないようだ。また、ここまで歴史があり、効能もあるのなら今更やめることもないだろう。
だがしかし、今まで「説明責任」を果たしていなかったのも事実だろう。
本来であればこうしたスクープが出る前にきちんとしてほしかったことであるが、報道されたからには、一連の偽装問題と同列に扱われたくなければ関係各所からの公式の説明を求めたい。さらに、各温泉の効能書きにも「人工であるが成分はたっぷり」という旨を明記してほしい。
この週刊文春のスクープ記事を書いた記者は箱根育ちであり、体を壊したときに箱根の湯に救われたという。筆者も幼少期から馴染んだだけでなく、独立時の忙しさと少々の体調不良を癒した思い出がある。そして忙しい時には常に「時間ができたら箱根に行く」ということを夢見てがんばっている。今日もそうだ。
愛するものに裏切られることは悲しい。
しかし、見苦しい姿を見るのはもっと悲しい。
どうか胸を張って、きちんと説明をしてほしいと願っている。
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November 21, 2007
フレームワークは思考の速度を高め、人に伝える能力を高める効用がある。ナレッジワーカーとしての生産性を高めることが可能になるため、是非ともいくつかのフレームワークを使いこなすスキルを習得すべきだろう。
しかし、その有用さの裏側にある「落とし穴」にはまらないよう注意が必要だ。
フレームワークの代表選手をあげるとすれば、環境分析におけるSWOTだろうか。自社や自分の事業環境分析などにも用いられるため、「マーケティングに関わる業務は担当していない」という人でも使った経験があるはずだ。このフレームワークを例に考えてみよう。
■フレームワークの形態に惑わされるな
SWOT分析は自らを取り巻く環境を、外部環境・内部環境に分けて要素を抽出し、さらにそのプラスの側面、マイナスの側面を洗い出していくフレームワークだ。
少々分析に手こずることがあるとすれば、一つの要素をプラスと見るのか、マイナスに見るのか判断に迷うときだろう。SWOTを失敗する原因の多くは、プラスマイナスのどちらに当てはめればいいのかに終始するあまり、強引に分類した結果、プラス、マイナスのどちらかの側面を見落とすことだ。物事には一つのことでもプラスとマイナスの両面がある。その場合、どのような前提条件の下ではプラスに、どのような前提条件の下ではマイナスに作用するということを明記した上で、両方を取り上げなくては正しい分析にならない。
これは、典型的なフレームワークの形状にとらわれるあまり、正しいものの見方ができなくなるケースである。
■で?その分析は何が言いたいのか?
そもそも、フレームワークを使う意味は、何らかの結論を抽出し、人に伝えることにあるはずだ。分析を行うのであれば、明確な結果を導出しなくては意味がない。
フレームワークの最大の落とし穴は、そこに要素を押し込め、整理することで満足してしまうことである。
ファクト(事実)の整理は重要だ。整理することによって、抜け・モレがないことが確認できる。しかし、それだけでは分析を完了したことにならない。伝えるべき相手に「何が言いたいのか」が明確になっていなければゴールしたことにならないのだ。
SWOT分析であれば、フレームに要素整理をするだけでなく、そこから「市場機会」と「事業機会」を文章化すべきだ。この文章化を面倒だと厭う人も多いが、要素整理したフレームを読み上げるだけでは相手には全く伝わらない。結論が必要なのだ。
■その言葉は「意味」を伝えているか?
上記の通り、文章化は伝えるべき「意味」を明確にする効用がある。しかし、その文章をもう一度読み返してみてほしい。果たしてその文章は意味を表しているだろうか。
例えば、分析結果として記された次のような文章があったとする。
< >の中は例示。
○○会社を取り巻く環境は、<好景気による消費拡大>という機会と
<競合数の増加>という脅威があり
総合的には<予断を許さない状況である>といえる。
その中で<顧客ニーズの取り込みが完全でない>という弱みを、
<業界ナンバーワンの信用力>でカバーして勝っていく。
一見、それらしい文章になっている。しかし、どうにも具体性がない。
なぜ、上記のような具体性に乏しく、意味合いが明確でない結果になってしまうのか。それは、短くまとめようとしすぎるからだ。
フレームワークに当てはめる要素も、ついつい短くなりがちだ。単語、熟語レベルの短さである場合も多い。本来はこの段階から意味を持った文章を記入すべきなのだが、どうしてもフレームの記入スペースに制約されて記述が短くなってしまう。そして最後の意味合いを文章化する際も、一言でまとめられる文章にしようと思うあまり、言葉足らずになる。口頭による補足説明なしで、相手が読めば理解できるレベルで記述することが肝要なのである。
ここまでSWOT分析を例に、フレームワークからきちんと「意味合い」を抽出することの重要性と、実行に際して求められるレベル感をまとめてきた。「なるほど」と納得していただければありがたい限りだが、しかし、「ではこの手順通りに進めてみよう」と考えるのはちょっと待ていただきたい。ここに記した手順は一つのフレームワークでもある。
フレームワークを鵜呑みにせず、一度自分なりに咀嚼して使いこなすことこそが重要なのだから。
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November 19, 2007
メーカー直販で購入したLet’s noteが届いた。
タイトルほど大げさなことではないのだが、購入前後で気づいたことなどを記してみたい。
今回購入したのはCF-W7。独立の時購入したのがW2なので、わずか3年あまりで5世代も進んだことがわかる。何ともモデルチェンジの早い世界だ。
選んだのは、OSがWindows Vista Business、CPUはインテル(R) CoreTM2 Duo プロセッサー超低電圧 U7600(1.20GHz)、ハードディスク160GBというモデル。
実はパナソニックの場合、選択肢はあまり用意されていない。CPUとハードディスクがU7500(1.06GHz) 80GBのものと、さらにOSがXPにダウングレードされている3タイプしかないのだ。(メモリは512MBと1GB増設が選べる)。
例えば他社、NECダイレクトなどは選択肢としてCPUは3種、メモリは7段階、光学ドライブ3種、液晶3種などなど・・・、選択肢の多さはかなりのものだ。しかし、3年前にW2を購入したときは、パナソニックもそうだったはずだ。
直販モデルの魅力は何といってもカスタマイズだ。自分の使用用途と予算に合わせ、廉価に抑えることもできるし、やたらとハイスペックにもできる。もちろん、ほどよいスペックにする賢い買い方が一番だろう。
しかし、パナソニックは大きくスタンダードとハイスペックの2つの選択肢しか用意していない。
察するに、これは流通(チャネル)対策ではないだろうか。
DELLのような直販専業ではなく、販売の多くを量販店と、まだまだ数多く残る小売店に依存している以上、直販が上回ることは許されない。
前述のNECや、かつての自社と比べて、カスタマイズの魅力を自ら封じているのは、流通対策をさらに強化したからではないだろうか。そして、直販ではハイスペックモデルの購入に誘導することによって、量販店をはじめとした流通とのコンフリクトを回避しようとしているように思える。
さらにパナソニックの場合特徴的なのが、「カラーバリエーション」を流通と直販で棲み分けている点にある。
昨今、パソコンはカラーバリエーションが盛んだ。これは、本体機能ではもはや差別化ができなくなっているからだ。マーケティングの世界では「カラーバリエーションはマーケティングのどん詰まり」ともいう。つまり、ほかに打ち手がなくなったときに盛んに行われるのだ。
問題は、カラーバリエーションを多数展開すると、流通在庫がふくらむという点にある。リスクが大きく高まるのだ。NECやソニーがノートPCのカラーバリエーション展開を強化しているが、相当なリスクを覚悟してのことだと推察できる。
その点、直販はBTO(Build To Order:受注組み立て)が基本のため、カラー部品の在庫だけですみ、流通在庫を避けることができる。DELLも現在、カラーバリエーションに乗りだしているが、パナソニック同様、リスクは低減できているはずだ。
このことから、パナソニックの展開は本体とカラーのバリエーションの考え方に特徴があることがわかる。
本体のバリエーション、つまり、前述のCPUやハードディスクをはじめ、光学ドライブ、液晶の組み合わせ選択肢を極力少なくする。
これには前提条件がある。元々、Let’s noteは高額でハイスペックだが支持されるというポジションを獲得しているからこそできることなのだ。
そのメリットは大きい。部材の在庫を抱えなくてよい、組み立てが簡素化できる、さらに、組み立てたモデルの数が少なくなることから流通在庫も削減できるのである。
もう一つのカラーバリエーションに関しては、前述の通り、流通モデルで展開すると、流通在庫が深刻になる。これを直販だけで展開する意義は大きい。
つまり、値頃感のあるスタンダードモデルを主に流通で販売させ、直販ではハイスペックモデルを中心にカラーバリエーションで展開するという棲み分けを行っていると考えられる。
コンフリクトと在庫対策という意味において、これはうまくできた設計だといえるだろう。
今回のことは一ユーザーとしての、あくまで推測に過ぎないが、自らの購入プロセスから様々なことがわかる。正解がどうかはともかく、思考訓練としてはなかなか楽しいものだ。
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November 16, 2007
コンサルティングや、ミドルマネジメント研修などで企業に招かれる場合、やはり何らかの課題を抱えていたり、大きな変革期である場合が多い。
そんな時はミドルの役割が重要であるはいうまでもないのだが、その意識と行動で結果に大きな差が出ることになる。
キーワードは「マクロとミクロの視点」だ。
「会社のビジョンが明確じゃない!」:マクロ視点で俯瞰し直せ!
「ビジョンの不明確さ」はミドルからよく聞こえる不満だ。
変革期において、企業のトップマネジメントから大まかな戦略の方向性が示される。
その方向性は、わかる気もするし、間違いではないようにも思う。しかし、具体的でない。そんな不満だ。
確かに「戦略」と言うにはなかなか厳しい内容のものも少なくない。
色々と修飾語はついているものの、突き詰めれば「このピンチをチャンスに変えるように。以上。」という場合もある。
だが、文句を言っても始まらない。各々が現場を任されているミドルなのだ。戦場は自分の前に広がっている。
そんな時は、ミドルに求められるのは、マクロ視点で現在の状況を俯瞰し直すことだ。
「マクロ視点はトップの役目だろう?」と言っても始まらない。「指示が明確でない」からこそ、ミドルなりに己の視点で状況を俯瞰し直すことが必要なのだ。
ミドルの視点で俯瞰し直せば、トップが見えていない、現場展開につながるヒントも見えてこよう。
「マクロ視点はトップの役目」という固定観念を捨て、自ら動くことが必要なのである。
「現場が動かない!」:ミクロ視点で為すべき事を示せ!
「危急の時だというのに、現場の危機意識が低く動かない」という声もよく聞こえる。
しかし、現場を任されているのは自分たちミドルだ。動かない責任は自らにある。
なぜ、現場のスタッフは動かないのか。動かないのではなく、動けないのだ。
危機意識の不足ということは外れてはいないかもしれない。状況が理解できていないのだとしたら、理解させるために、会社からの全体方針を通達するだけでなく、前述の自ら俯瞰し直した視点で、現場が理解できるように伝え直すことが必要だ。
それでもまだ動かないとしたら、それは動き方がわからないのだ。
ミドルにできて、トップにできないことは、細かな現場への指示だ。
例えば、何らかの数字的な目標達成を求められているのであれば、「数字を達成しよう!」と現場スタッフに言っても仕方がない。
目標数字は恐らく、それまでの数字にいくらかが積み増されている状態だろう。スタッフも今までサボっていたわけではないはずだ。新たな目標達成しようと思っても、積み増し分を具体化する方法はわからない。
いかに動けば数字につながるか。ミドルはスタッフ以上にミクロ視点を持ち、微に入り細を穿つようにして具体的な指示を出さなければならない。
「現場スタッフのモチベーション」を問題にするミドルも多い。しかし、モチベーションが高まらない大きな原因は、スタッフの不安である場合が多い。
環境の変化に対する不安。具体的にどう動けばいいかわからない不安。
ミドルマネージャー自身も、冒頭の「ビジョンが明確でない」という不満だけを呈している状況では自らの不安から抜け出せない。
ミクロ・マクロの視点を持って道を切り開くこと。現場スタッフの不安を取り除き、指示を具体化させ、高いモチベーションで業務を遂行させること。
ミドルマネージャーに求められるのは、広汎にして過重な責任であるが、日本企業はミドルが動かしているといっても過言ではない。
「奮てミドル!」である。
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November 14, 2007
Common Senseとは「良識的な判断力」と訳される。しかし、その基準は時と共に移ろうようだ。新幹線の車内にて、その現場に直面した。
「その臭い、何とかなんないですかねぇ」。隣席からの言葉の意味を、筆者は一瞬理解できなかった。
所は新幹線の車中。時は午後1時を回ったところ。筆者はあまり車中にて飲食をする習慣はないが、その日はその時間に駅弁を摂らねば食事のタイミングがなかった。正午を過ぎているが、昼食として同様に駅弁を広げる人も少なくなかった。ましてや最近は「豪華弁当」の登場以来、ちょっとした駅弁ブームだ。隣人は何が気に障ったのかだろうか。
同じ駅から乗車した彼は、着座するや否や、ノートPCを広げ何やら仕事を始めた。
車掌が来た時も、パソコンの画面から目を離すことを厭うように乗車券を差し出した。
何とも忙しいヤツだなぁ。と思った。
彼の世界では、恐らく新幹線は「執務空間」なのであろう。確かに昨今の車中ではノートパソコンを広げる乗客が随分と多い。平日ともなれば、行楽客よりもビジネス客の比率が大半を占める。かくいう筆者も行楽の数十倍も商用で新幹線を利用しているし、その移動中に記したコラムも数限りない。斯様に、今日、新幹線は行楽よりもビジネスに多く用いられ、その車中でのルールも変遷しているようだ。
筆者が広げたのは、「二段重ね鰻弁当」。タレを染み込ませた飯に、鰻の蒲焼きが二重に仕込まれているという逸品。「鰻の蒲焼き」の旨味を形成するに欠かせない馥郁たる香り。冷めた弁当となっては随分と魅力を失うが、香気を醸し出すために製造業者は心を砕いているはずだ。確かに幕の内弁弁当と比べれば、少々香気が立ち上ったかもしれない。駅弁となっても主張する鰻の香りが隣人は気に食わなかったようだ。
恐らく、執務をこなしている彼からすると、「昼休みの時間外に臭気を発する弁当を広げ、ビジネスを妨げるとは何たる行為」と受け取られたのだろう。確かにオフィスで定められた昼食時間以外に鰻弁当を広げられるのは迷惑だ。
「平日に商用で移動するビジネスマンがほとんどの新幹線車両内は、ビジネスルールが適用されて然るべき」というのは、ひとつの今日的なCommon Senseであろう。乗客比率を見ても、その乗客たちの行動を見ても頷ける部分は多少ある。今回の筆者のように、自らも商用のさなかに呈された不満であれば、まだ許容すべき解釈もできる。
だが、商用中に食事の時間がずれたというようなことではなく、「たまに休暇が取れた」というような「ハレの日」だとしたらどうなのか。
平日なので、幸いにも混雑が回避できるかもしれない。秋の京都の紅葉はさぞや綺麗だろう。休日なら大混雑な京都を少しでも空いた状態で楽しめる僥倖に感謝して新幹線に乗る。駅弁の一つも広げたくなるだろう。休みとあれば、少々ビジネスタイムとはずれることもあるだろう。そんな時に隣席から苦情が呈されたとしたら、せっかくの休日が、随分と興醒めになってしまう。
「平日の新幹線はビジネス空間」と決めつけては、そんなほんの少しの多様性も飲み込んでしまいはすまいか。
かつて、新幹線の中でオフィスと変わらぬぐらいの激務をこなすことなど考えられなかっただろう。テクノロジーの進化と社会環境の変化はCommon Senseを時と共に移り変わらせる。しかし、敢えて旧来の価値を認めて保つべきこともあるのではないか。
移動は商用の一部に組み込まれても、他の目的を持った乗客の存在を黙殺していい理由にはならない。
多様性を失った社会。それは何とも息苦しい世の中だ。自らの変化した環境に基づくCommon Senseだけを人に強いることは避けたいと思う。
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November 12, 2007
ビジネスパーソンのためのパーソナルプロデューサーを名乗る株式会社パーソナルデザイン 代表取締役の唐澤 理恵さんのコラムを読んだ。(ツバを吐く男 Part2)
街中で紳士然とした姿で路面にツバを吐く男性の姿が描かれ、それは「男性ホルモン”テストステロン”の働きによる、男らしさの表現かもしれない」と推察されていた。
確かに生理学的な解釈としては正解かもしれない。しかし、別の切り口でも考察してみようと思う。切り口は、その舞台となっている「都市空間」だ。
同コラムではあるアンケートで、ツバを吐いた経験のある男性ビジネスマンは6割。タバコのポイ捨ては4割ということであったが、比率はともかくいずれも高率であることは間違いない。確かに街中でどちらもよく目にする。しかし、記憶を辿ってみるとその姿が昔と変わってきている気がするのだ。
タバコが短くなる。それを唇から指でつまんで、流れるような自然さで路面に落とす。火を消すことすらしない。ツバを吐くにしてもそうだ。吐きたくなったら所構わず。正にアスファルトの路面に速射である。
昔の風景を思い起こすと、タバコを路面に捨てるのは喫煙者比率が高かったことから今日よりもよく見られた。路面に吸い殻も多かった。しかし、捨てる人は、ちょっとどこに捨てようかとキョロキョロし、道の隅に投げ、その上から靴で踏みつけていたのではないか。ツバを吐くにも植え込みなど、吐いたツバがそのままの状態で残らない、人の目に触れにくい場所にしていなかっただろうか。この変化は何なのだろうか。
一つにはその行為以前に、都市空間が変化しているのではないだろうか。空間とは、そこに存在する人々も含めてである。
都市は清潔になった。路面もほとんど舗装整備された。街行く人々のマナーも向上した。
反面、それについて行けない人を生んだのではないだろうか。空間が美化され、マナーが厳しくなる。街を汚損する行為はもとより、そもそもの喫煙行為自体が非難の対象になる。ある意味、耐えられない息苦しさを感じる人もいるだろう。
ある程度我慢を重ねる。しかし、ある日、「もういいっか!」とエスケープしてしまうのだ。
一端、エスケープするともはやポイ捨ては無意識の行為になる。タバコを吸い終わる。不要になる。不要な物はそのまま捨てる。流れるような動きの完成だ。
もちろん喫煙者の大半は喫煙禁止区域では我慢しているし、携帯灰皿を利用している。問題は、既にエスケープしてしまっている人々なのだ。さらに、その比率は増えているような気がしてならない。禁煙の高まりや、喫煙禁止区域の拡大に比例するように。
ツバを吐く行為についてもそうだ。路面に未舗装箇所はもはやない。土のある植え込みもきれいに整備され、花などが植わっていたりする。簡単にツバを吐く場所などない。すると、場所を選ぶ努力を放棄してしまう。ティッシュを使えばいいだろうと思うが、そこまでの努力は厭う。結果、そのまま吐き捨てる。
人によって清潔さを保つことに対するストレスは異なるし、ストレスに対する耐性、許容量も異なる。同じ都市という空間を共有する人々同士のその差異がトラブルを生む。ごく下らないことでいさかいが起る。
もはや見慣れた風景になりつつある、朝の小競り合い。清潔な都市空間からの逃亡者と、その規範内に留まる者の喧嘩であることも少なくないのだろう。
都市美化の動きは止まることはない。非喫煙者としては歓迎だが、無用なトラブルは遠慮したい。しかし、美化された路面に吸い殻やツバを発見するのもうれしくない。
どこかに“抜き所”を作るべきかもしれない。あちらこちらに整備されつつある喫煙所もいいだろう。ツバをどうすればいいのかはわからないが、都市に住む者同士が共存するため、もう少し知恵を絞る必要がありそうだ。
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November 06, 2007
マクドナルドの牛肉パテ4枚「メガマック」。すきやの牛の具3倍「メガ牛丼」。他にも持ち帰りやコンビニの弁当やでは、ボリュームのあるおかずがダブルに入っているメニューが多数、登場している。
それらのメニューが次々と上市されるのは、市場の強い要請があるからに他ならない。
そして、さらに危険なのが飲食店のランチメニューが「ガッツリ系」になってきていることだ。
関東人からするとお好み焼きや、焼きそばにご飯が付く、関西風「炭水化物定食」はなかなかガッツがいるものだったが、最近の流行はそんなカワイイものではないようだ。
弁当に習って「おかず二倍」。
先日洋食屋で食べたランチセットは「ドミグラソース・ハンバーグとサルサソース・チキングリル」。
脈絡のない二品が皿の上でサラダを挟んで牽制しあっていた。
昨日のランチは丼とうどんの店。
ランチのセットは「丼ORうどん」ではなく、全て「丼ANDうどん」。二倍だ。
しかもカレーうどんと味噌カツがお勧めらしく、味噌カツ丼と小カレーうどん(小といってもかなりボリュームあり)のセットが一押しでメニュー表示されている。総カロリー数は恐ろしくて想像もできない。
ファストフィードや弁当、ランチの「メガメニュー」や「二倍メニュー」は言うまでもなく「メタボ撲滅運動」の反動だろう。
やはり、ものごと、何らかの働きかけをすると、その「反作用」が起る。
働きかけが大きいほど、反作用も大きくなる。
男性のメタボリックと判定されるウエストサイズが85センチなのか、90センチなのかが激論の末、厳しい85センチのままに落ち着いた。
来年度からは企業は社員の健康管理、メタボリック防止も制度化される。
こうした厳しさがより大きな反動を生んでいるのは想像に難くない。
メタボリックシンドロームと、それによって引き起こされる様々な疾病が啓発されることは歓迎すべきことだろう。
しかし、一方で「疾病啓発」は実は「病気のマーケティング」となる側面も見落とせない。
世間の人々、例えばある程度の年齢以上の人ならば、概ね当てはまるような事項をもって、「病気、もしくはその予備軍です」と断定する。疾病啓発によって「病は作れる」のである。
さらに、その断定する基準を厳しくすればするほど、マーケットは拡大する。しかも予防が法制化されるとあっては、巨大マーケットが出現することになるのだ。
逆に基準を緩くすることは、その市場をシュリンクさせることになる。
メタボを巡るこの狂想曲とも言うべき悲喜こもごも。
「たべた~い、でも、やせた~い」という名コピーでかつて女性向けダイエット食品が一世を風靡したが、世の男性はあまり我慢ならずに喰ってしまうようだ。
あまりに反作用が大きくならないように、適正な疾病啓発と、市場形成がなされることを願って止まない。
・・・最近はけなくなった30インチのジーンズを前にして。
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November 02, 2007
コンビニをよく使う。だいたい飲み物を買う。単品買いだ。当然、レジ袋などいらない。
そこで「袋をご利用になりますか?」とか、「このままでよろしいですか?」とか、声をかけられる確率は5割ぐらいか。
声かけを待つのも面倒なので、商品を提示すると同時に「このままでいいです」ということが多いのだが。
だが、昨日から日本フランチャイズチェーン協会(FC協)加盟コンビニエンスストアがレジ袋が不要な消費者用のカードを一部店舗で導入したという。
東京では杉並区あたりが対象エリアらしいので、まだ遭遇していないが、袋がいらない客がカードを提示すると、商品をそのまま差し出されるようだ。
・・・ああ、また不自然な。
以前、高島屋の一部店舗で試行されている、店員から声をかけられたくない客が、「S.E.E.」カードというものを首から提げるというサービス(?)を紹介した。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/06/biz_b168.html
全く同様な違和感がある。
FC協・海江田哲専務理事のインタビューを見つけた。
http://eco.nikkei.co.jp/interview/article.aspx?id=20071031i3000i3
曰く、「2010年に2000年比で、1店舗あたりの使用総重量を35%削減する数値目標を立てた」
「2006年度で19.7%、目標に少し届かなかった」
「アルバイトが替わってしまったりして、お客様への声かけが徹底されていないケースが多い」
「2007年度は何とか目標をクリアするため”不要カード”を導入する」とのことだ。
削減の目標を持つのはいい。また、目標達成が困難な事情・理由もわかった。
が、どう考えてもその店頭での光景は不自然ではないだろうか。
店員への徹底がうまくできないので、来店客に意思表示のカードを出させる。
何とも不気味な無言のやりとりと感じるのは私だけだろうか。
高島屋のカードもそうだった。
声をかけてほしい客と、欠けてほしくない客の見極めを店員ができないので客に首からカードをかけさせる。
人と人の意思疎通が、努力ではなく代替手段によってどんどんスポイルされていくように感じる。
レジ袋削減による環境負荷軽減効果がどの程度なのかわからないが、確かにできるところからコツコツとやることも必要だろう。
削減努力が何らかの原因でできないのであれば、その解決に知恵を絞ることも。
しかし、前提として人と人のコミュニケーションを介することは忘れないようにしてほしい。
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November 01, 2007
タイミング的にこの場を逃すとランチを取り損なう。
普段、めったに百貨店のレストラン街で昼食を摂ることなどないが、まぁ、たまにはいいかと足を運ぶ。
かつての「デパートの大食堂」のような、牧歌的というか、家族的な雰囲気はない。
百貨店自体が高級志向の店だからか、名店が軒を連ねる。
中高年の主婦グループか、子育てママグループが多く見受けられる。一様に身なりがいい。
ビジネスパーソンの姿は非常に少ない。
それもそのはず、メニューの平均的な価格は軽く1500円を超え、2000円オーバーも少なくない。毎日の昼食には少々予算オーバーだ。
若い男女と一人の中年男性のビジネスパーソンが店に入ってきた。
メニューを見てちょっと躊躇したようだが、若い人たちはちょっと奮発という判断をすぐにしたようだ。
中年氏は逡巡の色が隠せないが、やがてオーダーをした。
かくして運ばれてきたのは、どう見てもお腹いっぱいにはならないような、少食の人向けで単価の安いコース。ちょっと気の毒。
しかし、ビジネス街のランチ風景からすると、ここは異空間だ。
少し早めの時間だが、ランチを切り上げ駅に向かう。
改札に隣接したレストランでは、多くのビジネスパーソンがランチを摂っている。平均的な価格は1000円前後。
とても安心できる。随分と混んでいるけれど。
さらに電車に乗るためにホームへ。
片隅には立ち食い蕎麦の店。多くの人々が、鞄を脇に抱えたり、経った足下に挟んだりして、忙しく蕎麦をすすっている。単価は500円以下。この風景にも馴染みがある。
ホームから、改札まではエスカレーターで一本。
改札から少し歩いて、エレベーターで十数階上がると異空間のランチが展開されている。
これも同じ東京という街の、同じ時間の風景だ。
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October 30, 2007
近年のPC普及は私たちの生活やビジネスに多大な恩恵をもたらしてくれている。
しかし、「光あるところには影がある」。負の側面も見逃せない。
今回はその負の側面の中から、一つを切り取ってみたい。
キーボードの”アップル”+”C”。指定位置にポインタを移して”アップル”+”V”。
初めてMacintoshでコピー&ペースト、つまり「コピペ」を覚えた時、その便利さに驚いた。
さらに、その後Windowsに転んで、MS-Officeを利用するようになってから、プレゼン用のパワーポイントに、ワードやエクセルのデータまで貼り付けられるようになり、コピペ機能はもはやビジネスに欠かせないものになった。
他の人が作成した文書を再度利用する。つまりDuplication(複製)が日常化した。
確かに便利になった。効率的になった。だが、そこには大きな落とし穴があったのだ。
「呪いの企画書」という現象がある。
パワーポイントのよくできた企画書だ。全体の流れもいい。気の利いたグラフィックも貼り付けてある。アニメーションもなかなか凝っている。
こんな企画書を社内のファイルサーバで見つけたら、誰しも自分の業務に使うプレゼンに使ってみたくなるだろう。
全くそのまま使うわけにはいかないが、必要な部分を加筆修正すれば使えるように思う。修正して、全体を見直してみる。うまくできている。
かくして、そのデータをノートPCに仕込んでクライアントにプレゼンを行う。しかし、その反応はイマイチさえない。何が起ったのか・・・。
何が起ったのかといえば、「企画書の呪い」だ。
いや、ホラーな話ではない。
その企画書データは、実は社内で何度も「負けプレゼン」を引き起こしている経歴があったのだ。
「よくできている企画書」のはず。なぜ、そんなことになるのか。
「誰が見てもよくできている企画書」。
果たしてそれは、クライアントの求める内容にフィットしているのだろうか。
何らかのソリューション。つまり、問題解決を求めているのだとすれば、求められている内容はそんなに一般的なことなのか。
もちろん、再利用の際には加筆修正を行ったかもしれない。
しかし、見た目でよくできたパワーポイントは一種の思考停止をもたらす。「こんなにわかりやすいなら、きっと受けるだろう」と。
「わかりやすい」や「見た目のきれいさ」は当然、問題解決とは別次元のことだ。
そこを見失っては、当然、評価されることはない。
だが、「呪い」ともいうべき連鎖にはまる例が後を絶たない。
「コピペ」によるDuplication(複製)の容易さが根源であることはいうまでもない。
オリジナルを創り出すことは多大な苦労が伴う。
しかも、見栄えのするプレゼンに仕上げることは、更なる時間と労力を要する。
そうした時、「よくできたパワーポイント」を見つけてしまったら、その魔力に抗うことは難しいだろう。
良心の呵責からか、若干の手直しは行う。
しかし、それとても、さらにそのパワーポイントを魅力的に装飾するだけかもしれない。
そして、本質的な部分を置き去りに、さらに呪いの企画書はその魅力を増す。
今日のPC環境からすれば、Duplication(複製)は無限に可能だ。手間もかからない。
しかし、あえてそれを断ち切るべきなのだ。これは「呪いかもしれない」と。
容易にできるコピペと複製。オリジナリティーの喪失。
人は易きに流れるものであるが、「企画書は問題解決の道を示すものである」とい本質を忘れないようにしたい。
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October 25, 2007
重箱の隅をつつくような内容になるかと危惧しつつ、どうしても気になったので記したい。
各紙やサイトで報じられているが、広辞苑が10年ぶりに改訂されるそうだ。
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__jcast_12504.htm
ちょっとビックリするような新語も掲載されるようなので、詳しくはサイトや新聞を確認していただきたいが、一つだけ気になった。
上記リンクのサイトより<一方、採用を見送られたのは「クールビズ」「イケテる」などだ。>
まぁ、イケテるが取り上げられなくてもどうでもいいのだが、「クールビズ」は?
確かに、このBlogで何度も白状しているが、2005年当初、金森はクールビズ反対派だった。
その理由は「だらしないから」。
が、それから2年経って、スタイルも随分洗練されてきた。社会的認知も高まった。
何より、温暖化対策として、過度な空調を抑えるという主旨の重要性が増してきている。
クールビズ落選の理由は日経新聞(サイトにアップされていない)にしか記述がなかったが、「一過性の言葉だから」だそうだ。
同じく「一過性」として落選したのは「萌え」「イナバウアー」。
イナバウアーは確かに一過性だろう。萌えは微妙だが。
しかし、クールビズは一過性にしてはいけないだろう?
一過性にしないために、広辞苑にも取り上げるべきではないか?
もしかすると、既にクールビズの認知度は過半を占めていることから、特別な言葉ではなくなっているという判断かもしれない。
しかし、実践率は確か3割程度であったはずだ。
また、スタイルはともかくとして、「温暖化防止」の本来の主旨がどもまで浸透しているのか。
そもそもが、クールビズはネクタイを外すスタイルではない。
たかが言葉。されど言葉。
言語は思考を形成し、思考は行動を規定する。
広辞苑の語句選定はもっと俯瞰的思考で行ってもらいたいと思った次第だ。
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October 24, 2007
赤福がさながら偽装のデパートのごとく、次から次へと新たな事実が発覚し、何やらミートホープを思い起こさせるような事態になってきた。
中部〜関西地区の出張が多く、いつでも赤福が土産物店の店先に並んでいたが、ほとんど購入していなかった。
斯様な事態になると、「ああ、甘いものが苦手で良かった」などと、おかしな安心感を抱いたりするのだが、世間の人はそうでもないようだ。
企業姿勢と製品の品質に問題はあったものの、あの味わいが忘れられない人も多いらしい。
ということで、赤福にそっくりな「御福餅」の販売が好調という。
http://www.asahi.com/national/update/1023/NGY200710230003.html
製品の中身と及びパッケージの意匠がそっくりなので、コピー商品かと失礼な認識を持っていたが、そんなことはなく、会社組織になってからは数十年だが、その歴史は古いようだ。
ともあれ、食品の信頼性が傷ついた時には、同一カテゴリーの製品は少なからずダメージを受けるものだが、かえって売上が伸びているとはどういうわけだろうか。
ミートホープのミンチ肉偽装の直後は、外食メニューでもメンチカツやハンバーグなどを避ける人も多かったというのにも係わらずだ。
根拠はないものの、その理由を少し考えてみる。
まずは、問題が発覚したが、赤福自体の人気が恐ろしく根強いというのは事実だろう。
購入者からの信頼性喪失は、製造者に対するものであり、製品自体の人気は根強い。
この辺りが、赤福がその支持基盤の上にあぐらをかいてしまった原因でもあるかもしれない。
逆に言えば、それをスポイルするとは何とももったいないことだ。顧客からの支持に慣れきってしまうことの何と恐ろしいことか。
少し、横道にそれた。別の考え方もある。
食品衛生法違反となる重大な事実まで遂に発覚しているが、とはいえ、誰かの健康被害が発生しているわけではない。
例えば、昭和59年に真空パックで販売されていた「からしレンコン」にボツリヌス菌が繁殖し、36名が食中毒に罹患。11名が死亡するという事件があった。
ここ数年、ようやくからしレンコンが東京界隈でも食せるようになったが非常に長いこと、生産地付近でしか販売されていなかった。
一部の生産者の引き起こしたことで、その市場自体が壊滅的なダメージを受けた例だ。
今回は、幸いなことに被害が出ていない。
故に、ほぼ同一のカテゴリーである、御福餅を敬遠する動きには至っていないのだろう。
さらに、重要なのは御福餅の成分表示だろう。
御福餅の原料は小豆、砂糖、餅米、酵素、保存料(ソルビン酸カリウム)。
何とも正直だ。酵素、保存料を使っている。かえって安心する。
赤福の問題発覚前は「保存料はちょっとね」という向きも多かったかもしれない。
しかし、「ソルビン酸カリウム」は同じく保存料として使用されている「ソルビン酸」より、遙かに安全な保存料とされている。
一律、保存料を避ける風潮は強いが、今回の赤福の問題はその感覚を少し改める必要も考えさせられるキッカケかもしれない。
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October 20, 2007
仕事を終え、事務所のある新橋から東京駅まで歩いている。
外堀通りをひたすらまっすぐ。
現在、有楽町界隈。再開発効果で明らかに人と人の流れが変わった。
人が多い! それも若い人が! 街が若返った感じだ。
それに何だかみんなお洒落をしている。
せっかく新しい街に行くのだから、ということか。
少し前までは、この辺りはもっと人が少なく、老若男女の比率も割りと均等。お洒落な人もいれば、ラフな人も多い場所だった。
まぁ、オープニング効果ということだろう。
しかし、みんな服に気合い入っているなぁ。
「こちらは通りすがりさ」と思っても、土曜出勤のやたらラフな格好が恥ずかしい。
では日と装いを改めて、新しい街を探検してみるとするか。
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October 19, 2007
■「携帯コラム」に挑戦
実は、ここしばらく入院していた。
昨夏の怪我の後手術なので、事前に予定が判っていたため仕事に支障はない。
が、問題はこのブログの更新だ。
そこで今日は、ブログの裏話として、ここ数日の更新の顛末をお伝えしたい。
実は少し前にも更新のピンチがあった。夏休みの旅行の時だ。
行き先はネットがつながらない所だったので、出発前に記事を書き貯めしておき、タイマーで毎朝1本づつ公開した。
しかし、今回は事前に書くネタが思いつかなかった。なので、入院中に勝負をかけた。
問題は、病院が「パソコン持ち込み禁止」なこと。
携帯は通話は特定エリアのみ可。通話以外は制限が書いていない。
・・・携帯で書くことに決める。
携帯で比較的長いビジネスメールも日常的に書いているので、書くこと自体に抵抗はないが、
コラムとして毎日書き続けるのは、ちと、骨が折れそうな予感はした。
■書く以前にネタがない!
