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22 posts from November 2007

2007.11.30

専門誌連載しています:“現場に効く”マーケティングの基本理論・第1回

実は先々月からインタラクティブマーケティングの専門誌「月刊im press(アイ・エム・プレス)」で連載をしています。現在第2回の掲載号まで発売されています。

http://www.im-press.jp/

この雑誌はコンタクトセンターやCRM(カスタマーリレーションシップ・マネジメント)、ダイレクトマーケティングといった、マーケティングの中でもとりわけ金森の専門。20年近くやってきた領域です。

今までも何度か特集記事や短期連載には寄稿してきましたが、今回は1年間の予定。
さらに内容もマーケティング論の基本ど真ん中をもう一度見直そうというもの。

独立してから、現場と講師業の両方を行ってきた経験から、「現場でこそ見直してほしい基本」を書いていくことにしました。

雑誌発行から1ヶ月以降に当Blogでバックナンバーを掲載することにしました。

ビジネススクールや大学での講義、企業研修では何度も述べていることではありますが、
お聞きいただいた方ももう一度整理のためにもご一読いただければ幸いです。

第1回は以下をご覧ください。

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「“現場に効く”マーケティングの基本理論」


あまりに“基本”と思われ忘れられているようなマーケティング理論。しかし、日々の業務が行われる“現場”で今一度振り返ってみれば、思わぬ“再発見”があるのだ。


第1回「マーケティングってそもそもなんだ?」


筆者はマーケティングのコンサルタントとしてクライアントの問題解決をサポートしつつ、大学、ビジネススクールや企業研修で講師としてマーケティングを教えている。いわば、実践と理論の間を行ったり来たりしているわけだ。その中で思うのは、「実践と理論がうまく結びつけられていないな」ということだ。コトラーやポーターの理論は現場では「机上論」として扱われることが多いが、本当は実践の場で見直せば有用なのだ。そんな気付きを読者に提供したいと当連載を思いたった次第である。1年間よろしくお付合い願いたい。


■そもそもマーケティングとは?

「マーケティングとはなんですか?」こんな素朴な問いを投げかけられたら、実務者としてはどのように答えるべきだろうか。筆者の前職、広告業界なら広告や広報、プロモーションといったコミュニケーション戦略を中心に語ることになるかもしれない。メーカーのブランドマネージャーであれば、自身の担当商品に関する製品、価格、流通、コミュニケーションという、いわゆるマーケティングの4Pについて説明するかもしれない。しかし、それではマーケティング本来の意味を説明したことにはならない。「マーケティングとは?」を一言で表わすのは意外と難しいのだ。


コトラーの定義からキーワードを読み解く

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マーケティングの大家、フリップ・コトラーの定義を見てみよう。「製品と価値を生み出して他者と交換することによって、個人や団体が必要なものや欲しいものを手に入れるために利用する社会上・経営上のプロセスである」とある。少々難解だが、キーワードは「製品」「価値」「交換」「プロセス」という言葉である。
売り手と買い手は何を「交換」しているのか。(図1参照)普通に考えれば「製品(モノ・サービス)」を提供し、対価と「交換」していると考えられる。しかし、もう一歩踏み込んで考えてみて欲しい。
例えば、ペットボトル入りのミネラルウォーター。価格は130円ぐらいか。購入者は130円という対価を何に対して支払っているのか。中身の水は、湧出地毎に硬度や含有するミネラルが異なり微妙に「味」が異なる。水道水より「安心」という比較優位性もあるだろう。さらに突き詰めれば「喉の渇きをいやせる」という「効用」が130円という対価に値しているから購入されているということがわかる。つまり、「買い手」は「喉の渇き」がいやせ、「味」「安心」という「価値」を認めて130円を払っているのである。単なるモノやサービスと対価の「交換」ではない。買い手は「ペット容器に入った水」に「効用」「味」「安心」といった「価値」を見出しているから対価を払うのだ。
このことから“マーケティングとは「価値」の「交換」である”ということができるだろう。売り手は自分たちの製品が買い手から対価を払ってもらうために、どんな「価値」を提供しているのかを今一度考え直してみることが必要だ。もし「思ったように売れない」という状況なら、買い手に提供すべき「価値」が満たされていないのかもしれない。また、うまく売れているのなら、どんな「価値」が支持されているのか再認識すべきであろう。そうすれば売れ続けることができる。


■「売れ続けるしくみづくり」という言葉

「マーケティングとは?」に答える言葉として提唱者が誰かはわからないが、「売れ続けるしくみづくり」という表現が用いられることも多い。シンプルでわかりやすい言葉だ。ここは「売れる」ではなく「売れ続ける」という差異と、「しくみづくり」という部分に注目したい。
例えば、大きな契約が取れた営業担当者が「ラッキーでした」と言うことがある。謙虚なのかもしれないが、本当にラッキーだった場合や、その人だけにしかできない特殊なスキルによる結果だとしたら困ってしまう。企業は永続性が求められる。誰でも、何度でも「続ける」ことができる、再現性と継続性が必要なのだ。故に「しくみ」にしなくてはならない。この「しくみ」とは、前述のコトラーの定義では「プロセス」という言葉で表わされている。


■マーケティングのキモは「ニーズ」の深掘り

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マーケティングの要諦は「ニーズの深掘り」である。「ニーズ」という言葉も今日では何気なく遣われるようになっているが、本来の意味をもう一度考えてみよう。(図2参照)
マーケティングの有名な言い回しがある。「顧客はドリルが欲しいのではない、穴が空けたいのだ」という言葉である。顧客は何か実現したい理想の状態を求めている。それが「ニーズ」だ。そして、実現できていない現状を解決する「対象物」として求められるのが「ウォンツ」。この関係がしばしば混同される。前述の「価値」というキーワードとも関連する。顧客は単なるモノとしての「ドリル」に対価を払うのではない。「穴を空けられる」という「価値」に対して対価を払っているのだ。自分が提供しているモノの価値は何か。何度でも繰り返し自問すべきことがここからもわかる。
さて、「穴が空けたい」というニーズ。さらに深掘りしなくてはならない。「なぜ、どんな穴を空けたいのか?」。例えば「日曜大工でボルトを入れる穴を空けたい」だとすれば、「電動ドリル」が最適だろう。「子供の工作を手伝うため釘の下穴を空けたい」なら、電動ドリルではなく「錐(キリ)」がちょうどよいはずだ。このように深掘りすれば顧客が本来求めているものがわかり、適切に提供できる。「ハコ売り」ではなく「ソリューション(=問題解決)」とITの世界で言われるようになって久しい。単なるモノではなく、顧客が本来必要としている価値を提供するということと同じだ。

