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2007.12.03

コミュニケーションという幻想

「コミュニケーション」が変容している。過去にも人々のcommon senseの移ろいや、コミュニケーション不全について述べてきたが、もはやコミュニケーションという言葉そのものを考え直さねばならない時がきているのだ。


現代の家族関係を考えるときに「家族のコミュニケーションが減っている」は、問題点の定番として頻出するキーワードだ。教育問題では「学校と家庭、教師と生徒、生徒間のコミュニケーションのありよう」が取り上げられる。
ビジネスの世界では「上司と部下、社内全般のコミュニケーション」がなかなか取りづらいということが問題視される。
では、そもそもコミュニケーションとは何なのか。
広辞苑(第5版)をひもといてみる。「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達」とある。
とすれば、コミュニケーションの本質は「伝達」であると解釈できる。
では、「伝達」とは何か。「命令・連絡事項などを伝えること。つぎつぎに伝え届けること」とある。
この時点でおや?と思う。

様々なシーンで指摘されているコミュニケーションの問題点は、端的に言えば、「伝わらないこと」である。
コミュニケーションの本質である「伝達」をしても、伝えても伝えても伝わらない。それが今日のコミュニケーションの問題点なのである。
だとすれば、コミュニケーションの本質を「伝達すること」ととらえることが間違いなのではないだろうか。

「伝えようとすれば伝わる」と考えることは、島国の単一民族が育んできた極めて日本的な発想であるといえる。言葉を発せずして意思伝達をする。当たり前なこととして言葉を発生ない「言わずもがな」の発想だ。「阿吽の呼吸」という言葉などもこの思想が現れている。
しかし、もはやそれは「幻想」に過ぎないのだ。


「伝わるはずが伝わらない」ことから、昨今の様々な対人トラブルが起きている。
些細なことから傷害事件に発生するような数々の事案もその表出化である。
また、若者から始まりすっかり広まった「KY」、「空気読め(ない)」も翻って考えれば、相手に対し、自らの意志を推察せよと強制する、理解できない者を指弾するという行為を正当化することによって、伝わらないことを自らに起因させない思考停止の表れでもある。


コミュニケーションは、ラテン語の「共有」もしくは「共有物」に語源があるという説があることは過去にも紹介した。
ミドルマネージャーの研修で、「部下とのコミュニケーションが重要」との発言に、その意味を聞くと「意識共有」であると回答されることがある。正解だ。今日的なミス・コミュニケーションは、一方的な伝達だけして、全く意思疎通ができないという姿に現れる。伝達しただけではダメなのだ。
「共有すること」。
例えば、「部下とのコミュニケーション」といった場合は、話をしただけでは無駄なのだ。
「ミーティングを頻繁にする」との応えをよく聞く。それもいいだろう。しかし、ミーティングの結果、何らかのメモや議事録、または本人との明確な約束(commitment)をすることが重要なのだ。それは企業内だけでなく、学校でも家庭でも同じだ。


人と人とのコミュニケーションにおいて、何も四角四面でcommitmentを確定させることは「息が詰まる」という論もあろうし、現実的に「ではこういうことですね!」と会話の最後に確認をするのがふさわしくないシーンもあろう。
初対面や行きずりの人とはましてそうだろう。
しかし、「伝わる前提」のコミュニケーションは幻想に過ぎず、何らか、共有物を残すという意識を持つことは重要だろう。
日本古来の人と人の関わり方を否定するつもりはない。しかし、それが破綻しかけていることも事実なのだ。

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Comments

無線のように一方的な通信でなく、双方向通信は大切ですね。
 
制御装置であっても、オープン・ループ系よりはフィードバック系の方が当然ですが、
信頼性は向上します。人間には、自然にそれらの機能が備わっています。目、耳、鼻
というセンサーがあるんですから、使わない手はありません。
 
日本古来の「阿吽の呼吸」も、このセンサーを使って、限度と言う手段を使わなくても、
年輩者や地位の高い人に従う儒教的な考え方があっただけで、今や、それが崩れて
自由さを強調している世の中に至っては協調性がなく「阿吽の呼吸」等は有用では
ないのではないでしょうか。KYに関しても民主主義的な要素があるにせよ、主観が
入った考え方で、いじめの一種でもあります。
真に自由社会を目指すと言うのであれば、KYなんて、無用の長物だからです。
 
結局、上司と部下のコミュニケーションも信頼できる人だと思わせる部分を作る部分
は親子を含む家族と同じではないでしょうか。それが、最近は、仕事が忙しいのも
原因と言う部分もありますが、家庭を持たず、他人に差を付けるために遊ばず働いて、
その結果として、評価主義によって社内で評価され出世して地位が高くなって行く。
そうなったときには、お金を目的に女が寄ってくるようになり、結婚ができない。
そして、家族が持てない。
 
そんな人が、会社で管理職になる悲劇は自ずと見えてきます。
何で、こんな時間に帰宅するんだと部下を叱責し、心が離れて行く。
その上司には理解ができません。実体験がないからです。
 
若い上司や独身のエリートに陥りがちな罠ではないでしょうか。
上司は人生の先輩でもある必要があり、そのとき初めて上司になる土俵に乗れる
のではないでしょうか。
もっともポストが埋まるだけの該当者が会社に存在しないことも多いようです。
従って、運良く昇進する人も星の数ほどいることを忘れてはなりません。
 
しかし、この条件が備わってこそ、その先に、有能とか無能とか、コミュニケーションが
優秀な人材が存在するような気がします。
最近の世の中は実績主義に走るばかりに、この大切な部分に欠けることから、
社内のコミュニケーションが軽視され、欠如し、上司が信頼できなくなり、離職者が
増加傾向にあるように思えてならず残念でなりません。
 
まず、普通の生活があって、その上で、生活資金を稼ぐ目的が、背後に存在する
ことを忘れている気がしてなりません。その先に、働きがいとか使命感とか上司の
資質等があるのではないでしょうか。

Posted by: たぁ坊 | 2007.12.03 10:59 AM

前述のコメントの5行目にある「限度」は「言語」に読み替えて下さい。誤記でした。スミマセン。

Posted by: たぁ坊 | 2007.12.03 11:03 AM

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