さて、入院。
早速、翌日分のコラムを書こうとするが、ネタがない。「書く」以前の問題だ。
普段ならネタがない時は、街を歩く、本屋に行く、ネットを見まくる・・・といった行動の中で、何かにインスパイアされて書ける状態になる。
が、病院では無理。
病院の中を歩き回るわけにもいかないし、面白くもない。
本は売店に売っている新聞・雑誌だけが頼りだ。
普段あまり読まない読売新聞と雑誌数冊を買い込む。
次はネット。
が、携帯で見られるサイトには限界があるため、あまり役に立たない。
■さて、執筆
あれこれ見て、考えて、いくつかのアイディアが浮かぶ。
病室のベッドの上で携帯を取り出す。
整形外科病棟には病室に携帯の影響を受ける医療機器がないので助かる。
今回は徹底的に携帯でやろうと決めているので、メモも携帯に入力する。
メール機能の新規メールを立ち上げ、本文に思い浮かんだテキストを打ち込んでいく。
いくつかの方向性を思いついていたので、新規メールを複数作って、平行作業する。
その中から一番まとまりそうなものに集中することにする。
■携帯で書く留意点
文章を書く段階で注意したのは、携帯でも普段と同じ文章にする事だ。
携帯で書いた文章といえば、若年層に人気の「携帯小説」が連想される。
「会話文だけで構成されていて、全体の文脈が見えない」
「語彙が乏しい」・・・などの批判が携帯小説には集まっている。
まぁ、携帯だからというよりも、書き手の問題だろうと思うが、一応留意する事にした。
むしろ携帯の問題は、その入力の時点にあった。
「先行入力候補表示」がクセモノだ。
入力した語句に続く言葉を、携帯が勝手に候補を表示してくる。
うかうかとオススメに乗っていたら、本来の自分の文章にはならない。
しっかり頭の中で文章化して、次に入力しようと思っていた言葉とぴったり同じものが候補にすぐ見つかれば採用。
でなければ、すべて無視する。
携帯小説の「語彙の乏しさ」はこれも一因だろう。
しかし、一番難しかったのが、改行の調整だった。
携帯小説は携帯の液晶画面で読むことを想定しているため、一文が短い。
故に、書籍化された際にスカスカになる。
今回はパソコンのブラウザでの閲読を想定しているため、改行もその環境で最適化される配慮が必要だ。
が、やはり入力しているのは携帯から。
かなり頭の中での計算と、想像が必要だ。
とまぁ、そんなこんなで数日、携帯で作ったコラムをお目にかけたが、何日から何日の分か判っただろうか?
・・・今週月曜日の「赤福」の記事から、今日のこの記事までだ。
以前からお読み頂いている方なら、いつもと違うネタ元に気付かれたかもしれない。
それ以外に、先週までと文体の変化などに気付かれたらご指摘頂ければ幸いだ。
ということで、実験的携帯コラムは今週で終了。
来週からは通常通りの執筆スタイルで記し、お届けします。
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October 17, 2007
今月1日からシーズン入りしている「赤い羽根共同募金」。
初日は都内も通勤時間に、課外活動の高校生を中心とした募金を呼び掛ける声が響いた。
が、そのタイミングを外してしまったら、中々募金活動の姿を見ない。昔は年末までの期間中、何度も街頭で声をかけられたものだ。募る側も暇ではないということか。
だが、こんな状況では募金総額が減りはしないかと、いらぬ世話を考えていたら、やはり減っているようだ。
「95年の約266億をピークに減り、昨年は約220億」と読売新聞が報じていた。
同コラムでは赤い羽根の来歴も紹介されていた。
「米国で1928年に始まり、先住民族が勇者の頭に赤く染めた鳥の羽根をつけたことから勇気や善行のシンボルとして採用された」とある。
なるほど、赤い羽根は募金転じて勇気と善行のシンボルか。
だが、80年前ならいざ知らず、この多様化した世の中で誰も彼もが胸に赤い羽根を付けて歩いているのはどうにも抵抗がある。人知らず、密かに募金した方がいいのでは?と思う。
が、思っていたら、週刊文春に気になるコラムを発見。
「赤い羽根をしていないのは誰だ」。
10月1日と3日の国会で各議員の赤い羽根着用状況をチェックしていた。
チェックされると、「勇気と善行のシンボル」というより「免罪符」のような、半ば強制力を感じてしまう。募金総額の落ち込みも、そうした感触が嫌われはじめている証かもしれない。
だが、「福祉施設の備品購入」「ボランティア活動支援」という募金活動の主旨には賛成だ。
なら、賛同者はその意思を表明し、運動を盛り上げるために、赤い羽根を着用せよと言われるのだろうな。
いやだな。
何がイヤかって、着色した鶏の羽根を胸に着けるのはオシャレに感じないから。赤い小物は大好きなのだが。
募金、1円からOK。一律赤い羽根。・・・ではなく、もう少し工夫はできないだろうか?
募金500円以上でピンズ進呈。
募金2500円以上でラペルピン進呈とか。
さらに、かつてタバコのプロモーションでよく行われた「セルリキ方式」。赤い羽根10枚と募金3000円で、もれなく、豪華○○○を進呈とか。
気の効いたプレミアムの提案なら、広告代理店が喜んでやってくれるのに。
とにかく、募金総額が減ったと歎くより、誰が羽根を着けている、いないと騒ぐより、まずはもう少し工夫してみるべきだと考えた次第だ。
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October 12, 2007
猛烈な残暑もようやく終わり、やっと秋らしくなってきた東京地方。
10月なので衣替えの季節か。と思いきや、KIOSKは制服のリニューアル。郵政も民営化に伴って制服が刷新されていた。
どちらも季節に合わせてか、暖色使いでなかなか良い雰囲気。
さて、来月からの冬季は「暖房は20℃までにおさえて、衣服で調節しましょう」というウォームビズの季節になる。
この秋以降、ワードローブをどうしようかと思案しながら、街行く人々の衣装を目で追ってみた。
女性はやはり秋らしい装いが目立つが・・・男性は何やらクールビズを引きずってか、襟元にネクタイが戻っていない人が多いようだ。
確かに涼しくなったとはいえ、ネクタイは窮屈。また、絞めると夏の暑苦しさを思い出す気もする。
以前調べたのだが、そもそもネクタイの発祥は諸説あるが、17世紀クロアチア騎兵隊の首に巻かれた色鮮やかな布であるといわれている。
クロアチアといえば地中海から大陸に広がる国で、内陸部なら夏でも平均気温は20度前後。
そのネクタイを日本に持ち込んだのはジョン万次郎が最初であるともいわれているが、そもそも日本とは気候は大きく異なる国の装い。本来はあまり適しているものではないのだろう。
筆者自身は、クールビズ元年の2005年時点では、「男がネクタイを外したダラケた格好でビジネスをしてどうする!」と反発していたものだが、
さすがに40℃を上回る猛暑となった今年の夏は、たまらずに、ネクタイなしの日が過半を占めた。
ネクタイを外した途端に豹変するのもなんだが、実際にあるとナシではリラックスさが随分と異なる。
一人でデスクワークの時のリラックスさ。人とディスカッションしている時のリラックスさ。いずれも発想が豊かになり、生産性が高まるように感じるのは気のせいか?
しかし、今を去る20年近く、筆者の新入社員研修の時に「ビジネス・ドレスコード」という研修を受けた時のことが思い起こされる。
その主旨は以下の通りだ。
・ビジネスでは相手と同じ土俵に立つことが重要。
・まずはそれを服装で示すのが「ビジネス・ドレスコード」。
・スーツにネクタイは、相手と同じルールで行動することの証明ともなるので重要。・・・云々。
さすがに20年近く前のことなので、古くさい考え方だが、今日でもあまり認識の変わらない人もいるのではないだろうか。
「得意先にはノーネクタイで行けないからね」と汗をしたたらせる営業職の人も、この夏の猛暑の中でまだ見かけた。
「ノーネクタイはNG」とするのは、得意先の暗黙のプレッシャーのせいなのか。
確かに、営業訪問先の担当者がネクタイ&スーツなのに、ノーネクタイのシャツ1枚では少々居心地が悪いだろう。
だが、環境負荷低減が求められる世の中、官庁や大企業がそうしているように、バイヤー側の企業及び、担当者こそ楽なスタイルを実践してもらいたいものだ。
同時に、「ノーネクタイはNG」とするのがかつての筆者のように、「男がネクタイを外したダラケた格好でビジネスをしてどうする!」という自分自身で設けた制約条件かもしれない。
だとしたら、是非一度、ビジネスカジュアルを実践してみることをお勧めしたい。環境負荷低減だけでなく、先に述べたように、思考生産性の向上が期待できるだろう。
「相手と同じ土俵に立つこと」「相手と同じルールで行動すること」は昨今の”ダイバシティー(多様性)”という考えの元では必ずしも正ではなくなっているのではないだろうか。
時代の変遷と共にルールやcommon senseは変わってくるものだろう。
新しい季節に、少しだけビジネススタイルも考え直してみてもいいのではないだろうか。
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October 05, 2007
金曜なので、少々くだけた内容で失礼します。
あくまで「マーケティングっぽく」書いてみようと試みましたが、要は、個人的体験の”ぼやき”です。
ぼやきも金森Blogの名物と言ってくださる一部の読者の声に甘えて・・・。
ここしばらく出張が多く、しかも行き先が数カ所に固定されているので家に買って帰る土産物も固定化傾向にあった。
食べる家族も飽きるため、多少バリエーションの変化をつけても売れ行きが悪くなる。
冷蔵庫にいつまでも箱が虚しく残っている光景は何とも寂しい。
と、いうわけで、新しい商品があるとすぐに購入するのだが、先日は「画期的!」と思えるモノに出会った。
先月の大阪郊外出張の帰りは、珍しく近鉄経由で京都から新幹線を使った。
近鉄に乗るなど、学生の時以来で新鮮だったが、近鉄京都駅のJR乗り換え改札横の土産物屋にそれはあった。
京都はいつもJR新幹線改札内の土産物屋を利用するのだが、やはりバリエーションの固定化が否めない。
そんな状況で、近鉄で目にした土産物は新鮮だった。
その日は(商品名を失念したが、)煎餅の間に餡が挟んであるような菓子を購入。
6枚入りを購入したが、6枚とも全部味のバリエーションが異なる。
娘に大好評。また買ってきてと言われる。
土産慣れしている娘からリクエストがあるのは珍しく、大成功と密かにほくそ笑んだ。
さて、今週は京都出張があった。
帰りはJR京都駅にまっすぐ戻ったが、前回の成功体験が忘れられず、わざわざ150円の入場券を買い近鉄の乗り場に入った。
目指すは改札横の土産物屋である。
が、残念。例の”餡入り煎餅”は既に閉店。
だが、前回目を付けていた別の土産物の売り場はまだ開いていた。
”餡入り煎餅”はそのバリエーションの多さと、餡が受けた。
だが、目の前にあるのは、その煎餅よりも遙かに多いバリエーションを展開している菓子だ。
大福のような形状だが、その餅のような外皮のカラーバリエーションは、まるでカラーパレットのごとく、広いショーウィンドウ一面に展開されている。
中の餡も各々味が異なるという。うーんこれなら間違いない。
保冷剤を入れて、持ち歩き時間3時間までとのことだが、京都から自宅までなら大丈夫だ。6個購入する。
さて、いそいそと買って帰り、ショーウィンドウの写真を見せたりしながら「今度のも凄いんだぞ」と娘とに見せる。
ん?何だか反応がない。
横から妻が「ああ、モチクリームね、隣の駅の駅ビルに売ってるじゃない。何?わざわざ京都から買ってきたの?」と。
・・・(泣)・・・。
どうやら「モチクリーム」というスイーツで、全国展開しているらしい。
モチクリームを熱く語っているBlogもあった。
http://xn--pck9ayff6byg.269g.net/
↑このBlogによれば通販までやっているらしい。
「全国展開のショップばかりできたらご当地風情が失われるじゃないか!」とも考えてみた。
しかし、それとても、もはや各地の駅にもある「銀座コージーコーナー」のような例もあり、珍しいことではない。
「マーケターは何でも知ってなくちゃ!」といつも金森は言っているのだが、やはり関心の薄いスイーツ情報にはアンテナが立っていなかったようだ。
マーケターとしてはアウト。
とんだ紺屋の白袴という今日のお話しでした。
【おまけ】
京都出張の際に立ち寄った「東寺」の写真を公開しています。
http://kmo.air-nifty.com/photos/business_trip/index.html
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October 03, 2007
以前にも記したが、最近、クレーム対応術に注目が集まっている。
確かにクレーム対応には慎重を期さねばならないが、クレームになる前に切り抜けることもまた大切だろう。
夏季休暇のハワイからの帰路での出来事を思い出した。
航空会社はノースウェストを利用した。
筆者の座席側を担当するパーサーは白髪の黒人。ちょっと厳つい顔。
ビールが飲みたくなって、彼に欲しいと告げた。
1缶、日本円なら500円。ドルなら5ドル。
為替レートから考えれば、どう考えても円の方が特だ。
円で払いたいという。
往き道では500円玉があったので問題なかったが、千円札しかなかった。
釣り銭はないと言われる。なので、ドルで払ってくれと。
だが、セコイ話だが、ドルだと損になるので嫌だと筆者は言った。釣り銭を持ってきてくれと。
今にして思えば、実に嫌な客だ。
彼は言った。残念だが、機内にはあいにく500円玉がない。
ほかの乗客が払ってくれていればよかったが、今はないと。
一瞬、膠着。
が、次の瞬間、彼はその厳つい顔を思いきり「ニカッ」とさせて、こう言った。
「いい考えがある。ここにビールが2缶ある。これをあなたに差し上げよう。代りに私はあなたからその千円札を頂く。
あたたはビールを2缶も飲めて、自分は釣り銭で悩むことから解放される。こんないいことはないだろう?」
よく聞けば全く当たり前なそのセリフを、実に面白おかしく話す。
このとっさの機転とユーモア。
下手な言い方をすれば、日本なら「何をいらないものまで売りつけるんだ!」とそれこそクレームになるかもしれない。
ユーモアはスキルなのだ。
米国人のジョークが面白いかどうかは別として、彼らはユーモアとウィットを尊ぶ。
それはそうだ。人種も違えば、生まれた国も違う。
下手をすれば言葉だってやっとやっと通じるくらいの人々が同じ国で生活しているのだ。
グダグダと話すよりも、時には機転を利かせ、笑って済ませられるようなスキルがなければやっていられないだろう。
日本流の誠心誠意のクレーム対応を否定するつもりは全くない。
筆者自身もその要務についていた時期も長い。
また、誠心誠意の反対がユーモアではない。
だが、全く別の軸の上に「ユーモアのスキル」というものがもっと育ってもいいのではないだろうか。
生活者も、それを受入れるようになってもいいのではないだろうか。
「ダイバシティー・マネジメント」は「女性の管理職登用」だけの問題ではない。
「多様性にいかに対応していくか」である。
多様性への対応であれば、米国は先進国だろう。
そこから学ぶものも多いはずだ。
さしずめ、ユーモアはその最初の方ではないだろうか。
笑って済ませられることは、できるだけそうした方がいい。
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September 21, 2007
過日の記事”「顧客“納得”」の充実を望む”のちょっとした続編。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/09/post_e46d.html
この記事を読んだ知人から『昔、会社の上司に”納得しなくていいから理解してくれ”。状況をわかってくれ。』と言われた事が思い出されるとコメントをもらった。
「顧客満足>顧客納得>顧客理解」。
これは顧客対応の方程式としては重要なことではないだろうか。
今回の発端である、金森の事務所の会議室使用条件変更。
最初、「実質的値上げ」としか理解できなかった。
家主からのレスポンスも「色々なご意見があるかと存じますが、一人でも多くのお客様快適にご利用頂きたい」というような”納得”以前に”理解”ができない一般的な回答。
そして、「入居者の会議室利用と要望に関する実態の開示を!」と更なる要望を行い、ようやく「理解」の一端に繋がる「事実(情報・Fact)」が開示された。
オフィス入居者の会議室利用実態と要望だ。
「状況」はわかった。”色々なご意見”の一端もわかった。
「納得」はできないが、かろうじて「理解」はできそうだ。
しばらくはその新方針に従ってみようと思う。まぁ、”店子”だし。
しかし、顧客説得のプロセスというものの重要性を自ら体験した気がする。
「顧客満足>顧客納得>顧客理解」・・・である。
まずは「情報開示」である。
「わかってもらえるはず」は通じない。
「コミュニケーション」の語源はラテン語の「共有物」にあると当Blogで何度も記した。
「共有物」。
「物」である。
具体的な”情報”がなくては共有はできない。
”情報”は「理解」を促進する。逆に”情報”がなくては「理解」はできない。
”言わずもがな”という日本古来の習慣。その弊害も何度も指摘してきた。
今回の件にも通底している。
企業は「顧客満足」を目指すべきであることは間違いない。目指すべきだ。
だが、その実現は難しい。その手前に「納得」がある。
しかし、今回、金森も学んだのは「納得できなくとも”理解する”」ということ。
大人な結論に感じるかもしれないが、この”前提条件”としては、”事実情報の開示”があるということ。
その”事実”が”状況をわかる”必要条件と合致すれば”理解”ができるのである。
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September 20, 2007
先週後半は少々難いネタを続けてしまったが、連休明けは二連続で不満足事例の考察。
顧客満足は企業にとって変わらぬ重要事項であるし、事例研究は有用と思ってお付合いいただきたい。
(自己規定により不満足事例の個別企業名は伏せますのでご了承ください)。
過日、いわゆるビジネスコンビニというか、通常コピー・データ出力サービスを扱うPOD(プリントオンデマンド)のショップを利用した。
納品レポートを2日連続で持ち込み、製本のみを依頼した。
少部数なので、ほとんどビジネスらしいビジネスにはなっていないはずだが、店のスタッフはテキパキとしており、誠に対応がよい。
短時間で依頼したが、仕上がりは約束の時間ピッタリだった。
2日目に来店した際には、「昨日と同じでよろしいですか?」と、顧客の個別識別までしている。
予想外の良好な対応に驚きつつ、また機会があれば利用しようと思う。
その2週間後、留守電に伝言が入っていた。
店の本部からのようだ。
「こちらXXXですが、本日はお客様にご利用いただきました際の満足度を伺いたいと思いましてお電話しました。また改めさせていただきますので、よろしくお願いいたします」とのことだった。
うーん、何とも素晴らしいではないか。こんな少額利用客にまで満足度を確認しようというのか。
もとより、利用時の満足度は高かったので、電話がかかってきたら満点をあげてしまおうと思っていた。
・・・が、その後電話は一度も来ない・・・。
「また改めさせていただきますので、よろしくお願いいたします」って言ったじゃない・・・。
仕上がり時間の約束はきちんと守ってくれるのに・・・。
せっかくの現場の良好な対応。
本部は良かれと思ってやっている「満足度調査」だろう。
再度電話をしなかったのは、細かいオペレーション上の間違いかもしれない。
しかし、顧客の満足も、現場の良好な応対も、調査を実施しようという主旨も、その間違いが全てスポイルしてしまった。
「もうあんな店、利用しない!」という大人げないことを考えるほどのことではない。
間違いなく、必要な時にはまた利用するだろう。
しかし、小さな間違いで、小なりといえども「不満足」が喚起されてしまったことは残念だ。
満足感は、顧客の持っているイメージと現実のギャップが良い方に大きければかなり高まる。
それが最後に覆ってしまった状況だ。
「満足度調査」の対応は、極めて慎重にやらねばならないと考えさせられる体験であった。
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September 18, 2007
経営課題の重要事項として「顧客満足」の向上・達成を掲げる企業は多い。
だが、全ての顧客を満足させる事は難しく、また、顧客が満足する要件と、その他の経営課題のベクトルは必ずしも一致しない。
例えば、何らかの理由で値上げをしなくてはならない場合などもあろう。値上げは確実に顧客の利益と相反する。値上げに対して顧客は最悪、離反行動をとる。そうならなくとも、不満の意を呈する。「顧客満足」とは程遠い状況になる。
斯様な事態を回避するなら、「値上げ」を上回る便益、もしくは付加価値の提供が有効だ。
但し、それが顧客にとって明らかに便益なり付加価値として認識される事が絶対条件だ。
これがうまくできれば、災い転じて福となす。顧客満足につなげる事ができるかもしれない。
別の方法としては「何故、値上げをしなくてはならないのか?」を懇切丁寧に開示し、理解を得る事だ。
食品メーカーが原料費の高騰で相次ぎ製品の値上げ、もしくは容量の減少に踏み切っている。
しかし、特定メーカーや製品の不買運動などの動きは今のところ出ていない。
バイオ燃料の需要急増によって、食品原料の生産にまで影響が出ているという説明がきちんとなされ、生活者の理解が得られているからだろう。
「満足」しないまでも「納得」が得られているという状況なのだ。
繰り返すが、全ての顧客を満足させる事は難しい。大切なのは、満足できないまでも「納得」してもらう事なのだ。
そのためには、きちんと説明責任を果たす事が最低条件。その説明に合理性が求められるのは言うまでもない。
で、ここまでが理論編。
以下からは、個人的体験に基づいた事例編。
金森の事務所はいわゆる、レンタルオフィス。
ちゃんと本店登記もできるが、区画は狭く、会議室も共用。
しかし、立地と交通の便が良いので満足度は満点に近かった。
さて、今回問題なのは、共用の会議室。
過日、事務所のポストに家主からのお知らせが入っていた。
曰く、今まで不便をかけていたが、10月から会議室予約をインターネットでできるようにする、とある。
今までは電話予約であった。
確かに営業時間外には予約ができないという不便はあったものの、出先から電話一本で予約できるというメリットも大きかった。
今後はいちいち出先でパソコン開いて予約するのか。なんだかめんどくさい。痛し痒しだな。
しかし、「え?」と思ったのは規約の変更。
今までは1日2時間まで入居者に均等に使用権があり、2時間を越える場合、空きがあれば時間当たりの追加料金の請求を受け使える事になっていた。
概ね変更はないものの、1日の使用権が1時間になっており、それ以降は追加料金となっている。
基本の使用権が年間365時間減っている。
問題なのは、それに対する説明がない事。
9月中は今までの規約、料金でご使用いただけます。
当たり前だ。
理由の説明がないが、普段の満足度の高い顧客としては善意に解釈すべく、理由を推測してみる。
確かに金森は外出がちで、かつ、営業時間外に会議室予約をしようと思った事は少ない。
しかし、その逆の要望がある顧客にとっては、電話からインターネット対応への移行は大きなメリットだろう。
そのためのシステム開発費を会議室使用料に転嫁したということか?
だが、そのメリットは顧客に対してだけであろうか。煩雑で稼働のかかる電話予約対応から解放される家主側のメリットの方が大きくないか?
証券業法規制緩和で一気に参入したネット専業会社が、手数料を大幅に下げられたのは、店舗という固定資産を持たなくてよいという要素が大きいが、売買のオペレーションを顧客自身がセルフサービスするため、そのコストが削減できるという点も大きかったはずだ。
会議室の実質的値上げの合理的理由が見当たらない。
以下、今回のまとめ。
「満足」以前に「納得」。
当たり前といえば、あまりに当たり前な事ではないだろうか。
「納得」できない事象があれば、本来「満足」している顧客の「満足度」も低下していく。
これも当たり前といえば、あまりに当たり前。
「顧客満足」は重要だ。
しかし、それ以前の「顧客納得」が少々疎かにされていないだろうか。
・・・これは一般論としてではあるが・・・。(まとめなので)。
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September 13, 2007
「自社のポジションはいかなものか?」・・・「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」というが、敵を知る以前に自社のポジションを明確にして戦略立案の基礎とすることは重要だ。しかし、一個人でも「己の真のポジション」を把握することは難しいもの。
ついつい、背伸びしてしまう。自社のポジジョンに応じた正しい戦い方とは?
今回はその前編。
「己の真のポジションを把握すること」は企業戦略の立案には欠かせない。
戦略論の大家、マイケル・ポーター先生も「コストリーダーシップ戦略」「差別化戦略」「集中戦略」という、『戦略の三類型』を提唱した。
一方、マーケティングの大家、フィリップ・コトラー先生は「市場ポジションに応じた戦い方」を四類型にまとめた。
今回はこちらを元に考えてみよう。
四つのポジションとは「リーダー」「チャレンジャー」「ニッチャー」「フォロアー」に分類される。
各々の特徴は、「リーダー」はとにもかくにも「チャンピオン」であり、語弊を恐れずにあえて例えれば、その戦略は「強者故の“やりたい放題”」である。
特徴的な「打ち手(施策)」は第一に「需要創造」である。
例えば、ある程度の年齢を経た男性に多い“ED”。
「疾病啓発広告」といわれる手法は「こんな状態(具体的な状態は少々表記しづらいが)のあなたはEDかもしれません」と訴求する。
それなりの年齢の男性なら、思い当たる節が多い人も多いだろう。
そして「一度病院で相談を」となる。
そして、そこで「病状あり」と診断されると、その疾病に効く唯一、もしくはシェア・ナンバーワンの製薬会社の薬が処方される。
つまり、「需要創造」。市場を創り出していくのである。
さらに、リーダーの「戦略の定石」としてあげられるのが「同質化」だ。
子供っぽい、平たい言葉で言うなら「真似っこ」。
リーダー以外の企業がヒット商品を開発したら、余りある技術・開発力を総動員して同種の製品を上市。流通させて一気にシェアを奪う。
有名な例がある。
飲料の世界では門外漢であった某製薬メーカーの担当者が、ドクターが点滴に用いる「輸液」でのどの渇きを癒している姿を見た。そして、「あれ?これって飲料としてちょっと味などを調整すれば売れるんじゃないの?」と、上市した。
その飲料を真似て、さらに「スポーツ時の水分補給に」と売り出し、一気にシェアを取った。
そんな、ある意味、強大な力を持って「やりたい放題」をする、「リーダー」にいかに戦いを挑むのか。
まずは、「リーダー」に対して戦いを挑めるだけの力のある「チャレンジャー」の戦い方だ。
「戦略の定石」は何といっても「差別化」である。
差別化は、中途半端が最もよくない。
一般論ではあるが、日本企業は差別化、特に特定の相手に対する差別化がうまくないと言われる。
「比較広告」などは、生活者の反感を買うため自粛する傾向が多いとされている。
しかし、やるなら敢えて「徹底して」やればいい。
再び飲料業界の話。
リーダーである「コカ・コーラ」対チャレンジャー「ペプシ・コーラ」。
日本でもコマーシャル・フィルムでは放映された「ペプシ・チャレンジ」。
どちらが製品か明らかにされていないコップを街行く人に両方飲ませ、美味しいと思う方を指ささせる。そして「うゎー、ペプシだッたんだぁ〜」と被験者が言う。
余談であるが、米国で生まれたこのキャンペーンの発案者はジョン・スカーリー氏。その後アップルコンピュータのCEOに転身した人だ。
もう一つ。かつて大人気を博したラッパー、M.C.ハマーを起用した比較広告。
ステージ登場前にハマーが“赤い缶”のコークを飲んでしまい、ナゼかメロウなナンバー「フィーリング」を歌い始める。
そこで、舞台下から“青い缶”を渡す黒人少年。そして、ハマーは元気いっぱいにラップを奏でダンスを舞い踊る。
・・・ここまでの露骨な比較広告は日本ではなかなかやらない。やればいいのに。
さらにもう一つ。製品戦略について。
「ペプシ・キューカンバー」。飲んだ?
キューカンバーとはキュウリのこと。
コーラにフレーバーを加えるのは、チャレンジャーたるペプシのお家芸である。
レモンフレーバーを添加してヒットさせた例は有名だ。
が、“キュウリ”だ。飲んでみた。何とも言えない味。
強いていうなら、キュウリというより、欲張ってスイカを赤い部分を超して、白い部分まで食べた時のような味だ。
しかし、この味、意外と受けたのだ。広告などほとんどなしでインターネットを中心にかなり話題になり、なかなかのヒットになったという。
こんな商品、リーダーである「コカ・コーラ」が手を出しただろうか。
スイカの白い部分の味がするコーラ。かなり微妙な商品であることは間違いない。
が、ペプシはなぜ、こんな商品を上市したのか。
答えは「チャレンジャー」だからだろう。
チャレンジャーは常に「俺たちは違うんだ!」と言い続けることでリーダーに戦いを挑み、生き抜いていく。
リーダーと同じことをやっていたのでは「同質化」によってその存在を掻き消されてしまう。
「違うんだ!」と言い続ける。
しかも、その言い方はハンパではいけない。ハンパでは存在が掻き消されてしまう。
リーダー対チャレンジャーの戦いの定石である。
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September 12, 2007
しかし、結局あの人は何をしたかったのだろうか。
雑感。
「血の業(ごう)」という言葉が閃いた。
政治家の家系。
当然の如く頂点を目指すことを望まれる。
そして、それが為し遂げられた時、ふと思う。
「自らは何を為すべきか?」
一国の宰相がまさかそんな事はないだろうと考えるのが普通だが、
「美しい」とかの言動は今となっては、その怪しさが際立つ。
宰相は国の行く末を示す。
一個人は己の行く末を示す。
「俺はBIGになってやる!」
・・・はぁ?BIGって何?
同じだ。
・・・はぁ?美しいって何?