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2007.11.29

ちょっとした「しぐさ」

ちょっとしたしぐさ。ふとしたしぐさで人に与える印象はずいぶんと異なる。そしてそこには、人の意外な人間性が表れると考えられないだろうか。


家路を辿る道すがら、今日は時間が早いので開いている書店に立ち寄る。
特に収穫はなく店を出ようとすると、とび職風の若者と出口でかち合う。
携帯に電話がかかってきてしまい、店外に出るところらしい。
何という髪型なのか、刈り込まれた髪にさらに細く剃り込みを幾筋も入れている。無精髭。ちょっと見た目こわそう。
一歩譲ると扉を開け、続く筆者のために扉を支え軽く会釈をして先を譲ってくれた。
思わず「ありがとう」というと、電話を耳に当てたまま、ニコリと微笑んできた。


次にドラッグストアに立ち寄り「のどスプレー」を購入。
レジで会計をした際、単品なので「そのままで結構です」とレジ袋を断ると、アルバイトと覚しきレジ係が右手にPOSレジのスキャナーを握りしめたまま、ズズッと品物をレジカウンターに押しつけ突き出した。


続いてコンビニ。
入り口を入ろうとすると、背後に人の気配。すぐ後ろに若い女性が続いているのに気づいた。
扉を引いて開け、女性に先を譲る。女性は無言で扉を支えている筆者の前を通過する。

晩酌のビールを一缶レジに持って行く。
レジ係のアルバイトと覚しき店員は、「ありがとうございます」と、缶ビールを両手で差し出した。


店ドアを通過する際のしぐさ。商品を手渡す際のしぐさ。
どちらも、ほんのちょっとしたことだ。だが、印象が大きく異なる。
人のしぐさをとやかく言うつもりはないが、「人のふり見て我がふり直せ」だ。


袖触れ合った他人と再び接することはないかもしれない。
しかし、人と人の関係が殺伐としがちな今日この頃。
少しでもお互いの印象を気遣う心のゆとりを持つことができれば、世の中少しずつ変わるかもしれないのにと思った次第である。

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2007.11.28

本当に子供たちの「ゆとり」を奪ったのは「ゆとり」なのか?

日経新聞11月26日夕刊に博報堂生活総合研究所の調査結果が紹介されていた。
<ゆとり世代、ゆとりなく? 「睡眠増やしたい」トップ 「時間ない」4割超す>
何とも切実な子供たちの姿が浮かび上がってくる。しかし、いつもの「ゆとり教育」の指弾という一元的なものの見方でよいのだろうか。子供たちを本当に追い込んでいるのは何なのか。

調査は博報堂生活総研が実施した「子供の生活10年変化・アフターバブル・キッズ徹底調査」。1992年~97年生まれの子供たちと前の10年生まれ(82年~87年)を対象に、1997年と2007年で日本の子供の意識と行動がいかに変化したかをアンケートで浮き彫りにしたものである。
日経の記事は概要紹介であり、細かい数値もわからないので以下の生活総研のWebサイトからリリースのPDFデータをダウンロードしてみた。
http://www.seikatsusoken.jp/pdf/release/20071031.pdf

リリースでも新聞の発表と同じく「増やしたい時間」の回答が「睡眠」が約65%ということが一番のトピックとされている。それは10年前の「友達と過ごす時間」とトップが逆転したという、何とも哀れをさそう結果である。

しかし、新聞で報じられていない詳細をよく見てみると、「睡眠増やしたい」は10年前と今日では61.7%→64.9%(+3.2%)、「友達と過ごす」63.5%→61.9%(-1.6%)とひどく大きな数字ではないこともわかる。

一方、新聞では棒グラフのイメージだけで詳細な数値が明記されていない、「増やしたい時間」における増減幅の大きい項目をリリースから拾ってみると別の姿も見えてくる。
テレビゲームをする-10.1%、テレビを見る-9.7%、ぼんやりする+9.2%、勉強をする+7.2%。
この数字は、テレビもゲームもあきらめて勉強しなくてはならないと、子供自身が考えている一方、せめてぼんやりする時間がほしいと願っている姿を現しているのではないか。

次の「自分がほしいもの」の質問は、トップは「お金」が59.6%→54.8%(-4.8%)であったが、増減幅の大きかった項目がまた特徴的だ。ツキ・運-7.2%、いい成績+9.1%、時間+9.4%、自由+6.4%。ツキや運に頼るのではなく、いい成績を取らねばならないと自覚をしつつ、欲しいのは時間と自由。これまた切実な回答だ。

新聞では<時間的ゆとりがないとする回答が11%増加>とだけ報じられたが、次の項目も気になる。塾に通っている+3.1%、塾に行かないと不安だ+6.6%、本当は塾に行かないでもっと遊んでいたい-7.6%、放課後や休日に友達の家によく遊びに行く-14%。明確に断ずるのははばかられるが、この結果ではどうも子供たちの時間が費やされているのは塾通いであるのは明らかであろう。さらに注目すべきは、本人たちもその必要性は認めているということになるだろう。

調査は以下、子供たちの友人関係や趣味嗜好などの変化を述べているが、ゆとりがどう変化したかという部分はここまでだ。ここまでの結果を少し考えてみたい。子供たちのゆとりはどう変化したのか。

調査結果が絶対時間で示されていないので、どれぐらい実際の時間的増減があったのかではなく、あくまで子供たちの申告と意識面での変化と言うことになる。しかし、「ゆとりがなくなっている」のは明らかで、さらに主たる原因は勉強と塾通いだといえる。
しかし、子供たちはそれを厭うわけではなく、必要なこと、むしろなければ不安になるものと受け入れている。だが、10年で遊びやぼんやりするといった、純粋なゆとりの時間は確実に失われている。

上記から「子供たちの焦りとあきらめ」というキーワードが思い浮かんだ。
10年間での塾通いは3%強しか増加していないが、そこに費やされている絶対時間はどれほど増えているのだろう。
また、時間以上に、「どうしても通わなければ」という強迫観念にも似た感情の高まりがあるのではないだろうか。勉強時間全体にしてもそうだろう。


しかし、考えを進めると、子供たちの強迫観念にも似た思いはどこから発しているのかという疑問が浮かぶ。

「論理思考」を説く者としては「論理の飛躍」は避けねばならない。しかし、この調査結果に加え、偏差値世代が自らの子供に対してどのような教育を志向し施しているのかを思い起こすと忸怩たる結論に達するざるを得ない。

