July 09, 2007
最近、当Blogの記事が少々政治色を帯びているとの指摘をされた。
また、フリーで仕事をしていく上ではあまり政治的ポリシーを表面に出さない方がいいというアドバイスをくれた人もいる。
だがしかし、昨今の世情を見るにつけ、基本的にはノンポリの金森でも声を上げたくなるのだ。
「いつまでも続く不幸と云うものはない。じっと我慢するか勇気を出して追い払うかのいずれかである。」
ロマン・ロランの言葉である。
しかし、我慢も限界なのは世の多くの人も一緒であろう。また、我慢をしていればこの世の中が良くなるとも思えない。
ただ、我慢しているのはラタネの言う「社会的手抜き(social loafing)」とも同じである。
「社会的手抜き(social loafing)」とは、「集団の人数が増えれば増えるほど一人一人は本気を出さなくなっていく」という現象である。
わかりやすくいえば、例えば学校で体育マットを何人かで運んでいる時、一人二人、力をこっそり抜いている人間がいるという状態。
または、運動会の綱引きの時、全員が渾身の力を振り絞っているかというと、実はさほど本気を出さない人間も混じっているということ。
はい、心当たりのある人、アブナイです。
で、何を危惧しているのかといえば、29日の投票率である。
どうもきな臭く、アブナイ感じの報道を見た。
「だから自公悪政はまだ続くという悲観論(日刊ゲンダイ)」
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__gendai_02032586.htm
要点は以下の通り。
「必要以上に自民大敗予測が出されているのは、巧みな与党のメディアへのリークによる世論操作ではないか」
「29日の投票日は全国的に夏休みで、夏祭りと重なる地域も多い。家族サービス優先で、選挙は二の次三の次になる恐れがある」
つまり、いわゆる「無党派層」の中で、先に記した「社会的手抜き(social loafing)」が起きるのではないかと金森は読み取った。
「どうせ自民大敗だろう。自分一人ぐらい投票に行かなくても、与野党逆転になるに決まっている」という動きを自民が狙っているのではないかということだ。
さて、今日はきちんと印象に残るように、メッセージは短くまとめます。(いつも記事が長すぎるという意見もあるし)。
「手抜きせずに、29日はきちんと投票しに行きましょう!!」
(レジャーと重なったら、きちんと事前に不在者投票を!)
・・・ちなみにもうちょっと読みたい方は、「社会的手抜き」と近い関係にある、ラタネの「傍観者効果」に関して記したこちらのバックナンバーをどうぞ。
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July 02, 2007
過日ご報告したとおり、宣伝会議6月1日号に金森の原稿が掲載された。
同社との約束の1ヶ月が経過したので、当Blogにて寄稿原稿をアップする。
その号の特集の一つは「プチセレブな人も大満足"細心"配慮型データベースマーケティングの活用法」であり、データベースマーケティングの基本の解説を金森が依頼されたというわけだ。
宣伝会議6月1日号の内容はこちら。
特集の概要はこちら と こちら。
では、以下転載。
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「データベースマーケティングの実施のための最新基礎知識」
■データベースマーケティングの定義とその歴史
「データベースマーケティングとは何か?」一言で答えるならば、次の通りだ。「データベースに顧客の各種属性や購買履歴、行動記録などを格納し、顧客像を分析。そのデータから細分化した顧客セグメント層、又は個々の顧客に最適なアプローチを行う手法」。つまり、顧客を一律に扱わず、「優良顧客には良いサービスを。そうでない顧客にはそれなりに」という、顧客価値に応じたサービスやアプローチによって効果・効率の向上を図ることがこの手法の眼目である。
その歴史は古く、1960年代に米国の通信販売会社が顧客の購買履歴に着目し、購入日・購入頻度・購入額で顧客をランク分けする「RFM分析」が開発され、そのランクに合わせたサービスの提供やアプローチの展開が行われている。
■データベースマーケティングが機能する前提
通信販売会社のように多様な商品を持ち、顧客が様々な属性を持ち、多様な購買行動をとる業種などではうまく活用できるものの、業種・業態によってはシステム構築をしたが成果が出なかったというケースも散見される。なぜか。それは顧客セグメントや、顧客に属性がうまく付与できないことに起因する。つまり、データベースマーケティングが機能する前提条件として、「顧客を区分(セグメント)する意義」がなければならない。
例えば、ごく特定の上顧客と、それ以外は余り差異のない一般顧客にしか意味のある区分ができなかったとする。その場合、特定の上顧客などは個別に担当者が対応すればよく、一般客は一律に扱わなければ効率の低下につながる。百貨店を例に取れば「外商」と一般の売り場の関係である。この場合、一般顧客のデータは単純なセールDMの発送ぐらいにしか使えないことになる。とかく日本においては高度成長期以来「一億層中流意識」が長く支配しており、一部の富裕層を除いては購買行動に大きな差異がないケースが多かった。データベースを活用し、個々の顧客や細分化されたセグメントに対する個別アプローチを展開するより、一律のアプローチの方が効率的なため、マスマーケティングが長く支配的であった所以でもある。
■変わる生活者の意識と新たなデータベースマーケティングの活用環境
統計的に見れば、決して日本は本格的な階層社会に大きく変容したわけではない。しかし、好景気を背景に、従来の富裕層ほどの大きな資産があるわけではないが、比較的可処分所得が高く消費意欲が旺盛な「プチセレブ」とも呼ばれる「新富裕層」が出現しているのは事実だ。一方、所得格差指標の一つである「ジニ係数」で見れば、日本はまだまだ格差が大きい社会であるとは言えないのだが、日々格差拡大論が交わされている中では、一般の生活者の消費はさらに選択的になっていくはずだ。このような環境になってくると、決して一部の富裕層以外は全て「一般客」として扱うわけにいかなくなる。さらに、旧来の富裕層と比べれば、新富裕層は絶対数が大きくなるだろう。そうした場合、担当者が個別に張り付くわけにもいかない。データベースの出番だ。ターゲット顧客層の抽出と、購買行動や嗜好に合わせたアプローチを行うことは本来データベースマーケティングの要諦である。
■新たなターゲット顧客層発見の方法とは
前述のようなターゲット顧客層を抽出し、最適なアプローチを展開するにも、まずその特定ができなければ始まらない。様々な分析方法があろうが、基本に立ち返り「RFM分析」でも十分だ。行数の関係で詳細な分析補方は割愛するが、基本的には個々の顧客の購買状況を把握すること。「どれぐらい直近に、どの程度の頻度で、累積でどのぐらい、購入があるか」という状況を明らかにする。これによって、「取引が最近も継続しており、一定以上の頻度と購入実績(累積額)がある」という条件をかければ「優良顧客」を抽出することができる。
さらに、サービス業ではなく、物品販売であれば、どのような品物を購入しているかということと、自家使用なのか、ギフトなのかという使用用途がわかればよい。何かの商品購入のお勧めをする場合、どのような好みを持っているかといった、いわゆるサイコグラフィックな項目を属性として把握しようとすることもある。しかし、人の好みなどは移ろいやすく、せっかくアンケートなどで聞き出したとしても、実際に使い物にならないケースが多い。それであれば、具体的にどのような品物を購入していたかがわかれば、類似した商品のお勧めができる。また、amazon.comのように、購買履歴をパターン化して、似通ったパターンを判別した場合、次に買いそうな商品をお勧めすることも可能だ。(協調フィルタリングという)。ポイントは、過度な属性項目の把握や、取引の中で自動的に蓄積できるデータ(トランザクションデータ)以外の、アンケートなどのようなアドホックに取得しなければならないデータに依存することを避けることである。手間・コストがかかる割には効果がない。過去のデータベースマーケティングの失敗原因は多くそこに存在する。
■ターゲット層を満足させ、購買のモチベーションを上げるためのポイントとは
データベースを用いる利点の第一は、「顧客を個別識別できること」である。例えば、ダイレクトメール一つにしても、挨拶文中が自分の名前で語りかけられ、以前購入した商品についてお礼の言葉などが記されていれば嬉しいものだろう。今日ではWebサイトのマイページなどで珍しくもなくなったが、「パーソナライズ」と呼ばれるこの手法はダイレクトマーケティングの基本である。さらに重要なのは、前述の「新富裕層」にフォーカスして考えた場合、ほんの一握りの「富裕層」であれば、担当者が名前はもちろん、購入履歴や嗜好まで頭に入れて対応することができるだろう。しかし、それよりも絶対数が多いはずの「新富裕層」相手では、属人的な対応は困難だ。また、前項のように何かをお勧めする場合も、その履歴を活用すれば、顧客にとって「自分を理解し、利便性を提供してくれている」という満足感にもつながる。そうしたアプローチを重ねることで、顧客の満足感を高めていくことが、顧客との関係を永続化させ、購入モチベーションを高めていくポイントになるのである。さらに、様々なお勧めや御案内を行った結果、顧客がそれを受け入れたか否かの結果を蓄積していけば、企業が提供するサービスと、顧客が求めるもののズレを修正し、精度を高めていくこともできる。
経済環境の変化から、生活者の意識が変化している今日、データベースマーケティングは「古くて新しい手法」として活躍することは間違いないだろう。
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June 25, 2007
日経BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ)が更新されました。
「カレイドスコープ」以前に連載していた「CRM講座」と「IT & マーケティングEYE」を2001年10月から執筆し始めて以来、先月は初めて原稿を飛ばしてしまいましたので、2ヶ月ぶりです。スミマセン。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回は当Blogで何度も取り上げた「高島屋」の集大成です。
第1回ではちょっと、感情的な記述になりすぎました。(反省)。
第2回で別の切り口で再考し、
先日、第3回として実際の体験を記し、
今回、全てを総括したつもりです。
では、ご覧ください。
----------------<以下バックナンバー用転載>---------------------
景気が回復傾向にあって、今なお売上低迷が続く百貨店業界では生き残りをかけ各社各様の奮励を見せている。大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合の大きな編成がある一方、マーケティング面で新機軸を打ち出しているのが松屋だ。従来の外商顧客よりも敷居を下げ、専用サロンを提供するなど、台頭してきたいわゆる「ニューリッチ」もしくは「プチセレブ」層の取り込みに重点を置いた取り組みは興味深い。
■「お声がけを控えるおもてなし」
そんな中で、高島屋が何とも斬新なアプローチを試みている。静かにショッピングを楽しみたいという客に「声かけを控える」という、新しいサービスを一部店舗で始めたのだ。
冒頭の経営統合は大々的な外科手術。外商客や新たな優良顧客の囲い込みは、重点的な局所治療であるといえよう。優良顧客がもたらす収益は大きいが、百貨店が自社カード会員として囲い込めているのは、低利用者まで含めても3割程度と聞く。その他多くは、顔は見えども名前すら分からない一般客だ。その層への接客という基本部分を見直すことで「体質改善」しようという狙いだろうか。
現在このサービスを導入している東京・立川店と岐阜店のホームページには「お声がけを控えるおもてなしを、はじめました」と書かれている。来店客がサービスカウンターに赴いて「S.E.E.(シー)カード」を受け取り、首から提げれば店員からの接触を回避できるというものだ。「S.E.E.」のSは「Silent(静かに)」、2つのEは「Easy(ゆったり)」と「Each(それぞれ)」の頭文字だという。
果たして声をかけないことが「おもてなし」なのか?百聞は一見に過ぎず。立川店に行き、カードを受け取って体験してみた。・・・正直、「違和感」があった。そもそも「声をかけられたくないことを自己申告して、さらに首からカードをぶら提げ明示する」という方法論に対する違和感がある。さらに、「いらっしゃいませ」とあいさつをしたあと、首から提げたカードに気付くと、店員がどこか目をそらすようにして、スッと距離を取っていく不自然さだ。しかし、一方で「そっとしておいてほしい」という気持ちも確かにある。普段足を運ばない宝飾売り場にも行ってみたが、臆することなく見て回れるのはありがたかった。
■顧客と店員は「寒い夜の2匹のヤマアラシ」?
「ヤマアラシのジレンマ」という言葉がある。「ある寒い夜、2匹のヤマアラシがいた。2匹は寒いので、身を寄せ合いたい。しかし、近づきすぎるとお互いを針で傷つけてしまう。だからといって、離れては寒さに耐えられない。やがて2匹は試行錯誤を繰り返し、傷つけ合わず、寒くもない距離感を見いだした」。というものだ。調べれば、おおもとはドイツの哲学者、ショーペン・ハウアーが作った例え話であり、「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマを表している。さらに、あとから「曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な解釈が付け加えられたようだ。
上記を接客サービスの現場における店員と顧客の関係に置き換えてみたい。インターネットが普及し、モノも情報もあふれる時代、顧客は“目利き”になり、余りアドバイスを必要とするシーンは少なくなっており、基本的には余り触れてほしくない。しかし、顧客の購入意欲が高まっていれば、全く放置されては面白くないし、かえって多少ハードセル気味に背中を押してほしい時もある。かように昨今の顧客は気難しい。しかし、それに対応しようにも店員の接客スキルは低下している。最近再び応対力強化のために正社員を増やす動きがあるものの、かつてのベテラン社員は少なくなっており、属人的な応対能力の向上は、すぐには実現しない。どこか「寒い夜の2匹のヤマアラシ」の姿のようではないだろうか。
■接客現場の“ほどよい距離感”を探れ!
別の百貨店に勤務する知人に聞いてみたところ、百貨店の売り場での基本は「動的待機」であり、店員は常にお客様の視界に入るように位置し、何らかの作業をしながら、声をかけられるのを待つ。もしくはお客様が声をかけて欲しそうなそぶりをするのを待つという。そばでじっと立って待たれると、やはり店員の視線がやはり気になるからだ。
本来、「動的待機」という基本が徹底できていれば、こうした「サービス」は必要ないはずだ。しかし、それ以上に一部の顧客が接触を極度に嫌うようになっており、店員の接客力を磨くだけでは限界があると高島屋は判断したのかもしれない。だとすれば限定的に2店舗で試行し、顧客の反応を蓄積するという今回のアプローチにも意味があろう。
「声がけを控える」といえば、1990年代末に自動車販売の業界における「ノンプレッシャー対応」というコンセプトによる試行を思い出す。自動車ディーラーのハードセルが店頭から客足を遠のかせているとの反省からはじまったものであり、各自動車メーカーがいくつかの系列店で実験したが、最終的に根付いたのはトヨタ自動車のネッツ系列ぐらいだった。何が問題だったのか。実際には「全く声をかけてこない」ことに対して、来店客から「やる気がないみたい」「何だか不親切」という評価が相次いでしまったのである。一方、成功したネッツ店は少々異なる展開をした。「Ask me style」と称する接客ルールを決め、店員たちは来店客に時々、「何かございましたら、お声をおかけください」とに声かをける以外、プッシュを控えた。「全く声をかけない」と「Ask me」。この差は実は大きかった。「客を放置しない、また、踏み込みすぎない軽い声かけ」という微妙なバランスが成功要因であったようだ。
カーディーラーと百貨店では、販売体制も顧客のスタンスも違うため、処方せんは自ずと異なるはずだが、店員と顧客が適度な距離感を見いだせない、という問題意識は共通している。最後は「ヤマアラシのジレンマ」を脱し、「曲折を経て、両者にとってちょうど良い距離を会得する」ことができるのか。まずはその成り行きを見守りたい。店員の気配りと適切なアドバイスに基づいて最良の選択ができる、買い物の楽しみ・・・百貨店の価値がそこにあるのは間違いないのだから。
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June 21, 2007
夢を見た。(朝日新聞・天声人語 風)。しとしとと雨が降り注ぎ、うつむいて歩く人の群れと街角に淀む障気。古い映画「ブレードランナー」の映像のよう。疲れもピークに達している週後半の目覚めとしては最悪である。
原因は容易に想像できる。就寝前に読み返した自らの「ネタ帳」だ。
本来は「タウンウォッチ」を中心とした、ちょっとした出来事を記録するためのメモだった。しかし、後から後から、まるでジェットコースター・ムービーのように様々な事件、事故、諸問題が新聞紙面を賑わす日々。それらを自らの中で風化させまいと、最近は原稿ネタを記入するネタ帳を備忘録に兼用にしているのだ。
以前は読み返すと何だかおかしくも、気付きのある街の風景が切り取られていたのに、ずいぶんと殺伐とした、また、馬鹿みたいな出来事の記述ばかりになってきた。
同時に、以前記していた、「ちょっとした出来事」に思い馳せている自分の「日常」というものの土台たるものが、いかにグズグズだったのか、今更ながら思い知る。
政治・社会・経済とも混迷の極み。この世の中の一個人など芥子粒の如し。頼るべき新たな技術さえまだ、便益よりも不安を増大させている。
「政治(Political)」「経済(Economical)」「社会(Social)」「技術(Technical)」・・・これは「外部環境(マクロ)分析」の分析項目だ。詳細な分析が必要ないぐらい全部が最悪。
さて、こうなったら、マーケティングのセオリー通り、物事を考えてみよう。環境分析でファクトを整理する時は、次に3C(マクロ環境)分析(Customer:市場 Competitor:競合 Company:自社)である。はじめに「市場のニーズ」に注目する。ここでの市場は、前述のような最悪な世の中に嘆く無辜の民であるとしよう。さすれば、そのニーズは世の平安である。
では、次に「競合の動き」に注目する。競合とは、その平安を乱すものであるが、乱れを糾すことなく、己の権利利権確保に汲々としている輩がそれに当たろう。誰だとはいわないが。
次に3C分析では「市場のニーズ」と「競合の動き」との「ニーズギャップ」に注目する。このニーズギャップを捕まえれば、「自社の打ち手」が見えてくる。「自社」とはこの場合、我々市民だ。「ニーズギャップ」ももはや語るまでもない。さて、では「打ち手」はいかがしようか。無辜の民が一矢報いる打ち手はいつも一つしかない。
さて、PEST、3Cとファクトを洗い出したら、次に「SWOT分析」で意味合いを抽出し、具体的な打ち手につなげる。S・W・O・T(内部環境=Strong:強み・Weakness:弱み、外部環境=Opportunity:機会・Threat:脅威)の要素を洗い出し、それをマトリックス化して掛け合わせる。
全体は省略するが、注目すべきは「外部環境・機会×内部環境・弱み」である。内部環境は何無辜の民には何の力もない“弱み”である。しかし、この夏、一度だけの“機会”を生かせるチャンスがある。「弱み×機会」のマトリックスの意味合いは「段階的施策」といわれる。つまり、「貴重な“機会”を活かして“弱み”を段階的に克服していく」のである。
標題の「Gloomy Thursday」の元ネタは「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」という曲。1933年にハンガリーのブダベストで作曲され世界に大ヒットを飛ばしたものの、なぜかこの曲を聴いた人々が自殺するといわれ、各国で発禁処分になり、「自殺の聖歌」などとも呼ばれるようになった曲である。折しも当時は世界各国も軍事的緊張下にあり人々の不安が極度に高まっていた。ナチスが台頭し、1932年にはドイツ第一党に。翌33年にはヒトラー首相が誕生した。現内閣には、いい意味でも悪い意味でもそんな迫力はないが、悪い歴史は繰り返したくない。
無辜の民よ。この夏、貴重な「機会」を活かして、「弱み」を克服しようではないか。例え、その「機会」が数日先に延ばされたとしても、思惑に乗り、問題を風化させられることなく、しかるべき行動を取ろうではないか。
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June 20, 2007
今日は日常の風景から感じるある不安について記したい。
アポイントが特段なく、事務所で集中して原稿書きをする日は少し遅めに家を出る。
翌日に執筆の予定が入っている夜は、不思議と就寝中にも思考回路が動いているのか、目覚めた時に文脈がある程度出来上がっていることも多い。通勤中に忘れてしまってはもったいないので、ざっと文章をまとめてから家を出る。
すると、ちょうど駅前ではパチンコ・パチスロ店の開店待ち、または台の抽選券を引いている人の行列に出くわす。最寄り駅は東京で一番、パチンコ・パチスロ店の多い街なのだ。
ぞろぞろと並んでいる人々を観察すると、随分と年若い者、カップル。または、普通なら働き盛りともいえる年齢の人ばかりだ。平日だが、今日が休みなのか、それともこれが彼ら、彼女らの日常なのか。どうも後者の気がする。その数たるや、ある意味壮観だ。
さて、事務所のある新橋烏森口に到着する。最近こちらは随分と景色が変わった。消費者金融会社、特に中小事業者のプラカート(立て看板)を持った人々の姿が激減した。以前はプラカードが駅前に林立していたのに、最近では一人二人しか見かけない。明らかに貸金業法改正の影響だ。うっかりした掲出物、またはその記載内容があれば、その時点で事業者は金融庁から指導を喰らう。また、二年後の改正業法の厳しさから早々に撤退した業者も多いと聞く。いわゆる「グレーゾーン金利」にあたる利率分の返還訴訟も相次いでいるようだ。どおりでプラカードがなくなり駅前がスッキリしてしまうわけだ。
しかし、「駅前がスッキリした」と喜んでばかりはいられない。
業法改正を受け、消費者金融会社各社は上限利息を下げ始めた。その反面、一様に貸し出しに対する信用供与(与信)条件を厳しくしているため、申し込みに対して実際に契約が成立する割合はて30%~50%未満であると、先日日経新聞が報じていた。
また、改正業法により、今後、「年収の1/3以上の貸し出しを禁ずる」という、「総量規制」がスタートする。どの程度の厳格に運用せよという金融庁指導が示されるかは不明であるが、開始されれば、さらに貸し出しは制限されるだろう。
金融庁は、「上限利息を下げ、借入の総量を制限すれば多重債務者は減少する」と見ているようだ。しかし、本当にそうだろうか。冒頭の地元駅前に並ぶ、大勢のパチンコマニア。その大半が借金で遊んでいるとも、また、多重債務に陥っているとも予想するつもりは毛頭ない。しかし、借金や多重債務の問題は常にギャンブルと背中合わせだ。
以前、関連した記事「昼下がりのパチンコCFで感じる違和感」で述べたが、「お金を貸してください」ということは、マーケティングで考えれば「ウォンツ」である。その背後には必ず「お金を遣いたい」という「ニーズ」がある。そのニーズの潜在的ニーズが健全なものである人も少なくないだろうが、「ギャンブルに遣う」というイタダケナイ潜在ニーズも多々あるだろう。
パチンコ業界もなかなかに大変だという記事も以前スポーツ新聞で読んだ。射倖性が高すぎる機種はさすがに規制がかかっているようだ。その分、人気を保つため、新台への入れ替えを頻繁にするため、その負担は少なくないと。しかし、その需要が減っているわけでもなく、活況だということだろう。また、前述の過去の記事で述べたとおり、テレビではパチンコのCMが垂れ流されている。
遣うニーズは減っていない。しかし借りられる条件は厳しくなっている。借りられなくなった人々は、きっぱりと借金と、その遣う行為から手を切れるのだろうか。
新橋駅前から消えたプラカードの業者は本当に全部が廃業したのか。もしかして、地下に潜ってはいまいか。
業法改正の発表があった際に、多重債務者をはじめとして、改正によって借財ができずに苦しむ人には、政府が「セーフティーネット」を用意するとも発表されていた。しかし、一向にその内容が明らかにされない。また、その「セーフティーネット」の原資が税金を使うものであったとしたら、国民の反発は必至だろう。少なくとも夏の参院選前に発表はあるまい。しかし、改正業法完全施行までの時間は刻々と近づいてくる。爆弾の導火線がどんどん短くなっているのだ。
ギャンブルに依存したまま、どこからも借財ができない多数の人々が発生するのではないだろうか。その時、この国の治安はどうなってしまうのか。
夜、路地などでスクーターの引ったくりが女性のバッグを奪い走り去る場面に遭遇したことがある。時々発表される、都内犯罪発生マップでは、いつもこの地域は赤い色が塗られている。そして、駅に向かう道にはギャンブルに興じる人々が満ちあふれている。こんな環境で、日々不安を感じないわけがない。
金融庁が掲げる「健全化」。無辜の生活者が法律の施行までの経過、またその後の社会環境に不安を感じることは「健全」なのだろうか。指導の名の下に消費者金融業者や信販業者を締め付けるだけでなく、社会全般に及ぼす影響を考慮し、早期に全体像を示してもらいたいと考えるのは不自然なことだろうか。
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June 14, 2007
先日、掲載した「高度化する顧客の要求とFAQ」というインタビュー記事に少々追加をしたい。ボリューム的な問題で解答しきれなかった部分があるので、補足のつもりだ。
言いたいことは既に一部、先々月末に記した「花盛りのカラーバリエーション戦略が発するシグナル」の中でも述べた。昨今、あらゆるモノが「コモデティー化」している。高度な技術の結晶であるノートパソコンですら例外ではなく、差別化がどんどん困難になり、差別化要因は小手先ともいえる「カラーバリエーション」などに依存することになっている。しかし、一方でパソコンはユーザー層が広がり、一家に一台以上の普及の勢いを見せている。ユーザーの裾野は広がる。しかし、機能は高度化してくる。となると、それをあらゆる人が「使いこなす」ためには「サポート品質の向上」が重要になってくる。
日経パソコンが毎年発表する「サポートランキング」を各社がかなり気にするのは、そのランキングが生活者の購買決定要素として大きな位置を占めるようになっている現われでもある。先の原稿の中でも、金森は「カラーバリエーション」などは、フィリップ・コトラーが提唱した「製品特性5層モデル」の1層目である「製品の中核的ベネフィット」から数えて一番外側の第5層目「潜在:期待はされていないが、実現できれば価値を増大できる」というレベルのモノであると述べた。一方、製品の高度化とユーザーの裾野の広がりから、「サポート」は2層目の「基本:中核を実現するために必要不可欠な要素」に位置すると述べた。つまり、先日のインタビューで述べたように、企業にとってはいかにに「クレーム」に迅速かつ適切に対応するかという観点からFAQと、それを活用した応対が重要であるかということに加え、企業がユーザーに提供する商品は既に「モノとサポート」がセットとなって初めて機能するようになっているのだ。
BtoC製品(一般生活者向け)でも十分重要であるが、BtoB製品(企業向け製品)であれば、さらにその重要度は増す。企業がその活動を支え、生産やサービス提供のために使用している機器にトラブルがあれば、最悪の場合その活動は一時的に停止する。その金銭的、顧客への信用的ダメージは計り知れない。金融機関をはじめとした企業のシステム障害がいかに大きな社会問題に発展したかは誰しも知るところだろう。
そこまで大ごとでなかったとしても、例えば自部門のOA機器が一斉にダウンしたとしたら・・・。その日は仕事にならない。そうならないためにも、トラブルの際にはメーカーやサービス会社の窓口で、適切な一次対応がなされ、解決しないのであれば、迅速に解決策を講じてもらうことが重要になってくる。その窓口での応対レベルを高め、また、その高めるためのツールとしてFAQに期待がかかってくるのである。
以上、先日の記事の補足であるが、別の側面も紹介したく、本日アップした次第である。
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June 13, 2007
最近、流通業における「顧客サービス」がやけに気になり、関連した記事を何度か書いている。
流通業において「顧客サービスの鏡」でであるべき百貨店が、何やらセルフ販売傾向を見せているように思え、その事象を二度にわたって記した。
読み返してみると、何やら一度目は少々感情的な記述になってしまっているが、それだけショックだったのだ。
マーケティングの要諦でもあるCS(Customer Satisfaction=顧客満足)。その事例には、例えば「絶対にNOと言わない”ノードストローム・ウェー”」や、その実践例として「ノードストロームの奇跡」と称される、「間に合わなかった商品を販売員が顧客の移動先のホテルまで飛行機で届けた」というような逸話が残されている。にもかかわらず、業績の不振からなのか、変わりつつある顧客の要望によるものなのか、どんどん有り様を変えている。
一方、「セルフ販売」という業態においても、その顧客対応はいかがなものか?という事象を目にすることが多い。金森の持論としては、セルフ販売の代表格である「コンビニエンスストア」においても、やはり「顧客への気遣い」は重要で、それこそが厳しい同業界において、個店が生き残る要であると考えている。(「生き残れるのか?コンビニらしいコンビニ」参照)
そもそも、この「セルフ販売」という業態を表す言葉がクセモノなのではないか。
例えば、薬の販売では、従来のカウンターを挟んで顧客が薬剤師に相談し、薬剤師がその症状に合った薬を提示するという「OTC(Over the Counter)」と呼ばれる対面販売が当たり前であった。しかし、一連の規制緩和の中で、来店客が店内に陳列された薬を自ら選んでレジに持っていくという、「セルフ」の販売スタイルが認められるようになった。もちろん、顧客の相談に乗れるよう、薬剤師が常時店舗に1名以上在籍することが義務づけされているが、基本は「セルフ」であり、顧客が自らレジまで商品を持っていくケースの方が圧倒的に多い。そして、ドラッグストアの店員は、陳列棚に欠品を出さないようにする「品出し」と、レジでの「会計」がほとんどになった。
顧客との対話がなかったとしても、先の百貨店の第二回記事(「ヤマアラシのジレンマ」)で紹介した、「動的待機」(顧客のプレッシャーにならないよう、何らかの業務をしながら顧客からの問い合せを待つ)とまでいかずとも、常に店内の客を視界に入れ、気にしておくぐらいのことは必要だろう。それを「セルフ」という言葉を勘違いしているのか、「レジの前に並んだ状態」になって初めて「客」として認識し、それ以外の店内の客は客とも思っていないかのような態度が目に付く。
近所の大きなドラッグストア。狭い通路で商品を抱え、客を押しのけるようにして追い抜いていく店員。見れば随分といい歳。ものの分別はあろうはずだ。しかも脇を通り過ぎる際に「失礼します」の一言すらない。馬鹿にしているのか?
問題はドラッグストアだけではない。よく行く家電量販店。激戦のパソコン関連売り場では比較的店員をつかまえて話をすることができるが、いわゆる白物家電の売り場では、商品回転率が低いからか、店員の配置が少ない。何か聞きたいと思い、店員を探しても見あたらない。「店員の方いらっしゃいませんか~!」と何度か叫ぶと、「少々お待ちください」と現れるが、そのまま少なくとも5分ぐらいは放置される。
相談でなく、それこそセルフで購入意思を決定しても、ものが大きいだけに店員が「購入伝票」を書いてくれなければ、レジで会計・配送手配手続きもできないのだが、やはり、相手をしてくれる店員はいない。
何とも日本の流通業の現場は寂しいかぎりだ。いっそ「セルフ」などという言葉はなくなってしまえばいいのだ。せっかく、生活者の購買意欲がようやく上向いてきている昨今。自分たちの接客がそれをスポイルしていることに気が付かないのだろうか。
にもかかわらず、「まだまだ売上は厳しい状況」などという声も聞かれる。「どの口が言う!」である。
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June 12, 2007
冷蔵庫に日本ハムの「水餃子」があった。自家製した中華風のスープに入れれば、水餃子に変身する。主婦にとっては、作りすぎたスープの目先を変えるに便利なものだろう。
そのパッケージに何やらシールが貼ってある。「黒烏龍茶1ケースプレゼント」だそうだ。
そういえば、先週の日経MJに製品サンプリング・タイアップ花盛りというような記事が一面トップに掲載されていた。
特に、サントリーの「黒烏龍茶」はラーメンチェーン店など、「脂っこい外食」とタイアップして、店頭でサンプルを配布しているようである。
だいぶ前であるが、サントリーは飲料「DAKARA(ダカラ)」登場期に、「老廃物の体外排出」という新たな切り口をアピールするため、一杯飲んだお父さん達に街頭サンプリングを行い、大成功の一因となったという逸話もある。
サンプリングはまさにサントリーの「お家芸」でもあるのだろう。しかし、食品メーカーとタイアップして、プレゼントキャンペーンまで仕込むとは、きめ細かい。
水餃子といえば、焼き餃子ほど油は使わないが、少しでも「脂っこいものを食べた時には、黒烏龍で油の体内吸着を防ぎましょう」という徹底した刷り込みには有効だろう。
特にサントリーは飲料といえば、高収益が確保できる「特定保健食品(特保)」に全力投球している。
ところが、特保飲料で最初に注目されたのは「花王・ヘルシア緑茶」。高濃度カテキンにより、体脂肪率を減少させるという効果に注目が集まり、継続して効果を上げたユーザーも多い。しかし、あまりにも飲みにくい味に挫折した人も少なくない。(金森もその一人)。
「効果がある」はマス広告でも十分訴求できるが、本当に飲み続けられる味であるかは、実感できない。また、試行するには勇気がいる。そこでサントリーは、まずはサンプリングで一度飲ませ、抵抗感を払拭することに注力しているのであろう。事実、黒烏龍は「ちょっと濃いめの烏龍茶」といった感じで、人にもよるであろうが、金森個人としてはむしろこちらの方が美味しく感じる。
さて、こうした「サンプリング(お試し)」という手法はマーケティング的にも、社会学的にも極めて正解であることが分かる。
消費者の購買行動の態度変容プロセスを表すものとしては「AIDMA」が有名であるが、「AMTUL」というものもある。
AIDMAは、Attention(注目)→Interest(興味)→Desire(欲求)→Memory(記憶)(Motive:動機付けとの説もあり)→Action(購買行動)である。
AMTULは、Attention→Memory→Trial(試用)→Usage(使用)→Loyal(愛用)であり、特に試す→本格使用→継続的な愛用という、「試用」を重要視するモデルである。
一方、金森の好きな、E・M・ロジャースの「イノベーション普及学」にある、「イノベーション普及速度の5条件」にも、「試行可能性」というものがある。未知の新しい存在を受入れるためには、「お試し」という要素が必ず必要であるという考え方だ。
さらにこの「普及速度」のもう一つの要件である「両立性」も実は「黒烏龍」はクリアしている。「両立性」とは、「今まで慣れ親しんだものからすぐに完全代替するのではなく、(当面は)両方を使い続けることができること」である。つまり、(ちょっとだけ高いが)飲みやすい、またはむしろオイシイ黒烏龍であれば、普段は普通の烏龍茶もしくはお茶系飲料を飲み、その気になった時、あるいは「脂っこいものを食べた」という自覚がある時に飲むという両立性が確保されているわけだ。
何だか、サントリーの片棒を担ぐような本日の記事になってしまった。まさかこのようなネットでの口コミまでを狙っているのではないだろうが、ともあれ、金森は今日の昼食後にも黒烏龍を飲むであろうことは間違いない。
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June 08, 2007
先日「第12回データウェアハウス&CRM EXPO」で金森が行った講演概要をジャストシステム社のメールマガジンで紹介いただきましたが、今回は同講演の主題であった「FAQ」に関して、インタビューを受け、その内容を取り上げていただきました。
本日は同社に許可を頂きましたので、その内容を転載いたします。
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◆インタビュー:「高度化する顧客の要求とFAQ」
先月の「データウェアハウス&CRM EXPO」にて「FAQの有効活用」というテーマで講演された有限会社金森マーケティング事務所 金森 努氏に、FAQシステムの整備や今後の期待について、インタビューを行いましたので、今回はその内容をお伝えします。
編集部:FAQシステムの整備がコンタクトセンターで進んでいますが、その背景は何でしょうか。
金森氏:近年のコンタクトセンターでは、「顧客満足の向上」や「購入前顧客への対応による販促効果への貢献」などが大きなテーマとなっていますが、昔からの定番である「クレーム対応」の重要性が一層高まっていることも大きな理由でしょう。
■高度化する顧客の要求
金森氏:特に最近では、顧客の商品やサービスの提供者に対する要求水準が上がっていることから、その件数もクリティカルさも高まっていると言われています。応対一つで企業が被るダメージは大きく変わってくるのです。
編集部:その一番の原因は何ですか。
金森氏:理由を推察するには、今日に至るまでの生活者の物やサービスに対する考え方の変化を追ってみる必要があります。ひとことで言えば、「生活者の要求水準の高度化」がキーワードですが、その背景をお話ししましょう。
■変化した生活者の意識
金森氏:高度成長の時代、市場では「作れば売れる」とも言われ、企業の使命は「いかに迅速に生産し、市場に供給するか」でした。またそれを受け取る生活者も、物が手に入る、人と同じ暮らしができるという物質的な喜びに満たされ、多少のことでは「クレームを言う」という意識もなかったように思います。
その後バブル時代までは、何度か不況を経ながらも市場は右肩上がり、生活者の消費意欲も高かったと言います。そのような環境下では、企業は「いかに市場のパイを獲得するか」に心血を注ぎ、「差別化」がキーワードでした。しかし企業はその差別化要因を商材である、商品・サービスそのものに求め、付加価値たる「サポート」などの部分には、まだ目を向けていませんでした。思えばこの頃から企業と生活者との意識に乖離が生じ始めたのかもしれません。
そのうえ、市場の飽和期と言われるように、物が満ちあふれた時代になり、バブルの崩壊による消費の冷え込みも加わって、生活者の購買行動は選択性が高まりました。マーケティングの世界では、「無駄な物はいらない」という生活者が「買わない自由」を覚えたと表現されます。また、自らが対価を払ったことに対する権利の主張も強くなりました。さらにインターネットが普及するようになり、情報レベルにおいて生活者は企業と全く対等な力を手に入れました。
■力をもった生活者に対応するには
編集部:今のお話が「生活者の要求水準の高度化」という変化の背景なのでしょうか。
金森氏:そうです。生活者は時代の変化と共に確実に、意識が変化し、かつ、企業に比肩する情報という力を手に入れました。以前であれば、生活者からの「苦情」に応対する場合、「苦情処理」という言葉が用いられていたように、「謝り倒して終わり」というケースが多くありました。しかし、今日の生活者はそれでは納得してくれません。
また、納得が得られなかった生活者の声がインターネットにより波及し、企業に大きなダメージを与えるようになりました。
「謝り倒し」型の対応をしていた時代、「苦情処理係」という担当者のいわば「職人芸」がまかり通っていました。しかし今日のクレーム発生件数は、そのような一部の職人に依存できるレベルになく、組織的な対応が必要になっています。また、生活者も謝り倒されず、「正しい情報開示と誠意ある対応」を求めてきます。
編集部:その辺りにFAQシステムの出番があると。
金森氏:はい。必要なのは「組織的に高いレベルで水準化された応対」です。
そのためには、顧客対応の窓口であるコンタクトセンターでのスタッフの教育やモチベーション管理なども重要です。しかし、そうした以前からの取り組みに加え、今日的なテクノロジーの活用に期待しています。
■テクノロジーの結実としてのFAQシステムへの期待
編集部:ご自身もコンタクトセンターのご出身ですね。
金森氏:ええ。ただ、私が在席していた頃にはまだ、FAQシステムのようなテクノロジーが開発されていなかった。いわゆる紙がファイリングされた「応対マニュアル」と「Q&A集」です。とてもそれでは今日の生活者の要求レベルには応えられなかったでしょう。高度な応対に欠かせない「情報提供の武器」としてFAQシステムは存在します。
市場が飽和し、新規顧客を獲得することよりも、囲い込みが重要であると言われて久しい昨今。また、前述のような顧客対応のミスが企業の存亡にも関わりかねないような環境。そのような中で、よりよい企業と生活者の関係構築のためにも、よりFAQというソリューションが磨き上げられていくことに期待しています。
編集部:ありがとうございました。
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同メールマガジン「Knowledge Power Magazine」では、コンタクトセンター、ナレッジマネジメント、エンタープライズサーチなどの話題が月に1~2回配信されてきますので、ご興味のある方は以下をご確認ください。
http://www.justsystem.co.jp/km/press/
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June 05, 2007
今日も昨日の「S.E.Eカード」の続きを記したい。
ある会合で、別の百貨店の担当者と話す機会があった。その折、「S.E.Eカード」に関して感想を伺ったところ、やはり「百貨店の基本思想からは乖離している感がある」とのコメントであった。
少し詳しく聞くと、曰く、百貨店の売り場での基本は「動的待機」というものであるそうだ。つまり、お客様の側でじっと立って待っていたら、その店員の視線がやはり気になる。そこで、店員はお客様の視界に入っているようにしながら、何らかの作業をしながら、声をかけられるのを待つ。もしくはお客様が声をかけて欲しそうなそぶりをするのを待つというものだそうだ。
女性のお客様の多くは、店員に声をかけてくるか、何らか声をかけて欲しそうなそぶりを見せることが多いが、例外的に男性客、特に紳士売り場では店員からの接触を嫌う顧客もいるとのことであった。そこで、その会合に居合わせた、百貨店で買い物をよくするという男性に聞いてみた。すると、「やはり声をかけられるのには抵抗があるが、首からカードをぶら下げるような無様な姿は絶対したくない」とのことであった。彼も、上記の「動的待機」の話を聞いていたので、「そうした“基本”があるのであれば、それで十分。むしろそれが徹底できていないのが問題」と至極もっともな意見を述べていた。
結局、その会合の参加者同士で考え、以下のような結論に至った。
恐らく高島屋によほど声をかけられることが嫌いで、かなりのクレームをねじ込んだ顧客がおり、また、同店もやはり接客力が落ちていることも否めない。そこで、「S.E.Eカード」の試行に至った。それは致し方ないことなのかもしれない。但し、「声をかけない“おもてなし”」という表現と、顧客に首からカードをぶら下げさせるという、非常なる違和感を与える方法論に間違いがあったのだろうと。
そのあと、金森の頭には「ヤマアラシのジレンマ」という言葉が浮かんだ。記憶の範囲で記述すると「ある寒い夜、二匹のヤマアラシがいた。二匹は寒いので、身を寄せ合いたい。しかし、近づきすぎるとお互いを針で傷つけてしまう。だからといって、離れては寒さに耐えられない。やがて二匹は試行錯誤を繰り返し、傷つけ合わず、寒くもない距離感を見出した」というもの。念のため、“Wikipedia”で調べてみる。<以下全文引用>「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマ。寒空にいる2匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツの哲学者、ショーペンハウアーの寓話による。 但し、心理学的には、上述の否定的な意味と「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点に注意が必要である。<引用ここまで>
ははぁ。金森の記憶は後者の内容であった。
で、この「ヤマアラシのジレンマ」。百貨店の店員と顧客の関係に置き換えてみたい。店員の接客スキルも低下している。顧客自身もインターネットの普及や、ものが飽和した時代において“目利き”になっており、あまりアドバイスを必要とするシーンは少なくなっている。しかし、店員も全く顧客にタッチしないというわけにもいかず、顧客もたまにはアドバイスが欲しい時もある。どうだろう。どこか「寒い夜の二匹のヤマアラシ」の姿のようではないだろうか。
このままでは、ショーペンハウアーの「針が刺さるので近づけない」という状態だが、それを脱し、「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という結末をやはり望みたい。だとすれば、明らかに「S.E.Eカード」の試行は過りであるとの考えを変えるつもりはないが、「紆余曲折」の過程だとすれば、是非ともその過ちに早く気付き、別の手だてを模索して欲しいものだ。買い物の楽しみ。そして、店員の気配りと適切なアドバイス。正に百貨店の価値がそこにあるのは間違いないと金森は信じている。
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June 01, 2007
「安倍内閣メールマガジン第31号」が昨日届いた。
冒頭の言葉は党首討論についてで、「国民の皆様の心配を払拭していくために全力で取り組んでいく」とある。
続いて目次は、[こんにちは、安倍晋三です]・信頼ある年金を。
え、昨日のメディアも年金問題一色であったが、ここもか?全く触れずにスルーしようというのか?
・・・と思ったら、[こんにちは、安倍晋三です]の冒頭に「松岡農林水産大臣が亡くなられました。誠に痛恨の極みです。」から始まって、約10行を割いている。で、また年金の話。
タイトルに「メルマガの作法」と書いた。作法とは「物事を行うときの、慣例となっている方法。しきたり。」と辞書にある。つまり絶対のルールではないが、「普通に考えればこうするでしょ」という、英語で言えばcommon senseだ。だが、松岡農水相の自殺に関しては、このメルマガは「作法」に適っていないように思う。「現職閣僚の自殺」という初めての異常事態に対してこのメルマガは「号外」を発行しなかった。メルマガをはじめとして、インターネットメディアは速報性が命だ。「うっかりしたことは発信できない」という事情も分かる。しかし遺憾の意を表することぐらいはできただろう。
さらに今回の31号。かかる重大事態にも関わらず、小見出しすら付いていない。重要な内容はタイトルを付けるのは、メルマガ作成においては常識だろう。それを年金問題のタイトルと本文の間に十行ほど挟み込むだけで終わらせてしまうとは、意図的にやっているとしか思えない。何とも気持ちの悪い書き方である。
まぁ、この問題にあまり深入りするつもりはないが、どうにも気持ちが悪いので一応取り上げてみた。ちなみに、メディアに取り上げられた当時の首相の第一声は「慚愧に堪えない」であったが、今回は「痛恨の極み」である。「慚愧」は「自分の行為を反省して、心から恥ずかしく思うこと」。「痛恨」は「ひどく残念に思うこと。非常にくやしがること」。微妙に修正しているのも気持ちが悪い。まぁ、反省してしまって責任を問われたくないのだろうけれど。このあたりもメルマガとしてだけでなく、作法が悪い気がする。このメルマガは「美しい」ですか?安倍さん。
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May 30, 2007
先日、青学の学生との会話から「コンビニの本質的価値」について考察した記事を掲出しましたが、最近特にコンビニ業界の厳しさに関する報道が多いので、もう一度整理をしてみました。
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「生き残れるのか?コンビニらしいコンビニ」
コンビニエンスストア業界の成長鈍化がささやかれて久しい。昨年夏に日本経済新聞社がまとめた「2005年度コンビニエンスストア調査」で既にそれは鮮明になっている。セブンアンドワイ・ホールディングス 鈴木敏文会長は「まだまだ成長余地はある」旨の発言をされているが、楽でないのは明白だ。そこで今回は、そのコンビニエンスストアが「顧客にもたらす本来の価値」とは何かから、「生き残る術」を考えてみた。
■業界内の過当競争激化は最高潮に
「成長鈍化」はやはり業界内での過当競争は激化が大きな要因であろう。筆者が10年以上前に「エリアマーケティング」を行っていたとき、コンビニエンスストアの出店候補地探しの常套手段があった。GIS(Geographic Information System=地理情報システム)を活用し、人口動態や各種商業統計データ、地図データをオーバーレイする。そして、「1キロ平方メートルのメッシュ内に夜間人口が5,000人~10,000人居住しており、同メッシュ内に競合となるコンビニの存在が1店以下である空白地帯」を探すというものだ。
しかし、今日、都市部でそんな「空白地帯」は見つけ出せそうにない。筆者の自宅は駅近くであるが、自宅を中心として半径200メートル以内に6店舗がひしめき合っている。
加えて、ドラッグストアやスーパーの24時間営業など、他業態からの追撃も激しい。他業態を加えれば、筆者の自宅近辺の場合、その数は9店舗に登る。
とすれば、鈴木会長の言う「(業界全体の)成長余地」はともかく、個々の店舗のフランチャイズオーナーは「どうやって自店が生き残るか」と現状打破の一手を考えることが最大の関心事であろう。
■進む新業態への転換は正解か?
筆者は「苦しいときこそ、本質に立ち返る」ということを、どんなビジネスにおいてもお勧めしている。では、コンビニエンスストアの“本質”とは何か。それは、何と言っても「開いててよかった」である。日経新聞の「私の履歴書」によれば、鈴木会長が「コンビニをひと言で、と聞かれてとっさに答えた文句だ」と連載の第19回にあった。優秀な経営者は優秀なコピーライターでもあるのだなと、感心したものであるが、否、コピーレベルのものではない。“本質”を理解してビジネスを展開したからこそここまで繁栄したのである。
しかし、その「開いててよかった」は前述のとおり、もはや24時間営業化したドラッグストアやスーパーなど他業態でも生活者は享受できるようになっている。“本質”部分では戦えなくなった結果、最近目に付く動きが、いわば「新業態コンビニ」とでも言うべき展開だ。
ローソンが展開する「ナチュラルローソン」。「人と地球にやさしく、お客様の健康で快適な生活をサポートする商品を提供する」として、オーガニックやLOHASをイメージさせる品揃えと店舗設計で特徴を出し、新たなブランドとして確立を図っている。
一方、今までコンビニの品揃えとしてほとんど力を入れていなかった、「生鮮食料品の充実」に注力しているのが、「生鮮コンビニ」である。九九プラスが「ショップ99」という店舗ブランドを展開するや否や、各社が追随。ローソンは「ローソンストア100」、スリーエフが「キュウズマート」、am/pmジャパンは「フードスタイル」を展開。コンビニエンスストアと生鮮食品店の特徴を併せ持ち、さらに少量低価格で食材を提供する業態としてあっという間に街に根付き始めている。旧来の業態がじり貧であったコンビニ・フランチャイズオーナーがこぞって転換に乗り出そうという動きも見て取れる。
しかし、業態転換には大きなコストがかかるだろう。また、特に生鮮コンビニは既に同一商圏と思われる範囲に複数店舗が開かれ始めている。それだけが自店生き残りの道なのだろうか。
■コンビニエンスストア“本来の価値”にもまだ改善余地はないか?
自宅近隣に多数のコンビニがあることや、得意のタウンウオッチで歩き回る合間に、各地の店舗で飲料を購入することなどから、筆者は相当な“コンビニ・ヘビーユーザー”である。入店したことのあるコンビニ店舗は相当な数に上るはずだ。そのヘビーユーザーからすると、フランチャイズオーナーは、業態転換を考える前に、自店の「サービスレベル」を見直すべきではないかと考えている。
「開いててよかった」に続く、セブンイレブンの名コピーは「セブンイレブン、いい気分」であろう。こちらは現在、株式会社電通の常務執行役員である杉山恒太郎氏によるもので、コーポレートスローガンにもなっている。「開いててよかった」と「いい気分」はほとんどセットで人々の記憶に刻まれているに違いない。そして、「開いててよかった」がコンビニエンスストアの“本質”であるとしたら、さらに来店客が店舗で「いい気分」が体感できることもまた、コンビニエンスストアの“本質”たる価値なのではないか。
『convenientの語源は「共に(con)来る(venient)」であるため、「そばにいて(あって)便利な」が本義(ジーニアス英和辞典第3版)』である。まさにコンビニエンスストアの「開いててよかった」である。と同時に、convenientという言葉は「使いやすい」「便利な」の意味も持つ。そう考えると、「開いててよかった」と顧客が便利に利用して「いい気分」になれることまでがやはり“本質”なのだ。セブンイレブンだけではなく、それはどのコンビニエンスストアでも同じはずである。
■本質を見失うことこそ問題の原因
例えば、当たり前なサービスであるが、品出しをしている担当者が、少しでも会計待ちの客が溜まるとクローズしているレジをさっと開けて、「お次にお待ちのお客様どうぞと」誘導するといった対応。客を「待たせる」ということがあれば、顧客にconvenientでない状況を与えていることになり、それは“本質”にもとる。
最近はマニュアルが進化してきたためか、店舗でのオペレーションが磨かれてきているように思うが、そうした基本が励行されていない店舗も少なからずあり、二極化しているように思える。“コンビニ・ヘビーユーザー”たる筆者が様々な店舗を巡った経験から言えることだ。
基本が励行できていない店舗の従業員、時には「店長」と名札を付けたオーナーとおぼしき人物は、一様に「客」を見ていない。目の前には自分がやらなければいけない入れ替えるべき品物や雑誌の束がある。レジを一瞥はするものの、会計をする担当者は少なくとも1名はいるので、支払い待ちの客が2~3人並んでいてもさほど時間がかかるわけではあるまい。と、行ったような認識なのではないか。そんな店はどこか空気が淀んだように活気がない。業態転換をしても結果は同じだろう。
そもそも、「オーガニック」にしても、「生鮮」にても、全ての人がそれを望んでいるわけではない。個人的な感覚になるが、筆者はオーガニックやLOHASをコンビニエンスストアに求めようとは思わない。また、生鮮食料品もコンビニエンスストアよりは食料品スーパーに買いに行ってしまうだろ。それよりも、「コンビニエンスストアらしいサービスの充実」に注力してほしいと考えている。
■“本来の価値”に回帰した戦い方を!
筆者が非常勤講師として教鞭を執っている講義でのことだ。その回は顧客満足に関する要諦を講義した。まず「顧客がそのビジネスに求める”本質的価値”」を理解すること。それを通じて「顧客に利便性と納得・満足を提供すること」。そのためには「顧客に対する理解を深めること」。すると、ある学生が講義終了後、質問に来た。「コンビニでバイトをしているが、自分の場合どういうことになるのか」と。そこで自分の考えを述べさせると、非常によい回答が返ってきたのである。曰く「自分はできるだけ担当している時間帯の馴染み客を覚えるようにしている。そして、例えばいつもタバコを買いに来る客にはレジに来たとき、注文される前に”いつもの銘柄”をスッと差し出すのだ」という。実に「いい気分」になれるconvenientなサービスではないか。
コンビニエンスストアといえば”マニュアルに基づいた画一的な応対”を思い浮かべてしまうが、「顧客の想定しているレベルを超える応対」を目指している”現場のアルバイト”の熱い思いを聞かされ嬉しくなった。と同時、他業態からの攻勢に遭い、安易な業態転換をするのではなくとも、まだまだ十分に戦えるのではないかと考えるに至った。
マニュアルが定められている場合、それは「最低限の顧客満足」を確保するため励行されるべきであり、それ基づいた一定品質のオペレーションが基本である。余り奇をてらった対応に走りすぎるのは問題だろう。しかし、マニュアル通りの応対を漫然と行うのではなく、それを超えようという担当者を採用し、さらに動機付けし、良好なサービスを提供させることは、店舗の経営にも大きく影響するだろう。また、アルバイトの従業員は同時にコンビニのヘビーユーザーである場合も少なくないだろう。とすれば、彼ら、彼女らがどのような対応なら自分自身でも嬉しいかをよく聞き出し、さらにマニュアルを磨き込んでいくことができれば、それは大きな武器にもなろう。
24時間営業という一番の特徴を浸食されたが故、「他業態の草刈り場になる」という業界全体の脅威論があるのは確かだ。しかし、個々の店舗の生き残りを考えるとき、同じ旧来型の「普通のコンビニ」でも繁盛している店とそうでないところ、優勝劣敗があることを忘れるべきではない。その理由は既に述べてきたとおりだ。「とにかく業態転換をして新たなチャンスを切り開こう」という短絡的な発想ではなく、本来の価値である「いい気分」を突き詰めることも忘れてはならない。
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May 24, 2007
過日、東京国際展示場(東京ビッグサイト)へ事務所のある新橋から「ゆりかもめ」に揺られていった。第12回「データウェアハウス& CRM EXPO」が開催されていたためだ。目的は二つ。併催されているセミナーに講師として招かれていたことと、イベント自体の取材のためである。
このイベントは毎年多くの来場者があるが、今年はさらに大規模な増員が予想された。同時開催の関連イベントを含めると、例年を大きく上回る1,500社余りが出展し、さらに一画には今年初開催の「Web2.0マーケティングフェア」も開催されている。非常にキャッチーなテーマであるため、集客は一層進むだろう。人混みは苦手な方なので、できれば遠慮したいところであったが仕事は仕事。気合いを入れて会場に向かった。が、場内に入るとすぐに具合が悪くなってきた。人混みは覚悟していたが、さらに思わぬ伏兵に出くわしたのだ。その正体は「ニオイ」。
当日の東京は摂氏26度を超える夏日。人が大量に集まる場所は当然のように、「ひといきれ」がしている。環境配慮のためか、場内の温度は随分と高い。当然のように汗臭さが漂う。さらに、ちょうど時刻が正午過ぎだったため、展示会場までの長い通路に軒を並べる飲食店から放たれる食べ物のニオイが充満している。展示棟は東西に分かれ、会議棟も別にあるが、こちらサイドには和・洋・中華、全部で5店、計850弱の客席があるという。オープンカフェになっているためか、特にカレー・洋食系とおぼしきニオイが濃密だ。ほかにも弁当売りのワゴンが出ていて、それを購入し、会場横の休憩用ベンチで食している来場者もいるのでそれらのニオイも混じっているのだろう。
人が放つニオイと食物のニオイ。これが混ぜ合わさるとかなり壮絶な臭気となる。「ナゼみんな平気なのか?」と思い、知人の出展者やほかの講演者に聞いてみた。みんな我慢していたようだ。
同会場には、東京オリンピック招致委員会によるものと思われる「オリンピックを東京に,2016年!」という横断幕が掲げられていた。そういえば、この会場は財団法人日本オリンピック委員会が後援し、オリンピック招致アピールの様相も呈していた「東京マラソン2007」のゴールになっていたのであった。また、選手村として予定されている有明とも目と鼻の先だ。しかし、この会場の様子からすると、不安になってくる。招致に成功したとしても、今の日本は世界中から人々を招き入れる資格があるのだろうかと。そう、「公共の場所」で日本ほど「ニオイ」に鈍感な国はないのではと思ったからだ。
ニオイといえば日本人は欧米人の体臭の強さや、アジアの街独特のニオイをよく口にする。しかし、アジアでも欧米でも筆者は「公共の場」でこれほどニオイが気になった記憶はない。この「国際展示場」だけの問題ではない。例えば日々利用する鉄道の駅舎やホームという「公共の場所」も食べ物のニオイが満ちあふれている。実はこの原稿は、講演の帰路にて内容を思いたち列車中で書き始め、終わらなかったので地元の駅のベンチでパソコンのキーを叩いて書いている。ホームには蕎麦つゆの香りが漂う。それと、隣接したスーパーからであろうか。総菜を揚げる油のニオイも入り交じる。
しかし、一地元の問題ではない。「公共の場」という意味では筆者が一番嫌いなのが、地方から羽田空港に戻り、出口のゲートが開いたときのニオイだ。ご存じの方も多いのではないか。「カレー臭」である。到着出口斜め前にあるスタンドカレーショップから放たれてくる「ニオイ」である。空腹時ならまだいいかもしれない。しかし、搭乗前に間に合わせの食物で腹を満たし、機中でまどろむも疲れが芯に残っているコンディションにはキツイ。羽田は国際空港である。場合によっては遠い成田ではなく、羽田に各国の選手を迎えるかもしれない。その選手にも「カレー臭」を嗅がせるのだろうか。
結局は「人を思い遣る心」という、ありきたりな言葉になるのであろうか。しかし、「オリンピックを東京に」というなら、「東京国際」と銘打たれた見本市会場。さらに、「東京の空の玄関口」のこの「ニオイ」はどうしたものか。欧米人の体臭の強さ。それは体質なので仕方がないが、逆にそのマイナスを打ち消すためパフュームの文化が発展し、ニオイにはかえって敏感だ。日本人は体臭が薄いゆえにニオイに鈍感であるという論を聞いたことがある。正にその通りなのかもしれない。しかし、国際社会でそれは通じないだろう。
さらに危惧されるのは日本の「ニオイに対する鈍感さ」に加えて、昨今問題になっている「公徳心の低下」である。なぜか最近ゴミを平気で道ばたに捨てる人々が目につく。「ゴミを捨ててはいけません!」と筆者は当たり前に育てられていたが、そうでない人が多くなってきたのか。菓子やタバコのパッケージを歩きながら開封し、自然な一連の動作のように、それをそのまま道ばたに捨てる。「公共の場で放置される“ニオイ”もしくは“臭気”」と根を通じている気がしてならない。
そんなことを考えていると「オリンピックを東京に,2016年!」の横断幕がナゼか虚しく思い出された。1964年の東京オリンピックを迎え入れた当時の日本。高度成長末期。実に翌年には昭和40年不況と呼ばれる困難が待ち受けていた。その予兆はあったかもしれないが、海外や日本全国からの来訪者を迎えるに当たり、精一杯の配慮をしたのではないだろうか。それに比べ、今の東京に慢心はないだろうか。余裕で再選を果たした石原都知事はオリンピック招致に自信満々であるが、「ニオイ」という見えない存在に代表されるような「隙」がもっとあるように思うのは、穿ったモノの見方すぎであろうか。
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May 23, 2007
どうも最近、このBlogの記事が「マーケティング」を離れて、「社会時評」めいていると言われることがある。確かにそうかもしれない。
しかし、経済活動は「社会」という大きな枠組みの中で行われている。
また、「カスタマーインサイト」に代表されるマーケティングの要諦である「顧客心理」も、その動きにつれ大きく変わる。
「社会全体の大きな動き・うねり」を看過することはできないのだ。
と、大上段に始まってしまったが、実は今日は「ラーメン屋での体験」という、久々のユルユルなネタを用意していたのだが、どうしても気になることがあり、その記事は金曜に廻すことにした。まぁ、そういうネタは週末の方がいいかもしれないし。
さて、標題の件。「サマータイム制の導入」についてである。
日本では過去1948年から4回にわたって実施、その後廃止されていると記録にあり、また、1995年あたりから「省エネのため」というほぼ、今日と同じ名目でに何度も話が出ては消えしている。
しかし、特に、今回は日本経団連と自民党中川幹事長が「温暖化対策」という昨今の金科玉条のごとき名目を持ち出し、安倍総理も温暖化対策が焦点となっている6月の主要国首脳会議で日本のアピール材料として積極的に持ち出す構えを見せているようだ。何となく今回は押し切ってしまいそうな様相が見て取れる。
「サマータイム反対派」の論は、「1時間ぐらい時間を繰り上げても、夕方明るいうちに仕事が終わるわけないだろ!」というものが大半だ。確かにそうだろう。
先だって見送られた「ホワイトカラー・エグザンプション」もそうだが、どうにもこの手のことを推進しようとする際、経団連も自民党も、実行に際しての詳細を詰めずに大枠だけでその是非を論じようとするのだろうか。
これで押し切ろうというのであれば、また「ホワイトカラー・エグザンプション」の時と同じく、「残業が増えるじゃねぇか!」と反対の大合唱が起きるだろう。
ただ、今回金森はちょっと別の観点でこの制度の導入に反対をしたい。マーケターらしからぬ、ロジカルでない切り口かもしれないが、感性の問題だ。
個人的に、春から夏にかけての季節が好きだ。薄暗いうちから仕事に向かい、終わった頃には空にはしっかり星が出ているような厳しい冬を経て、朝目覚めると「ああ、もうこんなに明るくなっている」と驚かされる春がやってくる。夏には「こんな時間なのにまだ薄明るい」と熱気と夕風が入り交じる残る薄暮の街に少しワクワクする。
季節によって、勝手に時間を繰り上げたり、繰り下げたりしていては、そうした感覚などなくなってしまうだろう。
特に夜、必死で働いて、何とかまだ薄明るいうちに仕事を終えられたときの喜びはなくなる。かえって「まだ明るいから」とダラダラ仕事をしてしまいそうだ。
先日、「祝日を移動させて秋の連休を作る」ということに反対の論を述べた。今度は、季節感さえも奪おうというのだろうか。
祭日の「本来の謂われ」を忘れ、「四季折々で感じるべき風情」も人工的にかき消し、ものごとの「節目」をどんどん喪失していく。
そんな国を「美しい日本」と、その言葉を発した宰相は呼べるのであろうか。
様々なところで「節目」を失っていって、今、この国がどんなにグダグダになっているのか、その目をよく開いてみるがいい。
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May 22, 2007
大学の非常勤講師をしている。ビジネススクールでも株式会社大学院のコースで教鞭を執ることもある。
4年前に某大学の客員助教授になったとき、文科省の認可を受けるために、恐ろしく詳細な履歴書を提出して許可が下りた。
ということで、金森は文科省管轄の人間でもあるのだが、その厳しい審査の過程からすると「え?」と思わずにいられない。
既にあちこちで批判記事が掲載されているので、内容がかぶることを覚悟で一言わずにいられないのだ。「サッカーくじ、BIG」。
スポーツ全般に疎いが、特にサッカーには関心がない。また、賭け事といえば、数年に1回ジャンボ宝くじを気まぐれに買う程度なので、これまた疎い。
で、サッカーくじの「toto」が発売された時も、「何で文科省管轄なんだ?」と思いつつもさして関心を払わなかった。
公営ギャンブルの元締めをやっておらず、財源が欲しかった文科省がいよいよ乗り出したのだな。と思いつつも、「サッカーの勝敗を予想しくじに投票することにより、サッカーへの関心を高め振興を促す」というもっともらしい言い訳に、「まぁ、いいか」とことさら問題視しなかった。
しかし、全く気付かなかったが、なぜこんなに今回のBIGが大フィーバー(死語)しているのかと思えば、勝敗結果は単なる賭のための要素でしかなく、勝ち負け予想はコンピュータが勝手にやってくれるそうではないか。(今さら驚いていて済みません)。
そのため、サッカーに関心がない人でもキャリーオーバーで高額になった当選金目当てに殺到することになったということだったのだと今さら納得した次第だ。
・・・「文科省がギャンブルの胴元になるのか」という批判をかわしたあの一言、「サッカーの勝敗を予想しくじに投票することにより、サッカーへの関心を高め振興を促す」はどこへ行ってしまったんだ?
一夜明けた平成19年5月21日(月)の日経新聞の一面コラム「春秋」でも問題にしていたが、結論は、「(サッカーくじの)主力商品であるtotoの顔をしているが、全く別人である。ここまで落ち目になったら背に腹は替えられないか。」と結論づけ、「夢の逆転シュート」などと記している。
・・・違う。「勝敗予測でサッカー振興」というウソでもいいから「大義名分」があるうちはまだいい。しかし、それさえ失って、「背に腹は替えられない」と「夢の逆転シュート」を狙い、どう考えても「ギャンブル」としか言い訳ができない行為に手を染める。それも文科省がである。
副業に手を出した教師が、「背に腹は替えられない」と「夢の逆転シュート」をねらい、「自宅で賭場を開張。寺銭を手にして再起した」。としたら、「よかったなー、人生やり直しがきくもんだ」と祝福してもらえるだろうか。そんなわけはない。
「物事の大儀」を何と考えているのだろうか。今、正に「小学校の道徳を再び正規科目に」などと論議している最中にである。
以前も書いたが、貸金業法改正によって、「貸す蛇口」はギュッと絞っているが、昼日中にパチンコのCMを垂れ流しているように、「使う側」は一向に締め付けず、ユルユルだ。
今回のサッカーくじに高額を突っ込んだ人間も少なくないだろう。
ギャンブル天国(実は地獄)な日本。その胴元の一人として、今回は文科省がシメシメと言っているのである。
「倫理」という羅針盤の壊れた「日本丸」はどこへ漂流していくのか。
「はい、伊吹君。答えて!」
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May 02, 2007
連休前半の終了と共に、好天も一休みの昨日。雨の中、濡れるうっとうしさも、さることながら、そんな天気は足の傷がまだ痛む。もったいないがタクシーを止める。
乗り込むと、金森と同世代とおぼしき中年運転手。いかにも「眠そう」。以前もこんなことがあった。ノルマ達成のため無理をしているのが容易に想像できる。眠られてはたまらない。こちらも変に多弁になり、いろいろと話しかける。もはや、乗せる方も、乗る方も命懸けである。
こんなにサービスレベルの低下した環境下でさらにタクシー各社は値上げを申請している。
おかしくないか?・・・と思っていたら、以下の報道が目に入った。
<東京都内のタクシー業者による平均18.7%の運賃値上げ申請について、内閣府は近く2度目の物価安定政策会議を開き、有識者らから意見をまとめる方向で調整に入った。(asahi.comより)>
タクシー業界を取り巻くマクロ環境を考えてみる。「PEST分析」を用いる。
・Political:政治的規制事項の影響要因はどうなっているのか?