この「怪しさ」と「血の業」は様々な形で馬脚を表したが、血筋の良さで起用した「絆創膏」の顛末は何ともわかりやすい。
参院選で民意は示しめせたと思う。
が、まだまだ投票率は高くはない。いや、この政局からすれば低い。
各々の政治的信条や関心事は異なるのは当たり前。
が、この政局からすれば、衆院選がいつ起こっても不思議ではない。
政界のリーダー不在を嘆く声も大きい。
確かにヒーローはいないかもしれない。
しかし、この「日本丸」の舵は誰かが持たねばならぬ。
二度と「自分探し中」のような人に握らせたくはない。
であれば、各々の信条に従い、自らの一票を投じよう。
いずれの党が政権を獲るのか。
確かに関心事ではあるが、それよりも、この国の民がどのくらい真剣に将来を考えているのかが気に掛かる。
普段、新聞の政治欄などにはあまり注意を払わないだろう。
しかし、これからは目が離せなくなる。
今、この国は「水舟」だ。
「水舟」。それは、実際は沈んでいる。
しかし、「水舟」は自らの浮力でかろうじて水面に姿を表している。
ところが、誰かがそれに乗ればたちどころに水面下に沈む。
ちょっとした環境変化にも対応できなくなっている。
まして、次世代に何を継ごうというのか。
巨大なる赤字国債という借金。
搾取されるだけの年金。
他にも問題は山積だ。
この「水舟」の水を少しでも減らして完全なる沈没を回避する手だてを考え得る賢者か英雄の出現を望む。
そんな願いを口にしても凡夫の誹りを免れまい。
だがしかし、それを願って止まない。
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September 11, 2007
ドラッグストアで買い物をした。
食品まで扱うスーパーマーケットのような大規模店だ。
市販薬に関するマーケティング事例の講義に使う実物を買い求める。
「領収書を下さい」。
自分で服用するわけではないので、領収書の発行を求めた。
「領収書はXXXとXXXがありますが」。
・・・わからない。早口にまくし立てられても聞き取れない。
「はぁ?」・・・聞き返すと、とたんに店員の眉間に皺がよる。
イライラした雰囲気を醸しながら、幾分ゆっくりと言い直してくれる。
「領収書は手書きタイプとレシートタイプがありますが」。
なるほど。
が、正直、どっちでもいい。
「どっちでもいいけど・・・」
あ、とたんにまた眉間の皺が深くなる。
慌て、「レシートタイプ!」と言う。
手のひらに押し付けるように、レジから出力・印字された領収書を渡される。
うーん、手書きかレシートタイプかより、きちんと宛名を書いてくれる事が重要なんだけど・・・。
たぶん、領収書の種別を客に告げ、聞き返されて眉間に皺を寄せたのは、(マニュアル通り)「きちんと伝えたのに、この客はなぜ理解しないの?」というところだろう。
しかし、領収書を所望する客にとって、何が大切なのかは教育されていないようだ。
宛名なしの領収書では自分で会社名を記入せざるをえない。
税務調査が入った時のことを思うと、小心者故、心配になる。
基本の徹底。応対の平準化。
マニュアルの効用は大きい。
だが、マニュアルだけでは伝わらないのが、顧客対応というものだろう。
当たり前な事であるが、「人と人」である。
定型的なマニュアルで解決できようはずもない。
また、接客の基本は「マニュアルの文言を諳じる」のではなく、「顧客の要望をきちんと聴きとること」にあると教育することが肝要だ。
「安さと品揃え」を誇るドラッグストア。
カウンター越しに来店客の相談に乗る、本来の薬剤師などは店内に1名ぐらいしかいない。
「セルフ」という店舗形態のため、店員は皆、接客よりも品だしなどに忙しく動いている。
なんだか馴染めない光景だ。
大規模ドラッグストアの相次ぐ進出におされて、年初に遂に閉店した駅前の昔ながらの薬局が懐かしく思い出された。
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September 10, 2007
人はどんな時に「ひらめき」を感じるのだろうか。
コクヨが発表した“「ひらめき」に関する意識調査”から少し考えてみた。
いついかなる時でも「ひらめき」を得られるようになれば素晴らしいことだ。
また、その阻害要因を排除できるなら、それも有益であるだろう。
9月3日に発表された“柔軟な発想で新しい価値を思いつく「ひらめき」に関する意識調査”
の調査結果を少し整理する。
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20355632,00.htm
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「ひらめきを感じるとうれしい」という質問に対し、「とてもあてはまる(33.2%)」と「ややあてはまる(51.2%)」を合わせ8割以上がひらめきをうれしいと回答した。また、「今後ひらめきは重要だとおもう」については「とてもあてはまる(30.5%)」、「ややあてはまる(53.4%)」でひらめきを重視する人が多いことが分かった。
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「ひらめき」は脳学者・茂木健一郎氏が”閃きや気づきの瞬間に「あっ!」と感じる体験”として紹介している”アハ体験”とも解釈できる。
そして茂木氏は”アハ体験は、脳を活性化する”とも言い、さらには”アハ体験とは、わかった瞬間に頭がよくなる体験”とも述べている。
同氏はテレビなどのメディアへの出演も盛んなので、その論は世間にかなり広まっていると思われ、ゲームソフトの「茂木健一郎博士監修 脳に快感 アハ体験!」は大ヒットだった。
「ひらめきを感じるとうれしい」に対する肯定的な回答は、”アハ体験”の世間での流行とも言うべき現象がバックグラウンドにあるとも考えられる。
まぁ、それはそれでいいだろう。確かに何かに「ひらめき」を感じることは嬉しいものだ。
その度に頭がよくなるかどうかはともかくとしても。
しかし、「ひらめきを感じる瞬間」の結果は少々気になる。
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ひらめいたのは「1人のとき(44.2%)」が多く、ひらめきやすい場所の上位は「布団・ベッドの中(29.7%)」 「お風呂(21.8%)」、「車の中(21.8%)」、などくつろぎの空間が多く上げられている。ひらめきやすい時については「何もしていないとき」や「寝る前」などひらめきやすい場所と同様のくつろぎの空間が挙げられている。一方、「誰かと話しているとき」は18.7%にとどまっている。
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「ひらめきにはくつろぎの時間と空間が必要」であり、「誰かと話しているような時」はひらめきを阻害するということになる。
本当にそうだろうか。
また、次の項目も気になる。
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最近ひらめいた経験が「ある」人は41.4%、そのうち年収1000万以上の高所得者層については平均より13ポイント高い54.5%となっている。
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「ひらめき」と所得に因果関係があるのだろうか。
「柔軟な発想で新しい価値を思いつく」という調査の前提があるので、「くつろぎの時間と空間」があれば、「ひらめき」が生まれ、「柔軟な発想で新しい価値を思いつく」ことによって収入も上がるような成果につながる・・・と解釈できるが、だとすると少々違和感を覚える。
以下、あくまで個人的な感覚だが賛同いただける部分はあるだろうか。
確かに、筆者も「布団の中」「風呂」「車(電車)の中」で何かを思いつくことが多い。しかし、それは「くつろいでいる」のではなく、常にいくつかの考えるべきテーマが頭にストックされており、何らかのきっかけで解が見つかるという感覚だ。
また、「1人のとき」は必須要件ではないように思える。むしろ、何か執筆などをしている時は、事務所の机で考え込んでウンウンと唸っていると、すぐに煮詰まる。そんな時は街に出て歩き回る。
何らか、「ひらめく」ためには外的な刺激が必要なように思う。
さらに、「誰かと話しているとき」にも筆者はひらめく。
人の話しの中からひらめいたり、自分が人に説明するため、頭を整理しながら話をしたりしている時にもひらめく。
講義・講演などで何度も同じ話をしている時でも、受講者の反応によって、「ああ、こういう理解をされたか。では、もっと別の説明のしかたを今回は追加でしなくては」とひらめき、さらに以前より分かりやすい内容に進化することもある。
「ひらめき」はただ漫然と「くつろいで」いるだけでは生まれないのではないだろうか。
・常に「ひらめき」のネタとなる、何らかの要素・情報を頭にストックしておくこと。
・積極的にそのネタ・情報に外的な刺激を加えること。
・「ひらめきのシッポ」とでもいうような、ひらめきの予兆のようなものを感じたら、さらに刺激を加え、瞬間的にそこに集中し、思考すること。
・・・そんなことが「ひらめく」ための個人的な方法論ではないかと、上記の調査結果をみて「ひらめいた」次第だ。
まぁ、ひらめいてもどうも年収にはあまり反映されていないのが現実だが・・・。
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September 07, 2007
何の備えもなく自宅から遠い東京郊外に外出し、台風直撃の報を受けて翌日の要務に備え、幸にも宿が確保できた。
宿泊先でNHKを見ていると、ずっと「台風情報」だ。
刻々と台風の進路と各各地の状況が伝えられる。
久々の台風首都圏上陸。
不謹慎な見方かもしれないが、何だかメディアからは「イベント感」が漂っている。
少々、雑感を綴ってみたい。
民放はさすがに通常の放送を流しているが、ニュースは台風情報がかなり多い。
かねてから批判がある、台風の局地にキャスターを向かわせ、「キャスター:もう、凄い風で立っていられませーん!」「スタジオ:○○さん、気を付けてくださいね!」というやりとりがなされている。
批判の通り、そんな危険なところに無理にキャスターを立たせなくてもいいのにと思う。
・・・が、リアルタイムに映し出される各地の映像は迫力があり、「うわー、こんな状況になっているのか!」と驚きつつ、魅入られる。
宿泊場所は防音性もよく、全く台風を忘れさせる環境。
それだけに、ニュースが伝える「泊るところが見つかりません」という、帰宅不能に陥った人のコメントを気の毒に思いつつ、失礼ながら「いやー大変だなぁ」と、やはり他人事に思ってしまう。
スミマセン・・・。
何度もその人の映像が繰り返し映される。やはり、その不幸な方も、メディアの扱いは「災害イベントのコンテンツの一つ」にされている気がしてならない。
強風に煽られ、骨折した人のことが伝えられる。
「大怪我」という表現が使われているが、骨折という怪我の大変さは、昨年夏の自身の骨折・大怪我で身にしみて判る。
しかし、その大変さが判らない人が見れば、単なる台風情報の一つとなってしまうのだろう。
放送された一つの情報。伝わらないその後の本人の人生とその苦労。
日頃触れているメディのから受け取っている情報から、自分自身がいかに「その後」に思い至っていないかを改めて認識せられる。
しかし、一番気になったのはインタビューに答える人々の「安全意識」だ。
主要駅でのインタビューに答える人々の多くは「明日の通勤が心配です」と言っている。
確かに心配だろう。
明日の要務に備え、宿を確保できた身で言うのは不謹慎かもしれないが、「明日の通勤」は、「台風の直撃」という事態を無事乗り切れるという前提によるものだ。
日本の防災システムは進んでいる。
特に治水に関しては、徳川幕府の最優先事項であり、その甲斐あって「氾濫注意水位」など各種の指標に従って粛々と対応がなされている。
この記事を記している時点で、東京湾の24カ所ある水門が全て速やかに閉じられている。
江東区の辰巳水門の映像が繰り返し報じられる。
天井川、海抜ゼロ(マイナス)地域で幼少期からを過ごし、繰り返し浸水と戦ってきた先々代の姿が記憶に残る故、一機12メートルあるという水門は何とも力強く感じられる。
しかし、台風というものは激甚な被害をもたらす災害だ。
本来、「明日の通勤」を心配している場合ではない。
それだけ、防災システムが整った首都圏の環境に感謝せねばならないのだろう。
しかし、首都圏以外では台風は本当に激甚災害になる。
また、海外ではタイフーンによって多数の死者が出ることもある。
もっと危機意識を持ち続けるべきではないかと、自分自身も含めて思う。
だが、「災害」というと、やはり「地震」の方に関心が向く。
本当は同じことなのだ。
台風はゆっくりやってきて、その進路や被害が起きそうなことも予想がある程度できる。
しかし、やってくるものは避けられない。
やってきた時に、いかにぬかりなく、対応するかで被害が軽微で済むのか、激甚となるのかが分かれる。
地震は残念ながらほとんど予想ができない。
故に、よりその備えをしっかりしなくてはならないのだ。
台風が過ぎた後で「防災セット」を揃えるのも変な話だが、
ついつい、いい加減になり、あまり整備していない自宅の「防災セット」をもう一度見ないしてみようと思った台風上陸直前の夜であった。
(9月7日・午前0時15分・東京八王子にて記す)
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September 04, 2007
検索という言葉が一般化し、ビジネスだけでなく生活の中にも溶け込んできたのは、パソコンの普及と携帯電話のインターネット機能の進化によるところが大きい。
ビジネスで何か分からないことがあれば、すぐに「検索」。
日々の暮らしでも、ちょっとしたことを調べるのにも、携帯で「検索」。
先日、「アナログ探索によって時空を超える」という記事を書いた後、ふと「検索」や「探索」、「search」という言葉を辞書で調べてみると面白いことがわかった。
【search/「ぐるぐると動き回る」が原義】:ジーニアス英和辞典
なるほど。
元来、「ぐるぐると動き回る」という足を使い、それなりに苦労を伴う行為を今日はコンピュータの検索エンジンを使役して代替していることとなる。
その苦労から開放されているが故か、人はいとも簡単に「検索」をして、答えを導き出す。
各種の論文やレポートにおいて、インターネット上の論説を引用する問題が指摘されているが、事実、残念なことに学生から提出されるレポートも年々ネットからのコピー&ペーストの比率が高まっている。
冒頭に記したとおり、searchとは元来、「ぐるぐると動き回ること」を意味するようだ。
易きに流れず、必要苦労はせねばならない。
【search/「ぐるぐると動き回る」が原義】。
これは自戒の意味も込めて覚えておきたいことだ。
また、search=「検索」と訳されるが、同義語には「探索」もある。そして微妙にニュアンスが異なる。
広辞苑 第五版によると以下の通り。
【検索】文書やデータの中から、必要な事項をさがし出すこと。
【探索】さぐりもとめること。さがしたずねること。
意味合いとしては「探索」の方が、自ら「探す」という意志の強さを感じられないだろうか。
PCや携帯で「検索」ボタン一発で答えが返ってくる気軽さにはない、searchの原義である「ぐるぐると動き回ること」が想起される。
また「探し求めること」を意味する「索」の文字は、「思索」にも使われる。
「思索」とは「物事のすじみちを立てて深く考え進むこと」である。
インターネットを「検索」して、フムフムなるほどと思う。機械的にコピー&ペーストする。
そうではなく、自らの意思を持って「探索」し、そこから深く「思索」することも必要なのだ。
便利さは怠惰を生む。
目的意識の喪失と怠惰は進歩を生まない。
高度に発達した文明を持つも、目的意識を失い、怠惰に暮らすが故に滅亡の危機に瀕する星と、その星を救おうとする小学生の活躍を描いた小学生向けの図書。
娘が読書感想文を書くために読んでいた本、「ヌルロン星人をすくえ! 」を思い出してしまった。
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August 30, 2007
グーグルで検索して調べ物。「ググる」という言葉も随分一般化した。
だが、「検索サイト利用の落とし穴」として、8月29日の日経夕刊文化面で東京大学総長の小宮山氏が語っている。
<グーグルの検索結果は整理されすぎている。みんなが大事だと思う情報にしか上位に表示されない。下位の情報が実は自分の目的にとっては重要かもしれないのに、無視されてしまう恐れがある。>などの問題点を指摘されている。
しかし、同日の午後、そうしたデジタルの問題点とは全く無縁なナレッジに関わる体験をした。
9月1日(土)まで古本市が開かれている事務所横の新橋SL広場でのことだ。
前回は大好きなエル・グレコの画集を手に入れた。
実際に、何かを一生懸命探すのではなく、無心で探索してみると意外な発見があるものなのだ。
「検索」ではなく、足で歩き探す「探索」である。
普段はGoogleでインターネット空間を検索しまくり、また、コンサルティングの業務ではEnterprise Searchという最近のキーワードに乗って、いかに社内ナレッジを活用するかとか、文書管理を行うかとか、非常にデジタルな「検索」の世界にドップリ浸っている。
一方で、こうしたアナログの極みの空間で、ぶらりと目的もなく「探索」を行うのは実に楽しい。
古本が並べられている出店の棚には、何となく文庫や画集、写真集や古い雑誌、古地図などが固まって置いてあるため、まぁ、興味の向きに合わせて手に取るべきものを探すことはできる。
これが、デジタル的には各々の本の種類やカテゴリーを属性としてタグ付けをし、インデキシングしようと考えるだろうが、そんなものとは無縁だ。
心地よいカオス。
さて、今回手に入れたものは二点。
一つが「愛と幻想のシャガール・ポスター芸術」。730円也。
1986年2月・東京を皮切りに、全国15カ所の大丸を中心とした百貨店の美術館をまわった展覧会の画集だ。
思えばこの頃はまだ1980年代後半~1990年代初頭のバブル経済のまっただ中。
百貨店の美術館は元気いっぱいだ。
ポスターにスポットを当てた141点もの作品はさぞや見応えがあっただろう。
また、この展覧会は、ちょうどマルク・シャガールの没後1周年というタイミングで開かれている。
シャガールは1985年3月に97歳で永眠している。
没後1周年といっても、正確には1年経たずに開催されている。何と対応の早いことか。
恐らく、バブルのさなか、シャガールの絵は高値で売れたのだろうなとも思う。
当時の世情が思い起こされて実に興味深い。
ちなみに、「1986 シャガール ポスター」という検索クエリでGoogleを検索してみる。
かろうじて1件のオンライン書店でこの画集を見つけ1,890円の値がついているも、売り切れ。
そもそも、筆者は同書の存在を知ってはいなかったので、デジタルの世界では出会ってもいなかったわけであるが・・・。
もう一つが大正8年刊「新選各科教授法」。500円也。
「本書は師範学校における教育科の系統的教科書として編纂したるものにして、明治四十三年初版発行以来、幸に全国各府県に於いて師範学校用又は教員検定試験用として採用され、既に数版を重ねたり」と巻頭言にある。
今日、教育がゆれている。また、戦前教育への批判はかねてより強い。
しかし、まだざっと見ただけであるが、注目すべき点も多い。
本書の第六節「綴り方教授」、第四「教授の主義」においては、文章の書き方を児童に教える時、いかに自由な発想をのばしつつ、一方で文法や論旨組み立てなどは統制をかけ指導をするかという、そのバランスが重要であるなど、非常に重要なポイントが示されている。
基本的にはこの教本においては、学問の基本は国語にありとする考えがあり、極めて賛同できる。
また、文法教育が主かと思いきや、そうでもないようである点は発見だ。
一方、国語に次ぐ重要な教科は歴史であるとしている。
第四章「日本の歴史」のこあたりは、今回うっかりしたことを書くには惜しい内容だ。
ちょっと読んだだけでも当時の歴史観と今日の歴史観の違いは鮮明で面白い。
敗戦国となった日本の歴史観といかに違うのか。
また、戦前を全否定する色眼鏡でなく、まっすぐにこの本を見た時に何が見えてくるのか。
これは時間をかけてじっくり読み込んでみたいものだ。
・・・旧字体と文語調なので、だいぶ時間がかかってしまうが。
しかし、こんな書籍がネットの世界で発見できようか。
専門家でもない人間が出会い、インスパイアされて思索の幅を広げることなどあろうか。
何とも素晴らしきアナログ探索の結果であろうことか。
ちなみに、この本は最終ページに持ち主の名前が書かれている。
「台南第一高等女学校 酒井知恵」とある。
本には持ち主の書き込みがいくつかあり、重要とおぼしきポイントが示されている。
1919年から2007年までの88年の時間と、台南から東京まで約2,000㎞の距離の彼方からこの本の読み方がナビゲートされている。
これはまさに、時空を超えたアナログならではの”ナレッジ・トランスファー”である。
本書には落書きが2点ほどある。
1点は女子学生の制服姿が描かれている。この女子師範学校の制服だろうか。
もう1点は「神田先生」と記された、七三分けに小振りなメガネ、髭を蓄え教本に目を落とした紳士の姿。
あこがれの先生なのだろうか。
もうとうに亡いであろう人の思いまで伝わってくる。
デジタルに染まっている身だからこそ感じる感慨かもしれないが、アナログとは何とも心動かされる味わい深いものであろうか。
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August 27, 2007
来店客に一言声をかける。確認をする。店の状況を伝える。適切な案内を行う。
飲食店に入ったら必ず行われるはずの「基本動作」だ。
「いらっしゃいませ!」「1名様ですか?」「順番にご案内しますので、お掛けになってお待ちください」・・・。
夏休みの土曜日の午後。汐留は日テレを中心に残り少ない夏休みを楽しもうとする家族連れで結構な賑わいだ。
昼食を摂ろうと覗き込んだカウンタースタイルの店には親子三人連れが先に待っていた。
だが、空席はある。さほど待たされないだろうと思い店に入った。
あれ?「いらっしゃいませ!」がない。
カウンターだけの店で、入り口は端っこ。カウンターの中の店員は気付いていないのか?
程なく姿が見え、目が合う。が無言。ヤツは目が悪いのか?
入り口に椅子が並べ立てある。外から見えた親子連れが座っている。黙って並んで座って待てということか。
おとなしく座って待つ。
しばらくしても店員に動きはない。明らかに空席があるのに。
厨房の限界を越えて新規オーダーが立て込んだときは、空席があっても席に通さないのはファミレスなどではよくある事。そんな状況かと思い、客の食事の進み具合をそれとなく覗く。
多くはほとんど終盤だ。時刻は13時過ぎ。そんな頃合いだ。厨房の混乱はなさそうだ。
カウンターに3つ並んだ空席がない事に気付く。
もしかすると、先に待っている親子連れを追い越して後の客を先に通さないポリシーなのか?どうにも合理的じゃない気がする。
それがポリシーだとしても、説明があってもいいんじゃないか?
所が、親子の会話。
「ママ、いつになったら食べられるの?」「うーん、どうなっているのか判らないわねぇ」。
食事中の客に「3名様がいらっしゃるので、お食事中申し訳ございませんが、一つ席をずれて頂けませんか?」とは言わないのは方針なのか。
それが先に食事をしている客にそんなに失礼にあたるとも思えない。
カウンター席なので、すっと一席ずれるだけのことだ。
そうでなくとも、「3つ並んだ席が空くまでお待ちください」とその親子連れの客に説明するべきではないのか?
何とも一言足りず、また、機転の利かない対応が続く。
斯くして、食事が終わった客が次々と席をたつも、3つ並び席は空かない。
先の客の食事が順次終わり、ひとしきりレジでの会計が終わると、ようやく親子連れとほぼ同時に席に通された。
その時、空いた席をちょうど埋めるように新たな客が入ってきた。
制約条件のない1、2名の客ばかりなので今度は遅滞なく席に通される。
その影響で、恐らく厨房の稼働率が一気に上がったのだろう。注文した料理はなかなか出てこなかった。
基本動作。
「いらっしゃいませ!3名様ですか?」(カウンターの一人客に)「お客様、お食事中申し訳ございませんが、一つ席をお繰り合わせ頂けませんでしょうか?」
「いらっしゃいませ!お後の1名様、こちらへどうぞ」。
カウンターの店員はフロントオフィスのポジションに相当する。
この担当者の基本動作ができておらず、また、席を繰り合わせるような機転が利かないため、顧客は待たされる。
厨房というバックオフィスの担当者は稼働が平準化されず、大変な思いをする。
斯様に顧客接点担当の働きは重要なのだ。
まぁ・・・結構普通のコトだと思うんだけどなぁ。
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August 24, 2007
当たり前だと思っている自らの日常。しかし、思わぬところで非日常との境界線がおぼろげになっていることに気付く瞬間がある。夏期休暇中に南の島で考えた “日常”と“非日常”をキーワードに記してみる。
■ ニンテンドーをめぐる日常と非日常
ゲーム機として「NINTENDO」はそのまま英語で通用するそうだが、日本の子供たちにとってニンテンドーDSは日々の行動にもすっかり欠かせない存在になっている。旅の友としても空港の出発ロビー、機内などの退屈な時間をつぶすにはもってこいだ。だが、リゾート地に着いてからも暇さえあればゲーム機を開く。安くはない旅行代金を払った親たちは怒ったり嘆いたり。しかし、子供たちはどこ吹く風。ふと思うが、リゾートという非日常的な空間においてゲームの中の異世界に入っていくのはどんな気持ちなのだろう。
そのリゾート地の外れ。中心地を遠く離れた、かつてサトウキビ栽培や畜産で栄えた街。今では産業構造が変わり、街はすっかり寂れ、親たちは遠く離れた中心地のホテルなどの観光産業に従事するために、長い時間家を空ける。そんな街の子供たちにもニンテンドーは人気だという。リゾート客の目には非日常的な美しい海と豊かな自然と映る風景が、彼らにとっては退屈な日常でしかない。退屈な日常から逃亡するが如く、ゲームの世界へ。そんな話を聞くと、美しい景観ももの悲しく見えてくる。
しかし、傍らでゲームに興ずる日本の子供たちをもう一度見つめ、その日常を考えてみると、また違った姿がえてくる。日本の子供たちの日常といえば、学校に塾、習い事に受験などと忙しくも厳しい。その日常に代って、本来非日常であるはずのゲームの異世界が逆に日常化しているのではないか。置き去りにされた寂れた街の退屈な子供たち。忙しくも厳しい日々を過ごす日本の子供たち。全く環境は異なるが、日常から逃亡するが如くゲームの異世界に入っていく姿に両者が妙に重なって見えた。
■ ネットというバーチャル空間での日常・非日常
しかし、子供たちだけではなく、日々の生活の中で、日常と非日常を行ったり来たりしているのは筆者自身であると気付かされた。ネットへの接続をめぐっての出来事を通じてだ。
最初の島は田舎ながら“高速インターネット回線あり”とのことだったが、どうにもうまくつながらない。仕方がないのであきらめてリゾートに耽溺する。すると、かつてない開放感が押し寄せてきた。知らず知らずのうちに、ネットという網に絡め取られていた自分に気付く。
しかし、開放感も束の間。旅の後半は都会の島へ移動したが、そこでも無線LANにうまく接続できなかった。次第に“ネット飢餓状態”になってきた。現地での行動もネットでの検索に依存しようと思っていたし、旅行中に仕上げたい仕事も検索が欠かせなかったからだ。しかし、あきらめて旅行情報は現地で人に丁寧に聞く、パンフレットを収集するという情報収集の基本に戻った。仕事は頭の中の情報を頼りに仕上げた。すると、基本に立ち返った旅行の楽しさや、仕事における頭の中の棚おろしという、思わぬ効用が現れた。
最近ではGoogleで検索することを「ググル」という言い方もすっかり一般的になり、ふと気付くと自らの思考を働かせる前に「とりあえず検索」するという行為に慣れきっている人も多いだろう。だが、考えてみればそれは少々異常なことではないのだろうか。何かを考えるには人間はまず、自らの記憶装置である脳内のストック情報を参照するはず。インターネット上の情報を検索するという本来、補完的な行為が常態となってしまっている。思考は深まらず、とりあえず検索キーワード(検索クエリ)を考えるところまでで停止し、パソコンのブラウザに現れる検索結果を眺める。
ネットによる検索が日常化し、つながらないという状態が非日常化していたが、よく考えればインターネットはバーチャルな存在であり、そこに依存しすぎると自らの主体を見失う。この出来事に自らが戒められた気がした。
今回筆者は“夏季休暇”“海外”という非日常的な時間・空間に身を置いて様々な気付きを得たが、よく考えれば日々の日常の中にもふとした非日常が潜んでいる。それに気付き、日常・非日常の対比から一歩違った視点を持つことができれば様々な発見があることだろう。以前から“タウン・ウォッチからの発見“をお勧めしているが、さらにそこに日常・非日常という時間・空間の視点を加えてみることをお勧めしたいと思った夏であった。
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August 23, 2007
オーストラリアの先住民、アボリジニの楽器「リジリドゥ」をご存じだろうか。
彼の民族音楽には欠かせない存在であり、空気を低く震わすその音色はいつまでも絶えることなく鳴り響き、聞く者の魂までも震わせる。
「リジリドゥ」。「ノンブレス」とも呼ばれる別名が表す通り、一人前の奏者は「一体、いつ息をしているのだろう?」と心配になるぐらい、いつまでもその楽器を吹き続ける。
その秘密は、彼らは「息を吐きながら吸う技術」を体得しているらしい。
現地では土産にリジリドゥが売っている。
購入して、少し練習すれば何とかそれっぽい音は出る。が、ちょっと鳴ってオシマイ。「吹き続ける」なんて状態には程遠い。
土台「息を吐きながら吸う技術」なんて一朝一夕にできるわけがないのだ。
転じて、思考プロセスの話。
常々思っているのは、自分自身の「ナレッジのインとアウトのバランス」。
コンサルティングやプランニング、講演や研修の講師、各種の執筆活動。
これらは基本的には「アウトプット」だ。
きちんと新たな情報やナレッジを「インプット」しなければ枯れてしまう。
枯れると「つまらない人」になり、仕事にならなくなる。とても困る。
なので、できるだけ最低でも自分の時間の10%は純粋にインプットのための時間として確保するように努めている。
だが、そうもうまくいかないのが現実。また、圧倒的なアウトプット量のためには僅か10%のインプットの時間では足りない。
そこで「リジリドゥ」である。
ナレッジをアウトプットしながらインプットするのだ。
コンサルティングでは、アウトプットしながらクライアントの反応や言葉から新たな情報や気付きをインプットする。
講師活動では、アウトプットしながら受講者とのやりとりでインプットを得る。
執筆活動では、頭の中にストックされている情報を再構築しながらアウトプットして、再び整理体系化してインプットする。
全てアウトプットしながらインプットを行う。自分の頭の中で、ナレッジを再生産していくことがポイントだ。
何か一つが終わった時に真っ白になり、また一から情報収集を始める苦労をしないためにも重要なことだ。
金森は誰に教わったことではないが、他にも知らず知らずにこうした頭の使い方をしている人も多いのではないだろうか。
「自分は今、何をアウトプットしていて、そこから再度インプットできるものはないか」を意識していれば難しくはない。
息を吐きながら吸うこと。恐らく無意識にできることではない。だが一度コツをつかんでしまえばいつまでも楽器を吹き続けることができるのだ。
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August 22, 2007
「奇跡の」「間一髪」という文字が紙面に躍る中華航空機炎上からの脱出劇。
結果として「90秒ルール」は守られた。
90秒ルールとは、米連邦航空局が制定した「機内の全非常用脱出口の半数以内を使って90秒以内に、乗員・乗客全員が脱出できるような機体の設計を航空機メーカーに求る」としたもので、欧州各国や日本も準じたルールを取り入れているという。
全員無事という、奇跡の結果はありがたいことだが、個人的にはこの90秒ルールが守られたこと自体が一番の奇跡だと考えている。
ここしばらく、航空機に乗る度に「危ないな」と思っていたことがあるからだ。
以前だと客室乗務員が機内のアナウンスに合わせ、安全確認のデモンストレーションを行っていた。
通路で非常口の場所を指し示したり、非常灯の説明。シューターからの脱出姿勢や、救命胴衣や酸素マスクの着用法などだ。
いつしかそれは客室内のスクリーンにビデオが投影されるだけになり、省略された。
しかし、実態は誰も見ていない。
シートポケットの安全のしおりを手に取る人もほとんどいない。
先日の夏季休暇中に、ハワイ・オアフ島とハワイ島をローカル線で移動した。
その時は客室乗務員は、先に記したデモンストレーションを通路でやっていた。
実際、人間が実演するのと、ビデオが投影されるだけなのとでは、乗客の注目度が全く異なる。
乗り合わせたローカル線の乗客の視線は、きちんとデモンストレーションを行う乗務員に向けられていた。
「どうせそんなものを見ても、墜落したら助からないんだから」という半ば諦念もあるのかもしれない。
しかし、今回の事故のように脱出の際のスムーズさが生死を分けることもあるのだ。
果たして、中華航空機が客室乗務員のデモンストレーションを行っていたのかは分からない。
そうでなければ、今回の迅速な脱出劇は正に「奇跡」なのかもしれない。
マーケティングの分析作業でもそうだが、慣れてくると本来の手順を省略して結論を急ぎたくなる。
習熟度が上がれば、それでもさほど問題は起きないが、時として大事な部分でモレ・ヌケが発生し、
結果に大きく影響して痛い目を見ることもある。
やはり何事も基本の励行が重要なのだ。
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August 21, 2007
タイトルだけで分かった方。たぶん同好の士ではないだろうか。
正確には700ではなく乗ったのはN700。新幹線新型車両。
で500は同じく新幹線のレア車両。
スミマセン。思いきり今日は趣味に走った内容です。
が、「デザイン」という切り口で少しまとめてみたいと思います。
先週末の名古屋出張では、狙って行き500系、帰りN700系のグリーン車を取ってみました。
いや、座席予約の埋まるのが早いこと早いこと。
(写真左が500系・右がN700系)
N700系は現在の東海道新幹線の主力車種である700系をブラッシュアップした車両だ。
最高速を向上させるために、レールと台車の位置はそのままに、客車を遠心力に合わせて傾ける構造が特徴のようだ。
確か、中央線特急の「スーパーあずさ」もそんな構造だったと思うが、詳しくはオールラウンド鉄道オタクではないので不明。(新幹線専門なもんで・・・。)
一方の500系もかつて最高速向上と、トンネルの出入りにおける騒音軽減を目指し、極端なまでの流線型のフォルムを追求した車両だ。
あまりに尖鋭なフォルムは先頭と最後尾車両の座席数を犠牲にしたため、JRの営業サイドから待ったがかかり、現在はわずか2両だけが運行されているレアな車両だ。
と、まぁ、車両のうんちくは置いておいて、デザインの話。
さて、新幹線オタクではない方から見て、両車両のデザインはどう映るだろうか。
個人的には営業効率の悪さは乗客には関係ないので、圧倒的に500系の方がかっこよく思う。
実は、ベースになっている700系から既にその車両デザインは、見た目よりも空力特性の良さを追求したと聞く。
さらにNとしてブラッシュアップする際には、誰がデザインするのではなく、何度も何度もコンピュータでの空力シュミュレーションを繰り返し、最終形に至ったという。
人の感じる美しさと、コンピュータのはじき出す正解は必ずしも一致しないという一例になろうか。
では、先頭車両のデザインだけではなく、車体にも目を向けてみると、実は乗り心地の面でもコンピュータに軍配が上がる。
500系は好きなのだが、外観から見られる、車両全体がチューブのように丸みを帯びた側面は、そのまま座席側にも影響し、窓側の席がどうしても圧迫を受ける。
それでも「グリーン車なら、500系のシートの方がホールド感がよくて好き」とか言っても勝ち目は乏しい。
何と言ってもN700系の方が空力に優れ、また、何年もの技術の開きから消費電力が全然少ないのだ。
世界中で温暖化防止が叫ばれている昨今、消費電力まで持ち出されたら、新型車両の優位を認めざるを得ない。
これからの世の中、効率や環境負荷を考えた時には、人間の感性が入り込むより、コンピュータに任せた方がいいのだろうか。
何だか「カモノハシ」みたいで好きになれなかった700系車両(500系車両の写真左側に映っている)の顔が、今度はN700 系になって無表情なヘビみたいに見えてきた。
わざとらしいまでに尖鋭に引き延ばされた、どことなく「20世紀に考えた未来的デザイン」という感じの500系は、何だかデザイナーの意図や好みがにじみ出て人間くさい感じがする。
これからの世の中は益々効率と環境負荷軽減が最優先事項になっていくのだろう。確かにこのN700系はよくできた車両だと思う。
でも、あまりに人間味が感じられないデザインばかりに囲まれた暮らしはどうにも息が詰まってしまうと思うのはいけないことだろうか。
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August 20, 2007
すっかり名古屋での定宿となったマリオット・アソシア。
その顧客サービスにすっかり満足しているのは以前記したとおり。(前回記事はこちら)
先週末、また1泊したがいつも通り夜遅くチェックインし、部屋へ通される途中、おや?と思った。
階数は定まっていないが、いつもお気に入りの形の部屋番号ではない。
このホテルは全体が円形をしているため、各部屋の形状は微妙に異なり、また、窓の向きは全て異なる。
お気に入りの部屋は角部屋で、少々変わった間取りのため一般には好みが分かれるかもしれないが、広い感じがする。
また、窓からの景色は目の前に名古屋駅からまっすぐに伸びる桜通りと、有名な「大名古屋ビルヂング」、遠くに名古屋城が望める。
部屋に到着すると、やはりいつもとは全く違う部屋だ。特に不満を呈するほどのことではないが、とりあえず部屋の中を確認する。
いつもの変形の部屋ではない、四角い部屋だが希望通り角部屋のようだ。フロア図を見ると、数少ない建物の円形部分ではない部分の角部屋だ。
窓のカーテンを開けてみると、いつもと違った夜景が目に飛び込んでくる。
片側の窓は名古屋駅をまたいで「太閤口」側が一望できる。高い建物のない側なので、一面の夜景が美しい。
もう片方は窓から長く伸びた線路が遠くまで望め、その夜景も旅情を誘う。
最初に部屋に通された時は「さてはいつもの部屋が確保できなかったのか?」と思ったが、よく考えればこれはサービスなのかもしれない。
実際に、いくら気に入っている部屋、眺めでも毎回では飽きる。
そして、新聞、入浴剤、浴室の踏み台のセットのしかたまで、いつも通りパードナライズされたサービスは提供されている。
手違いでいつもの部屋と異なったでわけでない証拠だろう。