ゆとりがないのは親ではないだろうか。
焦燥に駆られ、子供のゆとりを奪っているのは親ではないだろうか。

教育政策の是か非かはともかく、筆者が一番気になるのは全体の中では大きな比率ではない「増やしたい時間」のうちの「ぼんやりする+9.2%」だ。
「ぼんやりする時間」こそ、「ゆとり」ではないだろうか。
「ぼんやりする時間」は、自らの学習内容を振り返り定着する時間でもあり、さらに教科書の学習を離れて己の思索を深める時間ではないのだろうか。


調査結果は、従来の説通りゆとり教育を指弾する要因となるかもしれない。しかし、その政策失敗による親の驚惶による被害は確実に子供たちの時間感覚までも変容させてしまっているということだ。
ゆとり教育の見直し論議は今後確実に深まり、是正策が講じられることだろう。
だが、親たちが今と同じ認識でさらに子供たちの時間に学習を詰め込めば、もはや息をする隙間もなくなってしまうことだろう。
ゆとり教育の見直しと、認識の変革を迫られているのは親であることを忘れないようにしたいと思った次第である。

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2007.11.27

移ろうCommon Senseその2:人々の許容性は低下していないか?

スターバックスが日本に初上陸したのは1996年。今でも営業している銀座・松屋裏の二階建て店舗からスタートした。スターバックスの店内といえばどんな風景を思い出すだろうか。コーヒーの香りを損なわないために全席禁煙。オシャレなBGMと少しゆとりのある店内空間・・・。


筆者は原稿を書くときに気分転換のため、事務所を出てカフェを利用することも多い。
値段が高い割には店員が水を頻繁に持ってくるので落ち着かない旧来型の喫茶店。たばこ臭くて狭くて落ち着かないドトールなどの低価格カフェ。それに比べれば、スターバックスに代表される「シアトル系」といわれるカフェは落ち着く。タリーズ、ブレンズもいい。だが、やはり並んでいるとスタバを選んでしまうのはブランドが刷り込まれているからだろうか。

今では少々手狭な点も多くなってしまったが、スターバックスといえば、コーヒーの味わいだけでなく、ゆったりとした店内空間も商品のうちだ。そこではおしゃべりをする人以上に、読書や勉強、仕事というような個々人の時間を過ごしている人々が多いことも特徴だ。その風景はこの10年あまりで完全に定着したといっていいだろう。
と、思っていたらそうでもない場合もあるようだ。

「ここ空くのかい?」原稿が一区切りしてそろそろ退席しようかと、マグカップのさめた最後のコーヒーを口に含んだ時声をかけられた。
60代半ばとおぼしきの白髪の男。ベージュのブルゾンにウールのパンツ。手にはセカンドバック。あまりおしゃれな感じはしないが、カジュアルさ加減はリタイヤ組か。
「あ、はい。」ちょうど席を立とうと思っていたところなので、返事をして片付けを始める。パソコンをシャットダウンしながら、資料をまとめ、アタッシュケースにしまおうと知る。
ふと男を見ると、目が合ったのを合図にするように「早くしてくれないか。こっちは時間がないんだ」と言う。
せっかちなやつだなと思い、資料をしまうも、パソコンをスリープではなくシャットダウンにしてしまったので少し時間がかかってしまう。
すると男は追い打ちをかけてくる。「何をパソコンなんかやっているんだ。ここはコーヒーを飲むところだろう。人の迷惑を考えろ!」。
ちょうどパソコンの電源が落ちたことだし、無用なトラブルを避けたいので黙って席を立ったが、どうにも間尺に合わない気持ちで一杯になった。


ふと考えると前回のトラブル、新幹線で弁当を広げた際に、「食べ物のにおいをさせるな」と言われたことと通底する部分を感じた。
今回のスターバックス。男は「スターバックス(喫茶店)はコーヒーを飲むところであり、パソコンをするところではない」という主張だ。前回の新幹線のビジネスマンは「新幹線は食事をするところではない」という主張。
しかし、周りを見回せばスタバでパソコンを開いている人間は他にもたくさんいる。新幹線車中でも駅弁を開いている人は数多い。
本来的には喫茶店は「コーヒーを飲む空間」、列車は「移動のための空間」である。しかし、原理原則だけではなく、世の人々は時と場合に応じてcommon senseを形成し、お互いに許容しあって暮らしているのが現実だろう。それは新幹線のビジネスマンも、スタバの初老の男にもわかるのではないだろうか。だとすれば、「俺の周りではやるな」ということか。

自分の周りを絶対空間として、自分のルールを押しつける。スタバでも、新幹線でも筆者はあえて反論しなかったが、言われた方もまた、絶対空間を持って抵抗すれば確実に衝突、トラブルになるだろう。
最近、世の中には些細なことで発生するトラブルが多い。ひどい場合は傷害にまで発展している。なにやらcommon senseの崩壊と、許容性のない絶対空間を持った人々の増加を表しているように感じる。まして、昨今流行のKY、「空気読め」はどうだろうか。周りの空気やその場で求められるcommon senseに適合できなかったとしたら、それは本人の問題もあるだろうか、許容性が極度に低く、自分の絶対空間を主張する人間にKYを振りかざされたのではたまらない。

今回の原稿はどうにもオチが付けられないが、人々、もしくは人々全体でないにしても、許容性が低下しているのは確かな気がする。その解決策は思いつかないが、少なくともそうした人々が増加しているとしたら、より無用なトラブルを避ける自己防衛をするしかないのが悲しい現実なのだろう。


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2007.11.26

グルメブーム再燃に便乗?:個人的名古屋美食体験記

ミシュラン騒動でにわかに再び巻き起こったグルメブームに便乗するわけではないが、今回は食の話題をお届けしたい。

筆者が名古屋駅に降ったのは、昼食にはまだ少々早い時間。はやる心が自然と歩を早め、10分強で到着したのは広小路通りにある「うな膳」。過日、名古屋のタウン誌の記事で絶品の「ひつまぶし」として紹介されており、先々週初体験。病み付きになり今回二度目の訪問だ。

ひつまぶしは全国的にも知られた名古屋の名物であるが、鰻の焼き方は関西風が多い中で、うな膳は創業以来50年頑なに江戸風を守っているという。背開きにした鰻を白焼きした後、強火で蒸し上げ薄口タレを付けて焼き上げる。すると、ほどよく余分な脂が落ち、身はふっくらとして、かつ風味高く仕上ががる。