・Economical:経済環境はどのような影響を及ぼしているのか?
・Social:社会環境はどのような影響を及ぼしているのか?
・Technical:影響要因となるような技術的変化・革新等の要素はあるか?
PEST分析は以上の5つの切り口で客観的に環境分析を行う手法だ。
まず、「Political」である。一番大きいのはこの要素であることは誰の目にも明らかだ。一連の規制緩和の波に乗り、道路運送法改正法案が2002年2月1日から施行された。
これによって、新規参入や増車は今までの免許制、認可制から、車庫の確保など一定の条件さえ満たされれば自由にできるようになり、タクシーの供給過剰がおこった。
次に「Economical」であるが、上記の緩和策も、バブルの頃のように六本木交差点で空車を探して彷徨するような状況なら増車も歓迎だが、2002年当時はデフレ不況。企業はタクシーチケットを絞り、個人も呑んでも終電には間に合わせるといった変化があった。当時の政府や運輸省は、「(規制を緩和すれば、)サービスが多様になり、タクシーの利用が促進される」としていたが、市場や経済環境を無視していたとしか思えない。
「Social」も悪いことに先の二項目と呼応してしまっている。つまり、不況のさなか、利用者は減るものの、しかし、当時タクシー会社の新規採用・増車は不況下における失業者の受け皿となり、増車傾向に拍車をかけることになった。
「Technical」の要素としては、カーナビやGPSによって、効率的な運行や配車を行えるというメリットをもたらしてはいたものの、そもそも需要と供給のバランスが合っていなければ、そんなものに何の意味もない。
以上のことから考えれば、全く市場や経済状況を考慮せずに、機械的な「規制緩和」を行った政府と、恐らくは市場や経済状況はわかっていただろうが、「とりあえず増車をして、あとは運転手任せ」にした、タクシー事業者の問題であることがわかる。
現在、都内の運転手の年収は平均327万円という。確かに、低賃金を補うための長時間・過労運転が起こり、安全を確保できていないという悪循環がよくわかる。さらに、asahi.comの以下の報道も見逃せない。
<前回の物価安定政策会議は19日に開かれ、タクシー業界代表や国土交通省が、運転手の労働条件の悪化や燃料費の高騰など、値上げを申請した背景を説明した。
しかし、内閣府によると、燃料費の高騰を反映させるだけなら2~3%の値上げで済む。同会議の委員からは「18.7%の値上げの根拠が不明」との意見が相次いだ。
(さらに申請による)値上げによって乗客が減ったとき、運転手の賃金がどれだけ改善するのかといった試算の提示も次回の会合で業界側に求める。 >
そうなのだ、最初は燃料費の高騰をメインの理由にしていたはずだ。しかし、その高騰がとりあえずは一服を見せ始めると、「運転手の賃金」に論点をすり替えようとしている。しかし、値上げ幅は少なくない。もしこの通りの値上げになれば、利用者は長期的には戻ってくるかもしれないが、しばらくはビビッドに反応しさらに減少する。利用者が戻るまでのさらなる歩合給の減少を補うため、運転手の長時間・超過運転は一層進み、安全は脅かされる。
そもそも、政府の環境と需給を無視した「規制緩和」と、給料が運転手の歩合給メインであるため、とりあえず稼ぎ手である運転手と自動車を無計画に増やしたタクシー会社の責任は明らかだ。
それを利用者は「値上げ」され、運転手は「さらなる需要減」のリスクを抱え、利用者・運転手ともに安全が犠牲にされているのだ。タクシーを利用しない人も他人事ではない。自らがハンドルを握る車に「居眠りタクシー」が突っ込んでくるかもしれない。帰宅途中の子女の列に突入するかもしれない。
コトは単純に「値上げしたいです」「はいどうぞ」もしくは「ダメです」で済む問題ではない。しかも早急に手を打たなければ、いつ惨事が起きてもおかしくないのだ。
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April 29, 2007
「みどりの日」から「昭和の日」に変わった最初の年。
少し前、26日の新聞記事からその意義を考えてみたい。
※恐縮ですが、このBlogの主旨であるマーケティングとは関係ありません。
※さらに、思想的に金森は「右より」でも「左より」でもありません。念のため。
同記事や、それを取り巻く世間の論調がどうも「論理的」ではない気がして筆を取りました。
(”論理性”にこだわるところは、多少こじつけ的ですが、マーケティング的ではあります。)
以下、某SNSの日記に記した文章の加筆修正です。既読の方は流してください。
--------------------
「昭和の日:右でも左でもないが、”そもそも”を問いたい」
初の「昭和の日」直前の26日、とても気になる記事を目にした。
どうにも論理的ではないし。
以下、自身の考え方を述べる。
※残念ながら、SNS以外に公開されたWebサイトに原文記事が公開されていないため、リンクが設定できない。
(転載は著作権上問題あると判断し、致しません)。
恐縮ですが、「ミクシイ」には原文があるので、ログインできる方はそちらをご覧ください。
さて、肝心の論旨である。
そも‐そも【抑・抑】(「其(そ)も」を重ねた語。もと漢文の訓読から)
[一]〔接続〕物事を説き起すときなどに文の冒頭に用いる語。 広辞苑第五版
>(原文引用) 「昭和の日」を制定した改正祝日法ではこの日を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と規定する。
良いことではないのか?
龍馬の言葉であったか。「今日は昨日の続きでも、明日は今日の続きではない」。自分の大好きな言葉だ。
だが、逆説的に言えば、「昨日がなければ今日は存在せず、未知なる可能性を秘めた明日もやってこない」のだ。
「平成」もはや19年。平成生まれの子等が社会に出ている時代だ。「昭和は古くなりにけり」は致し方ない時間の流れの中で事実であろう。
しかし、その「昭和」を否定しては「平成」はあり得ない。
>(原文引用)05年5月の国会で自民、公明、民主などの賛成多数で可決した。共産、社民は「復古的立場でのノスタルジーに過ぎない」などと反対した。
その「ノスタルジー」も、
>(原文引用) 現代史家の秦郁彦さん(74)は「昭和をしのぶ日といっても、戦争の苦い記憶を持ち続けている人もいる。国民全員が歓迎しているとは思えず、バランスを欠く。
という意見に代表されるように思えるが、「戦争・敗戦」だけが「昭和」なのか?また、仮に「それこそが重要である」という人の意見があったとしても、であれば、「昭和の日」を繰り返し、その問題を考える日とすればよいのではないのか。
「昭和」=「戦争」という単純な連想で思考停止し、反対の立場を取ることが本当に正しいのか。
また、その後に続く復興・高度成長・不況・バブル・・・と昭和という時代は63年余りという長きに渡ったことから、振り返るべきものは多いはずだ。
また、先の現代史家、秦郁彦氏の意見であるが、
>(原文引用)記念するのは昭和天皇なのか、それとも昭和の時代に生きた人たちなのか、もはっきりしない」と話す。
とあるが、憲法第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。
昭和という時代を振り返りつつ、その激動の時代の中で、君主から象徴という存在に立場を変えた先の天皇の存在を思い起こすことがいけないとは思わない。
もし、振り返って「天皇不要説」に至るのであれば、憲法改正議論をするがいい。しかし、天皇制に否定的な人たちに限って憲法改正に対しては二の足を踏む傾向はどうしたことか。
また、このニュースを提供している毎日新聞も、
>(原文引用)若者には浸透しているのだろうか。東京・渋谷で若者に話を聞いたが、制定の経緯は知らなかった。ある女子高2年生(16)は「『昭和の日』といわれてもピンとこない。親からも学校からも聞いてないし」と首をかしげた。
などと珍妙な調査と見解を述べているが、平成生まれで、「昭和」を全く知らない世代に質問して何になるというのだ。「昭和」を知らずとも、彼ら・彼女らがその時代を基盤として生まれ、生きていることは事実である。「知らない・わからない」のであれば、それを教えるのが昭和という時代を生きてきた人間の務めではないか。
それを、
>(原文引用)見た目や言動が古臭い人を「昭和っぽい」と表現する若者言葉もはやっている。
などと、面白おかしい記事にしてどうする。自分たちが生きている礎たる時代を笑う軽薄な若者を批判し、教化すべきではないのか。
自分たちはどのような歴史の流れの中で、どのような出来事を礎として生まれ、生きているのかという「そもそも」を考える日として「昭和の日」を迎えればよいのである。
少なくとも、「みどりの日」などという、曖昧模糊とし物事の本質を隠蔽するがごときネーミングよりは遙かに意味がある。
繰り返す。「昭和」=「戦争」=「責任」=「罪悪」・・・などという思考停止に陥って論議すらせず、否定するようなことがあってはならない。
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April 27, 2007
日経BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ)が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回は再びマーケティングど真ん中で勝負です。
実は、「小手先のカラーバリエーション問題」は日経の前任デスクと1年以上前に議論し、ずっと暖めていたネタでした。
で、4月12日(木)の記事「高度化の代償?」を書きながら、同時に思いついたのがこの原稿です。
では、ご覧ください。
----------------<以下バックナンバー用転載>---------------------
ブロックを使ったアニメーションかと思いきや、色とりどりの携帯電話であった。2月10日から放映されているソフトバンクモバイルのテレビCMである。シャープ製端末「812S H」は孫正義社長の発案で1機種20色というバリエーションをそろえた。「まずは、色数ありき」という孫社長の強い要望に、シャープが折れたとのことだ。(IT PLUSコラム「孫社長の『思いつき』が変えるケータイ業界・1機種20色の舞台裏」) 番号ポータビリティー制度で「草刈り場になる」と予想された割に同社が検討した背景には、料金プランだけではなく、この「カラーバリエーション戦略」もあったのだろうか。
携帯電話端末は、今までの「多機能競争」から、auが「デザイン」という新天地を切り開き、そして次に、ソフトバンクが「カラーバリエーション」という新たな戦略を打ち出したという。確かにどんどん高機能化してきた携帯電話端末には、めったに使わない、もしくは使い方さえ分からない機能が多数搭載されている。そんなものよりも、「自分好みの色」がユーザーの選択ポイントなるとの孫社長の読みには、一理あるように思える。
■コトラーの理論で考える「カラーバリエーションの意味」
家電量販店で携帯電話コーナーからパソコンのコーナーに目を転じると、ノートパソコンの新製品も随分とカラーバリエーションが増えたことに気付く。筆者のノートパソコンも、某メーカーの直販サイトで「十数色のバリエーションから天板の色が選べる」という売りに惹かれて2年ほど前に購入したものであが、量販店の店頭モデルですら、こんなに色とりどりになっているとは少々驚きである。
ノートパソコンの競争が「カラーバリエーション戦略」に移行した理由をマーケティングの大家、フィリップ・コトラーが提唱した、製品特性を表わす5層モデルで考えてみよう。まずは下図を参照されたい。コトラーは製品に対し、ユーザーが期待する特性を「中核」「基本」「期待」「拡大」「潜在」の5つに分割し整理し、どのような要素によって構成されるべきかを説いている。
パソコンの便益(「中核」)は、本来「ドキュメントの作成や計算ができること」であった。それが、米アップルコンピュータ(2007年にアップルに社名変更)の「マッキントッシュ」の登場によって、従来のコマンドを打ち込むオペレーティングシステム(OS)から解放され、アイコンによる直感的な操作が可能となり、「ウインドウズ」によってそれがすべてのパソコンに広がった。この時点で「中核」は「ドキュメントの作成や計算が“誰にでも”“簡単・快適”にできること」となる。その後インターネットの普及により、「インターネットが使用できること」が「中核」に加わった。
そして、ユーザーの利用内容が高度化してくると、この「中核」を実現するために必要不可欠な要素(「基本」)として、CPU(中央演算装置)・メモリ・ハードディスクなどの、より「高度なスペック」が求められることになった。また、ユーザーのすそのの広がりと高機能化に対応すべく、「サポート(ヘルプデスク)」も必須になった。
次に、持ち歩けるノートパソコンが登場すると、「より軽く、より丈夫で、より長時間バッテリが持つ」といった要素が「期待」されるようになった。
■カラーバリエーションが示す市場の飽和と競争激化
どんな商品でも、市場が成長途上にありコモデティー化していない場合、「中核」から「期待」あたりの階層で十分競争できる。あるいは、パソコンにおけるインターネットの登場のように、新たな活用方法が発案され、市場が再活性化するような場合は、「中核」から再定義されることになる。
だが、インターネットが浸透し、パソコン自体の機能も十分強化された今日、競争要因はどんどん外側の階層に及んでいる。その結果、「期待はされていないが、実現できれば価値を増大させることができる要素」として、5層目の「潜在」の部分でカラーバリエーションに着目されるようになったと解釈できる。
マーケティングの通説で「カラーバリエーションはマーケティングの行き詰まり」と言われることがある。ソフトバンクの場合はメーカーの努力により、色数の展開の割には部品点数を抑える生産方式を編み出したと伝えられている。そうした工夫なしに「カラーバリエーション」を増やせば、生産工程や在庫での無駄やリスクが果てしなく増大する。いや、いくら無駄やリスクを低減しても、ゼロにはならない。それ故、「行き詰まり」と言われるのである。
サービスであれば、顧客に対するサプライズを与えるような体験や、期待を大きく上回るサービスレベルの提供、もしくは顧客のプライドをくすぐるなど、展開の余地は大きい。しかし、形ある製品の場合、「ユーザーの潜在的な選択に応える要素」を実現するのはなかなかに難しい。もっと言えば、5層の外側に行けば行くほど、「小手先」になりがちなのが現実だ。
■イノベーティブなブレイクスルーを見つけ出せ!
本連載の第27回で筆者は「大胆なイノベーションに賭けるだけでなく、掘り起こし損なっている顧客ニーズを探り当て、細かなカイゼンを積み重ねるべし」と述べた。その自説を丸々覆すようであるが、逆もまた真なり。前述の携帯電話やパソコンのように、もはやカイゼンでは対応しきれない状況に市場がなっているとしたら、いつまでも小手先の延命を図り、どんどんリスクの増大や効率の低下を招いてしまう前に「大胆なイノベーション」にチャレンジすることも必要であろう。パソコンであれば前述の通り、マッキントッシュやウインドウズの登場、またはインターネットによって、「中核」の要素が書き換わるようなイノベーションである。
カイゼンの総本山であるトヨタ自動車もまた、イノベーションを目指している。渡辺社長は社長就任時の挨拶で「走れば走るほど空気を綺麗にする車を作りたい」と述べ、以降も社内に檄を飛ばしているとメディアで伝えられた。日本自動車販売協会連合会(自販連)によれば、2006年度新車販売台数(軽自動車を除く)は、前年度比マイナス8.3%と4年連続で減少した。様々な性能や意匠を凝らし、カラーバリエーションを広げても、もはやその自動車という存在そのものに生活者が魅力を感じなくなっている生活者は多い。
消費社会が成熟・飽和し、モノが満ちあふれている。もはや、小手先ではモノは売れない。しかし、「空気をきれいにする自動車」のように、環境問題という巨大な脅威に対して貢献できるようなイノベーティブな商品であれば、購買を考える生活者もたくさんいるはずだ。
地球環境への貢献となると、いささか話しが大きくなるが、モノが売れないと嘆いてばかりいないで、何とかイノベーティブなブレイクスルーを発見しようという気概だけは常に持ち続けねばならないだろう。マーケティングだけの問題ではない、開発者も、経営者も一体となって考えるべき課題である。
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April 20, 2007
東京国際フォーラムにおいて開かれている日経ナレッジマネジメントフォーラム2007に参加している。
現在休み時間であるが、午前中に開かれた、基調講演の冒頭のスピーチのみ、取り急ぎお届けしたい。
日頃、各紙誌で言われていることではあるが、改めて諦聴に値する内容であった。
基調講演講師・早稲田大学ビジネススクール教授・商学博士 松田修一
「企業価値向上のエンジンは!」
KM(Knowledge Management)という切り口で考えれば、それは企業価値を高めるという目的の延長線上にあると言える。
現在日本は「国内に引きこもる」か「グローバルに打って出る」かで未来が大きく変わる岐路に立っている。
国内の市場規模は米国の二分の一あり、それだけでも十分に魅力的な市場だと言える。しかし、「人口動態」に注目することを忘れてはいけない。
2007年から団塊世代の大量定年が始まり、その消費パワーに注目が集まっている。しかしそれはあまりに近視眼的。2~3年先しか見ていない。
日本経済は人口構成が大きく変わらないことを前提に考えがちである。しかし、実態は「人口減少によって縮んでいく市場」であることを忘れてはいけない。
もはや、好むと好まざるに関わらず、グローバルに打って出るしかないのである。すでに国内の成長企業は、マザーマーケットを国内ではなく、グローバルとしてみている。
グローバル化する場合、一番問題になるのが、日本的価値観とグローバルの価値観の相克である。
日本企業の力の源泉は、終身雇用を中心とした制度による、個人の企業への高いコミットであり、同質な価値観を持った個人同士の「言わずもがな」の連帯である。
しかし、グローバル化すれば、もはやそれは前提とできない。異質なものが入ってくる。もはや「暗黙知」だけではやっていけない。そうした時代に日本は何を成長のエンジンとするのかが問題である。
・・・以下、機会をみて何らかの形で詳細をお伝えしたい。
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過日、久々の健康診断を受診した。
開業したばかりのミッドタウンや、日本橋の三井タワー内などの医療施設も利用可能とあったが全く予約が取れず、ごく普通の地域検診センターを利用。
簡素な設備なので、待ち時間は座り心地の悪いイスで惰性で流されているテレビを眺めることになる。
昼日中のテレビを見る機会などめったにないので、それはそれで貴重な体験であったが、一つ驚いたことがある。
かなりの数でパチンコ新機種のCFが流されているのだ。思い出せば、正月のテレビもそうであった。
非常なる違和感。
貸金業法改正によって、消費者金融業者に対する規制が強化され、上限金利の引き下げ(いわゆるグレーゾーン金利撤廃)などが決まった。
さらに、あまり知られていないが、「出店規制」も行なわれることになっており、パチンコをはじめとする遊技施設の近隣には店舗や自動契約機などが設置できなくなる。
「多重債務者が減って良いではないか」という論もある。しかし、どうだろうか。論理的に考えてみたい。
マーケティングの基本中の基本である、「ニーズとウォンツ」である。
以前、このBlogでも「カメラをください」や「動物園に行きたい」、またもっと有名な「ドリルをください」の話しを記した。
それらは、全て「ウォンツ」である。
生活者が、それらのものを欲しがる・望む裏には、その理由たる「ニーズ」がある。
前述の「カメラ」「動物園」「ドリル」のニーズは各々、「写真を撮りたい」「動物がみたい」「穴を空けたい」だ。
「人はドリルが欲しいのではない、穴が空けたいのだ」はマーケティングの教科書でも有名な言葉である。
そのことから考えれば、「金が借りたい」はウォンツである。その裏側には当然、「お金を使いたい」というニーズがある。
問題は、さらにそのニーズを掘り下げれば、「何にお金を使いたいのか」という理由がある。ニーズの掘り下げだ。
当然、消費者金融でお金を借りる顧客には、健全な資金需要を持っている人も少なくないだろう。
そして、自身の条件が銀行の基準に合致しなかったため、いわば自ら捜したセーフティーネットとして、消費者金融会社に辿り着いた人もいるだろう。
健全な資金需要・身の丈にあった借り入れ・確実な返済・・・であれば、何ら問題はない。
消費者金融会社はCFのい出稿規制も受けており、テレビの深夜枠で「計画的な利用の啓発」という内容しか伝えられない状況であるが、まさにその内容通りの利用形態だ。
だが、遊戯施設近隣への「出店規制」が掲げるられるからには、「パチンコ(スロット)に金をつぎ込み、さらに借金を重ね、多重債務化する」という構図が見えているからであろうことは間違いない。
しかし、一方の「貸す側」はガチガチに規制を強化し、「使わせる側」は野放しという状況はおかしくないだろうか。
「ウォンツ」に応えることだけを一方的に縛り、「ニーズの元」がテレビで煽られている状況を看過している。
「パチンコは数あるニーズの一つに過ぎない」との論もあろう。しかし、前述の「出店規制」を考えた時点で、規制自体がその「因果関係」を立証していることは明らかではないか。
この問題は、非常に難しく、根が深いため、気楽に論ずるつもりはない。
しかし、昼下がりに繰り返し放送されるパチンコのCFに対する違和感を感じ、毎朝パチンコ店の前で順番待ちをしている、どこか無気力な若者の姿を見ている者としては、一度は論じてみようと筆を取った次第だ。
様々な角度から論じるべきことはわかるが、僅かこれだけの文字数で指摘できるぐらいの論理の破綻はどうにもいただけないと思う。
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April 19, 2007
4月17日の日経夕刊一面コラム「あすへの話題」。
先日、当Blog「私的桜論」で、金森が「花見に対する考え方」で異論を呈した論旨を展開された教授が今度は「都市景観の美しさ」について論じられていた。
(今回はお名前を出させていただきます。国際文化研究センター教授の白幡洋三郎先生です)。
曰く(一部引用)<・・・つい先日京都の祇園町を昼間歩いた。メーンストリートの花見小路から電柱が消え、すっきりとした街並みが出現していた。けれどもどこか舞台の書き割りのといったよそよそしい印象で、ちょっと角を曲がった電柱が並ぶ路地に入ってはじめて「ああ祇園に来たと感じた」>
「花見」を巡っては持論と異なったが、今回は、先生の説に全面的に賛成だ。
「電線地中化」は国土交通省の公共工事における目玉の一つとして未だ各地で繰り返されている。金森も下町出身故、子供の頃から見上げれば蜘蛛の巣状に電線が空を覆った細い路地で遊んでいた。また、現在の近隣地区もまだ地中化されていないところが多い。しかし、何ら不都合はないし、むしろそれが自然な日常の風景である。
先生の主旨は「ガーデンシティー」たるシンガポールを例に挙げ、「何でもかんでも整然とした西洋風の都市景観を尊ぶのはいかがなものか」という説である。金森もそう思う。
確かに、路上の電線、特に既定より低い位置に這わされた電線を車が引っかけ、悲惨な事故が昨今相次いだ。そうした状況は早期に是正されるべきであろう。
しかし、「景観」という観点から考えれば、「何が美しくて、何が美しくないのか」「猥雑な風景はいけないのか」といったことは、個々人の価値観で異なるだろう。
白幡教授と金森の「花見論」が異なったのも、甚だ個人の価値観の違いによるところが大きかっただろう。
とすれば、「都市景観の価値観」は(当然安全面の担保は最低条件であるが)そこに住まう住人の価値観及び利便性が優先されるべきであろう。
銀座の建物高度制限は、松坂屋の高層化を巡って随分と論議がなされたが、結局は多くは銀座で商業を営む人々の声で高度制限が設けられたことは記憶に新しい。「自主ルール」が作られたわけである。
しかし、問題は都市景観や街並み・道路の改修などは、住民の意見が吸い上げられる前に、かなり綿密な計画は固められ、「これでいいですね!」とばかりに行政側から確認の儀式だけが行なわれ、その後は凄まじい勢いで工事に突入していく。
実は金森の住居前には二つの幹線道路をまたぐ、巨大な歩道橋が架かっている。それが、一方の幹線道路を立体交差化することになり、撤去することとなった。
その立体交差化に関しては、前述のような「儀式」としての住民説明会が数回開かれたが、既に綿密に練られた計画と、「そこに住まう住民のためでなく、道路を利用する全ての人の利便性向上のため」という大義名分の前には反対意見をはさむ余地は既になかった。
確かに、昔は「歩道橋下は自転車のみ通行可で、歩行者は歩道橋を渡ること」となっており、走って横断すると警官に怒られ、「人のための道路ではないか。なんと理不尽な。」と憤ったこともある。
しかし、数年前、区議(確か民主党)が頑張って、横断時間を調整するなどして、人も自転車も通れるようになった。それでも、急ぐときには歩道橋を駆け上がれば早く横断ができるなど、時々に応じて便利に使われていた。
「住民説明会」の前に通行量調査もやっていたようなので、「利用者も少ないので、撤去」という理由も付けやすかったのだろう。しかし、「普段使わずとも、必要なときに利用する」という住民は多かった。
そのあたりの意見を吸い上げずに、数字だけでなぜ判断するのか。
加えて、「景観」の論に戻せば、決して美しくはないかもしれないが、子供の頃から見慣れた、「巨大な歩道橋のある交差点」は既に見慣れた風景であり、たまにそこに登って四方に行き交う車眺めることも好きだった。
その歩道橋が一昨夜、ついに解体されはじめた。数ヶ月後には、その歩道橋を遙かに上回る立体交差が空を覆うことになる。
工事の総額は確か35億円あまりだったと記憶している。誰のための35億円なのだろうか。
「景観」で考えれば、歩道橋にあがりさえすれば望めた空は、もう失われることになる。変わって、眼下に見下ろした車は頭の上を通行していくことになる。どうにもなじめない景色に変貌していくことになるのだ。
「日本橋に空を」ということで、日本橋の上に架かる高速道路を地下に移す大工事の計画は、その後どうなったのかニュースを追いかけていないのでわからない。
しかし、日本橋には空を取り戻しても、下町からは空が失われていくのだ。何ともやるせない。
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April 17, 2007
本日発売の小学館の「DIME 9号」。
19ページの「仕事に遊びに・使える自販機は”駅ナカ”にあり!」という」ページに金森の「一言コメント」が掲載されています。
が・・・本当に「一言」なんですね。これが。(T_T)
「鉄道会社は早朝・深夜の駅構内の利便性を高めたり、空きスペースを有効に活用したいから自販機は格好のネタ。今後の課題はより魅力的な品揃えです」(青山学院大学非常勤講師・金森努氏)と話す。
実は、駅ナカビジネスに関してはこのBlogで何度か書いていて、それを記者の方が見つけて声をかけてくれたのですが、該当ページが1ページ構成だと知らずに金森は張り切って回答メモをガッツリ書いて送ってしまいました。
(過去もメディアからの取材には、必ず以下のようにできるだけ丁寧に回答しています。メディアの方!ご用の際にはよろしくお願いします!)
・・・というわけで、せっかくまとめたメモなので、このBlogで公開します。
メモですが、ついクセで、コラム調になっていますので、読み物としても成立するかな、と。
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なんだかここ数年、「駅ナカビジネス」のおかげで「駅」というか、「駅舎」が生まれ変わったようだ。今にして思えば、なんとも以前の駅舎は面白くも何ともなかった。「列車に乗るために必然的に利用するだけのもの」という存在。鉄道会社も必要最低限の清掃や保守しか行っていなかったのではないだろうか。煤けた無機質な存在でしかなかった。
それが、一変したのは駅舎に様々なショップが進出してきた頃からだ。品川駅は頻繁に利用するが、「エキュート」はすばらしい。ともすれば、移動の合間に「ホームで立ちそば」という寂しい昼食を摂っていた生活が一変した。また、さすがに2,500円ものランチコースを一人で食べはしないが、移動途中で名だたる店のランチが食せるという大義名分があれば、人を誘うことも容易だ。まさに「Viva!駅ナカ」だ。
だが、この「駅ナカ隆盛」も慣れない駅に行くとマイナスに作用する。品川駅ぐらいに広く、さらに乗降客の動線やサイン計画が綿密になされていればいいが、乗り換え客の多さに目を付けてか、そうした駅の狭い構内に店舗を詰め込む例も散見される。これはイタダケナイ。「駅舎」とは、「列車の利用者がいかにスムーズに乗降、または乗り換えができること」が重要。その意味からすれば、「駅ナカ」の施設は明らかに「附帯施設」であり、「駅舎の本来的な機能(スムーズな乗降・乗り換え)」を妨げるものではあってはならないはずだ。
「駅ナカ」には積極的な利用層がいる一方で、否定的な層も確実に存在するだろう。その「不満層」の発生をいかに防ぎつつ、さらにステキな「駅ナカ」を展開するかは、「駅舎本来の機能」をきちんと確保することにかかっているように思う。
さらに、「駅ナカ」は新たな展開を迎えている。「自動販売機ビジネス」がそれのようだ。名刺作成機、傘販売機、自動DVDレンタル機、ガチャガチャ・・・。
なるほど、自動販売機ビジネスに関わった人であれば、その設置に際しての地権者や関係者との調整の苦労はよく知るところであろうが、自社敷地内の駅舎であれば、そうした苦労とは無縁な世界だ。
鉄道会社としは、早朝・深夜の駅構内の利便性を高めたり、空きスペースを有効に活用したいから自販機は格好のネタとなるだろう。
ただし、苦労がないだけ、採算性や、利用者ニーズにどれだけマッチしているのか疑問がある。「自動DVDレンタル機」はレンタルチェーンを上回る品揃えができれば、利用者の“Time saving”というニーズにマッチするだろう。
まぁ、傘販売機も駅舎内に売店がないのなら、良いサービスと言えるだろう。しかし、一般のビジネスの常識で考えれば、利用機会・頻度を考えればわざわざ設置するべきか疑問だ。あくまで「利用者サービス」と考えるべきか。
そして「ガチャガチャ」。これは、初期段階での「こんなところにガチャガチャが!」というサプライズによって利用はされるかもしれないが、継続的な利用はどうだろうか。秋葉原などで局地的にマニアックなプライズを提供すれば継続利用は見込まれるかもしれないが・・・。
しかし、一番気になるのはJRの新聞自動販売機だ。駅売りの新聞は、売店のオバチャンに「これもらうよ!」とピッタリの硬貨を投げつけるようにして支払い、オバチャンも「はい、行ってらっしゃい!」と応える「阿吽の呼吸」が基本ではないだろうか。それが自動販売機では何とも味気ない。売店をどんどんコンビニ化し、POSレジを導入、カードへのチャージができる拠点とする鉄道会社の戦略はわかる。しかし、それはどうにも利用者ニーズとの乖離を感じてならない。
「便利でオシャレな駅」はステキだ。しかし、あまりに利用者の日常とかけ離れてしまうと、かえって「売店のオバチャンとホームの立ち食いソバ」が懐かしくなってくる。
より魅力的な品揃えに留意するといった課題も含め、うまくバランスを取って、驚きと便利さ、満足感を「駅ナカ」で利用者に提供して欲しい。
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April 16, 2007
16日月曜日は朝から少々バタバタすることがわかっているので、この原稿は14日土曜日に書いて、タイマーをセットしておいたものです。
ココログのタイマーは時々不具合を起こすので心配ですが、無事なら16日朝7:00にアップされているはずです。
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さて、本日14日土曜日は青学での「産業論・ベンチャービジネスとマーケティング」の今期第1回目の講義。
しかし、お伝えしたいのはそのことではなく、別の話題。
今日は朝から天気もよく、汗ばむぐらいの陽気。気温も24度ぐらいまで上がったようで、学生も半袖やTシャツ姿が多い。
そして、女子学生の多くがハンドタオルを握りしめての受講である。
確かに、今期の校舎は随分古い。なんだか空調もよくない。
しかし、金森の目に留まったのは、女子学生のハンドタオルに刺繍されたキャラクター。
「ひこにゃん」!である。
http://www.hikone-400th.jp/about/mark.php#content_02
「ひこにゃん」はすでに全国区でどんどん知名度が上がり、グッズもかなり売れているとは聞いていたが、実物を見るのは初めてだった。
Googleで検索してみる。「ひこにゃん の検索結果 約 418,000 件」。すごい数だ。(ここで取り上げているので、また1件増えたわけですね)。
彦根城築城400年祭りのキャラクターとして誕生した、ご覧の通りの「ねこ」である。
いわゆる、かわいいんだか、かわいくないんだかわからない、みうらじゅん氏命名の「ゆるキャラ」というカテゴリーに分類できるだろう。
上記ホームページによると「井伊の赤備えのカブトをかぶった猫(彦根藩二代藩主井伊直孝公を手招きして、雷雨から救った招き猫)をモデルにしています。」とのことである。
その姿の由来よりも、その存在の「ゆるさ」が新しい。
なぜ、ここまで有名になり、グッズも売れているのかを調べると、キャラクターの使用権利が「ゆるい」のだ。
ひこにゃんは申請前提であるが、基本的に著作権料フリーなのだ。
そのおかげでグッズがあるわあるわ・・・。
http://www.hikone-400th.jp/goods/
考えてみれば、自治体のキャラクターとして、このモデルは非常に正しいものではないだろうか。
作家はウィキペディア(Wikipedia)』¥で調べてみると「もへろん」という若きフリーイラストレーターだそうだ。
自治体とそのような契約を交わしたのか詳細はわからないが、恐らく、著作権売り切りでこのキャラクターを作ったのだろう。
そして、自治体も、その権利でビジネスをするのではなく、フリーとした。
そのことで、まず第一に「彦根城築城400年祭り」自体が有名になる。盛り上がれば来場者も増えるだろう。
また、グッズも多くは地元の企業が作っているようだ。地域振興になっている。
作家自身も権利収入はないものの、生み出したキャラクターが有名になれば、自身の知名度も向上する。
自治体が厳しい財政の中から、有名な作家にキャラクター制作を依頼するのでなく、若い作家を起用し、作家自身の今後のチャンスも創造する。
また、自治体自体も権利の使い方一つで町おこしのチャンスを数多く作れる。
Win-Winの好例である。
今後もこのようなモデルは増えるのではないだろうか。
個人的には、びみょ~な「ゆるキャラ」が繁殖しすぎるのもどうかとは思うのだが・・・。
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April 10, 2007
今週に入って、新橋駅烏森口の通路に「Suicaポスター」がお目見え。
紹介リーフレットをキャンペーンガールが立ち撒きしている。
「Suicaポスター」とは、上の写真のように、駅張りポスターの横にSuica端末がセットで設置されたもの。
ポスターと連動して、Suica端末にモバイルSuicaを「かざす」ことによって、ポスターの詳細情報や割引クーポンなどを取得できる携帯サイトのURLが取得できる。
あとは、携帯画面の「接続しますか?・OK」を押すだけで、サイトアクセスできるというもの。
初回のみ、簡易なユーザー登録が必要となるが、使用してみた感想としては「カンタン!」であった。
モバイルSuica端末でない場合は、Suica端末の上の画面に表示された「QRコード」を携帯でさらに読み取るという手間がかかるので、この機能はあまり利用されないように思う。
実際、今までにもQRコードが記されたポスターや印刷物は街のあちこちで目にしたが、それを読み取っている人の姿はあまり見たことがない。
やはり、携帯のQRコード読み取り機能を立ち上げ、さらにサイトにアクセスするという、前述の二段階方式が面倒なのだろう。
むろん、めんどくさがりの金森はほとんどやったことがない。
その点、今回の「Suicaポスター」をモバイルSuica端末で利用する場合の、ワンタッチ感は気楽でいい。
ただ、知っている人は「そんなのは今までにもドコモの”トルカ機能”を使った販促展開の例があるじゃないか」と言われるかもしれない。
(トルカ機能について http://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/page/20050914a.html ←多くの人が自分の携帯に付いていて、気がついていない機能だと思います。)
確かにそうなのだ。まさにこれは「トルカそのもの」。
しかし、残念なことに、トルカを利用した展開は今までうまく普及した例は少ない。
今回、金森がこの「Suicaポスター」に注目しているのは、「タイミング」なのだ。
「QRコード」の面倒さは普及の足かせになるのは必定。
しかし、「かざす」という、今までになかった「所作」というか、「行動」、もしくは「ポーズ」が人々の中に正に普及・定着しだす時期であるからだ。
Pasmoによって、バス・私鉄・地下鉄との乗り入れ定期を使っていたユーザーも、Suicaと乗り入れたことによって、「かざす」という「所作」にどんどん慣れてくるはずだ。
また、JRのキオスクもSuica対応レジに切り替わり、買い物の度に「かざす」。自販機もすごい勢いでSuica対応になっているので、飲み物を買うにも「かざす」。
で、何度かこのBlogでも取り上げたように、JRは気合いを入れて、モバイルSuica対応端末ユーザーに、その機能を利用させる駅ナカキャンペーンも実行している。
上記のように、全てが連動するように「タイミング」が合わせられているのである。
それ故、今回の「Suicaポスター」はうまく普及するのではないかと考えたわけだ。
今のところ、設置駅は新橋以外には、東京、上野、池袋、新宿、渋谷の6駅だそうだ。
(詳しくは http://www.poster.suica.jp/ )
近くにある方は一度体験されてはどうでしょう?
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April 09, 2007
いよいよ最終回のバックナンバーです。
(4月1日にアップすると予告したのですが遅れてしまいました。)
さて、全24回を振り返って、時間のあるときにまた、箱根にでもこもって加筆修正し、書籍用にまとめ直してみようかと思います。
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「顧客視点でマーケティングの基礎を見直す」という主旨で2年間にわたり続けてきた当連載も、今回で本編・続編を合わせて24回となり最終回となった。「マーケティング」の意味は「売れ続けるしくみ」といわれるが、ともすると「売り込むしくみ」になりがちである。そうした「生産者志向」から「顧客志向」への転換はできただろうか。
そして今回は最後に「どうすれば優良な顧客対応が実現できるのか?」というご質問にお答えするため、「CS(Customer Satisfaction=顧客満足)」と「CRM(Customer Relationship Management)」を取り上げたい。
■CSの極意は「常に顧客のことを考え続け、柔軟に対応すること」
CSは1990年代にブームとも言うべき広がりを見せたが、景気の低迷期にはあまり語られなくなっていた。しかし、最近の好景気を背景に再び各企業が「お客様第一主義」などを掲げるようになっている。
CSの事例といえば米国での百貨店やホテルでの顧客対応が語られるが、ここでは筆者が実際に体験した例を示す。銀座の老舗文具店はいかにして良質な顧客サービスを展開しているかを伝えたいからだ。
その店に顧客対応マニュアルといったものは存在しない。お客様中心主義を徹底する教育を行ない、顧客応対品質の向上を行なっている。マニュアルも各店員の”考える力”を奪い、画一的な接客しかできなくなるためあえて作らないそうだ。教育は「自分自身がお客様の立場になってうれしいと思うことは何でもしなさい。」ということに集約されている。そして具体的な対応例を幾つも店員に示すのである。例えばボールペンの替え芯一本だけをお買い上げのお客様が、他にもお手荷物をたくさんお持ちのようであれば、「大きな手提げにおまとめ致しましょうか」というような声掛けをしなさい。というように、微に入り細をうがつように指導をするという。
そこまで聞いてかつて筆者が実際にその店で体験した対応に得心がいった。筆者は外国製の革手帳を肌身離さず持ち歩いている。コラムや各種原稿の他のネタ帳である。しかし、うっかり手帳のリフィルを切らしてしまった。屋へ行ったが、店頭になく外国製故取り寄せに時間がかかるとのこと。ネタ帳無しでは過ごせない。途方に暮れていた筆者に対し、店員は何の躊躇もなく新品からリフィル部分を取り外し「ご不自由でしょうから、こちらをお使いください」と差し出してきた。感動した。
CSはいくら理論を覚えても、実際の場面で対応ができなければ意味がない。全く「学問」ではなく、「実践」が命なのである。そのためには「常に顧客のことを考え続け、柔軟に対応すること」であり、顧客視点が身についていなければならないのである。そしてそれは、景気に左右されるものでも、ブームに乗って行われるものではなく、企業活動の底流となっているべきなのだ。
■CRMは過去のキーワードか?
「CRMの基本は、顧客の各種データ(属性・購買履歴など)を元に正しく把握し、そのデータを使って最適なお勧めや情報提供を行うことによって、長期的な取引関係を継続させる」というものだ。
しかし、当連載は「質問編」として、読者の方からの疑問や意見に答えることを主旨としているが、「CRMはもはや過去の考え方であり、今日的には当てはまらないのか?」という質問もいくつか届いている。
CRMは顧客データを基軸とすることから、「データベース・マーケティング」が基礎となっており、ITとの連動は欠かせなくなる。しかし、ITの世界の人からは最近は「CRMって懐かしいキーワードですね」と言われることがある。確かにITの世界ではもはや過ぎ去ったトレンドであるかもしれない。ITベンダーの今日の関心事はCRMよりも「内部統制」や「J-SOX対応」などに移行しているからだ。また、その考え方の原産地である米国においては、多大なシステム投資に対し、一向に成果が上がらないことから「失敗」のレッテルが貼られてしまった。しかし、日本においてはCRMブームの頃はデフレ不況の只中にあり、大幅なシステム投資に踏み切れた企業も少なく、結果として「CRMは失敗も成功もしていない」という状態である。米国での失敗は「戦略なきシステム投資」が原因であり、日本で成功していないのは、いまだに本格的にCRMに取り組む企業が少ないからである。
今日の時代背景を考えてみよう。「モノの飽和」と言われる時代である。モノを作れば売れた高度成長期は遠い昔話になっており、今日では生活者は「気に入った物にはお金をかけるが、不要なものは一切買わない」という消費の選別を覚えた「賢い生活者」となっている。また、少子高齢化、人口減少時代はそのまま「買い手の減少」を意味し、限られた買い手を巡って、各企業は顧客の囲い込みを図る、生き残り競争に入っているのだ。それらの事象からCRMの重要性はいささかも色あせていないことが分かるだろう。いや、むしろ増しているのである。
■CRMを巡る困った誤解
CRMという考え方は、いつの頃からか「LTV(Life Time Value =顧客生涯価値)」という言葉とセットで語られるようになっていた。各々の顧客が生涯にどの程度企業に利益をもたらすのかを把握(予想)し、その利益貢献度に応じた対応を行おうとするものだ。しかし、それは単なる概念論であり、実際には顧客の「生涯価値」の測定などできようはずもないことがわかる。そうしたキーワードがセットになっているおかげでCRMが怪しげなものと捉えられてしまうのである。LTVなど考えなくとも、CRM本来の「顧客に合わせた最適なケアを行い、取引を継続していただく」という主旨が変わることはないのである。
もう一つ、「取引の継続」ということから、どうしても企業は各々の顧客からの収益を「最大化」させようという思考が働いてしまう点が上げられる。これはCRMに限らず「優良顧客」という概念が、企業側から見た平板な捉えられ方であることに起因する。顧客側から見れば、例えその企業に愛着があれば、取引が年間に数回しかなく少額であったとしても、「自分はこの企業を継続利用し、かつ同業他社に乗り換えることなく取引をしている優良顧客である」と考えるだろう。「マインドシェア」という言葉がある。いわゆる市場全体のパイのうちどの程度自社が占有できているかという「市場シェア」ではなく、個々の顧客の心の中のシェアを高めようとする考え方である。前項の通り、少子高齢化、人口減という市場のパイが縮小している環境下では、市場全体のパイを食い合うという発想では結局はそのパイを獲得することはできないだろう。必要なことは、個々の顧客にきめ細かく対応し、例え大口の顧客でないとしても、それぞれの顧客に応じた適切なケアを行い、「選ばれ続ける」ことである。そうすることにより、結果として全体のシェアを維持することができるようになるという発想の転換が必要なのだ。
■企業は「選ばれる理由」を持っているか?
当連載の主旨は「顧客視点」である。その顧客の視点で自社の姿、自社の顧客対応を見直したとき、そこに顧客から「選ばれる理由」は存在しているだろうか。さらに「選ばれ続ける」理由は存在しているだろうか。従来のマーケティングの基本であった「セグメンテーション→ターゲティング」という考え方は、ともすれば自社の都合のよいように、市場全体を切り分け、その中からおいしそうな部分だけを切り取るという「自社中心の発想」になりがちである。しかし、ここまでの論説で既にその発想では今後企業は生き延びていくことはできないことが分かっただろう。そのためにも、今回紹介したCSやCRMなどの個々の顧客、そしてその心の中にフォーカスしたきめ細かな対応が必要となってくるのだ。
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April 05, 2007
金森は「タウン・ウオッチ」が趣味なので、実によく街を歩く。そしてしばらく歩くと、必ず5~6部のフリーペーパーを受け取ることになる。
しかし、そのフリーペーパーの大増殖が最近気になってならない。
リクルートの「R25」などは既に立ち撒き配布はしていないので、新橋駅の所定コーナーに発行日に取りに行くが、同誌ほど内容的に洗練されたフリーペーパーは数えるほどしかないという感じがする。
なんと内容の乏しいものが多いことか。
社団法人日本印刷技術協会発行の「日本のフリーペーパー2006」が把握するデータでは、2005年現在国内の発行社950社。紙誌数は1,200種。年間総発行部数91億部で実に雑誌の倍に達しているという。
全1,200種のうち、読むに値するものはどれぐらいあるのだろうか。しかし、「タダだからいいか・・・」という気にはなれない。
かつてのインターネットの創生期、WEBサイトが徐々に立ち上がっていった頃のことを思い出す。
作る側は「閲覧はタダなんだから、どんなものを作ってもよかろう」という気でいた。
しかし、ユーザーは(当時は定額制の接続も高速回線もなかったので)「高い接続料と、ダウンロードする時間を我慢しているんだから、閲覧をタダでしているんではない!」と内容に対する厳しい注文を付けてきたものだ。
転じてフリーペーパー。インターネット創生期の「接続料」に相当するような、読み手が負担するコストは発生しない。
しかし、「ダウンロードする時間」と「閲覧する時間」に相当する、「受け取ってから読んでいる時間」という消費される「時間」は同じだ。
金銭的なコストの問題だけではない。人間に等しく与えられた1日24時間という時間。さらに、個々人が持つ、その中の「可処分時間」。それを「フリーペーパーを読む」という時間として費やしているのである。決してタダではない。
インターネット創生期と同じく、提供側も読者も「可処分時間の消費」にもっと注目すべきではないか。「読むに値する内容を提供しているのか」「自らの時間を消費するに値するものを読んでいるのか」と。
「つまらなければ、捨てていただいて結構です」という提供者側の理論。「ぱっと見て、つまらなければすぐ捨てるし、たまに面白い記事や得するクーポンがあれば、めっけ物だから」という読者の理論。
そう考えると、利害は一致しているようにも思える。
しかし、年間総発行部数91億部という前出の数字を思い出して欲しい。
自ら金銭を払って購入した新聞・雑誌であれば、そんな「ぱっと見て捨てる」ような行為はすまい。また、編集・発行する側も「対価を受け取るなりの責任」を持って紙面作りをしているはずだ。
しかし、捨てられる、捨てることを前提で作られている91億部もの紙誌。それらが制作され、廃棄処分される過程でどれだけの環境負荷が発生しているかを考えると、うっかり受け取ることができなくなるはずだ。
環境負荷というツケは、回りまわって自らに戻ってくる。やはり、「タダより高いものはない」のである。
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March 28, 2007
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
前回は「マーケティングのど真ん中・直球勝負」でしたが、今回は「戦略論の定番を元にした”変化球”」のつもりです。
とはいえ、いつものごとく、実体験からの発想ではありますが・・・。
では、ご覧ください。
----------------<以下バックナンバー用転載>---------------------
大阪出張の帰りの新幹線車中でこの原稿を書いている。行きの車中から執筆を始めたかったのだが、新幹線が東京駅を発車すると同時に不覚にも熟睡。隣席の男性が降車支度を始めた気配でようやく目覚めたものの、既に名古屋の手前であった。車中で済ませたい仕事は他にもたくさんあったのだが、眠さには克てず。「軽くまどろむ」というレベルではない、「気絶」に近い感覚とでも言うのだろうか。
今改めて周りを見回しても、「気絶者」が大勢いる。前日の仕事の疲れが取れていないのだろう。斜め前の男性は頭がガックリと通路にはみ出し、カートを押す車内販売員の女性が困っている。それにしても、日本のビジネスパーソンは、どうして皆こんなに疲れているのだろう。
■「ホワイトカラー・エグゼンプション」は見送られたが・・・
大きな論争を呼んだ「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」だが、「労働時間規制がなくなれば長時間労働を助長する」などと労働者側の反発を招き、今国会での法案提出は見送られた。日本人の働き過ぎは、新幹線車内の「惨状」を見ればよく分かる。
ホワイトカラー・エグゼンプションが導入されれば、時間の使い方や配分は個々人の判断に委ねられ、賃金は労働時間ではなく、成果や能力で決まる。企業の国際競争力の観点からは、長時間働く日本のホワイトカラーの生産性(仕事の効率)の低さも問題になっている。ホワイトカラー・エグゼンプションが今後どうなるかはわからないが、上司や会社の命じるままひたすら仕事をこなすのではなく、自らの意志で仕事に取り組んだり、労働時間を管理したりすることが重要になっていくのは間違いないだろう。
そこで今回は自戒の念も込めて、自律的な働き方が問われる時代の「時間管理術」を考えてみたい。
■プロダクトポートフォリオマネジメントを思い出してみよう
自己の保有資産をいかに効率的に運用するかという意味で使わる「ポートフォリオマネジメント」(PM)。1960年代、ボストンコンサルティンググループがこれにプロダクトライフサイクルの考え方を取り入れて開発したのが、「プロダクトポートフォリオマネジメント」(Products Portfolio Management=PPM)だ。
一度は見たり聞いたりしたことがある人も多いだろう。有名な四象限のマトリックスは図1の通りである。
基本的な考え方は以下の通りだ。
●問題児…… 成長率が高いものの、市場占有率が低く成長の可能性は未知数である。これを育てるには投資が必要となる。
●スター…… 成長率も占有率も高く、利益が上がっている状態だが、そのポジションを維持するためにはまだ適切な投資が必要。
●金の生る木…… 市場が成熟し成長率は低下しているものの、占有率は高い。つまり、投資も必要なく利益が上がっている状態。
●負け犬…… 成長率も占有率も低く、投資が回収できないため、基本的には順次撤退すべき状態。
ここでの“キモ”は、「金の生る木」にはできるだけ手をかけず、生み出した“利益”を「問題児」に投資し、「スター」に育てていくことである。
このPPMを自らの仕事の優先順位付けの方法として転用しようというのが、今回の筆者からのメッセージである。仕事に対する評価が労働時間の長さとは関係なくなれば、いかに時間を有効に使うかという“中身”が問われる。となれば、どの業務に注力するのかを意識的に取捨選択する必要がでてくるし、場合によっては「割に合わない仕事」は断るというようなシーンも出てくるだろう。それが「自己管理」だ。そのための判断基準作りにPPMを転用してみたい。仮に「仕事PM」と呼ぼう。
■自己の時間管理術=「仕事PM」を考えてみよう
「仕事PM」を考える上で、自らの仕事における「市場成長率」は「その仕事の魅力度」と解釈できるだろう。「魅力度」の基準は人によって異なるはずだ。自分にとって「キャリア計画に欠かせない」「スキルアップにつながる」とか、単純に「やりがいがある」と解釈する人もいるだろう。一方の「市場占有率」は「実際にどれだけ会社(上司)から評価されるか」と置き換えてみよう。
この定義に従って、各象限の仕事の意味を考えてみよう。「金の生る木」は、「仕事の魅力度」は低下しているものの、すでにルーティン化しており、かつ、一定の評価も得られる仕事であると解釈できる。だとすれば、その仕事は従来のやり方を見直してできる限り無駄を省き、時間をかけないことが肝要だ。「やりがいはないが、評価はされるので時間をかけざるを得ない」という考え方に固執しないこと。でなければ、評価は未知数ではあるが、「魅力度」が高い「問題児」の仕事を作り出せない。それ故「魅力も評価も高い」という「スター」のポジションの仕事を育てることができず、ひたすらマンネリ仕事の面倒を見るはめになり、モチベーションも一段と下がる悪循環に陥ってしまう。
もう一度繰り返すが、PPMのキモは「金の生る木」にはできるだけ手をかけず、生み出した“利益”を「問題児」に投資し、「スター」に育てていくことである。「仕事PM」でも「金の生る木」は時間をかけず効率よく済ませる。そして、ねん出した“時間”を将来的に可能性を秘める「問題児」に振り向けていく。将来の「スター」予備軍である「問題児」を積極的に作り出すチャレンジ(自己投資)をしていくのだ。もちろん、評価が低く魅力もない、「負け犬=割に合わない仕事」はさっさとお断りである。
実際の企業のPPMにおいても、「問題児」のポジションに製品が1つもない場合、将来性における大きな不安点として指摘される。「問題児」の不在は、次期「スター」不在につながり、やがて「金の生る木」が衰えたとき、全ての事業が「負け犬」になっていくからだ。変化とスピードの時代、「仕事PM」においても積極的に「問題児」にチャレンジして欲しい所以である。
「そうは言ってもしがらみが・・・」「誰かがやらなければならない仕事だから」などと言っている場合ではない。「自己管理」の時代なのだから。新幹線の中で気絶状態にならないためにも。
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March 26, 2007
本日、某区役所にて「幹部職員勉強会」という会合で講演を行った。
自治体職員対象の講演、実は金森は初めてであったが、常々、「行政にもマーケティング思考が重要」。
さらに、「企業が”顧客視点”に留意するように、行政も”生活者視点”を会得すべき」。
もっと過激に「生活者視点なき行政は”押しつけ”であり、そこから”ハコモノ発想”が起きるのである」と主張していただけに、こうした機会を得られるとは願ったり叶ったりであった。
「区長以下90余名の参加者であり、担当業務も様々。直接区民と接する機会がない受講者も多い」と事前に聞かされていたので、まぁ、5~10%の受講者が寝るのは覚悟と思っていたが、(通常の講演では例え500名相手の講演でも全員寝かさないのが金森のモットーである)、実に受講者は熱心であり、誰一人眠らなかった。傾聴度の高さ、熱意が伝わってきた。区政の変革を感じた。
演題は「”顧客視点”と”本質的価値”・・・マーケティングを切り口として」。得意の「金森節」である。
ただ、一番気を付けたのは、一般企業と行政の立場の違い。
営利企業と自治体の行政サービス、立ち位置は違う。
しかし、そうはいっても、「生活者=顧客」の視点に立って、「本質的な価値を提供する」ことが重要。
と、いうことをいかに理解してもらうかであった。
「一般企業と行政は違うんだ!」と入り口でバリアを張られては、話しは先に進まない。
だが、「行政で考えればこうですね!」と随所で置き換え、言い換えをする留意はしたものの、職員は普段の業務を通じてその重要性を理解する素地はできていたようだ。
80分の講演では大きく頷きながら傾聴し、共感してくれたようだ。また、質疑も活発で10分では全く足りなかった。
講演で使用したスライドを1枚。
ここで、コトラーの説を元に解説を始めた。
マーケティングとは「交換」の活動である。
提供者と顧客は何を交換しているのか。
提供者は「モノやサービス」を提供し、顧客はそれに対して「対価」を払っている。
・・・実はそうではない。
顧客は提供者のモノやサービスからもたらされる「価値」に対して「対価」を払っているのである。
・・・これは「行政」と「生活者」の関係でも同じである。
では、「生活者の求める価値」とは?
また、どうやってそれを行政は認識することができるのか?
ここで、「顧客視点」が」必要になり、求められている「価値」とは何なのかを知るために、
提供すべき「本質的価値」を考え抜くことが求められるのである。
・・・というぐあいに、始まる。
が、まぁ、そこは金森の講演なので、「でも難しく考えないでくださいね。まずは”タウン・ウォッチ”でその練習をしましょう」と得意のフィールドでさらにつかみを入る。
さらにいくつもの事例を織り交ぜながら「カスタマーインサイト」のフレームワークで「本質的な価値」を考えてもらうパートへと続く。(このBlogをよく読んでもらっている方には、すぐに内容はわかるだろう)。
常に笑いが途切れないのは、傾聴している証拠だ。講師冥利に尽きる。
というわけで、初の自治体職員向けの講演を行ったが、機会があればまた、是非こうした活動を通じて、自分自身も一生活者である故、行政の変革を促していければと思う。
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March 20, 2007
日本実業出版社の季刊誌「ザッツ営業」好評発売中です。
ザッツ営業 http://www.njh.co.jp/that/that.html
同誌に連載中のコラム第4回が掲載されています。
以下、転載。
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世の中には常に売れ続ける「定番」と呼ばれるものがある。なぜ定番は売れ続くことができるのか。当連載はその謎をマーケティングのセオリーから考察する。
「最高峰の誇りをかけた新たなる挑戦 モンブラン」
「モンブラン」と言えば誰もが知る万年筆の逸品である。1908年の設立以来、百年の歴史を持っている。ロゴマークでもあるキャップの六角形の白いマークは、ホワイト・スターと呼ばれ、ヨーロッパの最高峰モンブランに残る氷河を意味し、ペン先にはモンブランの標高である「4810」の刻印がなされている。
そのモンブラン、最近ではウォッチ、レザー、ジュエリー、アイウエア、香水などファッション性の高い製品への進出が顕著である。これはマーケティングの世界では「ブランド・エクステンション」と呼ばれる戦略だ。
ブランド・エクステンションとは、生活者に認知されている既存ブランドを元に、異なるカテゴリの商品やサービスに参入することを意味する。しかし、それは元となるブランドにとってはかなり危険な賭でもある。元ブランドとの関係が希薄な商品やサービスにそのブランドの名を冠することによって、ブランドの価値が希釈されてしまう恐れがある。また、新たに投入された商品やサービスが不評であった場合、ブランドが被るダメージは大きい。故に、既存ブランドの価値を守るために企業が新たな商品やサービスに進出する場合、別ブランドを新たに起こす場合も少なくない。
では、モンブランは何故、ブランド・エクステンションという賭に踏み切ったのであろうか。ここから先は筆者の推測であるが、新規に進出した商品群も「最高峰」の名に恥じることのないような「最高品質」で勝負をしようという気概の現れではないだろうか。筆者も愛用している万年筆の代表作「マイスターシュティック」は、1924年の発売以来、今も高い支持を集めている。また、その存在は単なる筆記具ではなく、所有する喜びを与えてくれ、また、ひとたび文字を綴り出せば書く喜びを感じさせてくれる。恐らく、新たな商品群もそうした物理的な要素を超えた価値を提供してくれるのであろう。
ブランド論の大家であるデビット・A・アーカーは工業的なスペックでは表せない価値を「知覚品質」という言葉で表している。技術の進歩はあらゆる製品をコモデティー化させている。これからの時代、単なるスペックでは表せない価値をいかに創造していくかが勝負となろう。
それは「ビジネスパーソン」という存在が、いかに顧客に価値を提供していくかにおいても同じ事が言える。
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March 05, 2007
販促会議の連載を掲出します。
BtoBについての第2回連続です。
3月1日発売の本誌では第12回(通算第24回)が掲載されていますので、連載終了です。
長い間ありがとうございました。
最終回は4月1日に当Blogにバックナンバーとして掲出します。
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第11回「B to Bマーケティングのキモ・その2」
前回、読者の方からのご要望に応じて法人顧客向け(B to B:Business to Business)マーケティングの基本的な留意事項として、企業内に存在するDMU(Decision Making Unit =意思決定構成単位)を中心として解説した。今回もB to Bのその他の重要事項についてお届けしよう。
■見込み度を的確に把握せよ
顧客が個人であった場合(B to C)でも、いわゆる「見込み度の把握」は当然重要だ。特にダイレクトマーケティングやCRMなどにおいては、個々の顧客の見込み度に応じたフォローや、最後の一押しを狙ったアプローチが極めて効果を発揮する。しかし、B to Bにおいて、見込み度の把握はさらに重要な意味を持つ。なぜか。それは、B to Bの場合、アプローチの多くを「人的販売」に頼ることが多いからだ。前回、B to Bの場合購買担当者は、企業の利益を目的として、計画的かつ合理的な判断の下に購買を決定すること。そしてその担当者は取引の内容によって、自身の業務評価にかかわる場合もあるため真剣であること。さらにその担当者の周辺には購買意思決定に影響を与える複数の関係者(DMU)が存在することを述べた。そのような環境の中で、購入者個人が納得すればよいB to Cとは異なり、広告や各種プロモーションなどの、いわば「空中戦」で購入まで踏み切らせることは難しい。売る側の担当者が、信頼され、説得し通してようやく契約にいたる場合がほとんどである。そうした「人的販売」は強いセールスパワーを発揮する代りに高コストになってしまうという弱みを持つ。だからこそ、適切に見込み度を把握し、その見込み度に応じた戦力配分(人員配置)を行わなければならないのだ。
例えば、まだ見込み度があまり高まっておらず、もう少し暖めなくてはならないような見込み客に対しては、毎回営業担当者を向かわせるのではなく、コールセンターからの電話と交互にアプローチを組み立てても良いだろう。その代り、見込み度が高く、もう一押しの見込み客には、価格交渉にも耐えられるような権限を持った人間を同行させることなども必要になってくる。その場合、「空振り」は許されないだろう。
■見込み度把握の判断基準とは
では、どのように見込み度を測るのか。それには自社なりの「基準」を設定しておくことが必要となる。例えば、「見込み」=「ニーズ」であるが、そのニーズが相手先の企業で購入計画としてオーソライズしているものなのか、担当者個人が関心を持っているレベルなのか。また、それに関連して、購入計画に購買意思決定者が関与している状況なのか、担当者が上申しようとしている段階で、まだ決定レベルが低いのか。「いつまでに」という購入に向けたスケジュールが確定しているのか否か。購入予算がきちんと確保されているのか、これから予算取りをするところなのか。など基準となる指標はいくつか探せるはずだ。そして、営業担当者は接触する中で、それらの情報を収集し、見込み度を測ることが第一歩であると認識しなければならない。
■さらに「シェア」を把握せよ
前項の内容は主に新規獲得の場合のポイントであるが、購入にこぎ着け、契約が取れて顧客化できたとしても、まだまだ情報収集を怠るわけにはいかない。既存顧客との取引においてキーとなる情報はいくつかあるが、その顧客の中での「自社シェア」を把握することは極めて重要となる。
例えば、自社の製品を年間1億円購入してくれている企業があったとしよう。そしてその金額は、トップクラスの上顧客であったとする。単純に考えれば「こんな良い顧客企業に納入できて、めでたし、めでたし」であるが、情報を収集してみると、同種の商品をライバル企業が2億円納めているという。さて、そうなると、第一にさらにライバルを追い出せば、さらに2億円のポテンシャル、合計3億円の取引ができるかもしれない。しかし、現在の所、ライバルの方が2倍の取引をしていて深く入り込んでいることになる。値下げをするなどして追い出そうとしてくるのはライバルの方が早いかもしれない。一気に取引がゼロになりかねない。と、いうように、自社の売上の数字だけで安心していると、大きな機会も脅威も見逃してしまうことになるので注意が必要だ。
■顧客企業内でのシェア向上を目指せ
B to Cの場合でも同じく顧客の維持・育成によって上顧客、ロイヤル顧客化していくことは重要であるが、B to Bではそれは必須要件であると言えよう。なぜなら、冒頭述べたように、人的販売に依存度が大きいため、その企業に入り込むまでに多額の営業費が投入されているからだ。それを単発の取引で終わらせては、利益率がよいはずもない。前号で述べたように、DMUとしての購買部門は、取引コスト削減のために複数の発注先に競わせようとするだろう。しかし、それをかいくぐって取引先企業内でのシェア向上を目指していくことが求められる。
ではどの程度のシェアを獲得することを目標とすればよいのだろうか。それは、取引先企業の考え方次第だ。取引先を絞り込んで優位な取引条件を引き出そうとする場合。した逆にコンプライアンスを重視して、特定の企業に取引を集中するのを嫌う企業もある。そのため一概には言えない。しかし、ある程度の目安をここで提示しておこう。通常は、市場全体におけるシェアとそのシェアを取っていることの意味合いを現わすものであるが、企業内シェアで考えれば、どの程度、安定的取引を継続させられそうの目安になるだろう。
「クープマンの目標値」といわれるものがある。それはシェアの持つ意味を大きく6つに類型化している。
①73.9%=独占的市場シェア:ほとんど安泰なシェアであり、よほどの事情がなければ短期間にシェアを逆転されることはない。但し、ほとんど寡占的な状況なので、前述の「特定企業に取引が集中している」と購買部門に目を付けられるという事態も考えられる。
②41.7%=相対的安定シェア:このシェアを取っていれば二位以下が逆転することはかなり困難なシェアと言える。実際の市場全体においては、このシェアを取っている企業はその業界のガリバーと呼ばれる企業であり、不動の地位を占めている。
③26.1%=市場影響シェア:このシェアではトップを取っていてもいつ、二位以下に逆転されるかわからない不安定な状況である。また、二位以下もそれがわかっていて、価格攻勢や新製品の上市、キャンペーンなどで影響を与えてくる。
④19.3%=並列的上位シェア:トップと二位、三位あたりまでが拮抗している状況が多く、常に入れ替えが起こっている状況と言える。その企業も、何らかの大きなアクションを起こして③の26.1%のポジションを取り、頭一つ抜け出すことを狙っている状況だろう。
⑤10.9%=市場的認知シェア:市場内でようやく認知されるギリギリのシェアである。企業内シェアで考えれば、その企業全体に取引先として認知されている最低限の状態であり、このシェアを失えば、当者の異動などと共に継続発注がなくなってしまうことも考えられる。
⑥6.8%=市場的存在シェア:市場において存在が認められている最低限のシェア。このシェア以下であれば、大手企業であればその市場から撤退を考えるレベルである。企業内シェアで考えれば、ほとんど一見の取引先であり、早く実績を重ねてシェアを拡大しない限り、継続的な取引先とは認められなくなってしまうと考えられる。
■水平展開を目指せ
前述の通り、顧客企業と継続的な取引をし、さらに取引額を上げていくには、ただ足しげく通いつめるだけではダメだ。前述の通り、情報収集に注力することは言うまでもないが、その情報の中に、顧客企業内の他部門の情報を収集することも忘れてはならない。特に、相手の企業規模が大きく、また、購買部門などで発注が一元管理されていないような先であれば、それは貴重なビジネスチャンスをつかむことができる情報になるからだ。自社の扱っている商材が何かで、取引先の部門が固定されてしまう場合はやむを得ない。しかし、ある程度ビジネスにおいて汎用的に使用される、何らかのシステム(ハード・ソフト)、ビジネス用品、通信、サービスなどが商材である場合は、一つの部門に入り込み、そこから他部門の担当者を紹介してもらい、さらに取引部門を拡大していくといった活動が重要となる。しかし、そのためには、既に当連載で何度も述べているように、B to Cの場合の「顧客による顧客の紹介」は、満足度が最大化している場合でなくては起こりにくのと同である。即ち、顧客企業の担当者」から最大級の信頼を獲得していることが必須要件となるのだ。
B to BはB to Cと比べると、特殊な要因は多い。しかし、「顧客を中心に考えること」は同じであり、B to Cでの鉄則は同じように適応できることも数多いと認識することが大切なのだ。
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February 28, 2007
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回は「マーケティングのど真ん中」「直球勝負」です。
色々な方に読んでいただきたいです。
が、4月から私の講義を履修する青学の学生、及び現在履修中のグロービスの大学院生、必読願います!!