また、この部屋は確か同じ料金プランの中では最上階の部屋だ。
実際のところ、突き詰めて考えれば、これが本当にサービスなのか、はたまたいつもの部屋が確保できなかったからなのかは分からない。
しかし、毎度の厚遇を考えれば、これも心憎いサービスであると疑う余地はない。
顧客とサービス提供者間の信頼関係が創り出す好循環を感じた。
おかげでつい、習慣的にいつも同じものを選択してしまう悪いクセに捕らわれず、時々は新鮮に違う部屋に止まる楽しみを覚えた気がする。
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August 17, 2007
熱い。
・・・いや誤変換ではない。「暑い」というより「熱い」という文字が似合う。「酷暑」という表現も正に。
海外の読者もいらっしゃるのであまり気候ネタに終始したくはないが、何しろ昨日は岐阜の多治見市と埼玉の熊谷市で国内最高気温の”40.9℃”を記録した日だ。日本中が炙られている。
写真は事務所横の新橋SL広場の寒暖計。38℃。広場はコンクリートブロック敷きなので、恐らく地表温度は40℃を軽く超えているだろう。ブロックに生卵を落とせば目玉焼きが出来上がるはずだ。・・・炙られている。
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」
暦の上ではもう立秋を過ぎ秋らしい。大暑は二十四節季では7月23日ごろから立秋までを云うのでいささか季節外れではあるが、この村上鬼城の俳句ほど今日の気候に似合う情景を表わしたものはないだろう。
こんな気候の中、昨日まで三連発で「モノの考え方」についての記事をアップしてしまったが、読者の方から「そうは言っても、暑くて無理です!」というメールを頂いた。そりゃそうだ。大変申し訳ない。
だが、敢えて今日のメッセージでシンプルにお応えしたい。
「暑くても、脳みそがトロケそうでも、とにもかくにも何か考えてみよう!理屈をこねてみよう!」だ。
正直、この暑さでは思考力は停止せざるを得ない。
が、敢えて考えてみることをお勧めしたい。
俳人、村上鬼城も恐らく大暑の季節に脳みそがトロケそうになった状態で先の句をひねり出したのだろう。
逆境を活かすとはさすがである。
・・・いや、正直に白状すると、金森も脳みそがトロケそうだ。
だが、この程度の理屈のコネ方をやってもらいたいというサンプルとして、今日の記事をアップする次第だ。
(一向に熱気が収まることのない、前日の夕刻に記す。)
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August 16, 2007
考え方のヒント第三弾。マーケティング教室的Blog記事。以前の内容を参照すると特に前半が理解しやすいです)。
昨日は、一度制約条件を外して過激にradicalに思考を飛ばすよう勧めた。しかし、そこから収束させることも記したが、その収束のさせ方に今日はスポットを当てたい。
マーケティングやロジカルシンキングを学ぶ時、やはり最初に引っかかるのが「フレームワーク」のようだ。
自分の思考を”型”にはめていくのは、ある意味かったるい。「要するにさぁ、こういうコトが言いたいわけよ!」と結論を急ぎたくなる。
しかし、自分の日頃の考え方や経験を一度、既存のフレームに落としてみることで「モレ・ヌケ・ダブリ」などを発見できるという効用は大きい。
また、フレームワークなしで考えているより、実際には思考が行きつ戻りつしない分だけ慣れてしまえばスピーディーに進めることもできる。
慣れてくればこっちのもの。最初は一通りのフレームワークを駆使して分析なり、プランの検討を行うことになるが、そのうち自分なりの得意なフレームワークが見つかり、それでカバーできる範囲は広がってくるはずだ。
例えば、マーケティングのフレームワークでは外部環境のマクロは「PEST分析」、ミクロは「3C分析」となるが、そので一気に解決してしまう手練れもいる。3Cのcustomerを「市場環境&顧客ニーズの洗い出し」として捉え、PESTを包含してしまう。また、company(自社)の中で、一気に自社が狙うべきsegment・targetとそれに対するpositioningを考え、さらに実際の打ち手である4P(product・price・place・promotion)の有り様まで固めてしまうというのだ。
まぁ、あまり慣れないうちに先を急ぐと「モレ・ヌケ・ダブリ」の原因になるのであまりお勧めはしないが、いずれにしろ自分なりの使いこなしができるようになることが重要なのだ。
さて、それらのフレームワークに慣れてくると、様々な「フレームワーク思考」ができるようになってくる。
例えば、誰でも知っている「5W1H」だって、単なる報告のための項目を表しているのではなく、立派な問題解決のフレームワークだということが分かる。
但し、単に5W1Hの項目を羅列するのではあまり効果的ではない。構造的に考えることが重要なのだ。
「問題を解決する」。というとき、こんな構造を5W1Hで作ってみてはどうだろうか。(図参照)。
問題をまずは明確化する。論理思考で言うところの「issueの明確化」である。
そのために、「What(何が)」「Why(なぜ)」・・・問題で・・・「Where(どこで起きているのか)」・・・を明らかにする。
そして、そのままissueをずらさず、「Who(誰が)」「When(いつ・いつまでに)」「How(どうやって)」・・・解決するのか、を検討していく。
問題の解決は、この5W1Hの項目が全て整わなくてはなされないことが構造化すればよく分かる。相互に関連しており、その相互関係を踏まえた上で、全てを検討しなくてはならないことが例えば複数人で話す場合でも共通認識できるのだ。
実は既存のフレームワークだけでなく、このBlogには金森のオリジナルや、あまり知られていないフレームワークが多数記載してある。
ある程度、フレームワーク思考ができるようになったら、オリジナルを考案したり、先の5W1Hのような当たり前な考えを構造化したりするのも有効なのだ。
・・・ということで、今回の教室はオシマイ。
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August 15, 2007
今日も「考え方のヒント」の続き。第二弾。マーケティング教室的記事を一つお届けしたい。
マーケティングにおいては「論理的であること」は基本中の基本であり、昨今ビジネスマンだけでなくも、学生にでも求められる「論理思考(logical thinking)」は併せて身につけたいスキルである。
当然、金森もロジカルシンキングは専門ではないものの、マーケティングと同時に講義ずることも少なくない。
しかし、今日は少し観点を変えてみたい。
標題の「ラディカル・シンキング(radical thinking)」は世間一般に通用する考え方ではない。いわば造語だ。radical =”過激な”ととらえていただきたい。
つまり、論理的にモノゴトを考えるにしても、一度極端なぐらいに思考を発散させてほしいということだ。「えー、そりゃないだろう!」というようなことも一度俎上に上げ、そこからさらに別の方向に思考を伸長させてみる、又は別の思考と結合させてみるなど、広がりを作ってほしいのだ。
どうも、「論理思考」を意識しすぎるためか、思考の発散が足りない人が多くなったように思う。
広告の世界だけではなく、今日すっかり一般化した、オズボーンが開発した”ブレーンストーミング(ブレスト)”であるが、その基本は”拡散→収束”であり、最も基本的なルールは”1.初期段階は質より量でより多くの意見を出す。 2.判断は後回しにすること 3.しかる後に収束させること”である。
複数人で行うブレストだけでなく、自分の頭の中でも一度ラディカルに、”一人ブレスト”をしてみることをお勧めしたい。
ともすると、思考というものは小さくまとまりがちだ。知らぬうちに制約条件をかけてしまうからだ。
例えば、マーケティングの環境分析でおなじみの”3C分析”でもその手順を間違えると、がっちりと制約条件がかかり全く広がりがなく、謝った結果を導き出すことになる。
3C分析。Customer(市場・顧客)、Competitor(競合)、Company(自社)の3つのCからミクロ環境を分析するフレームワークだ。
このフレームワークでありがちな、広がりがない間違った手順としては、Company(自社)の環境(状況)から着手してしまうことだ。
自分の会社のことは、ある意味一番わかりやすい。ついここから手を付ける。そして、ナゼかみんな、ネガティブな部分を数多く洗い出す。「あれもできない、これもできない」「あれがダメ、これもダメ」・・・と。
そうすると、そのダメダメな環境が一気に制約条件となり、「競合はこんなコトもできるのに」「顧客のニーズには応えられないな」・・・ダメだ、どうしよう・・・。になってしまう。
正しい手順は、以前も別の記事で触れたが全く逆。まずは「市場の状況、顧客のニーズ」が何かを考える。考えられるだけ考える。次に「競合の動き」に注目する。市場環境への適合と顧客ニーズにどの程度応えられているのか。「ほかの会社のことはわからない」と言っては始まらない。わからなければ仮説を立てる。想像する。そして、顧客ニーズと競合の動きにギャップはないかを探り出す。
もし、そこに”ニーズギャップ”が見つけられれば、そこに「自社が成すべき事」が見えてくる。つまり、制約条件となる「何ができるか」ではなく「何を成すべきなのか」を明らかにするのだ。「できる、できない」ではなく「可能にする」という前提で考えることが肝要なのだ。
ラディカルに考えることはロジカルに考えることと相反することではない。”logical”の反語は”illogical(非論理的)”である。また、”illogical”には”無分別な・愚かな”という意味もある。思考に無分別な制約条件を設けてしまうことは愚かなことである。一度過激に、思考を飛ばしてみてほしい。
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August 14, 2007
商用で東京・八王子郊外に出かけることがよくある。JR八王子駅から郊外に向けてタクシーで移動。しかし、この移動がクセモノだ。あまり優良とは言い難い八王子市の道路行政。狭い道にも車が満ちあふれている。混み具合を考慮してだいぶ余裕を持って出かけることが肝要だった。ところが、最近、やけに車の流れがスムーズなのだ。タクシードライバーに聞けば、理由は2つ考えられるという。
1つは市街地にありながら、何故か片道200円の通行料を徴収していた「ひよどりトンネル」が最近無料になり、トンネルを迂回するためにできていた、周辺道路のボトルネックが解消されたという。もう1つは高速道路の「圏央道」ができて、市内に通過するためだけの車が流入しなくなったとのことだ。
某ゼネコンの方から聞いた話であるが、道路の設計においてはどこをどういじると、どのように車の流れが変わるかを様々なシュミュレーションを繰り返すとのこと。すると面白いもので、まるで生き物のように車の流れはその姿を変えるという。
それを聞いて、後からふと思った。車の流れとは、なんだか脳神経回路を走り回る自分の思考のようだな、と。考えに詰まることは仕事でも、プライベートでもよくあることだ。考えがまとまらなかったり、先に進まなかったりする。そうした時は、無理に考えを進めようとせずに「一体何が思考の邪魔をしているのか?」を冷静に分析するよう努めている。一歩下がって分析してみると、八王子のトンネルのように何らかのボトルネックが見つかる。トンネルを無料化することによって、ボトルネックが解消して道路全体の流れがスムーズになるが如く、思考がスッキリと流れ始める。ボトルネックの原因はだいたい200円の通行料のように、些末なことへの拘泥である。それを取り除くのだ。
また一つのことに集中しているようでも、ふと気付くと同時に様々なことが頭の中に入り込み、思考が混濁していることを発見することも多い。当然、優先順位は主たる問題の解決だ。それを見定めれば、他の要素を取り除くことができる。思考の夾雑物にバイパスを造り、一旦、頭の外に追い出してやるのだ。
思考とはトレーニングだと思う。そのトレーニングの方法論として、昨今「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」を学ぶビジネスパーソンも多い。それらの思考の「型」を学ぶことは有効だ。だが、それだけでなく、自分自身の思考特性を認識し、どうすれば効果的・効率的な物事の考え方ができるかを会得していくことも有効だろう。今回は自ら体験した「道路」をメタファーとして、また一つ自己流の「型」を会得できたように思う。自らのメモ代わりであるが、金森と同じような思考特性を持った人はいれば参考になるかと記した次第である。
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August 13, 2007
今日は少し趣を変えて、美しくも珍しい画像と共にお届けしたい。
ブランドを語るにはやはりデビット・A・アーカー先生の論を解説することが一番正統だと思い、度々そうしている。
その中で一番重要ではあるが、なかなか難解なのが、「ブランドの本質」を表す「コア・アイデンティティー」という概念。
金森としては、自説の「本質的価値」とニアイコールな関係にあると思うので、度々引用するが中々難しい。
まずは、アーカー先生の言葉を引用。
「コア・アイデンティティは、ブランドの永遠の本質を表す。それは、タマネギの何層もの皮や、チョウセンアザミの葉をむいて後に残っている中心部分である。」(”ブランド優位の戦略”より)
うーん、難しい。
しかし、そのこころは、次のように解釈できるだろう。
タマネギの皮をむいて、むいて、むいて・・・。すると、最後には何が残るだろう。
そう、何も残らない。
しかし、“タマネギ”が、その特徴である球形をもってそこに存在していたのであれば、目には見えなくとも確かにその中心たるものがそこに在ったのだ。
目には見えないが確かに存在し、全体を形作るもの。
ブランドの本質とはそういうものである、と。
些か哲学じみた記述をしてしまったが、その解釈の是非はともかく、原文の「タマネギ」ならわかりやすいが、単語として耳慣れないのが「チョセンアザミ」というもの。
何でしょう?と疑問符が頭に浮かんでしまう。
食材や料理に詳しい方なら分かるかもしれない。イタリアンではお馴染みの「アーティチョーク」のことだ。
「ああ、あれね」と思った方もいるだろう。食通だ。
しかし、その「花」を見た方は少ないのではないだろうか?
先日、ある植物園で開花しているのを偶然にも撮影できたので、ここで紹介したい。
これです。
ね、なかなか綺麗でしょ。
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August 10, 2007
今週末は少々皆さんに知恵をお借りしたい。コメント大歓迎。
些か旧聞に属するが、先月6月末の通貨流通量が発表され、少額硬貨の減少が鮮明になったと報じられた。
減っているのは1円、5円、10円、50円の硬貨。増加している100円、500円と相殺しても0.25%の大幅減とのこと。
原因はやはり、普及に弾みが付いている電子マネーだそうだ。年月別の増減グラフを見ても、01年Edy、Suicaの登場、07年Pasmo、nanacoなどの登場の度、如実に落ち込んでいる。
お金を使う側としては財布がジャラジャラしないで快適なことこの上ないが、ちょっと気になるのが「少額募金」だ。
コンビニ勤務の知人に聞いたところ、やはりレジ横の募金箱の入りがかなり減っているとのこと。
自分の経験からしても、かつては釣り銭で渡された1円玉、5円玉は必ず。銀貨も少し多く小銭入れにある時は10円玉も募金箱にチャランと入れていた。
たかが少額硬貨と侮れない。募金箱にはあるコンビニでは月に3万円程度も入るという。
意外と財布がジャラつくのを防ぎつつ、小さな善行を積んでいる人が多いようだ。
しかし、自分自身もモバイルSuicaにして以来、やはりそちらを使ってしまう。募金額が減った。
日本は赤い羽根共同募金の時期などを除いて、募金をする習慣がなかなかないように思う。
一方、欧米では様々な機会があり、ドネーション(donation)という概念が定着している。
donation:〔慈善・公共施設への〕寄付,寄贈
日本では馴染みのない言葉だ。
知られているのは「臓器提供者」を表すドナー(donor)だが、それは寄贈する者を表している。
ソフトウエアの世界では、フリーのソフトウエアだが、気に入ったらいくらか送ってねというスタイルを取るものを「ドネーションウェア (donation ware) 」とよんでいる。
海外の映画やドラマで見かける、教会で募金のカゴがまわってくるシーンがあるが、それもその一種だ。
また、米国のコールセンターを視察した際、猛烈な勢いでアウトバウンドの電話をかけているチームがあったが、何かと思えば、「ドネーションコール」だそうで、電話で寄附を呼びかけ、ているのだ。そんないきなり電話してきて募金してくれるわけないでしょ、と思ったら結構協力者がおり、募金が集まるという。コールセンターの定番業務だそうだ。ドネーションが定着している証拠だろう。
そんなに募金したいならユニセフからDMが来たらまとめて何万か寄附すればいいじゃん。と言われそうだが、小心者故、まとめてはどうも決心がつかない。
カードのポイントをそのまま寄附できるコースもあったように思うが、溜まっていくマイルや金券を償還できるポイントがなくなるのもちょっと寂しい。
自分の懐が痛まない方法ならクリック募金がある。
ユーザーが協賛スポンサーサイトを訪問し、その取り組みを見てクリックすると1クリックで1円、支援先にスポンサーがユーザーに代わって募金をしてくれるというしくみだ。
<例>
http://www.dff.jp/
http://www.ekokoro.jp/
http://kiga.be.happy.net/
企業のCSR活動としても有効だしいいかも。と、思うが、実際にやってみると、各サイトを一つ一つまわってクリックしていくのは結構手間がかかる。とても毎日継続的にやれる自信はない。
つまりは、コンビニの少額おつり募金は、さりげなく日々チマチマと自然に募金できるところがポイントだったのだ。
コンビニヘビーユーザーなので、改めて計算してみると、実に年間1万円程度募金していたようだ。
無理なく自然にチマチマと、大勢の人が募金できるしくみ。そんなものが考えられないかと、少額硬貨減少のニュースを見てからずっと考えている。
今日は結論がついていないが、お盆休みにでも考えていただき、是非お知恵拝借願いたい。
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August 09, 2007
私憤ではない。私憤ではないが、少々気になったので記したい。
先週のうだるような暑い昼下がりのことだった、ある交差点で電子マネーカードを拾った。
カードのプラスチックも溶け出しそうに熱を持っている。
表に返して眺めてみると、JR西日本発行の”icoca”である。
随分珍しいものを拾ったと思いつつ、いくら中にチャージされているかはわからないものの、うっかり落としてしょんぼりしている関西人の姿が脳裏に浮かび、すぐさま交番に届けようと思いたった。
西城秀樹が熱唱する、かつての「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「走れ正直者」の主人公のようだ。
交差点で100円を拾い、すぐに交番に届けようとする”俺”はいつだって正直だという歌詞を思い出す。
いや、くだらないことでも考えていないと、この暑さの中、わざわざ遠回りして交番に行こうという気持ちが萎える。頑張れ、俺。
程なく交番に到着。私服と制服の警官がいた。
拾得物を提示して、「JRが調べてくれれば、カードの番号で持ち主に返せるでしょ」と言うと、「あーこれね、買った時に氏名登録してないから、本人が取りにこなけりゃわかんないナー」との返事。
そうか、定期のsuicaしか使ったことがなかったから忘れていた。あー、無駄足か?
「一応、預るかけど、”拾得物の権利放棄”でいいですよね」。
別に欲しくて届けたわけではない。結構ですと応える。
が、何か勝手に断定されるのはオモシロクナイ。
それに市民のささやかな善意に対して「暑い中、ご苦労様です!」のねぎらいぐらいあってもいいんじゃないの?
「一応、こっちで書類作っとくけど、拾得者のサインだけこの書類にしてください」。・・・また、一応か。
一応、サインをする。
「あ、あと念のため、住所と電話番号、この紙に書いてもらえますか」。
真っ白いコピー用紙とボールペンを手渡される。
「え、何で?」
「あー、別に書類が必要になった場合、こっちで作っておきますので念のためお願いしますよ。」
えぇー、何の説明もない白紙に、住所と電話番号を書けと。先にサインをしているから、氏名、住所、電話番号がセットになれば、立派な個人情報ですよ。
それに、何か書類が必要になったら勝手に作られちゃうの?何の書類?
しばし渋ったが、警官相手に押し問答するのもさらに気分が悪くなりそうだ。
後ろには何やら用事のありそうな人も並んでしまった。
”一応”、日本の警察を信用することにして、白紙に記入する。嫌な感じだ。
「はいじゃぁ、これで」。と受領される。
で、交番を退出。最後までねぎらいの言葉はない。
せっかくの市民の小さな善意がスポイルされている。
これだけ世間で騒がれている「個人情報保護法」に対する遵法精神が徹底されていない。
いつも気にしている、「世の中の箍の緩み」。
全ての交番の対応がそうだとは思わないが、
何だか社会の規律を守るべき交番という、とても大切なところでそれを見てしまった気がした。
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August 07, 2007
企業研修の依頼を受けることがある。
クライアント企業ごとに抱えている課題は異なるため、多くの場合そのプログラムはオリジナルで開発することも多い。
また、「マーケティングとはビジネスにおける課題解決の手法である」というような捕らえ方がなされている場合も多く、そうなると研修でカバーすべき領域は通常のマーケティングの概念からほかの領域に踏み込まざるを得ない。「ビジネスの総合格闘技」の様相を呈してくる。
特に管理職研修においては、部下の教育やモチベーションに関する課題が呈せられる。多くは「コミュニケーション」に問題があるため、金森としては独自の「コミュニケーション論」をい持っているためその考えに従って解決策を考えることになる。
さて、上記のような「部下の教育やモチベーション」に関して最近特に多く聞こえてくるのが、「若い社員に主体性がない」「指示待ちの姿勢が多くて困る」というものだ。
多くの管理職が言う。「仕方がないのでその都度懇切丁寧に指示する。しかし、似たような事象があっても先の指示から類推し、自主的に解決する姿勢が見えないので困る」と。
はて、それは本当にその若い社員の問題なのだろうか。指導する側の管理職にも落ち度はないのか。
最近こればかり言っているが、「コミュニケーションとは共有である」。部下とのコミュニケーションは取れているのか。
「都度指示する」ことは実はコミュニケーションになっていない。場当たり的な指導にしかなっていないのだ。対処療法である。
何を共有すべきなのか。それは、部下に「なぜ、それを成さねばならないのか」という根本である。
いささか当たり前なこと過ぎると思われるかもしれないが、そもそも「自社のビジネスとは何なのか。企業として存在しているのは、顧客・株主・従業員に対して、どのような価値を提供しているのか」という本当の根っこの部分をまず理解しているかの確認からが必要である。
当の管理職自身すらも忘れていることかもしれない。しかし、人に教えるということは、自らが再度学ぶ機会でもある。再確認する価値は十分ある。
その根っこの部分が認識できたら、その企業内における自部署、また自分の業務はどんな意味を持つのか。常に留意すべきこととは何なのかを自ら考えさせ、その答えを見つける手助けを管理職としては行うべきだ。個別の事象の対処法を一つ一つ教えるより、根本を理解させれば、次第に自ら何をなすべきかが理解できるはずだ。
管理職にとって、業務を遂行し業績を上げることは重要だ。しかし、「部下の教育」という課題が自らの責務の過半を占めているという認識を持っている人は意外なほど少ない。人を育て、その人に業績を上げさせることが重要なのだ。
先週、巡業を放棄し、横綱・朝青龍が厳しい処分を受けた。横綱にあるまじき行為であると。
確かにその通りだが、横綱に巡業の重要性がどれだけ理解されていたのかという疑問も残る。最高位とはいえ、横綱は「現場の人」である。
管理職たる高砂親方、北の湖理事長はどのような教育を行っていたのだろうか。まして横綱は外国人だ。相撲の技だけでなく、国技としての心得、綱の重さなどをどの程度理解させられていたのだろうか。
根本の部分が理解できていない、優秀な社員ほど実は怖いものはない。
今日、企業の社会的責任が重要視されている。「指示待ち社員」などはまだかわいいものだ。横綱は企業の社員に例えれば「コンプライアンス違反事案を起こしたエース社員」というところか。
指示待ちボウヤや汚れたエースを出さないためにも、管理職たるもの、自らも再認識しつつ、「根っこ」を教えるべきだ。
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August 02, 2007
7月31日日経新聞夕刊一面「あすへの話題」。作家の柴田翔さんが「言葉の変化のよしあし」と題して気になるコラムを記されていた。
<知人の言語学者が「自分の世代ではない言語を憎む心情」が近頃はびこっているという>と。ところがその言語学者は<変化のいい悪いは自分の管轄外>だという。作家の柴田さんとしては<言葉を書くことで暮らしている自分としてはそうもいっていられない>とのことだ。そりゃそうだろう。
そして、”変化”の具体例として新聞記事から2点を挙げ、事故を起こした「運転手」という表記が<運転が職業なら運転手、たまたま運転しているのなら運転者><その区別が消えつつある>と。同じく<銃による殺害を意味する射殺と、銃による処刑を意味する銃殺を使い分けない文章も増えている>とし、<これらは悪い変化>と指摘している。
そして最後に、<事柄の違いをいい加減にして、人間の認識や感情を単純化して行く変化は、言葉と心を貧しくする>と述べられている。
このコラムを読んだ時、実に悪寒にも似た感覚に襲われた。何度か当Blogで指摘している「世の中の箍の緩み」の原因の一端を見た気がしたからだ。
知人の言語学者の語った「自分の世代ではない言語を憎む心情」などは別段問題ではないと思う。言葉の変化も含め、後の世代の変化に対する反感は、具体的な書名は失念したが、平安の日記文学にも登場する。現代語で言うなら「近頃の若いモンは」という類の記述だ。
怖いのは柴田さんが最後に記されている<事柄の違いをいい加減にして、人間の認識や感情を単純化して行く変化は、言葉と心を貧しくする>という行だ。これも何度も当Blogで述べてきたが、「コミュニケーションとは”共有”」なのである。何か相互に会話をする。言語を投げかけ合うことがコミュニケーションではない。相互に確かに共有ができる。乃至は共有したもの(目に見えるか否かは別として)が残った状態がコミュニケーションの成立なのである。
柴田さんの指摘はまさに「コミュニケーションが取れていない今日の社会」を表し、その原因を「言葉の悪い変化」にあると看破しているのである。
「知人の言語学者」は「管轄外」と言ったそうであるが、そんなことでは困る。作家として柴田さんはこの問題を提起されたのであるが、多少なりとも「言葉」に関わる者、コミュニケーションといわれるものに携わる者は、この「悪い変化」にどこかで歯止めをかけなければならない。そう感じるからこそ、この一介のマーケターも何度もBlogで叫んでいるのである。
思考は言語によって形成され、行動は思考の結果として表れる。言語を操る動物である人間にとって、言葉はその行動を決める重要な役割を担っているのだ。それが曖昧でいいわけがない。
例えば先の「射殺」と「銃殺」。曖昧になれば、それが悪しき行為なのか、断罪なのか、全く逆のことが同列に扱われることになる。米国などで相次ぐ銃乱射事件。多くの犯人は罪の意識を感じていない。その行為を「銃殺」と表現したら、是認したことになるだろう。あまつさえ、米語では学校で銃を乱射する者を称して”schoolshooter”などと一般名詞化しているのだ。”shooter”は”射手”である。その撃った先には無辜の学生・生徒がいることを表しもしていない。日本語も放っておけばこんな悪変化、劣化を起こすことになるだろう。
「言葉は世につれ」は致し方ない。しかし、世の人々がその意味を正しく共有できる変化でなければ、それを食い止めなくてはならないことを強く言いたい。
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August 01, 2007
帰宅時、列車内のドア横ステッカーで化粧品のロレアル社から発売されている「ダブルエクステンション」なるマスカラの広告が目にとまった。
ここ数年来、女性のメイクは目元が重視されており、「強いメヂカラ」を演出するため、睫毛をよりボリューム多く、より長くさせるための武器、マスカラが各社から数多く発売されていることは知っていた。
しかし、この「ダブルエクステンション」なる商品の特長は、1本のマスカラの容器両側にブラシが付いており、片方でベースを作って、乾いてからもう片方でより黒く・長くすることにあるようだ。
もはや女性には常識なのかもしれないが、何とも面倒なことを毎日やられているのかと驚き、また少々その努力には感服した。
確かにマスカラは付け方によってダマになったり、根本ばかりにボリュームが出て伸びなかったりと、それらを解決する「ベスト・ソリューション」を常に女性は探しているようだ。
「ダブル」は効果的なのかもしれないが、男の感覚では何とも手間のかかることだろうと思ってしまう。
しかし、ふと思う。もしかすると、手間をかけるということは、その効果もさることながら「手間をかけたことによる充足感」も重要なのではないだろうかと。
つまり、同じ効果だとしても2本のブラシを駆使し、二度に分けて時間をかけて塗る。そのプロセスが心理的な充足感と、もしかすると同じ効果だとしてもより効果が実感できるのではないだろうか。
やはり勝負は「メヂカラ」である。物理的には同じ効果だったとしても、その効果を信じればおのずと自信が生まれ、目元もキリリとするかもしれない。要するに「プロセス」も重要なのだ。
転じて、プロジェクトの進め方。何らかのソリューションを社内に導入しようとする時、いわゆるプロジェクトが発足する。
その際、プロジェクトチームだけで物事を決め、推進して、最後に「こう決まったから」と通達するようなスタイルはかなりの確率で失敗する。
社内に定着しない。ユーザーが言うことを聞かない。「聞いてないよ!」などと反発が来る。
大切なのは「ユーザーを巻き込むこと」であり、「プロセスの共有」である。同じことでもそのプロセスを共有することで、納得感が得られる。自分のこととして考えてもらえると、若干の手間は発生しても、その効用は大きい。
さて、なぜマスカラの話からプロジェクトマネジメントの話になったかといえば、ポイントは「プロセスの共有」だ。
女性たちは手間をかけてでも、より効果を実感するために「二度塗り」を」する。
もしかすると、メーカーもその手間をかけるという「プロセス」を踏ませることで、よりユーザーの納得感を引き出すことを考えているのではないか。
そのプロセスと納得感の醸成は化粧品とプロジェクトマネジメントでも共通するのではないかと考えた次第だ。
単にモノを作れば売れるという世の中ではない。また、上意下達だけでモノゴトが進むほど会社組織も単純でなくなっている。とすれば、この「プロセス」というものは様々な事象において共通するキーワードになり得るのではないだろうか。
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July 26, 2007
いつもリンクさせてもらっている知人のBlogに金森と同じような体験が綴られていたので、触発されてちょっと軽く書いてみる。(そのBlogに思わず反応して付けたコメントとダブるけど)。
その「毎年送られてくるDM」という記事によると、年1回かもめーるで事務所近くのメガネやからDMが届くとのこと。しかも、以前入居していた他人名義のものが!
・・・何ともひどい話だなぁと思っていたら、金森のところには実は20年間送りつけられて来ているDMがあったのだ。
思えば学生の頃、神田神保町、三省堂1階の特設会場で「化石・鉱物展示即売会」というのがあった。
ペーパーウェイトにちょうど良さそうな、アンモナイトの化石を購入。
その時、どのように住所を残したのか、なにぶん昔なので覚えていない。
その後、金森は実家を離れるが、毎年数回、「展示即売会」のお知らせDMが実家に送り続けられている。
20年、である。その時の長さを考えると呆然としてしまう。
当然、DMの最初の発送担当者から、その業務は引き継がれているのだろう。
にもかかわらず、何の疑問もなく送り続けられていたと言うことだ。
また、驚くべきことに案内の書式もずっと変わっていない。会場や日時、その時の目玉商品などの文面が差し変わっているだけだ。
リストクリーニングはしていないのか?まぁ、していないんだろうな。
と思いつつ、丁寧に実家にはそのDMがここ数年分保存されていたので、見直してみた。
ここでまたビックリ。
数年前から、宛名の「金森努」が「金森務」に間違われている。(ちなみに、この間違われ方、嫌い)。
恐らく、手書きの発送台帳を入力した際に、変換ミスをしたのだろう。
リストクリーニングはともかく、更新してるじゃん。
しかし、なぜ、その後DMによって来場したかどうかの検証を一度もしないのか。
「DM持参で粗品プレゼント」ぐらいやればいいのに。
カンタンに一度も来場していないことはわかるだろう。
世の中にはまだまだ、何とも不思議な販促施策をやっている例があるもんだなぁとあきれつつ、少し感心してしまった。
環境負荷を考えれば、DMの差し止めを求めるべきなのかもしれないが、いつまで続くのか、興味が湧いてきている。20年、無駄を続けて平気な会社だ。結構余裕はありそう。もしかしたら、こちらの方がお先に失礼かもね。
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July 25, 2007
最近気になることを少々。
先日、道路公団の方と知り合いになった。普段どんな仕事をしているのか詳細には知らなかったので、中々興味深いお話を伺えたのだが、気になるのは、各種報道でも聞いていた、シートベルトの着用率の低下である。中でも子供の着用率低下が気になる。
読売新聞が7月11日に報じた所によると、「警察庁と日本自動車連盟(JAF)が今年5~6月に行ったチャイルドシート着用状況の全国調査では、着用率は46・9%にとどまり、合同で調査を始めた2002年以降では最低となった。」とのことだ。
同紙によれば「非着用の子供の致死率は、着用していた場合に比べ約9・8倍に上る」とのこと。
数字にして示されれば「着用しない理由がない」ように思える。
しかし、少々腑に落ちないのが逆に子供用の自転車同乗のための安全器具はどんどん進化・普及している事だ。
金森の自宅前の交差点は東京で一番自転車の交通量が多い交差点であると以前も紹介した。朝などはまるで十数年前の中国のようだ。
当然、自転車の接触事故や転倒などもよく起る。それ故の、地域独特の防衛策なのか。
親の自転車に同乗している子供のヘルメット着用率はざっと7割近いのではないか。娘が自分で自転車に乗る前、自転車のチャイルドシートに乗せていたほんの5~6年前はほとんど見なかったのだが。
調べても情報が見つからないのだが、確か東京都かどこかの団体がヘルメット1つに付き1,000円ぐらいの助成金を出していたような気もするが、だからといってそれだけでそんなに普及するものなのだろうか。
また、荷台に取り付ける自転車用チャイルドシートも子供の背当て部分が強化され、高くなり、首や頭の部分まで保護するような形状になっている。頭の横側までフレームが回り込んで、しかもクッションパットがついたものまで登場している。
そうした製品はメーカーが上市している以上、一地域限定モデルではなかろう。
車のシートベルトは子供の着用率が減少し、自転車の安全装備は強化され、どんどん普及している。この違いは何だろう。同じ子供を護ものであるにも関わらず。
考えてみると、それは恐らく「発生頻度」ではないか。
交通事故を起こす、または巻き込まれる。そうめったにあるものではない。加えて、ここ数年来、警察庁の発表によれば、平成9年から18年で死亡者は全国で9,640人から6,352人へと約34%減だ。
「万が一」の感覚が希薄になってはいまいか。
それに対して、自転車乗用中の交通事故死亡者数も減じてはいるものの、自転車同士の接触・転倒や、自損事故などはしょっちゅう目にする。荷台に載せられた子供も結構な勢いでダメージを負っている。
今年3月に警視庁はやっと重い腰を上げ、取り締まり強化に乗り出したほど、無謀運転の自転車も増加している。
要するに、車の事故は減り「まさか私が」という感覚が蔓延し、それに対して自転車事故は頻繁に起り、増加傾向にすらある。その差が安全装備に対する差に出ているのだろう。
金森がよく引合いに出す、E.M.ロジャースの「イノベーション普及学」にある「普及速度の5要件」に「観察可能性」というものがある。
観察可能性とは、「目に見えない効果ではなく、明らかに効率が上がるもしくは質が向上するなどの効果が観察・実感できる」という条件である。
目の前で事故が起り、子供が重篤な状況になっていることを見る機会などめったにない。しかし、自分自身が自転車で転ぶ。うっかり目を離して、止めておいた自転車が転倒し、子供が荷台から投げ出される。子供が泣く、怪我をする。そちらは日常茶飯事だろう。
目に見えないものは信じない。採用しない。人間の心理ではある。しかし、減少しているとはいえ、事故は起る。弱いものの命から先に危険にさらされていく。
目に見えないからシートベルトを着用しないのであれば、いっそ、免許の書換でみせられるような事故の写真やビデオをもっと頻繁に見せる機会を作るべきなのか。ところが、その写真やビデオさえも、免許更新期間が年数が長くなっているため見る機会が減っている。
緩んだ危機意識を再び喚起させることは難しいものである。
当Blogで指摘しているように、近頃とみに箍が緩んできているこの社会においては。
自分にできることは、少しでも気になったことについて警鐘を鳴らすことぐらいか。
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July 24, 2007
「マーケティングとは?」こうした根源的な問いに対する答え方は意外と難しい。様々な言い方や解釈があるが、筆者はマーケティングの大家であるフィリップ・コトラーの定義を下敷きにして説明することにしている。すなわち「マーケティングとは売り手と買い手の間で行われる“価値”の“交換”プロセスである」と。単なる「モノやサービス」と「対価」が交換されるのではなく、「価値」に対して「対価」が払われるのがポイントである。
しかし、昨今、そのキーワードである“価値”と“対価”に対する考え方を少し多面的に見る必要が出てきている。
今まさに、7月21日から8月20日の間は、財団法人日本雑誌協会が主催する「雑誌愛読月間」だ。その雑誌とフリーペーパーの関係にに注目して、過去のコラムを加筆修正して改めて考えてみる。
■フリーペーパーが雑誌を喰う?