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さて、暫し席で待った後に運ばれてきたおひつの蓋を開ける。迫力の蒲焼きがはみ出さんばかりの雄姿を横たえている。ひつまぶしは蒲焼きの身が刻まれた状態で供される店もあるが、鰻好きにはそれはどうにも興醒めだ。
注文したのは「柔らかひつまぶし・特」。蒲焼きがおひつの中にたっぷり鰻二匹分。ご飯の中にも敷き込まれている。今日の食の流行で言えば「メガ・ひつまぶし」となるのだろうか。すさまじい迫力である。

ここでの正しい食し方はテーブルの上に示されている。せっかくなので、その教えに従い食そうと思うがいきなり気が変わる。お約束では、まず、蒲焼きをおひつの中にてしゃもじで崩して混ぜ合わせるとある。しゃもじで崩せるぐらいの柔らかさが特徴であるという。しかし、こんな立派な蒲焼きの姿をいきなりバラバラにしてしまうのはもったいない。まずはしゃもじで少し切り分け茶碗によそい、鰻丼のようにして食べる準備をする。

一箸、口に運ぶ。  ・・・旨い・・。
舌の上で転がすように軽く咀嚼すると、柔らかなその身は淡雪のように口中に広がる。
「幸せ」という文字が脳裏にぱっと広がる。

食するということは、かくもストレートに幸せを実感できるものかと改めて認識する。
・・・いや、嘘を記した。それは全て食事が終わった後から思い起こした感想だ。
一口目で「幸せ」いう文字が浮かんでから後は夢中で貪るように食べてしまった。

しかし、店お勧めの食し方はやはり道理があるようだ。そのまま鰻丼風に茶碗二膳食べると、鰻の濃厚な味わいが口中を支配する。そこで、三杯目からはお勧めにあるように鰻をおひつで刻んでまぶし、茶碗に薬味を投入する。小口ネギ、刻み海苔、わさび。
すると、鰻の味が圧し消されるのではなく、薬味の爽やかな風味と相まって、より際だつのがわかる。同様に更にもう一杯。

残念ながら、おひつの中が少なくなってきた。最後の二杯分は、更にお勧めに従い、薬味に加えて出汁をかけ、「うな茶漬け」として食する。既にかなりの量を食べているにもかかわらず、一層清々しい味わいとなり、さらさらと舌と喉を楽しませ胃袋に流れ込んでいく。

完食。あっという間に食べ終わってしまった。
名残惜しく、肝吸と漬け物の残りを口に運び、お茶をおかわりする。
ふと気がつくと、ずいぶんと汗をかいている。流れる汗にも気づかず、食べていたのだ。
食べるということは、何とも官能的な行為であると改めて思い知る。


以上が「個人的名古屋美食体験記」である。

余談だが、改めてこのように自らの食事を文章にまとめてみて気づいたことがある。
文章に起こすということは、その体験を鮮明に思い出すことになり、楽しかった食事が二度楽しめる。
これが毎日食べて、毎日書くという仕事になるとどうかわからないが、そうでなければ、なかなか楽しめる行為である。文章を書くネタがない、書くのがどうも面倒という人もいるが、まずはこんな内容から始めてはどうだろうか。

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2007.11.23

ついに「偽装」にヤラレタ:愛する箱根の湯

「吉兆」とは幸か不幸か縁がなかった。
が、不二家の製品も白い恋人も赤福も、甘いものが好きではないので摂取量は少ないだろうが、お土産でそれなりに食べていた。比内鶏は赤坂あたりの串焼き屋で何度かありがたがって食べた。なんちゃって牛肉ミンチはどこかで食べたかもしれない。

偽装国家ともいうべきこの日本。耐震基準偽装などの建築物は厳に取り締まり、必要な措置を施さねばならないが、まぁ、それ以外はそんなモンだろうとの思いがあったのも確かだ。
だがしかし、やはり愛して止まないものが「偽装」と言わないまでも、「本物」であると言い切れなかった時のショックがいかに大きいか、ようやく身をもって知った。

Blogの自己紹介欄で趣味の一つに掲げるほど箱根の湯は愛して止まないものであった。が、ヤラレタ・・・。
週刊文春のスクープ記事「箱根の湯の16%は人工の温泉であった」。
今日の帰宅時、電車の吊り広告を見て、コンビニで雑誌を買い記事を読んでからどうにも脱力感にとらわれて仕方ない。


箱根の「ゴールデンルート」と言われる、元箱根から登山鉄道からケーブルカーに乗り継ぎ、大型ロープウェイを降りた所に箱根の名所であり、火山火口である「大湧谷」がある。火口の熱湯で茹でた「黒温泉玉子」も有名だ。
そこからゴールデンルートは更に小型ロープウェイに乗り換え、芦ノ湖畔に続く。芦ノ湖から少し登れば、秋はススキ野原で有名な仙石原である。
ありふれた観光ルートであるが、このゴールデンルートは筆者の幼少期からの最も愛するスポットなのだ。

信じていた、というより疑いもしていなかったのだが、記事によると箱根の湯は本来透明で、筆者の好んでいる白濁湯は人工だという。大涌谷から噴出する火山ガスを水にくぐらせその成分を含ませて温泉にしているということだ。

何より、大型ロープウェイの眼下に広がる火口にいくつも並び煙を上げる煙突を見て「さすが火山らしい!」と興奮し、小型ロープウェイに乗り、乗り場の駅にほど近い貯水池に「防火用水でもないのに何に使うのかなぁ」などと子供と話していた自分の間抜けさが哀れだ。
何のことはない。その水を煙突のあたりまで運び、ガスを含ませ温泉に仕立て、そこから仙石原まで運んでいたのだ。
「この湯は大涌谷から運ばれています」と旅館から説明され、「さすが、火口から来る湯はたっぷり白濁だね!」と喜んでいた自分が情けない。


箱根は温泉としては全国的な人気スポットであることは間違いない。日経新聞の土曜別刷・プラスワンの先週の一面には「行ってみたい古湯」大規模温泉の部で7位にランクインしている。が、古来「富士山の見えるところに温泉は出ない」といわれていたようで、その中でも芦ノ湖周辺、つまり仙石原周辺はほとんどが人工であるようだ。

人工の白濁湯は火山成分がたっぷり含まれていることから、温泉の分類でいう「療養温泉」としての大いなる価値があるとの関係者のコメントも記事には取り上げられていた。確かに湯から出てからの体の温かさは特筆すべきものがある。その効能を人工温泉を作っていた関係者は強弁する。また、問題の旅館・ホテルも効能があることを理由に人工であることを明示しなかった言い訳をする。