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「象が踏んでも壊れない」・・・40代以上の方なら懐かしいキャッチフレーズであろう。商品は、「サンスター文具の“アーム筆入れ”」。テレビCMは実際に象に筆箱を踏ませ、「わぁ~本当に壊れていないや」と男の子が目を丸くするというものだった。象が筆箱を踏むというシチュエーションはかなり謎であるが、「丈夫さ」という商品スペックを伝えるのに最大級のインパクトがあったことは確かだ。実はこの筆箱、最近復刻版が発売され、密かなブームになっているのはご存じだろうか。ではなぜまた売れているのか?
■人はモノを購入するにあらず
昨今のマーケティング論の基本は、この小見出しの通りである。では、モノではなく、何に対して対価を支払うのか。それは「価値」に対してである。生活者はそのモノが自らにもたらしてくれる「価値」を購入しているのだ。実はこの考え方がまだ理解できずに苦戦する企業が後を絶たない。
冒頭の「復刻版・象が踏んでも壊れない筆箱」の購入者は、再び「丈夫で長持ちする」という商品自体に対価を払っているわけではない。「子供の頃の懐かしい思い出」に「価値」を感じて対価を払っているのだ。もはや「丈夫」という商品特性・スペックは価値ではなくなっている点に注目すべきである。
少し歴史を振り返ってみよう。「“モノ”ではなく、“価値”に対価を払う」。このような生活者の意識転換が起こったのはそう古いことではない。
高度成長期、それこそ人は「モノに対して」対価を支払っていた。1950年代の三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、それに続く60年代の新三種の神器(カラーテレビ・クーラー・マイカー)。それらを何とか「人並みに手に入れよう」と汗水垂らして働いた。まさにマスプロダクト・マスセールスの時代、「迅速な生産と供給」が勝利の方程式であり、マーケティングなどあまり重要視されていなかった。
その後70年~80年代という豊かな時代を迎え、モノが満ちあふれるようになると、「市場のパイの奪い合い」が始まった。この時代のマーケティングにおける最大の課題は「いかに魅力的な商品を作り出すか」であり、「差別化戦略」が勝利の方程式となった。だが、「商品そのものの魅力」で勝負できたのは、実にこの時代までである。
■「コモディティー化」とこだわりの低下
バブル期の大量消費とその後のバブル崩壊を経て、生活者は「選択的な消費」と「買わない自由」を覚えた。一方、商品自体も技術的進歩によって質量ともに満たされ、従来の「高級品」と「普及品」もしくは「廉価品」の機能や品質の差がどんどん縮小していった。「コモディティー化」である。
あるアパレル関係者に聞いた話であるが、こと「品質」という点に関して今日一番恐ろしい存在は「ユニクロ」だという。例えばジーンズの生地の規格に一番厳しいのは、老舗のジーンズメーカーではなくユニクロらしい。また、インナーウエアなども、デザインはともかく、その生産技術や品質は専業メーカーともはや差異はないそうだ。
ジーンズのトップブランドといえばリーバイスであろう。しかし、そのマークが表す「二頭の馬が引き裂こうとしても破れない」というような「スペック」だけでは、もはや勝負ができないのである。
1万9,800円か2万9,800円で購入できる「2プライススーツ」の店に集っているのは、まだ薄給の若いサラリーマンばかりではない。スーツ自体にコストをかけることに意味を見出せなくなり、「コモディティー品で十分」と考える多くの人が購入していっている。
アパレルやブランド品に特に顕著な傾向であるが、身の回りを見渡すといかにコモディティー品があふれているかが分かる。例えば乗用車のうち小型車・軽自動車の比率がここまで高まったのは、何も低燃費やエコロジーを意識した結果だけではない。「車に対するこだわり」の低下も少なからず作用しているはずだ。
■任天堂 VS ソニーの雌雄を決したもの
技術の進歩によって製品のスペックには差異がなくなってきている。逆に、ここからさらにスペックを拡張させようとすればきりがなくなる。ともすれば、生活者の求めていないレベル、ついていけないレベルにまで先走ってしまう。
ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーが著した「ブランド・エクイティ戦略」(ダイヤモンド社)を読み返してみると、そこに世の「コモディティー化」を脱するキーワードがある。「知覚品質」という考え方である。
「知覚品質」とは「顧客が認めている、“その製品ならでは”の価値」である。スペックを重視する「工業的な品質」は当然、「客観的に測定可能な品質」であるが、それに対してアーカーの提唱する「知覚品質」は、目に見えない「顧客の頭の中の主観的な評価」である。言い換えれば、その顧客なりの“対価を支払う理由”である。
この考えをもう少し具体的な例で見てみよう。ソニーの次世代家庭用ゲーム機「プレイステーション3(PS3)」。グラフィックの描写機能は素晴ら しく、レースのゲームなど、あまりの現実感に見ていると車酔いしそうだ。また、単なるゲーム機にとどまらない拡張性も大きな魅力である。しかし、販売台数では任天堂の「Wii(ウィー)」に大きく水をあけられてしまった。
理由は価格差だけではあるまい。マシンの性能としては恐らくPS3の方が上だろう。しかし、そこまでの高性能を一般の生活者が求めていたのか。一方のWiiのコントローラーに搭載されている「三次元モーションセンサー」は、体感的にゲームを楽しむという新しい価値を生活者に提示した。今までの延長線上で性能を高めたPS3と、「新しいゲーム体験」を生活者に訴えかけたWii。まさに「工業的な品質」対「知覚品質」の戦いだったのではないだろうか。
冒頭「人はモノを購入するにあらず。価値を購入しているのだ」と述べた。PS3は「超・高性能な(ゲーム)マシン」という「モノ」だったのではないか。対してWiiは「新しいゲーム体験を提供してくれる存在」としての「価値」が評価されたのではないかと筆者は考える。
モノは飽和し、コモディティー化の波がとどまることはないだろう。「買わない」「こだわらない」消費者も、さらに増えていくことだろう。企業が顧客視点に立って、「顧客にとっての“価値”とは何なのか」を考えられるようになった時に初めて、生活者は消費の喜びを取り戻すことができるのではないだろうか。
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February 22, 2007
LCAコミュニケーションズ社が発行しているコンタクトセンターの専門隔月誌「コンタクトセンターマネジメント」の連載です。
この連載は、金森の自説をコンタクトセンター向けにまとめ直して発表しています。
今回で終了です。
この原稿とは関係ないと思いますが、最近ナゼかまた、コンタクトセンターの世界に関わることが多くなっています。
また、折に触れて原稿もしたためてみようかと思います。
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第4回「ステートメントを作成する」
■現場の関与こそが効果を倍増させる
第1回から「センター・アイデンティティーの構築」というテーマを掲げて、随分と引っ張ってしまった感もある。しかし、既に述べたように「センター・アイデンティティー」は一度構築すると、そのコンタクトセンターの精神的支柱であり、文字通り「アイデンティティー(identity=identity:個性;独自性,固有性,主体性)」となる。故に、検討に時間をかけても、かけ過ぎと言うことはない。また、その作成プロセスは前回「環境分析」を末端のコミュニケーターも巻き込んで実施し、理解させるよう述べた。さらに、ここから先のステートメント化(明文化)も、センターマネージャー、スーパーバイザー、コミュニケーターが一体となって、まさに缶詰めのミーティングを最低でも一日は行って作成することが必要だ。なぜなら、「上から押しつけられた」という感覚が少しでもあると、「センター・アイデンティティー」は「現場を鼓舞する魔法の言葉」から、単なる(悪い意味での)「お題目」となってしまうからだ。策定プロセスはまさに「業務を行う現場の自分たちが関与した」という事実認識こそがその効果を増すのである。
では、具体的にどのように現場を巻き込めばいいのか。前号で「環境分析」を行うために現場の人間も参画させることが肝要と述べたが、その分析はあまりに多い人数で行うと収拾がつかなくなってしまうため、選抜された人員で実施することになるだろう。それを補う意味も含めて、できるだけ多くの現場スタッフ(スーパーバイザーやコミュニケーター)との個別のミーティング、もしくは少人数でのミーティングを行い、現状認識の共有とさらに詳細な意見のヒアリングを行う必要がある。そして、この時に吸い上げられた意見やキーワードを、実際のステートメント化の際に盛り込むことによって、「現場の意見がきちんと反映されている」という認識を持たせることが可能となるのである。
■「ピラミッドチャート」を活用したステートメント作り
既にここまで繰り返し述べているように、今日の企業活動は顧客視点を持つことが必要とされている。その中で顧客接点の要諦を担うコンタクトセンターの存在はさらにその重要性は増す。それを形にするために、ここで一つのフレームワークを提唱したい。「ピラミッドチャート」という企業にとって理想的な顧客を中心に据えて、それと自社のフィロソフィーや個性をバランスさせながらステートメントを構築していくためのものだ。(図1)
そのフレームワークは以下の5つの要素から構成される。
①価値理念・・・その企業の哲学を表す、ブランドの価値ともなる部分。「自社は顧客に対してそのような存在であるのか」を明確にすることが中心となる。
②個性・・・他の企業にはない、その企業の独自性を表す部分。自社にしかできない、顧客に提示できることは何かを明確にする。
③理想とする顧客・・・誰も彼も「大切なお客様」としていたのでは「強いブランド」とはなれない。いや、ブランドとしてのアイデンティティーが形成できないことになる。自社はどのようなお客様のために存在するのかを明確に設定する。
④機能的付加価値・・・理想的な顧客に提供できる物理的メリット。自社が自信を持って提供できるものは何なのかを明確にする。
⑤情緒的付加価値・・・理想的な顧客との各種コミュニケーションを通じて、顧客をどのような気分にさせることができるかという、無形の付加価値を明確にする。
上記①~⑤を設定するためには、図のピラミッドでそれぞれのパーツがどのような相互関係を持っているのかを意識して検討していくことが大切だ。次のような文章に当てはまる言葉として作り込んでいくといいだろう。
○○会社は、【価値理念】を約束します。
私たちは、【個性】として、
【理想的なお客様】に、
【機能的な付加価値】を提供し、
【情緒的な付加価値】を感じていただくため、努力をしていきます。
この【 】内に当てはまる言葉が見つかったら、前述の図のピラミッドに載せて相互関係を再度点検してみよう。違和感なく、整合性が感じられればブランドステートメントが完成するはずだ。
■モノの本質的価値」を理解すること
上記のようにブランドステートメントを策定し、それに従ってビジネスを展開していくにも、自社の商品・サービスの「本質的な価値」を理解していなければ顧客コミュニケーションも売り方も間違ってしまう。しかし、残念ながらそのような間違った例が散見されてならない。筆者がよく引き合いに出すのが生命保険という商品だ。生命保険という商品の本質的な価値とは何であろうか。「補償額」というものがある意味表面的な価値であろう。筆者は標準より割と高額な生命保険をかけている。その「高額な補償額」が生命保険の「本質的な価値」なのかといえば、答えは「否」である。高額な補償額は当然、月々の掛け金も高い。それを何のために払い続けているのか。その理由は「これだけの額を残せば何か自分にあっても遺された家族は大丈夫だろうという『安心感』」に対して支払っているのだ。つまり、筆者の保険の本質的な価値は「安心感」なのである。
しかし、かつて筆者の保険の担当営業は非常に対応が悪く、コンタクトをしてこない、申し込みの意思を示しても対応が遅い、申込書類の記入を間違わせる、入院したときになかなか見舞いにも来ないというダメのオンパレードのような人物であった。当然、営業成績も悪いようだった。なぜか?それは、彼が自ら扱っている「生命保険」という商品の「本質的な価値」を理解せずに、補償額や貯蓄性の有利さなどといった表面的なスペックだけを訴求し、契約が済んだ顧客はそっちのけで、またすぐに新規を追い始めるからだ。
優秀な生命保険の営業担当者は、本質的な価値を理解しているが故に、顧客に対するケアは万全で、それ故、既顧客から紹介をもらい自らの顧客基盤を拡大再生産していくという成功法則を身につけている。元東京大学大学院教授・丸の内ブランドフォーラム代表の片平英貴氏が提唱している「AIDMAモデル」に代わる「AIDEES(Attention・Interest・Desire・Experience・Enthusiasm・Share)モデル」がある。それもExperience(経験)して、その対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)するというものだ。
インターネットの普及でBlogやSNSでの推奨行為は気軽にできるようになっており、その伝播の速度と幅の広さは以前と比べるべくもない。とすれば、「対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)する」という図式を達成するためにも、まずは「本質的な価値」を理解した行動や売り方、対応がいかに重要か分かるだろう。それだけではない。理解していない個人が企業の中に存在するだけで、その企業のブランドにダメージを与えることすらあるのだ。
■顧客を「囲い込む」のではなく、顧客が離れたくなくなるようにすること
昨今、「顧客の囲い込み」という言葉に対する風当たりが強い。どうやらそうした論者は、携帯電話の年間割引や様々な割引サービスに加入させ、途中解約しようとすると違約金を払わねばならなくなるというような、「アトリション・コスト」最大化戦略を批判の中心としているようだ。確かにそれは、「囲い込む」というよりも、さらにカギをかけて逃げられなくするという「ロック・イン」した状態になる。効率は良いが本来的には正しい姿ではないだろう。
それよりも前項の「Enthusiasm」のように、「惚れ込んで離れられなくなる」という状態に顧客を導く経験(Experience)を提供することが重要であろう。
再び自身の保険契約の例で恐縮であるが、前述のダメ担当者に愛想を尽かした筆者は、その本社に電話で掛け合い、優秀な担当者に替えてもらった。すると、さすがに本社のお墨付きの“優秀な担当者”だけのことはあった。すばらしく対応がよく、納得感のある保険プランの提案なども万全であった。まさにその担当者に惚れ込んだ筆者は、彼に何か良くしてやれることはないかと、事ある毎に保険に関心のある知人や部下を紹介した。正に彼は既顧客に対する良好な対応によって、前述の既顧客から紹介をもらい自らの顧客基盤を拡大再生産していくという成功の法則を実現しているのだ。
■ミッションステートメントと対になる「運営指針」と「行動規範」
さて、ミッションステートメントが完成したら、センターの「理念」に関する部分はきちんと設定できたことになる。さらにその理念を実行レベルに移すために、第一回で紹介したように、それと対になる、センターの「運営指針」とそのセンターの構成員のための「行動規範」を設定しよう。(図2・再掲)
ミッションステートメントは図の例では「理念」の部分に当たる。そこに所属するスタッフの存在意義と、本来あるべき姿というもっとも根源的な要素を規定している。次の「運営指針」は「理念」で規定された存在であるスタッフが、そのセンターのミッション、つまりセンターとしてのあるべき姿や向かうべき方向性を理解するために規定する。そして、そこまでの理解がなされた後に「行動規範」で「運営指針」に従って、本来あるべき姿を理解したスタッフとしてそのように具体的に行動するべきなのかを規定する。この「運営指針」と「行動規範」は各企業の考え方や文化によって内容や表現方法が変わってくるため、フレームワーク化が難しいためここでは例示しない。しかし、理念と運営指針・行動規範は一対のものであるため整合性がとれていることが重要であることを作成上の注意点として述べておきたい。
■この機会にコミュニケーターの呼称も見直してみよう
センター・アイデンティティーを完成させるためには前述のようなミッションステートメントによる「理念」の明文化、さらに「運営指針」「行動規範」を制定するだけではなく、さらに拡大する場合もある。目的は以下に現場をモチベートし、活性化するかであるが、そのためにはコミュニケーターの呼称を改訂するという方法もお勧めである。コンタクトセンターで顧客と対応する担当者は、以前は「オペレーター」と呼ばれることが多かったが、その響きがoperation=作業をする者という、「処理」をイメージするためにあまり使われなくなっているようだ。替わって、顧客とcommunicationをする者という意味から「コミュニケーター」という呼称か、具体的な成果を出すという意味でTSR(Telephone Sales Representative)という呼称が使われる場合が多いようだ。しかし、実際には特にTSRという略称の本来の意味も理解していない担当者も多い。また、コミュニケーターとい呼称が一般的すぎて自分たちの存在の定義ができないといった声も聞かれる。そこで、効果的なのが、センター・アイデンティティーを完成させる一環として、その呼称を改訂してしまうことだ。自分たちがどのような存在でありたいのか。また、そのためにはどのような呼称がふさわしいと思うのか。それは現場の意見を十分ヒアリングする必要があるが、筆者は以前、あるセンターで「コミュニケーション・エキスパート」という呼称に改訂した事例を持っている。コミュニケーションを行う専門家という意味合いであるが、専門家としての誇りを感じつつ、それにふさわしいコミュニケーションのあり方を常に意識させるという意味で大変効果を上げることができたのである。
■インナープロモーションによって盛り上げ、定着を図る
さて、このようにして一連のセンター・アイデンティティーを完成させていくのであるが、さらに力を入れる場合は「コンタクトセンター」という一般名称から、センターそのものの名称も開発したり、さらにそのロゴやシンボルマークを開発したりする例もある。要するに、どこまでやれば、どの程度センターのあらゆる階層の担当者がモチベートされ成果につながるかという観点で考えるのだ。さすがにセンター名称やロゴ、シンボルマークなどは各企業、センターの個別要素が大きいため、本稿で一般法則を語ることはできないため割愛するが、そこまでやって効果が上がるとなれば、ぜひとも踏み込んで欲しい部分である。
さらに、制定した一連のセンター・アイデンティティーは定着させなければ意味がない。具体的には車内へのインナープロモーションを展開するのである。とかく、社内においてコンタクトセンターは弱い立場になりがちである。そのセンターが大きく変わったことをアピールし、存在意義やスタンスを再認識させるのだ。具体的には社内へのポスターの貼付やセンター見学会の実施、社内向け説明資料の作成などである。このインナープロモーションの展開によって、社内からの見られ方が変わるだけでなく、センターの各担当者も「社内にこれだけアピールされた」というモチベーションアップ効果も大きく作用する。
■ミッションステートメントのもう一つの活用法
最後に、現場で頑張るスーパーバイザーやコミュニケーターのモチベーションをさらに向上させる、とっておきの方策を紹介しよう。それを筆者は「マイ・ミッションステートメントの構築」と呼んでいる。即ち、個々のコミュニケーターやスーパーバイザー自身に、先の構築したセンター全体のミッションステートメントを受けて、「その実現のために自分自身はどのように行動していくのか」ということを、同じピラミッドチャートを用いて考えさせ、「宣言」させるのだ。その際は以下のような文言になる。
「私、○○は、【価値理念】を約束します。私は、【個性】として、【理想的なお客様】に、【機能的な付加価値】を提供し、【情緒的な付加価値】を感じていただくため、努力をしていきます」。
センター全体のステートメントとの違いは、主語が「私」になっていることだ。いわばこれは、個々人がセンター全体のミッションステートメントをどのように解釈し、その実現のためにどのような努力をしていくかを問うて、会社に対して何を約束するのかという「宣言」をさせるのだ。「有言実行」という言葉があるが、この「宣言」をさせることにより、コミュニケーターやスーパーバイザーは自らを鼓舞することになる。その際、ステートメントの構築方法を教える、「研修」の形式を取り、20人程度を集めて構築作業をさせ、最後に研修の参加者全員の前で「宣言」をさせるとさらに効果的である。
以上、4回にわたって述べてきたセンター・アイデンティティーの構築であるが、繰り返せばポイントはまず、第2回に記した「環境分析」によって現状認識をさせること。そして第3回に記した「顧客対応の重要性」を再認識させること。さらに、いかに現場に目的意識を持たせ、モチベーションを向上させるかにある。その意味からも総仕上げとして、今回最後に記した「宣言」のような儀式めいた方策も重要である。ぜひ、この一連の手法によって、センター全体が活性化することを祈念してこの連載を終えることとしよう。
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February 02, 2007
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
少々大きなテーマなので、執筆を躊躇しましたが、思い切って書いてみました。
皆様の周りで同様な事象が起きているということがあれば、是非お聞かせいただければと思います。
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「コミュニケーション不全」は昨今、ニッポンの現代病の1つとも言われている。「コミュニケーション(communication)」の語源は、ラテン語の「共通したもの」を表す(コミュニス:communis)や、「共有物」を表す(コモン:common)にあるという説が有力だ。それが「不全(機能や活動が完全でないこと)」であるというのは、すなわち人と人、もしくは特定の集団内、さらには社会において、他者の意識や価値観を共有できず、適切な(relevant)関係が構築できない状態を表している。
このコミュニケーション不全、「過度のメール依存」や「引きこもり」などに通じる若者の問題としてクローズアップされることが多いが、ビジネスの世界も例外ではない。達成されない営業目標、繰り返し起きるミス、製品トラブル・・・。それらの原因が「コミュニケーション」にあることも少なくない。
■「伝わっているハズ」という思い込み
コミュニケーションはマーケティングの要であり、マーケティングの世界で「コミュニケーション不全」は看過できない問題になりつつある。
ある飲料メーカーのお客様相談センターマネジャーの話である。ホットの緑茶ボトルに「ホット専用」と記して発売したところ、「冷めてしまったが飲んで大丈夫か?」という問い合わせが相次ぎ、やむなく「温めてもおいしい」と表記を変更したという。
普通に考えればいくら「専用」と書いてあったとしても、それがぬるくなったり、冷めてしまったりしたからといって、飲用に問題があるとは思い難い。しかし、顧客の感覚はそうではなかった。これは、旧来企業が考えていた「分かるハズ」「伝わるハズ」という感覚が、今日では危うい幻想でしかないことを示す事例といえるだろう。
■ミドルの得意技は“スルーパス”?
企業の社員間であれば、古い言葉でいえば「同じ釜の飯を食った仲」であり共通認識も持ちやすく、コミュニケーションロスなど発生しないと思いがちだ。だが、現実にそれは起きている。
スルーパスといえば、昨年のW杯ドイツ大会におけるブラジル-日本戦で、後半14分のジウベルトによるブラジル3点目のゴールをもたらした、ロナウジーニョのスルーパスが記憶に新しい。しかし、ここで筆者がいう“スルーパス”は、そのような芸術的な技とはほど遠い。企業内でトップからの方針を、そのままスルー(threw:通り抜け)して、部下に落とす中間管理職の様を指す。
トップから提示されるのはどの企業でも「方向性」であり、それをミドルが解釈した上で、効果的・効率的な方法論に基づいて現場を指揮し、実行に導く。各々の持ち場でトップの方針を具体化し実現するのが、ミドルの正常な姿だ。しかし現実には、トップの方針がブレイクダウンされないまま、現場への「スルーパス」が横行している。
企業業績がよく、勢いのあるうちは現場が各々の解釈で動き、それなりの成果を上げていく。しかし、いったん業績が悪化し始め、苦境に立たされると、途端に現場の動きが鈍くなったり、ちくはぐになったりする。そして、その時点で「スルーパス」という悪弊のツケがあらわになり、ミドルは自身の存在意義と責任を問われることになる。
■一人歩きするスローガンやキャッチコピー
今日、多くの企業内で、また巷(ちまた)で、うわべだけのスローガンやキャッチフレーズが一人歩きしている。誰が聞いてもNOとは言いにくい「体言止め」や美辞麗句、聞こえのよいカタカナや英語など――例えば「お客様への安心と満足感の提供」のような言葉だ。
しかし実態としては、各々の社員や顧客が理解する「安心」と「満足」は異なっていたりする。そもそも「お客様が安心できる」とはどのような状態なのか?そしてそれは、そのようにして実現できるものなのか?また、顧客は何に対して、どのような状態になれば「満足」を感じるのか。そうした定義と、実現のための方法論が明らかになっていない。共通認識のないまま、便利な言葉をもてあそび、そこから先を考えなくなる「思考停止」に陥っているのだ。当然、言葉が表すような成果は達成されない。こうした現象も、「コミュニケーション不全」以外の何者でもない。
■「論理思考」に基づくコミュニケーションへの転換
コピーライターは広告コミュニケーションの花形職業だが、筆者の知人は、「最近、ヒット作と評価されるキャッチコピーが作りにくくなっている」と嘆く。曰く、「人々の行動様式が多様化している結果、価値観や心理も様々に細分化した。共通の体験や知識のバックグラウンドを元に、誰もが『ああ、こんなことを言っているのか。うまい言葉を遣うなぁ』と感心するようなコピーはもはや成立しない」のだと。加えて、日本人に特徴的な相手への「思いやり」や「行間を読む」能力が低下していることも、「伝わりにくさ」の要因なのだろうと分析する。
確かに、これまで日本語はあいまいさや、「言わずもがな」といった土壌を容認してきた。だが、今日のビジネス環境は、もはやそれを許さなくなっている。「コミュニケーション不全」を放置すれば、業績に影響するだけでなく、企業の信頼が失墜するような、製品の安全や品質に関するトラブルや、顧客対応における大きなミスといったクリティカルな事象を引き起こしかねない。
今日のビジネスにおいては、旧来の「伝わること」「分かり合えること」を前提としたコミュニケーションを改め、逆に「非論理的な表現・論旨の展開では伝わらない」ことを認識し、「伝わらない前提で、どうすれば伝わるか」を考える必要がある。「きちんと伝わる」「理解される」ためには、もはや感覚に訴えた耳あたりのよい言葉の羅列では済まされなくなっているのだ。ビジネスパーソンの必須リテラシーの1つとして、「論理思考」の重要性が叫ばれている。対顧客や社内におけるコミュニケーションも、この「論理思考」を基軸として、早急に考え直すべきではないだろうか。
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January 30, 2007
販促会議の連載を掲出します。
予告通り、BtoBについて2回連続で執筆しました。
2月1日発売の本誌には第11回(通算第23回)が掲載されていますので、連載はあと1回で終了です。
現在、最終回を執筆しています。
2年間の長きに渡って、マーケティングの基礎を「顧客視点」で洗い直すという作業をやってきました。
全て書き上げたら、この連載原稿を書籍用に改変していこうと思っています。
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第10回「我が社はB to Bの会社なのですが」
読者の方から「我が社はB to Bの会社なのですが、その場合のマーケティングのキモとは何でしょうか?」という質問を頂いた。確かに当連載では主に個人顧客向け(B to C:Business to Consumer)寄りの論説が多かった。法人顧客向け(B to C:Business to Business)のマーケティングは、いくつかの点でB to Cと大きな違いがあり、そのままでは応用が難しい場合も少なくない。そこで今回と次回の2回にわたってB to Bにおける要諦を記す。
■まずはB to CとB to Bの違いを認識せよ
顧客が個人であった場合のマーケティングのキモとは何かと考えれば、今までの連載を思い出す以前に、自分自身の一生活者としての購入意思決定プロセスを考えてみればわかるだろう。まず、自分自身はその企業にとって、どの程度の上顧客であるかはともかくとして、数多存在する顧客の一人でしかない。しかし、法人顧客は業種にもよるが、対象となる数が限られている。つまり、B to Bの第一に怖いところは、B to Cと違い、一個客を喪失したときのダメージが大きいことだ。B to Cの場合でも顧客、特に上顧客は大切にしなくてはならないが、B to Bの場合、顧客一社の喪失がその企業の命取りにもなりかねない場合すらあるのだ。
次に、購買動機に注目してみよう。B to Cの場合は購入者自身が満足か何らかの便益を得ることを目的として、ある時は衝動的に、もしくは習慣的な購入が行われることが多い。対してB to Bの場合は、企業の利益を目的として、計画的かつ合理的な判断の下に購買が決定される。購買担当者はその取引の内容によって、自身の業務評価にかかわる場合もあるため真剣である。
さらに購買プロセスを考えよう。B to Cの場合、購買関与者は本人か、その本人と親しい少数の人間に限られ、購買決定までの期間も短い。逆にB to Bの場合、購買関与者は多人数であり、企業内の複数部門にまたがって存在することも少なくない。そのため、その調整や意思決定に時間を要することも特徴的だ。
■DMU(Decision Making Unit =意思決定構成単位)を見つけて攻略せよ
さて、B to C とB to Bの対比によってその特徴がわかったら、まずはその中の一番目のキモをおさえよう。それは「DMUを見つけ出し、その各々に対する攻略方法を練ること」である。DMUを日本語に直すと「意思決定構成単位」などというわかりにくい表現になってしまうが、要するに企業内で商品(製品)を購入(導入)しようとする場合にかかわってくる人々の総称である。代表的なのは、導入の検討・申請をするキーマン。その申請によって購入(導入)の意思決定をするディシジョンメーカー。キーマンの検討やディシジョンメーカーの意思決定に何らかの影響を与えるインフルエンサーなどがいる。また、新規取引の場合は、キーマンに行き当たるまで突破しなくてはならないゲートキーパーが存在する場合もある。さらに、前述のキーマン以外のディシジョンメーカー、インフルエンサーが複数存在する場合もある。そして、各々の関心事が立場によって随分と異なるのが難しいところだ。
■DMU各々の関心事に注意せよ
具体的な例を見てみよう。ある企業がコンピュータシステムを導入しようとした場合、キーマンはIT部門の担当者ということになるだろう。その担当者の関心事は、製品であるシステムの安定性(品質)とスペックの高さ。さらに、納期の正確性などにあるはずだ。また、システムのメンテナンスを外部委託している場合など、委託先の責任者は購入の意思決定の権限はないにしろ、直接導入したシステムのメンテナンスを行う関係上、インフルエンサーとしての意見を言うだろう。その際、メーカーの技術支援体制などを気にするはずだ。そして、キーマンとインフルエンサーは過去にそのメーカーと良好な取引を行われているのであれば、できるだけその企業を指名したがる傾向が強い。
その申請を受け、意思決定する部門の上司はディシジョンメーカーになるが、この立場の関心事は過去の取引関係などよりも、安定性(品質)とスペックの高さに絞り込まれる。要するに「結果」である。当然、購入(導入)の最終的な結果責任を負う立場である以上、当然だ。
さらに、インフルエンサーとして最もドライな存在が登場する場合もある。購買部門がその企業にある場合だ。担当部門長が意思決定したとしても、最終的に購買部門がOKを出さなければ、取引が成立しない。今日ではある程度の大きな規模の企業ではめずらしくない存在であり、その関心事はコストである。そのため、現場担当者が過去の実績や良好な取引関係などによって、特定企業との継続取引をしようとするのに対して、複数企業との競合環境を作りたがる。インフルエンサーとして購買部門が乗り出してくるか否かは大きな要因なので注意が必要だ。
以上のように、DMUを特定し、DMUごとに異なる関心事をおさえてアプローチすることがB to Bの場合非常に重要であると理解してほしい。
■新規開拓の場合:ゲートキーパー突破法を考えよ
B to Bの場合、B to Cと異なり、購買関与者は多人数であり、企業内の複数部門にまたがって存在することも少なくないと先に述べたが、そもそもDMUがどこにどう存在するのか、新規開拓の場合は皆目わからない。又は、組織体制などがWEBで公開されており、おおよその攻略すべき部署がわかったとしても、この個人情報保護は進む今日、キーマンの個人名を特定して人的セールスをいきなり行うことはできない。そのため、B to Bの場合はセミナーや展示会の開催などによって、キーマンの名刺・アンケートなどを収集する活動が頻繁に行われる。しかし、そのようなコストや時間がかけられない場合、電話やDMなどでダイレクトなアプローチをかけることになる。「○○業務御担当者様」など個人名を特定せずに(スラッグタイトルという)届けられるDMを受け取ったこともあるだろう。担当者レベルにはまだこの方法でもアプローチできるが、役員やトップに対するアプローチを行おうとした場合は、秘書部門や総務部門が強力なゲートキーパーとして立ちふさがる。彼らの関心事は、役員やトップに無駄な情報で時間を浪費させないことである。そのため、DMはまず開封され、大方が捨てられてしまう。電話なら取り次がれずに丁重に断られる。
以前、成功したトップ向けのDMアプローチは以下のようなものがある。まず、封書のあて先は秘書あてとして、レターにどのような主旨の案内であり、その企業にとってどのような便益を提供するものであるかを明確に述べた。そして、さらにもう一通封書の中に社長あての封書を同封し(メール・イン・メールという)、さらにそれを社長に秘書から手渡してもらう労に対するちょっとしたオファーも同封した。この結果、秘書はDMの主旨を理解し、社長にどのような主旨のDMが届いているかということを伝えて手渡してくれたのであろう。アプローチした企業の社長から、予想を大きく上回るレスポンスを得ることができた。つまり、ゲートキーパーというDMUは「役員やトップに無駄な情報で時間を浪費させないこと」という関心事に加え、「必要な情報は適切に伝達すること」であるという本質を考えたことが勝因である。
以上、今回はB to Bのマーケティングの要諦としてDMUに関することを中心に述べたが、次回もB to Bのマーケティングを引き続き論説していきたい。
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January 29, 2007
当社の期末が近づいているため、かなり厳しいスケジュールの日々を送っております。
というわけで、このBlogも更新できずにおりましたが、久々にバックナンバーをアップします。
LCAコミュニケーションズ社が発行しているコンタクトセンターの専門隔月誌「コンタクトセンターマネジメント」の連載、この連載は、金森の自説をコンタクトセンター向けにまとめ直して発表しています。
第3回を遅ればせながらお届けいたします。
あと1回、第4回で終了となります。
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第3回「顧客との良好な関係構築と自社の本質的価値をさらに深く考える」
前号は筆者が事故で入院してしまったため執筆ができず、休載してしまった。まずはお詫びを申し上げたい。また、久々になるため、前回の内容を振り返るところから再開したい。
前号ではセンター・アイデンティティーのステートメント化(明文化)のための準備作業として、第一に、センターに勤務するスーパーバイザーやコミュニケーターを巻き込みセンターの現状を的確にとらえるための環境分析から始めることをお勧めした。
そして次に、センター・アイデンティティーの根幹となる「カスタマーインサイト」というフレームワークを解説した。その中でも、「Peace of Mind」とその要諦である「本質的価値」の理解が重要であると述べた。「自分が顧客に提供するものの真の価値はどこにあるのか」をとことん考える。そして「自分たちはこんな存在なんだ」という確信が持てれば、おのずと次に「それではお客様にはこんなふうに接しよう」という、とるべき行動が見えてくるからだ。
しかし、残念ながら、筆致が至らなかったせいか、休載中に筆者のBlogを通じて質問のメールがいくつか寄せられた。そこで、今回はここまでのプロセスで伝え切れていない部分のモレ・抜けをなくすため、さらに別の切り口で論を補うこととしたい。
■鉄則:「顧客との良好な関係」は一足飛びには構築できない!
前回示した、<Recognition><Time Saving><Peace of Mind>という3つの要素からなる「カスタマーインサイト」というフレームワーク。そしてその実行のためには、構成要素を逆さまに組み直しRecognition→Time Saving→Peace of Mindというステップで考えれば「どのように顧客を理解すべきか」もより明確になり、行動に移しやすいと記した。そして、読者から「今まで気付きませんでした。早速実行に移せます!」とメールを頂いた。だが、もう少し待ってもらいたい。ことはそう簡単には済まないはずだ。そもそも、「顧客との良好な関係」などというものは、一朝一夕で構築できればどの企業も苦労はしない。ものごとにはステップというものがあるだろう。
マーケティングの教科書的には、顧客との関係構築のステップを5段階でまとめているものが多いようだ。「見込み客(Prospect)」→「顧客(Customer)」→「得意客(Clients)=反復購入や口コミに貢献する」→「支持者(Supporter)=企業に対する良き提案者」→「代弁者・擁護者(Advocator)=共感を示すサポーター」→「パートナー(Partners)=企業と共に新規機会を創出する」といった分類だ。しかしこのモデルだと少々複雑なため、筆者は3段階に簡素化して説明することにしている。しかし、5段階でも3段階でも注意しなくてはならないのは、このステップを「顧客進化」などと呼ぶことがあるが、「”顧客が勝手に進化する”のではなく企業側が“懸命に各種の働きかけをする”ことによって、”顧客との距離が縮まる”」のだという基本認識だ。その認識が逆転していると、顧客に対する認識も誤ったものになる。この点には留意し、顧客に対する謙虚さを忘れないことが重要なのだ。
さて、その3段階での「顧客への働きかけ」の具体的な内容を見ていきたい。(図1)
・Step 1:最低限のCSの達成段階
「新規顧客獲得コストは顧客維持コストの5倍」などと一般に言われるが、その通り、企業にとっての最大のダメージは、マーケティングコストを投下し、せっかく商品の購入などの関係が構築できた顧客が離反することである。離反を防止するには、先の「カスタマーインサイト」の第一の要素”Recognition”つまり、「顧客を理解し、適切なケアを行う」というポイントを怠らないことが肝要である。それによって最低限のCS(Customer Satisfaction =顧客満足)は達成され、顧客の不満が解消。離反防止ができる。
・Step 2:満足度の向上段階
一度顧客になってもらったら、その顧客には再度購入してもらいたい。そのために第一段階のステップを踏んできたのだから。企業の収益構造(レベニューモデル)として、再購入を前提としたマーケティングプログラムが構築されている場合も少なくない。つまり反復購入なくして早期に離反が起これば、マーケティングコストのROI(Return On Investment =投資対効果)は赤字となってしまう。確かに一度自社の商品・サービスを購入し、使用体験を持つ顧客であれば、初回購入に踏み切らせることよりも壁は高くはないだろう。しかし、再購入・反復購入という壁は一見低そうに見えるが厚く、突き破ることは難しいのである。なぜなら、関係ができたばかりの顧客の側から見れば、特段不満のない企業との取引を新規の他社に変える理由はないが、かといって、何が何でもその企業から再購入する理由もないからだ。これは、購入に際して関与度の低い商品の場合、より顕著である。ではどうすればいいのか。Recognitionは当然として、Time savingの要素を忘れないことが肝要だ。顧客に対してタイミングよく適切なお勧め(レコメンデーション)を行い、その商品の買い換え、または買い増し(アップセリング)、もしくは関連商品の購入(クロスセリング)の必要性を感じさせ、納得してもらい、購入結果に満足してもらうのだ。その際には、むやみやたらとお勧めを繰り返すのではなく、「顧客に最も必要なものを提供する」という基本精神を忘れないことである。
・Step 3:満足度の最大化段階
反復購入を続けてくれる顧客と企業の間には次第に信頼関係が生まれ、強固になっていく。そして顧客がファン化する。この段階までくれば、顧客と企業の最適な関係が維持されさらに拡大されていくことになる。つまりPeace of mindが達成された状態だ。ここに至るまでには前段階でいかに努力したかが重要であり、最初からこの段階を狙ってできるものではない。さらに前の二段階と大きく違うことは、2段階目までは企業側の努力で顧客の背中を押すことができるが、最後の一段は、顧客自身が「納得と満足」を原動力として、自らの意思で階段を上がってくれる以外にないということである。
しかし、この段階に至ると企業にとって嬉しいことに、顧客が企業(もしくは企業側の担当者)に対して積極的にコミット(関与)してくれることだ。つまり、顧客自身が満足している商品・サービスを友人・知人に勧めてくれるのだ。さらにこのタイミングを見計らって、何らかの紹介インセンティブを付与するMGM(Member Get Member =知人紹介)のプログラムを行うと非常に効果的である。
■「本質的価値」の理解のためにマーケティングの基礎で再考する①:STPの“P”
「カスタマーインサイト」というフレームワークにおいて、最も胆となる部分は、「いかに自社の“本質的価値”を的確に理解・定義できるか」ということだ。しかし、本当に理解することはなかなか難しい。そこで、従来のマーケティングのセオリーの中から近い考え方に触れることによって、理解を深めてみよう。
まずは、マーケティングの基本中の基本である"STP"(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)である。ここでは中でも「ポジショニング」が重要だが、まずは一通り見ていこう。(図2)
セグメンテーションとは、一般にそれに続くターゲティングにおいて、どのような顧客層を狙うのかを検討するための下準備であると考えられる。市場を幾つかの同じような「集合体」に分類するために、ジオグラフィック(地理的要因)=地域・人口密度等、デモグラフィック(人口動態的要因)=年齢・性別・所得・世帯規模・ライフステージ等、サイコグラフィック(心理的要因)=ライフスタイル・ロイヤルティー等の変数を用いることが一般である。そしてSTPセグメンテーションが完了したら、次は「どのような市場を狙うのか」というターゲティングを行うのが一般的である。
そして次がポジショニングであるが、実はこのポジショニングこそSTPのうちで最も重要なパートであると言っても過言ではない。なぜなら、この後、具体的な「打ち手」を考えるには、自社及び商品の市場におけるポジショニングを明確に定義していなければ、それを検討することができないからだ。いや、むしろ「ポジショニング」がはっきりしてさえすれば、自ずとどのような顧客層に向けて、どのような売り方をしていけばいいのかも自ずと明らかになる。一つ企業事例を示すが、その典型がドイツの自動車メーカー、BMWである。同社は自社のポジショニングを「究極のドライビング・マシン」と定義し、そのポジショニングに反しない車作り、販売現場での応対、広告コミュニケーションと全てに一貫性を持たせ、それに共感する顧客層を確実に取り込んで離さないことで成功している。
お気づきであろうか。この「ポジショニング」が明確になっていれば、「本質的価値」の理解がしやすいのだ。一度、自社及びその製品・サービスのポジショニングがどのように定義されているか確認してみることをお勧めしたい。
■「本質的価値」の理解のためにマーケティングの基礎で再考する②:製品特性分析
次に、マーケティングの基本ということであれば、やはり大家・フィリップ・コトラーが示した「製品特性分析」でも考えてみたい。同氏は製品の特性を分割し、「中核(ベネフィット)」「一般製品」「期待された製品」「拡大された製品」「潜在的製品」の5層に分割して様々な角度から見る方法を説いた。しかし、この5層だとやはり少々複雑なため、今回はこれも3層モデルに組み替えて考えてみよう。(図3)
製品を「コア」「形態」「付加機能」に分割する。こうして考えてみると、「コア」が「本質的価値」に意味としては近くなる。それは、顧客に提供するべき中核たる「ベネフィット(便益)」である。それを取り巻く「形態」は、「ベネフィット(便益)」がどのような提供形態取っているかを表し、「付随機能」はさらにどのような提供形態に付加的な要素が加わっているかを洗い出すことができる。
具体例を挙げてみよう。「自動車」という製品を考えたとき、「コア」を簡単に定義すると「移動手段の提供」ということになる。そして、その移動手段がガソリンエンジンという内燃機関を備え、四輪で移動する「自動車」という形態で提供され、その自動車の基本性能としての安全性や移動スピードの速さ、故障をしないという製品品質なども「形態」の一部に含まれる。さらに、軽自動車である場合は手軽なことや維持費の安さ。プレミアムカーであれば、その高品質さとステータスなども品質・特徴として「形態」の一部として含まれる。さらにその外側にある「付加機能」は、アフターサービスや品質保証、そのメーカーとしての信用力などが重要となってくるだろう。
この製品特性分析は、さらに自社及びその製品・サービスの3層構造を、競合する業界・企業・製品・サービスと比較すると、より各要素が明確になる。(図4)
特に、先の例で言えば同じ自動車業界同士の比較を行なうよりも、より幅広に競合の定義を行ない比較すると「コア」を中心とした差異や同質点が見えてくることによって、思わぬ競合を発見できる場合もある。
これも具体例を挙げよう。「自動車」の場合、「コア」を簡単に定義すると「移動手段の提供」であった。しかし、「移動手段の提供」であれば、あらゆる乗り物や交通機関が同じコアを持つことになる。その場合、考え方は二つある。一つは、その外側の提供形態を考えれば、移動の早さ(スピード)や航続距離を考えれば、自転車やスクーターは競合とはなりえなくなる。また、自ら運転することや所有することを考えれば、公共交通機関は競合ではなくなる。そのように提供形態に注目して競合を絞り込んでいくことが一つの方法だ。しかし、顧客が「移動手段の提供」という「コア」の実現のための提供形態として、「移動の早さ」「航続距離」「安全性」などのみに注目していた場合、自家用車を購入するか、タクシーや列車・新幹線・飛行機などを頻繁に使うかといった選択肢も考えられ、公共交通機関にお金を払うということも「自動車の購入」ということに対しては「競合」となりえてしまうのだ。その場合、第二の考え方に切り替えてみたい。即ち、「コア」の定義をもっと明確にするのだ。単なる「移動手段の提供」に加えて、自社の製品=自動車は顧客に「どのような移動の体験」を提供するのかと考えればよい。その際、外側の提供形態や付随機能の要素まで取り込んで補完してしまっても良いだろう。本来のコトラー理論とはだいぶかけ離れてしまうが、今回目的としている「自社、及びその製品・サービスの本質的価値」を探るためには有用である。前述の分析をそのような観点で、是非一度実施してみて欲しい。
次号では、さらに自社にとっての理想的な顧客とはどのような顧客なのかといった、センター・アイデンティティーのステートメント化(明文化)のために欠かせない要素をさらに掘り下げていく。
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January 03, 2007
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
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年末に販促会議の最新号が届きましたので(年末進行)、バックナンバーを掲載します。
この連載も本稿で第9回。残り3回です。
実際の連載では10回まで進んでおり、11回まで原稿を入稿しています。
10回、11回はBtoBについてで、12回は総まとめでもしようかと考えています。
---------------------<以下バックナンバー>-------------------
「ネットによってもたらされる多くの情報をどう取捨選択し、どうコントロールをすればいいのか?」・・・この「質問編」が始まってから何度か読者の方からいただいた質問である。これは企業と生活者との関係だけでなく、ネットユーザーである生活者同士の関係についても悩む方が多いことを物語っている。が、正直筆者は答えあぐねていた。突き詰めれば、「ネット時代における今後の情報の取り扱い方」「今後の商売のしかた」に行き当たってしまうからだ。それを今回は突き詰めてみようと思う。
援軍は8年ぶりに改訂第2版が刊行された、我が心の師であり、ダイレクトマーケティングの開祖である、レスター・ワンダーマンの著書「BEING DIRECT」(邦題:ワンダーマンの「売る広告」)である。
■レスター・ワンダーマンと「BEING DIRECT」
同氏は筆者前職のグループ会社のファウンダーであり、1967年11月29日にマサチュセーッツ工科大学にてダイレクトマーケティングを広く世界に紹介した開祖でもある。また、タイム誌が選んだ「20世紀の最も偉大な広告人」の一人にも列せられている。
その同氏の著書、「BEING DIRECT」が8年ぶりに加筆改訂され、日本版も発売された。同書を筆者が人に紹介するときには、「ビジネス冒険小説」と例えているが、正に冒険小説のように読み進めて行くにふさわしい生き生きとした彼の体験談と共に、ダイレクトマーケティングの真髄が記されている。そして今回の第2版では旧版の最終章にさらに一章、「第27章・インターネット」が加わっている。全編を読み直しつつ、最後はこのあたりを手がかりにしようと思う。
■ネットがもたらした情報格差の消失、そして氾濫
ワンダーマン氏はかねてより「成功する全ての会社が知る19のルール」を提唱しており、その中に「The Customer, Not the Product, Must Be the Hero (主人公は製品ではなく顧客である)」と語り、中心的思想としてきた。しかし、今日その関係はどうなっているだろう。かつてはモノの売り手と買い手の間には厳然たる「情報格差」が存在し、それが売り手の利益の源泉にもなっていた。しかし、インターネットはそんな格差を根底から破壊し、売り手と買い手は対等になった。いや、ともすれば買い手の方が情報をたくさん持っているような時代に。つまり、ワンダーマン氏が予言した「顧客が主人公の時代」は既に達成されたのだ。例えば「kakaku.com」などのような比較サイトの登場は、売り手の利益構造を白日の下に晒すことに成功した。
しかし、見方を変えれば格差は残っていることもわかる。「売り手」と「買い手」という関係においてではなく、情報を「持つ者」と「持たざる者」という新たな関係においてだ。「情報検索能力は現代のリテラシー(読み書きの能力)である」とまで言われ始めている。しかし、例えば情報を収拾することはできても、「判断」することは能力だけでなく、個々人の性格や今までの経験に依存する部分も少なくない。
集まってくる情報。その中の企業発の情報を除けば、それは、「売り手と買い手」という対立構造という判断軸を持たない、「個人が発信した情報」である。それが膨大になっている。さらに、個人が発信した情報は基本的には「個人自らが購入・使用し、そのファンになり、自主的に他者に勧めている」という情報である。元東京大学大学院教授・丸の内ブランドフォーラム代表の片平英貴氏が提唱している消費者行動モデル「AIDEES(Attention・Interest・Desire・Experience・Enthusiasm・Share)」がそれだ。(Experience(経験)し、対応の良さにEnthusiasm(惚れ込み)、人にShare(推奨)するというモデル)。ただし、これはさしずめ「性善説モデル」と言えよう。ここに推奨する個人の「商売っ気」は考慮されていない。
ネットの世界では今日「アフィリエートブーム」である。ちょっとした「商売っ気」で本当に自分が気に入ったモノを人にも勧めてお小遣いにもなるというレベルならまだ良い。しかし、「アフィリエイトで月○百万円!」などという書籍が店頭に並ぶようになったら、ネット上で個人が推奨しているからといって、その情報の発信者はその商品にEnthusiasm(惚れ込み)という状態になっているか疑わしくなっている。
推奨情報の氾濫によって、再び生活者は判断基準を喪失してしまいつつあるのだ。
■どうすれば信用できる推奨関係を作れるのか
以前、筆者は旧連載「顧客視点入門」の第3回にて推奨行為に関して、以下のように述べた。(この時は“推奨”ではなく“紹介”という語句を用いた)
『”紹介”は、紹介者が程度の差こそあれ、ある程度のリスクを負う行為であると理解すべきだ。例えば自分が勧めたものが被紹介者である友人・知人に気に入られなかったら、恐らく気まずい思いをするだろう。それが高額なものであったら関係が悪化するかもしれない。そのリスクを冒してまで紹介という行為に踏み切るのは、顧客自身がその商品・サービスに満足し、間違いないと確信しているからにほかならない。』
しかし、上記は主にリアル(オンフライン)の場合に限定される。ネットはその匿名性や伝播の範囲が広いこと、利用や情報の発信が気軽なことなどが相まって、以前筆者が述べたリアルの場合ほどシリアスな気持ちなくして推奨行為が繰り返されている。そして、それが今日の情報氾濫につながっているのだ。
では、どうしたらいいのか。一つの解決策は、「情報として置いておけば、誰かがクリックするであろう」という、垂れ流し的発信をネットユーザーは避けるべきなのだ。「自分は、このような理由で、このような人に、この商品を勧める」という「推奨の背景情報」を明確にすることだ。そうすれば推奨する側も成果が上がるだろう。
再びワンダーマン氏の「19のルール」の中から紹介しよう。「Answer The Question “Why should I?” (「なぜ私に?」に答えること)」。
つまり、情報を発信する者は責任を持って、「その商品をどのような理由で、どのような人に勧めるのか」を明確にすることを暗黙のルールとする文化の形成が望まれる。もちろんそこに悪意や虚偽が混在しないことは当然である。
■企業の場合の推奨(レコメンデーション)
では、企業が行なう顧客への推奨(レコメンデーション)を考えてみよう。企業が顧客に行なうレコメンデーションはダイレクトマーケティング、CRMの華と言っていい。その成否で収益は大きく変わるし、顧客が一層、Enthusiasmするような推奨が実現できれば、顧客ロイヤルティーは高まり長期間の関係構築も望める。その答えこそが『「なぜ私に?」に答えること』である。これはワンダーマン氏が元来、企業と生活者との関係について述べたものである。一つの成功例としてはAmazonのやり方であろう。Amazonから推奨のメールや、Webサイトでの表示がある場合、必ず、本人に関連した推奨理由が明記されている。過去に購入した本と同じ筆者の新刊、同じジャンル、同じようなジャンルの購入パターンが多い商品等々、一見「なぜこれを私に勧めるのか?」と思っても、その理由が明記されているため、それをそのまま購入するか否かはともかく、納得はできるし推奨されたものの内容をよく吟味してみようという気にもなる。また、Webサイトにおいては、レビュアーといわれる読者であり推奨者の評価も記され、さらにその推奨文がどれくらいの人に参考にされたかの情報まで付加されている。少なくとも、筆者自身はこのやり方は非常に理に適っていると感じ、一ユーザーとしても気に入っている。
■レスター・ワンダーマンの説く「商売の原点」
同氏は実は西アフリカ・マリ共和国に住むドゴン族の研究家としても名高く、氏の撮影した写真、収集した美術品はニューヨークのメトロポリタン美術館の永久コレクションとなっている。
注目すべきは、この度加筆改訂されたワンダーマンの「売る広告」の最終章、「インターネット」の中に記されているドゴン族の市におけるやりとりの様子だ。(以下抜粋)・・・「個々のセールスは、議論、値引き交渉、おしゃべりの混じったアフリカ的商談の儀式である。買い手と売り手の要望と期待が合って、交渉が合意された時、彼らは拍手と同時に『バハマ』という。文字通り『我々はよくやった』がその意味である」・・・つまり、情報を出す側、受ける側、売る側、買う側もお互いの手の内を出し合って、対話を重ね、十分納得と満足のいく着地点に至り商売が成立するのだ。何と、根源的ではあるが、忘れられている重要なことであろう。
どうも、今日のネット文化は、急速に広がった空間的広さから「出会い頭」的な情報交換や商売が多く、また、利便性ばかり追求され、「納得・満足の形成」が情報の送り手と受け手、売る側と買う側の双方とも軽視し性急になっている。
冒頭の読者からの質問、「ネットによってもたらされる多くの情報をどう取捨選択し、どうコントロールをすればいいのか?」には、レスター・ワンダーマン氏の紹介するドゴン流を筆者なりに解釈してお答えしたい。つまり、情報の送り手と受け手、売る側と買う側の双方が納得と満足が得られるまで、お互いの手の内を出し合って、対話を重ね「バハマ!」と言えるようになることだ。
※出典:ワンダーマンの「売る広告」 顧客の心をつかむマーケティング
レスター・ワンダーマン・著 藤田 浩二・監訳 株式会社電通ワンダーマン 監修
翔泳社・刊
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December 26, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回、文中にて援用させていただいたは、前職・電通ワンダーマン時代の同僚で、現在は独立されている松尾順氏のブログです。
日々、有用な情報をメール&ブログで公開されているので頭が下がります。
http://www.mindreading.jp/blog/index.html
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
目の前で化粧をしている。口紅を少し直す程度ではない。フルメイクだ。ビューラーでまつ毛をカール。マスカラをたっぷり。・・・いや、筆者は女性の化粧姿をのぞき込んでいるわけではない。ここは電車の中。向かいの席でせっせと化粧にいそしむ姿は、いやでも目に入る。しかし、ここで車中の化粧だけをとがめているのではない。最近、電車の中の風景がどこかオカシイのだ。
■「自分だけの世界」に埋没する人々
電車で化粧をするという行為。少し大きめの四角い折りたたみの鏡が若い女性の必携アイテムになったころから、彼女たちは堂々と車中で化粧をするようになった。鏡を取り出した瞬間に周りの人々の存在は意識から消え失せ、「自分だけの世界」に入り込んでいるのであろう。そういえば、車中でカメラ付き携帯電話をかざし、夢中で自分の顔を撮る姿もよく目にするようになった。
「自分だけの世界」という意味では、ゲームに興じている人々もそうだ。ポータブルゲーム機を持ち歩いている本格派だけではない。深刻そうな顔をして携帯電話を見つめているビジネスマンの、視線の先の画面はゲームであったりする。これももはや、日常的な光景である。
ゲーム以外に携帯電話をいじっているのはインターネット派だ。2003年に首都圏の鉄道各社が一斉に、優先席付近を除き携帯メールとWebブラウジングを解禁した。以来、身体は電車の中にありながら、心は携帯電話の画面を通じてその場にいない友人・知人の所に飛んでいってしまっている人が数多く出現した。
かくして、公共輸送機関に乗り合わせた彼ら、彼女らは各々、「自分だけの世界」にいるか「心ここに在らず」の状態なのだ。何とも異様な光景ではないか。
■崩壊する“TPO”と“マーケティングの基本原則”
Time, Place, Occasion 略してTPO。時と場所と場合に応じること。以前はよく使われていた言葉であるが、最近めっきり耳にしなくなったように思う。「自分だけの世界」「心ここに在らず」は、言い換えれば「いつでも・どこでも」自分に都合のよい時間と空間の感覚で行動していることを表している。つまり、TPOの逆である。昨今の風潮であり、技術の進化がそれをどんどん可能にしている。
「いつでも・どこでも」はユビキタスのキーワードでもあり、あるモバイルマーケティングの専門家は、今日の状況を「生活者にアプローチする機会が無限に増えた」と喜んでいた。退屈極まりない通勤・通学手段である電車の車内が、大きな可能性を秘めたプロモーション空間になったと言うのだ。だが、本当にそうであろうか。
TPOとは本来、その場に居合わせた人と人が、お互いを気遣うことで相互が快適に過ごすための最低限のルールである。しかし、人々が「自分だけの世界」か「心ここに在らず」で他者の存在を軽んじるようになれば、そのルールは崩壊する。
このことは、マーケティング的に考えても大きな問題である。なぜなら、顧客に対する「時と場所と場合」に応じたアプローチは、効果を上げる必須要件であるからだ。電車の中だけではなく、自分中心で時間も場所も他者もお構いなしという人間が増えたら、どのようなタイミングで、どのようなアプローチを行うかという設計ができなくなってしまう。“Right timing, Right approach.”というマーケティングの基本原則が崩壊してしまうことを意味しているのだ。
■マーケティングへの影響
分かりやすい事例を示そう。前述の通り、ターゲットとなる生活者のシチュエーションとタイミングをうまくとらえることは、マーケティングの要諦である。リクルート社のフリーペーパー「R25」について、あるマーケターが次のように分析している。(※)
曰く『「R25」は、「帰りの電車の中で読んでもらう」ことを前提に作られている。最初の方のページは固い内容。そして、読み進めていくうちにどんどん話題がやわらかくなり、気持ちもオフタイムモードへ切り替わっていく。そして、自宅の最寄り駅に着くころには、ちょうどコンビニ関連の記事を読んだばかりになり、自然と地元の店に足が向く。家に着いたらR25の深夜番組表で見たい番組を探し、PCやケータイWebですぐに手に入る通販商品のページをチェックする。』
つまり、同誌は生活者のライフタイルと心理変容を時間軸でとらえ、TPOに応じてその「文脈(context)」を適切に組み立てている。文脈とは本来、物事の脈絡や筋道、そして背景を表す言葉であり、人と人とのコミュニケーションにおいては相互理解のために欠かせない要素である。そして、マーケティングにおいては、売る側が顧客に「買うべき理由」を説明する大切なプロセスである。文脈が機能していれば、生活者を十把一絡(じっぱひとから)げにした絨毯(じゅうたん)爆撃的なマスアプローチではなく、一人一人に納得性も効果も高いアプローチをとることができる。昨今の技術の進化によって、かつてはできなかったこうしたOne to Oneのアプローチが、実現できるようになってきているのだ。
しかし、TPOが崩壊し、帰りの電車で雑誌を読んだり、家に帰ってからテレビを見たりするとは限らなくなれば、One to Oneアプローチの機軸となる「精緻な文脈の設計」=「売る側と買う側の相互理解のプロセス」も成り立たなくなってしまう。そうなると、顧客への接触機会としてモバイルの出番が増えたとしても、適切なマーケティングを展開する機会を見つけ、効果を上げられる保証はない。モバイルマーケティングといえども、打てども響かぬ状況になりかねないのだ。
■関係性の喪失がもたらすもの
鉄道各社が取り組んでいる「車内迷惑行為撲滅運動」。迷惑行為とは「痴漢」「破壊」「暴力」を指すが、「暴力」に発展しないまでも、車内でのトラブルを最近、随分と目にするようになった。乗客同士が、押されたの、荷物が当たったのと、ささいなことで諍(いさか)いになる。車内の混雑状況や、相手の荷物を持っている状況を考えれば致し方ないのではないかと思えるケースも多々ある。しかし、電車の中で、その場の状況を顧みず、自分だけの時間・空間の中に存在している人間にとって、自らの世界を侵されるような状況には、突発的に怒りが高まるようだ。
物事の境目があいまいになっている。別の言い方をすれば、公私の別もあいまいになり、モラルが低下しているともいえるだろう。それは今日の社会を象徴してはいまいか。筆者はマーケターである故、マーケティングへの影響という観点から論じたが、社会全体に及ぼす影響を考えれば、決して看過すべからざる問題であるように思う。
(※) 有限会社シャープマインド デイリーブログ「マインドリーダーへの道」から援用
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December 04, 2006
12月1日発売の「販促会議1月号」が発売されましたので、
前号の記事をバックナンバーとして掲出いたします。
以前、当Blogに書き下ろした「PS3のプライシング」をきちんとまとめてみました。
実際に発売されてみると、やはりWiiの強さが際だっていますね。
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第8回「PS3に見るポジショニングとプライシングの難しさ」
「マーケティング」というと「4Pですよね」という応えが返ってくるほど、そのキーワードは一般のビジネスパーソンの間にも浸透し始めている。平易なマーケティング入門書が数多く出版されている影響であろうか。しかし、「知っている」のと「実践できる」のでは大違いだ。そこで今回は、その4Pのうちでも非常にセンシティブな“Price”について考えてみたい。
■ソニー「PS3」値下げの衝撃
「貴重なビジネスケース」と言ったら関係者の方はご立腹されるであろうが、お許し願いたい。この原稿が掲載される頃に発売直前となっているのだろうか。11月に発売されるソニー・コンピュータエンターテイメント(SEC)の「プレイズテーション3」(以下、PS3)が9月下旬に発売前に「予定価格を引き下げる」という異例の発表があった。それを聞いた瞬間に、筆者は「製品の価格決定プロセスを考える上で、非常に参考になるケースだ」と感じたのだ。
報道によれば、12月に発売が予定され、強力なライバルになると予想されている任天堂の「Wii」が2万円代前半の価格を予定しており、同じくライバルであるマイクロソフトの「Xbox360」も3万円を切る廉価版を11月に発売する。それに対してPS3は当初6万円を超える価格が設定されていたが、一気に5万円を切る価格に引き下げたのだ。ライバル製品との価格差が大きすぎるため、市場に受入れられないと苦渋の判断を下したのであろう。PS3はそもそも「ゲーム機」というポジショニングを「情報家電の中核」というポジショニングへシフトさせようとしていたはずだ。そのため、ハイスペック、ハイプライスという結果になったのだ。
■そもそも「プライシング」とはどうやって行なうのか
では、一般に「モノの値段」とはどうやって決められるものなのであろうか。マーケティングにはあるセオリーがある。一つは「原価からの積み上げ」であり、もう一方は「需要予測からの設定」である。前者は製品をある一定数量作るときにかかるコスト=原価をベースとして、その原価にいくら利益を載せるかという考え方であり、後者は製品を購入してくれるターゲットが、いくらまでなら払ってくれるかという予測に基づくものだ。
当然、前者の方が試算は簡単で、原価計算をきちんと行なえばおおよその価格は設定できる。後者は、その製品を使用することによって、購入者が得られる便益、例えば生産性の向上や、時間節約効果などを試算して、その効果に対して購入者が妥当と考える価格を設定する。この場合、前述の「購入者が得られる便益」というものを洗い出し、定量化するのはかなり困難な場合も少なくない。そのため、実際には場合、原価+望ましい利益を試算した上で、競合となる製品の価格と比較し、最終的な利益を調整するということになる。
但し、今までに前例のないような画期的な新製品の場合、「競合となるような製品」がなく、また、ユーザーはその「画期的な点」に惹かれ、「ここまでのことができるなら、いくらまでなら払うだろ」というような予測に基づいたプライシングを行なう。つまり、PS3の場合は「ゲーム機を超えた画期的な存在」であると自社でポジショニングをし、その結果、ユーザーが様々な楽しみを得られるという便益に対して、高い販売価格でも購入するであろうと予測し、当初の価格設定を行なったと推測できる。
■「シェア確保」と「利益率確保」の天秤
前述の通り、PS3の値下げは、当初「需要予測からの設定」でプライシングしたものの、市場の反応が芳しくないことから「競合製品との比較調整」によって値下げを行なったわけだが、プライシングにはもう一つ重要な判断基準が存在する。それが「シェア確保」と「利益率確保」の天秤なのである。
当然、販売価格が安価な方が購入しやすいため、発売から短期間で大量販売が見込め、シェア確保が可能となる。これを「ペネトレーション・プライシング」という。豊富な資金力があり、流通コントロール力があれば確実に早期にシェア確保ができ、「薄利多売」でも結果的に大きな利益を上げることができる。また、低利益率に耐えられる体力のない後発の参入を抑制することもできる。しかし、コトはそんなに単純ではない。発売した製品が「思ったより売れなかった」などという事態になれば、投下した原価の回収さえままならなくなってしまうリスクもある。また、安く発売した製品の価格を引き上げることは容易ではない。
そうなると、やはりシェアではなく、きちんと利益率を確保した方がよいのかという考え方が出てくる。シェアよりも利益率の確保を狙う考え方を「スキミング・プライシング」という。購入者が何らかの便益や魅力を製品に感じてくれると踏んで、たとえそうした購入者が数多くいなくとも、価格を受容してくれる人に高く買ってもらおうということである。そうすることによって、投下した原価の回収は最低でも回収でき、うまく製品が売れ続ければ良質な顧客層を確保し、確固たるブランドとして育つことも期待できる。しかし、こちらにもリスクがある。利益率が高い、つまり「おいしい市場がある」と競合となる企業がかぎつけた場合、同等の機能や価値を持った製品を、利益率を落として市場に投入してきた場合、元々大きくはないシェアはあっという間に浸食されてしまうことになる。また、対抗措置として値引きをすれば、泥沼の値引き合戦になり、体力のない方が倒れることになる。以上のように「ペネトレーション・プライシング」と「スキミング・プライシング」では全く逆の価格設定となり、想定されるリスクも全く異なる。
では、自社の場合、どちらのプライシングを行なうべきかと悩んだ場合は、当然、定量的に試算を行なうことが重要であるが、本連載の第6回(10月号)で紹介した「5forcesモデル」で考えれば、自社と競合や新規参入の関係を把握することによって、おおよその方向性はつかめるだろう。
■再びPS3について考えてみる
ゲーム機という製品の特性を考えれば、そのゲーム機が市場でどの程度シェアを持っているかによって、サードパーティーも含めて、ソフトの作り手をどれだけ吸引できるかが変わってくる。魅力のないソフトしかない、または使えるソフトが少ないゲーム機などには商品価値はない。そのため、「シェア」は非常に重要な意味を持つ。となれば、前述の「ペネトレーション・プライシング」で戦うのが定石だ。しかし、PS3は単なるゲーム機を超えたポジショニングを設定されていた。そうなると、ゲームだけに留まらない、ハイスペックな機能によって「購入者が得られる便益」が高いとすれば、それが認められれば高い価格でも市場に受入れられるという考え方も出てくる。
しかし、実際にはやはり、元来がゲーム機であり、コアユーザーはゲーム愛好家であるため、ライバル製品との価 格差が二倍~三倍となると、コアユーザーには受容しがたい価格としてとらえられ、断腸の思いで値下げを発表したのではないだろうか。筆者は以前から「ポジショニングの大切さ」を説いてきたが、正に今回のケースはPS3が従来機からのポジショニングチェンジという挑戦を図ったものの、それが市場に受入れられず、プライシングの見直しをせざるを得なくなったと読み取ることができる。
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December 01, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回はマーケティングのキモとは何かという、根源的なテーマを「動物園」を題材に掘り下げてみました。
文中、実は金森は高校時代「獣医を目指したこともある」という、少々恥ずかしい過去をカミングアウトしています。
高校一年の最後に、文系選抜クラスに進むか、理系選抜クラスに進むかの選択を迫られ、「獣医になりたい」などという夢見がちな少年であったため、理系を選択。が、すぐによくある「文系転び」をしたため、おかげで物理や数Ⅲなどの科目に泣かされました。。まぁ、今となっては思い出ですし、笑い話ですが。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「人気動物園に学ぶ顧客ニーズ対応の極意」
「『カメラをください』というお客様が目の前にいたら、その人はどんなニーズを持っているか分かりますか?」。筆者が教壇に立っている、ビジネススクールのマーケティング初学者向け講義の一コマだ。受講生から「写真を撮りたい」と答えが返ってくる。「そうですね。でもそれは、表面に現れている“顕在ニーズ”です。顧客心理を洞察するには、“潜在ニーズ”までとらえなければなりません。『写真を撮りたい』という場合、どんな潜在ニーズが考えられますか?」。少し間を置いて、「思い出を作りたい」「証拠を残したい」「趣味として写真を撮りたい」などの答えが挙がる。いずれも正解である。
ここでのラーニングポイントは、「マーケティングの第一歩は顧客ニーズの深掘りから」だ。マーケティングの第一人者であるフィリップ・コトラーも著書「コトラーのマーケティング・コンセプト」(東洋経済新報社)で、「マーケティングの本来のスローガンは、『ニーズを見出し、ニーズを満たせ』というものである」と述べている。
■マーケティングの第一歩は「顧客ニーズの深掘り」
転じて、昨今の様々なブームの中でも、「これは顧客の潜在ニーズをうまく引き出したな」と感心させられる例がある。大人も楽しめる人気スポットとして復活した、動物園である。
筆者は動物好きだ。子供の頃はテレビの動物番組や自然番組を毎晩観ていた。高校生の頃は獣医を目指したこともある。だが、動物園というものは大嫌いで、子供の頃親に連れて行かれたきり、最近まで全く足を運んでいなかった。狭苦しい檻の中に閉じこめられ、生気を失った動物。ストレスフルに意味もなくひたすらウロウロする姿。そんなものは見たくなかったのだ。
動物園に来園する人のニーズは何か。「動物が見たい」である。しかしそれは“顕在ニーズ”。多くの人の“潜在ニーズ”は、「生き生きした動物の姿が見たい」であろう。
その潜在ニーズにいち早く応えたのが、旭山動物園(北海道旭川市)だ。動物の姿形を見せることに主眼を置いた従来の展示方法に対して、同園では1997年度から、動物本来の生態や能力を引き出して見せる「行動展示」に取り組んでいる。そして、水中を空飛ぶように泳ぐペンギンを見渡せる水中トンネルや、ホッキョクグマと“獲物”の視点で対面できる透明カプセルなど、動物の自然な姿を間近で観察できる施設を次々と導入し、改良を重ねてきた。
同園の夏場の月間来園者数は2004年以降、東京・上野動物園を抜いて日本一に躍り出た。現在でもその人気は衰えることを知らず、来園者数はうなぎ上りだ。「生き生きした動物の姿が見たい」という来園者の真のニーズをとらえた結果であることは間違いない。
■潜在ニーズに応えるための工夫の積み重ね
対する上野動物園も負けてはいない。今年の春には5億円を投じ、クマの本来の住環境を再現する新しいクマ舎を整備した。ここでは木登りや餌を取る様子など、野生のクマ本来の生態はもとより、冬には冬眠する姿も見ることができる。筆者も久々に上野動物園に行ってみたが、確かにクマ舎は立派であり、かつてのような、檻に閉じこめられた悲惨な動物の姿とは全く異なっていた。
もちろん、5億円といえば大金だ。資金力が豊富な自治体でなければ簡単に捻出(ねんしゅつ)できるものではない。だが、上野動物園で筆者は、顧客ニーズに応えるためにはお金に頼るだけが能ではないことも実感した。ほんのちょっとした工夫で動物が生き生きし、観覧者も楽しくなるような仕掛けを見つけたのだ――ふと、頭上を見ると、カナダヤマアラシが檻の柵を飛び出した木の股にちょこんと座っている。別の場所では同じく檻から外に大きく張り出した木の枝に、ホフマンナマケモノがぶら下がっている。逃げ出す心配のある動物ではないので、檻に閉じこめておく必要はないのだ。
旭山動物園の水中トンネルも、上野動物園のクマ舎も、来園者のニーズに応えるべく、それなりの費用を投じたものだ。財政事情の厳しい自治体の動物園では「旭山のようにやりたくてもできない」という声も多いと聞く。だが、一方で上野動物園のヤマアラシやナマケモノの展示のように、ほんの小さな工夫で来園者のニーズに応えている例もあるのだ。
■イノベーションかカイゼンか
動物園から再び転じてビジネスの話。モノが満ちあふれた今日、生活者のニーズはほとんど開拓されつくし、全く新しいニーズを喚起できるようなイノベーションこそ必要であるとも言われている。しかし、本当にそれだけが真実だろうか。
例えば、ソニーは1979年に初代ヘッドホンステレオ「ウォークマン」1号機を発売した。録音機能なしでは売れないとの社内外の声に反して大ヒットとなり、新たなライフスタイルを創造したのは正にイノベーションだ。だが、それ以降、ソニーを含め、各社が競って軽量化したり、メディアをカセットテープからCD、MDと変えたりしたが、それらは全て「より手軽に音楽を持ち歩きたい」という顧客ニーズに応えたカイゼンである。そして、現在大ヒットしているiPodもソニーの「パーソナルオーディオ」という概念の延長であり、「より手軽に、より大量の音楽を持ち歩けるように」という顧客ニーズに応えたカイゼンだと解釈できる。つまり、「パーソナルオーディオ」というイノベーティブな概念が誕生して以来、27年間カイゼンを積み重ねることによって、市場を広げてきたのだ。考えてみれば先の動物園の例にしても、やはりそれはイノベーションではなく、飼育環境や展示方法の愚直なまでのカイゼンの結果にほかならない。
我々の周りにも、掘り起こし損なっている顧客ニーズはないだろうか。また、それに十分対応できているだろうか。「難しい時代」「お金がない」などと嘆く前に、マーケティングの第一歩である「顧客ニーズの深掘り」をもう一度考えてみたいものである。動物園に負けてはいられない。
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November 20, 2006
今回は、「財団法人公庫金融保証協会」の業界誌(非売品)「公庫団信レポート」の依頼原稿です。
金森は自らの文章力錬成のため、(あまりに割に合わない原稿料でなければ)お引き受けすることにしていますので、業界紙、社内誌の執筆も請け負っております。(但し、発行後のBlog公開可が条件ですが)。
といっても、同誌は結構著名な方がコラムを書いておられて、私の前の回はお天気キャスター(気象予報士)の森田正光さんでした。
で、今回の依頼は久々の「2007年問題」です。
恐らく、このジャンルの依頼はこれが最後か?と思いつつ、以前の原稿を踏まえつつ、(焼き直しではありません!)新たな視点をいくつか加えてみました。
やはり(焼き直しではないのですが!)骨格となる部分は、変わりようもないのですが、自分でも書いていて、特に結論部分などが明確になってきているのがわかります。
というわけで、一般公開されていないので、ここで転載しますので、ご覧頂ければ幸いです。
-----------------------------<以下転載>-------------------------------
「秒読みに入った2007年問題~何が起き、どう乗り切るか、その先はどうなる?」
「数にものをいわせ」と言えば失礼になるであろうか。しかし、事実、圧倒的な同世代の同僚を持ち「ポスト不足」とわれる現象を起こしながらも、強力な一大勢力として企業内に存在していた「団塊の世代」。その彼らが定年退職という企業の制度によって、いよいよ去っていく日が近づいてきた。そのピークが2007年。その年、そしてそれ以降企業はどうなっていくのか。世に言う「2007年問題」の本質を突き止め、考察してみたい。
■もう解決した2007年問題?