筆者は「タウン・ウオッチ」が趣味なので、実によく街を歩く。そしてしばらく歩くと、必ず5、6部のフリーペーパーを受け取ることになる。その数は二年前の比ではない。社団法人日本印刷技術協会発行の「日本のフリーペーパー2006」が把握するデータでは、2005年現在国内の発行社950社。紙誌数は1,200種。年間総発行部数91億部で実に雑誌の倍に達しているという。恐ろしい勢いだ。
有料の従来型の雑誌はどうかといえば、財団法人日本雑誌協会理事長の村松邦彦氏が今年の6月5日に行った講演内容が象徴的である。この10年間を振り返り、「1996年に雑誌の総発行部数は51億2千万冊だった。2006年は40億冊で、11億2千万冊減少した。21.8%の落ち込みだ」という数字を紹介した。フリーペーパーに対しては「コンテンツがしっかりしているわけではないので脅威にはなりえない」とする一方で、書店店頭や駅構内に無料設置され、生活者が手に取ってしまい、駅売店や書店での雑誌売り上げに対する影響はやはり大きいとも述べられていた。
■「時間」という「対価」に注目!
さて、従来の雑誌を喰い始めたフリーペーパーであるが、その名の通り「フリー」なので、金銭的な「対価」を払ってはいない。では、読者は何を「対価」として「交換」しているのだろうか。それは「時間」だ。時間は1年365日。1日24時間と人間に等しく配分されている。そのうち、自らが自由にできる「可処分時間」をどう使うかは、極めて多忙な現代人にとって大きな関心事である。
ここで「価値」に立ち戻ろう。実は「雑誌」対「フリーペーパー」は「有料」対「無料」という金銭的な勝負ではないと考えられる。確かに高価な雑誌もあるが、平均的には数百円。生活者の「可処分所得」の中から払いきれない価格ではないはずだ。一方、無料とはいえ、フリーペーパーも一読するにはそれなりの時間を要する。つまり「可処分時間」を消費しているのだ。となれば、やはり勝負のポイントは「コンテンツの価値」であろう。
いかに無料であっても可処分時間を消費するに値しない内容であれば、やがて誰も手に取らなくなる。また、使えそうなクーポンだけ破り取って捨てられてしまうような内容であれば、媒体価値は認められず広告収入もなくなる。やがて淘汰されていくはずだ。
先の講演で村松理事長はフリーペーパーのコンテンツがしっかりしているわけではないと指摘されていたが、実際にはかなり読みごたえのあるフリーペーパーも育っている。駅に設置された専用ラックがすぐに空になってしまうリクルートの「R25」などはその代表例である。コンテンツが充実してきているフリーペーパーもある中で、有料の雑誌は当然それを上回る内容でなければ金銭的な対価は支払われることはない。雑誌は購読者から受け取る「可処分所得」と「可処分時間」の両方に見合った価値を提供しなくてはならないのだ。従来よりも一層の研鑽が必要となることは言うまでもない。
■金銭的対価を払うこと自体の「価値」?
実は筆者が「フリーペーパーに負けるな!」とひそかに応援している雑誌がある。「THE BIG ISSUE(ビッグ・イシュー)」という。サブタイトルに「ホームレスの仕事をつくり自立を支援する」とあり、ホームレスの人に雑誌を販売委託し、「頑張って販売すれば自力で生活できる」という仕組みを提供するものだ。
定価は200円。販売員は90円でこの雑誌を仕入れ、110円を収入とする。なかなかユニークな特集記事や、キラリと光るコラムも掲載されている。しかし、200円という価格からすると、ボリューム感が乏しいのは否めない。しかし、制作費は90円で賄われているので上出来とも言えよう。
この少々ボリューム不足な雑誌に200円という「対価」を払う「価値」とは何だろうか。理想を掲げ、少ない原資で雑誌を作る事務局。フリーペーパーの無料配布の横で、自らの復活をかけ懸命に販売するホームレス。それを200円という対価を払い支える理解者。これは一種の「価値の循環構造」であると言えまいか。そして読者が対価を払っている「価値」とはその「理念」に対してである。
もはや今日の消費は、単純な「提供者・売り手」と「受け取り手・買い手」という二者間の「モノ」と「カネ」の交換活動では語れなくなっている。前述の通り「時間」に注目することも重要であり、また、「THE BIG ISSUE」のように「理念」に対する「対価を払う“意義”」にまで注目する必要があるのだ。
■ただより高いモノはない・・・にならないように
今回は今日の市場における「価値」の多様化について雑誌とフリーペーパーを題材に述べたが、最後に一つだけ。我々生活者は、自らが手にするモノの「価値」が何なのかをよく理解し、何を「対価」として払っているのか。また、それは価値に見合っているのかをよく考える習慣を、今まで以上につけなくてはならないと考える。
今回のお題のフリーペーパーであるが、全てを安易に受け取っていいものだろうか。目につくフリーペーパーの中だけでも内容の薄いものが散見される。1,200種のも紙誌の中には、捨てられる、捨てることを前提で作られているものも少なくないだろう。「つまらなければ、捨てていただいて結構です」という提供者側の理論。「ぱっと見て、つまらなければすぐ捨てるし、たまに面白い記事や得するクーポンがあれば、めっけ物だから」という読者の理論。そう考えると、利害は一致しているようにも思える。
しかし、年間総発行部数91億部という前出の数字を忘れてはならない。それらが製作され、廃棄処分される過程でどれだけの環境負荷が発生しているかを考えると、うっかり受け取れないはずだ。環境負荷というツケは、回りまわって自らに戻ってくる。やはり、「タダより高いものはない」のである。
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July 23, 2007
”顧客の要望や嗜好をデータとして記録し、以降の最適なサービス提供に活用する”・・・CRMや1 to 1といわれるマーケティング手法においてはイロハのイである。
しかし、それが如何に”言うは易く行うは難し”であるかは実際にそのサービスを設計・実行したことのある者であればよくわかるだろう。
「一度要望を聞けば枕の堅さの好みまで全拠点で共有し、以降確実にサービス提供を行う」。リッツカールトンの逸話の一つだ。
それが実際には例外的に秀逸なサービスであるかということである。
しかし、「全拠点で」かどうかはわからないが、ほぼ同等なサービスを体験できた。
過日、名古屋に出張した。宿泊先は「ホテルマリオット・アソシア」名古屋駅上の高層ホテルである。
このホテルに宿泊するのは1年ぶり。昨夏~秋にかけても定期的に宿泊したが、その間に大怪我をし入院。最後の2回のうち1回は車椅子、1回は松葉杖姿での利用となった。
そして1年後、通された部屋はどこか見覚えがある造り。一番気に入っていた角部屋である。1年ぶりとはいえ、何とも懐かしい。怪我の体験もあるので何やら感慨もひとしおだ。
バスルームにはいると、入浴剤が3種類並べておいてある。その時点で明確に気付いた。
角部屋、入浴剤の用意、それは1年前最初に利用した際にホテルのコンシェルジュに頼み、以降秋まで利用している間ずっと提供されてきた個別サービスである。
新聞を頼んでおくのを忘れていたが、きちんと翌朝、日経が部屋に届けられていた。
このクラスのホテルであれば、当たり前なサービスレベルだといわれるかもしれない。
しかし、1年ぶりで訪れ、その要望が正確に再現されている様は、少々感動せずにはいられない。
コンシェルジェデスクにて宅配の出荷を依頼した際に名前を告げると、端末で確認し1年ぶりの再利用の礼を言われ、サービスに不備はないか、追加の要望はないかをさりげなく聞かれる。
当たり前かもしれないが、その当たり前をきちんと実行することは実は難しい。
この所、某ホテルを巡ってトラブルを引きずっていただけに、こうした対応のありがたさが身にしみる。
今後も年内は定期的に利用することになっている。サービスに感謝しつつ、度を過ぎない程度に他にも色々要望をして見ちゃおうかなとも思っている。
特筆すべきことがあれば、またお伝えする所存である。
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July 20, 2007
この所、何度か書いてきた某ホテルでのトラブルですが、ただ今一件落着しましたので、ご報告です。
経緯はこちらに → 過去記事1 過去記事2
本日10:15に料飲部マネージャーから「修正伝票は届きましたか」の電話が入る。
約束では18日中に電話が入ることになっていたので、2日遅れ。
届きましたと回答する。
「カード会社に確認したところ、正規料金を記した伝票はカード会社から加盟店に”加盟店控え”が送られてくるだけで、利用者は請求書の利用明細で確認できるだけだとわかったので、ご心配でしょうから加盟店控えのコピーをお持ちしたい」とのこと。
うーん、今度はカード会社の対応の悪さが気になるが、その責任者の配慮は非常にありがたい。
持参してもらうことにする。トラブル発生以来、14日目にしてやっと本人に会うことになる。
45分ほどで本人が事務所に到着する。そう、本当に近いんですよ。来る気になれば。
今までの対応の不備を詫びられ、早速、加盟店控えのコピーを受け取る。
結局、顛末書などの書類はなし。手元に残ったものはこの「加盟店控えのコピー」と以前届いた「修正伝票」、同封されていた、店の責任者からの簡単な詫び状の3点。まぁ、こんなところか。
お詫びと言って、何やらまた、菓子折の入った手提げ袋を渡される。
固辞し、何度か手提げ袋の押し合いになるが、そこまで意地を張るのも大人げないので受け取る。
・・・ちなみに、人に品物を渡す時は、袋から出して渡すのがマナーですね。ホテルマンなら、こういう細かいところにも配慮して欲しいところでした。
この2週間の一連の顛末を振り返ると、始まりはカード決済額の入力ミスという、重大ではあるが、単純なミスでした。
それ自体は「本当に申し訳ございません」以外の対応は方法はなかったと思いますが、その後の処理や処理結果の報告の仕方が悪すぎました。
また、約束を守らなかったり、さらなる対応ミスを隠そうとするなどで事態は泥沼化。
いかに、トラブルは初期対応が大切か。また、その後の対応に誠意が必要か。身をもって新たに感じさせられる出来事でした。
モノやサービスが満ちあふれた今日、顧客にとっての安心や満足といったものは、人的対応による情緒的付加価値に依存する部分が多いのが事実です。
本当に他山の石として深く記憶に刻みたいと思っています。
一件落着。いままでお読みいただき、お付合いいただいた皆様、ありがとうございました。
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どうもここの所妙な事ばかりに遭遇する。それらの事象を綴ると「私憤をばらまくな」とか、「お前はクレーマーか」といった反応も来る。しかし、火曜日に記した「不安な飛行機」の件は、そこで論じたとおり「社会の箍の緩み」や、人々の「職業倫理観の変質」として捉えると、「私憤」とばかり言っていられない。大きな事故や問題の予兆かもしれない。同時に紹介したハインリヒの法則が示す大事故・小事故の前触れである、ヒヤリ・ハットのさらにその手前に類するものかもしれないからだ。
というわけで、今日の内容も「私憤」と捉えて欲しくないなーと、思いつつ本題へ。
今、自宅前で大規模工事が行われている。幹線道路が交わる交差点で立体高架橋工事がされているのだ。で、これ幸いと、その周辺の民間ビルでも立替や改修工事が花盛りだ。どうせうるさいなら、同時期にやってしまえば目立たないだろうということか。
まぁ、それはそれで仕方ないのかもしれない。しかし、気になったのはごく小さいこと。
高架橋工事の横で行われている民間ビルの解体作業で、女性警備員が通行人の誘導をしている。
男女雇用均等法以来、女性警備員は珍しくない。また、彼女は夜勤担当のようだがそれもさしたる問題ではない。問題は「声」だ。
性差を問題にするのではなく、その個性として恐ろしく甲高い声で、また声量もある。通行人に注意喚起する能力としては極めて優秀だ。但し、深夜でなければ。
不幸なことに我が家の寝室は工事側に面している。ハイタイトサッシのおかげで建機の唸るような音はかなり軽減されているが、何故か、彼女の甲高い声はそれを突き抜けてくる。
何日も続いている。さすがにある日の22:30頃、「もう少し小さな声でできないか」と懇願しにいった。見ればこの時間、自転車や歩行者の通行量は随分と減っている。
しかし、彼女の回答は「我慢してください」だった。
曰く、通行人は少なくとも24:00ぐらいまではいつ通りかかるかわからない。注意喚起のために大きな声を出して、警備棒を振り誘導する姿勢を続けるのが自分の大切な役割だという。多くの通行客の安全に関わる公共性のため、個人に迷惑がかかるかもいしれないがお互い様で我慢が必要と諭された。
何か変な感じ。通行客はいるが、どう見てももうまばらだ。大声の必要はないだろう。また、公共性をいうが、あくまで民間ビルの建替えだ。公道の高架橋工事の横でやっているものの、あくまで”公”ではなく”私”の事業だ。また、百歩譲って公共性をいうにも、そのため個人に我慢を強いるのはいかがなものか。
学生の頃、警備員のアルバイトを短期でやったことがある。その時、厳重に言われたのが「制服を着ると、どうしても偉くなった気がしてしまう。自分の行いが一般の人にどう受け止められるかを考えろ」ということだ。
彼女はよく通る声と強い使命感という、優秀な警備員の資質を持っているのは間違いない。
しかし、その仕事の本質が、「注意喚起するため大きな声を出すこと」「警備棒を振ること」と認識するような教育をされてしまっていることが残念だ。
前述の学生時代のアルバイトでは、警備の本質は「的確な状況判断による安全確保」であると教えられた。加えて、「自分たちは警察ではなく一民間企業であり、何の権力があるわけではない。通行人なり、来場者に”指示”をするのではなく、”お願い”をするという認識が重要」とも言われた。まさしく本質を突いていると思う。
優秀な人材でもその仕事の本質を理解させているかどうかで大きく働き方が変わってしまうという実例を見たわけだ。
ついでに、その公共の高架橋工事の方。前から気になっていたのだが、工事関係者はヘルメットに皆「自分の安全は自分で守ります」のステッカーを貼っている。
これは工事関係の業界ではよくあることなのだろうか。確かに作業員同士が安全意識を高めるには効果があるのかもしれない。
しかし、個人的にはそれを見た感想は「会社(JV:ジョイントベンチャー)側の安全管理はどうなっているのだろう?」である。
まさか作業員に丸投げということはあり得ないだろうが、クレーンのすぐ側まで近づかないにしても、一般人も作業範囲に存在する。超大型クレーンも登場するが、それが万が一転倒しようものなら、我が家を直撃ほど目の前に迫っている。休日などは警備員のいない、狭くなったままの歩道を通行しなくてはならない。
「自分の安全を守る具体的な手だて」を知らない。また、対処のしようもない空間に居住している住民の気持ちからすると、「自分の安全は自分で守ります」はあまりに心許なく、むしろ不安がかき立てられる。
「工事が終われば便利になるのだから、我慢しなさい」と言われるのだろうか。
しかし、どんなメッセージを掲出すると、誰がそれを目にして、どんな気持ちになるのか。
こちらの例も、どうにも、「生活者視点」が欠如しているようでやるせない。
もう一つ、警備つながりで蛇足を一つ。小ネタ。
今年の春先、東京駅構内にて。その日はやけに警備の警察官が多かった。
つい、その一人に聞いてみた。
「今日は随分とお巡りさんが多いですね。何かあるんですか?」
「いえ、普通の特別警戒です!」
ん?”普通の特別”? ・・・「普通」な日々、万歳。
彼らが「本当の特別」そうな顔しているのに遭遇したらコワイ。
そうならないためにも、先日来、記している「社会の箍の緩み」を社会全体でも、個々人の認識においても正していきたいものである。
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July 18, 2007
昨今、企業の製品トラブルが相次いでいる。製造工程上の致し方ない件もあろうし、速やかなリコールで早期収拾がなされているケースも多々あるが、そこに何らかの隠蔽や偽装がある場合も多く、生活者としてはテレビを見る度に憤懣やるかたない気持ちになる。
同時に、企業側のトラブルの収拾方法や、責任者の”謝り方”の稚拙さに辟易する。”謝り方”はそこに”誠意”がなければ全く意味がないが、一種の”技術”が求められる。いや、”技術”と言って差し支えがあるのであれば”作法”と言い換えようか。
しかし、先日来記しているように、某ホテルの対応にて自らがそれを体験している。
あまりと言えばあまりの出来事の連続で、ジェットコースター気分である。
トラブル収拾は現在進行中である。しかし、特段新たに日々の記事にはせずに、前の記事に「後日談」として追記していこうと決めていたのだが、今日発覚した出来事は「悪い見本」として特筆すべきかと思い、一つの記事にした。(これまでの経緯はこちら)
さて、上記リンクの「後日談1」は、先週の出張中に、何らかお詫びらしき「書類」を宅配で送ったと連絡があり、その到着も宅配業者から連絡が来ていたところまでだった。
そして昨日昼過ぎ、久々に事務所に戻った。宅配ボックスに確かに荷物が届いている。何やら重い。ホテルの在庫にある宅配伝票を使用したと思われるが、品目には「書類・パンフレット」の印字がある。
開いてみる。菓子折だ。クッキー。
・・・中身は、以上。
先日の記事で「訂正伝票を送ると言ったのに、33時間経過しても何も届かない。持参すればすぐ。宅配や郵送でも24時間以内には届くはずだ」と記した。しかし、知人からは、「相手もそれなりの看板背負っているホテルなのだから、きっとお詫び状や顛末書の文言チェックに時間がかかっているはずだ。理解してあげなければ。」と諭された。確かにそうだと納得し、憤慨した自らを恥じた。
が、中身はクッキー。それだけ。詫び状なし。顛末書なし。
ホテルの包装紙にくるまれた、缶入りのクッキー詰め合わせのみ。
確かに件の責任者から「カード会社からの”正式な伝票”はまだホテルに届いていない」とは言われたが、「取り急ぎ書類を作成して送った」とも言われた。宅配伝票の品目欄には「書類・パンフレット」と書いてある。しかし、中身はクッキー。「まぁ、あまりガタガタ言うなよ。とりあえずこれでも喰っとけよ」。ということか?
もはや、ホテルに電話して文句を言う気力もないが、とりあえずクッキーは返送するつもり。
冒頭、謝り方には”技術”もしくは”作法”があるはずと記した。それは企業のリスク管理において今日極めて重要性を増している。本件ほど”Clearly worst”な例はあまりないかも知れないが、他山の石としたい。
※今後何か進展があれば、こちらに「後日談」を加筆します。
【加筆:後日談その2】
本日午前、料飲部マネージャーから携帯に連絡あり。
クッキーを金森が返送したことについて。
指摘の通り、何の文書もなく品物のみとは部下の指導が行き届いておらず申し訳ないとの主旨。
ただ、同時に修正伝票を別便・簡易書留で発想させたのは事実なので、確認いただきたいとのこと。
午後、事務所に戻りポストを再度確認。
確かに、不在票が入っていた。
(ポストの壁に張り付いたようになっていたため、見落とした。これは金森のミス)。
郵便局へ際配送を依頼。
夕方、簡易書留届く。
修正伝票原本と詫び状在中。(顛末書はない)。
修正伝票は全額を一旦、マイナス処理しており、正規の金額を請求処理した伝票はカード会社からまだ届いていないため、もう少し時間がかかるとの記述あり。(ここはおおよその到着日をカード会社に確認して明記して欲しかったところか)。
料飲部マネージャーから受取り確認の電話が入る約束になっている。
今日のところは以上。
【加筆:後日談その3】
7月18日中には料飲部マネージャーから受取り確認の電話はなかった。
現在19日午前11:00電話はまだない。
どうにも「約束を守る」とか「確認をする」という習慣がない人たちなようだ・・・。
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July 17, 2007
どうもこのところ感じるのは、「物事の箍(たが)が緩んでいる」のではないかということだ。
先日、サービス業の象徴でもあるホテルの、少々信じられないトラブルを記した。
(記事の最後に後日談を加筆したので、参照ください)。
しかし、今度は飛行機だ。いや、重大事故ではない。ほんの些細なことかもしれないが、積み重なればコワイ気がする。
故に「箍の緩み」と表現した。
先日、国内出張に行き、折からの台風に追われるようにして早朝便で帰京した時のことだ。
機内に通され、乗客が一通り着席し、キャビンアテンダントが客席を見廻る。
連休初日だからか、台風に追われ便を変更したからか種々雑多な客層で満席だ。
飛行機にあまり慣れていないからか、離陸前に既にシートを少しリクライニングしている人がいる。
手荷物を前の座席の下ではなく、自分の足下に置いてたり、ひざの上に載せたりしている人もいる。
しかし、そんな乗客にキャビンアテンダントは注意をするでなく、スルーした。
昔ならたちどころに発見され、「お客様・・・」と注意されているところだ。気が付いていないのだろうか。
特に悪天候の中の飛行となるだけに、荷物の散乱を招くことには注意が必要だろうに。
しかし、飛行機は滑走路に向けて動き出した。
そして、しばらくすると機長からのアナウンス。
「当機の気象レーダーが故障したため、滑走路にまで来ましたが、修理のため一旦駐機場まで引き返します。
本日の気象条件では気象レーダーは必須ですので、お急ぎのところ恐縮ですが、ご理解ください」とのこと。
ああ、これで台風が来るまでに飛ばなければ完全に足止めだ~。
と思う一方、ちょっと待て。滑走路から離陸直前で気付くことか?飛んじゃってからだったらどうしたんだ?とも思った。うーん、何かオカシイ。
駐機場に向けて、飛行機が動き始める。
すると、5分としないうちに再び機長からアナウンス。
「えー、ただ今当機に”二機搭載されている”気象レーダーのうち、一機が故障したため、駐機場に引き返し始めましたが、所定の手順に従い対処しましたところ、復旧しましたので、再び滑走路に戻り離陸いたします。ご心配、ご迷惑をおかけいたしました。」
って、おい!心配だよ。そんな引き返しがてら5分もしないで直るんだったら、アナウンスする前に”所定の手順”を試せよ。
それに”二機あるうち”って、そんな情報はトラブル発生時に聞いていない。何だか言葉足らずだ。
結局、台風に追われているものの、大きな揺れなどもなく、極めて平穏無事に15分遅れで羽田に到着した。
しかし、何だか結果オーライな感じがぬぐえない。
これが貨物機であればまだいい。旅客機は単に乗客を運ぶだけがその使命ではない。「安全・安心に運ぶこと」が重要なのだ。
キャビンアテンダントの事前チェックにしても、機長のこのアナウンスとトラブル対処にしても、やはり「箍の緩み」を感じてならない。
1:29:300の法則とも呼ばれる、「ハインリヒの法則」というものがある。1つの大事故の前には、29の小事故があり、その小事故の前には300のヒヤリとしたり、ハッとするようなトラブルが前兆としてあるというものだ。
そして、それらの前兆を捉えることにより、大事故が防げるということである。
今回の件はヒヤリハット2回ということになるのだろうか。これは予兆としてきちんと記録されているのか。いや、客室内のキャビンアテンダントは乗客の荷物の置き方や、リクライニングの件には気付いてもいないので、記録はされていないだろう。
何やらこの箍の緩みようが気になってならない。
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July 13, 2007
このところ「コミュニケーションの本質」にこだわったコラムをいくつも書いている。それは、昨年来、企業の管理職研修で「いかに上司・部下のコミュニケーションを確実に行うか」を力説している影響もある。
度々紹介しているが、「コミュニケーション」の語源は、「共有物」を表す(コモン:common)にあるといわれている。つまり、ポイントはよくある「最近、部下とのコミュニケーションが足りないので、個別面談をした」などという形式的に「話す」という行為をしても、具体的にその場で上司と部下が「何を共有したのか」が残らなければ「コミュニケーション」には、ならないということである。
さて、上記のように研修の受講者に話すと、「なるほど」と頷きはするのであるが、次に「では、どうしたら“共有”ができるのでしょう」という課題が待っている。
具体的な方法論に前に、上司と部下というポジションの違いを確認してみよう。大きな違いは、「どの程度の情報を持っているか」である、共有できない原因はその「情報の非対称性」にある。当然、企業内においては職階別に知っているべき情報レベルは異なる。しかし、得てして各職階において理解しているべき情報が上司からきちんと伝達されていない、もしくは理解できるように伝えられていないということが起きている。
例えば、ある職階にある上司は、その戦略の立案から関わっており、策定までに長い時間を費やしている。その下の職階の人間は策定された戦略をある程度の時間をかけてブリーフィングを受ける。そして、末端の部下は、日々の業務が忙しいために短時間で「方針」という形で落とされる。または、業務の中で断片的に指示される。これでは伝わらないし、共有もできない。末端に行けば行くほど「戦略」という理解しがたいものが、かえって大きな「カタマリ」となって落とされてしまう。もしくは全体像が理解できない「断片」として指示されるのである。
ではどうすればいいのかという「方法論」である。各企業や職場の状況によって委細は異なるが、基本はタイトルとして挙げた「分解」と「再構築」である。マーケティングの基本は“顧客視点”であり、顧客の目線、立場で考えることと、いつも金森は記しているが、この場合、上司は“部下視点”で考えることが基本となる。
「部下の立場や元から持っている知識や情報で、自らが伝えんとしていることがきちんと理解できる内容になっているのか」をまず考えること。恐らく、「部下の視点」になれたとしたら、「伝わらない」と気付くだろう。前述の通り、伝えようとしていることが「大きなカタマリ」になっていることに気付くはずだ。元々、上司の方が部下よりも情報も知識も持っているはずだ。だとすれば、伝えるべきことは「細かく分解」することが基本となる。できるだけ平易に。重要なことであれば、ある程度のキャリアを持った社員にでも、新入社員に理解させるぐらいのつもりで話してみることだ。また、断片的に伝えるのではなく、上記の通り、一度平易な言葉に分解したものを、言葉を補うなどしてわかりやすく再構築することも必要である。
このテーマは一度では語り尽くせない深い内容になるため、何度かに分けて記していこうと考えている。今回はまず、その導入部とお考えいただきたい。
※研修受講者の方は、研修内容を思い出して読んでいただければ幸いです。
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July 12, 2007
顧客満足(CS=Customer Satisfaction)の優良事例にはいつもホテルが名を連ねる。マリオットのサービスも有名だが、“サービスを超える”といわれるリッツ・カールトンの事例はあまりにも有名だ。が、それなりの看板を掲げているホテルでも全くその足元にも及ばない実態があるようだ。残念ながら実体験してしまった。あまりにも見事な事例なので、決して私憤ではなく、あえて事実関係のみを紹介したい。(実名は厳に伏せる。)・・・“サービスを超える”どころの騒ぎではないのだ。
先週の金曜日の夜、携帯電話が鳴った。夕方に軽く会食をしたあるホテルの店からであった。要件は「クレジットカードの処理の際金額を間違えてしまった」とのことだった。領収書とカード明細を見比べてみれば、それまで気付かなかったが、何と4倍の金額が記されている。その店の責任者と名乗る人物は平謝りで、「気付いた時にはカード会社の窓口が閉まっている時間だったので、月曜日に“責任を持って訂正処理をします”」という。なぜ、そんなトラブルが起ったのかを聞いても「ミスです」としか言わない。どう責任を持った訂正処理をするのかを聞いても「月曜日にカード会社に連絡を大至急取ります」としか言わない。謝り方が下手だ。しかも、対応策の提示になっていない。嫌な予感がした。
仕方がないのでこちらから「月曜に訂正処理ができたら、どのような処理ができたのか携帯に連絡をください。」と指示し、電話を切る。それ以上はなしても埒が明かなそうだったからだ。
さて、月曜はずっと缶詰めで、携帯も電源を切っているシーンが多かったが、定期的に留守電のチェックをした。が、何も入っていない。夜、身体が空いた19時過ぎにホテルの店に「訂正処理」がどうなったのか確認するため電話をかける。・・・何と、責任者は帰宅していた。
別の店の責任者を名乗る人物が電話に出て、問題の店の責任者から申し送りで「金森様の件は料飲部全体で共有しています。カード会社に連絡が終わって処理済みです。処理結果は携帯の留守番電話に何度か録音しておいたと聞いています」とのことだった。・・・ウソだ。留守電に録音された形跡はない。他の人からの留守電は残っていたので、明らかにウソの報告をしている。
処理したという証明もないのでさすがにこれはクレームだと、ホテルの代表にかけ直し、ホテルの責任者を呼ぶ。不在なので5分以内に折り返すと言われる。
さすがにちゃんと5分以内に電話が来た。料飲部の責任者を名乗っていた。携帯からだ。
駅の雑踏の音が聞こえる。平謝りされる。しかし、ホテルマンらしからぬメチャクチャな敬語、言葉遣い。ああ、また嫌な予感。ただし、カード会社と請求額の訂正処理をしたようで、現場に確認したのだろう。正確な金額も把握している。少し安心する。訂正伝票の受け渡しなどは明日、再度連絡するということであった。
電話を切る。すると、不在着信の記録と留守電の表示が携帯に残っていた。不在通知の番号は東京都内からではない。留守電を聞くと、問題の店の責任者からであった。ホテルから連絡があったのだろう。再度電話するとのことであった。待っていられないので、こちらから残されていた電話番号にかけてみる。自宅なようだ。「留守電に残したつもりだった」などと言い訳をされるが、聞きたくはない。第一、こちらから電話をしているのだ。なぜ、「折り返す」とすぐ言えないのだろう。ともかく処理した証明を送付するよう指示する。
火曜の朝、再び料飲部の責任者から携帯に電話が入る。カード会社と訂正伝票のやりとりをし、全て処理が完了した旨を告げられる。では、店の責任者に伝票の送り先を指示してあるので、大至急送るようにと金森から告げる。訂正伝票が手元に届かなければ、安心できないと。「必ずすぐに送ります」とのことだった。・・・火曜の午前10時15分のやりとりだ。これを書いているのは水曜の午後7時15分。33時間が経過している。・・・伝票はまだ届かない。
「送付する」とは言いつつ、持参するかと思っていた。顛末書とお詫び状でも添えて。電車でもほんの数駅の距離だ。もしくは送るにしても、バイク便なら数時間で届くだろう。速達でも今日中には届くはずだ。いや、たぶん都内なので普通郵便でも届いているだろう。いつ送ったのだろうか。いや、そもそもまだ送っていないのか?