効能はありがたい。更に完全なる偽装であった白骨温泉の「入浴剤使用」などに比べれば成分自体は天然だ。
が、やはりきちんと言ってほしかった。

人工温泉の歴史は古く、記事によれば昭和初期からのことだという。
白濁湯が天然のものでなく人の手が入っていたとしても、成分が人工であるわけではない。入浴剤なら興醒めであるが、成分はきちんと火山由来のものでもあるし、今となっては歴史もあり効能たっぷりの人工温泉は、人間の英知の結果としてきちんと説明してくれれば筆者は納得できる。


この人工温泉は法的には何ら問題がないようだ。また、ここまで歴史があり、効能もあるのなら今更やめることもないだろう。
だがしかし、今まで「説明責任」を果たしていなかったのも事実だろう。

本来であればこうしたスクープが出る前にきちんとしてほしかったことであるが、報道されたからには、一連の偽装問題と同列に扱われたくなければ関係各所からの公式の説明を求めたい。さらに、各温泉の効能書きにも「人工であるが成分はたっぷり」という旨を明記してほしい。

この週刊文春のスクープ記事を書いた記者は箱根育ちであり、体を壊したときに箱根の湯に救われたという。筆者も幼少期から馴染んだだけでなく、独立時の忙しさと少々の体調不良を癒した思い出がある。そして忙しい時には常に「時間ができたら箱根に行く」ということを夢見てがんばっている。今日もそうだ。
愛するものに裏切られることは悲しい。
しかし、見苦しい姿を見るのはもっと悲しい。
どうか胸を張って、きちんと説明をしてほしいと願っている。

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2007.11.22

ムツゴロウ動物王国はなぜ閉園した?

11月21日の日経新聞東京地域版にひっそりと載っていた記事。<東京ムツゴロウ動物王国25日で閉園>。
来園者数が低迷し運営会社が破綻。畑正憲氏の個人事務所が踏ん張って運営を続けたものの、ついに閉園を余儀なくされ動物を北海道に連れ帰るという動物王国。その失敗原因は果たして何だったのだろうか。

日経の記事には<動物王国の関係者は「もう少しPRができていれば」と反省>と記している。果たして原因は本当にPR不足なのだろうか。破綻の一因ではあろうが、原因はそれだけではないはずだ。失敗の弁で「PR不足」はよく言われることだが、問題の根本を見誤ると何度でも失敗は繰り返される。少し掘り下げて考えてみたい。


■Promotion(コミュニケーション戦略)だけで語るなかれ

PRはマーケティングにおいては、マーケティングミックスの4Pの一つ、Promotion(コミュニケーション戦略)の領域である。マーケティングというと、非常に狭い意味でこのPromotionに属する広告や広報(PR)、セールスプロモーションだけがフォーカスされることがある。しかし、他の3つのP、即ちProduct(製品戦略)、Price(価格戦略)、Place(流通戦略)との整合が欠かせないのである。
関係者の弁である「PR不足」は確かにそうかもしれないが、他の3つのPも検証してみよう。


■Product:動物王国は魅力的だったか?

正直、ここで話が終わってしまいそうなのだが、やはりテーマパークの「製品」としての魅力はコンテンツにある。動物の最大の問題はコンテンツがプアだったことではないだろうか。同園に行ったことがない筆者がテーマパークとしての魅力を云々批評するのははばかられるが、「動物王国」という割にはそこにいるのが犬・猫・馬だけというのはどうだろうか。
今までさんざんテレビで放映されてきた、北海道の動物王国にいる様々な動物たちの姿を想像し、下調べをせずに行って犬・猫・馬だけしか動物がいなかったら落胆しないだろうか。逆に、下調べして、身近な動物しか園にいないと知ったら、足を運ぶ気がするだろうか。斯様に、4PにおけるProductの部分に大きな問題があったと言わざるを得ないのである。


■Price:で、料金は妥当なのか?

上記の通りのコンテンツである。で、料金は大人1700円、子供700円。高くはない。高くはないが、コンテンツを考えるとどうにも微妙な気がする。価格妥当性はやはり製品の品質とのバランスが重要なのだ。親子3人で4100円。ちょっと気軽さにかけはしなかっただろうか。


■Place:あきる野市は遠かった?

動物王国は東京サマーランドに併設されている。場所はあきる野市。車であれば八王子インターを降りて20分程度という。が、電車では地の果てのように遠い。まず、八王子は東京駅から中央特快で50分。そこからバスで30分かけてサマーランドに到着。動物王国にはさらにシャトルバスに乗り換えて5分とのことだ。車がなければまず、東京の西側に住んでいなければ躊躇するだろうし、中央線沿線在住でもちょっと気が重くないだろうか。
ここでも、距離をおしても行きたくなるような魅力があればいいのだが、距離とコンテンツの魅力はやはり天秤にかけられるのだ。

以上のように、やはり製品戦略たるコンテンツの魅力に最大の原因があったのだが、例えばProduct以外のPで補うこともできたのだ。
例えば、コンテンツが犬・猫・馬だけだったとしても、もう少し都内近郊にあれば、ちょっと気楽に出かけるスポットとなったかもしれない。
料金も冬は割引して大人1000円だったようだが、最初からその料金設定にすればサマーランドのついで利用もあったのではないだろうか。1700円では、例えば子供向けの映画に親子で出かけるのと、料金的にはそのまま競合することになる。比較したときにどれだけ魅力と手軽さがあるか。

もちろん、動物を飼う敷地や立地の問題もあっただろうし、運営コストからの積み上げで料金設定をせざるを得なかったのかもしれない。しかし、そこにどれだけ来園者、即ち顧客視点が配慮されていたのか疑問が残る。「東京の人に動物とのふれあいの場を提供したい」という熱い思いがあったのかもしれないが、そもそもの北海道の王国と異なる存在がどれだけ人々から支持されるか熟慮が足りなかった点が問題の根本であるといえよう。
王国といえども顧客視点が欠かせなかったのだ。

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2007.11.21

意味なし!もう一回やり直し!:フレームワークの落とし穴

フレームワークは思考の速度を高め、人に伝える能力を高める効用がある。ナレッジワーカーとしての生産性を高めることが可能になるため、是非ともいくつかのフレームワークを使いこなすスキルを習得すべきだろう。
しかし、その有用さの裏側にある「落とし穴」にはまらないよう注意が必要だ。