最近企業に「2007年問題についてインタビューしたい」と企業に申し入れをすると、「当社では2007年問題は解決しておりますので・・・」と断られるケースが増えている。2007年問題といえば、もはや誰もが知っている経済のキーワードであるがその年は団塊の世代が定年退職を迎えるピークに当たり、彼らが持っている技術やノウハウが企業から消失してしまう事をどうやって防ぐかが最も大きな問題の焦点である。それがそんなに簡単に解決するものなのだろうか。言ってみれば、解決策は社内に残る主に若手にいかに「技術伝承」をするか、又は何か別の方法・別の形ですぐ使えるような状態で社内に重要な技術・ノウハウを保存する以外にない。それが一朝一夕で成し得ようはずがない。
■2007年問題を2012年問題にするのか?
インタビューの断られついでにもらった企業のショートコメントや、各種メディアで報じられている内容を総合してみると分かることがある。多くの企業の2007年問題対策は定年退職していく社員に対する「つなぎ止め」や「リレーションの確保」である。具体的に挙げれば、5年間の定年延長や、一旦退職した社員を嘱託として再雇用するという方法が多く、退職したベテラン社員にしか解決しできない問題が発生した時のための「ホットライン」を確保というものもあった。いずれにしても「OB頼み」の観が否めない。本当に単なるOB頼みが解決策だとしたら、それは2007年問題を先送りして、5年後に2012年問題に頭を悩ませることになるのだ。
■OJTという名の旧弊
しかし、企業も全く無策というわけではなさそうだ。各企業とも定年対象のベテラン社員から主に若手社員への「技術伝承」に勤めている様子である。しかし、調べていくとその方法論に問題点が見えてきた。
日本における技術伝承は、古くは西洋中世の手工業ギルドと同じく、「徒弟制度」による技術伝承が主であった。弟子は親方に張り付き、基本中の基本こそ厳しく躾けられるが、肝心要の部分は「技は見て盗め」と体系的に教えられるものではない。弟子自身が師匠を見習い体得していくのである。
しかし、さすがに現代の社会では、一部の人間国宝ものの親方に師事する場合以外、徒弟制度はなくなっている。企業においては「社員教育プログラム」が整備され、基本の座、実践的な現場教育と形は整っている。しかし、その現場教育が問題なのだ。「On the Job Training =OJT」などと洒落た名前こそ付けられているものの、先輩社員に新人を張り付け、いきなり現場に放り出しているような例も散見される。これではOJTと呼び名が変わっただけで徒弟制度と何ら変わりはない。
しかし、変わっている部分もある。それは、学ぶ側の若手である。徒弟制度の頃は学ぶ若手は親方からげんこつを喰らいながら歯を食いしばって頑張った。しかし、「今時の若い者」などという呼び方はしたくないが、現代の若手社員はそこまで根性を据えないのだ。自分に「その仕事が合わない」と判断したら、あっさりと離職する。就労して3年以内の離職率は中卒7割、高卒5割、大卒3割であり、「七五三問題」と呼ばれている。「石の上にも三年」が続かない現代の若手には、徒弟制度の延長的なOJTでは技術伝承はできないのである。まして、この人材の流動化の進む中、せっかく技術を伝承したとしても、技術を引き継いだ社員の「退職願」一枚でその技術は簡単に企業から流出してしまうのである。
■「シャドウイング」という解決策
企業内の知識共有によって生産性の向上を図ることを目的とした「ナレッジ・マネジメント(KM)」は、今日のビジネス界やIT業界においては第二次のブームも下火になりつつあるが、ここに2007年問題解決策が隠されている。KMは単なる社内の文書管理や情報共有という表層的なものではなく、「技術伝承」という課題に対しての解決策になるものだと言うことを筆者は一昨年前、米国で学んだ。米国では日本における2007年問題と同様の現象が、2010年にベビーブーマーの大量定年としてやってくる。
そして解決のヒントは、米国カリフォルニア州サンタクララ郡で開催された「KM World & Internet’s 2004」で聴講した一コマにあった。講演者は米サンフランシスコ市・郡立法管理局の管理委員会書記官である女性担当者である。彼女の職場は役所特有の複雑な業務プロセスが渦巻いていた。サンフランシスコ市ほどの巨大組織になると、日々の業務は脈々と行われ、職員の大半は何のためにその業務が行われているのかも分からず、組織は肥大化し、業務も増え続ける。その悪循環をホワイトカラーの技術伝承というテーマとともに解決しようとしたのだ。
そこで彼女は「シャドウイング」という手法を用いた。「シャドウイング」のシャドウの意味するところは、伝承すべき担当者に陰のように張り付く人間を指す。その実行チーム、「シャドウチーム」に参画する人間を彼女は市からでなく、外部の様々な機関から募った。なぜ、内部の人間ではないのかは、「既存の業務が当たり前に見えない、斬新な視点が必要」だと考えたからだ。
では、シャドウイングとは具体的どのようなものなのか。基本は、シャドウが有用な暗黙知を持っていると思われる担当者に張り付き、その業務を観察して文書化する事である。必要に応じて、「今行われた業務は何のためにやっているのか、ポイントは何か、どのようなイレギュラーケースがあるのか」などを業務が行われる都度、詳細に聞き出して文書化するのである。
ポイントは担当者自身が通常通り業務を行い、シャドウがすべて文書化する事にある。いかに業務のプロセスを細分化し、その細分化された各々の業務について、深く聞き出していく事に正否がかかっている。聞かれた本人も無意識に行っている、あるいは慣例的に行われているだけの業務も多く、即答できない場合も多い。その時は聞き方を変え、他の業務との関連性なども考えさせ、答えを引き出していくのだ。当然、アウトプットとしての文書は、本人に無理に作成させ、行間が抜け落ちたものよりも数段詳細で洗練されたものになる。そして、それらを精査し、適正プロセスを定義しマニュアル化する(形式知化しいつでも誰でも使えるように伝承する)ことで、シャドウイングは完成するのである。
■シャドウイングによる「マニュアル化」の先にある「機械化」
前述のようにマニュアル化してあれば、その技術を伝承した人間が異動・転職・退職した場合でもその影響は最低限に食い止められる。しかし、マニュアルから100%人が学び取ることは難しい。なぜなら複雑な業務なほど人はマニュアルに従おうとしても、自然に自己流の「解釈」をしてしまい、それがマイナスに働くことがあるからだ。だとすれば、「マニュアル」よりもさらに詳細に「プログラム化」し、解釈を差し挟まず100%忠実に再現するために「機械化」しようという発想が生まれてくる。
しかし、「そんなロボットを作るようなマンガじみたことが現実にできるのか?」と思われるかもしれない。マンガの世界の2005年は鉄腕アトムが誕生して既に1年が経ち、世界を股にかけて活躍している。確かに現実の世界での人型ロボット開発は昨今急速に発達しているが、鉄腕アトムには遠く及ばず、ベテランの技を再現するような芸当はまだまだできない。筆者が述べたいのは「産業用ロボット」のことである。産業用ロボットであれば、現在日本では年間10万台程度が既に生産され、輸出も数多くされている。特に溶接ロボットなどは歴史が長く2007年問題の到来など誰も想像していなかったであろう、1970年代初頭には製品化されている。
産業用ロボットのプログラムはロボットティーチングという手法が使われ作成される。 そして、産業用ロボットはティーチングによって「記録」された動作を「再生」する「ティーチングプレイバック」で作業を行う。つまり、ティーチングプレイバックの機能を持つ機械こそが産業用ロボットであると定義されている。前述のように今日では産業用ロボットのプログラムは洗練された手法化されているが、溶接ロボットの開発の時代などは試行錯誤の連続であった。前項の「シャドウイング」のように、開発者は何人もの溶接職人の技を研究し、それをプログラム化し、動作制御を実現したのである。つまり、「シャドウイング」による「マニュアル化」は突き詰めれば「機械化」まで辿り着くことになるのだ。
また、日本が世界に誇るお家芸、工業技術の一つである「金型製作」は究極の職人技と言われていたが、その金型製作すら機械化されつつある。株式会社インクス(神奈川県川崎市・山田眞次郎社長)は、多機種展開とモデルチェンジの激しさが特徴である、「携帯電話の金型の自動製作」で話題を集めた企業として有名であるが、現在同社は携帯電話に限らず、多くの製品の機械化を各企業に提供している。こうした取り組みこそが2007年問題の解決につながっていくのだ考えられる。
■団塊の世代と企業の新しい関係が始まる
筆者がなぜ、2007年問題の解決策として「機械化」まで急ぐのか。人材の流動化については既に述べたとおりであり、理由は他にある。それは今の団塊の世代がいつまで退職する企業に忠義を持って協力してくれるのかという疑問があるからだ。定年延長や再雇用された場合の待遇はそれまでの半分に下がるのが相場だ。にもかかわらず、留まるのは企業が自分を他に変え難い技能を持った人間であると認めてくれたというプライドが原動力となっているのであろう。
しかし、企業に留まることを求められず、退職し第二の人生を謳歌している元同僚の事も気になるだろう。今の団塊の世代は退職金も年金もしっかりもらえる経済的には恵まれた世代だ。市場には彼らを狙ったシニア向けサービスが次々と開発されている。それを楽しむ元同僚を見て、いくら自分の職業にプライドを持っているからといって、いつまで自分は滅私奉公を続けるのだろうかと我に返りはしないか。そう考えると、定年延長や再雇用の5年という期間は長すぎるぐらいだ。それ故、マニュアル化や機械化を急がねばならないと考えるのである。企業は定年退職していこうとする社員達を、助けを求める対象と見るより、早く「大きな購買力を持った消費者」と見られるようになるべきだ。
また、定年退職後はボランティア活動やNPOに加盟するシニアも多いだろう。一方企業も今日、「社会的貢献」が求められるようになっている。そうした社会環境の中で、企業と定年退職した団塊の世代・元社員は互いに頼れるパートナーとなることであろう。
2007年を過ぎても団塊の世代はその世代の末期の層まで次々と企業を去っていく。その現実に対応するためには、一日も早く各企業は自社に最も適した解決策を見出し、退職した社員との新しい関係構築ができるまでになることが急務なのである。
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November 14, 2006
「21世紀は傍観者の思考停止社会なのか」
間もなく21世紀に入り5年が過ぎようとしている。21世紀という言葉の響きはかつて輝かしい時代の幕開けを連想させた。しかし、この5年で世情は急速に悪化しているのは誰もが思うことであろう。あたかもパンドラの箱が開かれたかのように次々と明るみに出る、虐め問題の激化、耐震偽装、メーカーのクレーム隠蔽、学校の履修単位偽装等々。「政府の無策」と一言で片付けてしまい、「そのうち誰かが何とかするだろう」と先送りを決め込んでいた我々自身が、いよいよツケを払わねばならない時が来ているのではないだろうか。
前号の日経Biz Plusの連載(http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm)で、ハンデキャッパーに優先席を譲るという基本動作が励行されない事象を「傍観者効果」の醜行であると述べた。よく考えれば、こんな一つの出来事だけではなく、今日、世の中そのものが「傍観者社会」になっているのではと、ふと気付くのだ。
■「傍観者効果」はナゼ起こるのか
社会心理学的には、前回紹介したラタネらの実験から「傍観者効果」が発生する原因は大きく以下の3つが存在されるとしている。
・責任分散:自分の他にも人がいることで、その場にいる援助可能者全てが自ら援助しないことの罪悪感が希薄になり、責任が分散することで非難も起こらなくなること。
・多元的無知:周囲の誰もが援助行動を起こさないことにより、目の前の事象は援助を必要とするほどの自体ではないと認識してしまうこと。
・聴衆抑制:要援助者が本当は援助を必要としていなかった場合や、自らの援助が失敗に終わったとき、その場の他者からの評価を懸念し援助行動が抑制されること。
以上からすると、今日、傍観者効果が起こりやすい状況にあることがよくわかる。つまり現代は組織や社会が官僚化、専門化、細分化されている。すると、自己と他者が隔絶されていることから、日本古来の「阿吽の呼吸」や「言わずもがな」が働かなくなる。その結果、皆が「これは自分の責任ではない」という「責任分散」が起こったり、お互いの心内が判らず結果として「多元的無知」が起こったり、他者の評価を気にして「聴衆抑制」が起こったりするのだ。
■自らも「当事者」であると気付かぬ恐ろしさ
傍観者効果は要援助者に対する非情としてのみ発生するのではない。自らも当事者であるにも関わらず、傍観者であると思いこんでしまう所に真の問題があるのだ。
身に覚えはないだろうか。通行人の多い交差点で信号待ちをしている時、ふとやけに歩行者信号が切り替わるのが遅いなと思うと、実は押しボタン式のボタンを誰も押していなかった、というようなことを。また、路線バスで大勢が降りるはずの停留所が近づいているのに誰も停車ボタンを押さず、停留所の直前で慌ててボタンを押すと案の定、大勢がバスから一緒に降りたというようなことを。
これらは全て「誰かが行動するだろう」と「責任分散」が起こっており、自らが当事者であるにもかかわらず、傍観者になっていた結果、不利益を被る結果になっているのだ。これが社会全体で起こっていたらどうなるのか。自らの不利益にも気付かず、何の行動も起こさない。そして社会全体が劣悪化していくのだ。現実に今日の世情がそれを如実に映し出している。世の中で起こっていることの多くは、その世の中の構成員である以上、自らにも必ず何らか関連があるという認識を持つことがまず必要なのだ。
■「官僚主義」が奪った「commitment」と「思考」
自らを当事者と認知して何らかの行動を取るとしたら、最も簡単なのは「自分でやること」である。しかし、現実には行動を起こす人間は極めて少ない。何故か。それらは「傍観者」となった時点で、Commitmentを放棄しているからだ。Commitmentとは日本語で言えば、第一義には「関与」となる。その「関与」とは「ある物事にかかわりをもつこと」である。つまり、傍観者たる所以通り、自分は当事者であるにも関わらず、その事実から目を背け、関わりを持つことを拒絶してしまっているのである。
筆者の推断では人々が「傍観者」となり、「commitment」を放棄してしまう理由は、この日本という国の不幸なしくみ(システム)によって生み出されていると考える。この国の歴史はある時から、イコール、タテ型社会あるいは官僚主義の完成に向けた進歩の歴史を刻んでいでる。本来の「官僚主義」=「悪」であるとは断じない。本来の官僚主義とは法や規制によって個人的な裁量を出来る限り制限することで、専横や情実を排することを旨としている。その思想は間違いではあるまい。日本が実質的に中央集権国家を志向した時点で何らかの、専横や情実を排するシステムは形成される必要があったからだ。
しかし、実態としては「組織の構成員が、個別のケースに対して独自の裁量と責任で行動するのではなく、規則や前例、建前論を根拠に、画一的、形式的な対応をすること」=「官僚主義」と言われるようになった。独自の判断で行動して責任を追及されることを避けるという保身のため、結果として事ある毎に短絡的な「・・・できない」というネガティブな結論を導出する。熟考せずにネガティブな結論に到達する。それは「思考停止」以外の何ものでもない。自らの頭脳を十分に働かせる前に責任を上へ上へと擦り付けていく体質がこの国には染み付いてしまっている。擦りつけたあとは「傍観者」決め込むのである。
特に、昨今の耐震偽装、メーカーのクレーム隠蔽、学校の履修単位偽装など、当事者が多数存在する場合は責任の所在が拡散してしまっている。つまり傍観者効果における「責任分散」と「多元的無知」の状態になってしまっているため、「責任の擦りつけが公然となっているシステムの構成員」にとっては極めて居心地のよい世界になっているのだ。
■Commitmentの回復と思考停止からの脱却を
現代日本人の特質として、「傍観者」がはびこり、傍観者は「Commitment」=「関与(ものごととの関わり)」を放棄していると述べた。加えて、Commitmentには関与以外に執行・実行の意も含まれている。つまり、誰も現実に目の前で起きている出来事に関わりを持たず、誰も手を動かさないという状態を「Commitmentの放棄」として考えれば一層今日の状況が判りやすいだろう。それはもはや、現代日本人の習慣となってしまっているのだ。
しかし、皮肉なことにCommitmentはCommunicationと語源を同じくする。これだけコミュニケーションの手段が多様化され、特に携帯文化にメール依存症、SNS中毒を生み出すまでに、人とつながること、コミュニケーション好きの日本人が、語源を同じくする一方のCommitmentは放棄し、思考停止に陥ってしまっているのである。何とも皮肉な光景としか言いようがない。
最後に、19世紀に活躍したイギリスの哲学者・経済学者の言葉を紹介したい。ここから学ぶべきは、この現代社会が何らかの問題を抱えていると認識したのなら、それを他人の責任に転嫁するという習慣を打破し、Commitmentを取り戻し、何かできることから自律的に行動するということが第一歩だということある。
「人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である。
ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill・1806~1873)
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October 31, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回は「転んでもただ起きない」というわけではないのですが、
この夏の怪我・退院以降の体験をネタにしてしまいました。
いつもの「タウン・ウオッチからの考察」よりも「当事者の視点」です。
ただ、行数の関係で簡略化したため、本当に「体験記」の色合いが強くなり過ぎた感もありますので、
本文の後から、理論編を補足します。最後までお読みいただけますようお願いします。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
前々回、「病床にて」と題し、事故で入院した経験を基にサービスの在り方を再考した。その後退院し仕事を再開したものの、まだ松葉づえが手放せない状態が続いている。
今まで大きなけがをしたことがなかった筆者にとって、「にわかハンディキャッパー」となってから、見慣れた日常風景は一変した。道を歩けばアスファルトの凹み、歩道の継ぎ目の一つ一つが容赦なく松葉づえの先を引っかける。広い幹線道路では、歩行者用信号の短さに慌てておろおろする。そんな驚きと苦難の毎日だ。今回は、高齢化の進展とも相まって社会のキーワードの一つになった感のある「バリアフリー」について、1カ月余りの松葉づえ生活を通して気づいたことをつづってみたい。
■バリアフリーは道半ば
筆者は歩道の形状がハンディキャッパーにとって大きな障害になることを、身をもって知った。例えば、車道より10センチほど高く盛り土された、よくあるマウントアップ形式の歩道。その歩道上に、車の乗り入れのための斜面を作ると、車庫のある建物が連続している箇所などでは、歩道が波打っているような状態になる。
退院間もない筆者が車椅子の世話になっていたときのこと。出張先でとあるビルの裏口から出ようとすると、そこは正に「波打ち歩道」であった。筆者は強行突破しようとして、車椅子ごと転倒。守衛があわてて飛んできて、表通りまで運んでもらうという一幕を演じた。この「波打ち歩道」は、国土交通省の「交通バリアフリー法」でも、改善すべき項目の一つに挙げられている。
鉄道では下りの階段が鬼門だ。けがをするまでは、上りエスカレーターは階段より確かに楽で助かるが、下りエスカレーターの重要性はさほど感じていなかった。しかし、松葉づえを使った経験のある方であればお分かりであろう。階段は下りこそ恐怖であり、昇降の難易度は上りよりはるかに高い。ここ数年で上りだけだったエスカレーターに下りが増設されたり、エレベーターが設置されたりしているが、まだまだ整備は十分でないことを実感する。
立派な構えのオフィスビルや瀟洒(しょうしゃ)なマンションのエントランスに必ず使用されている、ツルツルの大理石素材もくせ者だ。雨などで少しでも濡れていようものなら、松葉づえをついた途端に滑って転倒が免れない。転んだ痛みと、起き上がれずにジタバタしている自らの情けない姿に、心底泣けてくる。建物のバリアフリー化については、平成15年4月1日に施行された「ハートビル法」に様々な「建築設計標準」が定められ、建物の出入口についても「高齢者・障害者等が、安全かつ円滑に通過できること」と示されている。見た目重視のデザインはそろそろ見直すべきではないか。
■思わぬ天敵「自転車」
一見バリアフリーとは関係のないような事象が、ハンディキャッパーには大きな障害になることにも気づいた。最大の天敵は「自転車」である。「動かざる天敵」として、駅前には違法駐輪が群れをなしている。ただでさえ狭い道に無秩序な違法駐輪の列。何度も松葉づえを引っかけそうになる。
しかし、もっと恐ろしいのが「襲い来る天敵」、無謀運転自転車である。調べによれば、昨年1年間の自転車が関連した事故の死傷者は18万6,000人。10年前の約1.4倍に上り、中でも自転車が歩行者をはねたケースは5倍近くに達するという。
特に、松葉づえ歩行と自転車は相性が良くない。松葉づえ歩行はどうしても身体の両脇につえをつくため幅を取る。ろくに前を見ずにとにかく人のすき間を高速ですり抜けようとする自転車には、その広がっているつえが見えないようだ。筆者も思いきりつえを引っかけられ、はね飛ばされて転倒した。自転車は声をかけることもなく走り去った。
自転車は道路交通法では「軽車両」と定義される、立派な車なのだ。筆者をはねた運転者は「歩行者とぶつかり、そのまま走り去った場合、1年以下の懲役または10万円以下の罰金」という道交法の罰則を知っているのだろうか。
■集団心理という「バリア」
電車の中では、「優先席を譲る」という行為があまり励行されていないことを実感した。松葉づえをついた筆者が席を譲られる確率は3割ほどであろうか。どう見ても健康そうな乗客が座ったまま、一声もかけてもらえないことも多い。揺れる電車の中で、片足と松葉づえで踏ん張りながら、以前読んだ社会心理学の学説、「傍観者効果」を思い出した。
1963年にニューヨークのビルの谷間で女性が変質者に襲われ殺害されたとき、叫び声で異変を知った人は38人。しかし、彼女を助けに向かった人はおろか、警察に通報した人すら1人もいなかった。社会心理学者、ビブ・ラタネは、要援助者と1対1のときには他に助ける人がいないため、すぐに助けに向かうが、他にも誰か助けられる人がいる場合には、責任分散が起こり、結局誰も助けに向かわないと考えた。そして「他者の存在が援助行動を抑制する」現象を「傍観者効果」と名づけたのだ。
優先席が6人分あることで、この「傍観者効果」が作用していたとしても、何とも寂しい気持ちになるのは止められない。使い古されたフレーズだが、都会の非情さが身に染みるというところだろうか。
■「心のバリアフリー」を考える
以上、にわかハンディキャッパーとしての、体験的バリアフリーの観察記録である。ハード面のバリアフリーに関しては、ここ数年で法律整備のおかげもあってか、一見、急速に進みつつあるように見える。しかし、まだ本当に必要な人が困らないレベルに達しているとは言えないし、整備の内容も、必ずしも必要とする人の視点に立っていない。
また、言うまでもなく、バリアフリーは道路や建物のようなハード面や、法律や取り締まりだけの問題ではない。誰しもの中にある「心のバリア」を解消しないことには、本当の意味でバリアフリー社会を実現することはできない。
高齢になる前でも、筆者のように不慮の事故である日突然、自分自身が「要援助者」となる可能性は誰にでもある。労働人口が減少し、高齢化が進むこれからの社会はとりわけ、ハンディを持った人をより積極的に労働の場に迎え入れることが望まれる。誰もが「冷淡な傍観者」であり続けることはできないはずだ。
ちなみに、松葉づえ生活はまだ2カ月続く。この機会に今まで気づかなかったハンディキャッパーの視点から、いろいろと街を眺めてみようと思う。
----------------<以下補足・データ編と理論編>-----------------------
以上が本文でしたが、「自転車に跳ねられた」のくだりでは、「あの危ねぇ自転車、何とかしてくれよぉ~」という感じでまとまっていますが、金森としては以下のような対策が有効だと思っています。
■この違法駐輪や無謀運転自転車の問題は、条例や法律に則れば、撤去や取り締まりが可能だ。しかし、専ら違法駐輪の問題は「街の美観」という観点が強調されているように思うが、もっと切実なバリアフリー化の観点からも撤去を徹底してもらいたいものだ。確かに、撤去しても撤去しても違法駐輪は止まない。無謀運転は日常化している。しかし、そこはかつてニューヨーク市でジュリアーニ元市長の「割れたガラス理論」を見習って欲しい。当時ニューヨークでは、割れたガラスをすぐに修復すること、落書をすぐに消すことなど一見単純と思われることを犯罪防止の観点から行った。ガラスは割られてもすぐに修復し、落書きもいくら書かれてもすぐに消す。その徹底ぶりがポイントだったのだ。その結果、全米の都市で犯罪発生件数が増加しているのに対して、ニューヨークではそれが減少に向かったという実績を残しているのだ。
次に、心のバリアのくだり、「なぁ、優先席、替わってくれよ~。やっぱり松葉杖だと辛いんだよぉ~」的に伝わると困るので、ここも理論編の補足を。
■ラタネの実験について:被験者を各々個室に入れ、お互いにインターホンで会話をさせておきながら、そのうちに、サクラである一人が異変を示す。その際、サクラと被験者が1対1から1対6の関係で、異変を知って助けに行った割合の変化をみた。結果は、1対1では85%が異変に気付きすぐに行動し、すぐにではないが行動を起こした場合も入れれば100%が援助行動を起こしたのに対し、1対6ではすぐに行動を起こしたのは31%、そして最後まで行動を起こさなかった者が38%もいるという結果であった。ラタネは相手と要援助者が二人だけのときには、自分一人しか助ける人がいないため、すぐに助けに向かうが、他にも誰か助けられる人間がいる場合には、責任分散が起こり、結局誰も助けに向かわないという結果となったと考えた。そして、「他者の存在が援助行動を抑制する」現象を「傍観者効果」と名付けた。
列車の端にある優先席は6席。松葉杖の金森が席を譲られる確率は3割。正にラタネの実験結果、1対6の場合に似た割合。こんなところで検証できてしまった。
以上、まぁ、何かと不便ではありますが、新しい発見もあります。年内は松葉杖生活が続きますが、頑張っていこうと思っています。
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October 29, 2006
LCAコミュニケーションズ社が発行しているコンタクトセンターの専門隔月誌「コンタクトセンターマネジメント」の連載、この連載は、金森の自説をコンタクトセンター向けにまとめ直して発表しています。
しかしながら、前号では入院騒ぎで第3回を休載し、今、一号飛ばした穴埋めの原稿をようやく書いています。
で、第2回をBlogに掲出することを忘れていたのも思い出しましたので、遅ればせながらお届けいたします。
-----------------------------------------
第2回「センター・アイデンティティー構築の準備作業」
■魔法の呪文のその前に・マーケティング環境分析
前回はマーケティングとコンタクトセンターの歴史を振り返り、センターの今日置かれた企業内でのポジションを整理した。コンタクトセンターは企業内において、顧客情報を一元的に扱い、各部門と連動して一人の顧客に一貫性と整合性のある対応を行うためのハブとなるべき存在である。しかし、「苦情処理」や「受注処理」といった、処理中心の「業務をこなす」ことだけが求められてきたコンタクトセンターの出自そのものが、本来的な位置づけからの乖離を招いている。結果としてセンターに勤務するコミュニケーターやスーパーバイザーといった現場スタッフが、高いレベルでモチベーションを維持するということが困難な状況にあるのが現状である。そのため、現場スタッフに顧客対応の重要性を理解させ、各々の業務の重要性を認識させることで鼓舞し、高いモチベーションを持って業務に向かわせるためには何らかの精神的支柱が必要である。その精神的支柱となるのがセンター・アイデンティティーという考え方であると述べた。
しかし、センター・アイデンティティーは一瞬で現状を激変させる、「魔法の呪文」ではない。ステートメント化(明文化)するためにはまず、準備作業が必要だ。センター・アイデンティティーはセンターの現状を的確にとらえた内容でなければならない。故に、まず環境分析が必要となる。環境分析はマーケティングの基本的なフレームワークに沿って現状の洗い出しを行っていくワークである。実際にワークはセンターに勤務するスーパーバイザーやコミュニケーターを巻き込み、作業のプロセスを共有することが肝要である。最終的な成果物であるステートメント化されたセンター・アイデンティティーの基礎となる分析段階から参画させることによって、より納得感を醸成できるからだ。センター勤務者全員を参加させることはできないであろうが、その場合でも現場スタッフが参画しているという事実と、作業プロセスを開示し、共有することが重要である。
■環境分析を実行する
では、具体的な環境分析の実行方法に話を進めよう。図1にあるような表を作り、まず、各々の項目がどのような環境にあるのかを列挙し、事象のプラス面とマイナス面を埋めていく。より自社の置かれた環境を明確にするために、自社との対比で「競合」の要素も盛り込むとよい。
まず、センターのことだけではなく、自社を取り巻く外的な環境を大きく分析していく。マクロ分析の典型的なフレームワークである「PEST分析」を用いる。「PEST」とは、P= Political:関連法案や規制など、政治的な影響はないか。E = Economical: 自社を取り巻く経済環境はどうなのか。好景気であればよい業種ばかりではない。また、自業界の先々の経済見通しも需要だ。S = Social:経済情勢だけでなく社会情勢全般を見渡すことが重要だ。人口動態や人々の関心に登っている社会問題など考慮せねばならない。T = Technological:現状の技術的な側面はどうなのか。自社にとって優位な技術、脅威となる技術などを明確にしておくことが重要だ。
次に自社のごく周辺の環境を洗い出す。ミクロ分析といわれるもので、フレームワークとしては「3C分析」を用いる。3Cとは、市場(Customer)、競合(Competitor)、自社(Company)の頭文字を取ってている。Customerは自社顧客だけを意味するのではなく、市場に広く存在する、顧客となりうるべき生活者を意味している、その意味からは「市場」という日本語訳の方が本来の意味に近い。市場全体を広く見渡し、自社のチャンスとチャンスロスの危険性を探ることとなる。Competitor =競合となりうる企業を洗い出し、それらの動きを観察し、市場全体の動向を把握する。Competitorといってもライバル会社だけではなく、昨今では思いもよらぬ企業がCompetitorになることも少なくないので、できるだけ広い視野で捉えることが必要である。Companyは自社の現在のFACT(事実・現実)を中心に洗い出す。
続いてマーケティング・ミックスの洗い出しを行なう。いわゆる「4P」を検証していくのだ。Product = 製品:自社と競合の製品的な違い・強み弱み。Price = 価格:自社と競合の価格戦略の違い。Place = 販路:自社と競合の流通経路の特徴と、経路に起因する売り方及び情報取得の方法の違い。特に商品の流れ「物流」と、お金の流れ「商流」、情報の流れ「情報流」は各々異なるので留意が必要である。Promotion = プロモーション:この部分だけで狭義にマーケティングをとらえがちであるが、飽くまで一要素でしかないことが一連のワークを行ってくると理解できるだろう。今日、メディアは多様化し、プロモーションの方法も大きく変化している。とにかく幅広に考えてみることが必要だ。
■マトリックスから「意味合い」を抽出する
図1の全ての欄が埋まったら、図2のようにマトリックスを分割してほしい。
3Cの「Competitor」のところで上下に分ける。Competitor以上の項目が「外的要因」。「Company」以下の項目が、「内的要因」である。さて、次に、各々の項目のプラス要因とマイナス要因の間に線を引く。すると左下の象限は「内的要因のStrong」である。右下が「内的要因のWeakness」。左上が「外的要因のOpportunity」。右上が「外的要因のSleight」。つまり、一般に言われる、SWOT分析を丹念に行っていたということがここでわかるだろう。
SWOT分析は通常は図3のような表を元に四つのマス目を埋めようとするが、表単独でマス目を埋めようとしても、なかなか正確には作り上げられないものなのだ。一連のプロセスを踏んで表を完成させれば、極めて精緻なSWOTの表が完成する。
しかし、この表が完成しても安心してはいけない。ここまでは単なる現状洗い出しの「作業」にすぎないのだ。S/W/O/Tの象限ごとに、象限の持つ意味合を抽出する。状況は明るいのか暗いのか。原因は何か。解決するための打ち手は何かを検討するのだ。四象限全て検討し、最後に全体として、自社の状況は明るいのか暗いのか。解決する打ち手は何かを検討する。そして最後に次のようなワードに落とし込んで意味合いを明確にすれば完成だ。
我が社を取り巻く環境は
T というマイナス要因と、
O というプラス要因があり、
総合的には T+O であると言える。
その中で
W という弱みをカバーし
S という強みを活かしていく。
■ 「カスタマーインサイト」という名のフレームワークを理解する
上記の通り、環境分析によって自社を取り巻く様々な事象が浮かび上がり、「今、何をなすべきか」がおぼろげながら見えてきたのではないだろうか。
しかし、ここからセンター・アイデンティティーを構築してしまうと、ともすれば自社の視点からだけで、顧客の視点を置き去りにしてしまう恐れがある。それを防ぐためには、いま一度、顧客の心の中を深く考えてみることが必要となる。そこで、筆者は「カスタマーインサイト」というフレームワークを提唱したい。カスタマーインサイトとは、直訳すれば「顧客の心を洞察する」という意味であるが、複雑な人の心の動きを一つのフレームワークに押し込めることによって、対応策を考え出すことが眼目である。それは<Recognition><Time Saving><Peace of Mind>という3つの要素から構成されている。以下、図4を元に各々の構成要素について解説しよう。
<Recognition>
顧客の存在を適切に認知・評価すること。つまり、この顧客はどのような人で、どのよ うな行動特性を持っているのか。購買履歴や傾向からするとこれくらい自社の利益に貢 献するであろう。というようなことを、顧客のプロフィールデータや購買行動データ、 来店履歴やWEBへの来訪・利用履歴などを用いて把握することである。
このRecognitionは言ってみれば商売の基本であり、「大切なお客様のことはちゃんと分 かっています!」という態度を示すことにつながる。当然、営業規模の小さな個人商店 などは顧客を個別識別し、好みなどもきちんと把握した上で商売をしている。しかし、 企業規模が大きくなり、顧客数が増え、流通も複雑になった結果、顧客の個別識別がで きなくなってしまったのが今日の企業の姿である。それを顧客データの活用によって商 売の原点を取り戻すである。顧客の状況がつかめていなければ打ち手も考えられない。 極めて基本であり、かつ重要な原点である。
<Time Saving>
利便性の提供、若しくはボトルネックの解消である。これも商売からすれば当然のこと であり、「お客様にお手間は取らせません!」という姿勢を示すことだ。つまり、顧客 がふとしたきっかけで「こんな資料が欲しいな」などと思ったら、すぐに提供する。顧 客が何か契約の更新や申し込みなどを忘れていたら、きちんと思い出させる。顧客が気 になったものがあったら、探しやすい環境を提供する。そういう努力を惜しまないこと が大切だ。
<Peace of Mind>
本質的な価値の提供によって、顧客に安心感と満足を与えることである。結果、顧客は 「ああ、これでよかったんだ!」という気持ちになり、顧客と企業及び担当者の相互信 頼関係が生まれる。そこから初めてアップセルやクロスセル、アフターマーケティング や顧客紹介への道が開ける。
では、「本質的な価値」とは何か。筆者はよく生命保険を例にとって説明している。保 険に 入ると保険証券が送られてくる。しかし、そんな物はただの紙っぺらだと誰もが 分かっている。では、万が一の時に支払われる一億だか何千万だかの保険金の額が本質 的な価値なのか?確かに金額は重要だろう。しかし、保険の本質的価値とは「自分 に万が一のことがあっても、家族は大丈夫だろう」という「安心感」なのだ。成績が優秀な保険の営業担当者でものは、そのことがわかっているが故に、顧客に対する手厚いフォローによって「安心感」を与え、決して離反させることなく、追加の契約を獲得したり、知り合いの紹介をもらったりしてさらに成績を伸ばしている。「本質的な価値」が理解できているといないのでは、顧客対応が大きく異なり、成績にも大きく影響するのだ。
■「カスタマーインサイト」活用法
「カスタマーインサイト」は理解できただろうか。フレームワークは考え方の整理であり、黙って読んでいるだけでは抽象的に感じられるかもしれない。今回は保険業を例示したがも、実際に自社のビジネスに当てはめて考えてみなくては具体的な意味合いはなかなか見えてこない。環境分析に続いて、「カスタマーインサイト」もフレームワークに従い、自社への適応を具体的に話し合い、自社版の「カスタマーインサイト」を作り上げることが次の作業である。
上記の通り、3つの要素が整理するためには、「カスタマーインサイト」を活かした顧客対応をどのように実現するのかも同時に考えるとよいだろう。そのためには、図4を図5のように逆さまに組み直してみると理解しやすい。
Recognition→Time Saving→Peace of Mindというステップである。これは、「どのように顧客を理解すべきか」という考え方の流れを示している。逆の流れで一つ一つ要素を確認していくことで、顧客に向かい合う準備をするのだ。
ポイントはPeace of Mindの要諦である「本質的価値」の理解である。「自分が顧客に提供するものの真の価値はどこにあるのか」をとことん考える。そして「自分たちはこんな存在なんだ」という確信が持てれば、おのずと次に「それではお客様にはこんなふうに接しよう」という、とるべき行動が見えてくるのだ。それは、センター・アイデンティティーのステートメント化のためには欠かせない準備作業となる。
もし、今回提示したプロセスを踏まずにいきなりステートメントを作成したら、ただの言葉遊びに過ぎない、美辞麗句に終わってしまう。次回いよいよ具体的なステートメント作成のパートに入る。そのためにも、今回のプロセスを是非、実行してもらいたい。
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October 24, 2006
以前、入院中に産経新聞の記者が訪ねてこられ、小泉政権の総括に関するインタビューを受けた。
ベットの上でだ。
そして、9月12日朝刊のコラムにインタビュー内容が掲載された。
結構長い時間語った割には、従来からの金森の持論である「小泉のポジショニングの妙」しか採用されていなかったので少々残念に思いつつ、とはいえ大手新聞へのインタビュー記載といえば日経の土曜別刷りでは二度ほどのったが本誌掲載は正直ちょっとうれしかった。
そして、退院し、一月以上が経ち、ブランクを埋めるためにも忙しく動き回っているうちにそんなことも忘れていた。
ところが、知人から、「ネットを色々調べていたら見つけた」と、産経新聞のWebサイトに転載された上記記事を知らされた。
ネットでは二次利用は当たり前ではあるが、本来、新聞は長く残るものではないと思っていただけにビックリした。
(長く残らないからといっていい加減に取材に応じたわけではないが・・・。)
一応、入院中のできごとがこのBlogからはすっぽり抜け落ちているので、その間のできごとということで、リンクを設定しておきます。
ご関心をお持ちいただきましたら、産経新聞のWebサイトでご覧ください。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/18918/
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October 23, 2006
連載をしている「月刊販促会議」の12月号が11月1日に発売されます。
その会の連載のテーマは「ソニーPS3発売前値下げを4Pのプライシングの難しさ」という観点で書きました。
しかし、教鞭を執っているビジネススクールでちょうど「5F分析」についてやったところなので、
4Pではなく、5Fの観点で仕立て直しして、以下に列挙します。
同じ事象でも複数の見方ができるということで、連載をお読みの方も、11月1日に雑誌でお読みいただく前に下記をご覧頂いておくと面白いのではないでしょうか。
・PS3が発売前に約2万円の値下げを発表した。この理由を「5Fモデル」で考えてみる。
・ハイスペック&ハイプライス=マニアしか買わない高価なゲーム機=普及しない(シェアが取れない)。
・一番問題なのは、そんなゲーム機向けにソフトを作ってくれるソフトハウスはいないということ。
・過去、セガのサターンがPSに敗れ去ったのは、スクエアなどのビッグタイトルを持ったソフトハウスをPSに押さえ込まれたから。
・もう一つの側面では、マニアしか買わない高価なゲーム機など、流通は扱いたくないと言うこと。
どうせ売れない商品に展示スペースすら割きたくないのが本音。
・以下、M.ポーターの5Fで分析をしてみる。
■ 「売り手の交渉力」=ソフトの供給元:前述の通りシェアが取れないゲーム機に売れるソフトは供給されない→強い
■「買い手の競争力」=流通(量販店):前述の通り、売れないゲーム機に本腰の販売はしない→強い
■「業界内の競争」=Wii発売前からかなりの話題。X-BOXもかなり認知・普及とも上がっている。さらに価格面で見ると、Wii、廉価版X-BOXとどちらもPS3の当初の価格の半分ぐらい→強い
■「新規参入の脅威」=これはちょっと判らない??
■「代替品の脅威」=ハンディータイプのゲーム機:ニンテンドーDSなどでも十分ハマル。高価で複雑なものよりも消費者はお手軽なもので十分。→強い
結論として何とも辛い業界構造。
※そもそも、「5F分析」の胆は「業界定義」。ソニーは「業界定義」を「ゲーム機市場」ではなく、PS3を「情報家電の中核」と位置づけて、パソコンのだいたいのような存在として捉えていた?
そのため、パソコンまでは高くなくても、ゲーム機としては異常に高い価格設定になっていた?
・きちんと「ゲーム機市場で戦う」という業界定義の認識があれば、ハイスペック・ハイコストという選択にはならなかったはず。
・かくして、ソニーは「低価格でシェアを取る」という「ペネトレーション・プライシング」に価格戦略を切り替えた。
但し、完全な「ペネトレーション」というほど、競合に価格優位性があるわけではないので、どれくらいシェアが取れるか少々疑問。今後に注目というところ。
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October 14, 2006
日本実業出版社の季刊誌「ザッツ営業」の創刊第三号、好評発売中です。
ザッツ営業 http://www.njh.co.jp/that/that.html
同誌にて1ページ巻頭カラーをいただいているコラム欄の第二回が掲載されています。
今回のネタは、前回予告通り「伊東屋」です。
Blogでも紹介し、かなり反響を頂いた「伊東屋」ネタですが、
初めてメディアに掲載されました。
次号はもはや誰もが知っているあの・・・。
以下、転載。
--------------------------------
「銀座・伊東屋 顧客対応の極意」
今回は定番といっても「店」だ。創業102年を迎える、銀座の老舗文具店・伊東屋。その店の存在そのものが、押しも押されもせぬ「定番」たる良質な顧客サービスを展開していることを伝えたい。
同店に顧客対応マニュアルといったものは存在しない。お客様中心主義(顧客セントリック)といった教育を行ない、顧客応対品質の向上を行なっている。マニュアルも各店員の”考える力”を奪い、画一的な接客しかできなくなるためあえて作らないそうだ。
伊東屋の教育として、自分自身がお客様の立場になってうれしいと思うことは何でもしなさい。例えば替え芯一本だけをお買い上げのお客様が、他にもお手荷物をたくさんお持ちのようであれば、「大きな手提げにおまとめ致しましょうか」というような声掛けをしなさい。というように、微に入り細をうがつように指導をするという。
そこまで聞いてかつて体験した対応に得心がいった。筆者は外国製の革手帳を肌身離さず持ち歩いている。コラムや各種原稿の他のネタ帳である。しかし、うっかり手帳のリフィルを切らしてしまった。
伊東屋へ行ったが、店頭になく外国製故取り寄せに時間がかかるとのこと。ネタ帳無しでは過ごせない。途方に暮れていた筆者に対し、店員は何の躊躇もなく新品からリフィル部分を取り外し「ご不自由でしょうから、こちらをお使いください」と差し出してきた。感動した。
元東京大学大学院教授・丸の内ブランドフォーラム代表の片平英貴氏が提唱している消費者行動モデル「AIDEES(Attention・Interest・Desire・Experience・Enthusiasm・Share)」が話題だ。Experience(経験)し、対応の良さにEnthusiasm(惚れ込み)、人にShare(推奨)するというものだ。
伊東屋のケースはその好例だろう。なぜなら、惚れ込んだ筆者は記事にすることによって読者に推奨しているのだから。
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October 05, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回は「ニート対策」という大それたテーマに挑んでみました。
しかし、ニートが問題になる一方で、大学の教壇に立っていると、
自分がバブル時代の学生だった頃と比べて「みんな真面目だなー」と思います。
そんな彼らの将来が明るいものになるようにと、原稿を願いながらしたためました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
筆者の自宅最寄り駅は「東京で一番、駅前にパチンコ、パチスロ店が多い駅」という、何となくありがたくない異名を持っている。そして、通勤時間帯にはそれらの店のシャッター前に、良い席を取らんとするマニアの行列ができている。駅に向かう通勤族と列をなすギャンブル族――。もう何年も前からの地元の光景だ。
しかし、その光景にここ数年、明らかな変化が起きている。ギャンブル族の低年齢化が顕著なのだ。世間で言うところの「フリーター」や「ニート」と化した若年層が、ギャンブル族の仲間入りをしているらしい。筆者は毎朝駅に向かう度に、列なす彼らの姿を見て、今日の若年層の労働問題を実感するのである。
■「若者」と「働くこと」との大きなギャップ
筆者は現在、青山学院大学経済学部の非常勤講師として、「産業論(ベンチャービジネスとマーケティング)」の講義を持っている。日ごろ学生と接していて感じることは、「何のために働くのか分からない」「自分が何をしたいのか分からない」という気持ちが彼らには非常に強いということだ。そんな状態のまま、知名度や目先の業績だけで会社を選び、結果的に「自分が本来求めていた仕事と違う気がする」という「ミスマッチ」を感じているケースも後を絶たない。
16世紀のキリスト教宗教改革の指導者であるジャン・カルヴァンの思想に「職業召命観」がある。「職業とは神の与えた使命であり、その結果としての富は神祝福である」という考え方だ。「職業」を表すドイツ語のBeruf(ベルーフ) はもともと「神の思し召し」という意味なのだ。ここでは働くということは当然であり、迷いは生じない。
一方、筆者が社会人デビューしたバブル時代は、就職活動の苦労はなく、初任給も高かった。残業代も青天井。経済全体が好調だったため、全てが好循環しており、マーケティングプランは面白いようにクライアントに承認され、営業成績も上がった。
翻って、今日の三十代以降の世代。就職活動は今でこそ売り手市場に転じたものの氷河期が長く続き、賃金も上がらず、残業代カットは当たり前。労働の機会と対価(成功体験)に恵まれなかった世代と言えよう。さんざん会社に忠義を尽くしてきた親世代のリストラも目にする。彼らにしてみれば、働くことは当たり前でもなければ、何か確かな見返りが約束されているわけでもない。「働く」ことに対する実感や動機が希薄なのも、無理もないことなのかもしれない。
■あなたは何のために働いていますか?
では、人はそもそも何のために働くのだろうか。当連載で何度か紹介したアブラハム・マズローの欲望段階説に当てはめて、「働く意義」を考えてみよう。これは、人間の欲望を五段階のピラミッドに見立て、底辺の欲求が満たされると、一段上の欲求を満たそうとするという説だ。
まず、第一段階目の「生理的欲求」は、衣食住のような、生きていく上での最低限の根源的欲求である。働くということから考えれば、「食うため、生きていくため」の労働である。第二段階目の「安全欲求」では、食いっぱぐれることのない、安定した職を求める。第三段階目は「親和欲求」。つまり他人とかかわりたい、他者と同じようにしたいなどの「集団帰属の欲求」で、会社組織に属し、皆と一緒に働くことに喜びを見出す。そこでその仕事自体に喜びを見出せるようになれば、第四段階目の「自我の欲求」へと進む。これはつまるところ、自分の能力を人から認められたいという欲求なので、自分が属する集団、つまり会社組織などの中で価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める「認知欲求」と言い換えられる。
ちなみに、第五段階目は「自己実現の欲求」。つまり自分の能力、可能性を発揮し、創造的活動や自己の成長を追求する欲求であるが、さすがにここまで至るのは簡単ではない。まずは第三段階を経て、「働くことの意味を認識し、他者とのかかわりの中で自分の仕事にやりがいを見出す」第四段階へ至ることが重要だろう。
■インターンシップが注目されているが・・・
このような「働くことの意味」は、いくら考えてもダメで、実際に「体験」して「実感」するしかない。そこで筆者は、毎年学生にインターンシップへの参加を勧めている。いくら講義で言葉を尽くすよりも、実際に自分自身で働くということを「体験」する方が、彼らの疑問を解くことになるからだ。
ただし、現行のインターンシップはムード先行で、効果的な方法論が確立しているとは言いがたいのが実情だ。大学においては、各校でインターンシップが単位の対象になったりならなかったりと、力の入れようの差が大きい。企業で体験できる内容もバラバラだ。ある有名企業ではインターンシップと称しているものの、夏休みにわずか一週間ばかり学生を集め、社員が講義形式の座学を重ね、最後に形ばかりの「演習」と称して、企画書の作成を行うだけのプログラムを実施している。このような内容では参加者は実務に触れた実感に乏しく、「集団帰属」や「認知欲求」の境地の疑似体験は望めない。
企業にとっては「優秀な学生に事前に唾を付けておきたい」、学生にとっては「就職希望先の企業に顔を売っておきたい」という打算が働いている面も否めない。これでは、本来の就業体験という目的がおざなりになり、単なる面接の延長になりかねない。
■全ての学生に“実のある”インターンシップを
筆者の前の職場でもインターンシップを受け入れていたが、大学生には夏休みを丸々仕事に費やしてもらい、基礎知識を学んだ後は社員に交じり、実際の業務を担当させた。ある者はクライアントに実際納品する調査レポートの作成を担当し、またある者は競合プレゼンテーションの企画書を作成するなど、重要業務の主担当にしてしまうのである。そうすれば、レポートが納品され請求書を起こすときの満足感、プレゼンで業務が獲得できたときの喜びや、逆に獲得できなかったときの悔しさが、「実体験」となる。同時に周りでは、上司に褒められたり、時には本気で怒られたりしながら働く社員達の姿も目にする。そんな体験は確実に彼ら、彼女らの血肉となったはずだ。
インターンシップはニート予備軍の若年層が、現実のビジネスの場に身を置き、内面に眠る働くことへの欲求に目覚め、「やりたいこと」を明確にするための絶好の機会だ。もちろんインターンシップを導入すれば若者の労働問題の全てが解決するというわけではないが、少なくとも「実際の企業環境の中で実業務を自らの力でこなし、その結果まで体感する」というレベルでなければ、そうした効果は期待できない。「働く意味」や「やりたいこと」が分からないまま適当に就職し、ドロップアウトしてニート化する芽を摘むこともできない。
文部科学省は、2007年度から全国200の公立高校に民間からの「キャリアカウンセラー」を登用し、学生の職業意識の向上を図るという。その一環としてインターンシップも組み入れられるようだ。就職後3年以内の離職率は大卒3割に対して高卒は5割とさらに高い。うまく運用すれば、この取り組みは文部科学省のヒット作になるのではないだろうか。早期に結果を検証したうえで、方法論を確立し、大学も含めて全学生に機会を広げるべきだろう。一部の企業と個人のマッチングにとどまらず、若者と仕事の「橋渡しの場」としての社会的役割を積極的に担うべく、インターンシップの質量両面からの拡充に官民挙げて取り組むことが望まれる。
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October 01, 2006
10月1日発売の「販促会議11月号」が発売されましたので、
前号の記事をバックナンバーとして掲出いたします。
久々に”CRM”について論述してみました。
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第7回「CRM・One to Oneはどこへいった」
前連載では大きく取り上げなかったが「顧客視点のコミュニケーション実行するにあたり欠かせないCRMやOne to Oneは、今どうなっているのか」という読者からの質問があった。今月はそこを掘り下げていこう。
■CRMはダーティーワード?
ITバブルも輝かしき2000年当初、米国ではCRMやOne to Oneのソリューションが多数発売され、各企業に導入されていった。して、その結果は……芳しくなかった。ここの顧客に適切なパーソナライズされたコミュニケーションを行おうとする思想は大変正しいものであった。しかし、一人の顧客に整合性のある全社統一されたメッセージを企業から発信しようとした場合、社内各部署に分散して収納されている当該顧客の購買データ・アンケートデータ・ウェブサイトでの行動データなど、いくつものデータを一つに統合しなければならない。
統合データベースの構築は口で言うほど簡単ではない。データ形式、項目、取得時期、それぞれがバラバラなデータを一つのデータベースに統合する。その困難の前にプロジェクトは立ち往生する。何億(ドル!)もの投資をしたのにだ。かくて、米国ではCRMは「ダーティーワード」と化してしまった。その証拠に、米国で「CRMコンサルタント」の名刺を出すと眉をしかめられるほどだ。
■日本のCRMはどうだったか?
2000年当時、日本でもCRMブームは起こった。しかし、幸か不幸か、当時の日本はデフレ不況の真っただ中にあり、大きな投資は出来なかった。結果的にこれが幸いした。全社DBの統合など当初から考えず、ゼロスタート、つまりCRMのための会員組織をつくり、その会員とのコミュニケーションを行うというスタイルを取った。これならスモール・スタートが可能となる。また、CRMとOne to Oneは言葉の上ではよく混同されていたが、実行上、One to Oneは目指していなかった。One to Oneは一人の顧客に当該顧客の一連のデータを引き出し、それに対して最良のレコメンデーションを行うということだ。しかし、CRMは國焼くのセグメンテーションを精緻化し、細かなセグメンテーションにレコメンデーションルールを設定し顧客名だけは本当にパーソナライズするというレベルのものだ。
本当のOne to Oneと実態は「マス・カスタマイゼーション」であるCRM。似て非なるものと言葉で言う以上に実行上の労力は違う。
余談だが、筆者は三度目にレスター・ワンダーマン(ダイレクトマーケティングの創始者)と会った時、彼のまえでうっかり「One to One」という言葉を使ってしまった。すると彼の反応は激しかった。「いいか、若いの。あれは理論だけのコンサルタント上がりのブードゥーマーケッター(インチキ師)の言葉だ」と言うのだ。One to Oneの提案者ドン・ペパーズとマーサ・ロジャーズ。実は、レスター・ワンダーマンとドン・ペパーズは仲が悪かったようだ。
◆ではCRMはどこへ行った?
現在、日本のCRMは「顧客管理」もしくは「顧客への最適対応」という概念と実態のレベルがかい離した状態で存在していると言えよう。では、その実態とは、前述の通り全社顧客データ統合から始めるなどというビッグスタートではなく、アルプロジェクトのソリューションの一つとして組み込まれて実施されることが多い。例えばあるプロジェクトで顧客アプローチ及びそのレスポンス対応が必須となる顧客に「何を」提示するかは「CMS(コンテンツ・マネジメント・システム)」の役割だ。それを「誰に」提示し、レスポンスがあった際「誰か」を特定して、履歴を表示するのはCRMシステムの役割だ。
つまり、今日のCRMは概念レベルではかつてのままで、システム的にはほかのシステムと連携しながら全体の一部として生き残っているというのが実態なのだ。
◆今後のCRM実行のチャンス
前述の通り、今日の日本のCRMは気高い思想から遠く離れた、いささか情けない状態にあると言える。しかし、昨今本格的なCRM、もしくはOne to Oneの実現まで含んだ実行のチャンスがやってきているのだ。
1.企業の相次ぐM&A
各メディアを連日にぎわしているM&A。大手、中堅、外資、日系が入り乱れて「こんなところが」と驚くことしきりの毎日である。M&AとCRMに関係があるのか?……ちゃんとあるのだ。M&Aして二つの企業が一つになる。一人の顧客が両方と取引していたら……請求書はバラバラに来る。販促のDMは同じものが二通来る。パーソナライズされたウェブサイトがあったら、それぞれに異なるID、パスワードでアクセスしなければならない。顧客にとってこんな不都合を許せるはずがない。
それを避けるためには「顧客データの統合」をイヤでもやらざるを得ない。「顧客データの統合」は、一社で何のやるべき理由も無ければ、大きなコストも労力もかかるため先送りされる。しかし、ひとたびM&Aが起こってしまえば、それは避けては通れないプライオリティーのかなり上位にあるアクティビティーと化すのだ。「顧客データの統合」というインフラさえ整えば、あとは「誰に」「何を」や「いつ」といった実施を考える第一歩に建つことが出来るのである。
2.J-SOX法への対応
これは顧客視点というより、法改正の影響であるが、目前に迫る日本版SOX法の施行も、実はCRMとかんけいがある。本家、米国SOX法と日本版の一番の違いは、日本は「ITを使用すること」が義務付けられていることだ。これは、米国には「インフォメーションライブラリアン」という企業内情報の収整理理担当者が存在することによる。例えば、役所が「何々の購買に関する資料を用意するように」と指示すれば、3時間~4時間で整えてくる。まさに人間サーチエンジンである。これは“Realtime Disclose” という条項を実現するためである。ところが日本にはインフォメーションライブラリアンがいない。そのため、「ITを活用するように」とのお達しが下ったわけだ。人間を前提にした“Realtime Disclose”であるからこそ3時間~4時間の猶予が与えられている。ITで“Realtime”と言われたら、文字通りに「その場で抽出して提出」となるだろう。これを実現するには「データ統合」が欠かせなくなる。現在のように社内のあちこちにデータが散在していたら、ととえも“Realtime”は実現できない。やはりイヤでも全社データ統合が必要となるのだ。かくして、思わぬところから顧客データも統合され、CRM実行の環境が整うこととなるのだ。
◆これから何をなすべきか
前述の通り、日本のCRMは米国のように過大な投資をしなかったおかげで「失敗」の烙印を押されはしなかった。しかし、通常のキャンペーンなどで、その考え方が受け継がれただけで、大きな成功もしていない。ところが、上記のような経済環境の変化と、政府の圧力によって、期せずしてCRM実行のインフラ構築のチャンスがやって来た。しかし、それはあくまでインフラである。「インフラ上で何をするのか」を考えねばならない。しかも、M&Aの場合のシステム統合もJ-SOX対応も、そんなにのんびりシステム設計を行うわけがない。とすれば、どのようなCRMを実行するために、システムにどんな昨日を追加して欲しいかという「システム機能要求」を早急にシステムの主幹部門に提出しなければならない。そのためにも、CRMのコンセプト、ロードマップ、アプリケーションなど、決めなければならない事は多い。しかし「大変だ」と言うなかれ。降ってわいた様なチャンスに乗るにはとにかくスピードしかないのだから。ここは各企業の知恵の見せ所だ。
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September 19, 2006
8月1日発売の「販促会議10月号」の連載です。
こちらもアップが遅れておりました。
バックナンバーとして掲出いたします。
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第6回「自分に合ったマーケティング環境分析手法の習得を」
新連載の第2回で、自社を取り巻く外部環境と内部環境をマクロ分析(PEST)からミクロ分析(3C)、さらにはマーケティングミックス(4P)まで一気に洗い出し、そこからSWOTを導出する手法を紹介した。読者から「SWOT表を前に頭をひねりながら確信も持てず作っていたのが、一つ一つの要素を丹念に洗い出していくことでウソのようにすっきりと答えが出せました」といううれしい反応があった。以前にも述べたが、S/W/O/Tというマスを強引に一気に埋めようとしてもうまくいかないものなのだ。急がば廻れ。是非、以前ご紹介したフレームワークをご活用いただきたい。
■ 5forcesモデル(5つの要素)はどこに行っちゃったんですか?