現在手元に残っているのは、領収書と、その4倍の金額がチェックされたカード明細だけである。今日は一度も電話すらない。・・・冒頭記したように、決して私憤ではない。そう、全く憤る気力も失い、ただただナサケナイ気分でいっぱいだ。悲しくすらある。
元を正せば、カード伝票の金額をろくに確認せず、サインした金森の責任だ。しかし、いい加減な店ではなく、それなりのホテルの店だ。また、会食の席で、細かに金額のチェックをする姿など見せたくはない。こんなものなのだろうか・・・。
明日から出張してしまう。伝票が届いたとしても、それを見られるのは連休明けだろう。そして、「届きましたでしょうか」の電話ももうない気がする。・・・ああ、何ともナサケナイ。
【後日談:その1】
上記のように記したが、その後の対処は意外とまともだったようだ。
木曜の13:30。出張先の金森の携帯に宅配業者が電話をしてきた。件のホテルから、書類が事務所に届いたという。受け取れないので、事務所の宅配ボックスか、ポストに入れておくように指示をする。
続いて16:30に問題の飲食店の責任者が同じく携帯に電話をしてくる。書類到着確認である。
出張中なので、中身は見ていないが、宅配で届いたことを告げる。
曰く「カード会社からの”正式な伝票”はまだホテルに届いていないので、取り急ぎ書類を作成して送った」とのこと。うーん、では何の書類なのかわからない。詫び状か顛末書だろうか。とりあえず、連休明けに事務所に行き確認する旨を告げる。
以上が、その後の点顛末その1。明日、事務所にて書類を確認し、後日談その2を追記します。
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July 11, 2007
「トレインジャック」・・・といっても列車乗っ取りテロではない。「トレインジャック広告」。交通広告の手法であるが、だいぶ一般的になってきた言葉ではないだろうか。
乗り込んだ電車の車内が、特定企業や商品の広告一色になっているあれだ。
最近では電車も車体広告が行われるようになってきたので、ホームに入ってきた時にすぐに「ああ、トレインジャックの列車だな」と予想が付くようになった。
一歩車内に踏み込んむと、うまい表現で、広告全体に統一感がある場合などは「おっつ!」というインパクトがあるのは確かだ。
また、中吊り、ドア横など、掲出位置によって内容を変え、うまくメッセージを伝えている場合などは「へぇ~」と思うこともある。
しかし、だ。やはり、2駅程度の移動なら飽きないが、それを超えると限界。
いつもの週刊誌の広告を読みたくなる。週刊誌の広告などはそれ自体が貴重な情報源であり、社内での格好の暇つぶし材料だ。
それが全くないのは、やはり車内が少々物足りない。
最近の新型車両の場合は、ドア上に液晶画面が付いており、そこで広告映像を流している。
その映像も広告主各社は工夫を凝らしており、自社商品やブランド訴求と視聴者(乗客)に注目させ、飽きさせないような工夫をしているので、中々楽しめる。ミニクイズ、ミニ英会話、ちょっとした雑学集、占い、売れ筋商品のランキング等々。その情報内容自体にも価値が見出せるし、移動時間の暇を埋める効果は十分だ。
しかし、トレインジャックの場合、この液晶画面での映像広告まで、その広告主からのメッセージに占拠される。
その内容が、先に挙げた通常の広告のように気の利いた情報で時間つぶし効果のあるものであればまだいい。
先日乗り合わせたトレインジャック広告車両の映像は、その企業のイメージ映像が何パターンかずっと流されていた。
ただでさえ、これでもかと、感じるトレインジャック広告。液晶画面でまでイメージを流し続けられると、少々辟易してしまう。
結構な費用をかけていると思われる広告手法であるだけに、逆効果になってはもったいない。
広告制作者も、広告主も、もう一度乗客の目線・立場になって、どこまで、どのような内容なら受容されるのかを考えてみてはどうだろうか。
「トレインジャック広告」はそんなに新しい手法ではないが、車体広告や液晶画面の登場などで、ともするとクドくなりすぎの傾向があるように思う。
やはりここでも生活者視点が重要なのだろう。
【追加情報】
読者の方から少し指摘があったので、追記します。
「ジャック」は広告の世界ではよく使われ、「タウンジャック」などは、例えば渋谷の街(といっても、だいたいは駅前ハチ公口界隈)で大規模に揃いのユニフォームを着たスタッフがパンフレットやギブアウェイの街頭配布を行ったりイベントを展開します。
しかし、「ジャック」は少々、不穏当な表現でもあるので、交通広告の世界では「アド・トレイン(Ad Train)」という表現の定着を図っていて、最近ではそちらの方が一般的になりつつあるようです。
以上、追加情報として。
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July 10, 2007
先週の金曜日、日経新聞夕刊、題字下の「音波」に興味深いコラムが掲載されていた。
「音波」はタイトルを含めてわずか80文字あまりで様々な世相を切り取るコーナーだ。
毎夕、いつも一番はじめに見る欄である。
その日は『沈黙は「禁」』と題されていた。
主旨は以下の通り。
「最近”沈黙族”と呼びたい人々が増えている。その所行は電車で人を押し退け降車する。閉まるところを支えて建物のドアをすり抜ける。狭い歩道で道を譲ってもそのまま通り過ぎる。」と。
で、その主旨は「”ありがとう”も会釈もなく過ぎ去っていく」という。
それが『沈黙は「禁」』という由縁であり、「情報過多でコミュニケーション能力を低下させる人の増加が気になる」と結んでいる。
金森が評するのは些か日経記者殿に対し不遜であるかもしれないが、今日の場景を切り取った秀逸なコラムと言えよう。
しかし、もっと行数が許せば、さらに踏み込んだ指摘をしたかったに違いない。
勝手ながら、その胸中を推察し、代弁してみたい。
そもそも、文中にある「コミュニケーション」という、今日、片仮名英語になっているものの正体は何か。
以前、今日の「コミュニケーション不全」の正体を考察したコラムで指摘したが、「コミュニケーション」の語源は、ラテン語で「共有」を意味する。
コミュニケーションがうまくいかない(不全)という状態を象徴的に描いた映画、「バベル」の映画評を当Blogで展開したが、それは「言葉が通じない」という以上に悲劇的な状況があるということを伝えたかったのだ。
それが、今日のこの国(さらに拡大すれば”世界”)の姿である。
つまり、「沈黙」が「禁」ではないのだ。いくら言葉を発しても、その会話の相互に共通理解がなければ、何かを「共有」することはできない。
もちろん「共有すべき」は記事の文脈で考えれば「common sense(常識的な判断力・良識・分別)」であるはずだ。これもラテン語の語源からの派生であることはいうまでもない。
コラムは問題の原因を「情報過多」に求めている。情報発信側のメディアの立場でそう記している。
しかし、本当にそうなのだろうか。昨今のメディアが発する情報は、多少の立ち位置の違いはあるものの、「記者クラブ発」であり大差ない。
では、大手メディア以外のインターネットに代表される様々な情報が人々を惑わすのか。答えは”否”であろう。
インターネットでの情報受信者は、同時に発信者でもある。一方的に情報に踊らされているわけではない。
では、何が”混乱”を招いているのか。
それは、社会の規律・規範が曖昧になり、失われ、「箍が外れている(緊張や束縛がとれ、しまりのない状態になる:広辞苑)」ことによるのではないか。
人と人が共有できない社会。何とも恐ろしい世界ではないだろうか。
生物には基本的に(一時的にほんの小集団は形成しても)”個”として生きる存在と、”個”はほとんど確立されておらず、”集団”として存在している姿がある。
人間は「個が確立しつつ、集団という”社会”を形成している」という点で特異性があるのではないだろうか。
小さなコラムが切り取った日常。その先に透けて見えるものは、”社会”が混乱に晒されているという、真に恐ろしい現状なのではないだろうか。
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July 06, 2007
また、金曜日は軽めのつぶやきコラムをお届けしますが、今回はちょっと皆さんにも考えていただきたい素朴な疑問です。
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今週、水曜日にはまとまった雨が降り、やっと梅雨らしくなったと思えばまた、木・金と夏空を思わせる天気。
しかし、皮肉なことに、織り姫・彦星の年に一度の逢瀬である七夕を皮切りにやっと梅雨空が続くことになるようだ。
その、雨の水曜に街を歩いて思ったことがある。
どうも、昔に比べて”傘を差さない人”が増えた気がする。
どうでもいいことなのだが、気が付いてしまうと、その理由をとことん考えないと気が済まないたちなのだ。
観察眼とそこからの思考展開はマーケティングの基本でもあるし。
水に恵まれた日本。その分当然雨も多い。
”世界一雨に濡れることを嫌う国民性”ともかつて言われ、洋画のシーンにあるような、帽子にコートだけで雨の中を歩くような人はほとんどいなかった。
傘の消費量も世界一という。
だが、最近小降りの雨ならばかなりの割合で。結構な降りでも幾人か傘なし、濡れて歩く人々を目にする。
何故だろう。
その理由を少し考えてみると、以下のようなことが推察される。
・”カジュアルな服装”が増えたことによる?
個人的にはスーツを着ている時に一番嫌なのは雨だ。濡れるだけでなく、ズボンの折り目がなくなったり、どこかだらしなくなってしまう。
ところが、”クールビズ”の影響もあるのだろうが、ビジネスシーンにもカジュアルが随分と入り込んできている。金森自身も一人で事務所で仕事をする日などはかなりダレた服装だし、軽めの打ち合わせだけの日はコットンパンツにボタンダウン、軽いジャケット程度のビジネスカジュアルだ。
自分の行動を振り返ると、そんな服装の日はやはり多少の雨だと傘を差さない。
しかし、女性の場合はどうなんだろう。これだけでは説明が付かない気がする。
・個性を主張するファッションが増えた?
以前、「雨の原宿では圧倒的にビニール傘の比率が高い」というタウン・ウォッチのコラムを書いた。
その中で金森は以下のように理由を推察した。
『原宿や最近注目の裏原宿などのエリアの流行の変化は激しく、その年の大きなファッショントレンドに加え各店なりの多様性を持っている。その流行の変化を追い、さらにバリーエーションを取りそろえるには、かなりの労力と費用を要する。日々服を着るのも大変なのだ。あくまで想像ではあるが、その「日々」の中で「雨の日」という「非日常」に対応するのはビニール傘で十分というのが原宿の人々の本音なのではないだろうか。』
この話を毎年、教鞭を執っている青学の学生にすると必ず出る反対意見がある。それは「ビニール傘は傘自体が主張しないので、どんなファッションにも影響しない。オシャレな服を着た時にはとても便利だ。なので、ビニール傘はオシャレに必須なアイテムなのだ」と。
だとすると、もう一歩先を考えれば、服装へのこだわりがより強ければ、ビニール傘すら”邪魔”と考える人もいるかもしれない。近年、性・年齢に関わらず、服装へのこだわりが高い層が増えている。(一方で無頓着派も増えているのだが)。それも傘を差さない派の増加要因なのだろうか。
・帽子の流行と服の素材の進化による?
最近、帽子をかぶっている人が増えている。その流行の兆しも以前Blogに記した。
さらに、服の素材も、以前ではスポーツウェアやアウトドア用ぐらいにしか防水加工はされていなかったが、ごく日常的な服でも、雨に濡れてみると意外と撥水性に富んでおり、「あれ、これ撥水加工素材だったんだ」などと気付くこともある。
だとすると、帽子に撥水性のよい服であれば、冒頭に記した「洋画のシーン」のように、雨の中を「帽子にコート」だけで歩くことも苦にならない。
意外と「傘を差さなくても別に大丈夫なんだ」といつしか気付き、多少の雨なら傘を差さなくなった人も多いのかもしれない。
・・・とまぁ、3つぐらい理由を考えてみたがどうだろうか。
うっとうしい季節に街を歩く時でも、こんなことを考えながらだと、少し楽しくなるのは金森だけか。
さて、上記以外の理由を考えた方はいるだろうか?
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July 05, 2007
「人を感動させるには、まず自らが感動しなくてはならない」。
この言葉は、「落ち穂拾い」や「晩鐘」で有名な画家、ミレーの言葉である。
実は、金森がこの言葉に出会ったのは、小学校の道徳の教科書。巻頭の言葉であった。以来、ずっと記憶している。
なぜ、またこの言葉を思い出したかというと、先日の大学での講義後、学生と会話した内容からだ。
金森はマーケティングの要諦として「顧客視点の重要性」を一貫して訴えている。
しかし、デザイナーを目指しているという学生は「人の意見を聞いていても、当たり前な話ばかりで、結局ちっともいいデザインにならない。結局は人も思いつかないような自らの発想力を頼りに、人が驚くようなデザインを仕上げるしかない」と力説していた。
よく似た話で、たたき上げの経営者も「結局は客の話に耳を傾けても、”安く””もっといい物”と勝手なことしか言わず、参考にならない。所詮自らの”勘と経験”の勝負なのだ」という。
まずここで問題なのは、昨日記した「DAKARA」の例のように、「人(顧客)の話を聞く」と言ってもどのレベルで「きちんと聞いているのか」である。件の例のように、通り一遍の定量調査と詳細な日記形式の定性調査では、実に結果が180度異なっていた。また、実際のユーザーに張り付いたり、販売現場で生活者に密着することで今まで見えていなかった、顧客となる生活者の真の姿が見えてきた。
通り一遍の「お客様アンケート」や「座談会」などで、「ちょっと話を聞く」程度で、新たな発見があれば苦労しない。
月並みな言葉であるが「聞く」のではなく「傾聴」。さらに「聴き出す」。さらに「自らも体験する」。そこまでの努力をして、まだ「価値はない」と言えるのだろうか。
次に、自分が創り出そうとしているモノ。または売ろうとしているモノ。そもそもなぜ、それを「創ろう」「売ろう」としているのか。ここで冒頭のミレーの言葉を思い出して欲しい。
画家は、恐らく自らの琴線に触れた光景に出会い、何とかその風景をキャンバスに切り取り残したいという「渇望感」に突き動かされて絵筆を振るったに違いない。まず、自らが感動して、その感動を形に残そうという思いがある。そして出来上がった作品が人にも感動を与える。
「商売」とは狭義には「利益を得るために品物を売り買いすること」である。しかし、利益だけを考えていてはうまくいかないことは自明の理である。
物作りであれば、まずはそのモノを作り上げたいという自らの強い思いがあり、そしてそれが生活者にどのように受入れられるのかという、DAKARAの例のような詳細な対話を経て、自らと生活者が協創していくということが肝要ではないか。
モノを売るということに関しても同様だ。何故自分はそれを売りたいのか。売ることによって生活者は何をもたらされるのか。売る側の強い思いが」明確にあり、それが買う側にどのように受入れられるのかを同様に対話の中から探っていくことが大切なのだ。
昨今、事件となっているいい加減な物作りや商売。どう考えても作る側、売る側の「思い」の存在は感じられない。また、生活者の言葉など聞く耳もない。
結局、物作りも商売も、ミレーが言うような、まず主体の強い思いがあり、それが伝わっていくことになるはずだ。
自らの思いと、受入れるが側の気持ちを聴き出し、その間を何度も行きつ戻りつして、よいモノや商売の形態が作られていくのは間違いない。
一刻も早く、全ての物作りと商売が、その原点に回帰してもらいたいものだ。
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July 04, 2007
先般、当Blogの左サイドにある「お勧め書籍」にアップした野中 郁次郎先生の「イノベーションの本質」について少々記したい。
わずか3年あまり前の刊行であるが、読み返してみて重要なポイントを忘れていたので、自戒と備忘の意味も込めてである。
同書にある13の事例のうち、一番はじめに取り上げられている「サントリー・DAKARA」はマーケティングの成功事例としてもよく知られている。
スポーツ飲料市場参入を狙うサントリーは、先行する「大塚製薬・ポカリスェット」、「日本コカコーラ・アクエリアス」に対抗すべく、新製品を企画していた。
まず「市場機会の発見」として、サントリーはスポーツ飲料飲用者のうち、実は「スポーツをしない」にもかかわらずスポーツ飲料を飲んでいる人が8割も存在することに気が付いた。
そこから、「スポーツをしないが、自らの体質改善に関心がある人」をターゲットとして、さらに「老廃物の”排出”」という、従来の飲料では考えられない”摂取”の逆、”排出”を初めてポジショニングとした。
具体的な施策(4P)の展開では、「からだをいたわる」ということを連想させる「DAKARA」というネーミングと、白地のボトルの中心に赤いハートあしらい、どこかメディカルっぽいパッケージが製品戦略の特長であり、コミュニケーション戦略は”排出”をストレートに表現した”小便小僧”をキャラクターとして登用。大量のCFを投入した。
その、市場機会の発見~具体的な施策までの一貫性・整合性が非常に優れているところが、マーケティングの事例としては秀逸であるといわれる所以である。
しかし、さらっと説明してみれば(実際に金森自身もこの事例を解説する時には上記のような内容で話している)こんなものなのだが、その「市場機会の発見」と「コンセプトメイク」の過程が同書には実に生き生きと描かれており、重要なパートとなっているのだ。
実は「どんなときにポカリやアクエリアスを飲むか」という一般的な質問を定量調査で行うと、「スポーツ時/スポーツ後」が76%を占めたという。しかし、対象者に「毎日いつ、どの飲料を何と一緒に誰と飲んだか」を詳細に記述させる日記調査では、スポーツ時/スポーツ後」はわずか18%。二日酔いの時や仕事の合間などが圧倒的に多かったという結果が出た。
当初考えられていた製品コンセプトは「もうひと頑張りできる働く男のスポーツドリンク」であったそうだが、この定量調査と、実体により近いと思われる日記調査のズレから、開発メンバーは、さらに生活者の生の姿に迫る必要性を感じたという。
あるメンバーは宅配ドライバーに密着し、夜ヘトヘトになるまで働き、留守宅があるため仕事が終わらず、家に帰れない姿を見た。そこで、仕事の合間に寂しげに自販機で買った”ポカリ”を飲むドライバーの姿に、どうして「もうひと頑張り」を強要する飲料を作れようかとハッとしたという。
また、別のメンバーはコンビニの店員になり、客の「食生活の乱れ」を間近で実感したという。そこから、飲料には”不足分を補充する”以上に、”余分なものを排出させる”という機能の重要性に気付いたという。
「コンセプト」とは、「誰に」「どのようなシーンで」「どのような便益を提供するのか」が組み合わさってできあがるものだ。飲料は、年に1000ものアイテムが上市され、翌年まで生き残るのは3種類程度という、正に「千三つ」の世界である。「DAKARA」は「打倒ポカリ、アクエリアス」を賭けていたため、最初のコンセプトである「もうひと頑張りできる働く男のスポーツドリンク」に至るまで2年間の歳月を費やした。しかし、定量調査と日記調査の結果のズレから違和感を感じ、発売時期を延期し、さらに2年を費やして生活者に密着し、真のコンセプトに辿り着いたのである。
この記事のタイトルとした「数字を見るな。顧客を観ろ。」であるが、確かに数字は一定の判断基準や参考値にはなろう。しかし、それが真実を語ってくれているとは限らない。必ず、定性的な判断材料と、何より生の顧客・生活者に触れ、そこから何かを学び取ろうとする意識がなければ、いつまで経っても「千三つ」から抜け出られない。これは飲料の業界に限ったことではない。
「成功事例」も成功に至るまでのスタッフの生の姿に注目すれば、何が大切なのかがより理解できる。
重要なポイントを思い出したため、本日は珍しく書籍内容の詳細な解説などをしてみた次第だ。
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July 03, 2007
愛用のノートPC、レッツノートは冷却ファンが付いていない「静音設計」が特長らしいが、やはり一日中使っていると本体の底がかなり熱を持つ。そこで某量販店に冷却シートを購入しに行った。
その店は頻繁に売り場レイアウトを変更するので、どこに目指す商品があるのか分からず、女性店員に案内と、ついでに説明を求めた。
ノートPCの冷却機材は、2つのファンが入ったボックスを本体下に設置してUSBから電源を取るタイプと、ゲル状の冷却剤の詰まったただ敷くだけのシートタイプの二つに大別される。
「やはり冷却効果はファンタイプが優れています」と勧められる。
確かにファンレス構造の静音性は捨てがたいが、熱という弱みが露呈しているだけに有効なお勧めだ。
しかし、ずっと据置くのではなく、いつもPCを持ち歩っており、携行性も考えるとやはりファンタイプはNGだ。サイズが大きすぎる。
すると、店員は別のものを差し出した。
「それならこちらが。コンパクトで、ただ今大変よく売れております」。
差し出されたものは、USBから電源を取る、確かにコンパクトなファンであった。
だが、それはどう見ても、PCを冷やすのではなく、使用者に涼風を送るための”扇風機”だ。
これは、ちょっと使用目的が違うんではないでしょうか?と金森が言うと、なおも店員は、
「そうですか?皆さんよくお求めになる商品なんですけどねぇ」と真顔で言った・・・。
マーケティングの基本の基である、「ニーズ」と「ウォンツ」。
ニーズは「現状の不足状態と、理想としての充足状態のギャップ」であり、ウォンツは「ギャップ解消のための手段・モノへの欲求」である。
「○○をください」という顧客の言葉は「ウォンツ」だ。それに対し、単純にモノを差し出すのではなく、「顧客はなぜそのモノを欲しているのか」という「ニーズ」を考えることは商売の基本だろう。
その女性店員の頭の中では、「PC関連で冷却するグッズ→ファンタイプが絶対強力」という彼女なりの固定観念があり、それに加えて「顧客は携行性のあるコンパクトな商品を求めている」という部分だけが意識に残って「USB扇風機」を差し出したのだろう。「PCを冷やす」という金森の大元のニーズは忘れ去って。
モノを売るにはまず、顧客の話をきちんと聞き理解すること。本当に商売の基本だ。
・・・あの女性店員が商売の基本に気付き、優秀な販売員に成長することを願って止まない。
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June 29, 2007
金曜日はまた、少し軽めに、久々のタウン・ウォッチものなど。
■クールビズ・・・
中々、本格的にならない梅雨はふと気付けば7月もすぐそこだ。
しかし雨が降らなくとも湿度は高く、日中大気がはらんだ熱気は街中から消える気配もない。
ねっとりとしたゼリーのような大気の中を泳ぐように街を歩く。
ふと足を止めて、街の人々の姿を眺めると、数年前から随分と様子が変わったことに気付く。
女性の服装の流行は変化が激しいので、変わるのが当たり前だが、男性だ。
もう夜なので、業務終了後に単に外しただけかもしれないが、ネクタイを首から提げ、
暑そうにしている人がほとんど見あたらない。
クールビズのお手本のような着こなしの人もいる。この場所は有楽町と丸の内の間あたり。
割と堅めの勤め人が多い地域だろうに、かなりラフな感じの姿も混じる。
クールビズが提唱された2005年に私は「クールビズは定着しない」と予言し、大外しした。
うーん、しっかり定着しているじゃないですか。
当たり前だな。暑いんだもん。
総理大臣がどうにもイケテいない、お手本にもならない着こなしを披露する必要なんてもうないだろう。
そんなことをしている暇があれば、温暖化ガス排出削減目標のマイナス6%を大きく上回る、
自らの支持率のマイナス幅を心配するがいい。
まぁ、何をやってもかえって裏目に出る、バッドスパイラルからは抜け出せないだろうけど。
■フリーペーパーに負けるな!
久々に「THE BIG ISSUE」の販売員を街角で見つけ、200円也で購入する。表紙はジョニー・デップだ。ちょっと嬉しい。
「THE BIG ISSUE」はタイトルにも「ホームレスの仕事をつくり自立を支援する」とあるように、ホームレスの人に雑誌を販売委託し、「頑張って販売すれば自力で生活できる」というしくみを提供するものだ。
http://www.bigissue.jp/
事務局にかつて電話取材をし、フリーペーパーの影響はないかと尋ねたが、大きな影響はないとのことであった。
しかし、どうも最近、販売員の数も少し減っているように感じるし、実際購入している人の姿もあまり見なくなったのは気のせいだろうか。
200円という価格としては、確かにこの号は目玉であろうジョニー・デップのインタビューも2ページあって目を惹く。他のコラムなども一般の雑誌と比べてひと味違い中々よい。しかし、何といってもボリューム感が乏しいのは否めない。200円のうち、販売員は90円でこの雑誌を仕入れ、110円を収入とする。90円で作れるものとしてはむしろ上出来だと言える。
しかし、この日はフリーペーパー「クーポンランド」の配布日であった。大量の配布要員を投入し、誰彼構わず配りまくる体制に押され、BIG ISSUEの販売員の存在は掻き消されがちである。
だがしかし、タダで配られ、読み捨てられるフリーペーパーとはその存在意義は大きく違う。
理想を掲げ、少ない原資で雑誌を作る事務局。自らの復活をかけ懸命に販売するホームレス。それを200円という費用をかけて購入する理解者。この循環構造が何とか維持・拡大することを願って止まない。
タダ(フリー)にはタダなりの価値もあろう。
しかし、薄い雑誌、200円という対価という目に見えるもの以上の価値がここには存在しているはずだ。
販売員には厳しいルールが設定されており、非常に礼儀正しい。購入に対するお礼もさわやかだ。
次号は7月1日発売だそうだ。是非一度、200円という価値以上のものを確かめてみていただきたい。
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June 28, 2007
前職の部下が某SNSで「営業冥利だ。万歳!」と題する日記を掲出していた。
彼は転職し、現在「炎の営業マン」と化し、大手百貨店に商材を扱ってもらうべくラッシュをかけていたようだ。
その努力が報われ、嬉しそうに綴られた日記からは男泣きする姿が想像でき、心温まる。
彼自身によれば、「週一で、ちょっとだけでも顔を出した」「自分のキャラも幸いした」と勝因分析をしている。
「何だ、足で稼ぐ古くさい営業スタイルかよ」とばかにするなかれ。それは心理学的実験でも証明されている、
努力を元にした成功すべくして成功した結果なのである。
それは以下のような実験とそこから導き出された法則だ。
心理学者のロバート・ザイアンス(Robert Boleslaw Zajonc 1923年~)は1965年にある実験を行い、
「ザイアンスの法則」を導き出した。ザイアンスの実験とは以下のようなものだ。
実験は、大学の卒業アルバムの中から12人の写真を抜き取り、被験者である大学生には「視覚による記憶の実験」と称して行った。(実際の実験意図は伏せられている)。
被験者に12枚の写真を2秒間隔で見せていく。見せる順番と回数は実験者の任意であり、1回だけの写真も、何回も提示される写真もある。
1種類の写真が提示される回数は1回、2回、5回、10回、25回として、被験者が全ての写真を提示されたあと、再び12枚の写真を見せ、その好感度を評価させた。
すると、25回見せた写真に一番好感を持つという結果となった。
これによって、見た回数が多くなる=接触回数が多くなるということが、好感度を向上させる作用を持つと解釈された。
このことから、ザイアンスはさらに以下のような結論を導いている。
1.人は知らない人には、攻撃的、批判的、冷淡に対応する。
2.人は会えば会うほど好意を持つ。
3.人は相手の人間的側面を知ったときに好意を持つ。
この「ザイアンスの法則」は「単純接触効果」とも呼ばれ、「足で稼ぐ営業というものも、実は理に適っているのだよ」と営業の世界ではよく使われる話である。
「営業冥利」を感じている彼の場合、自身の勝因分析通り、「週一で、ちょっとだけでも顔を出した」は「人は会えば会うほど好意を持つ」に、「自分のキャラも幸いした」は「人は相手の人間的側面を知ったときに好意を持つ」に符合している。
まぁ、小難しいことはさておき、彼の成功に喝采を贈りたい。これからも頑張ってね!
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June 27, 2007
金森の前職での同僚で、独立は少し先輩のマーケターであるシャープマインドの松尾さん。「デーリーBlog」と名付け、メルマガとBlogの形式で本当に毎日更新をし、メルマガはついに昨日400号であった。
金森も、今年の1~2月頃、忙しさに負けてBlogの更新を怠ったら、如実にアクセスが急落し、以来心を入れ替えて毎日更新をしているが、400回連続とは本当に頭が下がる。
「毎日更新はアクセスアップの秘訣だ」とのアドバイスを彼にもらってから、金森も励行するようになり、おかげさまでアクセスはどんどん右肩上がりになっている。ありがたいことだ。
と、彼の400号記念にエールを送りつつ、「ボールパークのセンターピン」と題されたその号がとてもタイムリーな話題であったため、ちょっとリンクしてみる。
「ボールパーク」とは野球場のこと。
「センターピン」とは「成功のカギ」だそうで、「KSF(Key Success Factor)」と同義だろう。
で、野球場が繁盛する鍵は、「混んでいること」だそうだ。
そのため、メジャーリーグの各球団は、球場の観客収容数を減らし、賑わいを演出し成功したと言うことが紹介されている。(詳しくは上記リンクで同Blogへ)
上記の記事を見て、ちょうど先週、某プロ野球の球場を運営する方々と議論した内容を思い出した。
テーマは、「野球場の”本質的価値”とは何なのか」という事だった。
フィリップコトラーの製品特性3層モデルで単純に考えれば、「中核」は「野球をみせること」であり、「実体」は「各種球場設備の利便性・快適性」。「付随機能」は「球場内での飲食施設や各種ファンサービス」となる。
しかし、その球場は地方であり、地元密着型だ。だとすれば、前述のような単純な解釈でよいのだろうかということになり、「自分たちが顧客に提供している”本質的な価値”は何なのか」を深く追求してみることになった。
特に地元に密着した球団・球場である。来場者はただ「野球を観に来る」のだろうか。
答えは否だ。「野球を見ながら選手や球団、他の観客、球場との連帯感、一体感、高揚感を味わいに来ている」のだと結論づけた。「本質的な価値」がわかれば、顧客に提供すべきものや勝負のしどころが明確になる。
コトラーの3層モデルの2層目である、球場のハードはとにかく「選手・観客、相互の一体感」が高まる設計になっているかを再度見直してみる必要があろう。さすがにメジャーリーグ各球団の例のようにすぐに客席を減らす建替えまでする必要はないだろうが、小さな工夫はまだまだできそうだ。
また、球場のソフト面、3層モデルの「付随機能」である、「各種ファンサービス」には最も力を入れるべきところであり、ここが勝負のしどころであることがわかる。
先の「ボールパークのセンターピン」は「混んでいること」であり、そのためメジャーリーグの各球団は球場の座席数を減らし、稼動率が高まり、結果的に総売上が高くなるというロジックだそうだ。しかし、続けて紹介されている「クリーブランド・インディアンズのサクセスストーリー」にもあるように、球場の規模を小さくすることで、「選手・観客、相互の一体感が高まる」という本質に裏付けられていることがわかる。
顧客に提供すべき「本質的な価値」を突き詰めることの重要性は、このBlogや各種執筆、講演で金森は何度も繰り返し説いているが、そこが本当に原点なのだ。フレームワークとは便利なモノであり、それを使えば何となく答えが出たようになる。しかし、先のコトラーの3層モデルでも、単純に当てはめるだけでなく、「中核」を「本質的価値」と置き換えて、突き詰めてみれば、全く違った答えが出てくるのだ。
顧客視点でものごとを徹底的に突き詰めることの重要性は、今後も繰り返し伝えていきたいと金森は考えている。
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June 26, 2007
当Blogの記事をマーケティングブロガーズ.jpというサイトが転載してくれている。(http://marketingbloggers.jp/)
そこで、同じく記事を提供しているコア・コンセプト研究所・大西 宏さんのBlogにて面白い記事を拝見した。
「電通CR&P塾 電通クリエーティブ塾」の応募資料サイトが紹介されている。
大西さんは少々厳しいご意見だったが、金森は結構楽しんでしまった。
周囲の人に聞くと、やはり評価が分かれる。
ここは一つ、「百聞は一見にしかず」で試していただきたい。
いわゆる「資料請求サイト」であるが、personalizeされたexperienceを手前で与えることによって、より引き込もうという意図なのだろう。
詳しく書いてしまうと面白くないので内容には触れないが、以下、注意点。
・回線が遅いと少し厳しいかも。
・サイトアクセス後に表示される、冒頭の「きみは面白い!」はちょっと唐突だが、ここで引かないように。
・「ちょっとコピー書いてみてよ(例えば自分のキャッチフレーズとか)」は、あまり適当に書かずに、それなりにひねって考えた方が、以降の展開を楽しめる。
・ちょっとネタバレ:2パターンあり、2度試せるが3回以上やっても繰り返しになる。(個人的には最初のパターンの方が好き)。
「自分が書いた”コピー”が”世に出る”のはこういうコトだ!」と誇張して表現しているのだが、展開される動画は、ちょっとわざとらしく、何だかニヤリとさせられてしまう。
しかし、インターネットという誰でもが、世に自分の意見を発信できる世界の中で、「マス広告での発信」を疑似体験させるというところから、「ネットでチマチマやってないで、やっぱりマスだぜ!」というironyを感じてしまうと反発したくなるかもしれない。
気になるのは、これだけ手間をかけることによって、通常の場合とどれぐらい応募資料のダウンロード数が増えたのか。応募数が増えたのかという結果だ。締切り後、その数字を公表してくれれば、「さすが電通さん!」という感じなのだが、どうだろうか?