フレームワークの代表選手をあげるとすれば、環境分析におけるSWOTだろうか。自社や自分の事業環境分析などにも用いられるため、「マーケティングに関わる業務は担当していない」という人でも使った経験があるはずだ。このフレームワークを例に考えてみよう。


■フレームワークの形態に惑わされるな

SWOT分析は自らを取り巻く環境を、外部環境・内部環境に分けて要素を抽出し、さらにそのプラスの側面、マイナスの側面を洗い出していくフレームワークだ。
少々分析に手こずることがあるとすれば、一つの要素をプラスと見るのか、マイナスに見るのか判断に迷うときだろう。SWOTを失敗する原因の多くは、プラスマイナスのどちらに当てはめればいいのかに終始するあまり、強引に分類した結果、プラス、マイナスのどちらかの側面を見落とすことだ。物事には一つのことでもプラスとマイナスの両面がある。その場合、どのような前提条件の下ではプラスに、どのような前提条件の下ではマイナスに作用するということを明記した上で、両方を取り上げなくては正しい分析にならない。
これは、典型的なフレームワークの形状にとらわれるあまり、正しいものの見方ができなくなるケースである。


■で?その分析は何が言いたいのか?

そもそも、フレームワークを使う意味は、何らかの結論を抽出し、人に伝えることにあるはずだ。分析を行うのであれば、明確な結果を導出しなくては意味がない。
フレームワークの最大の落とし穴は、そこに要素を押し込め、整理することで満足してしまうことである。
ファクト(事実)の整理は重要だ。整理することによって、抜け・モレがないことが確認できる。しかし、それだけでは分析を完了したことにならない。伝えるべき相手に「何が言いたいのか」が明確になっていなければゴールしたことにならないのだ。
SWOT分析であれば、フレームに要素整理をするだけでなく、そこから「市場機会」と「事業機会」を文章化すべきだ。この文章化を面倒だと厭う人も多いが、要素整理したフレームを読み上げるだけでは相手には全く伝わらない。結論が必要なのだ。


■その言葉は「意味」を伝えているか?

上記の通り、文章化は伝えるべき「意味」を明確にする効用がある。しかし、その文章をもう一度読み返してみてほしい。果たしてその文章は意味を表しているだろうか。
例えば、分析結果として記された次のような文章があったとする。
< >の中は例示。

○○会社を取り巻く環境は、<好景気による消費拡大>という機会と
<競合数の増加>という脅威があり
総合的には<予断を許さない状況である>といえる。
その中で<顧客ニーズの取り込みが完全でない>という弱みを、
<業界ナンバーワンの信用力>でカバーして勝っていく。

一見、それらしい文章になっている。しかし、どうにも具体性がない。
なぜ、上記のような具体性に乏しく、意味合いが明確でない結果になってしまうのか。それは、短くまとめようとしすぎるからだ。
フレームワークに当てはめる要素も、ついつい短くなりがちだ。単語、熟語レベルの短さである場合も多い。本来はこの段階から意味を持った文章を記入すべきなのだが、どうしてもフレームの記入スペースに制約されて記述が短くなってしまう。そして最後の意味合いを文章化する際も、一言でまとめられる文章にしようと思うあまり、言葉足らずになる。口頭による補足説明なしで、相手が読めば理解できるレベルで記述することが肝要なのである。


ここまでSWOT分析を例に、フレームワークからきちんと「意味合い」を抽出することの重要性と、実行に際して求められるレベル感をまとめてきた。「なるほど」と納得していただければありがたい限りだが、しかし、「ではこの手順通りに進めてみよう」と考えるのはちょっと待ていただきたい。ここに記した手順は一つのフレームワークでもある。
フレームワークを鵜呑みにせず、一度自分なりに咀嚼して使いこなすことこそが重要なのだから。


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2007.11.20

企業が「我々」として一丸となるためのミッションステートメント

過日は部門内の正社員と業務委託社員の対立について記したが、実際には特定部門だけで起こる現象ではなく、また正社員同士でも「ヤツら」と言い合う対立の構図は存在する。
今回はその対立を乗り越えるためのミッションステートメントを紹介したい。


人間はとかく人を区分して対立の構図を作りやすい。
人が仲良く暮らしている所があったとしよう。そこに一本の線を引く。その線が居住区を南北に区切っていれば、やがて人々は線の向こう側、こちら側と区分し「南のヤツら」「北のヤツら」と言い合うようになる。線が東西を区分していれば「東のヤツら」「西のヤツら」だ。
筆者が住む共同住宅の管理組合は、組合の理事を数階ずつから均等に選出する。うっかり偏ると「上層階のヤツら」「下層階のヤツら」となるからだ。
斯様に、ちょっとしたことで対立の構図ができあがる。


企業に対するコンサルティングや研修を担当していると、特に顕著な対立の構図は「本社」と「現場」、または「営業」と「管理部門」などである。対立しても何もいいことなどないのに。
そんな対立の構図を打破する秀逸なミッションステートメントを見つけたのでここに紹介したい。
米国の「ボストン・ビール」である。
以下、同社のミッションステートメントの冒頭部分を記す。


われわれは、ボストン・ビール会社である。
われわれは、アメリカ最高のビールをつくる。
われわれは、相手の身になって人と接する。
われわれは、熱意、仕事への意欲、顧客への敬意を持ってビールを販売する。

(後略)


上記のミッションステートメントを作った創業オーナーは語った。われわれはという言葉を繰り返し、さらに「われわれは、ボストン・ビール会社である」というような、当たり前なことをあえて冒頭に掲げた理由を。
「会社という組織の中で、とかく“彼ら”“やつら”という言葉がはびこりがちだったから。“彼らはいつまであんなことを続けるんだ”とか、“やつらは何もわかっちゃいない”とか」と。
そしてこう続ける。「会社には“われわれ”しかいないのだと伝えたかった。会社とは単に法的な存在に過ぎない。会社全体が法的なフィクションなのだ。会社というものがあるとしたら、それはそこにいる人々が、ある種の目的に向かって、それぞれの行動パターンを適応させているからなのだ」。


出典:「世界最強の社訓」パトリシア・ジョーンズ、ラリー・カハナー(著)・堀紘一(監修) 講談社 (廃刊)