さて、上記のように「スッキリ!」とした読者が多くいた反面、別の反応もあった。「5forcesモデル(5つの要素)はどこに行っちゃったんですか?」というものだ。確かに以前紹介した3つのフレームワークを結合してSWOTを導き出す手法からは5forcesモデル(5つの要素)を割愛している。では、その理由を説明する前に5forcesモデル(5つの要素)事態を知らない読者もいるであろうから、簡単に解説しよう。
5forcesモデル(5つの要素)とは、ハーバード・ビジネス・スクールハーバード大学経営大学院教授・マイケル・ポーター(Michael E. Porter 1947年~)が、著書『競争の戦略』(邦訳:ダイヤモンド社、1980年)で紹介された。自社の属する業界の5つの競争要因から、業界の構造分析をおこなう手法である。企業が利益を上げようとした場合、その業界がどの程度魅力を持っているかが重要である。成長著しい業界でも競合が激しく、新規参入も次々とあるようでは簡単に利益を上げられようにはない。逆に、目を向けるものもいなくなったような業界でも、競合が撤退し、新規も参入しないとなると、やりようによっては一定の利益を確保することができるだろう。それを5つの要因から考えてみようというのが5forcesモデルである。
5つの競争要因とは「供給企業の交渉力」=商品を作る原材料を供給してくれる企業がどの程度供給価格に変化を付けてくるかという要素。「買い手の交渉力」=自社の商品を購入してくれる企業が、納入価格にどの程度交渉力を持ってくるかという要素。「競争企業間の敵対関係」=同じ業界内の競合企業との力関係、という3つの内的要因がまず挙げられる。加えて外的要因として「新規参入業者の脅威」=現在競合関係にない企業が突如参入してくる可能性。「代替品の脅威」=自社が提供している商品より魅力的な商品が開発され代替されてしまうという可能性、という2つ要因を合わせて5つの要因から業界全体の魅力度と競合環境を測るものである。(図1)
■5forcesモデルの特徴
5forcesモデルを使うと第3回に筆者が紹介したような、細かな洗い出しをしなくとも業界の競合環境と、自社の位置づけが見えてくる。さらに、その位置づけから「どのように今後戦うべきか」という方向性まで見えてくる。うまく使いこなせれば優れものであることは間違いない。
特に(図2)に示した「競争地位戦略」は自社の置かれた立場を正確に把握し、どのような戦い方をすればよいかを明確化できる出色ものである。図の解説をしよう。まず、表全体は自社にどの程度の経営資源を競合となりうるべき企業に対して持っているかを表している。それを大きく表頭に「量的要素」、表側に「質的要素」に分類し、各々の多寡によって4つの象限を作る。「量的要素」とはどれだけ資金力も含めて「規模の経済」で戦えるかを表している。「質的要素」とは「技術力」をはじめとした企業としての独自性をどの程度有しているかである。
「リーダー」は質的にも量的にも経営資源に恵まれた、業界マーケットシェアNo.1の企業となる。戦い方としては、競合の動きも気にはするが、むしろシェアNo.1という地位を活かして、市場全体のパイを広げ、収益拡大を図っていくことになる。
「チャレンジャー」は質的経営資源には恵まれているものの、量的経営資源がリーダーに対して劣っていることが特徴だ。そのため、業界では2位、3位のポジションに甘んじていることになる。当然、「リーダー」の座を狙うことになるが、そのためには得意な製品分野や、市場に戦力を集中し収益を最大化する戦略を取る。
「ニッチャー」は質的経営資源には優れているものの、量的経営資源がリーダーのように豊富でない。故に、戦い方は良質な経営資源を活かして専門分野に特化し、高い技術力を発揮し「オンリーワン」企業を目指すことになる。
「フォロワー」は質的にも量的にも経営資源に恵まれていない。どうあがいてもリーダーに取って代わることなどはできない。できることは「模倣」である。リーダーやチャレンジャーが開発した技術を模倣し、こなれてきたそれを使い、徹底したコストダウンを図ることによって、じわじわとシェアを浸食していくのだ。
■5Fと3C、何が違う?
いかがであろうか。5forcesモデルがいかなるものか、どのように使用すべきものなのかわかっただろうか。確かにうまく使いこなせば有用なモデルであることに間違いはない。企業戦略の方向性がはっきりとする。
しかし、ここからは筆者の個人的な好みの問題であり、ポーター支持者からは反発もあるであろうがあえて述べたい。マイケル・ポーターは優れた経済学者である(事実、1982年に35歳の若さにして史上最年少のハーバード大学・正教授となっている!)が、そもそもマーケターであるのかという疑問が筆者にはある。
マーケティングとは「売れ続けるしくみ作り」である。資本主義のルールである、利益を上げ続けることは至上命題である。しかし、「売れ続けるしくみ」を作るためには、まず、「顧客と市場」を見ることが最重要であると考える。過去、連載で述べてきた「カスタマーインサイト」などは、「いかにして顧客の心の中を理解するか」を突き詰めて考えたフレームワークである。しかし、ポーターの専門は「競争優位戦略」である。「マーケティングも競争優位戦略の一部である」と言われることもある。しかし、筆者はその両者には厳然とした違いを感じている。「競争優位戦略」は「戦うべき相手にいかに勝つか」が眼目であるのに対し、「マーケティング」はあくまで「顧客を理解し、受入れてもらう方法を考えること」が要諦である。
5Fと3Cの違いを見てみよう。5Fは前述の通り、まず、競合を特定していき、それらに対する戦い方を固めていく。それに対して3CはCustomer=市場という1つのCを熟考し、自社の顧客になってくれる生活者とはどんな人なのか、それは市場の中のどこにいるのかを考える。そして次に、Company=自社がその顧客や市場に対して何ができるのかを考える。そして最後にCompetitor=競合となるような企業などの存在を洗い出し、どのように対抗していくかを考える。つまり、3Cはまず、Customer=市場ありきであり、5Fとはアプローチな全く異なるのだ。
とはいえ、フレームワークとは課題解決のための道具にしか過ぎない。どのように優れたフレームワークでも、そのマス目を埋めていくだけでは単なる「作業」に過ぎない。そこから、「具体的な打ち手」につながる「意味合い」を出せなければ何の意味もない。その意味からすれば、多少無責任な言い方かもしれないが、5Fでも3Cでも自分が使いやすいフレームワークを使えばよい。「使いこなせてこそ」なのだ。
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September 17, 2006
入院中でアップできなかった日経ビズプラスの最新原稿を、遅ればせながら掲出します。
本文冒頭にあるように、この原稿は携帯メールで入稿しました。
このボリュームを携帯で打つのは結構しんどいだけでなく、全文が何度もスクロールしないと見られないので、文章の前後関係の整合が取れなくなってしまいます。
携帯で長文を打つときの要注意点ですね。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
--------------<以下、バックナンバー用転載>---------------------
事故に遭い病院で3週間、絶対安静となった。ベッドから起き上がれず、この原稿も仰向けのまま携帯メールに記している。そんな状況で、病院の患者へのサービスからヒントを得て、サービスの本質と、その向上策について考えた。
■マニュアル文化と非マニュアル文化
サービス業におけるマニュアルの功罪については以前から、様々な議論がなされている。ある老舗の販売店では、「マニュアルを作った瞬間、従業員はそれ以上のサービスをしなくなる」と、マニュアルをあえて作らず、「どうやったらお客様に喜んで頂けるか」という「自ら考えさせる教育」を徹底している。
しかし、世の中にはマニュアルによって業務プロセスをきちんと定義し、その通り実行することが必要不可欠な業種も多い。マニュアルは業務を「モレ・ヌケ」なく実行するためには欠かせない機能なのだ。マニュアルというとファストフードやコールセンターが代表格だが、病院などにはより高度な業務のプロセスを規定したマニュアルがある。人命を預かる医療の現場でそれがなかったら大変だ。
■マニュアル&「プロセス深度」
マニュアルが存在する業種でも、「担当者によって、どうしてこんなに対応が違うのだろう」という場面に遭遇することはよくある。
ちょうど入院中に体験した例であるが、現在筆者は動けない。少々下ネタになるが、シビンを使用している。用を足し、ベッドの柵に掛けておくと看護師が回収してくれる。ある看護師は、通路からベッドの反対側の柵に手を伸ばしてシビンを取り、筆者の顔の上を通過させた。別の看護師はベッドを一回りして壁とベッドのすき間に入り、回収した。どちらが丁寧かは言うまでもないだろう。
日常の患者への接し方にも、ずいぶん差があることに気付く。「尿の出が悪い」と訴える患者に、言い方もあろうに「それは仕方がないと先生もおっしゃってました」と答える看護師。かと思えば、着替えの際に「背中がかゆい」「あせもになった」などと訴える患者に、「汗を吸い取るようにパジャマの下にタオルを入れてみましょう」とか、「軟膏(なんこう)を使っていいか先生に聞いてきます」など、とにかく一生懸命対応してくれる看護師。マニュアルの一つの「プロセス」としてみれば、顔の上を通過させようが、素っ気なく回答しようが、「排泄援助」「身体の清拭」「寝衣の交換」といった“項目”をこなしているという意味で同じだ。しかし、患者にとって、結果の差は歴然である。
その違いは何か。筆者は「プロセス深度」と名付けた。病院のマニュアルは該当する事象に対し、どのような対応をすべきかが規定されているが、「患者をおもんぱかる」という行為は、マニュアル外の「相手の立場に立って、個人が考える」部分に属することとなる。そのため、プロセスを「どこまで深くやるのか」は、最終的には個人の判断となる。「患者の状況をいかに改善するか」「どこまでやれば患者は満足したり安心したりするのか」という発想が優秀な看護師にはできる。
しかし、看護師が個々の患者の満足度で評価される仕組みにはなっていない。それがひいては高い離職率や、就労希望者が少ないといった問題にもつながっているのではないだろうか。
■SLAによって開示されるサービスの標準レベル
話を戻そう。実は、マニュアルに基づいて供されるサービスに対価を払っている我々顧客にとって、マニュアル自体は「ブラックボックス」なのだ。マニュアルに規定されているであろう、サービスの下限も分からない。「結果が見えない対象を購入する」ことに対する顧客側の抵抗感からか、「サービス・レベル・アグリーメント(SLA)」という考え方が生まれた。当該サービスの一つ一つに対して、どの程度のレベルを提供するかを顧客とサービス提供社(アウトソーサーなどクライアントから業務を受託する会社)相互が細かに取り決めていくのだ。
例えば、システムメンテナンス・サービスの場合なら「障害から何分で復旧させる」とか、コールセンターであれば、「通話中でない『応答率』を95%以上に保つ」など、内部的なマニュアルに規定されている項目を顧客と共有し、サービスの最低線を維持・向上させる。
しかし、このSLA、クライアントと一度取り決めたら、そのレベルは「できて当たり前」。レベルを下回ろうものなら責任を問われかねない厄介なものだと、サービス提供社の担当者から聞いた。しかも、多くのサービス提供社はSLAを下回り、クライアントからクレームを受けた担当者にはしっかりペナルティーがあるのに、SLAを維持、もしくは大きく上回った担当者には若干の報奨があればいい方だそうだ。これでは担当者のモチベーションは上がらない。
■「プロセス深度」こそ、評価の仕組みづくりを
そこで、先に筆者が提示した「プロセス深度」と組み合わせて考えてみたい。マニュアルやSLAは、あくまで最低線か標準レベルを設定したものだ。ならば、SLAを大きく超えたサービスを提供された時、顧客はその内容をサービス提供社に告知する仕組みを作るのだ。また、SLAが規定しにくい職種である、先の看護師のようなサービススタッフにも、期待水準を超えて顧客が「感心した/満足した」時に、モバイルやカードなどで投票する機会を用意するのだ。方法、考え様はいくらでもあろう。そして、顧客の意見を定量的・定性的に集計し、優秀な担当者を個別に報奨しモチベートするのだ。
こうした仕組みを既に取り入れている職場も一部にはある。しかし、高いレベルのプロセス深度が個人の「やる気」「サービス精神」に依存している職場はまだまだ多い。
サービス向上の源泉は担当者のモチベーションである。マニュアルやSLAで縛り付けるだけでなく、「褒められてうれしい」という、根源的な感情を育成するところから再考してみてはどうだろうか。むろん、報奨を狙ってスタンドプレーに出る者もいるだろう。しかし、そんなものは長続きしないし、受け手にも真心と下心の差は伝わる。
大切なのは、スタッフ全体のモチベーション向上と、ボトムアップの仕組みづくりなのである。
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August 04, 2006
ダイレクトマーケティングの専門誌「月刊アイエムプレス」に寄稿をしました。
http://www.im-press.jp/magazine/index.html
最新号が出ましたので、前回バックナンバーとして当BLOGに転載します。
最近同じようなことをあちこちで書いたりしゃべったりしているのですが、これは私の根幹の思想なので、少しずつ表現を変えて、できるだけ多く露出させていきたいと思っています。
セミナーなども人数に限定がないものがあればご紹介いたしますので、一度直にお話を聞いていただきたいと思っています。
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「ブランド」というと、マーケティングという領域に於いても随分と重たい課題であり、また、CRMの世界とは切り離して考えがちである。そもそも、「ブランドはマーケティングの課題ではなく、経営の課題である」という論もある。確かに、ブランドそのものの揺らぎは経営を危うくする。しかし、その揺らぎは顧客基盤をも揺るがすことを考えると、あながち「対岸の火事」とも言っていられないことは誰しも分かるだろう。そこで、本稿は「顧客視点」でブランドを捕らえ直し、CRMとブランドがいかに密接な関係を持ち、両者を共に良好な状態を保つための方法を論じてみたい。
1:「ブランドステートメント」を作り守り通していく事の重要性
日本を代表するブランドである「ソニー」が苦しんでいる。その原因の一つにはエンターテイメントやゲームなどに戦線を拡大しすぎたからであるとの論が少なくない。確かに現在のブランドステートメントにあたる、創業者・井深大の「設立趣意書」と現在の同社のブランドステートメントを比較すると随分と乖離してしまっていることに気付く。同設立趣意書をここに記そう。
真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ
自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、
徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ 経営規模トシテハ寧口小ナルヲ望ミ
大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル
・・・これに対して、現在のSONYのブランドステートメントの冒頭は「ソニーの創造力は、あらゆる創造力とつながっている。夢を見る人すべての、さらに大きな夢を作り出す力になるために」である(全文はhttp://www.sony.co.jp/SonyInfo/dream/)。ソニーはSONYに変わっていく課程で規模と業務領域を拡大し続けた。それは創業者の設立の意をそのまま継承したものではないことは明らかである。
確かに、資本主義経済のルールは利益を追求し規模を拡大することを要求する。しかし、その企業の魂たるべきブランドステートメントには飽くまで従うべきであろう。ブランドステートメントを書き換えるということは、別の企業になるに等しい。それほどの重要性を持っているのだ。
そして今、SONYは肥大化したグループを筋肉質に再編し、さらにエレクトロニクス事業を再強化しようとしている。これはまさしく、生き残りをかけた、創業者の設立趣意書への回帰であるといえよう。
2:CRMとブランドは車軸の両輪
ソニーのブランド拡張は経営的な機会を捕らえての判断の結果だったのか、もしくは顧客ニーズに従った、言ってみればCRM的所産であったのかは筆者は経済評論家ではないので筆者は論じようとは思わない。しかし、本節はCRMの側面から見たブランドとの関係。特にステートメントによって規定すべき理由について述べたい。
結論から言えば、「ブランドとCRMは”顧客”という車軸を中心とした両輪である」ということである。CRMにとって、ブランドがなければ、かつて「お客様はみな大切」と採算性を無視した、妄信的で戦略なきCS(Customer Satisfaction=顧客満足)追求運動になってしまう。一方で、ブランドにとって、CRMがなければ顧客視点のない、「企業としてかくあるべし」というかつての独善的なCI(Corporate Identity)に代表される、企業革新運動になってしまう。
顧客視点を持ってブランドを考えるなら、顧客を中心にブランドステートメントを再構築することからはじめる必要があるだろう。ここで一つのフレームワークを提唱したい。「ピラミッドチャート」という企業にとっても理想的な顧客を規定し、それと自社のフィロソフィーや個性をバランスさせながらステートメントを構築していくためのものだ。
そのフレームワークは以下の5つの要素から構成される。
①価値理念・・・その企業の哲学を表す、ブランドの価値ともなる部分。「自社は顧客に対してそのような存在であるのか」を明確にすることが中心となる。
②個性・・・他の企業にはない、その企業の独自性を表す部分。自社にしかできない、顧客に提示できることは何かを明確にする。
③理想とする顧客・・・誰も彼も「大切なお客様」としていたのでは「強いブランド」とはなれない。いや、ブランドとしてのアイデンティティーが形成できないことになる。自社はどのようなお客様のために存在するのかを明確に設定する。
④機能的付加価値・・・理想的な顧客に提供できる物理的メリット。自社が自信を持って提供できるものは何なのかを明確にする。
⑤情緒的付加価値・・・理想的な顧客との各種コミュニケーションを通じて、顧客をどのような気分にさせることができるかという、無形の付加価値を明確にする。
上記①~⑤を設定するためには、図のピラミッドでそれぞれのパーツがどのような相互関係を持っているのかを意識して検討していくことが大切だ。次のような文章に当てはまる言葉として作り込んでいくといいだろう。
○○会社は、【価値理念】を約束します。
私たちは、【個性】として、【理想的なお客様】に、【機能的な付加価値】を提供し、【情緒的な付加価値】を感じていただくため、努力をしていきます。この【 】内に当てはまる言葉が見つかったら、前述の図のピラミッドに載せて相互関係を再度点検してみよう。違和感なく、整合性が感じられればブランドステートメントが完成するはずだ。
3:「モノの本質的価値」を理解すること
上記のようにブランドステートメントを策定し、それに従ってビジネスを展開して行くにも、自社の商品・サービスの「本質的な価値」を理解していなければ顧客コミュニケーションも売り方も間違ってしまう。しかし、残念ながらそのような間違った例が散見されてならない。筆者がよく引き合いに出すのが生命保険という商品だ。生命保険という商品の本質的な価値とは何であろうか。「補償額」というものがある意味表面的な価値であろう。筆者は標準より割と高額な生命保険をかけている。その「高額な補償額」が生命保険の「本質的な価値」なのかといえば、答えは「否」である。高額な補償額は当然、月々の掛け金も高い。それを何のために払い続けているのか。その理由は「これだけの額を残せば何か自分にあっても遺された家族は大丈夫だろうという『安心感』」に対して支払っているのだ。つまり、筆者の保険の本質的な価値は「安心感」なのである。
しかし、かつて筆者の保険の担当営業は非常に対応が悪く、コンタクトをしてこない、申し込みの意思を示しても対応が遅い、申込書類の記入を間違わせる、入院したときになかなか見舞いにも来ないというダメのオンパレードのような人物であった。当然、営業成績も悪いようだった。なぜか?それは、彼が自らが扱っている「生命保険」という商品の「本質的な価値」を理解せずに補償額や貯蓄性の有利さなどといった表面的なスペックだけを訴求し、契約が済んだ顧客はそっちのけで、またすぐに新規を追い始めるからだ。
優秀な生命保険の営業担当者は、本質的な価値を理解しているが故に、顧客に対するケアは万全で、それ故、既顧客から紹介をもらい自らの顧客基盤を拡大再生産していくという成功法則を身につけている。元東京大学大学院教授・丸の内ブランドフォーラム代表の片平英貴氏が提唱している「AIDMAモデル」に代わる「AIDEES(Attention・Interest・Desire・Experience・Enthusiasm・Share)モデル」がある。それもExperience(経験)して、その対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)するというものだ。
インターネットの普及でBlogやSNSでの推奨行為は気軽にできるようになっており、その伝播の速度と幅の広さは以前と比べるべくもない。とすれば、「対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)する」という図式を達成するためにも、まずは「本質的な価値」を理解した行動や売り方、対応がいかに重要か分かるだろう。それだけではない。理解していない個人が企業の中に存在するだけで、その企業のブランドにダメージを与えることすらあるのだ。
4:顧客を「囲い込む」のではなく、顧客が離れたくなくなるようにすること
昨今、「顧客の囲い込み」という言葉に対する風当たりが強い。どうやらそうした論者は、携帯電話の年間割引や様々な割引サービスに加入させ、途中解約しようとすると違約金を払わねばならなくなるというような、「アトリション・コスト」最大化戦略を批判の中心としているようだ。確かにそれは、「囲い込む」というよりも、さらにカギをかけて逃げられなくするという「ロック・イン」した状態になる。効率は良いが本来的には正しい姿ではないだろう。
それよりも前項の「Enthusiasm」のように、「惚れ込んで離れられなくなる」という状態に顧客を導く経験(Experience)を提供することが重要であろう。
個人的な体験をお伝えしよう。筆者はいつも”Tim Johl”というブランドの革のケースに入った手帳を肌身離さず持ち歩いている。これはコラムや各種原稿、企画書その他のネタ帳で、何か思いついたらすぐに取り出して書き留めるようにし、もうかれこれ5~6年前に銀座伊東屋の中二階で買ったものだ。ところが、うっかりと手帳のリフィル(メモ帳本体)のストックが切れていたことに気付いた。あわてて、伊東屋へ。しかし、現在は店頭に出している商品ではなく、リフィルの在庫もないため、外国製ゆえ取り寄せに2~3ヶ月かかるとのこと。ネタ帳無しに2~3ヶ月も過ごせるはずもなく、さりとて手になじんだネタ帳でなければ、まとまるアイディアもまとまらなくなるような気がして筆者は途方に暮れていた。すると、一人の店員が「リフィルがないので陳列していなかったのですが、新品が1つだけ在庫としてあったので、このケースだけ残して手帳本体(リフィル部分)を差し上げます」。とのこと。「ご愛用いただいているお礼」と担当氏は言っていたが、久々に感動した。
ついでに電話取材をすると、結論からすると、ミッションステートメント化やマニュアル等によって応対をプロセス化しているのではなく、「徹底した理念教育を行い、顧客応対品質の向上を行なっている」ということであった。
例えば
・常にお客様が気持ちよく来店し、お帰りになれることを考えなさい。
・自分自身がお客様の立場になって、うれしいと思うことは何でもしなさい。
(例えば替え芯一本だけをお買い上げのお客様が、他にもお手荷物をたくさん
お持ちのようであれば、「大きな手提げにおまとめ致しましょうか」というようなサ ービスをしなさい)。
というようなことを、会長が直々に、常々社員に言っているとのことだ。また、マニュアル化に関しては「各店員の”考える力”を奪い、画一的な接客しかできなくなるため、
あえて作らないことが方針となっている」とのことであった。「本質的な価値」を理解させ、不文憲法で企業を統治しているということになるのだろう。
1・2項で述べたようにステートメント化は重要である。しかし、それは全社員の認識を揃え、求心力を形成するためのものである。ステートメント化が目的となってはいけないことを、この事例は示してくれている。
CRMの観点からブランドを考えれば、顧客体験を(Experience)を完璧にし、「Enthusiasm」の状態にさせることができればもはやゴールに達しているのだ。それ故、「文具の伊東屋」といえば誰もが知っているブランドになっており、多くのファンを抱えているのである。
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August 02, 2006
LCAコミュニケーションズ社が発行しているコンタクトセンターの専門隔月誌「コンタクトセンターマネジメント」の6月号から連載を始めました。
昨日8月号が発売されましたので、バックナンバーを掲出します。
各企業は生き残りをかけて顧客の囲い込みを図っている今日、顧客接点の重要性を誰もが口にする。しかし、最も重要な顧客接点の一つであるはずのコンタクトセンターは、その出自がバックエンド業務であった事から、顧客に対する認識や対応がトップからコミュニケーターまで徹底されておらず、応対品質にも影響を及ぼしている例が散見される。
顧客に対する認識を新たにし、「センター・アイデンティティー」を確立することが急務であることは間違いない。本連載ではその要諦を述べる。
第1回「センターの精神的支柱となる”センター・アイデンティティー”」
■マーケティングの環境変化と顧客対応
マーケティング環境の変化を遡ってみてみれば、1960年代から70年代の高度成長期、「作れば売れる」という時代に、ははっきり言って「マーケティング」という概念はあまり重要ではなかった。家の中にはまだ足りないものがたくさんあり、人よりいち早く、または人並みに家の中に揃ってくる家電製品などを人々は楽しみにしていた。そこで求められていたのは「迅速な生産と供給」。マスプロダクトの黄金期である。売り手市場でもあり、「顧客対応」などという概念もあまりなかった。「顧客」や「生活者」といった言葉もあまり使われず、市場の人々は「十把一絡げ」に「消費者」と呼ばれた。「消費者」。今にして思えば、生産したものを消費するという、何というプロダクトアウトなものの言い方だろうか。
その後、80年代から90年代にかけて市場は成熟し、人々の家々にも一通りのものが揃い、生産者は買い換えか買い増しをさせることが一番の関心事となった。つまり、限られたパイの食い合いの時代に突入したのだ。この頃、マーケティングの重要性が脚光を浴び、何とか製品や広告で競合製品との「差別化」を図ろうとするのが主たる戦略手法であった。そしてマーケティングのキーワードが「マーケット・イン」つまり、今までの「作り手の都合や思い」だけでものを作って売ってきたことを「プロダクト・アウト」として反省し、「もっと市場の声を聞き、市場の欲するものを作って売ろう」という意識転換を企業がし始めたのだ。
そして90年代後半、バブルの崩壊と共に市場は完全に飽和し、人々はもう既に手に持っているもので十分。「買わない自由」もあることに気がついてしまった。そうなると、「市場」という大括りに生活者を捉えていたのでは、個々の生活者の需要の節目に合わせたセールスチャンス発見などは、できようもないことに企業は気がついた。そこで、とにかく自社の顧客を囲い込み、個別に最適対応を行おうとCRM(Customer Relationship Management)と言った概念が登場したのだ。(図1)
■マーケティングの環境変化となぜか一致しない日本のコンタクトセンターの位置づけ
前述のように、マーケティング環境の歴史は、「売り手から買い手へとの主導権の移動」と「顧客(個客)対応の重要性の増加」といった一連の流れを現している。しかし、不思議なことにコンタクトセンターの歴史は必ずしもそれと一致しない。世界的に見ると、コンタクトセンターの始まりは、20世紀中葉に米国においてシアーズ・ローバック社が電話受注センター(コールセンター)を開設したことに始まり、日本に於いては各企業がいわゆる「苦情処理窓口」を社内の一部署に一本化し始めたのが始まりだと言われている。日本でも米国に遅れること数十年、通信販売の受注窓口としてのコールセンター開設が相次いだのもセンターの相次ぐ開設を加速した。
日本のコールセンターの発祥は「苦情処理窓口」であり、その業務内容は楽しかろうはずもない。しかも「苦情”処理”」という言葉が表すように、当時は「お客様の苦情から製品開発情報を抽出しよう」とか、「苦情顧客に良好な対応をして上顧客に変える」などという発想はなかった。ひたすら苦情を言ってきた顧客をなだめすかして事態を収拾するのが役割だった。社内の隅っこでひたすら謝り続ける仕事。どうしようもなくネガティブなイメージがつきまとう。
通信販売の受注業務にしてもそうだ。米国はコミュニケーターの給与には歩合がかなり含まれ、セールスが達成できれば相応のインセンティブが手に入る。インセンティブ獲得を達成した者への賛辞も半端ではないほど盛り上げる。それ故、コミュニケーターは受注時にクロスセリング(関連商品のお勧め)や、アップセリング(買い増しや買い換えのお勧め)のトークを忘れずに、顧客とより親密なコミュニケーションを取ろうという努力を怠らない。しかし、日本のセンターはほとんどが時給一本であり、よくて「精勤手当」が付くような給与体系である。確かにインセンティブを乱発し、コミュニケーター同士を競わせるようなセンター運営は日本の風土に合わないとの論もある。しかし、ただただ、時給だけを受け取って「受注”処理”」をしている日本のセンターと比べて、米国のセンターを視察すると、その活気の差には本当に驚かされる。
マーケティングの環境変化と顧客対応は製品志向から市場志向へ、市場という画一的な見方から顧客(個客)志向へと、顧客(個客)との距離をどんどん縮めて行く歴史であった。しかし、日本のコンタクトセンターの歴史は常に顧客と一定の距離を保ち、業務プロセスの”処理”を実行する役割を負っていた。これはどう考えてもおかしな事だと言えるだろう。
■その差はコミュニケーターの「モチベーション」という形で顕れる
はじめに(図2)を参照されたい。
これはコンタクトセンター関連の仕事をする者であれば誰もが知っているべき「ジョン・グッドマンの法則」である。企業から提供された商品・サービスに対価を払った顧客のうち、4割程度は何らかの不満を持ち、そのうち6割は沈黙してしまう「サイレント・マジョリティー」となり、その層の再購入率は10%にしか過ぎない。しかし、クレームを行ってきたうち、その対応の陣属性によって差は出るものの、顧客が満足する対応をすれば半数以上が再購入してくれるというわけだ。端的に言えば、クレーム客は有り難い客であり、優良顧客に転換できるビジネスチャンスであることを現しているのである。
しかし、このような理論通りになるようなオペレーションは非常にモチベーションが高く、「顧客志向」を理解しているコミュニケーターの対応が前提になるのは言うまでもない。日本のセンターの歴史は”処理”の歴史であり、「顧客志向」への転換が叫ばれ出したのは、1980年代後半から90年代初頭のCS(Customer Satisfaction=顧客満足)ブームの頃からである。しかしながら、「お客様を大切にしよう」という掛け声をかけるものの、肝心のそのお客様に対応するコミュニケーターのモチベーションを高める取り組みなどは、ほとんど為されてこなかった。良質なオペレーションによって企業がコンタクトセンターを費用ばかりかかる「コストセンター」から、「プロフィットセンター」を目指そうという機運がここ十年ほどでにわかに高まってきた。しかし、コミュニケーターにその意義が伝わっておらず、「顧客対応の重要性」などを説いてもそれを体系的に理解させられていない。顧客に接する際の考え方がきちんと理解させられていない。そして、相変わらず、待遇はそのままだ。日々の顧客対応の中で、顧客からのクレームに晒される度に彼女たちは「悪いのはワタシ?」と心の中で自問している。そして耐えきれなくなったときに離職する。モチベートができない故に良質なオペレーションが実現できず、顧客をグリップできない。また、コミュニケーターの離職によって採用・教育のコストかかかるというこの悪循環。どこかで断ち切らなければならないのは自明の理である。
■「悪いのはダレ?」
コミュニケーターのモチベーションが上がらないのは大きく3つの理由に分類できる。一つめは「社内におけるセンターの位置づけ」が不明確なまま、運営されてきている点。これは企業トップのディシジョンが明確でないことに起因する。センターに何を望み、どのようなポジションを与えるのか。それなくして「プロフィットセンター化しろ」などという指示を出すのは愚の骨頂である。海図もなく大海を宝島に向かって船を進めよというようなものだ。
二つめはFAQシステムの整備などをせずに徒手空拳でコミュニケーターと戦えというような状態である。これはセンターの現状を理解して、必要な投資を行っていないセンターを統括するマネジメント層の罪であるといえよう。
そして三つめはコミュニケーターだけでなく、スパーバイザーも含めて現場に前述のように、「顧客対応の重要性」を体系的に理解させ、具体的にどう顧客に接するべきかを理解させられていないセンターマネージャーの罪だろう。しかし、このように罪人を捜し出し挙げ連ねても何の解決にもならない。いかに、これらの現況を解決すべきかを考えていこう。
第一に一番大きな「社内におけるセンターの位置づけ」であるが、あるべき姿を(図3)に示した。
企業内に於いて、顧客情報を一元的に扱い、各部門と連動して一人の顧客に一貫性と整合性のある対応を行うためのハブとなれるのは、コンタクトセンター以外にあり得ない。筆者がよく使う例を以下に示そう。『あるメーカーのOA機器が故障した。すると、すぐにオフィスにメンテナンスマンがやってきて、手を汚しながら懸命に修理してくれた。彼は「ちょっと古いけどまだまだ使えますから、調子の悪いときはすぐ呼んでください」とさわやかに帰って行った。しかし、午後になると同じメーカーの営業マンがやってきて、さっき修理したばかりのOA機器を指さし、「あれ、随分古いんでリースアップして新型に替えた方がランニングコストもお得ですよ」という。午前中にやってきた人の良さそうなメンテナンスマンの顔が脳裏をよぎったものの、結局安くなるというなら仕方がない。早速見積もりをもらい、購入に稟議書を起票し上司に渡した。そして翌々日の朝、日経新聞の15段広告でそのメーカーの新製品が発表されていた。ほとんど変わらぬ価格で高性能になっている。会社に着くと早速、上司から「よく調べもしないで稟議を上げた」と怒られた。・・・まったく、何なんだあのメーカーは・・・。』
もうお分かりであろう。同じ顧客情報をサービス部門、営業部門が共有しておらず、新製品情報がマーケティング部から営業部に伝わっていなかったため起きた悲喜劇だ。”One face One voice”一つの企業として一人の顧客に、一つの顔一つの声で接する。この重要性が分かっていただけただろうか。実現できないままなら、顧客からの信頼はどんどん低下していくことになるだろう。このように、全社顧客対応のハブとして情報がコンタクトセンターに集積されるのであれば、二番めの問題もかたがつきやすい。情報流さえ整えば、それを格納し、整理、表示するFAQのソリューションなどを導入すればよいのだ。ここ数年のFAQソリューションの発達は目覚ましいものがある。システム機能比較をするのが本稿の目的ではないので機会を改めることとするが、是非とも未導入の場合はいくつかのシステムベンダーからのプレゼンを受けることをお勧めしたい。
■センター・アイデンティティーという考え方
コミュニケーターやスーパーバイザーといった現場スタッフに顧客対応の重要性を理解させ、各々の業務の重要性を認識させることで鼓舞し、高いモチベーションを持って業務に向かわせるためには何らかの精神的支柱が必要だ。前段で、「米国のコミュニケーターは歩合も多くモチベーションが高い」と述べたが、それをすぐに導入しても、確かに日本文化との親和性は高くはないだろう。とすれば、もっと精神的に鼓舞されるような手段を用いるべきだろう。それがセンター・アイデンティティーという考え方である。
センター・アイデンティティーとは、そのセンターがそのような存在で、何を目指し、そのためには各々がどのように行動すべきかをステートメント化(明文化)したものである。(図4)
それはいくつかの要素に分解されており、図の例では「理念」というセンターと、そこに所属するスタッフの存在意義と、本来あるべき姿というもっとも根源的な要素を規定している。次の「運営指針」は「理念」で規定された存在であるスタッフが、そのセンターのミッション、つまりセンターとしてのあるべき姿や向かうべき方向性を理解するために規定されている。そして、そこまでの理解がなされた後に「行動規範」で「運営指針」に従って、本来あるべき姿を理解したスタッフとしてそのように具体的に行動するべきなのかを規定している。
具体的な明文化のトーン&マナーは各企業やセンター毎の文化や雰囲気によってどのように表すべきかはだいぶ異なるだろう。しかし、重要なのは末端のコミュニケーターが読んでもスッと理解できる文体であることと、自らの存在、業務に対してプライドを持ちポジティブな気分になれるような内容が記述されることである。次号以降、その内容を考えるにあたって、さらに深く自社や顧客のことを理解する方法なども紹介する予定である。
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日経BizPlusの連載が更新されました。
今回も「食」をテーマにしてみました。が、やはり元々は「タウン・ウオッチもの」です。
高校生の時に習った人の名前も登場しますので、ちょっと懐かしんでお読みいただければ幸いです。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「たまにはおいしいものを食べよう。どうせなら話題の店で」と友人に誘われた。そして、店の前で並んだ。待つこと2時間。筆者は40歳であり、70歳まで生きるとして、睡眠時間を除けば残りの人生は19万時間くらいであろう。19万時間のうちの2時間。それをもったいないと見るかどうかは、その人の価値観によるのだろうが、どうも損した気分が残った。そもそも筆者は「並ぶのが嫌い」だ。今回は「並び嫌い」が、人々の「並ぶ理由」を考えてみた。
■「イドラ」の合わせ技でエスカレートする行列
哲学者、法律家で、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」の父である、フランシス・ベーコン(Baron Verulam and Viscount St. Albans:1561~1626)。高校の倫理の教科書にも登場しているため既知の読者も多いだろう。教科書には「イドラ」という考え方も記載されていたのを覚えているだろうか。
イドラ(idola)とはラテン語で「偶像」を意味し、人間の持つ偏見、先入観、誤りなど表す。種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラの4つがあるがここでは後の2つが重要だ。市場のイドラとは、言語から生じる偏見であり、端的に言えば大勢の意見に左右されて誤った行動を取ることを指す。実態と乖離(かいり)した口コミに踊らされるのはその実例といえよう。 劇場のイドラとは、権威者の思想や学説を妄信して事実を見失い、誤った行動を取ることを指す。グルメをはじめとした流行をこの「イドラ」で解いてみると分かりやすい。
1980年代頃から各種の雑誌がライフスタイルを「マニュアル化」したあたりから、生活者はメディアのもたらす「劇場のイドライドラ」にとらわれるようになった。グルメブームはバブル経済の繚乱(りょうらん)期に始まり、「グルメ評論家」といった人々も登場、各種メディアでもてはやされた。そ
して、人々は「あの雑誌に載っているなら」「あの評論家が推薦していたから」と自らの探求心と味覚を放棄して、思考停止状態で飛びつくという風習が一般化した。
一方、「市場のイドラ」の主人公はイドラに踊らされる本人である民衆そのものである。自分たちの口コミが自己増殖し、真実を偏らせていく。しかし、ベーコンの時代と大きく異なるのは、口コミ伝播(でんぱ)の速度がインターネットの普及によってけた違いになっていることだ。ネット上のグルメ情報サイトにも一般の生活者のコメントが記載されているため、その効果は「劇場のイドラ」と「市場のイドラ」の合わせ技となり、強力無比なパワーを発揮する。
■本当にwin-win?
生活者は当然、おいしくない店よりもおいしい店で食事がしたい。だから、おいしい店の情報を入手し、行列する。お客は情報通りおいしい食事が供されれば満足し、また、その情報を人に伝える。そして店には引きも切らずお客が集まり繁盛する。めでたしめでたし、である。
個々人としては失敗の確率が低減でき、店も短期間で容易に客を集められる――。今日、ネット口コミとメディアによって「客」と「店」と「メディア」のwin-win-winが構築できたように見える。本当にそうだろうか。
「合成の誤謬」という経済用語がある。「個々人としては合理的な行動であっても、多くの人が同じような行動をとると好ましくない結果が生じる」というものだ。
「イドラ」に踊らされた生活者が行列を作る。その多くは新規客だ。今までの「馴染み客」はある日突然、ひいきの店が雑誌に紹介されたり、インターネットで話題になったりして、行列ができているのを発見する。当然、行列の最後尾に並ぶ気にはならなくなる。筆者自身もそうした理由で行かなくなってしまった店が何軒もある。
もちろん心ある店は馴染み客をおもんぱかって掲載を断ることも多いようだ。しかし、話題のweb2.0の代表格であるブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で、個人が発信する情報までは制御できない。そして、今やその発信力は旧来のメディアに引けを取らない。かくして、情報を聞きつけた人々が列をなし、予約も取りづらくなり、馴染み客は行き場をなくす。
これは店にとってもあまり幸せなことではない。確かに一時的に大量の新規客が集まることによる収益の増加はうれしいだろう。しかし、集い並んだ来店客は「おいしい店を見つけてそこの固定客になろう」とする人ばかりではなく、かなりの割合が「話のネタに」「話題だから」と一度来店してみた程度の客と思われる。その中からどれくらいがリピーターとして残るのか。さらにロイヤル顧客ともいうべき馴染み客になるのか。それと引き換えに元々の馴染み客がどれぐらい去っていくのか。店にもよるだろうが、長い目で見ればマイナス作用の方が大きい場合が多いのではないか。
一時期のブームの去った店には悲しい末路が待っている。また、長蛇をなす来店客に対し、実力を勘違いするような店があれば、恐らく料理の味も落ちていくだろう。よくある例だ。
■「同調行動」超えた価値判断を
人にはそもそも「行列を見ると並んでしまう習性」がないわけではない。ポーランド生まれでアメリカに亡命した社会心理学者、ソロモン・アッシュ(Solomon Asch:1907~1996年)は、「並ぶ習性」を「同調行動」として解明した。本人一人の時には正しい判断ができても、別の情報をあらかじめインプットされた「サクラ」を混ぜると、そのサクラの回答に惑わされ、判断を誤るというものだ。この説をそのまま実践して、いちげん客がほとんどの観光地には、「サクラ」を使って行列を作り出している飲食店もあるという。「サクラ」を本当に動員している店はそんなに多くはないとしても、「同調行動」を取っている我々自身が、「悪意無きサクラ」と化してしまっているのは事実だ。
飲食にかかわらず、日本人は「同調行動」を取りがちだ。しかし、2000年頃からは、マーケティングのキーワードとしてone to oneが提唱され、「個の時代」と言われるようになってきた。モノがあふれ、誰もが同じモノを欲しがるような時代は過ぎ去り、十人十色、いや一人十色とまで言われるような多様な消費文化が花開いたのだ。いくらモノの作り手がはやし立てても、生活者は「買わない自由」までを覚えた。必要なものはお金を惜しまずに買うが、必要ないものには見向きもしない。メーカーの商品開発担当者は日々頭を悩ませている。
とはいえ、食べ物の場合は他の商品と異なり、「食べてみないと実態が分からない」という特性がある。おいしいものを求め、全く情報のない店にふらりと入るより、半信半疑の情報でも並ぶ方が無難と考えるのは、「同調行動」に支配されがちな人の性だろう。しかし、インターネットで検索して話題店ばかりを渡り歩くような行為はいかがなものかと思う。本来、知己に教えてもらった本当の意味での口コミや、自力で開拓した中から吟味を重ね、自分なりのお気に入りの店リストが徐々に出来上がっていくといった手間と過程を経なければ、自分自身の味覚も店も育たないのではないだろうか。
そこで一つ提案がある。今後もグルメに関するネット口コミの文化がなくなりはしないだろう。だとすれば、各人が提供する情報の量・質共にさらにリッチにしていってはどうだろうか。例えば、試した店について簡単に評価するだけでなく、個々の料理やサービスについても詳細に記述する。さらに、一度で終わりにするのではなく、情報提供者は責任を持って二度、三度と来店し、その都度料理やサービスのレベルは安定していたか、その店には並ぶ価値があるのか、馴染みになる価値があるのか、という深いレベルまでリポートするのだ。
そうしていくうちに他者に対しては有効な情報の提供者となり、自分自身の味覚・感性が磨かれ、漫然と行列の最後尾に並ぶ“流れに身を委ねた同調行動者”から脱却できるだろう。店の評価も自ずと多様化し、情報の独り歩きにもある程度歯止めがかかるはずだ。
かのベーコンは、イドラを捨ててあるがままの現実を観察することによって初めて、人は真理を見出すことができると考えた。日本の食文化を画一的なものにしないためにも、あふれる情報に惑わされない、個々人の価値判断力が問われている。
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August 01, 2006
「販促会議」の9月号が発売されましたので、前月号のバックナンバーを掲出いたします。
今回は少々趣を異にした内容となっています。
昨今の新聞紙上を賑わす事故・事件を見るにつけ、いてもたってもいられない気持ちになって書きました。
皆様はどのように思われるでしょうか?
この連載は、前連載の各回のテーマに関連した読者からのご質問にお答えすることを主旨としているが、今回だけは「筆者からの追加のメッセージ」という形を取りたい。というのも、筆者が「顧客視点」の根幹である「カスタマーインサイト」(前連載第4回にて紹介・関連質問を本連載第1回に掲載)のさらに中核である「本質的価値」が理解されていない思われるビジネスの事象がこの所頻発しているからである。是非とも読者諸兄も他山の石としてお考えいただきたい。
■Peace of Mindにおける「本質的な価値」の提供
何度も同じ内容を繰り返すつもりはないが、ごく簡単に振り返る。詳細はバックナンバーを参照されたい。「顧客の心を洞察する」という意味の「カスタマーインサイト」は最終的に顧客に「ああ、この企業と取引をしてよかった」「この商品を買って良かった」というPeace of Mindを提供することを旨としている。そしてそのためには、自社が提供している商品・サービスの「本質的な価値」を理解することが大切である。
前連載で例示したが、生命保険の「本質的な価値」は「補償額」ではなく、「万が一の時の安心感」である。それが理解できている営業職員は、顧客への対応にも万全の安心感を与える対応をするが故に成績もよい。それが理解できている会社は広告などのコミュニケーションでも的確な訴求ができる。
前回、もっと一般的なマーケティングのセオリーで類似した考え方として、フィリップ・コトラーが示した「製品特性分析」を使って説明をした。製品を大きく「コア」「形態」「付加機能」の三層に分かれて考えた時の「コア」が筆者のいう「本質的価値」に意味としては近い。顧客に提供するべき中核たる「ベネフィット(便益)」である。
■エレベーター事故にみる安全への無理解
冒頭述べたように、上記の「本質的な価値」や「コア」が理解されていないケースが昨今、散見される。某外資系エレベーター会社で人命が失われる重大事故が発生した。エレベーターの本質的価値とは何であろうか。通常の製品特性分析で考えれば、コアは「スムーズかつ、高速な上下移動」であろう。しかし、「上下移動」という方向感覚に惑わされてしまうが、エレベーターとは紛れもなく「乗り物」である。そして全ての、特に人を運ぶ事業に求められる本質的価値とは、「安全な移動サービスの提供」である。それはJR福知山線の大事故で、乗客の安全は効率や競合との戦いに比べれば、無限大に優先されるべきものであるということを、事業者も利用者もイヤというほど認識した。
エレベーター会社の海外本社は日本でのそんな認識を理解していたのか。調べが進めば進むほどずさんな管理に疑いを持ちたくなる。
■同じ旅客業の航空会社でも・・・
あるビジネス誌の経営危機に陥っている航空会社の特集でも気になる記述を見つけた。あるチーフパーサーが機長から語られた言葉として、以下のような主旨が紹介されていたのだ。
「機長から『原油高のせいでジャンボ機は満席になっても利益が出ない状態だ』と聞かされ、『じゃあ私たちは何をしても無駄なのか』と茫然としてしまった。そうしたら、『マグロ』を大事にしろよと。貨物として運ぶ冷蔵マグロは儲かるから、人よりマグロだと。」
思わず筆者は目を疑った。この機長は間違いなく自分の仕事の「コア」を「効率的な運輸」であると認識している。しかし、その機長の操縦しているのは「旅客機」である。確かにマグロだの何だのと、貨物も当然積んでいるだろう。しかし、主たる輸送物は「人間」である。とすれば、「旅客機ビジネス」の本質的価値は何であるのか、もはや言うまでもない。しかし、その「本質的な価値」が判っていない人間が何百人もの人命を預かり操縦桿を握っているのだ。
■貸金業では・・・
業界大手の法令違反から、法改正も含めた政府の検討が始まり業界存亡の危機に立たされているのは消費者金融だ。確かに返せないぐらいの金額を高利で無理に貸し込み、強引に取り立てるといった悪質なケースもあっただろう。しかし、本当に消費者金融という存在自体が悪なのか。
答えは否であると筆者は考える。確かに消費者金融の利率は高い。しかし、低利の銀行で借りようにも長い審査期間や、与信の厳格さでお金を借りたくても借りられない人も少なくない。そんな時、無担保即日融資が原則の消費者金融が助けの神になる生活者も少なくないのだ。消費者金融の「コア」は単純に考えれば、「貸し金」である。しかし、実態は融資を求めてきた顧客に対して、その状況に応じた利率の提示や様々なアドバイスを行なっていたりする。とすれば、「本質的な価値」は「企業と顧客の間の相互信頼関係の元に、十分なアドバイスを行なった上で、適切な金額と利率でお金を貸すこと」であると定義できる。極端にいえば、銀行は紛れもなく「金融業」であるが、消費者金融は金融業であると同時に、「相互信頼関係の構築」や「アドバイス」などを要する「サービス業」の色彩も強い。法令違反をした企業はやはり、そんな側面を持った「本質的な価値」を見失っていたのだろう。
■結婚情報サービスの事件
少子高齢化対策の一環として、政府は結婚情報サービスの積極的な活用を後押ししようとしていた。日本では今ひとつマイナーな存在であるが、この手のサービスは米国では多くの人が利用しているメジャーなサービスだ。そして政府は、今まで規制していたテレビCFを解禁し、さらに優良業者に「マル適マーク」を交付しようとしていたのだ。
しかし、そんな矢先、業界の大手二社が会員の成婚率の水増しという誇大広告を行なっていたことが発覚した。水増ししようとした背景は、「とにかく会員数を集めなければ始まらない」という考えからだろう。しかし、会員同士ではなく、男女片方が会員であった場合や、既に退会していた過去の会員まで含めて成婚率に加えていたことからも、「結果を出す」ということが重要であるとの思いが駆ってのことであろうと推察できる。
確かに会員になる以上、「会員の中から伴侶が見つけられる」という「結果が出ること」を顧客が企業に求めるのは当然のことだ。しかし、実際には結果は男女の機微のこと。「確実に結果が出せる」などということは約束できるはずもない。しかし、問題の企業二社は、自社の「本質的価値」を「結婚というゴールに至までの結果を約束すること」と拡大してしまったのだろう。
「本質的価値」は「本質」である以上、実現可能で確実に約束できることでなければ意味がない。それもまた、誤った解釈となってしまうのである。
■「本質的な価値」を考えるヒント
ここまで前連載を含めて3回をこの「本質的価値」に関する解説で費やしてきたが、実際に「自社、もしくは自らのビジネスにおける本質的価値は何なのか?」を明確にすることはそんなに容易なことではない。
そこで、一つそれを理解するためのヒントを提示しよう。ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーの「ブランド優位の戦略」(ダイヤモンド社)のブランドエッセンスとコア・アイデンティティを現す記述がある。ブランドエッセンスとコア・アイデンティティは乱暴にいってしまえば、「製品特性分析」の「コア」や、筆者の言う「本質的価値」と便宜的にニア・イコールと今回はとらえて欲しい。曰く、「コア・アイデンティティは、ブランドの永遠の本質を表す。それは、タマネギの何層もの皮や、チョウセンアザミの葉をむいて後に残っている中心部分である」。
なかなか難解な表現なので、かえって判らなくなるかもしれないが、ちなみに「チョウセンアザミ」とはイタリアンなどでおなじみの「アーティチョーク」のことだ。タマネギもアーティチョークも外側から何層にも皮がかぶっているのは判るだろう。そしてそれを担縁に一枚一枚むいていく。すると、最後に残るものは何か。実は最後までむききると、何も残らない。しかし、確かに目に見えなくともそこに「中心」が存在するから、それを取り巻く難渋もの様々な要素が存在できるのだ。「全てを取り去って目に見えないが、確かに存在する中心にあるものとは何か」。それをアーカーは問いかけている。そして筆者も同様に、「本質的価値」を突き詰めて考える際にはそうした思考を繰り返し、答えを導き出して欲しいと考えている。
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July 10, 2006
日本実業出版社の季刊誌「ザッツ営業」の創刊第二号から連載を始めました。
ザッツ営業 http://www.njh.co.jp/that/that.html
同誌は「営業担当者の“心・技”を支える実践的な専門誌」と称し、営業実務の様々な話題を幅広く取り扱っています。
その誌面の巻頭コラムを担当することになりました。
1ページだけですが、巻頭でしかもカラーというのはなんだかうれしいものです。
第1回は金森の得意の持ちネタである「BMWのポジショニング」についてです。
色々なところで取り上げてきたネタですが、今までの中で一番すっきりとまとめられた気がします。
次号ではこのBlogでもご紹介した「伊東屋」さんを題材にしようかなと思っています。
以下、転載。
--------------------------------
世の中には常に売れ続ける「定番」と呼ばれるものがある。なぜ定番は売れ続くことができるのか。当連載はその謎をマーケティングのセオリーから考察する。
■第1回:「BMW・その ポジショニングの強さ」
プレミアムカーの代表格といえばドイツ車の「BMW」の名前を挙げる人も多いだろう。
日経が行った「信頼できるブランド調査委」では、一般生活者が想起する「高級外国車」の代表的なブランドは「メルセデス・ベンツ」であった。しかし、昨年の日本における販売台数は、ついにメルセデス・ベンツを追い抜きBMWが第1位に輝いた。一般生活者のイメージが高くとも、実購買層の理解が高い方がメーカーにとって有り難いのはいうまでもない。
BMWの強さの秘密は何か?それは、以前、日経のコラムで語られていたBMW社パンケ社長の言葉に顕れていた。曰わく「BMWの強さは、そのポジショニングの明確さにある」と。BMWのポジショニングは「究極のドライビングマシン」と定義されている。そのポジショニングから、同社の広告コミュニケーションに常に使用している「駆けぬける歓び」という名コピーが生まれた。ポジショニングが明確ということは、物作りからコミュニケーション、販売の現場までが共通の認識の元、顧客に向かえるということを意味している。
マーケティングのセオリーからすると、「STP」という考え方がある。市場を同質な固まりに分類するSegmentationを行い、市場の中から狙うべき層を捜すTargetingを経て、そのターゲットに対しどのような顔を見せるのか、立ち位置を取るのかというPositioningを検討する。しかし、BMWは、S→T→Pというような思考手順は取っていないはずだ。同社社長の言葉通り、「ポジショニングありき」なのだ。そのポジショニングに共感した顧客が集まってくる。顧客の期待を裏切らないよう、技術者は開発を行い、マーケターはコミュニケーション戦略を練り、セールスは接客に気を配る。「ポジショニングを元にした、全ての利害関係者の一体感」が同社の真の強さの秘密なのであろう。
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July 05, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回は得意の「タウン・ウオッチもの」ではありません!
どうしても政治がらみの原稿を書いてみたくなって着手したのですが、
どうにもマーケティングと政治は食い合わせがよくないのかかなり苦戦しました。
原稿、書き直すこと10回近く。
しかし、書き直すごとに色々と見えてきた気がします。
是非、苦心の作をお読みください。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
いよいよ小泉政権も残すところ3カ月を切った。9月の自民党総裁選に向け、「ポスト小泉」レースも本格化してきた。今回は趣向を変えて、「小泉劇場」「ワンフレーズ」など話題に事欠かなかった小泉政治について、マーケターの視点から振り返ってみたい。
■マーケティングの命は「ポジショニング」
小泉純一郎首相の特徴と言えば、徹頭徹尾、有権者に対して「ポジショニング」を明確にし続けた点が挙げられる。
伝統的なマーケティング戦略の立案は、市場を同質なカタマリに分類していく「セグメンテーション(Segmentation)」に始まる。続いて、そのセグメントの中のどれが狙いやすいかという「ターゲティング(Targeting)」を行い、さらにそのターゲットに対する立ち位置や商品の見せ方を考える「ポジショニング(Positioning)」という手順を踏む。いわゆる「STP」である。
しかし、今日のマーケティングの世界では、このような後付けのポジショニングでは、強い商品は作れないと言われ始めている。特に「ブランド」が重要な商品においてその傾向が顕著である。
なぜか。ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーの「ブランド・エクイティ戦略」(ダイヤモンド社)の中にその答えがある。「丈夫である」とか、「素材がいい」など、客観的に測定可能な品質(工業的な品質)がしっかりしていることは、もちろん重要だ。しかし、工業的な品質はたいてい模倣できるため、それだけで他の商品との違いを打ち出し、ナンバーワン・ブランドの座を獲得するのは難しい。だから、「知覚品質」という「その商品ならでは」の価値を持って、顧客の主観的な評価を獲得することがブランドには必要である、とアーカーは論じている。目に見えない価値である「知覚品質」を獲得するためには、「ポジショニング」の明確さが求められるのである。
ベストセラーになったW・チャン・キム著の「ブルー・オーシャン戦略」(ランダムハウス講談社)でも、突き詰めれば、「大胆なポジショニングの差異化」の重要性が示されているとも言えるだろう。「血みどろの戦いが繰り広げられる既存市場(レッド・オーシャン)を抜け出すためには、差別化と低コストを同時に実現し、競争自体を無意味にする未開拓の市場(ブルー・オーシャン)を創造すべし」というのが同書の主旨である。
■初めにポジショニングありき
現在、日本での輸入プレミアムカー販売台数No1.はBMWであるが、ドイツ本社のヘルムート・パンケ社長は年初のインタビューで、「BMWの強さの秘密はそのポジショニングの明確さにある」と述べている(1月4日付日本経済新聞夕刊)。BMWのポジショニングが「究極のドライビングマシン」であることは有名だ。何とも分かりやすく力強い。
それに対して元気のない米国車勢は相変わらず、どのターゲットにどのように製品をはめ込むかという「後付けのポジショニング」を行っている。フィリップ・コトラーは著書「コトラーのマーケティング・コンセプト」(東洋経済新報社)で、「ポジショニングとは、製品をどこに置くかという話ではない。見込み客のマインドのなかに、どう位置づけるかという話である」と指摘している。つまり、製品をどこに置くかということだけに腐心してオールラインアップでそろえられた米国車は、結果として魅力も特徴も乏しく、顧客にそっぽを向かれたというわけだ。
翻って小泉首相はどうであったか。通常、政治家は自らの支持層を想定した上で、「公約」として、政策や、財政などの数値目標を掲げる。しかし、小泉首相の場合はまず「自民党をぶっ壊す」という強烈なメッセージで登場し、自らのポジショニングを裏付けるように行動した。その具体的な行動の成否は政治評論の専門家にお任せするとして、過去の政治家達に対し「大胆なポジショニングの差異化」をしているのは事実だ。国民からの高い支持率は、「今度の首相は今までとは違う気がする」「日本を変えてくれそう」という知覚品質を獲得していた証であろう。
■「STP」に続く「マーケティングミックス」はどうだったか
マーケティング・プロセスの流れから考えると、STPの次は、4Pからなる有名なマーケティングミックス= Product(製品戦略) / Price(価格戦略) / Place(流通戦略) /Promotion(プロモーション戦略)を検討することとなる。
4Pの全てに政治を当てはめるのは無理があるが、製品戦略に関しては、製品=政策ということになる。前述の通り首相は自らのポジショニングに従い、とにかく「改革・改革・改革・・・」という戦略を打ち立てた。分かりやすい「郵政民営化」を看板に、「官から民へ」という変革を断行することを製品戦略の柱としたわけだ。
さらにプロモーション戦略であるが、毎日夕方にカメラの前に立って記者会見を開くなど、今までの政治家と明らかに異なる手法を取った。従前のような密室政治ではなく、直接国民に向かって分かりやすく問いかける。特に「郵政民営化の賛否をもう一度国民に聞いてみたい」などというセリフは、今までの政治家なら決して口にしなかったであろう。しかし、そのプロモーション効果は絶大であった。有名な「感動した!」も、政治家は腹の中をなかなか明かさないというイメージと、自らを対比させるものとして非常に有効だった。
■ トップからの大胆な権限委譲
小泉政権のもう一つの特徴は、「大胆な権限委譲」である。「丸投げ」などとも揶揄(やゆ)されたが、竹中平蔵総務相を筆頭に、閣僚その他への大胆な権限委譲には驚かされるものも多かった。
政治の世界に限らず、企業においてもトップが微に入り細をうがち各担当者に個別案件を直接指示していたのでは、大局を見失う。乱暴に言えば、明確なビジョン(ポジショニング)と強い意志さえあれば、ある程度「丸投げ」でもよいのだ。むしろトップが明確な方針だけを示し、後は丸投げしてくれた方が、「経営企画」「マーケティング部門」といった参謀・補佐役は、意地になってでも多数の戦略オプションを洗い出し、最良のプランをトップに提示しようという気持ちになる。
筆者が講師をしている「グロービス・マネジメントスクール」で使用されているマーケティングの教材に、1950年代から75年頃までの本田技研工業の興味深い事例がある。カリスマ経営者の一人に必ず挙げられる故・本田宗一郎氏。彼には「世界一のバイクメーカーとして、米国でも一番になる」というビジョンがあった。そして同社は米国に自社ブランドの小型バイクを引っ提げて乗り込んだ。当時同社は既に世界一の生産量を誇っていた。そして、規模の経済を生かして海外進出を狙った先が、ハーレー・ダビットソンの牙城・米国であった。同じ海外ならば、潜在需要が大きい東南アジアの方がはるかに楽だ。しかし、あらゆるスタッフの諫言に耳を貸さず、それを断行したのは飽くなき「経営の意思」である。
ここまで明確なビジョンを示されたら、部下達はどう思うだろう。時にトップは独善的で直感的だ。しかし、「この人が言っているのなら間違いはなかろう」「この人をいま一度男にしよう」と奮い立つ。事実、同社は小型バイクから始め、最終的にはハーレーを倒産寸前にまで追い込み、さらに再建の手をさしのべるまで市場を席巻することに成功したのであった。
■小泉首相は「優秀なマーケター」だったのか?