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June 22, 2007
昨日は少々政治色が強かった(?)ので、週末に向けて今日はお気楽ネタで。
日本実業出版社の季刊誌「ザッツ営業」好評発売中です。
ザッツ営業 http://www.njh.co.jp/that/that.html
同誌に連載中のコラム第5回が掲載されています。
今回はいささか強引ですが、「江戸和竿」です。思いきり金森の趣味の世界です。
本誌には自宅近くにある有名な職人さんにもご協力いただいて、写真が載っているのです。
以前、文中にある「タナゴ竿」を一本作っていただきました。
「竿しば」のご主人、芝崎稔さん。
03-3696-0848 です。 ご興味のある方は是非。
以下、転載。
--------------------------------
金森努の「定番のヒミツ」第5回
「“江戸和竿”に“使い手への心遣い”を学ぶ」
世の中には常に売れ続ける「定番」と呼ばれるものがある。なぜ定番は売れ続くことができるのか。当連載はその謎をマーケティングのセオリーから考察する。
前回、モンブラン社の万年筆を例に、工業的なスペックでは表せない価値である「知覚品質」について述べた。今回もその「知覚品質」にスポットを当ててみたい。
筆者も多少釣りを嗜むのであるが、釣りの世界では、ここ数年「たなご釣り」が静かなブームとなっている。理由はどうやらブラックバスなどの外来魚に脅かされ、失われようとしている小さな魚の生息に対する憐憫と懐古の情にあるようだ。さらに好事家は、その釣りを職人の作った「和竿」で楽しむ。というわけで、今回は江戸時代中期からの「定番」、「江戸和竿」である。
今日の一般的な釣り竿はグラスファイバーでできており、多少乱雑に扱っても折れることはまずない。メンテナンスも簡単だ。多くは中国製であり、1,000円ちょっとから購入できる。一方、「江戸和竿」は各種の天然の竹を使って作られる継ぎ竿で、基本は顧客の使用用途と、しなり具合など、求める使い勝手に合わせたオーダーメイドだ。当然、一般の竿に比べれば非常に高価であり、手入れにも気を遣う。しかし、職人の数も随分減ってしまった今日、それに人気が集っているのである。
両者の決定的な違いは「味わい」である。カーボンの竿は、あくまで魚を釣るための「道具」であり、使い心地は「可もなく不可もなく」といった感じだろう。
和竿愛用者の中でも、たなご釣りの愛好家が一番和竿を用いる人が多いようだ。とりわけ小さな魚である、たなご。その微妙な感触を、職人がいかに釣り人の求める感触で伝えるか竹を選び、工夫し抜いて作った竿で楽しむ。実は和竿で楽しむたなご釣りは、「魚を釣り上げること」だけが目的ではなく、「その竿を使うこと」も目的なのだ。
単に多く魚を釣だけなら、工業的スペックに優れた道具を用いればいい。しかし、ほんの数センチしかない小さな魚とのやりとりを楽しむには、スペックで表せない「味わい」である「知覚品質」が重要なのである。そしてその陰には、釣り人にいかに「味わい」を感じられるかを工夫しぬいた職人の「心遣い」が隠されている。
「モノが売れない」と嘆く前に、その使い手のことをどこまで考え抜いたもの作りをしているかを見直してみたい。「売る」というセールスの現場においてもまた同じである。
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June 19, 2007
過日、当Blogにて2回にわたって取り上げた(第1回・第2回)、「お声がけをしないおもてなし、はじめました」とする高島屋立川店の新施策を体験してきたので報告したい。
同店に金曜日16:30に入る。インフォメーションかコンシェルジェデスクにてカードが受け取れるとホームページに書いてあったが、探すまでもなく、入り口のすぐ横にコンシェルジェデスクがあった。机の上に「S.E.Eカード」の案内が載っていたので、説明する労もなく「これ、貸してください」と告げるだけでカードが差し出される。この手のものは説明するのも煩わしい人が利用するはずなので、そのあたりは合格だといえよう。
平日の16:30、店内の客は女性(しかも少し年齢高め)がほとんど。スーツの男性客がいきなりこのカードの貸与を申し出る。シチュエーションとしてすごく怪しいはずだ。しかし、コンシェルジェデスクはなんら臆することなくカードを差し出す。
さて、カードを受け取ったものの、やはり首から提げるのはかなり抵抗感がある。はっきり言って恥ずかしい。しばらくは手に持ってブラブラさせながら店内を歩く。・・・では意味がない。意を決してトイレで鏡に映しながら、首に提げてみる。・・・やはりかっこ悪い。(写真参照)。
気を取り直して紳士服売り場へ。女性客ばかりだからだろう。ガラガラだ。確かにこんなシチュエーションでは、色々と話しかけられるであろうが、カードの効果てきめん。「いらっしゃいませ」以外、全く声をかけられない。色々見て歩く。そのうち、ふと気付く。挨拶をしたあと、首から提げたカードに気付くと、店員はどこか目をそらすようにして、スッと距離を取っていく。試しに、店員がたくさんいる通路を選んで歩いてみる。すると、挨拶をしたあと、見事に店員たちはスッと遠ざかっていく。おお、まるで「モーセの十戒」のハイライトシーンのようだ。・・・だが、やはり不自然な感じ。
次に、普通ならめったにいかない宝飾品売り場に行く。他に1名、同年代のスーツの男性がいた。店員に色々とお勧めをされている。奥さんへのプレゼントかな?などと思うが、彼のつま先は商品のカウンターから既に横を向いている。もう帰りたいんじゃないか?と勝手な憶測をしながら、さんざんケースの中を覗き込んでいても、金森には声がかけられない。カードのありがたさを実感する。意味ありげに、特にネックレスを中心に眺める。しかも、何往復かして目当ての商品を絞り込んでいるような風情をしてみる。店員は声をかけたくてうずうずしている様子。我慢するのも大変だ。あまり、冷やかしをしても悪いので、ほどほどにして立ち去る。
最後に一階のグッチのショップに入る。調子に乗ってアクセサリーのケースをのぞいていると「新作ですよ」などと、思いきりお勧めを受ける。うーん、個別のショップは治外法権だったのか。「あ、また来ます」と逃げるように出てくる。
帰りがけに、コンシェルジェデスクにカードを返却する。アンケートの協力を受ける。カード利用の印象についてだ。「カードをまた利用してみたいか(利用したい・したくない・どちらともいえない)」「何でカードを知ったか(新聞・テレビ・ホームページ・その他)」「ご意見をお書きください(フリーアンサー)」。記入する前にコンシェルジェが「店員はごあいさつ以外に声をおかけしませんでしたか?」と聞かれる。「普通の売り場ではそうでしたが、ショップではお勧めを受けました」と言うと、本来ならショップも同様なはずと謝られる。そして、「ご利用いただいていかがでしたか?」と尋ねてくる。「微妙です。宝飾売り場はゆっくり見られてよかったですが、紳士服売り場では不自然な感じがしました」と正直に答える。(その旨、アンケートにも記入)。コンシェルジェは「本来なら、こうしたカードなど使われなくても、快適にお買い物いただけるようにしたいのですが、お声がけをとてもご不快に思われるお客様もいらっしゃるもので」との弁。うーん。やはり、予想通りクレームから始まった施策だったようだ。最後に、アンケート謝礼ということで「あぶらとり紙セット」をいただく。
体験した感想としては、上記の通り、やはり首から提げるのは恥ずかしい。また、店員の対応に不自然さを感じた。コンシェルジェの言うとおり、やはりこんなカードに頼らずに、快適な対応をしてもらいたいものだ。
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June 07, 2007
またまた、マーケティングとは関係ない話題であるが、「身近な、かつ、深刻な環境破壊」に触れたので、備忘として記したい。いずれ関係省庁や自治体に問い合せをして回答をもらおうと思う。(但し、まだ十分に周辺情報が調べ切れておらず、浅薄な知識しかないので、詳しい方がいらしたら、コメントを頂ければ幸いです)。
東京の東の外れ、金森の住む葛飾区に接して流れる第一級河川荒川。この辺りだと中川と平行し、江戸川区の葛西臨海公園西側に位置する河口から東京湾へと流れ込む。
かつての公害問題の頃、「魚の住まない死の川」とされていたが、水質も随分と改善し、川辺から鯉を狙った投げ釣り、橋脚周りで手長海老釣り、また、護岸の切れ目で芦が群生している辺りではクチボソなどの小物釣りを楽しむ人も多い。また、海水の流れ込んできている河口近くなので、季節によってはハゼ釣りや、ルアー(疑似餌)でスズキを狙う人もいる。・・・おっと、趣味の釣りの話が長くなってしまった。
数年前から、この荒川に架かる総武線鉄橋や、その少し上流の平井大橋周辺で、よく漁船を見かけるようになった。ははぁ、“江戸前”のスズキやもしかするとアナゴでも漁師が狙うようになったのか?と思っていたが、何を捕っているのかはずっと分からなかった。
それが、先日川辺を散歩している人から聞き、正体が分かった。狙いは“シジミ”。味噌汁の定番の具である貝だ。千葉方面からやってきている漁船で、川底をガラガラとかき回し、根こそぎ掘り返し捕っていくという。かつてはもっと河口に近い葛西あたりで漁をしていたらしいが、採り尽くし、上流に登ってきているのだと聞いた。いくら水質が改善されたとはいえ、荒川のシジミが売れるのか?と思ったが、北朝鮮から輸入したアサリを、日本の海でしばらく置いておけば、日本産として出荷できるのと同じカラクリのようだ。“千葉産シジミ”として出荷されているのだろう。
シジミの乱獲、産地の表示問題もさることながら、荒川の生態系への影響が看過できない。漁のために川底を根こそぎかき回す。すると、せっかく帰ってきた鯉は恐がり、さらに上流に登っていってしまう。この辺りで姿を見ることができなくなる。さらに深刻なのはハゼだ。ちょうどこの辺りはハゼの産卵場所ともなっていると聞いた。川底が荒らされてしまえば、その卵も被害を受けるに違いない。
ここから先はさらに調べねばならないが、荒川のこの近辺は、いわゆる“漁業権”などが設定されておらず、「やりたい放題」になっているのではないだろうか。
所轄官庁はどこだろう。河川のことであれば国土交通省河川局だろうか。水産資源の保護であれば農林水産省か。とりあえず、この記事をBlogにアップして、両省に問い合せをしてみようと思う。
少ないソースから得た、一次情報なので、間違いもあるかもしれない。もし、詳しい方、他に除法をお持ちの方がいらしたら、ご一報いただければ幸いです。
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June 06, 2007
Suicaを利用するとポイントがたまる「Suicaポイントクラブ」。
駅コンビニ「New Days」のポスターで知り、すぐに携帯でQRコードを読み込んで登録したのは先月初旬であろうか。
モバイルSuicaならば、携帯のブラウザで獲得ポイントの確認もできるので、いそいそとチェックしてみると全く溜まっていない。あれ?と思うと、運用開始は6月1日からであった。
まぁ、ずいぶん前から募集をするのだなと思いつつ、待っていると、下旬に「プレゼント当選のお知らせ!」というメールが。
あまりにストレートなタイトルに、フィッシング詐欺系のスパムかと思い、危うく速攻でそのメールを削除しそうになる。が、よく見ると、忘れていたが、登録時に抽選プレゼントがあったようで、末等の”Suicaパスケース”が当たったようだ。
あまり嬉しくなかったが、せっかくなので、当選登録を促されるまま行う。SSL送信になっているが、携帯からの個人情報送信にちょっとためらうが、ままよと送信。すると、「商品は6月中にはお送りします」とのこと。うーん、1ヶ月以上かかるのか。よけいに嬉しくなくなってきた。
さて、いよいよ6月1日になり、ポイント運用開始。Suicaが使える場所には「ここでSuicaポイント溜まります」の黄色いステッカーが貼られるようになった。何カ所かで使ってみる。で、蓄積ポイントを携帯でチェックしてみる。確かに溜まっているが、反映には数時間のタイムラグがあるようだ。
もう一つ気が付いたのは、先の黄色いステッカーにはよく見ると、各々「100円で1ポイント」とか「200円で1ポイント」とか記述されている(表示のないステッカーもある)。そう、利用場所によってポイントの還元率が違うのだ。
顕著なのが、同じ飲料を買うにも、Suica対応自販機なら100円で1ポイント。New Daysと従来型のKIOSKの中間である、店舗型KIOSK(扉を開けて入店し、POSレジで買うスタイル)は200円で1ポイント。つまり、ペットボトルの飲料を1本買った場合、自販機なら1ポイント付くが、KIOSKでは付かない。
その他、Suicaが使える店でも、どうも店舗毎にポイント還元率が違うようだ。
分かりやすいといえば分かりやすい。直営の自販機とKIOSKでも同じ物を売っても運営コストが違うので、JRとしては利益率が異なる。また、直営ではないSuicaの加盟店では、決済手数料は1%といわれているが、恐らく実際に契約が成立した手数料率は異なるのだろう。それはクレジットカード会社と加盟店の関係でも一緒だ。それらがポイントの還元率に反映されているのではないだろうか。
そうすると、どうでもいいことではあるが、Suicaのポイント還元率を見ると、誰でも「ここはJRにとってオイシイ商売」「オイシくない商売」という見分けが付くことになるのか。
まだ、スタートしたばかりのサービスなので、これからどんどんと変更、整備が進むであろうが、なかなかその展開は興味深い。
尚、以前、このBlogで「駅の必須付随機能としてKIOSKの早期復活を」と記したが、どうやらこの6月1日に間に合わせるべく、何店かが復活し始めている。こちらは非常に歓迎すべき動きだといえよう。
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June 04, 2007
迂闊にもその情報を入手していなかったのだが、看過すべからざる問題を発見した。知己のマーケターが綴っているBlogにて発見したのだが、高島屋立川店と岐阜店で試行されているというサービスである。両店のWebページトップにもしっかり表示されている。
サービスの名称は“「S.E.E.」カード”。以下同Webサイトより。
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お声がけを控えるおもてなしを、はじめました。「S.E.E.」カードをご利用ください。このカードをお付けのお客様には、ごあいさつ以外、ご要望があるまで販売員からお声がけを控えさせていただきます。
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うわぁ。何という違和感。声をかけないことが「おもてなし」?
そして、利用するにはインフォメーションに申し出て、カードを首から下げて店内を歩けということだ。何かおかしくないか?
これは1990年代末に自動車販売の業界で「ノンプレッシャー対応」というコンセプトで展開された考え方だ。確かに、自動車ディーラーのハードセルは店頭から客足を遠のかせている原因になるとの反省から始まったもの。各自動車系列で実験されたが、最終的に根付いたのはトヨタのネッツ系列ぐらいだろう。
何が問題だったのか。来店客から全く声をかけてこないことに対して「やる気がないみたい」「何だか不親切」という評価を受けてしまったのだ。
ネッツ店では「アスクミー・スタイル」と称する接客ルールを決め、「質問されるまで側で待っている」ことにした。しかし、実際には「何かございましたら、お声をおかけください」と店員達は定期的に来店客に声かけを行っていた。まぁ、「アスクミー」なので、ルール違反ではない。「客を放置しない、また、踏み込みすぎない軽い声かけ」という微妙なバランスが成功要因であったようだ。
接客に関してはあまり評判のよろしくない自動車販売ですら、これぐらい努力をしている。で、高島屋さんって「百貨店」でしょ?
百貨店の接客は必要な人には声をかけ、必要なさそうな人には声をかけないのが基本のハズ。
まぁ、それができない店員が多く、うざったい経験をすることは多いが、できないことをすり替えて、「おもてなし」とは何とも片腹痛い。
しかも、顧客がわざわざインフォメーションにカードを取りに行って、自分の首から何とも恥ずかしいカードをぶら下げて歩かなくてはならないとは。また、逆に考えれば、魔除けのお札のようにそのカードを下げていなければ、これ幸いと販売員が群がってくるということなのか?
繰り返すが、顧客の様子を見て、必要な時に必要なサポートをすることは、サービスの基本中の基本だ。それを放棄した時点でもはやサービスレベルは「百貨店」ではない。いっそ、全ての人に全く声をかけず、セルフスタイルにしてスーパーになってしまえばいい。
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May 31, 2007
「ギブアウェイ(giveaway)」・・・直訳すれば「あげるもの」となるのだろうか。
広告・セールスプロモーションの世界では、「無償の配布物」を指す。代表的なものとしては街頭配布される店名入りのティッシュペーパーなどがそれにあたるだろう。
類義語に「ノベルティ(novelty)」があるが、そちらは主に「購入謝礼」として用いられる。代表的なものとしては同じく店名や企業名電話番号などが記されたカレンダーや、ロゴ入りのボールペン、手帳などだろうか。
さらに「プレミアム(premium)」も類義語で、「景品」の一種であるが、こちらは購入者が商品の購入証明(シールなど)を用いて応募し、手に入れるというアクションが介在する場合を指すことが多い。また、景品も応募という行為に値するような価値あるものでなければならない。英語で”at a premium”と言えば、「手に入れにくい、ひっぱりだこで、珍重されている」という意味になるので、読んで字のごとしだ。
さて、今日はナゼ、こんな「セールスプロモーション用語辞典」の様なことを書いているかといえば、「上手いギブアウェイ」ってどんなものだろう?と思うことが昨日あったからだ。
事務所に向かおうと新橋駅を出たところで、「ダスキンでーす」と真面目そうな中年男性がギブアウェイの立ち撒きをしていた。差し出されたものは写真の通りだ。この界隈で毎日配布されている、質の悪いポケットティッシュなら欲しくないので即座に無視だが、何やら変わったものだ。折りたたまれたチラシも一緒に渡している。一応受け取る。
ギブアウェイには「汚れ取りシート 【試供品】 汚れを取って、さっぱり除菌」「ダスキン空気清浄機『クリーン空間』無料モニター実施中!」と書いてある。
ん~?なんだこれ?除菌空気清浄機のフィルターか何かか?ふたを開けて中身を見ると、ウェットティッシュのような物。普通に何か拭く物のようだが、やはりフィルターにも見える。
しばし悩む。その後、ようやく折りたたまれたチラシを見る。
うーん、どうやらこの「汚れ取りシート」はやっぱりただのシートで、そこに空気清浄機のモニターキャンペーンと書いてあることで金森は少し混乱してしまったようだ。
普通は何も悩まずに、受取り、一瞥して空気清浄機に関心がなければチラシをポイして終わりなのかもしれない。金森はいつも物事を「裏読み」するクセがあるので悩んでしまったのかも。
しかし、「汚れ取りシート」に下手に空気清浄機のことが書いていなければ、すぐにチラシを見たかもしれないが、どうもこの表記がマズイ気がする。「ギブアウェイ」の作りとしてはどうなのだろうか。「パッと見でのわかりやすさ」がギブアウェイの命のように思うのだが・・・。
しかし、ここまで色々考えさせたり、あげくにはBlogに書かせることにまで成功しているのだから、これは「いいギブアウェイ」なのか?
ちょっとした「ギブアウェイ」を受け取ったことで色々考えてしまったが、貴重な経験であったことは確かだ。狭い金森の事務所にわざわざ空気清浄機を設置する気はないけれど。
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May 29, 2007
最近、思うこと。何やら、人の「怒り」やそれに対する「謝意」の表明のポイントがズレてきているのではないかと。
単に一個人として感じているのであれば、さほど問題はないかもしれない。しかし、こうした人々の感情の”発露”もしくは”爆発”に変化が生じているなら、マーケティングの要衝である顧客接点。特に、顧客から意見や苦情を受け付ける「コンタクトセンター」などの「顧客接点」にとっては大きな問題となる。看過することはできない。
さて、なぜそう思ったかといえば、いつもの如く個人的体験からであるのだが。混雑する駅舎内で、何度か人から怒鳴られたのだ。
金森の特徴は、いつも左手には商売道具のノートパソコンを収納したジュラルミンのアタッシュケースをぶら下げていること。もう一つ。昨年夏の事故で左足を損傷し、その後遺症で歩くのが少々遅いことである。
そしてコトは混雑した駅舎内で起きた。
後ろから急ぎ足に追い抜きかけてきた通行客が、アタッシュケースに追突して怒声を上げる。「アブねぇ荷物ぶら下げて、トロトロ歩いてンじゃねぇよ!」。
確かに人混みでアタッシュケースは迷惑なので、いつも人にぶつけないように注意を払っている。しかし、車でも追突してきたなら、その車の責任だ。どうした論理展開であろうか。だが、同様なことが何度かあったが、それらの”追突者”は全く自らの過誤を疑う余地もなく一方的に怒りをぶつけてくる。
金森としては非を感じないので謝意を表示ない。捨て台詞で過ぎ去られることが多いが、さらに詰め寄られ、事態に気が付いた駅員や警戒中の(特に東京駅構内には多く配置されている)警察官が駆け寄り、相手が逃げ去るシーンなどもある。
どう考えても本人が全く注意を払えない後方からの追突で、怒られるのはオカシイと思うのだが、そう考えるのは間違っているのだろうか。
しかし、怪我をする前によく行っていたスキー場でのトラブルを思い起こすと何やら関連性が感じられる。
ゲレンデにまだ慣れていない、技量も乏しい幼少児がヨロヨロと滑っている。いい大人であれば余裕を持って大きく回避するところである。
だが、当人も技量がないのか、はたまた無謀なのか、大人げもなく後ろから突っかける馬鹿者がいる。その時、耳を疑うような会話。
母親:「○○チャン!何やっているの!謝りなさい!!」
追突者:「いえ、いいんですよ。。」
・・・お前ら、頭オカシイんじゃないのか?突っ込まれた子供の親、当然怒るべきところだろう?突っ込んだ馬鹿、謝るところだろ?全く意味がわからない会話だ。
こうした、被加害の逆転がまかり通るような感覚が蔓延しているから、金森に駅社内で追突してくる人間が激高するのであろう。
「事なかれで済まそうとする感覚」と「自らの不利益にのみ敏感な感覚」が同居する今日。人の「怒りどころ、謝りどころ」がズレはじめているように感じられる。
個人の生活の中でも、顧客対応のシーンにおいても、ロジカルに原因がどこにあり、どちらに非があるのかを明確にして論旨を展開することが求められるのは間違いない。
果ては米国型の「訴訟社会」に行き着いてしまうのかもしれないが・・・。
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May 25, 2007
先日、前職の旧社屋があった界隈に所用あって立ち寄った。時はちょうど11時過ぎ。
当時「毎日でも食べたい」と思い、事実通いつめて体重の増加に随分貢献してくれたラーメン店を思い出し行ってみることにした。
「この時間だともう行列だろうなぁ」と思って到着すると、あっさり入店できた。メニューを見ると何か変わっている気がする。あ、値段が安くなっているのだ。これは嬉しい。繁盛したので、謝恩価格なのか?
ともあれ、名物の塩ラーメンを注文する。ここの一番は、単純な塩味ではなく、実は澄んだスープの色に似合わない、濃厚な様々な出汁が利いた味わい。少々、濃い味で健康が気になるのだがともかく旨い。
期待して一口すする。あれ?意外と薄味。客への健康配慮か?更に一口。・・・薄いのではない。味が・・・しない。
一番の特徴であった、様々な出汁が醸し出す深い味わいがなくなっている。随分と単純で薄い味。
ふと冷静になってみて、周りを見回すと、以前に比べて店に活気がない。当時なら続々と人が押し寄せ行列ができる時間だ。パラパラと来店客はあるが、満席にはならない。
更に店員の数も少ない。また、「ランチには小ライスがつきますが、お付けしますか!」という元気なその声掛けもない。当時はその勢いに「太っちゃうなぁー」と思いつつ、ごはんがスープの味と、チャーシューに実に合うので、ついもらっていたのだが、サービスはなくなったのか?と、思ったら、常連とおぼしき若いサラリーマンが、「ライスください」というと、店員が返事もなく持ってくる。うーん、何と活気が無くなったものか。しかもよく見れば、チャーシューの枚数が減っているではないか。安くなっていて当然だ!と少し腹が立ってくる。
こんなもので腹を満たして太っては損してしまう。と、三分の一ぐらいをどんぶりに残して店を出る。「ごちそうさま」と一言言うも、かつての「ありがとうございましたぁ~!!」の元気な声はない。残したことを怒っているのか、活気がない一連の対応の続きなのか。
店を出てふと周りを見回してみると、斜め前に「刀削麺」の新店舗がある。人が続々入っていく。
あら、そっちに客を取られてしまったのか?
もともと、このエリアは老舗だが人気のないラーメン店が一店と、どうにも衛生的でない昔ながらの中華屋が一軒あるだけの、「ラーメン真空地帯」であった。そこに当時進出してきて大成功したのがこの店。
その後、表通りに有名チェーンの豚骨ラーメン店や、しょう豚骨の店、さらに一本向こうの通りにも博多ラーメンの店ができても、この店はチャンピオンの座を保ち、常に常連が列をなしていた。
そんなある時、いくつかのグルメ誌や、タウン誌に立て続けに取材・掲載され、遠方からも人が大挙して行列に拍車がかかった。昼休みの時間が限られている、近隣の常連サラリーマンは店に近づけなくなった。
さらに、土曜などの休日出勤時に「こんな日なら」と時間をずらして行ってみても行列は絶えることがなかった。
そうこうしているうちに、社屋が移転して、その店に行くこともなくなっていたが、久々に行ってみたら、様子は冒頭に記した体たらくであった。
元々、カウンターにほんの少しテーブルがあるだけの小さな店だった。常連客だけで溢れかえっていた。なぜ、それで満足ができなかったのだろう。
雑誌やその他メディアに取り上げられるのは名誉なことだろう。しかし、常連が寄りつけなくなってしまうほど、一見客を集めてどうするのか。結果は今日如実に表れていたように思う。新規顧客が集まること。名声を得ること。それもよかろう。しかし、既存顧客をおろそかにした結果の代償は大きかったようだ。
一見客が去って、かといって常連客も戻らず、その後にできた新店に取られる。客が減り、利益が減った穴埋めを人減らしと、恐らく材料費の削減をして、結果としてサービスの低下、味の低下。また、さらなる客の減少という、止まらない悪循環に陥ったのではないだろうか。
どこかで立ち止まった考え直すことはできなかったのだろうか。
いや、他の商売でも一緒だ。他山の石として考えてみたい。
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May 21, 2007
細かい言葉遣いを云々するのはどうかと思いつつ、ここの所どうにも引っかかっているので文章にしてみたい。「××2.0」というヤツだ。
大元はビジネスマンならずとも、多くの人が既に耳になじんできた「Web2.0」。そもそもこの言葉は昨今のインターネットにおける変化をティム・オライリー氏らが2005年9月に「What Is Web 2.0」という論文で紹介したことが最初だ。その中にはBlogに代表されるように、高度なWebサービスの活用により、情報発信の主体が一般ユーザーに広く拡大し、RSSやなどにより個々のサイトが自律的ネットワークを形成していくという特徴を捉えている。さらにそのことから広告モデルが変化したり、インターネット上の商品の売れ方まで変化したり(ロングテール)という様々な事象を包括した概念である。
Web2.0の解説は他のサイトに譲るとして、ここでのポイントはオライリー氏は、インターネットの様々な変化を捉え、気が付けば、例えばソフトウェアがメジャーバージョンアップして別物の様に機能アップしたことに例え、””2.0”という言葉を使っていることだ。(ソフトウェアの世界ではバグの改修や小さな機能の追加は、マイナーバージョンアップと言われ、コンマ以下の数字を上げていく。例えば1.2とか、1.2.4とか。)
しかし、最近の2.0はかなり強引な使い方が目につく。「DoCoMo2.0」。確かに言いたいことは分かるし、キャッチーで目を引くいいコピーだが、よく考えれば既に携帯電話は第三世代(3G)になっているので、次の世代になるなら4.0(4G)ではないか?それとも世代が変わるほど大きなテクノロジーの変化でないなら3.5ぐらいか。
4.0と言えば、映画のシリーズ物まで”×.0”がタイトルに使われるようになった。「ダイハード4.0」。普通、シリーズ第四作なら、単純に「ダイハード4」だが、やはり、キャッチーにしたかったのだろう。勘ぐれば、後から「完全版」やら「ディレクターズカット」やらを出して4.2や4.5とするのかとも思うがそんな手の込んだことはすまい。
確かに、キャッチコピーとして使われるぐらいならいい。本来のソフトウェア用語やWeb2.0の概念を踏襲していることがまだわかるからだ。しかし、そこを離れて、さらに一般人の日常会話にまで入り込んでくると、もはや訳のわからない言葉になってしまう。先日電車の中で「まぁ、”俺2.0って感じ?”」としゃべっていた若者の言葉を聞いた。本人としては「今までの俺とは違うのさ」と言いたいのか。だとすればさぞや生まれ変わったような変化があったのだろう。
言葉の問題になると、金森は少々神経質になる傾向があるのだがどうにも気になる。”2.0”は前述の通り、ソフトウェア開発やWeb2.0のことなどが分からない前提で使われると、どんどん本来の意味から乖離し、また、相手によっては伝わらない、もしくは曖昧な相互理解を生んでしまう言葉になりそうなのだ。おもしろがって遣っているうちはいい。しかし、こんな言葉だらけになると、益々人と人の子コミュニケーションレベルが低下してしまいそうで心配なのだ。
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May 18, 2007
「プロフ作りました」・・・などと言うと、「お前は女子中高生か!」とオカシインじゃないのか?と思われてしまいそうだが、いや、試しにです試し。マーケターは何でも体験しておかないと。
なら、今更でなく、もっと早く試しておけよとの声も聞こえそうであるが、その存在を知ってはいたものの試してはいなかった。慚愧に堪えない。
しかし、ついに登録者が900万人を超えたとか、その一方でネットの社会に慣れていない若年層が迂闊にも個人情報を公開してしまって問題になっているとか。さらには、”出会い”や”援助交際”の温床になっていたり、”なりすまし登録”で虐めが起こっていたりと、何かと世間を騒がせているので重い腰を上げた次第だ。
一応、前提情報のおさらいであるが、「プロフ」は携帯でも作成・登録ができる、「個人プロフィール紹介簡易WEBページ」である。
中でも楽天が運営している「前略プロフィール(通称:前略プロフ)」が前述の通り900万人以上と最大の登録者数を持っている。
登録は簡単で、登録画面からメールを2度ほどやりとりすれば、定型フォーマットを選んで自分のプロフィールを六十数項目の質問に回答するようにして入力していく。
ページの冒頭に写真を載せられ、携帯の写メールやプリクラから掲出しているユーザーが多い。(この写真を載せられるということも”出会い系の温床”と言われる所以の一つであろう)。
設置すれば、自分のIDやURLを人に教えて来訪を促すこともでき、来訪者から書き込みがあったり、ゲストブックの機能で来訪歴が残ったりする。
さて、この「プロフ」の諸問題はまた、別途論ずるとして、今回は体験的に登録行為を行ってわかったことを述べたい。
ずっと前に、「前略プロフ」が話題になりだした頃、登録画面を見るところまでは行ったのだが、登録まではしなかった。先に述べたとおり、六十数項目の入力項目を見ただけで、ゲンナリしてしまったからだ。(当然全部が必須ではなく、自分の出したいプロフィール項目を選択すればいいのだが)。
時間がほぼ無尽蔵にある(と思いこんでいる)若者ならいい。こちらは日々一分一秒を切り売りしているしがないコンサルタント家業。かかる時間を考えれば自ずと腰が引けてしまう。
しかし、今回はあえて敢行した。【HN(ハンドルネーム)】【HNの由来】【性別】【星座】【血液型】あたりの基本項目から始まり、【前世】とか【似ている芸能人】とか、かなりどうでもいい内容になってくる。
【趣味】【特技】【髪型】・・・だいぶ苦痛になってきた。が、さらに入力を進める。
【口癖】【性格】【自慢なこと】・・・正直に入力しても面白くも何ともないので、少し”ひねり”を入れ始める。なるほど、だんだんと”ひねる”ことのできる項目が出てくる。
【将来の夢】【好きな動物】【休日の過ごし方】【尊敬する人】【今一番欲しいもの】・・・かなり本気で受け狙いを始める。
ん?自分は誰に対して「受け狙い」をしているんだ?