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2007.11.19

パナソニックのPC流通戦略を推察する

メーカー直販で購入したLet’s noteが届いた。
タイトルほど大げさなことではないのだが、購入前後で気づいたことなどを記してみたい。


今回購入したのはCF-W7。独立の時購入したのがW2なので、わずか3年あまりで5世代も進んだことがわかる。何ともモデルチェンジの早い世界だ。
選んだのは、OSがWindows Vista Business、CPUはインテル(R) CoreTM2 Duo プロセッサー超低電圧 U7600(1.20GHz)、ハードディスク160GBというモデル。
実はパナソニックの場合、選択肢はあまり用意されていない。CPUとハードディスクがU7500(1.06GHz) 80GBのものと、さらにOSがXPにダウングレードされている3タイプしかないのだ。(メモリは512MBと1GB増設が選べる)。
例えば他社、NECダイレクトなどは選択肢としてCPUは3種、メモリは7段階、光学ドライブ3種、液晶3種などなど・・・、選択肢の多さはかなりのものだ。しかし、3年前にW2を購入したときは、パナソニックもそうだったはずだ。


直販モデルの魅力は何といってもカスタマイズだ。自分の使用用途と予算に合わせ、廉価に抑えることもできるし、やたらとハイスペックにもできる。もちろん、ほどよいスペックにする賢い買い方が一番だろう。
しかし、パナソニックは大きくスタンダードとハイスペックの2つの選択肢しか用意していない。
察するに、これは流通(チャネル)対策ではないだろうか。
DELLのような直販専業ではなく、販売の多くを量販店と、まだまだ数多く残る小売店に依存している以上、直販が上回ることは許されない。
前述のNECや、かつての自社と比べて、カスタマイズの魅力を自ら封じているのは、流通対策をさらに強化したからではないだろうか。そして、直販ではハイスペックモデルの購入に誘導することによって、量販店をはじめとした流通とのコンフリクトを回避しようとしているように思える。


さらにパナソニックの場合特徴的なのが、「カラーバリエーション」を流通と直販で棲み分けている点にある。
昨今、パソコンはカラーバリエーションが盛んだ。これは、本体機能ではもはや差別化ができなくなっているからだ。マーケティングの世界では「カラーバリエーションはマーケティングのどん詰まり」ともいう。つまり、ほかに打ち手がなくなったときに盛んに行われるのだ。
問題は、カラーバリエーションを多数展開すると、流通在庫がふくらむという点にある。リスクが大きく高まるのだ。NECやソニーがノートPCのカラーバリエーション展開を強化しているが、相当なリスクを覚悟してのことだと推察できる。

その点、直販はBTO(Build To Order:受注組み立て)が基本のため、カラー部品の在庫だけですみ、流通在庫を避けることができる。DELLも現在、カラーバリエーションに乗りだしているが、パナソニック同様、リスクは低減できているはずだ。

このことから、パナソニックの展開は本体とカラーのバリエーションの考え方に特徴があることがわかる。
本体のバリエーション、つまり、前述のCPUやハードディスクをはじめ、光学ドライブ、液晶の組み合わせ選択肢を極力少なくする。
これには前提条件がある。元々、Let’s noteは高額でハイスペックだが支持されるというポジションを獲得しているからこそできることなのだ。
そのメリットは大きい。部材の在庫を抱えなくてよい、組み立てが簡素化できる、さらに、組み立てたモデルの数が少なくなることから流通在庫も削減できるのである。
もう一つのカラーバリエーションに関しては、前述の通り、流通モデルで展開すると、流通在庫が深刻になる。これを直販だけで展開する意義は大きい。

つまり、値頃感のあるスタンダードモデルを主に流通で販売させ、直販ではハイスペックモデルを中心にカラーバリエーションで展開するという棲み分けを行っていると考えられる。
コンフリクトと在庫対策という意味において、これはうまくできた設計だといえるだろう。


今回のことは一ユーザーとしての、あくまで推測に過ぎないが、自らの購入プロセスから様々なことがわかる。正解がどうかはともかく、思考訓練としてはなかなか楽しいものだ。

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2007.11.16

ピンチをチャンスに:奮て!ミドル!

コンサルティングや、ミドルマネジメント研修などで企業に招かれる場合、やはり何らかの課題を抱えていたり、大きな変革期である場合が多い。
そんな時はミドルの役割が重要であるはいうまでもないのだが、その意識と行動で結果に大きな差が出ることになる。
キーワードは「マクロとミクロの視点」だ。


「会社のビジョンが明確じゃない!」:マクロ視点で俯瞰し直せ!

「ビジョンの不明確さ」はミドルからよく聞こえる不満だ。
変革期において、企業のトップマネジメントから大まかな戦略の方向性が示される。
その方向性は、わかる気もするし、間違いではないようにも思う。しかし、具体的でない。そんな不満だ。

確かに「戦略」と言うにはなかなか厳しい内容のものも少なくない。
色々と修飾語はついているものの、突き詰めれば「このピンチをチャンスに変えるように。以上。」という場合もある。

だが、文句を言っても始まらない。各々が現場を任されているミドルなのだ。戦場は自分の前に広がっている。
そんな時は、ミドルに求められるのは、マクロ視点で現在の状況を俯瞰し直すことだ。
「マクロ視点はトップの役目だろう?」と言っても始まらない。「指示が明確でない」からこそ、ミドルなりに己の視点で状況を俯瞰し直すことが必要なのだ。
ミドルの視点で俯瞰し直せば、トップが見えていない、現場展開につながるヒントも見えてこよう。
「マクロ視点はトップの役目」という固定観念を捨て、自ら動くことが必要なのである。

「現場が動かない!」:ミクロ視点で為すべき事を示せ!

「危急の時だというのに、現場の危機意識が低く動かない」という声もよく聞こえる。
しかし、現場を任されているのは自分たちミドルだ。動かない責任は自らにある。

なぜ、現場のスタッフは動かないのか。動かないのではなく、動けないのだ。
危機意識の不足ということは外れてはいないかもしれない。状況が理解できていないのだとしたら、理解させるために、会社からの全体方針を通達するだけでなく、前述の自ら俯瞰し直した視点で、現場が理解できるように伝え直すことが必要だ。

それでもまだ動かないとしたら、それは動き方がわからないのだ。
ミドルにできて、トップにできないことは、細かな現場への指示だ。
例えば、何らかの数字的な目標達成を求められているのであれば、「数字を達成しよう!」と現場スタッフに言っても仕方がない。
目標数字は恐らく、それまでの数字にいくらかが積み増されている状態だろう。スタッフも今までサボっていたわけではないはずだ。新たな目標達成しようと思っても、積み増し分を具体化する方法はわからない。
いかに動けば数字につながるか。ミドルはスタッフ以上にミクロ視点を持ち、微に入り細を穿つようにして具体的な指示を出さなければならない。