さて、ここまで小泉政治を振り返ってきたが、マーケティングのセオリーからするとかなり正鵠(せいこく)を射ていることが分かる。しかし、個別の政策や首相の行動に関しては、様々な蹉跌(さてつ)があったことも事実だ。
一体、首相は「優秀なマーケター」であったのか否か。ここからは筆者の推測の域を出ないが、小泉首相はマーケティング理論をそのまま政治に応用したように見えるものの、首相自身が理論を理解していたわけではないだろう。おそらく彼は、そのほとんどを「政治的カン」「嗅覚」に基づいて行動した。偶然とは言え、それが今日的なマーケティング理論と見事に整合していることは興味深い。
これまでの日本の首相は「自民党派閥政治の産物」として生まれてきた。故にマーケティングのような視点より、政治力学に重きを置いていたのではないだろうか。しかし、小泉首相によって国民は「分かりやすい政治」のモデルを示され、目覚めた。米国における大統領選などは、全国民を巻き込んだ候補者のマーケティング合戦である。政治をとりまく情勢の変化、国民の意識変化や、海外の事例を考えれば、これからの政治家は意識的に政治にマーケティングを取り入れる必要があると言えよう。
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July 03, 2006
「販促会議」の8月号が発売されましたので、前月号のバックナンバーを掲出いたします。
今回は特に、昨今のネットユーザーの心理に迫ってみました。
ご参照ください。
前連載の第7回では広告業界の定番理論「AIDMA」モデルから、ネットユーザーの台頭によって生活者の購買行動の心理変容が「AISAS」モデルへと変化していることを述べた。つまり、「AIDMA」のAとIは従来と同じであるが、「検索」という手段を手に入れた生活者は、関心を持った物・サービスがあれば必ずといっていいほど何らかの検索エンジンで「Search(検索)」をする。その結果、購買=「Action(行動)」に至った後、今度は買った物・サービスに対して、友人・知人だけでなく第三者にも掲示板やBlog、SNSサイトなどを通して情報を広く「Share(共有)」するようになったのである。
確かにこのモデルはネット社会である今日の代表的な生活者の購買行動モデルとして理解できる。しかし、前連載時に「代表的なパターンは理解できたが、もう少しどのようなタイプの生活者がいて、それぞれにどのような打ち手があるのかを知りたい」。というご要望を頂いた。そこで今回は、生活者のタイプ分類とその特徴、打ち手を解説しよう。
■モノの購入に対する意思決定と情報収集の態度に注目してみる
まずは図を参照してほしい。縦軸に生活者のモノの購入に対する意思決定能力の強弱を置いた。「誰かに相談しなければ購入の意思決定ができない人」。つまり「依存的な生活者」だ。周りにそのような人はいないだろうか?「あ、自分がそうだ」という読者もいるかもしれない。しかし、逆に何も人に相談せずに突然何かを購入して、人を驚かせるような人もいる。それを「自立的な生活者」と呼ぶことにする。ちなみに筆者は後者である。
次に横軸を見てもらおう。情報収集の態度が受動的であり、あまり積極的な情報収集を行なわずに、自然と入ってくる情報に身を委ねている人々である。その逆に、常に能動的にアクティブな情報収集を行なっている人々もいる。
こうすると、四つの象限の中に四タイプの生活者のセグメントができる。以下、そのタイプ毎にその特徴と適切なコミュニケーションの方法を考えてみよう。
■「我が道を行く生活者」
左上の「自立×受動」の象限の生活者は人の話しもそこそこにしか聞かないし、ネットからの情報収集も行なわない。企業やマーケターの立場からすれば非常に手強い相手だといえよう。では、どのようなコミュニケーションの打ち手があるのだろうか。
はっきり言って、「打つ手なし」である。何を伝えようとしても自分の中の価値基準が絶対なので、何らかの心理変容や態度変容をコミュニケーションによって促そうとしても動かない。このような層にマーケティングコストを投下しても費用効率が非常に悪い。結論からすれば、「手を出さないことが一番」である。幸いにして、このような特性を持った生活者の比率は高くない。他のタイプの生活者を狙うべく、話しを先に進めよう。
■「昔気質の生活者」
情報過多の時代といわれて久しい。ネットに触れなくてもテレビは多チャンネル化し様々な情報を送り込んでくる。街ではこれでもかと思うほどフリーペーパーが振り撒かれ、しかも多くの人が「タダだから」とつい受け取ってしまっている。「情報の洪水」。既に個人の「可処分時間」の中では処理できない情報量が生活者の周りには流れ込んでくる。
その情報の取捨選択に精一杯で、自分から能動的にネットに情報を取りに行くことなどできないし、モノの購入も自分の意思だけでは決定できない。とすると、何を基準に判断しているかと言えば、数多の情報の中でも一番権威がありそうな情報源(メディア)を信用する。つまり、このタイプの生活者とのコミュニケーションは、今まで通りのマスのコミュニケーションで十分であるといえる。但し、このタイプの生活者も徐々に「希少種」になりつつあるだろう。
■「賢い生活者志向」
「賢い買い物をしよう」とネットで能動的に情報収集をする。しかし、モノの購入意思決定が人の意見に左右されがちなタイプの生活者は、ネットで拠り所とするのが「口コミサイト」だ。購入予定商品の話題が取り上げられている掲示板やblogを覗いてまわり情報収集をし、そして最終的には現実の友人・知人などに相談して態度決定をするというのが代表的なパターンだ。このタイプの生活者は現在の所、かなりの数が存在すると推測される。
では、この層に対する有効なコミュニケーション方法とは何だろうか。それは本誌の2月号でも取り上げられた「ネット口コミ」である。個人の掲示板やblogでは自社商品に対してネガティブな評価や誤解、根も葉もない中傷などが巻き起こっていることも少なくない。
そのため、最近は企業自らが自社商品に関するblogサイトを立ち上げ、生活者にそこで思い思いに個々のblogを立ち上げさせて、各blogの新着情報やランキング情報を提供し盛り上げている。本誌2月号の特集でも紹介されたキリンウェルフーズの「リエータカフェ」http://www.lieta-cafe.com/ などは「あなたのD(ダイエット)ライフを楽しく賢くサポートする無料BLOGサイト」と宣言がなされ、明るく楽しい世界観をうまく作り出している。今まで企業は「自社のサイトでユーザーに自由に書き込みさせて、ネガティブな話しでも盛り上がったら大変である」と二の足を踏んでいた。しかし、うまく明るい世界観を演出することができれば、全体としてポジティブな話題が多くなり、仮にネガティブな話しが多少出ようともサイト全体として自浄作用が働き、やがて消えていく。同サイトが貢献したのか、「リエータ」は前年比4.5倍の売上を記録したそうだ。もはやこうした取り組みを見送る手はないだろう。
■「自称賢い消費者」
購買プロセスの全てを全て自己管理し、「賢い生活者」たらんとする層も最近はずいぶん増えてきた。前連載で紹介した、家電量販店の店先で「kakaku.com」の携帯版で当該商品の最安値を検索し、店員と交渉するような人々だ。何でもネットでガンガン検索して価格だけでなく、商品の性能や競合商品との比較など、あらゆる情報収集をして、全て自己判断で購入を決定する。
このパターンの生活者は企業にとっては強敵であろう。しかし、増加するこの層に対して何か打ち手を考えなくてはならない。答えは「誠意ある情報開示」である。具体的に言えば、WEB-FAQの整備だ。WEB-FAQはメールでの質問を劇的に削減させることができるなど、オペレーション面での効用も大きいが、365日、24時間情報収集ができ、しかもそれが非常にわかりやすくできていたとすれば、この層の情報取得欲求にはもっともマッチすると言えよう。FAQは既購入者からの使い方や故障などに関する質問に対応するものという固定観念を捨て、むしろ購入検討層への訴求に効果的であると認識し、それに見合うFAQコンテンツの整備を行なうことをお勧めしたい。
■WEB-FAQによる「エモーショナルなブランド訴求」
「賢い消費者志向」層は前述の通り手強い。しかも今後どんどんそちらに生活者はシフトしていく気配がある。とすれば、「誠意ある情報開示」はいいとして、もっと企業として積極的な打ち手はないのかという質問が寄せられそうだ。あるのだ。打ち手は。それも前述のFAQをうまく応用して「エモーショナルなブランド訴求」をするということが可能となる。
なにより事例を見た方が分かりやすいだろう。BMW Japanサイトの1クラスのコンテンツにそれがある。http://www.bmw.co.jp/1series/ このサイトの「One World. One Philosophy」というコンテンツ、BMWのこだわり通している哲学をフラッシュを用いたQ&A形式で紹介しているのだ。例えば、「誰にでも一目でBMWとわかる顔つきにこだわるのは、なぜですか?」というQuestionが掲出されている。そのAnswerをクリックすると、詳細な答えが表示される。回答の全文は文字数の関係で紹介できないが、主旨としては「速度無制限のアウトバーンを走っているとき、車のバックミラーに特徴的なBMWのフロントマスクを認識したら、先行している車は速やかに車線を譲るだろう。アウトバーンでは高性能な車が後方からきたら道を譲るのが暗黙のルールとなっているからだ」。というような内容である。BMWのポジショニングは「究極のドライビングマシン」と自社で規定しており、そこから「駆け抜ける歓び」という名コピーも生まれている。こうしたBMWの世界観に関心のある人にとっては、このAnswerはたまらなくグッとくるだろう。他にも数々のエモーショナルなブランド訴求を目的としたQ&Aが多数展開されている。
今回は「自立×依存」「能動×受動」という軸で生活者のネット利用と購入態度形成過程を整理してみた。前述の通り、世の中の流れとしては右上の象限に生活者は徐々にシフトしてきているが、まずは自社の顧客がどの象限に多いのかを見極め、適切な打ち手を考えて欲しい。
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June 24, 2006
先週まで、企業研修を集中的に行なっていた。全国各地の営業現場第一線の中堅社員を集め、グループワークとティーチングを組み合わせて展開する2日コースである。
営業現場で日常忙しく業務を行なう社員にはマーケティングなど縁遠い存在で、「本社が考えること」と思いがちだ。しかし、各々に「自分たちの置かれた環境」を再認識させるところからはいる。
具体的には、以下のような内容をグループワークで自ら手を動かして、俯瞰して考えてもらうのだ。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2006/05/swot_2652.html
次に、日常の業務を振り返ってもらう。ともすれば、マニュアルがあるが故に型どおりの応対をし、「顧客視点」を忘れ、「自社の都合」でものごとを考えてしまう。そこを矯正するために基本理論に様々な事例を組み合わせティーチングを行い、自分たちでも考えてもらう。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2005/08/5_cedb.html
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2006/05/1_2fcc.html
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2005/09/6_e41d.html
そして、仕上げは、会社から渡されたものではない、自分たちオリジナルの「ミッションステートメント」を作り上げてもらうグループワークを行なう。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2006/02/10_b99c.html
今回は20人×5セット=100人を対象に行なったが、最初は「なぜ自分たちがこんなコトを」という顔をしている受講生の目が、次第に輝いてくるのを見ると講師冥利に尽きる。
いずれも過去、記事として発表している内容が骨子となっているが、ライブでそれを聞き、また、受講者自らがその場で考え、手を動かすため、ただ読むだけに比べれば教育効果は100倍も違うだろう。
金森としても感銘深い仕事であった。
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June 07, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回もタウン・ウオッチからの考察です。
タウン・ウオッチからコラムに展開するには、まず、注意深く街を観察して気になるコト、モノを発見し、
それについて以下に深く掘り下げて考えるか。また、水平的に同じような事象が他のシーンで
起きていないかを考えることだと思います。
では、今回の観察・考察の結果をご覧ください。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
東京・銀座の新橋側の外れから有楽町方面に伸びた高速道路下の飲食店街である、銀座コリドー街。各種の名店・話題店が軒を連ねる激戦区で、店の入れ替わりも激しい。その街並みを眺めながら歩いていて、あることに気が付いた。
最近オープンした店の多くは、外から「調理場の風景」が見えるような造りになっているのだ。店内の客席から調理場が見える「オープンキッチン・スタイル」の店は以前からあったが、店外からも見えるものはあまりなかったはずだ。
■“見せる”集客方法
こうした造りの店が増えたのは、外食産業で、「プロセス開示」が集客に欠かせなくなってきたためだと想像できる。「こんなふうに料理人が一生懸命作っている」「おいしそう」と感性に訴えるのと同時に、「調理場の清潔さや食材の適切な取り扱い」もアピールしているのだ。
昨今、BSE(牛海綿状脳症)、食品の不正表示、輸入農産物の農薬残留などの問題が相次ぎ、生活者の「食の安全性」に対する関心が高まっている。素性の明らかな食材を購入し、自分で調理する。それがもっとも安心できる食事だろう。
食料品店では、有機栽培かどうかや原産地を明記しているのはもちろん、契約農家限定商品なども取り扱い、人気を呼んでいる。外食の際にも、高級店などは料理に使われている食材の産地などをきちんと説明するようになった。生活者が特に敏感になっている牛肉の場合、「但馬牛」のようなブランド名だけでなく「個体識別番号」まで示す店もある。これらが、来店客の食材への不安払拭(ふっしょく)に一役買っているのは間違いない。
しかし、これまで飲食店では、店頭にメニューと調理サンプルが展示されているだけで、食材が加工される「中間プロセス」である調理に関しては「ブラックボックス」だった。混み合ったランチの時間帯など、調理場が見えるような隅の席に詰め込まれることがある。そして、興味本位にのぞいた調理場が、しゃれた客席に比べひどく雑然としていて不衛生に見え、思わず席を立ってしまった経験はないだろうか。
そうした店舗と一線を画そうと、数年前から「オープンキッチン・スタイル」の店が増え始めた。そして、店外からもそのことが分かるよう、積極的にアピールするようになったようだ。
■マーケティング的に見た「プロセス」の意味
以前から筆者は「マーケティングミックスの4P(Product・Price・Place・Promotion)に加え、2P(Process・Person)が重要である」と主張してきた。
今回の例も正にその典型であろう。おいしい料理(Product)、適切な価格(Price)、よい立地(Place)、そして店構えそのものが、Promotionの要となっている。しかし、「店外から見える調理場」という店構え(Promotion)は、どのようなプロセスで、どのような人が調理しているのかを開示するというProcess、Personという要素(2P)があってこそ成立するものだ。かくして、「店外からも調理場が見える店」は、Promotionと Process、Personが融合し、来店客や見込み客の安心感獲得につながっているのである。
■重要性増す「プロセス開示」
食の“見える化”は今後、さらに広がる気配だ。農産物の場合、産地や生産者名を公表するだけでなく、農業体験ツアーのように、生産現場を開放し、生産者との交流を図る試みが増えている。加工食品は成分やアレルゲンが表示されているが、表示外の微量アレルゲンが製造過程で混入した例も多い。ビール工場などの製造ライン見学コースなどはしばらく前から人気を集めているが、今後は観光客へのアピールのような理由ではなく、生活者の「安心欲求に応える」という意味で開示が必要になるだろう。
もちろん、生産ラインのすべてを開示することはできないし、生活者が見たからといって、必ずしも何かを発見できるわけではない。しかし、生産者は見られるということで、今まで以上に設備を整えたり、働く人間が襟を正したりする効果が生まれよう。生活者も自分の目で見ることで、安心と同時に納得感が得られるだろう。そうして、これまで広がる一方だった供給側と生活者の距離が縮まり、品質も向上するという好循環が生まれるきっかけになるのではないだろうか。
「食」以外でも、車に始まり各種工業製品でリコール問題が多発したことから、「製造過程のブラックボックス」に対し開示を求める声が高まっている。耐震強度偽装に揺れたマンション業界なども「構造説明会」と称し、建設中の物件を契約者や見込み客に見せるが動きが活発化している。裏返せば、それだけ生活者の不安や不信が高まっているということだ。人々の安全にかかわる分野を中心に、「プロセス開示」は必須になってくるだろう。
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May 19, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回は実際に起こった出来事から、その根本を深く洞察してみました。
これぞ、タウンウオッチングの醍醐味なのですね。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「危ない!」。思わず振り払ってしまったのは、街頭配布のパンフレットだ。筆者の胸の高さを狙って突き出されたそれは、横を歩いていた我が娘の目を直撃しそうになった。身長120センチ強の子供の目は、配布物を受け取らせるのにちょうどよい高さだったのだろう。
■街頭配布の場景
駅前を見回してみれば、ティッシュペーパーやパンフレット、チラシ、フリーペーパー、試供品などが、場所を奪い合うように配られている。なかには 黙って配布物をおずおずと突き出す者もいるが、「お願いします!」と威勢のよい声を張り上げ、スピード感たっぷりに通行人の胸元に差し出すスタイルが主流のようだ。
フリーペーパーは定期読者とおぼしき人はしっかり受け取るし、珍しい試供品も、進んで受け取りに来る人がいる。しかし、ティッシュペーパーはもはや飽和状態にあるのか、受け取らない人も多い。「オマケなし」のパンフレットやチラシに至っては、受け取っても捨てるのが煩わしいのか、身をかわして通り過ぎる人が多い。いずれにしても配布人たちは、「配布物を通行人に手渡すという行為」の本質を教えられず、業務に就いているように見受けられる。
■マーケティングにおける位置づけ
マーケティングの観点から、「配布する」という行為の本来あるべき姿を考えてみよう。定番のAIDMA理論(Attention・Interest・Desire・Memory・Action =注意獲得・興味喚起・欲望喚起・購買欲求記憶・購買行動発動)で言えば、最初のAとI、つまり配布物を手渡し、注意を獲得し、内容を見させ興味喚起する役割を担っている。
しかし、つぶさに観察すると、「街頭配布」という手法の効率の悪さに驚かされる。達成できているのはA=注意喚起の半分ぐらいであろう。受け取らない人は当然、注意も寄せていない。「お願いします!」と言われたところで何をお願いされているかも分からない。勢いに押されて反射的に手にした不要な配布物は、ろくに見られもせずゴミ箱に直行することになる。
本来の街頭配布の意味を踏まえれば、特にパンフレットやチラシなどは「○○にご関心のある方は、ぜひお手にとってご覧下さい」と配布物の内容を告げ、関心のある人、もしくは必要のある人のみに手渡すべきなのだ。そして、受け取った人には「ぜひ□□というところにご注目ください」と一言添えれば、AIDMAのI=興味喚起までたどり着くだろう。
無論、この方法では、大量にばらまくことはできない。配布人たちは雇い主から「とにかく数をまけ」と指示されているのだろう。かくして、冒頭の筆者の体験のように子供にぶつけんばかりの勢いで、反射的に受け取らせるような動きが横行する。しかしそれでは、パンフレットやチラシを作成したクライアントに効果を還元できようはずはない。いや、むしろ冒頭のような筆者の体験は、そのブランドの価値を損なう恐れさえある。街頭配布の本来的な意義を実現しなければ、マーケティングとして機能しないばかりか、逆効果になりかねないのである。
■街頭配布から考える“働くことの意義”
アルバイトの求人欄などには「チラシ配布人募集」と書いてあり、「誰にでもできる簡単なお仕事です」とただし書きがある。実際、持ち場と配布物を指示され、機械的に「お願いします!」と声を張り上げ、相手の都合や周囲の迷惑も顧みず、人前にモノを突き出すという反復動作を行っている。露骨に無視されたり受け取りを拒否されたりしても、何の疑問も抱かず、自分の持ち時間いっぱいその行為を続ける。おそらく彼らは、何も考えないで仕事をこなしているのだろう。
しかし、昨今、「労働」はもっと広い意味合いを持ち始めている。つまり、「働くことにより対価を得、生計を立てる」というだけではなく、「自己実現」や「知的好奇心の充足」、「仲間と共に働く喜び」など知性や感性と関連した要素が重視されるようになっている。その証拠に、就職面接で学生は口をそろえて「アルバイトで働いた経験によって、いかに自分が人間的に成長したか」をアピールする。
街頭配布は、そうした「喜び」や「成長」とは無縁の、脳神経を全く刺激しない単純労働にすぎない。働くことによる喜びや成長は、知恵を絞り、さまざまな困難を乗り越えた先にある。それを知る前に、人間性をスポイルするような単純労働に慣れてしまうと、「働く」ということに対する価値観は「金銭を得ること」以外に形成されなくなってしまう。
マニュアルに従い全く自分の思考を用いない労働には、「飽き」がくる。するとその仕事を辞める。しかし、また金銭のために同じような仕事に就き、また辞めるということを繰り返す。フリーターの増大が問題になって久しいが、問題の根本はこんなところにあるのかもしれない。
もちろん、職業に貴賎はなく、単純労働にも、その仕事の効率や質を向上させる「カイゼン」の余地はたくさんあるはずだ。要は、本人の意識、または雇い主の意識付けの問題なのだ。
◇ ◇ ◇
街頭配布は年々増加しているように思える。このあたりで一度、効率と本来の意義を考え直してみてはどうだろうか。そうでなければ、今後も駅前には何の感情も持たない「配布マシン」が跋扈(ばっこ)することになる。
いや、「街頭配布」だけが問題なのではない。街頭配布を反面教師として、その業務の本来的な役割は何なのか、そして自分の働き方が形骸化していないか。創意工夫を欠かしていないか。そんなことを一度見直してみてはどうだろうか。
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May 12, 2006
・・・どうやら、バックナンバーのアップが1ヶ月ずれていたようです。スミマセン。
「販促会議」のバックナンバーは先日アップしたばかりですが、先月号分を急遽アップします。
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「質問編」顧客視点”入門講座 第2回「SWOT分析ができません!!」
顧客のことをよく分かるためにも、まずは「自分自身のことが分かること」が重要だ。そこで、マーケティング環境分析ということで、前連載の第8回にSWOT分析と3C分析を紹介した。しかし、「それがうまくできないんです!!」という声がよく聞こえる。
昨今の企業では、何か社内起案をするときには、何らか社内企画書を書き、SWOT分析を盛り込むことが義務付けられていることが多いようだ。試しに、筆者が社内研修を担当した企業で社内企画書のSWOT表を見てみた。・・・確かにダメだった。
■「ダメなSWOTの共通点」とは?
前連載で「SWOTも顧客視点で」と注意事項を挙げたが、やはりそれができていない。項目によって「顧客の視点」だったり、「自社の視点」だったり、はたまた「競合の視点」だったりと、入り交じってしまっているのだ。
第二にダメな点は「時間軸」。記述内容が「現在のこと」と「将来的なこと」。もしくは「過去の事実」など時間軸がバラバラになっている。
そして第三に極めつけとして、S/W/O/Tの各々の分解を強引にしていることだ。確かにこの表を埋めていくと、「この事実は果たして強みなのか?弱みになるのか?」「これは機会なのか?脅威なのか?」と悩むことが多い。無理に分類すれば、意味はまるで逆になる。その結果で「そうか、これが当社の強みで、今が正に機会なのだな」などと経営判断がなされようものなら、目も当てられない。
ポイントの一つ目は、悩んだのなら無理に分類せずに、線の中間にその要素を置いておけばいいのだ。「この要素は不確定要素が多く判別不明です」という分析者のメッセージが伝わる。もしくは、もう少し頑張るなら、その要素を線の中間に置き、プラス面とマイナス面を考察して線で結んで書き込んでおけばいいのだ。「判断の事実は足りないものの、分析者としてはこのように考察した」というメッセージが伝わる。何事も無理矢理と、説明不足が後に悲劇を生むのである。
■やはり「マクロ分析」から入ってみよう(図1参照)
前回は連載の回数の都合もあり、「マクロ分析」は余り詳細には語らなかったが、やはりきちんと説明が必要なようだ。図1にあるような表を作り、まず、各々の項目がどのような環境にあるのかを列挙し、自社と競合のプラス面とマイナス面を埋めていこう。かなり体力のいる作業であるが、根性だ。
まず、マクロ分析といえば、「PEST分析」から始めるのが本来は基本だ。「PEST」とは、P= Political:関連法案や規制など、政治的な影響はないか。E = Economical: 自社を取り巻く経済環境はどうなのか。好景気であればよい業種ばかりではない。また、自業界の先々の経済見通しも需要だ。S = Social:経済情勢だけでなく社会情勢全般を見渡すことが重要だ。人口動態や人々の関心に登っている社会問題など考慮せねばならない。T = Technological:現状の技術的な側面はどうなのか。自社にとって優位な技術、脅威となる技術などを明確にしておくことが重要だ。
3Cは前連載で詳説したつもりであるが、もう一度おさらいしておこう。3C分析とは市場(Customer)、競合(Competitor)、自社(Company)の頭文字を取ってたわけであるが、慣れてくるとPESTはらみっちり分析するのではなく、この3Cだけでかなりのことが整理できる。Customerは自社顧客だけを意味するのではなく、市場に広く存在する、顧客となりうるべき生活者を意味している、その意味からは「市場」という日本語訳の方が本来の意味に近い。市場全体を広く見渡し、自社のチャンスとチャンスロスの危険性を探ってみよう。Competitor =競合となりうる企業を洗い出し、それらの動きを観察し、市場全体の動向を把握する。Competitorといっても伝統的ライバル会社だけではなく、昨今では思いもよらぬ企業がCompetitorになることも少なくないので、できるだけ広い視野で捉えることが必要だ。Company =「自社の思い」や「将来の計画」などを廃して、現在のFACT(事実・現実)を中心に洗い出す。
■さて、この勢いでマーケティング・ミックスも洗い出そう。
ここの時点まででかなり体力を使ったであろうが、もう一がんばり。自社と競合のマーケティング・ミックスを洗い出そう。Product = 製品:自社と競合の製品的な違い・強み弱み。Price = 価格:自社と競合の価格戦略の違い。例えば、新製品を上市するとき、高い価格で早期の資金回収を図りつつ、値崩れを防ごうとすることを「スキミング・プライシング」という。一方、値崩れは防げないと考えて、初めから安い価格で押しだし、一気にシェアを取ろうとする「ペネトレーション・プライシング」という。どちらで打って出るのかによって、価格の設定はかなりダイナミックな違いが出てくるはずだ。Place = 販路:自社と競合の流通経路の特徴と、経路に起因する売り方及び情報取得の方法の違い。特に商品の流れ「物流」と、お金の流れ「商流」、情報の流れ「情報流」は各々異なると理解すべきだ。エンドユーザーとの間に仲介者の存在の有無で、特に「情報流」は異なってくる。Promotion = プロモーション:間違ってもこの部分だけで狭義のマーケティングを考えないこと。また、メディアも多様化しており、同様にプロモーションの方法も昨今大きく変化している。とにかく幅広に考えてみること。
■マトリックスが埋まったら・・・
図1のマトリックスが埋まったら・・・といってもマトリックスを埋めるためには慣れたマーケターでも2時間はかかるだろう。新人マーケターであれば、一人で悩んでも仕方がないので、分からないところは、どんどん分かりそうな人に聞きに行くことをお勧めしたい。また、判断に迷ったときは、前述の通り、「仮置き」としてプラス要素とマイナス要素の中間に書き込んでおくことだ。
さて、「SWOTはどうしたんだ?」とそろそろ言われそうなので、図2を参照されたい。ここまで苦労して書着込んできたマトリックスを、まず3Cの「Competitor」のところで上下に分けてみよう。Competitor以上の項目が「外的要因」。「Company」以下の項目が、「内的要因」である。さて、次に、各々の項目のプラス要因とマイナス要因の間に線を引いてみよう。さて、何が見えてくるか。左下の象限は「内的要因のStrong」だ。右下が「内的要因のWeakness」。左上が「外的要因のOpportunity」。右上が「外的要因のSleight」。ほら。SWOT表単独でマス目を埋めようとウンウン唸っていたのがウソのように、網羅的かつ・詳細にSWOTができあがっているであろう。
当然、各項目をもう一度見直し、検証したり、迷ってプラスとマイナスの中間に置いた項目も、周りの項目を考慮して無理なくどちらかに入れられるなら、きちんと整理した方がよい。
そして、この表が完成したら、S/W/O/Tの象限毎に、象限の持つ意味合い、つまり、状況は明るいのか暗いのか。原因は何か。解決するための打ち手は何かを検討する。それを四象限全て検討し、最後に全体として、自社の状況は明るいのか暗いのか。解決する打ち手は何かを検討する。つまり、この課程こそが「戦略の立案」で、マトリックスを埋めている課程は単なる「作業」にすぎない。その意味からも、単独のSWOT表などは、単なるパーツの一つに過ぎず、そこから戦略など出ようもないことが分かるだろう。
「急がば廻れ」なのだ。
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May 08, 2006
前号までで、「”顧客視点”入門講座」は連載12回、1年間で一区切りをつけた。しかし、筆者にもまだまだ伝えたいこともあり、読者からもいろいろな質問が寄せられている状況だ。そこで編集部の御厚意に甘え、前12回で記した内容に具体的な例示を加えたり、別の角度から説明し直すなどして、「顧客視点」というものをもう1年かけてより完全に伝えていきたいと思う。
■「カスタマーインサイト」は分かったが・・・
筆者に寄せられる質問の中で最も多いのが、前連載の第4回で紹介した「カスタマーインサイト」をいかにすれば実現できるのか?というものだ。「カスタマーインサイト」をもう一度おさらいしよう。
カスタマーインサイトとは、「顧客の心を洞察する」という意味であり、<Recognition><Time Saving><Peace of Mind>という3つの構成要素からなる。(図1)
<Recognition>は顧客の存在を適切に認知・評価すること。顧客のプロフィールデータや購買行動データ、来店履歴やWEBへの来訪・利用履歴などを用いて把握すること。言ってみれば商売の基本である「大切なお客様のことはちゃんと分かっています!」という態度を示すことにつながる。
<Time Saving>は利便性の提供、若しくはボトルネックの解消である。これも商売からすれば当然のことであり、「お客様にお手間は取らせません!」という姿勢を示すことだ。
<Peace of Mind>は理解するのが少し難しい。その意味するところは「本質的な価値」の提供によって、顧客に安心感と満足を与えることである。結果、顧客は「ああ、これでよかったんだ!」という気持ちになり、顧客と企業及び担当者の相互信頼関係が生まれる。
ざっと説明すれば上記のような内容になり、「ふむふむ、これは重要だ」と頭では理解できる人も多い。しかし、これを実現しようとした場合「じゃあ、具体的にはどうすればいいんだ?」ととたんに途方に暮れてしまう人が多いようだ。
■まずは「本質的価値」の理解から
カスタマーインサイトにおける最重要ポイントは「本質的価値」の理解だ。自分は顧客に対して何を提供しているのかということが理解できていなければ、商売は始まらない。しかし、それを理解しないまま、セールスマニュアルに乗っ取って型どおりのセールス活動を展開している例が散見される。
前連載で「本質的価値」の具体例として、生命保険は「保険証券」や「補償額」などではなく、「加入していることによって得られる、万が一の時の安心感」であると述べた。保険証券という目に見える物質や、補償額という数字だけに捕らわれるのではなく、その根本にある顧客が欲しているものを洞察するのが要点なのだ。
どうしてもうまくそれが見つけ出せないというのであれば、オーセンティックなマーケティングのフレームワークを利用してみればいい。フィリップ・コトラーが示した「製品特性分析」(図2)を見てほしい。製品は大きく「コア」「形態」「付加機能」の三層に分かれて考えられる。「コア」とは顧客に提供するべき「ベネフィット(便益)」である。筆者のいう「本質的価値」に意味としては近い。さらに注目すべきは、そのベネフィットがどのような「形態」で提供されているのかという点である。例えば、「安全・快適にスキーに行くために車を四輪駆動車に買い換えよう」と思っている人がいたとしよう。その人にとっての製品の「コア」は「安全・快適な移動手段」である。それを実現する「形態」として「四輪駆動車」をまずは想定しているという状況だ。ここで自動車の販売担当者が「さすがにお目が高い。当社の四輪駆動車はこんなにパワーがあって、ステアリング特性も・・・」などとスペックを羅列しても、その顧客には響かない。顧客の欲しているのは「安全・快適にスキー場に移動すること」なのだ。別の「形態」でそれを実現する方法を考えれば「新幹線でスキーに行く」ということでも実現できる。いや、新幹線の方が確実に安全であるし、眠ったりお酒を飲んだりすることができるので快適性も数段上だ。そうした顧客の心を汲み取って、顧客の最も欲しているベネフィットに沿って「コア」と「形態」の魅力を説得しなければ、顧客は「まあ、別に四輪駆動に買い換えなくても、たまにスキーに行くときは新幹線を使えばいいか」とあっさり購入を棄却してしまうだろう。
■「本質的価値」が分かったら次は・・・
前項で本質的価値に関しては理解できただろうか。では次にはどうすべきなのか。まずは(図3)を見てほしい。「何だ、今までの図を逆さまにしただけじゃないか」と言うなかれ。Recognition→Time Saving→Peace of Mindというステップは、「どのように顧客を理解すべきか」という考え方の流れを示している。それを実行に移すには、Peace of Mind→Time Saving→Recognitionという、逆の流れで一つ一つ要素を確認していきながら、顧客に向かい合う準備をするのだ。
前項で述べたとおり、まずは「自分が顧客に提供するものの真の価値はどこにあるのか」をとことん考える。そして「自分たちはこんな存在なんだ」という確信が持てれば、おのずと次に「それではお客様にはこんなふうに接しよう」という、とるべき行動が見えてくる。さらにそこまで分かれば、今までの顧客との接触がいかに表面的であったかも分かるだろう。「お客様のこんなところも理解しなくては」と思うようになるに違いない。この流れは今までの自分の営業や販売における顧客との接触を省みるためのものなのだ。
■カスタマーインサイトの達人になれば・・・
前連載と今回でカスタマーインサイトを理解するためのフレームワークを詳説したが、フレームワークを埋めていくことが目的化してしまわないことが重要だ。マーケティングにおいては様々なフレームワークが使用される。本連載においても今後も様々なフレームワークを紹介することになるだろう。しかし、フレームワークの本来の目的は「ものごとを客観的に、モレ・ヌケなく把握する」ために使うことにある。飽くまでそれは、顧客とのコミュニケーションにおける部品であり、道具でしかない。その点を間違えないよう留意が必要だ。本当にそのフレームワークを使用し導出することに慣れれば、逆にフレームワークなど使わずに一気に結論にたどり着けるようにもなる。本当の商売人とは、そうしたものなのだろう。そんな例を一つ。
それは、もう10年以上前にうかがった、噺家・桂文珍師匠のお話である。曰く、「大阪で980円カメラのワゴンセールをやってました。そこはさすがに客の心が良くわかる大阪の商人がすることで、東京だったら『激安!』と(POPに)書くところを、ズバリ一言書いていた。『写る』だ。980円が安いのは当たり前。見ればわかる。それよりもカメラを手に取った客に『安っすいなー。でも”ちゃんと写るんやろか?”』と思わせないことが大切なんですな」。脱帽である。
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April 25, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回はここ数年来思っていたことと、昨今の流行を合わせて原稿にしたためてみました。
間違いなく、今日の日本人はコミュニケーション能力が落ちてきていると思います。
回復のキーワードは標題にある「文脈」構成力であるというのが金森の持論です。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
最近「何の話をしているのかわからない人々」にしばしば遭遇する。筆者は仕事の幅が広いせいか、様々な人々と出会う。すると、出会った人々と「会話が成立しないケース」が少なからず発生する。どうやら、人々の「会話の仕方」が変わってきているように思えてならない。
■「言わずもがな」のムラ社会化も一因
日本語はもともと「主語を省略しても内容が伝わる」という特性を持っている。しかし、最近は「主語を省略する」傾向が一層加速しているようだ。
その一因として「専門領域の細分化(=専門特化)」「趣味・嗜好の多様化(=細分化したコミュニティーの発生)」「年代間の差異性の細分化」などで、同質の特性を持った集団(セグメント)が形成されていることが挙げられる。「小集団内」であれば、会話の主語は「言わずもがな」なので、問題を引き起こさない。しかし事情がわからない人がこうした「小集団」に入り込んで会話をすると、「何の話をしているのかがわからない」ということになる。
「主語の省略」と同様、クセモノなのが「ワンフレーズ化」だ。筆者はあるマーケティングの講義で「このケースで企業の成功理由を説明してください」と問い掛けた。すると、受講生の回答はたった一言、「顧客満足!」であった。
質問の意図は「どのような状況に、どのような施策が選択・実施され、成功に至ったのか説明せよ」である。確かに「顧客満足を獲得したこと」は成功の主要因ではあるが、そこに至る過程を省略してしまったら解答とは言えない。
しかし、当の受講生は自らの答えに満足気だ。確かにマーケティングのクラスという「小集団」では、そのワンフレーズで途中の過程を推測できる。しかし、「推測を加えて理解できる」では、本当の意味で「説明した」とはいえないだろう。
「主語の省略」と「ワンフレーズ」は小集団においてのみ、成立するコミュニケーションだ。しかし、それは「言わずもがな」が通用するムラ社会に限られている。社会で多様な小集団が多数構成されていくのに伴い、「隣ムラ」との会話はますます成り立たなくなっていくわけだ。
文脈を構成しようとするのは「相手にきちんと伝えようという意思」の表れだ。しかし、居心地の良い小集団に身を置いている限り、その努力の必要はない。社会の細分化→小集団化→集団内でしか成立しない会話→「文脈力」の欠如→他人への働きかけの欠如→自己中心的・自己満足社会の拡大?? 何やら社会の危機を感じざるを得ない。
■最近はやりの脳力開発ブームへの疑問
こうした「文脈力」を軸に考えると、最近の「脳力開発ブーム」にも何となく危うさを感じる。アンチエイジング(抗加齢)や教育など、ブームの背景は様々だ。しかしゲームソフトの内容を見てみると、ほとんどが「右脳強化」を目的としたものであることに気がつく。
「右脳」はイメージ、直感、芸術性、創造性、潜在意識などを司っており、右脳を強化することで芸術的な感性やアイデアも開花するといわれている。しかし、「文脈を構成する力(=相手にこちらの意図を伝えようとする力)」を司るのは言語認識、論理的思考などを処理する「左脳」だ。左脳を置き去りにした脳力開発。ここでも「相手に意思を伝える力」という観点が欠落しているように思える。
「文脈力」はこまぎれの知識からは生まれにくい。例えば、日本語能力の向上という意味では、平成4年から始まった「漢字検定」がある。年を追う毎に受験者数は増え、10年間で200万人を突破した。しかし「漢字検定」はあくまで読み書きの能力を測るものであり、文章の構成力を問うものではない。日本の学生の数学(算数)では「数式を解く能力の低下」ではなく「文章問題の文脈を理解する能力の低下」が指摘されている。「漢字能力」と「文脈力」の関係と、「計算力」と「文章問題を読み解く力」の関係――いずれも問題の本質は同じではないだろうか。
■美しい日本語・正しい日本語を鍛えるには
「文脈力」の訓練は、文章を書くことに尽きる。「書く」という行為は不特定多数の人に理解してもらおうと努力するが故に、「相手が理解できるようにする」ため文章の構成に力を注がざるを得ないからだ。
「文章を書く機会は昔より増えている」との反論もありそうだ。本当にそうだろうか? 流行のブログ(Blog=日記風簡易ホームページ)は、「誰が読んでくれるか分からないけど、とりあえず思ったことを書いてみよう」と文章を綴るのでは訓練にならない。「モノローグ」には「人に何か伝えよう」という意識はないからだ。
「携帯電話からのメール」は「特定の相手にのみ向けられたメッセージ」である故に、思いついたことを打ち込んでいるに過ぎない。文章を書くのとは、頭の働きは全く異なる。
パソコンや携帯は打ち込む時間も短縮できるし、頭に浮かんだことを次々と文章にできる。しかし、「書く」は原稿用紙のマス目をカリカリと埋めていくことが基本だ。それは頭に浮かんだことを腕とペンを使って、文字として出力していくという手間のかかる作業。ある意味、肉体労働だ。アタマでは何度も「この表現で正しいのか? 人に伝わるか?」という推敲の作業が行われている。
ところがペンと原稿用紙がパソコン・携帯に置き換わったとき、そうした思考回路は脇に押しやられる。手軽さと軽便さの裏返しとして「読み手に伝えようとする意識」が希薄になり、「文脈力」はないがしろにされてしまう。
■「文脈力」欠如は過度のコンピューター依存の産物?
コンピューターは情報の処理はできるが、ストーリーを組み立てることはできない。それは人間の役目だ。しかし、その人間の側が情報処理とストーリー構成を連携させる能力を喪失し始めている。急増する陰惨な事件も「この行為によって、どのような結果が引き起こされるのか」という因果関係をイメージできなくなっていることが一因ではないだろうか。
コンピューターの普及に伴い、私たちは以前では考えられないほどの情報にさらされている。当然「情報処理のため」脳を使う場面は増えた。いきおい、左右の脳の連携という脳の一番大切な機能を十分使わなくても済む場面が増えている。
社会のデジタル化は今さら止められないだろう。だからこそ右脳だけでなく、左脳を鍛える機会こそもっと増やすべきなのである。今日の右脳ブームは、「感性」「創造」を無視した「左脳偏重教育」の反動でもてはやされている側面が強い。しかし、それではバランスのとれた脳の教育にはならない。「読み手に伝えようとする意識」を持ち、論理構成力・文脈構成力を養うには左右の脳をバランス良く鍛える教育機会「文章を書く」の重要性を見直す必要がありそうだ。
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March 23, 2006
本日18:08頃から10分ぐらい、広島中国放送(RCC)ラジオに金森が出演します。
(また、電話取材ですが・・・)。
番組名は「道盛浩のバシャリキNOW」:ニューズバラエティー番組です。
お題は、以前日経プラス1でコメントをした、「大学発ブランド」をもう少し詳しく解説して欲しいということでした。
後日、コメント内容はまた、このBlogにアップいたしますが、放送が入るエリアの方、聞いてみてください。
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March 14, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回は3月3日に行なわれた、宣伝会議賞贈与式の模様を元にコラムを書いてみました。販促会議誌に連載を持っていることからご招待いただいたのですが、広告会社に10年7ヶ月も席を置いた者としては懐かしくも貴重な体験でした。
では、ご一読ください。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
昨年よりやや遅れたが、関東地方でも春一番が吹いた。寒の戻りがあった日には頬をなぶる風にまだ冷たさが残るが、それでも日差しにはどこか明るさが感じられる。「春寒(はるさむ)」「三寒四温」「一雨ごとの暖かさ」・・・この時期にはすぐそこまで来ている春を待つすてきな言葉がたくさんある。そんな季節に、筆者は春の訪れを告げるかのような、新たに紡ぎ出された「温かい言葉たち」に出会う機会を得た。
■ アイデンティティーのよりどころとしての広告
先日、宣伝会議賞贈与式に出席した。宣伝会議賞は、広告とコミュニケーションの専門誌を発行している宣伝会議が主催している「若きコピーライターの登竜門」で、今回で43回を数える。今回の応募総数は20万件を超え、過去最高を記録したとのことだ。それを現役第一線で活躍するコピーライターが一次審査にかけ、さらに広告界の重鎮15人が最終選考を行う。グランプリを目指すファイナリストに残るのはわずか9人。通過率0.0045%の極めて狭き門なのだ。
筆者は同社が発行する雑誌に連載を持っていることから来賓として贈与式に招待された。招待客にはファイナリストの作品がまとめられた冊子があらかじめ配布される。それを眺めていて、どの作品にも共通して新鮮な「夢や希望」「ユーモアや温かさ」がつづられていることに気づいた。
「でも広告ってしょせん、商品を魅力的に見せるための衣装や化粧のようなものでしょ?」と言う向きには、ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーの「ブランド・エクイティ戦略」や「ブランド優位の戦略」(いずれもダイヤモンド社)をお読みいただきたい。アーカーが「ブランドエクイティ」を定義する以前は、広告やブランドといったものは、商品をよく見せるための一時的な「取り繕い」と考えられていた。
しかしアーカーは、その商品・ブランドの持つ“コア・アイデンティティー”の重要性に着目。コア・アイデンティティーを明確にしその価値を高めていくためのコミュニケーションのよりどころとして、広告活動を継続的に行うことを説いた。もはや三流の商品に金メッキを貼るような広告は通用しない。生活者もそれを見破るのだ。そして企業からのメッセージとして、生活者に直接届くコピーが、そのブランドの本質を的確に体現すべきなのは言うまでもない。
■夢や希望をたたえた言葉たち
ファイナリストの作品の総評は、広告界の重鎮が述べられたので、今更筆者が論じるまでもないだろう。しかし、それらの共通点を言うのなら、一様に「明るさと希望」に満ちていることだ。世の中の負の部分をえぐり出し、ドキッとさせたり、不安をあおったりするネガティブアプローチも手法としては存在するし、効果的な場合も多い。例えばバブルの時代であれば、過熱した消費経済に一石を投じるようなネガティブな表現も、人の目を引き問題意識を目覚めさせるという効果があるだろう。
しかし、長い不況のトンネルをやっと抜け、景気がよちよち歩きをはじめたばかりの今の人々の心理には、選出された作品がそうであったように、やはり暖かな春の息吹と清澄さが感じられるようなコピーが心に響く。コピーはその時代ごとに求められる姿を変えていくものなのだろう。
加えて、作品の視座が徹底して「生活者視点」になっていることだ。商品を魅力的に見せようとすると、ともすれば「供給者側の視点」になってしまう。ファイナリストの作品は「自分ならどう使うだろう」「誰に何と言うだろう」「こんなことはあり得ないけど、あったら楽しいだろうな」といった具合に、あくまで生活者の目線から、自分や周囲の人々を対象に思いを届けようとして書かれている。マーケティングの一翼を担っているコピーライターも、昨今のマーケティングの主流である「顧客志向」をきちんと理解しているらしい。
ちなみに、筆者が最もすてきだなと思ったコピーは、グランプリに輝いた、ペットフード会社のためのコピー「一度だけ話せるとしたら、なんて言いますか?」小安英輔氏の作品。次に気に入ったのは、準グランプリに選ばれた、お線香のためのコピー「生きている人には話せないことがあります。」塩野晃司氏の作品であった。
■自分自身の生き様のコピーを考えてみよう
経済や社会問題など、とかく不安な出来事が多い現代。世の中の生活者は自分自身のことをどのようにとらえているのだろうか。自分の居場所が見つけられない引きこもり。働くということでの社会とのかかわりを築けないニート。様々な理由で自らの命を絶つ年間3万人以上の自殺者たち。彼らは、負の部分にばかり目を奪われ、周囲や時代に流されるまま生きているのではないか。
そこで筆者からの提案だ。今回紹介したファイナリストたちのように、明るく前向きな気持ちで「自分自身のキャッチコピー」を考えてみよう。もちろん、前述のアーカーの論のごとく、適切なコピーを作るには「ブランドのコア・アイデンティティー」を定義しなければならない。それには「我は何者で、何のために存在し、何を行うべき者なのか」という深い思索が必要になる。
力を持った言葉には魂が宿る。「言霊」である。「自分自身のキャッチコピー」が作れれば、それはいついかなる時にでも、自らを鼓舞する言葉となろう。
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March 12, 2006
3月11日の土曜の日経第二版「NIKKEIプラス1」の「はやりを読む」のコーナーにコメントを掲載していただけました。(日経をお読みで未読の方、捨てないで読んでみてください!)。
今回のお題は「大学発ブランド」。以下、記事冒頭と金森のコメント部分のみ転載。
大学発ブランドが花盛りだ。研究成果を酒や食品として発売したものばかりでなく、キャラクターグッズまで登場。学外の一般客にも購入が広がっている。少子化に危機感を抱き知名度向上を狙った動きで、大学の変質が見て取れる。
■大学大衆化の一端
「大学という場所が卒業生も巻き込んだ大人の学園祭の会場になったと言えるのでは」とみるのは、マーケティング事情に詳しい青山学院大学講師の金森努さん。
扱う商品は研究成果を踏まえたものなど、本格的なものも少なくない。金銭的に余裕のある世代は、高くてもいいモノを求める。本来の学園祭は焼きそば当たりが定番だが「卒業生や学外者も巻き込み、常時、多様な商品を扱う舞台になった」と分析する。
(以下略)
・・・しかし、残念なことに金森の愛する母校、東洋大学にはカレッジリングさえ売っていないのであった・・・。
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March 06, 2006
販促会議4号が発売されましたので、前号バックナンバーをアップします。
いよいよ最終回です。1年にわたるご愛読ありがとうございました。
また、来月あたりから、装いを新たに、続編ともいうべき新連載が始まりますので、
お楽しみにお待ちください。
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当連載も一年間・12回まで今号と来月号を残すのみとなった。ここまで「顧客視点」の重要性を説きつつ、その視座でマーケティングの基本を見直し、筆者オリジナルの理論も加えて解説してきた。そして最後の2回は「今まで誰もが疑わなかった基礎・常識を見直し、さらに今日的な時代背景の中で新たな視点を見つけていく」という当連載の主旨の総まとめをしたい。マーケティングの基本戦略の集大成とも呼べる"STP"(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)の見直しである。
当連載は今回で12回目、1年を迎えとりあえず一区切りとしたい。そして最後に前回マーケティングの基本戦略の"STP"(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)の中でも最重要と記した「ポジショニング」を取り上げる。ポジショニングは企業自らが「こうありたい」と定めることも重要であるが、それが顧客に伝わらなくては意味がない。そこにはやはり、「顧客視点」がなければ成立しないのだ。また、前号でも述べた通り、セグメンテーション、ターゲティングをいくら深く考えようとしても、自社のポジショニングを意識した上でなければ確定するためにはひどく体力のかかる作業になってしまう。その意味からも、今回述べるポジショニングは重要事項であるのだ。
■自動車メーカーに見るポジショニングの違い
冒頭から引用となるが、企業のポジショニングの定義とその業績に反映された結果は、フィリップ・コトラーが著書に端的に表している。「コトラーのマーティング・コンセプト」(恩藏直人教授監修・東洋経済社刊)の「ポジショニング」の項を紐解くと、欧州の自動車メーカーのポジショニングが解説されている。ボルボが「最も安全な車」。BMWが「究極のドライビング・マシン」と。この二社はポジショニングが明確だからこそ、最終的な広告表現にしてもメッセージが明確だ。ボルボはダミー(衝突実験人形)をビジュアルによく登場させ、その安全性を繰り返し強調している。また、BMWの「究極のドライビング・マシン」は有名な「駆けぬける歓び」というコピーに表されている。どちらもポジショニングが顧客に伝わりやすく設定され、メッセージとして届けられるまでブレがないからである。一方、悪い例としてコトラーは米国のGM(ゼネラル・モーターズ)を挙げている。「GMの製品ラインアップが抱える弱点は、各社が明確なポジションを欠いたまま設計されているという点だ。製品の完成後に、大いに苦労しながらポジショニングを考えるというのがGMのやり方なのである」。と同書に明記されている。高級セダン、スポーツカー、ピックアップトラック等あらゆる車種を取りそろえ、さらにラインアップに隙間を見つけてそこを埋めるように開発・上市するようなやり方は、プロダクトアウト志向そのものである。先の欧州車との違いを考えれば、今日新聞紙上でも頻繁に目にするGMの危機的状況を招いた原因の一端が分かるだろう。これほどに、ポジショニングにおいて顧客視点の欠落は企業にとってクリティカルなダメージをもたらすのである。
■独自の世界観×顧客ベネフィット×競合優位性
前述の通りポジショニングの設定においては、「顧客視点」を持って確実に顧客に伝わるということが重要である。では、具体的にはどのようにすれば実現するのであろうか。それは以下の三要素の掛け合わせで実現できると考えられる。
①独自の世界観の構築
独自の世界観といっても、当然「独りよがり」で「斯くありたい」と思っただけでは顧客に認めてはもらえない。その裏付けたる事実(ファクト)が積み上がっていることが前提であることはいうまでもない。逆に言えば、ファクトを積み上げるということは、製品を設計する段階から、顧客に提供するその接点に至までの全てを予めデザインしておかなくてはならないことを意味する。そうでなくては「後付けのポジショニング」となり、設計・開発、販売企画、顧客との接点などの各段階で様々なスタッフが各々の考えや思いで自分の担当領域の仕事をしてしまい、結果としてちぐはぐで顧客に伝わらないポジショニングが設定されることになる。そうならないためには、予め自社の今まで積み上げてきた実績を元に、自社の核たる価値は何なのかをステートメント化(明文化)しておく必要がある。ステートメント化については2月号のブランドに関して用いたチャートやメソッドが流用できるだろう。再度確認して欲しい。そうしてファクトを基盤にステートメント化していけば、自社の核に基づいた独自の世界観を定義することができるだろう。
②顧客ベネフィット
前項のように、ブランドのメソッドを流用して考えれば、当然、顧客に対してどのような価値を提供すべきなのかという「顧客ベネフィット」という要素も加味され、「独自の世界観」は定義されることになる。しかし、この顧客ベネフィットの定義が不完全であると、やはり「提供側の独りよがり」になってしまうため、再度検証することが必要だ。前項では自社の積み上げてきたファクトを基盤に考えたが、今度は完全に顧客の視点で、設定された世界観が「自分にとって何をもたらしてくれるのか?」という意識で見直してみよう。その際にそれが実際に自分の価値観と整合するようであれば大丈夫だ。ここでいう「自分」とは「ターゲット顧客」のことであり、STPのT、即ちターゲティングにおいてその範疇に入らない対象者の視点まで考慮する必要はない。あくまでブランドの項で「理想的とする顧客」を中心に、その予備軍レベルまでを想定して考えればよいだろう。ターゲット顧客層を広げてすぎて考えると、ポジショニング全体のブレの原因になるため注意が必要だ。また、顧客に提供するベネフィットも「機能的価値」と「情緒的な価値」があったことを思い出してみよう。例えば、その商品を用いることによって時間的な節約ができるというような「利便性の提供」と、もう一方で、その商品を所有しているということによる「心理的な満足感」など提供すべきベネフィットには幾つかの切り口がある。自社または、当該商品に一番適合する側面を見つけなければならない。
③競合優位性
競合の存在しない、全くの新機軸の商品でもあれば、競合優位性など検討する必要もない。しかし、市場が成熟した今日、そのような商品の開発は困難であるし、前項の顧客ベネフィットを考えれば、異なる商品カテゴリーでも競合になり得る。極端な例を出せば、「スキーに行くために四輪駆動の車に買い換えたい」と思う顧客にとって、「スキーは年に何回も行くわけでもなく、行ったとしても渋滞もなく気軽で、酒も飲めるし、短時間で目的地に到着できる」というベネフィットを考えれば、新幹線という交通機関さえも競合となり得るのだ。
では、競合を洗い出し、それとの比較優位性をどのように打ち出していけばよいかを考えるには「ポジショニングマップ」を描いてみることをお勧めする。(図参照)マップを描くには縦軸、横軸をどのように設定するかが一番のポイントとなる。何らかのリサーチを行い、その結果をデータマイニングやテキストマイニングのツールにかけると、回答から有意な差異を自動的に抽出し、マッピングできることもある。しかし、マーケターとしての経験値を上げたいのであれば、まずは額に汗を浮かべながら頭をひねって考えてみた方がよい。例示の図は筆記具についてのポジショニングマップである。縦軸に商品価格の高低を、横軸に機能性と装飾性を設定してみた。競合商品Aは商品価格が廉価商品よりやや高く、その分、機能性を高めている。プロ仕様の実用品といった位置づけができるだろう。競合製品Bは製品価格が高く装飾性も極めて高い。趣味人向けの高価な万年筆。筆記具としてだけでなく、それを所有していること自体に歓びを見いださせるような商品という位置づけだ。それに対して、自社商品は価格は最高レベルに近いが、装飾性はさほど高くない。つまり、日々使いながら、その機能性の高さ、使い心地で愛着を持たせるというポジションを取ったわけだ。このようにポジショニングマップを作ると比較対象がしやすく、そこから顧客に実際にどのようなメッセージを発すればいいのかも考えやすくなることが分かるだろう。ただし、マップを一つ作って安心していてはいけない。前述の通り、ベネフィット、つまり、縦横の軸の定義を変えてみれば、全く違ったポジションにもなるし、思いもしなかったような商品が競合として浮かび上がってくることもあるからだ。実際にはこのようなマップを幾つも書いて検証するという努力が必要となるのだ。
以上で、ポジショニングについて述べ、また、「顧客視点の持ち方」についても12回の連載の中で一通り伝えてきたつもりである。「顧客視点」も世の中の流れの中で日々移り変わっていくため、「これが絶対正しい」という見方は存在しない。しかし、最も重要なのは「自分はマーケターである以前に、一人の生活者なのだ」ということを忘れずに、その視座でものごとを考えたり、再検討したりする習慣を付けておくことであると最後に強調したい。
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March 01, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
2月20日にこのBlogに書き下ろしたものを、もう少し深掘りしてきちんとしたコラムに仕立て直してみました。
ご一読ください。
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
最近、東京という街が面白くなってきた。今まで見たこともなかったような巨大タワーマンションが何もなかった場所にこつぜんと姿を現し、新しい街ができる。最近オープンした表参道ヒルズに代表される個性的な商業施設も、さらに登場する予定だ。今回は「街」としての東京に注目し、その今後の姿を予想してみたい。
■東京は再びドーナツ化するのか?