そう、だんだんと入力を進めていると、「誰かが読んでくれるという前提」が自分の中にできてしまうようだ。
「前略プロフ」には検索機能があり、適当な名前や、プロフィール項目に該当しそうなキーワードを入力・検索すると全く知らない人のプロフが表示される。
(この機能のおかげで、前述の諸問題が増幅されているのは間違いないのだが)。
幾つか検索してみると、何の工夫もないプロフィールもあるが、随分とひねってあるものも見受けられる。しかし、そのひねりも、「定型フォーマットのプロフィール質問項目」あってのことだ。
こうした「プロフ」と良く似たもので、ミクシイなどのSNS(Social Networking Service)で時々まわってくる、「バトン」と言われるものがある。
友人とその友人、そのまた友人とつながっていくSNS。そこにプロフィールを中心とした質問回答を求める書き込みがされる。書き込んでまた誰かに廻す。頻繁に「バトン」を発信している「バトン好き」とも言えるようなユーザーもいるようだ。
しかし、プロフなり、バトンなりを考えると少々心配になってくることがある。
このような「定型プロフィール質問項目」に慣れてしまうと、本当にゼロから自分のアピールをする能力が低下してはしまいか。ただでさえ、日本人は「アピール下手」と言われている民族だ。さらに、最近「若者のコミュニケーション能力の低下」が問題となっている。
人に自分を「知ってもらう」「わかってもらう」というコミュニケーションの基本がフォーマット化されているということの恐ろしさ。
さらに関連した事象を考えてみると、以前記した「Human Player」の流行も、(多分にゲーム的要素があるものの)エゴグラムという性格診断アルゴリズムに従って、自分の正確を反映したキャラクターを生成し、人に見てもらうという、「”わかってもらう”という行為のフォーマット化」ともとれる。
テクノロジーの進化がコミュニケーション能力の低下を助長するとしたら、何とも皮肉な結果である。
で、金森のプロフのURLはと?・・・いやいや、体験するために作っただけなので、とても恥ずかしくて人様にお見せできません。
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May 16, 2007
何とも不便な日々が続いている。「何かのどがイガイガするので、飴が欲しくなった」。「電車の車内吊り広告で気になった週刊誌が欲しくなった」。「ちょっとのどが渇いた」。そんな時、JRのホームや駅舎内に設置された売店、KIOSKは確実のその欲求を満たしてくれていた。
それが相次いで閉鎖されている。大方、JRのSuica戦略の一環で、何かすごい次の展開をする準備をしているのかと思っていたら、正社員をリストラし、パート・アルバイトへ転換しようとしたが、採用がうまくいかずに人繰りができなくなって休業、もしくは閉鎖が相次いだという何ともお粗末な結果のようだ。
流通業や、流通に品物を卸しているアパレルなどのメーカーは各社が、競争力強化のため非正社員を正社員化するという流れに逆行するような展開。
KIOSKの店員の多くが正社員であったとは知らなかったが、狭い店内に押し込まれた数多くの品物の価格を把握し、客が差し出した品々の合計価格を計算し、突き出された代金から釣り銭を差し出すという「瞬間芸」は正に「職人技」である。貴重な人材であったことは間違いない。
最近ではSuica対応のPOSレジに置き換わり、その職人芸よりも随分と時間がかかるようになってイライラさせられた覚えがある。POSレジに置き換えたことにより、職人芸ではなく、「誰でもできる仕事」になったため、非正社員への転換・リストラへとJRは考えたのであろうか。しかし、提示した時給が昨今の人材難にしては随分と低く、採用が間に合わなかったということが実情のようだ。
KIOSKが最近流行の「駅ナカビジネス」で、利用者にとっては「あれば利用するが、なくても構わない」というレベルの存在だったら、「あーあ、戦略間違えちゃったんだ(苦笑)」という程度で済む話である。
しかし、KIOSKがない生活は多くの駅利用者にとって不便・不利益になっている。
ここの所、当BlogでP.コトラーの「製品特性分析モデル」を取り上げているが、今回もそれで考えてみたい。「三層モデル」である。
三層で考える時、「製品」は、「中核」「実体」「付随機能」の三つに分けられる。
「中核」とは顧客が製品やサービスの購入で手に入れたい主たる便益を表す。
「実体」とは製品のブランド、品質水準、デザインやパッケージといった製品の特性を構成する要素である。
「付随機能」とは、上記に加えて、製品の中核価値に直接的な影響は及ぼさないが、その存在によって製品の価値を高めている要素を表す。
ここで注意しなくてはならないのが、以前、日経のコラムを転載し図表入りで以前紹介した「五層モデル」におけると異なり、三層は一番外側の「付随機能」までが基本的には「顧客から求められている価値」であると言えることだ。
五層モデルの外側二層「拡大」「潜在」などは製品によっては「無くてもいい」要素だ。しかし、三層モデルは卵の「黄身」「白身」「殻」に置き換えられるように、いずれもなくてはならない存在である。
さて、KIOSKであるが、「駅」もしくは「鉄道」というビジネスにおいては、上記の一番外側である「付随機能」に相当する。
鉄道の「中核」は当然、「安全な運行」であることは間違いない。さらに「実体」は「正確な運行」であろう。(ちなみに、この中核と実体を取り違えると、悲惨な鉄道事故につながる)。
そして、「付随機能」は各種の駅の設備や職員の対応に相当しよう。その中で、KIOSKは既に様々な駅設備と共に、利用者の生活にとけ込み、鉄道の中核たる「安全な運行」には影響は及ぼさないが、それがあることによって「駅」という存在の利便性という価値を高めていたのである。
事業者側は、ほんの「サイドビジネス」と考えていたのかもしれない。また、鉄道事業に占める売上・利益からすれば細微な存在だったのかもしれない。
しかし、利用者にとってはなくてはならない存在として生活に浸透していたのだ。意識すらしていなかったが、閉鎖されたホームのKIOSKの店舗に張られた「改札外のコンビニ・New Daysをご利用ください」の表示を見て、「そんなワケあるか!」と利用者便益を無視した姿勢に憤りを覚えた。
今まで意識もしていなかったが、なくなった事による不便さで、その存在が大きかったことが初めてわかった。
事業性のほどはわからないが、利用者の立場に立って、早期に解決を望まずにはいられない。
卵は「黄身」「白身」が重要であるが、「殻」もなくては「卵」として存在し得ないのだから。
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May 15, 2007
「秋のゴールデンウィーク構想」に対する違和感
昨日新聞で「11月初旬に既存の祝日の日程を移動させ、連休を増やす構想が与党内にある」という報道があった。11月3日の文化の日の前後に体育の日(現在10月第二月曜)と勤労感謝の日(同11月23日)を移し振替休日などで四連休以上を作ろうというもの。論拠としては、「働き過ぎを減らす」と「(連休による)名目家計消費アップによる経済効果創出」であるようだ。
しかし、この構想、どうも違和感が否めない。そもそも、こうした祝日を流動化させ、連休を創出するという考え方は、2000年に制定された「ハッピーマンデー法」の流れを汲むものであると思われるが、今回候補になっている「体育の日」は同法により、10月10日から10月第二月曜と既に流動的な休日に既に変更されている。
体育の日は1966年に、「祝日法」によって「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」事を趣旨とし、1964年東京オリンピックの開会式のあった日に因んで祝日に制定されている。もう一方の勤労感謝の日 は「旧・新嘗祭」である。「新嘗祭」は「天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀」であり、転じて1948年に「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨として同「祝日法」によって「勤労感謝の日」と制定された。詳しい制定の経緯が調べ切れていないが、自らの労働の成果たる“新穀”を天神地祇に勧めるとともに、自らもこれを食することを、広く労働の成果に感謝するという主旨に転じたのではないかと思われる。
報道には「伝統的な祝日を移動させることは保守系の議員を中心に反発も予想される」とある。しかし、祝日には「そもそもの謂われ」がある。保守云々ではなく、「体育の日」は高度成長期の成果の象徴たる「東京オリンピックの開催という成果を記念として残そう」としたものであろう。「新嘗祭」=天皇=保守というような単純な連鎖で拒否反応をする人がいるかもしれない。しかし、保守なのか否かはともかくとして、前述の「そもそもの謂われ」をないがしろにして「顔のない休日」にしてしまうことには抵抗を感じる。祝日には休日という時間的な余裕の中で、その節目でそもそもの意義を考えたり、感謝の念を感じたりすることに意味もあろう。それを流動化させるのは、どこか物事の節目と礼節を失った今日の社会を反映している気なしてならないのだ。
また、今日の環境の中でなぜ「連休を創出」する必要があるのか。一つには団塊世代の大量定年~高齢人口の増加である。「毎日が日曜日」である人が増えていくのだ。その人達にとっては、「連休」という機会に、民族大移動とも揶揄されるような集団行動に巻き込まれることはあまり嬉しくはなかろう。今年の連休明けの日経新聞コラムにも、現役時代のクセで、つい夫婦で連休に旅行に出かけ、ひどく疲れてしまったという人の話しが紹介されていた。
また、「連休を作るより、そもそも休暇を自由に取れる環境を作るべき」という指摘もある。実際、一律に連休を作られてしまっては、祝日に休暇を加えて「自分だけの連休」を作ること。即ち、有給休暇取得の機会を喪失させることにもなりかねない。多様な労働環境が求められている中で、休日が固定化されるということは、どうも前時代的な気がしてならない。
(今回の祝日の起源に関してはWikipediaの記述を参考にした。)
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May 14, 2007
コンビニエンスストアに顧客が求める「価値」とは何だろうか。
まず「開いていること」。これがマーケティングの大家、P.コトラーが”製品特性三層モデル”で定義した「中核」であることは間違いない。
セブンイレブンの「開いててよかった!」の名コピーは何年経っても色褪せない。
加えて、円滑なオペレーションが、三層モデルの二層目である「実体」に当たるだろうか。品出しをしている担当者が、少しでも会計待ちの客が溜まると、クローズしているレジをさっと開けて、「お次にお待ちのお客様どうぞ」などというものだ。
最近はマニュアルが進化してきたためか、さらにオペレーションが磨かれてきているように思う。一方、そうした応対ができていないコンビニは、どこか空気が淀んだように活気がなく、いつしか閉鎖されていたという例に何度か遭遇した。
さて、先週末土曜日、いつものように青山学院大学にて「産業論(ベンチャービジネスとマーケティング)」の講義を行った。内容は「顧客視点・顧客志向について」であり、”金森節”の中核をなすパートである。
当Blogを以前からお読みいただいている方にはおなじみだが、まず「顧客がそのビジネスに求める”本質的価値”」を理解すること。それを通じて「顧客に利便性と納得・満足を提供すること」。そのためには「顧客に対する理解を深めること」である。
上記を得意の「生命保険会社セールスマンの例」や「銀座伊東屋の顧客対応の極意」などの例を用い、学生にわかりやすく伝えたつもりだ。
すると、講義終了後、一人の学生が質問に来た。「コンビニでバイトをしているが、先の例を当てはめると、どういう事になるのか」と。そこで自分の考えを述べさせると、非常によい回答が返ってきたのである。
曰く「自分はできるだけ担当している時間帯の馴染み客を覚えるようにしている。そして、例えばいつもタバコを買いに来る客にはレジに来たとき、注文される前に”いつもの銘柄”をスッと差し出すのだ」という。
コンビニエンスストアといえば”マニュアルに基づいた画一的な応対”を思い浮かべてしまうが、「顧客の想定しているレベルを超える応対」を目指している”現場のアルバイト”の熱い思いを聞かされ嬉しくなった。
マニュアルが定められている場合、それは「最低限の顧客満足」を確保するため励行されるべきであるが、それを超えた「顧客の期待以上のサービス」が提供できるか否かは「現場担当者の問題意識」にかかっているともいえる。「伊東屋」はその好例だ。
コンビニエンスストアの場合、やはりマニュアルに基づいた一定品質のオペレーションが基本であり、余り奇をてらった対応に走りすぎるのは問題だろう。
しかし、マニュアル通りの応対を漫然と行うのではなく、それを超えようという担当者を採用し、さらに動機付けし、良好なサービスを提供させることは、店舗の経営にも大きく影響するはずだ。
都市部では店舗過剰傾向にあると伝えられる同業界。生き残りのためには、彼の学生のような”熱いハート”の持ち主の確保が必要となってくるのではないか。
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May 11, 2007
標題の通り、今日は「当たり前」話なのだが、チョット皆さんにも考えていただきたい、電話応対のコトなのだ。
昨日、ある品物が必要になり、売っていそうな店をいくつか思案し、地元の某ディスカウントストアを思い出した。
特別な店ではない。小規模な二階建て。一階が食品と生活雑貨。二階には家電・工具・文具・ペット用品という品揃え。
普段その店に電話などしたことはないが、今日は無駄足をしている時間はない。探している品物の取り扱い有無と在庫を事前に確認したかったのだ。
iモードの「iタウンページ」で店の代表電話番号を探し当て、早速かけてみる。男性店員が電話口に出たので、探している商品の概要・使用用途を伝える。
すると、その男性店員はこう応えた。
「お客様、お探しの品物はよくわかりました。在庫があるか、担当売り場に繋ぎます。恐縮ですが、売り場担当がお探しの品物の内容についてもう一度お客様に伺うかもしれませんがご容赦ください」。
何の変哲もない応対ではある。さらに、もっと気の利いた応対を望むなら、最初に電話に出た男性店員が、金森の捜し物について売り場担当者に申し伝えをすればよいのだ。
しかし、この小規模な店舗に代表電話番号に出る専任の担当がいるはずもなく、側に居た担当者が忙しい業務の合間に応対していることは想像に難くない。
とすれば、丁寧に担当売り場に電話を転送する際に伝言をする手間は取れなかろう。そうした前提を考えれば、彼の「売り場担当がお探しの品物の内容についてもう一度お客様に伺うかもしれませんがご容赦ください」という一言はベストな対応だったのではないだろうか。
思い起こしていただきたい。さほど忙しいとも思えないような企業・店舗に電話をした際に、用件を転送する度に何度も繰り返させられたことはないだろうか。そうしたときに、前述の彼の男性店員のような一言はあっただろうか。
同じ労力を強いられるとしても、そのことに対する謝意を予め告げられているのか否かでは、大きく印象は異なる。
その店の通常の顧客対応は、決して優良と言うほどのものではない。むしろ、少々ぶっきらぼうな感さえ否めない。「まぁ、下町のディスカウントストアなんてこんなモンだろうな」という諦念を持って金森はいつも店を訪れていたのである。
しかし、今回の電話応対で、一気に評価急上昇だ。
「当たり前なことを当たり前にすることの難しさ」とは、よく言われることである。今回のような「チョットした応対」もいざというときに励行するのは難しいかもしれない。
しかし、「エクセレントサービス」を提供せよというわけではない。例えば、顧客満足(CS=Customer Satisfaction)では有名な米国の百貨店「ノードストローム」が現在以上にサービスレベルを高めるのは難しかろう。そもそも、あまり優良でない顧客対応に、どこか一つ「光る部分」を作るべきだと言っているのだ。
どこか、自社、自分のビジネスに「改善余地はないか」を一度考え直してみることをお勧めしたい。
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May 10, 2007
少し前の話になるが、連休明けの日、財布を忘れて事務所に到着した。実際には世間の連休より2日早く仕事を始めていたのだが、やはりどこかリズムが狂っていたのかもしれない。もしくは、新聞休刊日なので持ち物を身につける順番が狂ったのか。
ともかく、忘れたものはしかたがない。事務所には現金を置いていないので、頼りは携帯電話のみ。そう、以前、強引なキャンペーンでモバイルSuica機能を付加したものだ。
なんだかJRの戦略に丸々はまったようで、どこか抵抗を感じながら今日一日はこれで乗り切ってみようと考えた。
まず、飲み物が欲しくなる。事務所は新橋駅前なので、駅のSuica対応自販機でお茶を購入。
昼食は再び駅に行き、「さぬきうどん」を食する。もちろん、駅構内なのでSuica対応だ。
仕事を続けるうちに、スティックのりが干からびているのを発見。これは少々困る。いつもはビル内の文房具店に行くのだが、今日はお金がない。が、駅の反対の出口にコンビニ「New Days」があることを思い出し行ってみる。ちゃんと文房具も揃っている。
あら、なんだか本当に一日乗り切れてしまいそう。何かを購入する度に「ピッ」と携帯電話を「かざす」だけ。やってみれば実に便利だ。
一月ぐらい前の日経新聞の記事で、通貨の流通量が減少しているといった記事が掲載されていた。電子マネーが小額貨幣を駆逐しているのではないかと。
SuicaにEdy、新たに参入してきたセブンイレブンのnanaco、イオンはWON、さらにICカードの生産が追いつかない勢いのパスモ。
電子マネーがこれだけ普及してくると、お金の概念も変わるだろう。
かつて、娘が小さかった頃、電話ごっこをする姿を見ていたら、電話機を持つしぐさをして、最初に発した言葉が「今どこ?」であり、衝撃を受けたことを思い出す。昔は電話機は当然固定されているものだから、そんなセリフは出てこようもない。しかし、携帯全盛時代に親や他の大人達の姿を見ていれば、その真似をして自然に「今どこ?」となるのだろう。
同じように、これからの子供は「お店屋さんごっこ」をするときに、「チャリン」とお金を手渡すしぐさの代りに、「ピッ」と携帯電話かカードを「かざす」しぐさをするようになるのだろう。既に、「レジ係」役の子供はかつてのように、レジのキーを叩くしぐさではなく、「ピッ」とPOSレジでバーコードを読み取らせる真似をしている。
テクノロジーの進歩はどんどんと人の生活スタイルを変えていく。悪いことだとは思わない。と同時に、きちんと定着する新しいテクノロジーというものは、利用者に特別な意識をさせるのではなく、子供までもが遊びに取り入れるように自然と生活の中にとけ込んでくるものなのだ。
今まで数多の「新サービス」が登場しては消えていったが、結果から考えれば、それらはどこか「無理」があった様に感じる。
普段、「イノベーション論」だとか、「ビジネスモデル」だとか、小難しいことばかりを考えて過ごしているが、やはり「一生活者の視点」で「このサービスは無理がないか?」と考えてみることの重要性を再認識した一日であった。
但し、「ピッ」とかざすだけで物を買う行為は、どうもお金を払っている実感がない。使いすぎには用心した方がいいかもしれない。現に、コンビニ「New Days」では、スティックのりだけでなく、すぐに必要でないものまで何点か買ってしまった。要注意だ。
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May 09, 2007
バンダイが今年3月から発売開始した携帯玩具、「ヒューマンプレイヤー(Human Player )」が売れている。
(ハンダイHuman Player 公式サイト:http://www.asovision.com/hp/)
どのくらい売れているかというと、販売台数の発表などは見あたらないのだが、大型玩具店・銀座博品館の売り場では次々と人々が購入していく様が見られる。
このゲーム、以前流行した「エゴグラム」という性格診断テストを元にして、「自分や知人と同じ性格」のキャラクターを登録。実在の人物が取ると想定される行動パターンを画面に表示されるキャラクターを通して観察するというものだ。
キャラクターには診断結果に応じて「悩める優等生タイプ」 「スーパーヒーロータイプ」「マイペースの自由人タイプ」などとネーミングと性格付けがされており、確かにその行動を観察すると、「なるほど、自分ならこんなこと確かにしそうだな」と感じられオモシロイ。
しかし、この商品の最大の売り物は、エゴグラムで診断された結果のIDを交換し合うことで、1台あたり16人までのキャラクターが登録できること。
その交換した他のキャラクターを観察したり、そのキャラクターと自分のキャラクターとのやりとりまで観察できることだ。
合コンや飲み会での盛り上がりグッズとしてはもってこいだろう。
しかし、この商品のヒットした理由をもう少し考えてみると、また違った一面が見えてくるように思える。
そもそも、「エゴグラム」は50問の質問に答えることによって、22通りのキャラクターが作られる。
その質問への回答、「はい」「いいえ」「どちらともつかない」の選択状況の微妙な変化でキャラクターが変わる。
別の言い方をすれば、自分として納得感のあるキャラクターに落ち着くまで回答を繰り返せばいいことになる。
極端な話、「なりたい自分」や「こう見られたい自分」を作り出すこともできる。そしてそれを人と交換する。
つまり、手っ取り早い「自分のいい面の自己紹介」だ。
近年、「コミュニケーション能力の低下」が問題とされている。
「自分がどのような人間であるかという分析をし、それを人に伝える」という行為はコミュニケーションの基本中の基本と言っていいだろう。
しかし、それを機械に肩代わりさせているとしたら、いささかナサケナイ気がする。
もちろん、上記は金森の邪推で、多くの人は素直に質問に回答し、自分の意外な一面を発見・観察することで楽しんでいるのかもしれない。
しかし、キャラクターのIDをBlogやSNSで交換することまで流行り始めていることを考えると、あながち的外れな推測でもないように思える。
・・・ちなみに金森の性格タイプの診断結果は・・・それは秘密だ。
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May 07, 2007
過日、青学での講義を終え、必要な物を購入するため、久々に渋谷の街へ。目指すは東急ハンズ。最短距離はセンター街を抜けるルートだと記憶している。
ハチ公前のスクランブル交差点を渡り、センター街に突入。・・・いつも思うが、この街は人が多すぎる。金森の「タウンウォッチ」の拠点、銀座、表街道、丸の内・・・等々と比べれば10倍ぐらいの人口密度ではないか?
疲れる。
しかし、疲れる原因は「人混み」だけではないようだ。
最近、「都市景観論」が活発だが、このセンター街は、そんなものから除外された「特区」のようだ。建物も屋外広告もバラバラ。原色をちりばめた世界のよう。
さらにふと、気付く。「音」だ。
センター街入り口前のスクランブル交差点で信号待ちをしている時に、既に通過する広告トラックの放つ音の洗礼を浴び、さらに歩くうちに、各店舗の入口からは思い思いの喧騒たる音楽と呼び込みの大声が放たれている。
さらに、街頭配布物を通行人に手渡さんと、揃いの服を着た一群が混じり合い、各々、「お願いします!」と声を張り上げている。
・・・どうにも、耳からも疲れる。
「都市景観論」は昨今活発だが、「音」に言及した論は少ないように思う。是非、検討してもらいたい。
「にぎやかでイイじゃん!年寄りだからだよ。」と、言われれば、「お呼びでない?」と退散するしかない・・・。
しかし、ミッドタウンに新丸ビル。東京湾岸各所や東京駅の再開発と、いわゆる「街間競争」は今後、さらに激しさを増す。そして、それらの新しい街は「調和」がテーマに入っている事も特徴だ。自然調和、周辺調和、来訪者の世代間調和、等々。
迎え撃つ古い街の代表格の銀座も、ようやく「景観論争」に一応の決着がついた。また、今日も「中高年の街」になることなく、老若男女を吸引する魅力を保っている。
「調和」を持った街づくり。そんな事を考えるのも歳のせいとの指摘もあるだろうが、あえて今回は主観的に締めくくる。
街は永続的な存在である。特定世代が訪れ、卒業していくというスタイルもあってもいいかもしれない。しかし、自らが齢を重ねるごとに、更に懐の深さを感じさせてくれ、新たな発見・体験があるような街が私は好きだ。
金森馴染みの銀座老舗の帽子店。自身がおっかなびっくり、そこを訪れた時、初めてのソフト帽の購入に際し、手慣れた店員に加え、色々アドバイスをくれたのは、一回りも歳上と思われる馴染み客の紳士であった。
「調和の取れた街」。そこは、どこか街も集う人も温かく感じる。
「論拠を示せ」、といつもの金森の如く詰め寄られると困るのだが。
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May 05, 2007
一足先に連休を終了したから意地悪を言うわけではないが、ゴールデンウィークの最終日は残念ながら雨の様子。
恐らく「暇だ~!」という状態になる方も多いだろう。
となると、レンタルDVDに客が集中して見たい作品が借りられなかったり、外食でもと思っても開いている店がなかったりと意外と過ごし方に窮するかもしれない。
ネットを検索すると、早くもそんな人々が情報収集をしているのか、「雨の連休最終日はディズニーが意外と空いているらしい」といった、まことしやかな情報も飛び交っている。(真偽のほどは金森はわかりません!)
さて、では雨の連休最終日のお勧めである。是非、その「暇な時間の有効な活用法」を考えてみて欲しい。
「暇な時間の解消に、その解消法を考えろって、オカシインじゃないの?」と言われるかもしれない。
しかし、これは古代の賢人も深慮したテーマなのだ。
古代ローマ時代の文筆家・哲学者、マルクス・トゥッリウス・キケロー(Mārcus Tullius Cicerō:BC106~43)の有名な言葉。
「最も難しい三つのことは、 秘密を守ること、 他人から受けた危害を忘れること、 暇な時間を利用すること。」 ・・・である。
キケローは文筆家・哲学者として後世評価が高いが、存命中は弁護士として名を上げ、後に政治家としての活動が主たるものであったようだ。
裁判結果を巡ってローマから放逐されたり、ローマ帰還後も彼のユリウス・カエサルと政治的対決をしたり、その後もマルクス・アントニウスと戦い再びローマから逃亡。結局は暗殺されるという悲劇の最期を遂げている。
弁護士としてデビューし、政治家として権謀術数の人生を生きた彼にとっては、一番目の「秘密を守ること」は時に自らの命と胸中の秘密を天秤にかけねばならぬ事もあったであろう。これは納得がいく。
さらに二番目の「他人から受けた危害を忘れること」は政治的戦いの日々と、二度のローマからの放逐・逃亡という経験を考えればいかに困難であったか容易に想像がつく。
ところが、三番目が「 暇な時間を利用すること」とは、異様に感じるかもしれない。
しかし、享楽的な生を謳歌したことでも知られるローマ人でもあり、さらに政争に明け暮れた人生を送っていれば、恐らく「暇」な時間などは普段、ほとんど存在しなかっただろう。
そんな彼にも、ふと、ぽっかり空白のような時間が訪れることがあったのだろう。そんな時、「はて、この時間をどう過ごせばいいのだろう」と悩んだのかもしれない。
転じて、現代。そうした時間は「スキマ時間」などと呼ばれ、有効活用してビジネスを成功させるためのノウハウ本が書店に列んでいたり、もしくはゲームなり携帯なりネットなり、時間つぶしのグッズには事欠かない。
で、ここからがお勧めである。
そうした、現代の「時間つぶしグッズ」を使わずに、キケローの目指した「暇な時間を利用すること」を考えてみてほしい。
恐らく、キケロー自身は哲学者にして文筆家でもあるので、思索や鉛槧の時を過ごしたのだろう。
何も彼の真似をする必要はないが、安易に身の回りのグッズやアクティビティーで時間を使うのではなく、自分なりの時間の過ごし方を考えることをお勧めしている次第だ。
え?金森がこの文章を書いているのはキケローを真似て「暇な時間を利用しているのか」というご質問だろうか。
いやいや、これは連休を早めに切り上げたにも関わらず、仕事に行き詰まり、現実逃避しているのだ。
お付合いさせてしまい、失礼しました。
※尚、上記にあるキケローの言葉の解釈はネット上で様々なされています。
また、マルクス・トゥッリウス・キケローに関しては”Wikipedia”に詳細があります。
(Wikipediaでの片仮名表記は”キケロ”になっています。音引きが正しい様に思いますが、違うでしょうか。)
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May 01, 2007
今日は個人的な体験を元に、軽めに「サービスレベル」について記したいと思います。
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某カード会社のチケットデスクにて「ディズニー・オン・アイス」のチケットを申し込んだ。
子供の夏休み最後のお楽しみにと思いたってのことだが、獲得は激戦と知人から聞いていた。
午前10時の受け付け開始を固定電話で117番の時報をオンフックで確認しながら、携帯電話2台をリダイヤル状態にして待機。
「ポーン」の10時時報がなる直前のタイミングでリダイヤル開始。ジャストのタイミングでつながる・・・ハズであったがもはや話し中。
根気よく携帯2台でリダイヤルを繰り返すこと10分。つながった!・・・が、「現在混み合っています。このままお待ちください」のメッセージ。
しかし、ここでうっかり切ったら次はない。辛抱強く待つこと、さらに10分。オペレータが出た。勝った・・・。
ウキウキしながら親子3枚分のチケットを申し込む。S席を確保できたが、具体的な座席位置はわからないという。
えー?このショーって、ほとんどがS席じゃん。が、ここでゴネてもしかたがない。
日にち、時間などを再確認される。間違いはない。
「で、チケットはいつ届くんですか?」「ご覧になるお日にちの少し前にお届けすることになります」うーん、そんなにかかるのか。しかも座席もそれまでわからないとは。
「じゃあ、代金はいつ決済されるの?」「来月のカード決済日になります」
・・・ん?品物が届くのはずっと先で、決済はすぐかい。
「何か申し込みが完了した確認書か何かは送ってもらえるんですか?」「そうしたご用意はございません。ただ今確認させていただきましたので大丈夫です」。
・・・あのね、何が「大丈夫」なのかわからないけど、どうやっても心配になるでしょ。
確認書を郵送するのが手間なら、E-mailでも何でもいいから、proofをくださいよ。ホントに。
確かに、このカードのデスクで申し込むと会員は5%割引になるのでウレシイが、この対応はどうにもウレシクナイ。
別の会社であるが、某社・年会費十数万円の黒いカードのサービスデスクは、ソルドアウトの人気バンドのチケットまで何とか手配してくれ、至れり尽くせりだそうだ。
普通のカードの、しかも割引までしてくれるデスクと比較するのは無意味かもしれないが、サービスで安かろう、悪かろうはどうだろうか。
「サービスレベルの下限」というものがあるだろう。いくらオペレーションを削減しても、「顧客に不安を与えないこと」は「サービスレベルの下限」として絶対条件ではないだろうか。
企業においては、サービサーと発注者の間では、アウトソースする業務のサービスレベルを具体的に定める、SLA(Service Level Agreement)の締結が一般化してきている。
ローコストオペレーションと、ハイコスト・ハイレベルサービスの二極化が進む中、個人向けのサービスでも今後はSLAが必要になってきているのだと思う。
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April 28, 2007
世間では「連休前半スタート」とか言われているが、全然スタートしてないんですね。これが。
が、また週末モードで少々「自分語り」と、皆様への「感謝」を綴ります。
今しばらくのお付き合いをお願いします。
さて、最近、講演・講義のテンションが上がりっぱなし。
一方通行が嫌でインタラクティブな時間にしようと心がけているが、受講者とのやりとりの技が上がったのかもしれない。
(受講経験者の方、どうでしたか?楽しく学んで頂けましたか?)
で、インタラクティブかつ、受講者を巻き込むためには自分のリミッターを外して、130パーセントぐらいのパワーを出す事になる。
それが、受講者10人のビジネススクールでも、100人の大学の講義でも、500人の講演会でも。(500人はさすがに個々の受講者をいじる事はできないですが)、スキマスイッチの「全力少年」ならぬ、「全力中年」。
・・・が、やはり寄る年波。
ハイテンションで飛ばしたアトは反動がくる。
ぐったり。
講義・講演は楽しいものの、収益貢献少々低いのでその後にコンサルティングのレポート書きとかしなくてはならないのだが、その余力がない。(クライアントの担当者様、ご覧になっていたらスミマセン。期限には必ず。)
だが、考える。
もっと円熟して学びの多い講演・講義をなさる諸先輩方は確かにいらっしゃる。
が、このテンション、この巻き込みで、受講者と講師共に新たな気付きを得られるのは、金森に適度に蓄積ができていつつ、まだまだ成長過程にある「今」だからこそできる芸風ではないかと。
「格差社会」などと言われているが、人間に極め公平に与えられているものは、「時間」である。1日24時間。1年365日。それをどう使うかは個人の判断だ。しかし、その貴重な「人生の時間を削って」金森との時間を選択して頂いている。よく考えれば、感動の極みだ。
そう、ぐったりしようが、この後どれくらい、このテンションが維持できるか分からない以上、常に130パーセントどころか、200パーセントぐらいで望みたい。
皆様、今後も「全力中年」金森にご期待ください。
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April 26, 2007
青学での講義も本格化し始め、また、企業研修も新年度、再び数社スタートする。
そうすると、「マーケティングとは?」というような基本の基、を何度も話すことになる。
このBlogでも何度も色々な表現で述べてきたが、一つには「マーケティングはサイエンスである」などと言う場合もある。
そして、「最も簡単に表現するなら、マーケティングは”売れ続けるしくみづくり”だと言えます」などと続け、
「では、”売れる”と”売れ続けるしくみ”の違いはわかりますか?」と受講者に質問する。
色々な答えが飛び出すが、講師としては、以下のようにまとめる。
「”売れる”というのは一時的な状態。また、”ラッキーで大きな契約が取れた!”などと言う場合もあるでしょう。しかし、それでは再現性がない。しくみ化されていれば、誰でも何度でも売れるという状況を再現できる。故に、KKDに頼らずに、マーケティング手法を学んで欲しいわけです」。
ところが、ある時「KKDってなんですか?」という質問が飛び出した。
うーん、意外と知らない人もいるんだなと思い、説明しようとすると、他の受講者が「”気合い”と”根性”と”度胸”だよ!」と発言した。
・・・え?違う。
”KKD”は誰がいつ言い出したか定かではないが、一般には「”勘”と”経験”と”度胸”」であるとされ、今日のビジネスの世界では、それらの不確実性が高い要素を排しましょうというという論調になっている。
「”気合い”と”根性”と”度胸”」はエモーショナルな要素ばかりで、さらに成果に対する不確実性が高まっている。もし、この解釈でビジネスを行っている人がいて、成果を上げているのだとすれば、相当にガッツのある人なのだろうと思う。
しかし、その「一般的でないKKD(気合いと根性と度胸)」の解釈から、「一般的なKKD(勘と経験と度胸)」を見直してみると、「実は意外と悪くないかも」とも思うようになった。
「勘と経験と度胸」を次のように解釈し直してみる。
・勘=inspiration=発想・着想
・経験=knowledge=知識
・度胸=action=行動
つまり、「何らかの気付きを得て、自らの知識を参照し、速やかに具体的な行動を起こす」ということであれば結構なことではないだろうか。
だが、そうはいってもそれを全面的に肯定することはできない。なぜなら、真ん中の「経験」というヤツがクセモノだ。
ナレッジマネジメントの世界では、知識を、言語や数値によって客観的に表出できる「形式知」と、勘や直観、個人的経験など、表出化されていない「暗黙知」に分けて考える。
当然「暗黙知」は表出化されていないため、人に伝えることはできないし、熟練度低くければ再現性も低くなる。
経験=knowledgeが暗黙知の状態のままでもうまくコトを成し遂げる人も少なくない。
「天性の営業マン」と言われるような人は、本人も気付かぬうちに、成績を高めるためのプロセスを、必要十分なレベルで顧客に提供しているのだ。
しかし、やはり組織全体として成果を向上させていくのであれば、優秀な暗黙知を抱え、KKDで動いている個人から、そのナレッジを形式知化して共有していくことが必要だ。それこそがナレッジマネジメントの原点でもある。
また、「KKDが大事」と信じて疑わない人も、前述のように、KKDをもう少し異なる解釈で考え直してみるといいだろう。
まずは自らは物事に対して常に新たな発想をしたり、気付きを得るようにしているのか。また、暗黙的にではなく、明確に自らのKSF(Key Success Factor =成功要因)を洗い出し、最適なタイミングで適切な行動をしているかである。
KKD=”気合い”と”根性”と”度胸”という少々変わった解釈に触れたおかげで、”勘”と”経験”と”度胸”に関して再考する機会を得た。
漫然と目の前の仕事をこなすだけでなく、時には「自らにはどのようなスキルセットがあり、そのスキルはどのような要素で構成され、再現するためのポイントは何なのか」という自らの棚おろししてみるといいかもしれない。
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April 25, 2007
ご好評頂いている「ちょっと変だなこの販促」シリーズです。
(今までのバックナンバーはこちらから)
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今月10日に新橋駅に設置された「Suicaポスター」の紹介を記した。どうやら「SuiPo」という愛称を付けたらしい。
(バックナンバーはこちら)
その後、何度かポスターが貼り替えられ、恐らくSuicaを端末にかざせばポスターに連動した情報が携帯に取得できるはずだ。
今週は某第三のビールのポスターだから、キャンペーン応募情報だろう。
が、その後一度も金森は「かざして」いないのである。
ナゼか。
単純な話、今週は人数が減ったが、キャンペーンスタッフが懸命にSuicaポスターの内容と使用方法を記したリーフレット配りをしており、それが邪魔でポスターとSuica端末に近づけないのである。
いや、「ちょっとスミマセン」と言って、スタッフにどいてもらえば「かざせる」のだが、わざわざそんな面倒なことはしたくない。
何か、変じゃないか?
確かに、新規ユーザー獲得のため、リーフレット配りは大切だろう。
「SuiPo」というロゴの入った揃いの上着を着ての活動は目立つし、アイキャッチとしては機能している。
しかし、せっかく利用登録をしたユーザーの利用を阻害するような動き方はいかがなものだろうか。
いや、それ以前にリーフレットを受け取らせることに懸命になっていて、それ以降の人の流れを考えていないようだ。
消費者の態度変容モデルといえば「AIDMAの法則」が有名であるが、この事象は「AMTULの法則」で考えてみよう。
結論を先に言えば、AMTULが途中で分断されているのだ。
Suicaポスターを人が認知してから継続的に使用するようになるまでをAMTULに当てはめてみる。
A(Attention=注意喚起)は、スタッフが呼びかけることによって達成できている。
そして、リーフレットを持帰らせることで記憶に残す(M=Memory)の段階も実現できている。
問題はこの後だ。AMTULはAとMに続いてT(Trial=使用促進)、U(Usage=使用)、L(Loyal=継続使用・愛用)がある。そこが分断されている。
まずはリーフレットを受け取った人に、「一度お試しになりませんか?ご説明します」と声をかけ、すぐに端末のところに連れて行ってしまえばいいのだ。
「モバイルSuica機能使用キャンペーン」での反則ともいえる強引さはどこに影を潜めてしまったのか。(その様子はこちら)。
強引すぎるのはよくないが、これはいささか消極的すぎ。リーフレットを手にした人の、何パーセントが能動的に戻ってきて一人で試すと思っているのだろうか。
スタッフに促されて、誰かが端末にかざしていたり、登録などの行為を行っていれば、後に続く者も出てくるだろうに。
さらに、金森のように一度、利用登録をした人のU(Usage=使用)を妨げるスタッフの動き。これではせっかく登録させてもその後が続かない。
結果としてL(Loyal=継続使用・愛用)まで辿り着かない。
あれ?またこのサービスも企画倒れのものとして終わってしまうのだろうか。
特にこの手のサービスは立ち上がり時点の短期間で、普及・定着するための必要ボーダーラインである”クリティカルマス”を超えなければ、誰からも見向かれずに陳腐化していくという運命を辿る。
そのためには、(推奨はしないが)上記のモバイルSuicaキャンペーンのような多少強引とも言える手法が必要になるの。
また、再利用を促す呼びかけや、施策も全く行われていない。
金森自身は興味を持ち、登録した時点ではいけると思ったのだが。普及・定着させるための全体設計がどうも弱い気がしてきた。
Suicaポスターの運命や如何に。
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April 24, 2007
過日、現場速報をお伝えした「日経ナレッジマネジメント・フォーラム2007」で感じたことを一つ。
会場や講演の状況を記録するためであろう。主催者がアサインしたと思われるカメラマンが小さな脚立を片手に会場を所狭しと動き回っていた。
金森も随分昔に写真を趣味としていたが、カメラマンはフットワークが命である。感心なプロ意識と言えよう。
しかし、実際に講演を撮影している姿を見たとき、どうもこれはイタダケナイな。と感じてしまった。
何がいけないのかというと、講演者を撮影するとき、ショット数が異常に多いのだ。
プレゼンをスクリーンに投影するため薄暗くした会場の中で、フラッシュが光る光る。まるで、記者会見の会場のようだ。カメラマンは一人なのに。
この手のビジネスセミナーの講師は多くは普通の会社員であり、プロの講演者ではない。
例えば、金森自身であれば、どんなに近くでバシャバシャとフラッシュを光らせられようが、一向に気にすることはないだろう。
しかし、普通の神経の持ち主で、ごく普通の企業の技術者やナレッジマネジメント担当者であれば、当然ビビるだろう。
講演の初っぱなに、フラッシュの嵐の洗礼である。ただでさえ緊張しているに違いない。調子も狂うだろう。気の毒に。
彼はモデルを撮るカメラマンではない。その場の主役はあくまでプレゼンター。それを妨げてどうする。
自らの意識は、「いい絵を撮ること」に向かってしまっているのだろう。だがそれは間違い。前提条件として、最重要なのは講師が十分集中して、オーディエンスが満足できるような講演ができる環境を作ることである。
しかし、最近のカメラマンには意識の問題はともかくとして、ショット数が多いという傾向が強い。デジタル化によって、フィルム代がかからなくなった。そして「いい絵」だけを選んでプリントすれば印画紙代も安く済む。
昔ならフィルム交換などの合間などに、「撮りすぎかな」と気が付くことを、メモリの続く限り撮り続けられるようになったため、我に返る瞬間もなくなっているのではないだろうか。
あるカタログを制作したとき、ユーザーのインタビューも掲載することとなり、そのユーザーの話す姿を撮影したときも、担当したカメラマンはユーザーが話しに集中できないぐらいにバシャバシャと撮り、金森にたしなめられた。
自分はどのようなシチュエーションで、何を目的にその仕事をしているのか。
上記のカメラマンの姿を他山の石として、自らも常に胸に留めておきたいと感じた。
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