「企業の遊休地放出が一段落したこともあり、首都圏でのマンション開発は用地確保が難しくなっている。このため、地価の安い郊外での開発競争が加速するとみられ、一部では都市部のドーナツ現象を懸念する声もあがっている」という旨の記事が、2月15日付の日本経済新聞に掲載されていた。しかし、この見解に関して筆者の頭には疑問符が点灯している。都内に続々と開発されているタワー型大型物件は完工していないものも多く、商業施設は未整備であり、肝心の住人達もまだ転居してきていない。現時点でドーナツ化を論じるのは時期尚早ではないだろうか。
「ドーナツ化」とは、都市の中心部から住人や店舗が郊外に移動してしまい、空洞化することを意味する。とすれば、東京はさしずめ「まだアンコが充てんされていないアンドーナツ」のようなもので、街としての面白さや賑わいが訪れるのはこれからだ。
例えば、三井不動産が手がけている芝浦と豊洲の物件は、いずれも官民一体プロジェクトであり、芝浦の遊休地や石川島播磨重工業の造船所跡といった広大な敷地に巨大な街が出現する。街は完成に向けて着々とつくられているのだ。アンコがたっぷり詰まったとき、東京の表情はまた変わるに違いない。
■「最新の街」から「個性ある街」へ
「表参道ヒルズ」オープン初日、表参道で打ち合わせがあり、これ幸いと寄ってみたが、周囲には人・人・人・・・。入るための行列もできており断念。翌々日、別件で六本木ヒルズに行った。金曜の夜だというのに普段より明らかに人が少ない。推測でしかないが、表参道ヒルズに人が取られているのではないだろうか。
また、別の日にお台場に行ったのだが、何やら以前に比べて十代~二十代前半の若者とファミリーばかりが目立つような気がした。以前はここまでカジュアルではなく、もう少しオトナも多かったように思う。
考えてみれば、都内の商業施設の開発は今後も目白押し。来年には東京ミッドタウンプロジェクトと呼ばれる防衛庁跡地の再開発が完了。続いて赤坂TBS再開発、新丸ビルの完成なども待ちかまえている。「街同士の集客合戦」が今後激しさを増すのは必至だ。
表参道ヒルズと六本木ヒルズを冷静に比べてみれば、表参道はどちらかというとマニアックな店やまだまだ知名度の低い店もあり、ターゲットもより「大人」に絞られているように思える。六本木ヒルズは規模も大きくターゲットも比較的広汎で、文化施設から飲食、販売店舗まであらゆる設備をそろえている。一時のブームが過ぎればおのずと客層は分かれてこよう。表参道と六本木はあらかじめ街のポジショニングがはっきりできているのだろう。お台場にしても、こうした「街間競争」を生き抜くため、若者とファミリーにターゲットを絞り、自らのポジショニングを変化させていった結果が現在の姿なのだ。
本来、街に賞味期限はない。「最新」ということだけで人を集められるのはほんの一時にすぎない。「街間競争」を生き抜くには、どの街も他にない特徴を出していくことが必要だ。それぞれの街が特徴を持ってすみ分け、共存共栄することができれば、東京という都市は様々な表情を持ったいくつもの街を抱える、モザイクのような魅力を増すことになるだろう。
■陰の部分に目を向けると・・・
もっとも、こうした華やかさの裏側に潜む陰の部分に目を向けると、手放しで喜んでばかりもいられない。
第一の不安の種は、「オフィスの供給過剰における2007年問題」だ。単に物理的に2007年に大型オフィスビルの完工のタイミングが重なり、古いオフィスビルがテナントからの賃料下げ要求などに苦しむだけではない。同じタイミングで「団塊世代の大量定年による2007年問題」も重なる。働く人の数が減る。スリムになった企業は床面積が少なくて済むため、賃料が同じならと新しいビルに移転していく。賃料下げでは対応できず、大量の空室がでるかもしれない。古い空室ばかりのオフィス街がスラム化することも想像できる。
第二の不安の種は、商業施設と共に建てられる超高層マンションはいずれも販売価格が高額なことだ。高額所得者世帯や、管理の良さとセキュリティーの高さに惹かれ一戸建てを処分した高齢世帯が入居すると考えられる。後に残される中古のマンションや戸建て住宅。価格の安さを求めてそれらの中古住宅を購入する人々によって、住居の場合、空室化は避けられるであろう。しかし、その結果、地域による収入格差ははっきり区分けできるようになる。低所得層が多い地域は税収が減り、住民サービスも低下するだろう。所得の低さと犯罪発生率が完全に正比例する証拠はないが、治安の悪化も懸念される。
階層二極化とその固定化が問題視されている折も折。東京という都市が描く色とりどりのモザイク模様が、階層分化を端的に映すものになってしまっては困る。続々と登場する新しい街にはワクワクさせられるが、その陰の部分にも目をやりケアする方法を官民一体となって考えていく必要があるのではないだろうか。
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February 17, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
同サイトが動的サイトになったため、バックナンバーにうまくリンクできなくなってしまうので、文末に本文を転載します。但し、最新号はリンクをクリックして本サイトで読んでいただいた方が、図表やイメージフォトがあったり、構成もきれいなのでそちらをお勧めします。
バックナンバーのリンク切れは徐々に修復します。
さて、今回のコラム。「金森はついにファッションにまで口出すようになったのか!」と思われるかもしれませんが、お伝えしたかったのは、「大衆社会と社会構造、さらになんとなく時代を覆っている不安」というものをファッションの切り口から書いてみようということでした。
日経のデスクから、「芥川龍之介のいう『ぼんやりとした不安』を想起させる」と過分なお褒めの言葉を頂いてしまいました。←ほめられすぎ・・・。
では、以下はバックナンバー用の本編を転載します。
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第15回「ファッションの同質化現象を考える~個性喪失と安心感の狭間で~」(2006/02/17)
景気がめでたく回復し、消費も順調に伸びているようだ。しかし、階層社会の到来がささやかれ、生活者は将来に不安を抱え、モノの購入にもどこかおっかなびっくりの観が否めない。そんな生活者の消費の姿を、今回はファッションの世界から追ってみたい。
■ 「丸ごと購入」と「我も我も」現象
アパレル業の方から興味深い話を伺った。最近、そのブランドショップに来て、ファッション誌の切り抜きを提示して、「これと同じコーディネートを一式ください」と、「丸ごと購入」していく顧客が増えているという。
筆者は色気づく年頃になってから今日まで、ファッションに関しては自分流の「こだわり」を持っている。数多の選択肢の中から自分に合ったものを見つけ出し、その組み合わせの妙を楽しむ。ファッションとはそうしたものだと信じて疑わなかった。「丸ごと購入」は信じ難い行為だ。
別の機会にシューズショップの方からも面白い話を伺った。「Dragon Beard」というスニーカーブランドがファッション誌で紹介されるや否や、凄まじい勢いで問い合わせや来店が相次いだという。同ブランドは「世界に通用する日本発のスニーカー」をコンセプトに、シンボルのDragon Beard=龍のひげを靴の側面に配したユニークな商品だ。確かに人気が出そうな商品ではあるが、これほどの「我も我も」という勢いは、今まで経験したことがないという。
「丸ごと購入」と「我も我も購入」――この二つをどう考えるべきだろうか。一つの仮説として、モノが溢れかえったこの社会において、無限の選択肢を前に「選ぶことに疲れた生活者」の姿と見ることができる。「ファッション誌のお墨付きのコーディネートなら安心」「皆が欲しがっているシューズなら間違いないだろう」という感覚なのだろう。それでなくても、個々の生活者はまだまだ消費に対して慎重であり、買い物で失敗したくない。雑誌にも載っていて、皆と同じものを買えばリスクヘッジになる。
■「自由からの逃亡」
「選ぶことに疲れた生活者の姿」。それは同時に嫌なキーワードを連想させる。「自由からの逃亡(Escape from Freedom)」――ナチスからの亡命学者、エーリッヒ・フロムが1941年に、ドイツのナチズムの発生を心理学的に分析した社会心理学の古典である。「なぜ自由から逃避して全体主義に向かおうとするのか」。その答えは次の記述にある。『自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独に陥れ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独は耐え難いものである。人は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性に基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる』。二者択一の結果、思考停止状態になって、当時人々がナチズムという全体主義に傾いていったのは、歴史に刻まれているところだ。
商品企画者やメーカーは「いかに他と差別化できるか」と思慮を巡らし切磋琢磨(せっさたくま)する。そうして今日の豊富な製品市場が形成されてきた。ところが、選択肢があまりに多いと生活者は選ぶことに疲れ、やがて「人と同じなら間違いはないか」と思考停止に陥る。生活者が選択の自由から逃亡し同質化を望むようになれば、市場の多様性は失われる。その果てに待っているのは、皮肉にも「選択肢の狭小化」だろう。
折しもメーカーは効率化のため、製品ラインナップの絞り込みに走っている。ヒットを出せたメーカーはその商品ラインに集中し、それ以外のラインを縮小することで効率化を図れる。他メーカーは二匹目のドジョウを狙い、ヒット商品に類似したモノを投入してそこに注力し、他のラインを縮小する。ただでさえ日本人は、「皆と同じようにしていれば安心」と思う国民性を持っている。かくして、「同質化した生活者」がそこここに大量発生する。昨今の購買行動に、何かSF映画に出てきそうな不気味な世界の予兆を感じてしまうと言ったら、うがち過ぎろうか。
■そもそもファッションって・・・
こと、ファッションや流行に関する格言を捜してみると、その数の多さに驚く。
フランスの詩人・思想家であるポール・ヴァレリー(Paul Ambroise Valéry:1871~1945)は、『流行とは、人目につきたくない人が、人目につきたい人を模倣することだ』と洞見している。デザインの神様であるココ・シャネル(Coco Chanel本名Gabrielle Bonheur Chanel:1883~1971)も、『ファッションは時代遅れを作るために作られる』という、アイロニーに満ちた言葉を遺している。
著書「幸福の王子」で有名なアイルランド生まれの劇作家、オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde:1854~1900)に至っては、『流行とはひとつの醜さの形であり、とても人を疲れさせるので3カ月ごとに変える必要がある』と痛烈だ。
これらの言葉から伝わってくるメッセージとは「ファッションは人の真似をしたり流行に乗ったりするだけでなく、オリジナリティーに満ちたものであれ」と解釈できる。高度成長期を経てモノが満ちあふれ、十人十色を超えて一人十色とまで言われるほど多様化した消費市場が形成されている。確かに、まだまだよちよち歩きの景気が個人還元してくれるマネーは少なく、懐の温もりは心許ない。しかし、ことファッションに関しては、人にどのように自分を見せるかという重要な役割を持っている。ファッションの同質化は、ひいては人間性の同質化にさえつながりかねない。
立春も過ぎた。もうすぐ春がやってくる。新しい服を買う季節だろう。どうやら今年の春物紳士服はパステル調のきれいな色が流行のようだ。ドブネズミと揶揄(やゆ)されたサラリーマンスーツがきれいな色になれば、街の景色も明るくなるだろう。だからといって、それも均質化され、誰も彼もピンクや水色のスーツで歩き回られたら気持ちが悪い。
さて、この春、読者諸兄はどのような装いをされるのだろうか。
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February 13, 2006
読者の方から「顧客視点入門講座の第10回が抜けている」とご指摘をいただきました。
・・・確かに第9回の次が第11回になっていました。スミマセン。至急以下にアップします。
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今号はマーケティングにおいても重要なパートを占める「ブランド」について解説したい。もちろんいつものごとく、「顧客視点」を忘れずにだ。
■ブランドと顧客視点は切っても切れない
ブランドを考えたとき、顧客視点を忘れれば、企業の独善的な革新運動になってしまう。かつてのCI(Corporate Identity)がそうであった。「企業としてどうありたいか」のみを自社の視点だけで制定していく。そこに顧客視点はない。
一方、顧客視点においてもブランドを意識せずに、ひたすら「顧客のために」と「お客様は神様です」よろしく対応していたとすれば、それは戦略なき顧客満足追求運動、かつてのCS(Customer Satisfaction)ブームの再来となってしまう。つまり、ブランドと顧客視点は顧客を中心とした車軸の両輪でなければならないのだ。
■マーケティングの変遷とブランドに対する考え方の変遷
ブランドとひと言でいうと広告などによる「ブランドイメージ」が先行しがちだが、現在では「ブランド論の神様」といわれている、”デビット・A・アーカー”が1994年に発表した「ブランド・エクイティー」から連なる、ブランド三部作といわれる著書によって完全にその位置づけが変容している。つまり、それ以前はブランドとは生活者に「イメージ」を植え付けることが主たる機能であり、短期的視点で考えられた衣装・化粧のようなものとして捉えられていた。また、ブランド・コミュニケーションに費用を投下するのは「コスト」として捉えられていたし、それはすぐに忘れ去れる“フローのコミュニケーション”であるとされていた。つまり、「広告」の視点でしか考えられていなかったのだ。
だが、現在ではアーカーの提唱した「ブランド・エクイティー」という考え方が広く浸透した。つまり、「ブランドは中長期的視点で企業が”投資”をすることによって、生活者にイメージ訴求するだけでなく”認識”を植え付ける”ストック型コミュニケーション”である」と。その認識の変革によって、ブランドは単なる広告の課題ではなく、経営的な課題に格上げされた。事実、今日ではいわゆる「強いブランド」には数百億を超える価値が付いている。もはや広告だけでどうなるものではないことが分かるだろう。
■ブランドは席が3つしかない「イス取りゲーム」
では、どうやったら「強いブランド」になることができるのだろうか。それは言うは易しになってしまうが、「イス取りゲームに勝つこと」である。ブランドはまず「そのブランドを知らない」という”未知”の段階から、「知っている」という”認知”の段階に進み、さらに「そのブランドを意識している」という”ブランド想起”の段階に進まなくてはならない。あとは「○○ならこのブランドと決めている」という”トップオブマインド”のポジションが取れればまずはゴールだ。しかし、人があるカテゴリーの商品の購入においてブランドを意識しているという、”ブランド想起”の段階と”トップオブマインド”の中に入れるのは、せいぜい3つといわれている。その3つは”Evoked Set(想起集団)”といわれる狭き門なのだ。
■まずは自社のブランドを顧客視点で捉え直してみること
「イス取りゲーム」に勝つためには、まずはライバルのことを考えるよりも、自社と顧客のことを起点として考え直すことから考えてほしい。例えば、個々のプロダクトのブランドではなく、コーポレートブランドを考えてみよう。この場合、企業のミッションステートメントと結びついていることが多く、いわゆる社訓・社是と同一化している場合も少なくない。問題はそれが顧客を意識して作られているものであるかどうかだ。
数十年前の創業社長の言葉をそのまま筆書きし額装して、毎朝呪文のように唱和しているだけではないだろうか。本当にその意味を理解し、顧客と自社の関係を意識して行動のレベルにまで反映させているだろうか。極端に言えば自分自身がそのブランドの一部として行動できているだろうか。そうでなくてはとても「強いブランド」への道など遠いものになってしまう。
■「顧客と共に生きる」ブランド構築のメソッド①
以下に筆者が前職において仲間たちと開発した、一つのメソッドをご紹介しよう。全体を分かりやすく理解するために、まずは図を見てほしい。ブランドを見直すにはまずはそのブランドを端的に言い表し、全社員が共有できる「ステートメント」として明文化することが重要だ。
そのステートメントは以下の5つの要素から構成される。
①価値理念・・・その企業の哲学を表す、ブランドの価値ともなる部分。もちろん、ここも「自社は顧客に対してそのような存在であるのか」を明確にすることが中心となる。
②個性・・・他の企業にはない、その企業の独自性を表す部分。自社にしかできない、顧客に提示できることは何かを明確にする。
③機能的付加価値・・・顧客に提供できる物理的メリット。できないことを擅断しても仕方ないが、自社が自信を持って提供できるものは何なのかを明確にする。
④情緒的付加価値・・・顧客との各種コミュニケーションを通じてどのような気分にさせることができるかという、無形の付加価値を明確にする。③も④も「自社にしかできない」という模倣困難性が高いほど強い力を持つ。(そのため、今、それがなければ開発する努力が欠かせない)。
⑤理想とする顧客・・・誰も彼も「大切なお客様」としていたのでは「強いブランド」とはなれない。いや、ブランドとしてのアイデンティティーが形成できないことになるからだ。上記①~④はどのようなお客様に対して提供するものなのか。自社はどのようなお客様のために存在するのかを明確に設定する。
■「顧客と共に生きる」ブランド構築のメソッド②
上記①~⑤を設定するためには、図のピラミッドでそれぞれのパーツがどのような相互関係を持っているのかを意識して検討していくことが大切だ。しかし、それでもなかなか思い浮かばないのであれば、次のような文章に当てはまる言葉として作り込んでいくといいだろう。
○○会社は、【価値理念】を約束します。
私たちは、【個性】として、
【理想的なお客様】に、
【機能的な付加価値】を提供し、
【情緒的な付加価値】を感じていただくため、努力をしていきます。
いかがだろうか。上記の各パーツに入るべき言葉が見つかったら、前述の図のピラミッドに載せて相互関係を再度点検してみよう。違和感なく、整合性が感じられれば出来上がりだ。
■顧客が感じるブランドとは
上記のステートメントが完成したとしても、それをまた額装して壁に飾り、毎朝唱和するだけでは何にもならない。それではただの「社内自己満足活動」になってしまう。
ステートメントを決定したら、その通りトップから現場の社員・パート・アルバイトに至まで、それを実現するよう行動しなければならない。顧客が感じるブランドとは、「顧客自身が受け取った経験の集積」に他ならない。顧客が接触するブランドとは、商品そのものや店舗、広告だけに留まらない。店舗での接客はもとより、メディアに流れるトップの発言、ネットやリアルの世界での口コミ、コンタクトセンターの応対、WEBサイトやE-mailやDM、各種広告などなど・・・。それらに顧客は接触しその都度そのブランドを評価する。それらの全てがステートメントの通り整合性が取れ、顧客に受け入れられるものでなければ「イス取りゲーム」で生き残ることはできないのである。
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February 02, 2006
販促会議3月号が発売されましたので、前号バックナンバーをアップします。
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当連載も一年間・12回まで今号と来月号を残すのみとなった。ここまで「顧客視点」の重要性を説きつつ、その視座でマーケティングの基本を見直し、筆者オリジナルの理論も加えて解説してきた。そして最後の2回は「今まで誰もが疑わなかった基礎・常識を見直し、さらに今日的な時代背景の中で新たな視点を見つけていく」という当連載の主旨の総まとめをしたい。マーケティングの基本戦略の集大成とも呼べる"STP"(セグメンテーション、ターゲティング、ポジショニング)の見直しである。
■階層構造の変化と共に変わるSTP
「階層二極化」。昨今、マーケティングだけでなく経済学や社会学などでも扱われる、今後の日本の姿を表すキーワードである。すなわち、今までの「国民総中流意識」は崩れ去り、上流と下流に二極化していくという説だ。先進国の先輩である英国の姿と対比した論説も多いが、より日本の現実を如実に表した各種データに基づき記された、三浦展氏の「下流社会」(光文社新書)は昨年ベストセラーになっただけあって、さすがに出色である。その説を借りれば、今後の日本は「上」が15%、「中」が45%、「下」が40%という構造に変化していくという。つまり、多くの中流が下流に滑り落ちることによって二極化するということだ。
そのように社会構造そのものが変化する中、従来通りのSTPでものを考えていたのでは商売がうまくいくはずもない。三浦氏は著書の中で百貨店を一例として「市場が『中流社会』から『階層社会』あるいは『下流社会』に変わったのに、相変わらず中流型社会型のビジネスモデルで対応しているから、売り上げが減るのである」と洞見している。今、認識を改めなければ全ての業種で同じような過ちが繰り返されることになるだろう。例えば日本の基幹産業である自動車。昨年12月17日の日本経済新聞朝刊一面には以下のような記事が掲載されていた。「トヨタ3年ぶり減益・"軽"との競合激しく」「トヨタの苦戦は、より低廉な車種に需要がシフトする国内市場の構造変化を象徴している」と。しかし、一方でトヨタの高級車ブランド「レクサス」は比較的滑り出し好調であるし、輸入車勢も善戦している。低廉車と高級車の二極分化。この流れを看過し「誰にでも受けの良い中型車」などを今後、開発・上市・販売しようとするものなら、苦戦は目に見えているだろう。市場のセグメント、狙うべき顧客ターゲット、商品が顧客に向けて打ち出すべきポジショニング、つまりSTPの全てを見直すべき必要があるのだ。
■STPにおけるセグメンテーション
セグメンテーションとは、一般にそれに続くターゲティング、すなわちどのような顧客層を狙うのかを検討するための下準備であると考えられる。市場を幾つかの同じような「集合体」に分類するために、ジオグラフィック(地理的要因)=地域・人口密度等、デモグラフィック(人口動態的要因)=年齢・性別・所得・世帯規模・ライフステージ等、サイコグラフィック(心理的要因)=ライフスタイル・ロイヤルティー等の変数を用いることが一般である。しかし、ここにまず顧客視点が欠落する一つの危険性が潜んでいる。上記三つの変数要因が狙うべき顧客ターゲットに対して全てカバーするだけのデータが事前に揃っている場合などは希であり、多くの場合「マーケターの"勘と経験"」で補う、悪く言えば「当て推量」を働かせることになる。そのアンチテーゼとして「顧客のことは個々の顧客に聞け」という考え方で、CRM(Customer Relationship Management)やOne to Oneマーケティングが提唱されてきた。
では、社会構造の変化はそれにどのような変化をもたらすのか。階層二極化が進めば、「パレートの法則」を体現するが如く、企業の収益の大半は少数の上流階層からもたらされ、多数の下流は低収益な存在となる。となれば、上流を狙うのであれば、前述のCRMやOne to Oneといった個々の顧客(個客)に合わせた個別ターゲティングが重要になり、セグメントという概念は希薄になっていくだろう。正に顧客視点こそがセグメントに変わる重要な切り口となるのだ。今まで概念先行で大きな成功例がなかなか出にくかったCRMやOne to Oneであるが、それは「国民総中流」の中で「個客」として扱うべきターゲットを特定しにくかったからに他ならない。今後の階層格差が進む社会においてはターゲットが特定しやすくなるのだ。
しかし、全ての企業が上流を狙うわけではない。同業種であるセブン&アイとイオンでは前者が百貨店グループを傘下に納め、上流から下流まで垂直的に顧客を取り込もうとするのに対し、後者は百貨店などには手を出さず、水平的な拡大路線をひた走っている。そして、中~下流を狙う際に重要になるのはやはりセグメンテーションなのである。なぜなら、数が多く個々の収益性が低い層に対して個々に対応などはできないからだ。しかし、中流~下流の層もかつての高度成長期の消費者のように、企業が勝手にプロダクトアウト的に上市した商品を受け入れるような購買行動はとらない。モノが満ちあふれ十人十色、一人十色といわれた多様な嗜好はそのままに、限られた購買力の中で益々選択眼が厳しくなるからだ。低収益だといって一律に扱うようなことをしては誰も振り向いてはくれなくなる。個別対応はしないものの、より精緻なセグメンテーションを行うことが求められてくるのである。それ故に、「マーケターの"勘と経験"」で補うような粗いセグメンテーションでは成功しない。前々回に述べた調査(リサーチ)・分析(アナリシス)に基づき、展開する自社商品と現実の消費者ニーズがマッチした適切なセグメントの全体構造を構築することこそ重要なのだ。
■STPにおけるターゲティング
セグメンテーションが完了したら、次は「どのような市場を狙うのか」というターゲティングを行うのが一般的である。しかし、階層二極化が進む社会構造においては、「上流」を狙うのであれば、セグメントではなく「個客」を直接狙うという狭義のターゲティングに直接入ることになるのは前項で述べたとおりだ。しかし、同じく前項で述べたとおり、「中~下流」を狙うのであれば、従説通りのターゲティングを実行することになる。
ターゲティングは以下の二段階のステップで実施する。第一に、セグメンテーションの全体構造を構築した中から、どのセグメントを対象として施策を展開するかを決定することである。セグメント全体が自社商品に最適化された状態になっていたとしても、展開する施策の内容や、施策に対する想定される反応度によって外すべきセグメントが出てくるであろう。もしくは施策に充てられる予算や期間の問題から、幾つかの特定のセグメントに集中して展開することもあるだろう。その意志決定が第一のステップなのだ。
第二のステップは施策×セグメントをどう組み合わせるのかというプランニングだ。単純に行うのであれば、第一のステップで決定した対象セグメントの全てに同一の施策を展開することになる。しかし、各々が特徴を持ったセグメントであるとすれば、セグメント別にその特徴に対応した別施策をぶつけるなり、同一施策であったとしても多少の味付けを変えたりといった手を加えることでより高い反応が期待できるまた、より精緻に施策効果を検証するのであれば、同一セグメントの中からテストサンプルを抽出して別施策を展開し、効果の高い方の施策で全体に展開するという「スプリット・ラン」という手法もある。つまり、第二のステップは、施策×セグメントをどの程度の細かさで展開するかの意志決定であるといえる。
ここまででSTPのうち、SとT、すなわちセグメンテーションとターゲティングを終えたことになる。次号では最後のポジショニングを解説するが、実はこのポジショニングこそSTPのうちで最も重要なパートなのである。なぜなら、既に「施策」という言葉を何度か使ってきたが、実際の「打ち手」を考えるには、自社及び商品の市場におけるポジショニングを明確に定義していなければ、それを検討することができないからだ。その意味では「STP」というS→T→Pという手順に従った従来のプランニングの認識自体を改める必要もあるだろう。そうした点もふまえ、次号にて解説する。
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January 31, 2006
日経BizPlusの連載が更新されましたのでリンクをアップします。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回ご紹介した「ニューロエコノミクス(神経経済学)」という領域はかなり面白いですね。
日経に掲載された記事は日曜日だったので、お読みになっていない方も多いかと思いますが、
会社にある新聞のバックナンバーかどこかから捜して、全文をご一読なさることをお勧めします。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
日本経済新聞1月15日付のサイエンス欄「経済行為 脳科学で解明」という記事が目に留まった。
経済学と脳科学を融合したニューロエコノミクス(神経経済学)によって消費行動が予測できるようになってきたという話だ。記事によると、脳の前頭前野は「理性脳」と呼ばれ、将来的な利益を考え合理的な判断を下す。一方、大脳辺縁系は「情動脳」と呼ばれ目先の利益に走る。こうした研究から「アリの周到さとキリギリスの刹那主義は同じ人間に共存し、別々の神経回路が司っている」と、イソップの寓話を下敷きにした米国の脳科学者の解説が分かりやすく紹介されていた。この分析は、消費行動・マーケティングへの示唆に富んでいる。
■ 「ワンコインビジネス」をアリとキリギリスで再考してみる
2005年12月10日の日本経済新聞別刷り特集版「NIKKEIプラス1」の「はやりを読む」のコーナーで紹介された「ワン・コインライフ 気軽さ、手が出る500円」で、筆者のコメントも掲載された。冒頭の学説を引き合わせながら、「ワンコイン」を再考してみたい。
100円ショップが登場した時には「これがたったの100円!」という価格に対する驚きから多くの消費者が飛びついた。これはニューロエコノミクスがいうところの「キリギリス」の仕業に違いない。しかし、今日では100円ショップに対する驚きは薄れ、主要顧客である主婦たちは「本当にその商品に100円の価値があるのか」と、一般のスーパーに並んでいる商品と単価計算してまで厳しく選別している。もはや100円ショップは「アリ」が冷徹に仕事をする場になったということだろう。同じ価格、同じ業態でも消費者が慣れてしまい「驚き」を感じなくなった結果、「キリギリス」はもう動かなくなったのだ。確かに反応する神経回路が変わってしまっているなら、最近100円ショップを覗いても面白みを感じなくなったことにも得心がいく。
しかし、500円のワンコインでは少し様子が違う。徐々に下流化していると言われる一般庶民にとって、500円という価格は微妙な設定だ。サラリーマンの中にも昼食代を「一日500円まで」とセーブしている人が多くなった。そこにローソンの「ごはん亭」が登場し大ヒットした。「いつもの500円の昼食と比べて豪華だ」と多くの人が購入した。
しかしそれは、キリギリスの衝動的な購入ではない。「いつもの500円の昼食」と「ごはん亭」を短時間で比較検討し、アリも許容して購入したと解釈できる。大脳辺縁系と前頭前野を情報が駆けめぐり、アリとキリギリスが折り合いを付けたという形ではないか。
■「納得」という消費に欠かせない要素
前述の「アリとキリギリスの折り合い」の結果は「納得」という言葉で表せるだろう。確かに「衝動買い」という行動はどの消費者にも起きうることだ。それは「キリギリス」単独の判断に違いないが、消費の多くは両者が折り合いをつけ「納得」が得られた状態でなされると考えられる。
「納得の形成」ということを考えれば、インターネットから得られる情報の恩恵は大きい。消費者はかつて売り手の勧め言葉の真偽を、少ない情報で判断しなければならなかった。しかし今日では、価格比較サイトや既に購入した人たちの意見など、多くの情報が手に入る。消費者はこうした情報を消化したうえ「納得」して購入できるようになった。
納得できる判断材料が得られなければ、アリは間違いなく冬眠だ。だからといって、キリギリスだけが大活躍して何でも衝動買いしてしまうほど人は愚かではない。「納得できない」ということは、「消費者の企業不審」に繋がり消費行動に歯止めをかけてしまう。それだけ、企業が「納得できる情報の開示」を進める必要が高まっているわけだ。
■消費者の「納得感」をストレートに得るためには
筆者が10年以上経っても忘れられない、噺家・桂文珍師匠のお話がある。曰わく、「大阪で980円カメラのワゴンセールをしていた。さすがに客の心が良くわかる大阪の商人がすることで、東京だったら『激安!』と書くところを、ズバリ一言書いていた。『写る』だ。980円が安いのは当たり前で見て判る。それよりも『ちゃんと写るんやろか?』という客の不信感に応えることが大切」。
この話の眼目は何といっても、客の一番欲しい情報を提示して、不信感を払拭し、納得してもらっているところだ。「980円、安い」と大脳辺縁系のキリギリスが反応する。それを「いやいや、ちゃんと映るのかどうか怪しいもんだ」と前頭前野のアリが制止する。しかし、ちゃんと「写る」と予め目の前に掲げられてはアリも納得せざるを得ない。先に記した「企業が『納得』につながる情報を開示する」とはかくもタイムリーに、ストレートになされることが理想だろう。
脳内の働きに基づいて、消費行動が科学されるようになり、脳内の冷徹な「アリ」の存在が明らかになった。もはや「商売は売り手と買い手の騙し合い」などといってはいられない。せっかく景気も回復したのだ。「騙し合い」ではなく、「納得」をキーワードにアリとキリギリスが折り合いを付けられるような企業努力を切に願う。
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January 19, 2006
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=20060116c6000c6
今回のコラムは偶然にも届いたDMと、日経の夕刊の内容が一致していたので思い浮かんだものです。
いつもネタ探しに目を皿のようにしている金森ですが、こんな棚ぼたな幸運に見舞われることもあるのですね。
文中にある「総手書きの年賀状」は実は非常にしんどい作業でした。
いつもPCばかり使っているため、「書く」という作業は普段使っていない筋肉を酷使することになり、未だに肩こりが治りません。ただ、やはり「やって良かったな」と思っています。(汚い字の年賀状が届いた方々、新年早々申し訳ございませんでしたが・・・。)
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
■鏡開き翌日の「歳暮の案内」?
家のポストをのぞくと百貨店より「お歳暮品の御案内」というダイレクトメール(DM)が入っていた。鏡開きが終わったばかりというのに何を気の早いことをと訝(いぶか)しがりながら封を開ける。
中には「豫約醸造味噌・野菜、鮮魚、和牛の味噌漬けの御案内」とあった。年初に申し込んでおき、約1年かけて醸造したものを「誰それが1年前から○○様を気にかけて申し込み、醸造されたものである」というカードを添えて届けられるという。もちろん、自家用にもどうぞとのことだ。確かに1年も前から気にかけられて、贈られたものは格別であろう。自分用に申し込んでも、届くときのことを考えればワクワクする。
■「食もオーダーメード」
この小見出しのタイトルは、上記のDMを見た次に開いた日本経済新聞1月12日夕刊生活面のタイトルだ。「ファッションや家具などで浸透しているオーダーメードが、食材の分野に広がっている」とある。奇しくも第一に筆者が受け取ったDMと同じ味噌の例、続いてハムや鴨肉などが紹介されている。
紙面では「安全・安心を徹底」「『選べる』キーワードに」「お取り寄せが発展」などの言葉が並ぶ。そして、電通消費者研究センターの北風祐子氏の「最近はただ高いものを求めるのはかっこ悪いと思われる。『知恵を使った感じ』が求められており、うまくマッチしたのでは」という分析で締めくくられている。
■ITが後押しする「パーソナライズ(個別化)」
筆者の前職はダイレクトマーケティング専業の広告会社であった。約12年前に中途入社したが、その頃の同社の得意技が「パーソナライズDM(ダイレクトメール)」であった。それまでのDMといえば、いかに安く・大量にばらまくかが勝負。しかし、パーソナライズDMは発送先データベース(もしくはデータファイル)とDMの印刷を連動させるのがポイントだった。「お客様に御案内しているこの商品は」と一律に語りかけるのではなく、「○○様に御案内している・・・」と対象者を個別識別して語りかけるのである。名前だけでなく、過去の購入商品とむすびつけ「××をお求めになった○○様には」といかに顧客を深く理解しているかを示す文言も盛り込む。当然、DMの制作単価は高くなるが、レスポンス(反応)は飛躍的に上がった。DMを送る側が「知恵を使った」結果の勝利である。
今日では紙のDMよりもインターネット上のパーソナライズされた、ユーザー向けのWEBサイトやEメールが当たり前になってきている。前出の夕刊でも、パーソナライズされた食材は「インターネットの普及で細かなオーダーを受けやすくなった」と指摘している。12年前の技術による紙のDMによるパーソナライズも、今日のインターネットによる食材の個別オーダーも、いずれもITが後押ししていることは間違いない。
■そもそもパーソナライズの本質とは?
ITがパーソナライズを後押ししているとして、そもそも人は自分に向けて個別化されたものになぜ喜びを感じるのであろうか。
連載第4回でも紹介したアブラハム・マズロー(1908~1970)の「欲求段階説」で考えてみよう。人間の欲求は5段階あり、その一つ一つを達成して上を目指していくというものだ。第1と第2は「生理的欲求」と「安全欲求」であり、衣・食・住の根源的欲求である。第3が「親和欲求」であり、他者と関わり同じようになること、つまり同質化することの喜びだ。第4が「自我欲求」であり、自分が集団から価値を認められ、尊敬されようという欲求。最後の第5番目が「自己実現欲求」であり、自分の能力を発揮し、創造や自己実現を図るという段階に至る。
さきほどの夕刊記事で紹介された、電通消費者研究センター北風氏の、「ただ高いものを求めるのはかっこ悪いと思われ『知恵を使った感じ』が求められる」という分析を、マズローに当てはめて考えてみる。つまり、第3段階である「同質化」から第4段階である「価値を認められ、尊敬されよう」と発展に該当する。例えば商品選択について「さすがお目が高い」というような「目利き」具合が示せることになるのだ。
パーソナライズの進展は、マスプロダクトを大量に消費してきた我々の、モノが満ちあふれだした今日、消費行動が変化したことと呼応している。つまり、同質化による安心感から、個別最適化と他者との差異化に消費者の嗜好が大きく変化したのがその理由であろう。
■パーソナライズの本質は「こだわり」と「気遣う心」
前述の通り、ITによってパーソナライズの自由度を高められ、多様な展開を見せ始めた。消費者もそれに気づき、商品選択や生活の様々なシーンの中に取り入れ始めた。しかし、パーソナライズの本質はITではない。そもそも、消費者の「こだわり」が高まらなければITはその能力を発揮する機会がない。さらにその根底に、「人や自分への気遣い」がなければ「こだわり」は生まれない。もはやITが主役ではないことは明らかだ。
私事だが、「アナログなパーソナライズ」の効用の例を一つ。一昨年前までの会社員時代、取引先への年賀状は会社が宛名まで印刷してくれたものに、自分のサインをするだけだった。何とも儀礼的で好きではなかった。
そして独立した昨年の年末、取引先への年賀状を全て手書きで出してみた。相手の顔を思い浮かべながら、個別に筆ペンや万年筆でメッセージをびっしりと書き、宛先・差出人住所も手書き。切手を貼り付けて出した。100枚弱の年賀状書きに、実に24時間以上も要した。
筆者は悪筆故、見苦しいと思われた方も多かったかもしれない。しかし、「究極のアナログ・パーソナライズレター」に普段は返信を頂いたことのない取引先の方々から、ご丁寧に葉書やEメールを頂いた。儀礼的な年賀状は嫌だと思った筆者のこだわりと、相手を思い浮かべて個々に書き綴った文面に反応いただけたのではないかと思う。パーソナライズの本質にITもアナログも関係ないのだと分かった新年のできごとであった。
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January 11, 2006
画像の様な改札の「SUICA専用レーン」が増えている。
「専用」とか言われると、何か嬉しい。
ヒトは特別扱いされるのに弱い存在なのだ。
しかし、冷静に考えてみれば、この場合の「特別扱い」される利用者のメリットとは何だろう?
スイカにしたくてもできない私鉄乗り換えの磁気カードユーザーはまず、このレーンから排除される。
では、この専用レーンのおかげでスイカユーザーに何らかのメリットが供与されるのか?
一利用者の視点からすれば、答えは「否」である。
専用レーンに並ぶと必ずと言っていいほど、うまくスイカを「かざす」事ができずに、
ゲートでブロックされる利用者がいる。その後に並んでいたら、確実に遅れを取る。
そんなワケで金森はいつもスイカの「専用レーン」は避けている。
JRとしてはEdy、第三勢力であるセブンアンドアイに負けじと一気呵成をかける気持ちは分かる。
しかし、そこに「顧客視点」を忘れたプロダクトアウト的な理論が働かない様に願って止まない。
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January 09, 2006
ニッポン放送(AM・1242チャンネル)の「森永卓郎 朝はニッポン一番ノリ!」という番組で最後に扱われる「森永総研」のコーナー(10分くらいのコーナー)から「一言コメント」として電話取材を受けました。
お題はここしばらく得意としていた「2007年問題」です。朝5:00~8:30という、どう考えても金森の生活時間帯と合わないので、取材依頼が来たときには「その時間にスタジオに行くのか?」ありがたいのですが、「起きる」という大きなチャレンジを考えて緊張しましたが、電話取材でした。
しかし、この話、ここに至るまでの涙の物語があるのです。
話しが舞い込んできたのは12月28日。仕事納めの1日前でしたが金森はスキーに行っていました。
「ニッポン放送から取材依頼」と事務所から携帯に呼び出してもらって、急遽ニッポン放送の担当者へゲレンデから携帯で電話。「質問の主旨をメールするので、なるべく早めに返してもらいたい」とのこと。
正月明けでも良さそうだが、せっかくのチャンス、早いほうが良いに越したことはない。
しかし、問題はさすがにスキーにPCは持ってきていない。
かくて、唯一の味方である携帯で、質問状の答え約3000字を打って返したのです。(腱鞘炎になりそうでした)。
3000字の中から「この部分についてコメントして欲しい」と依頼のあった部分は以下に記します。
ただ、電話取材という形は初めてだったのでうまく話せているか分かりません!!
(えらくあっさりと「はい、OKです」と言われて拍子抜けしましたが・・・。)
生で聞いていただける方は1月12日のあさ7:40分から10分ぐらいのコーナーの中で、私が1分ぐらい話します。
------------以下、コメントの主旨--------------------------
★実際に企業が行っている2007年問題対策には、どんなパターンがあるか?
・実際には前述の通り、具体的な目立った考行動がなされていないのが現実。
・現状の問題は、「対応策を講じている」とする企業の打ち手が「5年間の定年延長」「嘱託として再雇用」など、本質的な解決に繋がっていないこと。それらは2007年問題を2012年問題に先延ばししているにすぎないことにある。最短であと2年。長くとも5年という時間を甘く見ているツケは確実にやってくる。このままでは問題先送りの体質が日本の国力を確実に奪ってくであろう。
・「行なうべきこと」という言い方をするならば、一刻も早く“先送りではない、実効性のある施策”を検討し、行動に移すこと。
・日本人は欧米に比べると定年後の終了欲が高く、嘱託などになって収入が今までの6割程度に減少しても、「生きがい」として働き続ける人が多い。その人々の意欲に安心し、根本的な対策を打たなければ大変なことになってしまう。
・しかし、あえて、質問の主旨の「パターン分け」として挙げるのであれば、以下の通り。
・最も初歩的で効果が低いのは、「ベテランから若手への直接的(暗黙的)な伝承」。これは「徒弟制度の復活」にしかならず、「ノウハウは人に付くもの」という原則から考えれば、人材の流動によって企業という組織に「知(ノウハウ)」は残らない。(残念ながら多くの企業はせいぜいがこのレベル)
・それを解消するのが「シャドウイング」という手法。人(技能者)のノウハウをシャドウと呼ばれるアナリストがベテラン技能者に張り付き、一挙手一投足を観察したり、インタビューを交え洗い出し、マニュアルなどに明文化する。そうして誰もがその技能を共有する。これは2004年に米国加州サンタクララ(シリコンバレー)にて開催された「KM & Intranets」カンファレンスにてサンフランシスコ市政府の担当者が日本と同様の「ベビーブーマー大量定年退職(2010年問題)対策」として紹介。視察した日本企業担当者が自社で展開中。すでに一定の成果を出している。これはある程度成果が見込まれ、そのマニュアルを元にした研修・トレーニング等を継続していけば伝承は果たされていくはずである。
・さらに上記を進化させているのが、シャドウイングのようにして洗い出されたベテランの技能を機械化したパターン。溶接技術者のノウハウを溶接ロボットに移植した成功例はずいぶん前から実現され、成果を上げている。最近ではインクス社が携帯の金型設計を機械化し、熟練職人と同等の作業をアルバイトがこなしている例が著名である。
-------------------------------
森永先生とは日経BizPlusの連載・トレンドコーナーでご一緒させているため、取り上げていただけたのだと思いますが、貴重な機会ありがとうございました。
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January 02, 2006
新年明けましておめでとうございます。
新年のご挨拶か、大胆に「今年を占う」でもやってみようかと思ったのですが、あまりにインパクトのある文章を読んでしまったので、その「感想文」を書いてみたいと思います。
元旦の日経新聞を読まれましたでしょうか。
トップ記事から始まり、一連の記事は「ニッポン再生の年」を強調するような強い論調で満ちています。無論、楽観論に触れすぎないように的確に、なお残る課題も指摘してあるところはさすがです。
さすがというのであれば、特にトップ記事はもはや文学の域に達しているような筆致です。
かなり感動します。
(中途半端な内容の引用は価値を損ねますので控えます。未読の方がいらしたら、読み返してみてください。購読されてない方がいらしたら、仕事始めにでも会社で取っているものをお読みください。)
報道は本来中立の立場を取るべきだと思いますが、日本経済の羅針盤たる日経新聞としては、これぐらいよい意味で、「日本経済再生」を印象づける論調はとても正しいことだと感じます。もし、元旦の記事が弱含みであれば、未だ「再生」といってもヨタヨタ歩きの日本経済には少なからずネガティブな影響を与えるでしょうから。
私ごときが評価するのは僭越の極みですが、冒頭に記したとおり、「新聞で感動した」という経験は初めてでした。
皆様はどのように読まれましたでしょうか。
末筆ながら、本年もよろしくお願いいたします。
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December 26, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第12回がアップされました。
BizPlusは今年最後の更新です。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=20060112c6000c6
内容としては、年末にあまり重い話しも何なので、オムニバススタイルで街角の風景を切り取り、
軽く今年を振り返ってみました。
「タウンウオッチャー金森」の得意とするところです。
3つ目のエピソードはお気づきと思いますが、12月12日にアップした書下ろし”「うつむきがち」でなくなった街の人々?”が本人としては結構気に入っているので、文体を整えて再度取り上げてみました。
1つめの「ウォームビズ」は「何なんだよー」という、偽らざる心情です。日経連載第2回で「クールビズは流行らないし、私はその仕掛けられた流行に乗らない!」と宣言し、おかげで暑い夏を過ごし、第7回で敗北宣言をし、同時に「ウォームビズには乗る!」と記しました。しかし一向に流行りません。空調の設計がおかしいですね。日本のオフィスビルは。「上手な重ね着のファッション」は結構おしゃれだと思うのですが、暑苦しい冬のオフィス空間がそれを許しません。なにかがおかしい・・・。
2つめの「階層二極化」は、三浦展氏の「下流社会」で一躍脚光を浴びましたが、私も以前から注目していました。今回は軽い”さわり”ですが、三浦氏の理論をさらに拡張して、近々きちんと書いてみたいと思います。来年のテーマですね。
それにしても、今年も色々なことがありました。
・・・個人的には15年間のサラリーマン生活に別れを告げて、一念発起、起業したことが最大のできごとでしたが・・・。
また、青学の講師にもなり、初の「学部生」相手の講義を行担当したのも新鮮でした。(来年もやらせていただくことになっています。)
さらに共著ですが「思考停止企業」(お勧め書籍欄に掲出)という書籍も発刊しました。
来年は単著で何か出してみたいと思っています。
と、まあ、来年の抱負まで語ってしまいましたが、本年は起業に際し色々な方にお世話になりました。ありがとうございます。また、このBlogをお読みいただいている方にも厚く御礼申し上げます。
来年もよろしくお願いいたします。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
いよいよ年の瀬も押し詰まってきた。年末の所用に急ぐ人々や正月の準備で街はあわただしさを増している。そんな年末の街の表情を幾つか切り取って、2005年を少し振り返ってみたい。
■空振りに終わるか?「ウォームビズ」
筆者は本欄の第2回に「クールビズは流行らない!」と宣言。しかし予想外の普及・定着を突きつけられて、第7回で事実上の「敗北宣言」をした。その時には既に、CO2削減のための冬の着こなしコンセプト「ウォームビズ」が打ち出されていた。筆者は冬になると、ツィードのジャケットにオッドベスト(柄違いのベスト)という、ウォームビズのお手本のようなスタイルを10年以上前から愛用している。しかし、同じようなスタイルの人があまり見あたらない。
クールビズの時は暑さが増すごとに、男たちの襟元からネクタイが消えていった。しかし、12月に入ってから急激に冷え込んだにいもかかわらず、人々のスタイルは例年と何ら変わりがないように見える。
確かに変に厚着をすると朝の満員列車では大汗をかく。また、集中制御空調システムのオフィスビルでは、環境省が提唱した「適切な室温設定(20℃程度)」に設定すると建物の気密性の高さとパソコンなどOA機器の放熱などで、何もしなくとも20℃を超えてしまい、冷房が働いてしまうとも聞く。事実、筆者自身、以前から着用していたのとは別にニットのベストを新規購入したが、着用していると背中に汗が流れることが多い。そのような現状を見ると「ウォームビズ」はコンセプト倒れに終わるのではないかと考えてしまう。
そもそも問題点が二つある。一つは前述のオフィスビルの機能・特性などを把握していなかったという事前のリサーチ不足。二つめが「そもそも人々にニーズがなかった」ということだろう。一つめのリサーチ不足も少々お粗末で済むが、二つめの「ニーズ不在」の方が重大な過ちだ。クールビズの時には、「寒い地方を起源とするネクタイを、日本の夏に着用するという無理な慣習から解放されたい」という潜在的な男たちのニーズがあった。それにマッチしたからこそ見事に普及したのだ。
しかし、満員列車で毎朝汗をかいている人々には、これ以上の厚着をするというニーズがそもそもなかったのだ。なぜ、環境省はそこに気がつかなかったのだろうか。例えて言うなら「こんなすごいものを作ってしまった! 絶対に売れる!」と意気込んだものの、さんざんな結果に終わったプロダクトアウト志向のメーカーのようだ。
冬が終わるまで結論を出すには早すぎるかもしれない。しかし、ウォームビズの掛け声にもかかわらず、街ゆく人々の姿が変わっていないのは事実だ。
■階層二極化の足音か?「自動車販売の明暗」
12月17日の日本経済新聞朝刊1面に「トヨタ3年ぶり減益・"軽"との競合激しく」との記事が掲載されていた。「トヨタの苦戦は、より低廉な車種に需要がシフトする国内市場の構造変化を象徴している」と分析されている。一方でトヨタの高級車ブランド「レクサス」は比較的滑り出し好調であるし、輸入車勢も善戦している。低廉車と高級車の二極分化。確かにそうした目で見ると、街ゆくピカピカの新車とおぼしき車はそのどちらかのようだ。
筆者は米国で似たような光景を目にしている。カリフォルニアで流通業の視察をした際、流行のオーガニック系高級食材店の駐車場には欧州車や米国高級車がずらり。一方、低価格スーパーのウォールマートの前にはボロボロの日本車や低価格な米国車が列をなしていた。しばしば車はその所有者の収入を推察する材料とされるが、まさに収入格差を目の当たりにした気がした。それと同じような姿に日本もなるのだろうか。
三浦展氏の「下流社会」がベストセラーとなり、階層二極化時代はすぐそこまできていると様々なメディアでも報じられている。そしてその実態は街を走る車の姿からも見て取れるように思える。
■街行く人々はうつむきがちでなくなった?
土曜日夕暮れ、銀座の街に出かけた時に気づいたエピソードをひとつ。街の人々にちょっとした変化を感じた。いつもはうつむきがちに街を歩く人々の背中がまっすぐ伸びていたり、顔が上を見上げたり・・・。
その理由はクリスマス前の街の飾りつけだった。いつもは携帯画電話のメールなどをのぞき込みながら歩く人が多いのに、この日はクリスマス・イルミネーションに飾られた街の風景を撮影している人が多かった。その結果、被写体を探そうと視線を正面、もしくはやや上方に向けるなど人々の姿勢が違っていたのだ。色とりどりのイルミネーションの効果だけでなく、街ゆく人の姿勢が違うだけでも随分街が明るく見えるものだと実感した。
もう一つ気付いたのは、相変わらず片腕を突き出す独特のスタイルで携帯のカメラを使っている人もいるが、デジタルカメラで撮影している人が増えたことだ。ただ、どこかぎこちない操作を見ると「冬のボーナスで買ったな」と推測できるような人もいた。各メディアが報じる「消費にもやっと明るさが見えてきた」風景は、こんな所で実感できた。
デジタルカメラはここへ来て、売り上げの伸びが低迷している。しかし、価格がさらに下がり、手ぶれ防止やズームなどの機能が一層充実したことで「後期多数採用者層」という腰の重い人々がようやく動き出したのだろう。クリスマスや年始など、撮影機会が多いこの時期、市場のボリュームゾーンが動き出したということは、今年の年末商戦ではデジタルカメラが善戦するかもしれない。
年末の回顧番組で、世の中の暗い面ばかりを見て悲観していてもしかたがない。たまには街に出て、街と人々を自分の目で観察し、自分なりのニュースを見つけて、それに自分なりの解釈を付け加えることをお勧めしたい。意外と明るい人々の暮らしを発見できたり、これからの世の中の方向性を自分なりに納得できたりすると思う。
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December 13, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第11回がアップされました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=20060112c6001c6
以前、皆様にご意見を募集した「駅ナカ・ビジネス」についてです。
いつものごとく(?)、コメントではなくメールにて幾つかご意見をお寄せいただきました。
ご協力いただきました皆様、ありがとうございます。
参考にさせていただきました。
ただ、「西船橋」・・・。ローカルすぎましたね。千葉方面の方が京葉線を使わずに、東京ディズニーリゾートに行くときに乗り換えることなどもあるかと思いますが・・・。
さて、金森の筆致でどこまで駅の状況を想像していただけるか。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
■駅ナカビジネスの集大成オープン?
「駅ナカビジネス」は2003年の日経ヒット商品番付で「東の関脇」にランクインして以来、ここ数年隆盛を誇っている。そしてその集大成ともいうべき「エキュート品川」が10月にオープンした。エキュートの名を冠した駅ナカショップは3月オープンの大宮に続いて2店舗目。大宮の店舗面積2300平方メートル・店舗数56店舗に対して、1600平方メートル46店舗と若干小さいが、品川駅駅舎の開放感あふれる構造と相まってなかなかよい雰囲気だ。大宮のストアコンセプトが「マーケット・アベニュー」であるのに対して、品川は「プレミアム・プライベート」。確かに高級感を感じさせる店舗設計とショップのラインナップは一見の価値がある。日本初上陸の店や著名人とのタイアップ店など確かにプレミアム感はある。だが、2500円ものコース料理などはさすがに手が出ず、プレミアム感が先行しすぎている気もする。かつてのホームの立ち食いそばが懐かしく思えてさえくるが、女性層には非常に好評なようだ。
■JR東日本戦略転換の背景とは
「駅ナカビジネス」の起こりは10年近く前に、阪急電鉄がホームで直営コンビニエンスストアを出店たことから始まったといわれている。関西・私鉄発のビジネスモデルをJRが猛追した格好だ。前述の「エキュート」はJR東日本の100%子会社であるJR東日本ステーションリテイリングによって運営されているが、それまでJRは駅ナカではなく、「シアル横浜」「テルミナ錦糸町」「ルミネ北千住」など改札外の駅ビル開発が中心だった。それが「改札内こそ宝の山」と気づき、一気に駅ナカへと舵を切ったわけだ。エキュートオープン時に、JR東日本ステーションリテイリングの鎌田由美子社長(当時・東日本旅客鉄道事業創造本部資産活用部門課長)は次のようにコメントしている。「街中からの集客は考えていないので、通勤で電車を使わないがエキュートに来店したい方には、入場券を買っていただく」と。その潔いまでの割り切りは「駅ビルから駅ナカ」への転換を如実に物語っていると考えてよいだろう。
■なぜか主張と裏腹な西船橋の駅ナカ
「街中から集客せず」という主張はある意味非常に好感が持てる。"駅ナカショップ利用のための無料入場券"などを発行しようものなら、駅舎内が混雑して仕方がないだろう。駅はやはり「鉄道利用客」のためのものだからだ。
しかし、3月にオープンした「ディラ西船橋」(運営はJR東日本ステーションリテイリングではない)などは「駅は誰のためのものなのか」と問いたくなるような設計になっている。千葉県船橋市にある西船橋駅など縁のない読者も多いであろうから、その駅について少々解説する。年間乗降客数49,240,053人(平成15年度)、JR総武線各駅停車・京葉線・武蔵野線、営団東西線、東葉高速鉄道の5路線が乗り入れているターミナル駅だ。また行き先も様々な5路線が乗り入れているため、駅舎の構造もかなり複雑なのが特徴である。そんな駅にできたのが「ディラ西船橋」だ。
確かにこの駅周辺には大した商業施設もなく、駅周辺人口も非常に多いわけではない。その意味からすると、「街中からの集客」は考えていないのだろう。ターゲットは明らかに多数の乗り換え客である。しかし、その乗り換えが問題なのだ。品川駅などと異なり、駅舎の構造が複雑であり、かつ余り広くはない。そこに18もの店舗を詰め込んでいる(改札外にも3店舗)。きちんとした導線設計などは行ったのであろうが、買い物に興味のない利用客からすれば以前より動きづらくなったような気がしてならない。
さらに、問題なのは案内板などサインが整備されていないことだ。店舗自体やその看板などが、ホームの行き先表示や乗り換え案内より目立ってしまっている。毎日この駅を利用している乗客ならいざ知らず、たまに利用する乗客などは明らかに混乱してしまう。
■誰がために駅はある?
駅はやはり「鉄道利用客」のためのものだ。買い物客のものではない。また、全ての鉄道利用客=買い物客になるわけではない。「エキュート」は大宮、品川とオープンし、今後立川にもオープンするそうであるが、その3駅はいずれも大型駅だ。駅ナカは成立するであろう。しかし、前述の西船橋のような複雑で狭小な駅舎はやはり従来型の駅ビル開発の方が向いているのではないか。もしくは紀伊国屋も出店することで話題になっている、東京メトロ表参道駅の開発のように、駅構内ではあるが4~5店舗のみ改札内で、あとは全て改札外というスタイルもあるだろう。
「エキュート大宮」のオープン時に鎌田社長は「従来は(駅の)コンコースには照明や床など駅として必要な機能があり、店舗は店舗で各自のデザインをしている。エキュート大宮では全体の環境コンセプトの中でトータルコーディネートしている」と述べている。確かに全体最適化がなされなければ、西船橋のような事象が起こってしまうのは明らかだ。
ディラ西船橋は1月15日から順次ショップが開いていき、3月にフルオープンを迎えた。ということは、1月オープンの時点では3月オープンのエキュート大宮のコンセプトなどは既に固まっていただろう。もしそうであれば、なぜ、鎌田社長の語った本質を西船橋にも取り入れられなかったのだろうか。成功しそうなモデルの表面的な部分だけを見て「これならどこでもできるだろう」と展開したのではないだろうか。今後もJRの駅ナカのリニューアルオープンは目白押しだ。不安がよぎる。
「本質的な価値」を理解しないまま後続が多数展開すれば、オリジナルのコンセプトはかき消され、同様にネガティブな評価を受けることになる。そして、その市場全体が地盤沈下する。これは駅ナカビジネスだけのことではない。ニュービジネスにおいてはよくある例だと言えよう。今後の駅ナカビジネスの向かう先はまだ見えないが、少なくとも今回取り上げた「エキュート」と「ディラ」の対比は他山の石とすべき事例であろう。
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December 09, 2005
昨日のみずほ証券による大量発注ミスは、担当者がジェイコムの株を「61万円以上の値段で1株売りたい」とした顧客の売り注文を、「1円以上で61万株売りたい」と取引システムに入力したことが原因であるという。当然、システムには異常な注文入力に対するアラートを発する機能があり、そのアラートは発せられたにもかかわらず担当者は「見逃した」という。結果としてみずほ証券は300億を超すともいわれる損失を出し、グループ全体から支えてもらわなければならないような事態に陥った。
担当者の「通常ではあり得ないいような初歩的なミス」でクライシス(存亡に関わる危機)が発生する。みずほ証券だけではなく、今日の日本においてはそのような事故は頻発するようになってしまった。先日あるメーカーの方から「機械の保守作業において電極の+と-を繋ぎ間違えそうになった担当者がおり、大事故が起きかけた」という話を伺った。「普通に考えればあり得ないことなので、研修のプログラムにも組み込めない。『電気には+と-があります』というところから教えなくてはならないのか。しかし、そこまでの低レベルを想定するともはや事故の原因となる要素は無限になり想定不可能だ」。とこぼしていた。
ベテラン社員が大量定年退職し、その知識や技能が失われるという2007年問題。労働力が減少し、今後は今まで複数人で行っていた業務を、一人が何役もこなさなくてはならないため、トラブルも予想される少子化問題の影響。しかし「普通に考えれば分かるだろう!」という類の事故はそれらと問題の根本を異にする気がする。原因は何か。それは「最低でもこれとこれを確認してから実行しなくてはならない」という、その職に就く者であれば当然の「常識の欠落」である。
ではなぜ、その「常識」が欠落してしまうのだろうか。それはその職業に対する最低限のモラルが欠落しているからではないか。つまり問題の根本は「モラルハザード」にあると考えられる。「知識や技能」は詰め込んででも教え込むことができる。しかし「モラル」は本人の自覚がなければ、いくら周りで騒ごうとも身に付くものではない。そこに問題の根深さがある。
「モラルハザード」は目をこらせばいくつもの事故・事件の根本原因となっている。「定刻よりも安全を守ること」が交通事業に就く者の最低限のモラルであるにも拘わらず起きてしまった尼ヶ崎の列車事故。今まさに渦中であるマンションの耐震強度偽装事件も、建造物の安全性を確保することは建設業の最低限のモラルであったはずにもかかわらず、不当なまでの利益を確保するためそのモラルはあっさり破られている。一体、日本の産業界のモラルはどこへ行ってしまったのか。
しかし、モラルハザードは産業界だけに留まっていない。「人間の生命と尊厳」という最も守るべきものをいともたやすく壊す殺人者たち。金銭がらみや、止むにやまれぬ事情で他人を殺めるのではなく、その対象はいたいけな幼女であったり、自らの子供であったり、親だったりと、通常では考えられない相手であり、その理由も快楽目的や自己中心的な衝動的なものであったりする。
社会全体が病んでいる。最近はそう考えると、朝、新聞を開くのが恐ろしくなる。社会面に載るような殺人事件や事故も経済面のトラブルも問題の根は繋がっていると考えると、社会全体の病の重さが恐ろしいまでのものであると感じられる。
今回の証券会社のトラブルから殺人事件までを繋げて考えるのがおかしいのかもしれない。しかし、私にはどうしてもそう感じてならないのだ。この先向かう未来はどうなってしまうのだろうかと。「今日は昨日の続きでも、明日は今日の続きではない」と考えればまだ救われるのだが・・・。
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December 06, 2005
Suica大攻勢の陰の試行錯誤
電子ペーパーを見に東京駅に行った時に発見しました。
しかし、東京駅の中は凄まじいばかりのSuicaの大攻勢。どこもかしこもペンギンだらけです。
飲料の自動販売機もどんどんSuica対応機に置き換わっていくようです。
しかし、その陰で涙ぐましい試行錯誤も・・・。
イメージの新聞自動販売機は、全てのKIOSKをコンビニ(NEW DAYS)に置き換えようとした時、どうしても新聞販売のスムーズさがスポイルされてしまうため開発されたもののようです。
・・・ほとんど使っている人を見たことがなかったので失敗だったのでしょう。
今、そのKIOSKも以前のように店員さんに硬貨を投げ渡すような買い方はできず、Suica対応のPOSレジが入ってきています。
しかし、それではお客がさばききれなかったのか、面倒だとクレームがきたのか、今度は”セルフSuica対応POSレジ”まで登場しました。これもかなり無理があるように思えますが、JRのSuicaに賭ける意気込みのすさまじさが伝わってきます。
・・・ただ、くれぐれも「利用客の利便性」を優先して、新戦略をお考えいただけるよう願って止みません。
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December 05, 2005
以下、asahi.comより。
ポスターを電子仕掛けに JR東京駅で実験開始
駅ポスターの電子化を目指して、JR東京駅構内で「電子ペーパーディスプレー」の実験が始まった。厚さ最大1センチ、A4サイズの大きさで、白黒表示。電子ペーパーに内蔵された無線LANアンテナで外部から広告などの内容を受信、自動的に書き換えていく。薄型電池で稼働し、紙のように扱えるという。14日まで。
電子ペーパーを開発した日立では、1年後にはA3サイズ、カラー表示のものを実用化し、ポスターなどの広告や各種案内表示の電子化を進めていく。
・・・すっかりアップするのが遅くなってしまいましたが、当日の夜、東京駅に行ってみてきました。
実物を見ると、以下のイメージのようにコピーした新聞紙を貼り付けたぐらいの鮮度であまり・・・というか、まだほとんど見られるモノではありません。
ただ、数分おきに内容が無線LANで書き換えられていく、その瞬間を目にすると「おっ!」と思いますね。
実用化にはまだまだという感が強いですが、更に注文を付けるとすれば、WEBバナーのローテーションのように切り替わるだけではなく、見た人に何らかの行動を起こさせるか、足跡を残させるかといった工夫が必要だと思います。
携帯連動が一番相性がいいように思うので、QRコードをどの広告にも必ず表示するなどの方法が一番簡単ですね。
そうすると、駅張りポスターもネットの世界のように成果報酬型に変わっていくのでしょうか。
今後の展開が楽しみであります。
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November 28, 2005
タウン・ウオッチャー金森としては最近駅中ビジネスの盛況ぶりに非常に興味を持っています。先日の日経の記事によると、あの紀伊国屋までもが駅中に進出。しかも表参道の地下鉄駅構内に。
私の周囲では「便利でいい」という意見と、「じゃまくさい」という意見が拮抗しています。皆様はどのようにご覧になっているでしょうか。次回の日経BizPlusの連載のネタにしようと思っていますので、ご参考まで、ご意見賜れたら幸いです。是非ともコメントを付けてください。また、米国にてこのBlogをご覧になっている方もいらっしゃると思いますが、米国事情などもお聞かせいただければうれしく存じます。
よろしくお願いいたします。
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November 17, 2005
本日もKM World のキーノートの”さわり”の部分だけお伝えします。
非常に興味深い部分が多数あるのですが、昨日のダベンポート氏よりも広汎な内容を一気にプレゼンしているので、帰国後もさらに内容理解の作業が必要だと感じました。
ただ、超高速プレゼンの原因は、著書の内容をパワーポイント化してそのままギュッと詰め込んでいるためのようです。KMに強い関心があり、英文に強い方のためにお勧め書籍に載せておきます。(私も会場で定価で買うよりアマゾンの方が15%引きになっていたのでそちらに注文を出しました)。お勧め度は未読のため★なしにしておきますが、会場で見た限りではかなり面白そうです。
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November 16, 2005 (Wed) 9:00AM-10:00 AM
講演者: Hubert Saint Onge, Saintonge Alliances Inc.
(ヒューバート・セイントンジュ:セイントンジュ・アライアンス社 プリンシパル
兼 ハーバード大客員教授)
著書:“Conductive Organization” ロイス・アームストロング社CEO Charles Armstrongとの共著(12年間にわたりパートナー)
演題:「Building Capability in the Conductive Organization(伝導性を備えた組織内での能力構築)」
「伝導性を備えた組織」とは講演者が半導体の機能を比喩としてこのコンセプトを説明しているもの。つまり、一切抵抗なく、ナレッジの伝播が可能な組織。知識と能力が、外から中へ、中から外へ、また、組織内に、妨げなく流れている組織。それはフラットな組織への変革を意味するものではなく、必要に応じて現状の組織ヒエラルキーったままでも実行可能であるとしている。
単にナレッジと言っても顧客の中心に入り込み、そのニーズを理解することから始めなくては意味がない。そのナレッジに基づき市場を作る。例として、その分野を最も良く知り、ビジネスを作り出したダイナマイトのメーカーであるICI社がある。もともとは炭鉱の中にまで入り込み実際に働いている人が「金を払ってでもこれは欲しい」と思うほどのニーズを見極めた。それが全てを手で採掘するよりも、まずは発破を仕掛け楽に仕事ができるという、エンドユーザーのニーズを見極め、ダイナマイトを企業に売り込むという成功に導いたのである。
そのための課題は何か。講演者は最近特にリテーラと仕事をしているが、それに限らずどのタイプの業界にも言えることだが、今は「作って売る」、つまり、顧客と企業との間に壁がある状態から、顧客との壁のないコラボレーション体制へを移行していることだ。オープンなネットワークで顧客のニーズを理解し、提携企業を含めた組織全体に顧客ニーズを行き渡らせる体制をどう作るかが課題である。
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内容が広汎なため、それだけではないのですが、上記の出だしの部分にあるようにCRMとも共通する部分も多くあるのが特徴です。
では、明日は最終日ですのでまた「ちょっとだけレポート」をお待ちください。
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November 16, 2005
KM World & Intranets 2005の初日が終了しました。
朝9:00のキーノートスピーチから始まり、同行グループとのラップアップ・ミーティングが今、終了。
現地時刻23:55です。長い一日でした。(明日も明後日もですが・・・。)
本日は速報としてキーノートスピーチの「さわり」をお伝えします。
講演者はナレッジマネジメントの世界では第一人者とも言われている”トーマス・H・ダベンポート”です。
さすがに彼らしく明快にまとめられたキーノートだったと思います。
10のポイントが上げられていますが、KMなり、社内の改革なりを推進する場合、自社の強み弱みをチェックするためにも使える有用な示唆であると感じました。
では、以下をご覧ください。
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KM World & Intranets 2005. keynote speech.
Thinking for Living: Keys to Knowledge Worker Productivity
(生きるための思考:ナレッジワーキングにおける生産性向上への要点)
トーマス・H・ダベンポート
ピーター・ドラッカーは、ホワイトカラーの生産性を改善することが世紀の最も重要な仕事であるとしばしば主張した。 しかし、未だに我々はその改善を可能にするための手段、及びその管理手法を持っていない。ほとんどの組織は単に優秀な人材を雇い、彼らを使いこなすことなく放置する。
このキーノート・スピーチではホワイトカラーの生産性を改善するために、10の具体的なアプローチを示す。 パフォーマンスを強化するために、ツール、テクノロジー、組織的な文化、および行動と物理的な環境などを結合したアプローチである。
なお、この10の要点は過去に行なわれた現実のビジネスを詳細に調査・分析して導き出したものである。
・ナレッジワーキングの定義とは以下のような内容となる
「高度な教育を受け他の労働者よりも知識を多く利用する人々であり、その活動は知識の
創出と配信及びその応用を主な目的としている。最たる例は科学者など。」
・ホワイトカラーの生産性を改善するための、ナレッジワーキングにおける10の具体的
なアプローチは以下の通り。
1. プロセス志向の採用(Adapt a process orientation)
2. 外環境の改善(Change the external environment)
3. 仕事への知識の組み込み(Embed knowledge into work)
4. 決定の自動化(Automate decisions)
5. ナレッジマネジメントへの集中化(Focused knowledge management)
6. 個人的な能力の強化(Address personal capabilities)
7. 既存の知的財産の再利用(Reuse existing intellectual assets)
8. 改善に責任を持つ人員の任命(Put someone in charge of improvement)
9. 効果的な社会的ネットワークの構築(Emulate the social network of high performer)
10. 実験と測定(Experiment and measure)
以下、10の項目の詳細は別の機会にまた発表させていただきます。
とりあえずは速報まで。
また、ダベンポート氏の理論は前記の通り具体的で参考になりますので、その中でも必読の書をお勧め書籍でご紹介しておきます。ご興味のある方は是非ご一読ください。
ちなみに、KM World & Intranets 2005.にご興味がある方は以下にてご確認ください。
http://www.kmworld.com/kmw05/
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November 01, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第9回がアップされました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111609onec6
北海道取材を敢行した原稿の掲載はまだです。(2週間後を予定:まだ書いてません)。
今回はまさに10月15日に書いた【書き下ろしミニコラム】「思考法」通りに書き進めた原稿です。街で見かけたものがふと、気になる。徹底的に観察する。他のものと比較する。ネタ帳にメモをする。熟考する。そして原稿として文章化する。そんな典型的なパターンで書いてみました。
ちょっとその書き方の「型」にこだわってみた結果、内容的には今一歩踏み込みが浅くなってしまったかなぁ?と反省しておりますので、突っ込みの書き込み、歓迎です。
では、ご一読ください。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
その日、筆者は待ち合わせの時間を間違え、原宿ラフォーレの入り口の前で40分ほどたたずんでいた。天気は朝から陰鬱な雨。だが、元々タウンウオッチングやマンウオッチングが趣味であるため苦ではなく、むしろ楽しい時間であった。そしてある一つの発見をしたのだ。
■傘が彩る街の景色
「この街の人々はビニール傘の利用者が異様に多い」。・・・正確にカウントしたわけではないが、注目してみるとビニール傘60%、500円で駅の売店で買える中国製のナイロン傘30%、ノーブランドではあるが少なくとも1000円以上はする傘10%、自分のファッションに合わせてこだわって買ったであろうブランドの傘10%というところか。
その日は前の晩から雨。天気予報も一日中雨と繰り返していた。急な雨にあわててビニール傘を急遽購入したわけではない。家から持ってきたのだろう。
そのまま所用があって次に銀座に向かったところ、景色が一変した。同じく「傘」についてだ。同様に比率で言えばビニール傘は僅か10%程度、500円傘も20%、ノーブランド傘が30%、ブランド傘とおぼしきものが40%程度もいる。
当然、モノの購買は生活者の可処分所得との密接に関係している。確かに「若者の街・原宿」対「大人の街・銀座」ではブランド傘が銀座で多く見られるのは当たり前だろう。しかし、ビニール傘の60%:10%に注目すれば、可処分所得による差だけではなく、「ファッションなり持ち物に対するポリシーの差」がそこに存在すると考えた方がいいように思われる。
■「傘」とはどのような存在か
傘は一義的には「雨をしのぐ物」であればよく、日本は降雨量が多いとはいえ毎日降るわけではない。傘は「非日常性を持った持ち物」であるとも言えよう。さてそこで、前述の「ファッションなり持ち物に対するポリシーの差」が出てくる。
原宿や最近注目の裏原宿などのエリアの流行の変化は激しく、その年の大きなファッショントレンドに加え各店なりの多様性を持っている。その流行の変化を追い、さらにバリーエーションを取りそろえるには、かなりの労力と費用を要する。日々服を着るのも大変なのだ。あくまで想像ではあるが、その「日々」の中で「雨の日」という「非日常」に対応するのはビニール傘で十分というのが原宿の人々の本音なのではないだろうか。
一方、高級ブランドが大型旗艦店を投入し続けている銀座~丸の内の人々はどうか。そのエリアでのファッションは、ある程度のトレンドの変化はある物の、基本はオーセンティック(本物・正統・真正・本格的等の意)である。トレンドに左右されないいわゆる「一生物」が扱われている。つまり流行を追う時間の流れが違うのではないかと思われる。長期的に見れば雨の日も「日常の一つ」であり、自分好みのブランドのアイテムに傘を加えるのは当たり前のことと考える人が多いのだろう。
■原宿の「財布」と「鞄」に注目してみれば・・・
上記のような論法でいくと「原宿の人々はオーセンティック嫌い」と読み取れてしまうかもしれない。しかし、筆者は興味を持ってビニール傘の人々の後を追って購買行動を見てみた。両肩に大きな紙袋を担ぎきれないほどの服を買い込んだ人(結局はオーセンティックな服を数少なく買ったのと同じぐらいの金額だろう)がカードを取り出したのは、いわゆる高級ブランドの財布からだ。その人だけではなく、かなりの割合の人が高級ブランド財布を所持している。
また、待ち合わせ場所に戻って傘だけでなく、「鞄」にも注目してみた。すると、財布ほどではないが、比較的年齢が上の人はやはり高級ブランド鞄をビニール傘と一緒に持ち歩いていた。どういうことか?これは傘に対し、財布・鞄は「日常的に使う物」なので、一つくらいオーセンティックな高級ブランドの物を取り入れているのではないかと推察される。
■高級ブランドにおける大きな課題
話は少し変わるが、例外もあるものの多くのオーセンティックな高級ブランドが抱える問題の一つに「固定化による縮小均衡」がある。「スーパーロイヤル」や「ロイヤル顧客」「コアなファン層」を抱え、現在商売はうまくいっている。しかし、絶対数が伸びず、縮小均衡に陥ってしまうことだ。旗艦店を新規出店したときには行列ができるぐらいの来店客がある。だが、それが一巡すると店構えの割にはまばらな来店客数になる。商品単価が高いのでそれでもやっていけるが、もう一つの問題といての「コアなファン層」以下に裾野が広がっていかないことを象徴している。
新規出店時に一度だけ来て覗いて帰った人や、財布や鞄の一つを思い切って買って帰った人は二度目の来店がない。そうすると、「コアなファン層」以下の裾野が広がらず、縮小均衡に陥る。顧客の年齢層もやがて上がっていき、それに対応しようとすればブランド自身が高齢化していく。財布や鞄一つを買って帰った「Onetime buyer (一度きりの購入客)」をいかに「2 time 、3 time buyer 」として囲い込み「コアなファン層」まで引き上げていくのかが大きな課題なのである。
■ビニール傘と購入ブランド小物の組み合わせ
「ビニール傘と購入ブランド小物の組み合わせ」のような姿はブランド側から見れば好ましくないかもしれない。ブランドにとって最も望ましいのは「そのブランドに心酔して、全身くまなくそのブランドで身にまとう」いわゆる「スーパーカスタマー」であろう。しかし、そうした固定観念に縛られていては前述の「固定化と縮小均衡」からは逃れられない。日本もやがて来る階層二極化が固定すれば、そうした「スーパーカスタマー」の絶対数も増え、その層だけを相手にしていれば商売は成り立つだろう。しかし、現在はまだ二極化への移行期入り口であり、いわゆる「自称中流」は日本を支えている。とすれば、いかにそうした層を「Onetime buyer」ではなく「2 time 、3 time buyer 」に徐々にしていくかがポイントなのだ。
荒唐無稽なアイディアかもしれないが、ビニール傘の人々にまず、財布を購入させ、やがて鞄、そしてその次と続けさせる「入りやすく、買いやすい小物専門のショップ」を原宿に開いてはどうか。確かにルイヴィトンなどは原宿に隣接した表参道に巨大な店を開いた。しかし、それでは狙える層も違うであろうし、敷居も高い。
裾野を広げていくには、あえて「ビニール傘と購入ブランド小物」を是認し、小さな所からコツコツとやっていくのが解決策につながると筆者は考える。何しろ、銀座にしろ丸の内にしろ高級ブランド鞄を抱えて闊歩しているのは「自称中流(=庶民)」であり、それは日本ぐらいなのだから。もう少し敷居を下げてみるのも手ではないだろうか。
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October 18, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第8回がアップされました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111608onec6
前職が広告業であったので、人によっては私の仕事は「流行の仕掛け人」みたいに思われているようです。
いやいや、そんな大層なモノではないのです。今回のコラムを読んでいただければ、むしろ「流行に翻弄される日々」がおわかり頂けると思います。
それにしてもメディアの力はすごいと思います。しかも、盛り上げるだけ盛り上げて、”オチ”がなくても許されてしまうのですから・・・。(メディアの方、ごめんなさい)
というわけで、今回は体験的「メディアの作った流行との戦い」を書いてみました。
ご一読ください。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
先日、筆者はある新製品のプロモーション会議に出席していた。その会議の開口一番、プロダクトマネージャーは宣言した。「この商品は"ビジネスセレブ"にターゲットを絞って展開していく!」と。
■「ビジネスセレブ」はマーケティング上セグメントできない!
マーケティング上のセグメントとして「富裕層」という年収や保有資産で分類するものは確かに存在する。プライベートバンキングの顧客となり得るのもこの層であり、階層が二極化してきた日本社会においては各業界、各企業とも一斉に食指を伸ばしてきているところだ。しかし、「ビジネスセレブ」は単純に「富裕層」のことを指しているとは思えない。
そもそもの「celebrity」という言葉。辞書で引いてみると、「有名人/名士/名声/知名度」とある。この言葉が定着してきたのはここ3~4年だろうか。恐らく「有名人」や「芸能人」もしくは「high societyの人」というような意味合いで、その時々のシチュエーションに合わせて曖昧に使われてきたようだ。もはや本来の意味を離れた和製英語であると考えた方がよいだろう。
しかし、「ビジネスセレブにターゲットを絞って展開」などと宣言されると非常に困る。「セレブ(celebrity)」にも増して、最近突如出現してきた「ビジネスセレブ」は全く本質が定義されていない。それゆえにクライアントに「ビジネスセレブってどんな人を指しているのでしょう」と聞きたい衝動に駆られる。しかし、「それを考えるのがプロのあなたの仕事でしょう!」と切り返されるのは明らかだ。やぶへびになりそうなので、余計なことはやめておく。
■ターゲットとなるのは「ビジネスセレブあこがれ層」?
トヨタのレクサスブランドのターゲットは「ビジネスセレブ」だそうだ。ではトヨタの定義する「ビジネスセレブ」の条件とは何なのか。詳細に公表されてはいないので、「ビジネスセレブ」なる曖昧模糊(あいまいもこ)とした人物像を描いてみることにした。簡単に言えば、日本経済新聞紙面に登場するライブドアの堀江貴文氏、楽天の三木谷浩史氏、村上ファンドの村上世彰氏のような方々が浮かんでくる。しかし、特定人物をリスティングしたところで「セグメント」にはならない。具体的なアプローチを考えれば、個々の人物との直接的な交渉になり、一本釣りしか考えられない。
セグメントとして定義するからには、広汎にアプローチできるようなターゲット像が描き出せなければならないのだ。そう考えると、ターゲットセグメントとしての「ビジネスセレブ」は、本来の「ビジネスセレブ」な面々にあこがれる「ビジネスセレブあこがれ層」であると考えるべきだろう。同じ車種がトヨタブランドにもあるにもかかわらず、内外装の質感が高まっている対価としてかなりのプレミアムを支払う余裕がある。その価値が理解できる。そんな自己演出をする層こそレクサスブランドの狙いなのだろう。
とすれば、「ビジネスセレブ」攻略法は、だれもが知っている「ああ、この人はビジネスセレブと呼ばれるにふさわしいな」と思える人々を「イメージターゲット」として設定。そして「ビジネスセレブあこがれ層」を「リアルターゲット」と定義する。そうすることによってイメージターゲットの人々にその商品を使ってもらい、あこがれ層に「あの人が使っているなら・・・・・・」という「シャワー効果」を働かせ購買行動を起こさせるのが基本戦略となるのだ。
■「ペルソナ」という手法で解き明かす
しかし、上記戦略を実行するにしても、「ビジネスセレブ」なる人物像をもっと明確化しなくてはならない。そのために、マーケティング実務の世界で1980年代頃からよく使われるようになった「ペルソナ」という手法を用いてみたい。「ペルソナ」という手法はターゲット像をより明確にするために「ファミリー層」「シルバー層」などというひと言で括ってしまうのではなく、生き生きと鮮明かつ詳細にその姿を描き出していく作業だ。例えば「年齢は? 家族構成は? 職業は? ワークスタイルは? 収入は? 可処分所得は? 可処分時間(趣味などに自由に使える時間)は? 趣味は? 好むブランドや持ち物は? ファッションスタイルは? ライフスタイルは?」など、想定に想定を重ねて、一つの人物像を作り上げていく。元々「ペルソナ(persona)」とは「人」という意味だけではなく、「仮面」とか「登場人物」という意味を持つ。つまり、仮の人格を詳細に作り上げていくのだ。
さて、そのようにして組み上げた筆者なりの「ビジネスセレブ像」は「30代後半以上の年代で、高度のビジネススキルと豊富な人脈を身につけている。その経験・知識・スキル・人脈を活用し、仕事だけに没頭せずに高収入を得ている。可処分時間もそれなりに確保できており、自分だけの趣味や隠れ家的な店などでくつろいだりする」などといったものだろう。
■「ビジネスセレブ」ってかつて「エリート」と呼ばれていたもの?
前述のごとく「ビジネスセレブ」のペルソナの要素には、かつて「エリート」と呼ばれていた言葉と重なる部分が多い。しかし最近「エリート」という言葉はあまり使われなくなった。ストイックな孤立した雰囲気に加えて、少々古臭い印象もあり、メディア映えしないためだろう。これに対して、セレブという言葉の持つきらびやかさが好まれるのだろう。まあ、「エリート」すら本来は「elitist =秀才」であり、とっくに和製英語になっている。時代に合わせて新たに「ビジネスセレブ」という和製英語が開発されたのだと筆者は推測する。
マーケッターは、そんなメディアの生み出す新たなライフスタイルやコンセプトに振り回されてしまうことも少なくない。しかし、それをメディア側の意図も推測しながら解き明かしていくのはなかなか楽しい作業だ。さて、次はどんな言葉が飛び出してくるのやら・・・・・・。
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October 04, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第7回がアップされました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111607onec6
いやー、第2回で「社会通念の溝に阻まれて、クールビズを採用する者は”初期少数採用者(アーリーアダプター)”止まりで16%程度だろう」と大胆に予想しましたが、大外ししましたねー。
みんな涼しそうにネクタイ外してました。
「クールビズはクール(かっこいい)じゃない!」とまで言い切った私だけが暑い夏を過ごしました。
日経のデスクがカッコイイタイトルに直してくれたようですが、元々は「クールビズ顛末記」でした。
さて、冬の「ウォームビズ」はどうなりますやら。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
連載第2回にて「Cool!じゃない?クールビズ」と題し、「クールビズのスタイルはいかがなものか?」と問いかけた。反響としては意外なほど「やはり男はネクタイ!」と肯定的な意見が多かった。ジェフリー・ムーアの「キャズム(溝)理論」を引っ張り出して、「社会通念がキャズム(溝)となって、クールビズは初期少数採用者以上には普及しない」と予測したが、反響はそれを裏付けてくれるようで内心ニヤリとしたものであった。
が、しかし、予想に反してクールビズは結構な勢いで普及してしまった。「百貨店・2年ぶりの売り上げ増」とか「景気浮揚にも一役」などと各メディアにも持ち上げられ、街にはノーネクタイ族があふれてしまったのだ。「いかがなものか?」と一石を投じてしまった筆者だけが28度の室温設定の中、汗を流し続けた今年の夏であった。9月に入り残暑も一段落しつつある今日この頃、その予想が外れたわけを振り返ってみたい。
■ハイテク世界と人間の生理的欲求は違っていたか・・・
E・Mロジャースによれば、「初期少数採用者」は別名「尊敬される人々」とも呼ばれ、この層が反応し出すと、次の「前期多数採用者」というボリュームゾーンに伝播すると説いている。それに対し、ジェフリー・ムーアの「キャズム(溝)理論」はその二つの層の間にはとりわけ大きな溝があり、簡単に伝播するものではないと反論した。
ただし、ムーアの理論は特にハイテク産業の世界を中心に述べており、それを「やっぱり暑いのは嫌だ!」と思う人間の生理的欲求に対して適応しようとしたのが大きな敗因であったようだ。
■見落としていたE・Mロジャースの「イノベーション普及速度」
それだけではない、もう一つ筆者が見落としていた、「イノベーション普及速度」というものがあった。それは革新的なもの(イノベーション)が受け入れられるための条件をロジャースが説いたものであるが、その条件の数々が今回のクールビズには面白いように適合していたのだ。以下、それを検証してみよう。
(1)相対優位性…今まで使っていたものと比べ、その新しいものが、いかに優れているかが分かりやすいこと。これは人によっては「カッコ悪い」と思ったり、「ビジネスシーンではやはり人の目が気になる」という考えもあろうが、「涼しい!」という明確な優位性には勝てなかったようだ。
(2)両立性…当面は今まで使っていたものを捨てることなく、両立できること。やはり人間は誰しも今までなれていたものをスッパリと捨て去ることには抵抗感を覚える。しかし、クールビズは「ネクタイ禁止」ではないので、必要に応じてネクタイを脱着すればよいのだから問題はない。「スーツを"省エネ・ルック""省エネスーツ"に切り替えよう」とした、かつてのお仕着せ官製ファッションの失敗は活かされていたのだ。恐るべし環境省。
(3)複雑性…理解できないほどの複雑性を持っていないことと、逆に当たり前に見えすぎない程度に複雑であるというバランス。クールビズ用のシャツを新調してみたり、ネクタイを外したときの襟元の開き具合を気にしてみたりと、程度の差こそあれ、聞いてみると実践者たちはそれなりに気を遣っていたようだ。それが適度にこの複雑性をもたらしていたのではないだろうか。
(4)試行可能性…とりあえず、本格的な導入の前に自ら触って効果を認識できること。一番簡単なのはまずはネクタイを外してみるだけでいい。これほど簡単なことはない。また、一夏分のシャツをまるまるノーネクタイ用のボタンダウンなどに一気に買い替えるのではなく、とりあえず1枚を新調してみるぐらいであれば、さほど経済的な負担にもならないだろう。簡単に試行できたわけだ。
(5)観察可能性…目に見えない効果ではなく、明らかに効率が上がるもしくは質が向上するなどの効果が観察・実感できること。確かに襟元の空いている同僚の姿は涼しそうだし、やってみれば事実涼しい。観察だけではなく簡単に実感できてしまう。この条件も担保されていたのだ。
■クールビズは「前期大量採用者(アーリーマジョリティー)」止まり?
上記のように一つ一つ検証していくと、「クールビズ」の普及は必然のように感じられる。しかし、普及学におけるいわゆる「普及曲線」でいえば、「革新的採用者(イノベーター)」次の「初期少数採用者(アーリーアダプター)」、その次の「前期大量採用者(アーリーマジョリティー)」の3つの層を合わせると50%である。おそらく街中の男たちの姿を見てみると、まあ、40~50%止まりではないだろうか。つまり34%の「前期大量採用者」への伝播を見誤ったので誤差としては大きかったが、それ以降の層には拡大しないだろうと筆者は考えている。来年の現実はどうだろうか。
しかし、小池百合子環境相が8月22日に早くも打ち出されてきた秋冬・ビジネススタイルのコンセプト「ウォームビズ」の方に筆者の関心は移っている。「ワーム(worm)」と聞き間違え、さてはイモ虫のように着ぶくれさせて、「オフィスの暖房を全部切ってしまいましょう」などという乱暴な話しかと思ったが、早とちりであった。「重ね着で暖かく(warm)」ということならファッション的にもかなり幅が出るだろう。大いに賛同できるので、今度は勝ち馬に乗れそうだ。
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September 13, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第6回がアップされました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111606onec6
現在私はオーナー企業の二代目の方々とお付き合いが結構あります。
もちろん、私がお付き合いさせていただいているのは、本文記事中にあるような困った状況にある企業様ではなく、順調に二代目オーナーへの道を歩まれていますが、世の中にはなかなか「引退の決断の付かない創業者」、「自分の路線で突き進めない二代目」というご苦労をなさっているケースも数多く散見します。
実は、私がパートナーとして参画している「青学コンサルティンググループ株式会社」では、そのような企業様に対して「二代目移行プロジェクト」をコンサルティングメニューとして持っております。
マーケティング的側面、財務面、等様々な切り口からコンサルティングを展開いたしますので、お困りの際は是非お問い合わせください。
・・・と今回はかなり営業モードでお伝えしました。済みません。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
一般に言われている「2007年問題」は「2007年に団塊世代が定年退職のピークを迎える。彼らが蓄えてきたナレッジやノウハウをどうやって企業と後継者に残すのか」ということだ。これは日本のすべての産業で共通の問題となっている。しかし企業の多くが「5年間の定年延長」や「嘱託で5年間程度再雇用」など、「問題を2012年に先送り」しているのが現実だ。
時代についていけない経営者たちはどうすべきか
今回紹介する「もう一つの2007年問題」は少し趣きが異なる。「引退する」あるいは「引退したい」のは経営者自身なのだ。こうした傾向は、中小から中堅企業、特に流通系オーナー企業に顕著だ。彼らは団塊の世代よりも十数歳上。高度成長期に企業を立ち上げ、拡大路線をひた走ってきた。ふと気づくと70歳を超えている。かつては「生涯現役」と宣言していたものの、昨今の市場や生活者の消費行動の変化に行けなくなっていることに気づく。
そこで頼りにしたいのは、団塊ジュニアよりも十数歳上、40代前半~中盤の二代目である。社外で修行に励んできた人もいるし、父親である経営者の下でずっと働いていた人もいる。初代経営者としては、彼らの「若い経営感覚」に委ね、引退したいところだ。しかし、経営を禅譲する決心がなかなかつかないのだ。
思い切って古参役員もろとも退任の決断も
外で修行してきた二代目は、外の流儀を持ち込もうとする。しかし、初代は自分の「勘と経験と度胸」で企業を牽引してきた感覚とは合わないものを感じてしまう。確かに昨今の市場や生活者の消費行動の変化に対応しようとした場合、店舗デザインや品揃え、パッケージデザインなどに手を入れようと考え、初代にそう上申する。しかし、初代はどうも納得できない。
この手のオーナー企業の問題は「管理会計」にあることが少なくない。初代の経営の本質は大体「勘と経験と度胸・丼勘定」だ。丼勘定も商売が拡大期でキャッシュフローがうまく回っているときには通用する。
しかし「金融ビッグバン」の柱として、2003年3月決算期からキャッシュフロー計算書の作成開示が求められるようになった。中小~中堅企業も融資を受ける際などには必須のものとなった。
もはや、丼勘定、もしくは損益計算書だけ見て済む時代ではない。が、二代目がその知識を持ち合わせているケースは意外と少ない。
この場合、引退したいと考えている初代には気の毒であるが、外部からも新しい会計知識を持った人間を入れ補強しつつ、二代目を初代の元でしばらく修行させる必要があるだろう。
一方、ずっと父親の下で修行をしてきた二代目の場合、「勘と経験と度胸」もおぼろげながら受け継ぎつつある。しかし、初代と同じことをしても意味がない。自分なりの考えでマーケティンや会計分野にも外部の意見を取り入れながら改革に踏み切ろうとする。
問題は古参の初代の取り巻き役員たちだ。「それはおかしい」「初代はそんな判断はしなかった」など口をはさまれれば、二代目は身動きができなくなる。こんな場合、初代は腹をくくって一気に引退してしまい、取り巻き役員たちも殉死(退任)させるぐらいの決断が必要だ。
二代目の年齢も考えて引継ぎのタイミングを
初代から二代目に引き継ぐ際に重要なのは「一度会社をバラバラにして組み立て直す」という設計をしてみることだ。それは「リストラクチャリング」という意味ではないし、「BPR(Business Process Reengineering)」というプロセスレベルの問題でもない。「自社は何のために存在し、どのような顧客が自社にとって望ましい顧客(戦略的ターゲット)であり、さらにその顧客に対してどのような価値を提供するのか」という根源的な部分から定義をし直すことだ。
最初に述べたように大企業の多くの2007年問題への対応は「先送り」しているだけだ。しかし、オーナー経営者が感じている「自分の感覚と市場・消費者がズレている感覚」はほぼ間違いない。例えば5年間先送りしたら、二代目も脂の乗った時期を過ぎてしまうかもしれない。それだけに「経営者の2007年問題」こそ、先送りが許されないのだ。
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September 10, 2005
8月29日に「九州地方の方へ」というタイトルで予告いたしましたが、宣伝会議発行「アドバタイムズ」の九州版9月7日号にて「ワン・トゥ・ワンマーケティングと九州の現状」という特集企画が掲載されました。
そこで、大胆にもダイレクト戦略マーケティングラボの中澤功氏のとなりの囲みで拙稿が取り上げられました。
他にも、CRM協議会の匠英一事務局長、同協議会九州支部長の大井氏らが、これからのCRMにおける個人情報保護法への対応、などについてのコメントを寄稿いたします。
話題としては4月の同法の完全施行前後に盛り上がったもので、「今の時期になぜ?」と東京の感覚では思ってしまうかもしれませんが、恐らく通販の盛んな九州という土地柄、完全施行からはんとした経って点検の意味も含めて振返りが必要なのだろうと推察されます。事業者の方々にとっては本当に死活問題ですから・・・。
私の原稿は600字程度の短いものですが(この文字数に押し込むのが大変なんですが)、同紙届かない地域の方のために以下に転載いたします。
「個人情報保護法下のCRMは、より一層の洗練と長期的視点が必要」
個人情報保護法が完全施行され、罰則規定が設定された。法学者的な見地で言えば罰則が整備され、同法は始めて本当の法律になったのだ。しかし、その後も個人情報の流出は後を絶たず、生活者は企業にパーミッションを与えることに対して以前よりデリケートになってきている。
企業として第一に認識しなくてはならないのは、安易な個人情報の保持は大きなリスクであるということだ。販促キャンペーンを行い、「何かの役に立つだろう」と何となく個人情報を含めた詳細なアンケートを取得してしまう。論外である。
どのような目的で、どのようにして個人情報を活用していくのかというCRMとしての精緻な「ロードマップ」がまず必要だ。また、そのロードマップには、「どの段階でどの程度のコミュニケーションを行うために、どの程度の情報取得が必要なのか」が定義されている必要がある。単に情報を送るだけなら、氏名もないメールアドレスだけでいい。趣味志向に合わせたメールを送りたいなら、その情報を合わせて取得が必要になる。さらに、資料請求や購入実績のある顧客で、継続的かつ、深いコミュニケーションを行う場合は厳重な管理の下詳細な個人情報を取得する。このような段階的な設計が欠かせないのだ。
しかし、同法の完全施行は安易、もしくは混沌としていたダイレクトプロモーションやCRMを考え直し、洗練させるチャンスでもある。肯定的に捉え、再設計することをお勧めしたい。
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August 29, 2005
宣伝会議発行「アドバタイムズ」の九州版9月7日号にて「ワン・トゥ・ワンマーケティングと九州の現状」という特集企画が予定されています。
そこで、ダイレクト戦略マーケティングラボの中澤功氏、CRM協議会の匠英一事務局長、同協議会九州支部長の大井氏らと共に、(1)ダイレクトプロモーション、特にCRMの観点から取り組みの際に必要なポイント(2)個人情報保護法への対応、などについてのコメントを寄稿いたします。巨匠の方々と拙稿を連ねるのは緊張します。
600字程度の短いものですが、お目に留まったら是非お読みください。
同誌が届かない地域の方のためには、当Blogにて一定期間後、バックナンバーとして筆者分記事のみを掲出する予定です。
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August 03, 2005
NIKKEI NET BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ) 第4回がアップされました。
この連載、「なるべく幅広い切り口やテーマで書いて欲しい」と日経のデスクから依頼されているので、なかなか毎回のテーマ選びがチャレンジングなものになっています。
今回のテーマは、なんと「中高年の自殺問題」です。タイトルも元々は「生きろ!」だったのですが、ちょっと直接すぎて直されてしまいました。自殺問題をマズローとフランクルの理論で解いてみました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111604onec6
ちなみに、私の密かなこだわりは一つめの小見出し、「暗い月曜日(Gloomy Monday)」。
気づいていただけた方、いらしたでしょうか?
元ネタは「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」。1930年代に作曲され世界に大ヒットを飛ばしたものの、なぜかこの曲を聴いた人々が自殺をするということで各国で発禁処分になり、「自殺の聖歌」などとも呼ばれるようになった曲です。それと引っかけてみました。(マニアックすぎてだれも気づかない?)
1999年にドイツ・ハンガリー合作で同名の映画も制作されました。この曲の誕生にまつわる男女3人と、当時第二次大戦中のナチスドイツ将校の関わりを描いた内容ですが、これがまた秀逸なのです。DVDも買いましたし、オリジナルサウンドトラックも買って繰り返し聞いています。当然、「暗い日曜日(Gloomy Sunday)」は何度も聞いてますが、しっかり私は生きてます!是非、一度ご鑑賞を。
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
■暗い月曜日(Gloomy Monday)
月曜の朝、また通勤電車に揺られる一週間が始まるのかと思うと憂鬱な気分になる。さらに最近は、ほかの曜日よりもさらに早く家を出なくならなくてはならない。電車が頻繁に遅延するからだ。そして今朝も駅に到着するなり「人身事故のため、ただ今大幅にダイヤが乱れております」というアナウンスで、また誰かが線路に散ったのだと知る。
■「行ってらっしゃい! 気をつけてね!」
子供のころ、会社に向かう父の背中に毎朝「行ってらっしゃい! 車に気をつけてね!」と声をかけていたことを今でも覚えている。しかし、1997年を境に日本の自殺者総数は前年の2.7万人から一気に1万人も増え、3.7万人となり、現在も高水準で推移している。また、自殺死亡率(人口10万人対比)はバブル崩壊後の93年以降、現役世代の50代が40ポイントを超えている。(厚生労働省白書16年版より)。
一方の「車に気をつけてね」の対象である交通事故死者は年間1万人前後。これでは子供が父親を送り出すときに、「車に気をつけて!」ではなく、「自分で死なないでね!」と言わなくてはならない、ぞっとする光景が日常になってしまう。
前出の白書にも紹介されているが、男性自殺者と完全失業者数や負債総額の間に優位な相関関係を認める研究がある。(産業科学大「労働者の自殺に関する研究II」)。「生きがい」、「収支家計」、「家族関係」、「健康」等にストレスを感じている人の割合が、失業率が増加する以前に高まっていると自殺率が増加するようだ。(国立社会保障・人口問題研究所)
■「男は3基のエンジンで飛んでいるジェット機だ!」
それは以前の職場でバリバリ働いていた先輩の言葉で、「なるほど」と思い今でも覚えている。曰わく、3基のエンジンとは「仕事」「金」「家族」だそうだ。何かで財産を失ったとしても、家族に支えられ仕事をがんばれば取り戻せる。離婚などで家族が壊れても、金と打ち込むべき仕事があれば自分自身はやり直せる・・・・・・。などというものだ。しかし、3基のエンジンのうち2基が同時に停止してしまうと男は墜落してしまうから、そうならないように気をつけるのだと説かれた。何か、前出の人口問題研究所の 「生きがい」、「収支家計」、「家族関係」という人を支えている項目とよく似ている気がする。
■画一的価値観に支配されていないか?・・・・・・マズローの刷り込み
人は努力を重ねて「生きがい」「収入」「家族」などを段階的に手に入れていく。言い換えれば階段を登るごとく一つ一つ自己の欲求を満たしていくわけだ。
それを体系的に表したのが、アブラハム・マズロー(1908~1970)の「欲望5段階説」である。第1段、第2段の「生理的欲求」「安全欲求」は人としての最も根本的な欲求であり、「衣食足りて礼節を知る」の基本でもある。しかし、昨今のデフレ不況やそれに伴うリストラや倒産はこのレベルにまでインパクトを与えることになる。つまり、「食えない」という状況に陥るのだ。
第3段階の「親和欲求」は他者と関わり、その層(集団)と同質化して同じように振る舞うことに喜びを見いだすものだ。しかし、リストラによる会社からの強制退去や倒産などは、所属していた集団自体そのものの消滅と、収入減によるいわゆる「中流」や「中の上」と思っていた階層からの転落を意味し、「親和欲求」に大きなインパクトを与える。
第4段階の「自我欲求」は自分が集団から認められ、尊敬されることに喜びを見いだすことを意味するが、まさにこのレベルに達している人が、その集団(企業)からリストラされる、もしくは集団そのものが消失した場合など拠るべき縁がなくなり、計り知れないインパクトに襲われることになる。
だが、最後の第5段階の「自己実現欲求」だけはほかの欲求と少々意味合いを異にする。それは自分の能力を発揮し、創造や自己実現を図ることに喜びを見いだすことを意味している。もし、能力の発揮や創造・自己実現を、「会社」という枠の中だけに固執しているのならもはやどうにもできない。しかし、それを「社会」というもっと広い枠で考えることができれば、リストラや倒産などという憂き目を見ても、また別の所で自己実現を図ろうと頑張れるのではないだろうか。
■5段階説は人生の修行なのか?
問題はマズローの法則はあまりに有名であり、その理論に社会通念が大きく影響を受け、個々人にも強く刷り込まれていることだ。さらにこの5段階説は「飛び級」なし。登山のごとく、一段一段上って行かなくてはならない人生の修行なのだ。
筆者は一度それをバラバラにし、一気に5段階目の「自己実現欲求」に特に注目した価値観を今まさに考えてみることをお勧めしたい。
■「意味探求人」モデルというものも考えてみよう
一気に5段階目の「自己実現欲求」に特に注目するというのは、実はヴィクトール・E・フランクル(1905~97)の考え方があるからだ。その理論は「人間は本来的に意味探求を目指す存在なのであり、自己実現は人生の最終目的ではない。そして、人間は真・善・美、等の価値追求と"自己超越・他者愛"を目指すものである」。というものである。何やら哲学的であるが、要するにマズローが最高位に置いた「自己実現」は企業・職業を通して成される場合が多いが、「意味探求モデル」では地域社会や趣味活動を通して成される場合が多いという違いがあるというようなのだ。
「我慢してコツコツ修行して上っていかなくても、好きなことをまず考えてやればいいんだよ」と言われているようで救われる。そう。会社での地位向上や会社を大きくすることだけを考えるのではなく、そもそもの「自分にとっての生きる意味」をよく問い直してみることが重要だと問いかけられているのだろう。
■生きろ!
前述の先輩の「男は3基のエンジンで飛んでいる」という言葉も、よく考えれば多分にマズローが刷り込まれている。エンジンは1基でも動いていれば飛び続けられるかもしれない。全てが止まってしまっても、「生きる意味」を見つめ直せば、「金・仕事・家族」以外の別のエンジンが見つかって人生の飛行を続けられるかもしれない。
また、自分の希望するものに向かって一段一段階段を登る必要もない。これだけ世の中とそのルールが変わってしまっているのだ。「飛び級」でも「近道」でも何でもできることはすべきだろう。人は皆、画一的な価値観に縛られる必要はなく、人にはそれぞれの生き方があるのだから。
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July 19, 2005
以前執筆した「都心回帰かもたらすものは?(1)」の続編です。
といっても、実は1と2は続けて書いたのですが、どうしても掲載の間に「クール・ビズ」の話が書きたくなって、泣く泣く離ればなれになってしまいました。お読みになる前に(1)を振返っていただけると幸いです。
内容的にはじぶんでも「極論かな?」と思っていますが、どうも近い将来的にはここに書いたような「階層社会」が日本にもやってくる(もうやってきている?)ように思えてなりません。
どうぞご意見を頂ければ。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111603onec6
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
第1回で、企業の遊休地に次々と出現している駅近や再開発地区のマンション群が街の風景を変え、人々の行動も、企業の競争戦略も変え始めているという現状を指摘した。今回はさらに、人々の暮らしの変化を掘り下げてみたいと思う。
■駅近マンションの住人はどこからやってくるのか?
マンションが林立する。さて、そこに住む住人はどこからやってくるのか。今まで何もなかったような所に突然出現した大規模再開発の場合、元の居住エリアに関わらず、広い範囲から人々が集まってくる。まさに新しい街に新しい住人が集まってくるのだ。
しかし、駅近の小規模な工場や企業の倉庫などの跡地に虫食い状態にできたマンション群の場合、実は多くの住人はそこから1.5㎞以内に居住していたか知人・親類縁者がいる場合が8割を占める。これは数年前、長谷工コーポレーションが調査した結果である。要するに、以前から地縁・血縁のあるエリアの駅近くに利便性を求めて居を構えたというわけだ。
駅近マンションが古くからの住人を吸引する。そしてその周辺にはさらなる利便性を提供すべく、24時間の大規模スーパーやドラッグストアなどが続々と進出してくる。やはり、利便性を求めて転居してきた住人層であるが故、駅に背を向けて今まで買い物をしていた商店街や小規模地元スーパーに戻ることはない。その利便性と、豊富な品揃え、今まで見たことのないような食材の数々に一気にファンになってしまうのだ。
■買い物客は二極分化する
上記のごとく、駅近のマンション住人は新しい店に吸引されていくが、従来からの住宅地の住人がわざわざそこに出てきて買い物をすることはあまりない。距離的問題もさることながら、駅近はやはり物価が高いのだ。同じ品物を比べてみれば地元商店街との価格差は歴然である。しかし、新たな駅近マンションに転居した住人たちは、従来の商店街に戻っていくようなことはしない。価格以前に利便性と豊富な品揃え、珍しい食材・商品に魅了されているからだ。さらに、多少価格が高かったとしても、前回紹介したような「マイカーあきらめ族」や100%全室駐車場付きの物件を手にし、その駐車場を貸しに出しているような場合、可処分所得は高くなっており商品価格が大きなボトルネックにはなりにくい。かくして、同じ駅でもその駅からの距離で、商業施設も利用者も二極分化していくのだ。
■階層二極化を象徴する駅近マンション
少々話は飛ぶが、米国においてはGIS (Geographic Information System=地理情報システム)を活用したエリアマーケティングが盛んに行われている。「この地区はどの程度平均所得があり、このような人種が多く、消費性向はこのようなパターンだ。だから、こんなプロモーションを投下してみよう」といった検討を、地図上の500メートル~1キロのメッシュの中に込められた各種統計データを元に解析し、展開するのである。しかし、今まで日本においては、なかなかこれが普及しなかった。なぜなら、日本においては人種がほぼ画一であることに加え、居住地区による所得や消費性向がきれいに分かれておらず、分析しても施策が展開できるレベルまではっきりした傾向を出すことができなかったからだ。
だが、これからは前述のように駅周辺部であるか否かで 米国のようにはっきりと色分けができるようになってくるに違いない。駅近マンションが地元の街に平均的に散らばっていた高可処分所得層という、上澄みの部分だけを駅周辺に集めてしまったからだ。おそらく今後はGISでの分析結果もきれいに分布が描けるようになり、異なったプロモーション施策がエリアごとに展開されるようになってくるのだろう。
■所得格差社会到来の先駆け
日本の「総中流社会幻想」は崩壊し、「階層二極化社会」が到来すると言われて久しい。しかし、森永卓郎氏の一連の「年間所得300万円時代にいかに生きるか」を説いた書籍が多くのサラリーマンに読まれている一方、長者番付一位輝いたタワー投資顧問の清原達郎・運用部長もサラリーマンだ。また、当たり前なサラリーマン人生への出発を嫌う起業家志向の学生も年々増加している。そんな世の中の変化と共に、あちらこちらの街の風景やそこでの住人の暮らし・買い物の姿によく目を凝らしてみると、「階層二極化社会の到来」という言葉がにわかにリアリティーを持って見えてくる。
前回からの「都心回帰と変わる街の風景」という局所的な事象でここまでの結論を出してしまうのは近視眼的に過ぎるかもしれない。しかし、これも一つの事実であり、変わりつつある日本の風景の一片を覗いてみた結果なのだ。
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July 11, 2005
先週発売された同誌も、すでに店頭から姿を消しましたので、再掲させていただきます。
毎日新聞社「週刊エコノミスト」2007年問題特集
どのようにして伝承するか?
暗黙知を形式知化して伝承するには、どんな方法があるのだろうか。
ただ、「プロセス」だけでは足りない。魂の伝承も必要なようだ。果たして、できるのだろうか。
「溶接ロボットとラーメン作りで考える2007年問題の解決法」
「2007年問題」を、単なる〝労働力の減少”という見方でとらえると、その本質を見失う。問題は、団塊の世代が「形にならないノウハウやナレッジ(知見)」を抱えたまま、舞台を降りてしまうことなのだ。特に顕著なのがIT業界である。企業において長年大型汎用機などの基幹系システムを開発・保守してきたのはベテラン社員であり、若い社員はコンピュータのダウンサイジングの流れに乗って汎用機からオープン技術へとシフトしていった。さらに、汎用機を主体としていたシステムエンジニアが数多くリストラされ、人員が補充されなかったことも影響する。そして起こったのがシステム障害である。
みずほ銀行やUFJ銀行の合併時に発生した顧客口座からの二重引き落としなどに代表される問題は記憶に新しい。原因は諸説あるが、実際のところはシステムの技術面の問題よりも、過去の経緯やいきさつなどから現在に至るまでの業務の流れが把握されていなかったことにあるといわれている。つまり、各電力会社や自治体によって個々に異なる例外処理は、長年保守業務を手がけてきたベテランが関与しなければ仕様漏れが生じ、結果としてシステムに障害を来し、二重請求などの顕在化した事故へとつながるのである。
つまり、ベテランの頭の中のノウハウやナレッジを、マニュアルといった誰が見てもわかる形あるもの(形式知化という)にせず、混然と彼らの頭の中だけに存在させた(暗黙知という)ことに問題がある。
銀行トラブルは社会問題化しただけに、あたかも「2007年問題」の中心はIT業界であるがごとくいわれている。しかし、〝暗黙知が形式知化されず、ノウハウを頭の中に抱えたままベテランが引退してしまい、業務に支障
を来す"ことが「2007年問題」の本質であると考えれば、やはりこれは全産業的な問題であることがわかるだろう。
■若年層への伝承
各企業は手をこまねいているだけではなく、「2007年問題」の対処をしているという話題も、各紙誌で目にするようになった。だが、その内容を見てみると、問題を先送りしているにすぎない対策・施策がほとんどだ。
「60 歳定年を5年間延長」「定年者を好待遇の嘱託社員として再雇用」「退職者を組織化して、何かあった時の〝ホットライン"を設定」などなど。
定年延長はメーカー系に多く、嘱託としての再雇用はサービス業、ホットラインはやはり万が一の時を考えてかIT系の企業に多い。それは仮に5年間定年延長を行ったとし2007年に起こることを2012年に先送りしているにすぎない。
暗黙知としてのノウハウを抱えたまま定年を迎える人に、一時的に頼ることは必要だろう。しかし、本質的に大切なことは、5年なら5年、という限られた時間で彼らの頭の中の暗黙的ノウハウを、きちんとした形のある形式知として残し、それを若年層に伝承することである。
昔から「ノウハウは人につくもの」などといわれ、最終的には教えられるのではなく自ら体得していくしかないという通説がある。しかし、その通説と、伝承を実行する手間を厭うたことが、今日の「2007年問題」を引き起こしているのだ。
人から人への伝承の最たるものは「徒弟制度」であろう。徒弟制度における弟子入りは、自分の一生をその仕事に捧げることを意味する。また、自らの師匠に認められるまでは、決してその元を離れることはない。ある時は教えられ、ある時技を盗むことによって技術は伝承され、一人前の職人が育てられるのだ。
しかし、今日のように職業選択の自由が保障され、人材が流動化している時代に、それは成立しない。企業の終身雇用制度は崩壊し、働く側も自らの能力を評価し高いインカムを与えてくれる所へと転職することに躊躇しない。そんな時代に、人から人への伝承、つまり師匠の頭の中の暗黙的ノウハウを、弟子が体験を通じて暗黙的に会得していくことなどは全くのナンセンスである。
ポイントは、最終的に師匠から弟子に伝承するにしても、その中間段階でマニュアル化などを行い暗黙知を形式知化することなのである。
(コラム「方法論その1:溶接ロボットに学ぶ形式知化」参照)。
◆「方法論その1:溶接ロボットに学ぶ形式知化」
人に依存しなかった技術伝承の顕著な例としては、溶接ロボットに
代表されるだろう。それまで職人芸の領域にあった溶接という技術
を高いレベルで大量に水平展開し、工場の自動ラインに乗せようと
いう試みがなされ、溶接職人の技術をプログラム化し、工業ロボッ
トに組み込んだのである。
1980年にはロボットの出荷が始まったが、その開発の歴史は決し
て平坦なものではなかった。だが、その甲斐あって溶接ロボットは
「徒弟制度」における弟子以上に忠実に、かつ、耐用年数の限界を
過ぎるまで一生涯を溶接業務に捧げ、世界中の工場で今日も静かに
黙々と活躍を続けている。しかし、すべての産業の業務をロボット
に伝承できるほど現代のテクノロジーは発達していないのは明らか
だ。ここで学ぶべきは、溶接の世界においてはロボットに伝承すべ
く「プログラム化」という、職人の暗黙的なノウハウを形式知化し
たことだ。無論、すべての溶接技術がロボットに伝承されているわ
けではなく、非常に汎用的かつ反復的に行われる部分に限定されて
いるのはいうまでもないが、それでも職人のちょっとした加減など
をプログラムで再現できるようにしたのは並大抵の苦労ではなかっ
ただろう。
■ホワイトカラーの技術伝承
本人も意識していないようなプロセスを表出化させることの難しさという意味では、最も困難なのは、「ホワイトカラーの技術伝承」かもしれない。ホワイトカラーの本分は「自ら考えること」であり、頭脳の働きがサラリーという対価として支払われている。
個々人の脳神経の働きを伝承することはできない。また、考える作業は無意識下でも行われる。さらに、各企業における複雑化したワークフローも単純に伝承することを妨げる。
その課題にある手法をもって挑んだ例が米国にある。「シャドウイング」と呼ばれているその事例を紹介しよう。
主人公は米サンフランシスコ市・郡立法管理局の管理委員会書記官である女性担当者だ。米国も、日本より2年ほど遅れて「ベビーブーマー世代の大量定年退職」という問題を抱えている。
彼女の職場は役所特有の複雑な業務プロセスが渦巻いていた。サンフランシスコ市ほどの巨大組織になると、日々の業務は脈々と行われ、職員の大半は何のためにその業務が行われているのかも分からず、組織は肥大化し、業務も増え続ける。その悪循環をホワイトカラーの技術伝承というテーマとともに解決しようとしたのだ。
「シャドウイング」のシャドウの意味するところは、伝承すべき担当者に陰のように張り付く人間を指す。その実行チーム、「シャドウチーム」に参画する人間を彼女は市からでなく、外部の様々な機関から募った。なぜ、
内部の人間ではないのかは、「既存の業務が当たり前に見えない、斬新な視点が必要」だと考えたからだ。
では、シャドウイングとは具体的どのようなものなのか。基本は、シャドウが有用な暗黙知を持っていると思われる担当者に張り付き、その業務を観察して文書化することである。必要に応じて、「今行われた業務は何のためにやっているのか、ポイントは何か、どのようなイレギュラーケースがあるのか」などを業務が行われる都度、詳細に聞き出して文書化するのである。
ポイントは担当者自身は通常通り業務を行い、シャドウがすべて文書化することにある。いかに業務のプロセスを細分化し、その細分化された各々の業務について、深く聞き出していくことに正否がかかっている。聞かれた本人も無意識に行っている、あるいは慣例的に行われているだけの業務も多く、即答できない場合も多い。その時は聞き方を変え、他の業務との関連性なども考えさせ、答えを引き出していくのだ。当然、アウトプットとしての文書は、本人に無理に作成させ、行間が抜け落ちたものよりも数段詳細で洗練されたものになる。そして、それらを精査し、適正プロセスを定義しマニュアル化する(形式知化しいつでも誰でも使えるように伝承する)ことでシャドウイングは完成するのである。
(コラム「方法論その2:重要なプロセスほど無意識」参照。)
■魂の伝承
この事例は、ジャストシステムのユーザー会が主催した、「KM World & Internet’s 2004」見学ツアー(カリフォルニア州サンタクララ郡で開催)で聴講した。同行したあるメーカー企業の担当者は、「これぞ伝承の解決法」と帰国後早速、実践に移している。
ただ、日本で展開する際には、もう一つだけ要点がある。それは米国的な唯物論の見方で「プロセス」にのみ注目しては真の伝承は成し得ない、ということである。
以前、筆者は、保険会社の営業担当者のプロセス分析を行ったことがある。最上位の年収億単位のトップセールスから最下位の年収3 50万円の担当者まで十数名のセールスプロセスをすべて洗い出した。行ったことはシャドウイングのダイジェスト版のようなもの。そこでわかったのは、最上位でも最下位でも、大まかに見ると同じようなプロセスを踏襲しているということである。そして、各々の担当者は各プロセスを自分では「きちんとやっている」と思っている。
重要なのは各プロセスの意義を認識させ、どのレベルまで深く、きめ細かく行えばいいかを教育するかであり、マインド面も同時に強化することである。営業担当はホワイトカラーであるが、最終的には自ら切磋琢磨する”営業職人魂”までを身につけなくてはならないのだ。それは、営業職に限ったことではない。つまり、「2007年問題」を回避するためには、問題を先送りし、定年退職者に頼るのではダメなのだ。彼らの頭の中身を形式知化し、それを若年層にプロセスとして伝承し、かつ、暗黙的なマインドまでも教育を通じて彼らの第二のDNAとして刻み込むことまでが必要なのである。
◆「方法論その2:重要なプロセスほど無意識・ラーメン店の例」
年老いたラーメン店の店主が、常連客に店をたたむと打ち明けた。
すると常連客は脱サラし、弟子入りさせてくれるように懇願する。
熱意に負けて弟子入りを許し、修行すること3年。ようやく、師匠
の味に近づくことができた。ただ、何かが違う。調理のプロセスは
完全に師匠のそれを踏襲している。どこが間違っているのか、当の
師匠にさえもわからない。
さらに、師匠の動作をつぶさに観察していた弟子はある時、ハタと
気がついた。彼は師匠と体格が全く異なり、大柄な男だった。その
ため、料理に入れる調味料を器からおたまですくい取る時の、おた
まを差し入れる角度が違っていたのだ。
おたまの中の調味料の量は忠実に再現していたが、器に差し入れる
角度が違っていたために、おたまの裏面に付着する調味料の量に差異
が生じていたのだ。その点まで師匠と同じように再現した時、初めて
師匠の味と寸分の違いもない味が再現することができた。
昔のことなので細部の記憶は曖昧だが、職人芸の伝承と言うと、以前
ドキュメンタリー番組で見た「ラーメン店への脱サラ弟子入り」のこ
とを思い出す。溶接職人のロボットへの技術伝承と同じく、技量の高
い職人ほど重要なプロセスを本人は意識せずに行っている。その点を
いかに洗い出せるかで技術伝承の精度が異なってくる。
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July 04, 2005
「2007年問題」に関する寄稿をし、特集中3ページを割いていただきました。
私にとって2007年問題は専門領域の一つである、「ナレッジマネジメント」の重要テーマの一つです。
しかし、残念ながら世の2007年問題は「汎用機を長年お守りしてきたベテラン社員の退職後の穴をどうやって埋めるのか?」という非常に近視眼的なとらえ方だけをされています。
それはコンピュータ業界だけの問題だけではなく、全産業に渡る問題なのです。
また、「対応をしている」とする企業のほとんども「退職の5年延長」や「退職者の嘱託再雇用」といった、問題の先送りがほとんどです。それでは2005年問題が20012年問題になるだけなのです。
それを昨年の米国視察で仕入れてきた手法と、以前実施した業務の経験を生かして解こうとしたのが本文中の内容です。
駅売店でも販売していますので、510円とちょっと高いですが、是非お手にとってご覧ください。
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June 22, 2005
今まで、同サイトの「営業」カテゴリーにて「IT&マーケティングEYE」を連載していましたが、看板カテゴリーである「トレンド」に出世しました。
過去、木村剛氏なども連載されていたコーナーなので非常に光栄です。
「IT&マーケティングEYE」の時と異なり、マーケティングの理論的なものを全面に出すのではなく、世の中のトレンドを幅広く独自の視点で切り取って紹介して欲しいとの日経のデスクからの依頼でした。
確かに私はタウンウオッチング、マンウオッチングは大好きなのですが、どこまで「独自の視点」とやらで語れるのか少々心配なところではあります。
とはいえ、第1回原稿がアップされ、隔週で更新されますので是非ご覧ください。
初回と第2回は「都心回帰かもたらすものは?」と題し、最近の駅近マンションの林立や、構想巨大マンションの開発によって何が変わっていくのかを予測してみました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm?i=2005111601onec6
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
「都心回帰がもたらすものは?(1)」
■都心に人々が帰ってきた!
ここ数年前から起こっている、人々の「都心回帰現象」は何をもたらすのかを考えてみたい。かつて少しでも広く環境のよい「理想のマイホーム」を夢見、過酷な長距離通勤も厭(いと)わず郊外の住宅を競って購入した日本のビジネスマンたち。しかし、ここ数年その平均通勤時間が短くなりつつある。つまり、郊外から都心に人々の暮らしの舞台が戻ってきているのだ。ビジネスマンだけではない。エンプティー・ネスト(empty nest)と呼ばれる子供たちが独立したリタイア後の夫婦たちも帰ってきている。
彼らを引きつけるものは何か。ビジネスマンにとってはやはり通勤時間の短さが魅力であろう。リストラで人が減っても変わらぬ仕事量。心身への負担はいやが上にも増す。さわやかな郊外のマイホームで過ごす週末も魅力であろうが、日々の負担は週末まで体力を温存させてはくれない。
その彼らの受け皿となっているのが、都心のしかも駅近くに次々と建設されるマンション群や、新しい街が突然出現したような大規模都市再開発である。これらも元々はリストラによって企業が放出した資産や遊休地である。つまり、ビジネスマンにとってはリストラの影響で疲れた体を、リストラによって生まれた街や我が家で休めるという皮肉な構図が生じているのだ。
一方のリタイア層は少々事情が違う。郊外暮らしの不便さや戸建てのメンテナンスから解放され、強固なセキュリティーと都心の利便性を求め都心に戻ってくるのだ。一部でマンションは既に供給過剰ともいわれ始めているが、当分この都心回帰傾向は変わりそうにない。
■「Less is more:持たざる豊かさ」が生まれる
都心のマンション、特に駅近くの生活は便利だ。通勤だけでなく、買い物、行楽などにおいても全ての移動時間が短縮できる。ただ、一つだけ困るのは駐車場の確保だ。全戸駐車場付きを売り物にしている物件もあるが、全てがそうではない。駅近くであるが故、駐車場の賃貸相場はかなりの値段になる。
だが、駅に近い生活に慣れてくると車に乗らなくなっている自分に気づく。もちろん、手段としてではなく、「車に乗るのが趣味」というようなエンスー(車好き)は別として、電車の方が渋滞もなく便利だという事実の前には車に乗る理由が自然と消失してしまうのだ。さらに、新たに増額される駐車場代を筆頭として、車の維持にかかる年間の諸費用を冷静に計算してみるとその額に呆然とする。そして、愛車との別れに踏み切る人も少なくない。
さて、そうして車を手放して得た家計の余剰資金はどこに回るのか。堅実に貯蓄する層もいるだろう。しかし、家の近くには日本そば屋とラーメン屋と寿司屋が一軒ずつしかなかったような、いわゆる住宅地の暮らしと異なり、駅近くや再開発された新しい街に存在する飲食店は非常な魅力を放って誘ってくる。また、車を手放して浮いた家計の総額を考えれば、毎年車で渋滞と戦いながら帰省していたのを「夏のレジャー」であると称していたのから、一気に「海外旅行」までランクアップさせることも十分可能であることにも気づく。
「Less is more」という言葉をご存じだろうか。「持たざる豊かさ」とも訳されるが、これはドイツ生まれの建築家、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe、1886~1969)の言葉だ。ミースは古典的な建築様式を脱し、鉄・コンクリート・ガラスを用いた新しく合理的な様式を広めた。その言葉を知ってか知らずか、まさに今、かつては豊かさの象徴であった「マイカー」を手放し、持たざるより豊かな生活を手に入れる人々が密かに増えてきているのである。
■それは「業際競争」の様相も見せている?
かつて自動車会社は「課長になったら○○、部長になったら△△、役員になったら□□」と、顧客のライフステージの変化に合わせて商品をフルラインナップで揃え、アップグレードさせ、囲い込むと同時に収益を伸ばすことを戦略の主軸としていた。
それが今日では突然、「車を手放す」という選択肢を顧客が持ってしまったのだ。競合他社にブランドスイッチされたのであれば、車の買換えサイクルが長くなっているとはいえ、自社の顧客として再度取り返すWin-Backも可能だろう。
しかし、顧客の価値観が変わってしまったのではいかんともし難い。自動車メーカー・販売会社のライバルは同業他社だけではなく、「貯蓄」「外食」「海外旅行」とどこに敵が潜んでいるのかわからない状況だ。つまり業界の境を喪失した「業際競争」の様相を見せ始めているのである。
今までは車の性能のアピールや他社との差別性が、自動車会社が行う顧客とのコミュニケーションの中心であった。しかしこれからは、第一に「車のない生活」を選択することを阻止し、「車を使った豊かな暮らし」というライフスタイル提案なども必要になるのだろう。この傾向がさらに顕著になっていくとしたら、「呉越同舟」で自動車メーカーの連合広告でも展開することになるのだろうか。
人々の街の風景が変わり、人々が都心回帰し、その心の中までが変化していく。この「都心回帰」がもたらすものについては、次回も引き続きどんな姿が覗けるのか見てみたい。
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May 19, 2005
久々に「CRM論」に真正面から取り組んでみました。
文中にあるように、CRMの考え方や対象商品が昨今どんどん拡張してきています。
ゆえに、その概念も拡散しがちです。
なんとか、それらをうまくラップできる考え方はないものか。
また、拡散したとはいえ、成功するための最小公倍数のようなもの、
セオリーは無いものかと考えて書いてみました。
基本的には、個別に考え・悩み・試行錯誤しなくてはならないのに変わりはありませんが、、、。
http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/eigyo/media/index.cfm?i=e_idnl066
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
「CRMとは何でしょう」。・・・こんな質問をしたら、当ニューズレターの読者の皆様は「何をいまさら?!」と思われることだろう。確かに、今まで何度もCRM(Customer Relationship Management)の何たるかをお伝えしてきている。しかし、そのCRMが昨今、大きく変わり始めているのだ。今回はそんなテーマでお届けしてみたい。
■「CRMって懐かしいね」・・・って?
もう創業してから10年近く経過し、従業員も200名以上を擁するベンチャーと呼んでは失礼に当たるかもしれないSI会社の若き幹部社員と知り合う機会があり、筆者は自らをCRMスペシャリストであると名乗った。すると彼は「CRMって何だか随分と懐かしい響きですね。まだやってるんですか?」と反応した。初対面の年長者に対する礼節云々ではなく正直、驚いた。少なくとも彼の中でCRMが完全に終わっているという認識に対してだ。
確かに2000年頃の米国ITバブル期においてCRMは一種のブームになり、そこに目を付けたSIベンダーはCRMソリューションの名を冠した高額な製品を大量に投入。しかし、一向に投資に見合った成果が出ないまま米国の景気は失速。ITバブルも崩壊し、CRMはすっかりダーティー・ネームになってしまった。恐らく彼の認識におけるCRMはその時点で終わっているのだ。
■日本は第二次CRM全盛期を迎えた?
しかし、日本でもITバブルはあったものの同時にデフレ不況が進行しており、企業が設備投資を引き締めていたことが幸いし「CRMソリューションに投資して大損害をした」という事例はほとんど聞かない。そのかわり、できるところからコツコツという“カイゼン・ニッポン”らしい、全社対象ではなく社内の部門単位で、限定的な顧客に対して一種のキャンペーンマネジメントの変形のような形でCRMは各企業で実行され続けた。この時点で米国型CRMと日本型のそれは全く袂(たもと)を分かち、別の進化の道を辿り始めたのだ。
そして景気がなかなか再浮上しない理由について今日、「企業が利益を設備投資などに向けず、消費者に富が環流しないためだ」などと様々な原因が議論されているが、実態として消費者の財布の紐は堅い。そこで、既存顧客に対しいかに増販を図るかといった課題や、見込み客のコンバージョン率をいかに高めるかといった課題の下、CRMが再び脚光を浴び始めた。その証拠に昨年から今年にかけて、大手企業で“CRM部”というような、CRMの名の付いた専門セクションが数多く創設されている。
■CRMに登場してきた新たな顔ぶれ
しかし、そのCRM部を持つ企業の顔ぶれを見てみると、以前とは少々様相が異なることがわかる。以前の金融・通信・会員制サービスといった業種の企業だけではなく、トイレタリー・飲料・食品などという業種から一社だけでなく、何社も顔を出すようになってきたのだ。
いうまでもなく、CRMの目的は“顧客価値の最大化(Maximize Life Time Value)”である。しかし、ブランドスイッチも激しく低価格なトイレタリーや飲料・食品の企業はどうやって顧客を囲い込むのか。これらは従来のCRMモデルでは顧客価値を最大化させたり、あまつさえ囲い込んだりすることはできない。
顧客のライフステージに合わせてタイミングよくアップセル&クロスセルを図り、適切なアフターマーケティングで収益増大を図る。さらに、優良顧客に進化した顧客に友人・知人を紹介してもらい顧客の拡大再生産を図っていく。これが、従来の一般的なCRMモデルである。しかし新たに登場してきた業種には、そのように悠長に一顧客に対して時間や手間・マーケティングコストを投下することはできない。となると、従来と全く異なる方法論が必要になってくるのである。つまり、同じCRMの話をしていたとしても、その相手の業種や商材を考えなければ、異業種間の担当者同士、若しくはエージェンシーやコンサルタントは同床異夢の会話を繰り返すことになってしまうのだ。
■CRM = Customer Relationship "Marketing"で考え直してみる
過日、当社の創始者であり名誉会長であるレスター・ワンダーマンや、ワールドワイドの会長ダニエル・モレルが来日し講演を行った際、彼らはCRMを“Customer Relationship Marketing”と称していた。ManagementではなくMarketingである。
確かに、以前のCRMはその名の通りマネジメント領域の課題であり、マーケティングより一つ上位のレイヤーに位置づけられていた。それ故、具体的な戦術よりも企業戦略としての完璧さを求められた。しかし、テーマとして大きいだけにその正否の結果が出るには時間がかかりすぎ、仕掛けも大がかりなものにならざるを得なかったのは事実だ。
しかし、現在はインターネットの時代であり、スピードこそが命である。とすれば、CRMはマーケティングのレイヤーで顧客とのリレーションシップをとらえ直し、“いかに効果を上げるか”という観点でより戦術的に、ほかのマーケティング手法とも協力することが必要なのだ。その意味で、前述の二人の講演を締めくくり、社長の須川は「CRMは広告の一部である」と明言したのだろう。確かに新しく現れたトイレタリー・飲料・食品などはマスマーケティングとCRMを同時に展開すれば、両者がバラバラで展開するのと比べ数倍の相乗効果を上げられるはずだ。
■CRMの個別最適化を考えてみる
しかし、従来のマネジメント領域の課題としてのCRMがまったくなくなりはしていない。以前からCRMの対象業種として登場している不動産業などは、CRMと同時にブランド、CS(Customer Satisfaction = 顧客満足)を経営の課題としてテーブルに上げ、中長期的課題として取り組んでいる。
要するに、CRMはマネジメントととらえるにしても、マーケティングとしてとらえるにしても、もはや一律に語ることができないほどその概念は拡大しているのである。業種や商材、企業ごと、また解決すべき期間によってすべてアプローチは異なるのだ。
となると、もっとも重要なのはそのアプローチを間違えないことであろう。つまり、どのレイヤーでCRMをとらえているのか。そのような成果を、いつまでに出したいのか。具体的な戦術として何を適用したいのか。それらは企業ごと、若しくはそのプロジェクトを任されている担当者ごとに考えは異なる。またCRM単独で考えず、マスマーケティングと連携するなど、最適化を常に考える必要があるのだ。
さらに、そのCRMというキーワードをどう使うかも検討の余地がある。場合によっては、やっていることはCRMそのものであったとしても、企業によってはCRMというキーワードを全く社内に見せていない場合もある。ある企業は、営業担当者と顧客企業とのリレーションを再構築するというテーマにCRMを活用するというチャレンジをしているが、社内でのキーワードは「営業強化プロジェクト」である。その方が新たな物に取り組まされるというイメージがなく、営業担当をはじめ社内各所からの抵抗が少ないからだそうだ。
考えてみれば、優秀なマーケターが社内の関係各所や、いわんや顧客に向けて「この施策は○○というマーケティング理論を応用している!」と声高に言うことなどありえない。その意味からも、CRMもいよいよ期待ばかり高い、実態不明確なマジックワードではなく、実体を伴った手法に落ち着きだしたということであろう。
■次々と実行に移っている今日のCRM
その意味からすると、CRMを考えるに当たってもっとも良くないことは、その概念の議論に時間をかけることであり、成功のカギはいかに実行に移すスピードを確保できるかだといえよう。日本型CRMの特徴である、“できるところから”という姿勢を忘れずに、さらに消費者とのコミュニケーションの現場でもっとも効果を上げる手法を素早く見つけ出し、マスマーケティングも含めて効果を上げられる手法を構築・実施することだ。
極論すれば、今日のCRMは拙速を尊び、巧遅を避けるべきだといえよう。前述の通り“できるところから”初め、PDCAのサイクルを高速で何度も回して、より成果・精度を上げていくのが求められている姿なのだ。その結果、自社に最適化されたものがいわゆる世間で定義されているCRMの形と異なっていたとしても、それは全く問題ではない。繰り返しになるが、CRMの行き着く先は各企業において個別最適化されていくはずだからである。
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最近の関心事である2007年問題(団塊の世代・大量定年退職による技術伝承対策)を、再び日経Bizプラスで執筆してみました。
以前執筆したときは警鐘を鳴らしただけでしたが、今回は具体的な対応策の一つを米国にて見つけてきました。
以下、是非ご覧ください。
キーワードは「シャドゥイング」です。
これは2007年問題だけでなく、様々なシーンで活用できそうなので、今後さらに研究と実証・実践を行ってみたいと思います。
http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/eigyo/rensai/crm.cfm?i=20051214crm86e3
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
■もはや秒読みの2007年問題を企業はどう考えているのか
日経本紙も含め、各紙誌で2007年問題の特集が活発化している。
2007年問題といっても、2003年に続く大型オフィスビルの竣工で中小ビルに空室が大量発生することを今回は意味していない。都心に大型の外資ホテルが大量参入し、日本の老舗高級ホテルが危機に瀕していることを指しているわけでもない。また、少子化に伴い、大学の学生募集数が応募数を上回る"全入問題"による大学の淘汰を憂いているのでもない。
確かに上記の通り、2007年はあたかも何か歴史の結節点となろうとしているかのように、各業界にとって様々な問題をはらんでいる。しかし、全産業共通の問題は、団塊の世代の大量定年退職による伝承されないまま企業から消えてしまう技術・ノウハウをどうするのかという問題だ。
日本の高度成長を支えてきた団塊の世代で一番数が多いのが、戦後間近の昭和22年(1947年)生まれであり、その世代が60歳で定年を迎える年が2007年。あと2年である。
筆者は半年ほど前にもこのコーナーで上記団塊の世代の大量定年退職問題を初め、各業種の2007年問題とその乗り切り方のヒントを取り上げさせていただいた(第33回「2007年の"問題"と"解決(ソリューション)"。そのビジネスチャンスを考える」 参照)。
しかし、それからの半年、徐々にマスコミ各紙誌の特集は多くなり、危機感醸成に貢献していると思われるが、本格的な対策に乗り出したり、その対策の成果が出始めたりしているといった企業の報道はほとんど目にしない。余りに対応が遅いように感じられる。
恐らく送別会で送り出された方だろう、大きな花束を抱えどことなくほっとした、そして少し寂しそうな初老のサラリーマン氏の姿をホームで見かけたとき、筆者はどうしようもない焦燥感に駆られたのだ。
■2007年問題を単なる先送りにしていないか?
多くの企業では、定年延長や嘱託制度による再雇用を決めている。さらに幾つかの企業では退職後もOBとの関係を保持し、必要なときに問題の解決策を聞けるようなホットラインを設けるなどの対策を取ったようだ。しかし、それが本当の問題解決になるのだろうか。
確かに団塊世代は数多の同僚がリストラの波にさらされ、社を去った世代でもある。請われて企業に残る。退社後も企業との関係を保ち続ける。それも名誉に感じられるかもしれない。しかし、いつまでもその担当者個人に依存しているべきものなのだろうか。その人の持っている技術を若い世代に伝承していく努力と、方法論の模索を今まで怠ってきたが故の、時間切れ本人囲い込み・関係保持作戦が今日の実態なのであろう。
■いかにして"伝承"を実行していけばいいのか?
筆者は前回このコーナーで2007年問題を取り上げた一月ほど後、筆者は前回このコーナーで2007年問題を取り上げた一月ほど後、(株)ジャストシステムのユーザー会が主催した、『KM World 2004 & Intranets』見学ツアー(米国加州サンタクララ)というものに参加した。そこで"伝承"の方法論の一つの答えを見つけたのである。
米国でも日本の2007年の数年後に"ベビーブーマーの大量定年退職"という問題を抱えている。しかし、米国の定年退職者は日本と違い、いつまでも企業に囲い込まれたり関係を保持したりしない。しっかりと第二の人生をエンジョイするため、日本的先送りなどできないため切実な問題なのだ。
そこで、米国では"シャドウイング"という手法が各所で研究・実践され成果を上げ始めている。簡単に言えば、伝承するべき技術者に伝承を受けるものがシャドウのようにぴったり張り付き、一挙手一投足を見逃さず、レポーティングしていく方法だ。一見、徒弟制度の親方と弟子の関係のようにも見えるが、弟子役の人間は基本的には観察・分析能力に優れた"アナリスト"であり、弟子入りした職人見習いではない。その人間が技術者に張り付き、全体の作業の流れを記録し続けるとともに、何げない動きも見逃さず、「今の動きは何のためにやったものなのか」「それをやるのと、やらないのではどのような違いが出るのか」などの質問を繰り返すのだ。
技術者本人は既にその動作は習慣化されていて無意識に動いている。しかし、そのちょっとしたことが結果に大きく影響することもある。そのように、シャドウは全てをレポートという形で暗黙的に技術者の頭の中や体に染みついた技術を明文化し、誰が見ても判り、再現可能な形に変えていく。時に、レポートすることができない、理解できないような動きはシャドウ自身で体験し、その動きには意味があるものなのか、単なる技術者のクセで再現する必要のないものなのか見極めも行う。そして、最終的にはその作業に関する膨大なマニュアルができあがるのである。
もちろん、シャドウ役の担当者がシャドウとして張り付いているうちに、その業務が気に入り、伝承される者に本当になってしまうこともある。しかし、その場合でも、正当な伝承者が一人誕生するだけでなく、誰でも再現可能なマニュアルも同時に完成することがポイントだ。
■実はホワイトカラーの生産性向上にも威力を発揮する
上記のような書き方をすると、工場の職人の技術伝承法などにのみ適応可能なように思われるかもしれない。しかし、この手法を紹介した講演者はサンフランシスコ市・郡立法管理局・管理委員会書記官であり、彼女はこのシャドウイングの課程において形骸化した作業の洗い出しと削減を行うことによって大幅に効率化にも成功している。
現業部門の技術伝承も非常に課題ではあるが、事務部門の業務引き継ぎも実態はどのようなものか思い起こしていただければ、この手法が効果を発揮するであろうことは想像に難くないだろう。つまり、退職か異動かは別として、担当者がその職場を離れるときには本人が何らかの"引き継ぎメモ"を残していくだろう。しかし、そのメモの内容の薄いこと。「あなたはこの程度の仕事しかしていなかったのですか?」と思わず聞きたくなるくらいの物がほとんどではないだろうか。ポイントはやはり、本人に書かせるのではなく、第三者が観察し、インタビューし、漏れ・抜けなくレポートするところにある。
■根性論から科学的手法に転換を
残念ながら、このシャドウイングという手法は日本ではほとんど紹介されていない。間違えてはいけないのは前述の通り、この手法は徒弟制における親方・弟子の関係とは明らかにその目的と成果物が異なることだ。
しかし、日本のビジネス界ではともすれば、OJT(On the Job Training)の名の下に「習うより慣れろ・見て盗んで覚えろ」というような根性論的な教育が今日でもまかり通っている。そして高度成長期において根性で仕事の技術を習得してきた人々が今、会社を去ろうとしており、後に残されるのは進化のない同じ旧来の根性教育で育てられ、ちょっと根性が足りず習得しきれずに、おろおろしている私たちなのだ。
徒弟制とシャドウイング。一見親方に張り付いている弟子のような姿は似ているが、一番の違いは"根性を受け継ごう"とするのか、"根性を科学的に要素分解しよう"とするのかである。2007年まであと2年弱というこの危急の時、もう根性では間に合わない。科学的に、スピーディーに解決を図る必要があるのは間違いない。
なお、シャドウイングに関しては以下のサイトに筆者の訪米レポートが記載されているのでご参照いただきたい。
株式会社ジャストシステム Knowledge Power Web
http://www.justsystem.co.jp/km/press/20050310.html
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March 27, 2005
マーケティングの基本中の基本、4P。しかし、昨今それだけでは顧客の心はつかめません。
コラムの第一パラグラフにある「モーニングセットの悲劇」は、さらにもう一つの”P”である”プロセス”が整備されていないばかりに起きる珍奇な朝の喫茶店の光景をマーケティング的解釈で描いたもの。
同じような体験をされた方も多いのか、好評です。
http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/eigyo/rensai/crm2.cfm?i=20051214crm29e8
-----------<以下バックナンバー用転載>-----------
「CRM実行のための"4P"+"2P"」
モーニングセットの悲劇
朝、目的地に早く着きすぎて喫茶店に入った。その店にはトーストのAセット、サンドイッチのBセットいうように、AからEまで5種類の朝食セットがあった。筆者は早速サンドイッチのセットを注文する。しかし、しばらくして出てきたのはホットサンドだった。詫びる店員に、「まあいいです」と言って食したが、店内を見ていると筆者を含め30分の間に3件の受注ミスが発生していた。結局はよくあるBとDとEの聞き違いなのだが、問題点は少し複合的だ。
写真付きのメニューを見て「Bセット」を注文する客に対し、「Dセットですね」と店員が復唱する。客は写真を見たまま、「B」と復唱されたと疑わない。まず、第一になぜAからEまでの記号をメニューの名前にして客に注文させるのか。「サンドイッチセット」いう名前にし、そのまま言わせれば間違いもない。もしくは復唱する時に「Bのサンドイッチセットですね」と言うか、もしくは「こちらのBセットですね」とメニューの写真を指し示すかしなければ、復唱の意味がない。
となると、問題は2つに集約される。第1に商品のネーミング。第2にミスの発生しない復唱の仕方をマニュアル化し、店員に教育していない点だ。さらにこの2つの問題は一つの根本原因にたどり着く。それは、正しい業務プロセスの設計がなされていないことである。商品は、注文を取るという顧客との接点における業務プロセスにおいて、ミスを誘発するようなネーミングであってはならない。また、本来ミスを防ぐためのプロセスである復唱が、形骸化したオウム返しになっているのでは、本来必要なミスを防ぐというプロセスが抜け落ちた状態になってしまっているのだ。
4Pとあと2つのP=Process & Person
実は、その店の朝食セットは非常に美味であった。また、価格は昨今のデフレを反映してか、非常に安かった。また店舗自体が表通りに面していて、さらに店頭に目をひく朝食セットのポスターがあり、思わず店に入ってしまうようになっている。つまり、良い商品を適切な価格で良好な場所で気の利いた販促まで実施して販売しているのだ。商売としてはきわめて優秀な状態だといえよう。マーケティングでいうところの、4P(Products Price Place Promotion)を全てカバーしていることになるからだ。
この店のように4Pが最適化されていれば、新規顧客を獲得するとは可能だ。しかし、4Pが最適化されていても、もう一つの重要なP=Processが整備されていなければ、一旦は顧客となっても良好な経験(Experience)が得られずに離反する。事実、筆者はもうあの店に行こうとは思わない。間違ったメニューを持ってきた店員との、何とも気まずいやり取りを思い出してしまうからだ。顧客を長期的に囲い込み、顧客価値を高めていこうとするならば、従来の4Pにさらに1つ加えた5つ目のPが欠かせないのだ。
CRMを展開するときには、どのような顧客に、いつ、どのようなアプローチを行うか。また、どのような顧客がコンタクトをしてきたら、どのような対応を行うかということをプログラム化するだろう。それがまさしく"プロセス設計"だ。
では、最適なプロセスを設計したらそれを実行するのは誰であろうか。人=Personである。いくら最適なプロセスが作れても、それが実行できなければ、絵に描いた餅だ。5つ目のP、つまりプロセスは、6つ目のPである個々の担当者(Person)が顧客接点で確実に実行することで完結する。
乱暴な言い方をすれば、マーケティングの基礎理論である4Pは、モノに重点を置き過ぎているといえよう。それは、商品を中心として、価格、販路、販促を最適化しようとする考え方だ。CRMは顧客側からの視点を重要視する。そして顧客接点でのコミュニケーションを最適化しようと考える。とすると、モノをどのような人が、どのような手順で売るのかという、あと2つのPが必然的に必要になってくるのである。特に昨今顧客はモノと共に与えられる経験(Experience)までを商品の価値と捉え、商品やブランド選択を行うようになってきた。とすれば、従来の4Pは6Pを基本として考えられるべき時代になっていると、認識を改める必要があるのだろう。
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