「現場スタッフのモチベーション」を問題にするミドルも多い。しかし、モチベーションが高まらない大きな原因は、スタッフの不安である場合が多い。
環境の変化に対する不安。具体的にどう動けばいいかわからない不安。
ミドルマネージャー自身も、冒頭の「ビジョンが明確でない」という不満だけを呈している状況では自らの不安から抜け出せない。

ミクロ・マクロの視点を持って道を切り開くこと。現場スタッフの不安を取り除き、指示を具体化させ、高いモチベーションで業務を遂行させること。
ミドルマネージャーに求められるのは、広汎にして過重な責任であるが、日本企業はミドルが動かしているといっても過言ではない。
「奮てミドル!」である。

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2007.11.15

変化し続けるドメイン:激動ドラッグストア

11月14日の日経MJに「激動ドラッグストア」という記事がトップに掲載されていた。2009年に予定されている改正薬事法の施行によって、業界はビジネスモデルの再構築を迫られているという。もう一方で、「ビジネスドメインの変化」という視点で見るとさらに興味深いことがわかってくる。

同記事によると、改正薬事法によって業界最大手のマツモトキヨシが大きな影響を受けるだろうと予想している。法改正のポイントは、これまで大衆薬の販売を行うにも薬剤師の常駐が必要であったところが、規制が大幅に緩和されるという。その結果、スーパーなどでも大衆薬が扱えるようになるため、異業種を含めた競合環境の激化を意味する。


マツモトキヨシに代表される、今まで隆盛を誇ってきた大規模ドラッグストアは、元々は更にその前の薬事法改正によって薬剤師によるOTC(Over The Counter:対面販売)から来店客のセルフスタイルでの購入が認可されたことによる。その結果、小規模な薬局・薬店の店舗スタイルから解放され、売り場が大規模化し、日用品・食料品を併売することによって、スーパーの競合にもなりえる存在になったのである。


この変化を「ドメイン」という観点から考えてみよう。
「ドメイン(domain)」とは、直訳すれば「領地・領土」のこと。ビジネスにおいては、企業が戦う「土俵」を現わす。自らが有利に戦える土俵を選ぶことが戦略の基本だ。また、何らかの時流の変化を捉え、有利な土俵を構築することも重要だ。
マツモトキヨシをはじめとするドラッグストア業界のプレイヤーは、前の法改正の機会に「ドラッグストア」という独自の土俵を構築し成長したのだ。日経MJによると、「平均粗利率35%という大衆薬で稼いだ利益を原資に、食品や日用品の特売を仕掛けるのがこれまでの“成長の方程式”だった」とのことである。


ドメインという観点からすれば、法改正によって可能となった店舗形態を活かし、「薬局・薬店」というドメインを「ドラッグストア」というドメインに拡張した。そのドメインは実質的には日用品・食品の販売という側面ではスーパーと競合する。しかし、大衆薬販売では、顧客がセルフで薬を手にするものの、店舗には最低一名の薬剤師の常駐が義務付けられるという制約条件によって、スーパーの参入を阻むという絶妙なバランスの上に成り立っていたのだ。

その絶妙のバランスが、更なる法改正によって崩れた。一層の規制緩和がドラッグストアのドメインの垣根を壊し、スーパーと全く同じドメインでの戦いを余儀なくさせた。
このように、ドメインは自ら構築し、チャンスを広げることができる反面、好むと好まざるに関わらず、法改正をはじめとした外部環境の変化によってドメインが強制変更させられてしまう場合もあるのだ。


ドメインによって大きく異なるのは、競合環境と、そのドメイン内での戦い方である。
日経MJの記事は「物販だけのビジネスモデルは限界に近づいている」と締めくくられている。物販でないビジネスモデル?と些か唐突な結論と、見えない解答に頭をひねりながら紙面をめくっていくと、5面の小さな囲み記事「消費見所・カン所」に答えがあった。
寺島薬局社長のインタビューで「地域に信頼される“介護×ドラッグ”推進」とある。曰く「ドラッグストアは米国型であるが、少子高齢化の今日の日本では、人口が増え続ける米国のドラッグストアを参考にしても成長は難しい」と語っている。そして、同社の地盤である茨城県では高齢化のスピードが速いため介護サービスとドラッグストアを融合した独自の「てらしまモデル」を追求しているという。
進展の早さに差異はあっても、日本が高齢化に向かっていることは間違いない。「てらしまモデル」は一つの秀逸な答えであり、ドラッグストア業界が2009年の法改正後に生き残るための新たなドメインを示していると言えよう。


「変化し続けなくては生き残れない」。これは全産業、全ての企業において共通の事実だ。その変化すべき姿を明確にするためにも、「今、自分たちはどこで、誰と戦っているのか。今後はどうなるのか」を意識する「ドメイン」を考え続けることが重要なのである。

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2007.11.14

移ろうCommon Sense:新幹線車中の風景

Common Senseとは「良識的な判断力」と訳される。しかし、その基準は時と共に移ろうようだ。新幹線の車内にて、その現場に直面した。

「その臭い、何とかなんないですかねぇ」。隣席からの言葉の意味を、筆者は一瞬理解できなかった。

所は新幹線の車中。時は午後1時を回ったところ。筆者はあまり車中にて飲食をする習慣はないが、その日はその時間に駅弁を摂らねば食事のタイミングがなかった。正午を過ぎているが、昼食として同様に駅弁を広げる人も少なくなかった。ましてや最近は「豪華弁当」の登場以来、ちょっとした駅弁ブームだ。隣人は何が気に障ったのかだろうか。


同じ駅から乗車した彼は、着座するや否や、ノートPCを広げ何やら仕事を始めた。
車掌が来た時も、パソコンの画面から目を離すことを厭うように乗車券を差し出した。
何とも忙しいヤツだなぁ。と思った。
彼の世界では、恐らく新幹線は「執務空間」なのであろう。確かに昨今の車中ではノートパソコンを広げる乗客が随分と多い。平日ともなれば、行楽客よりもビジネス客の比率が大半を占める。かくいう筆者も行楽の数十倍も商用で新幹線を利用しているし、その移動中に記したコラムも数限りない。斯様に、今日、新幹線は行楽よりもビジネスに多く用いられ、その車中でのルールも変遷しているようだ。


筆者が広げたのは、「二段重ね鰻弁当」。タレを染み込ませた飯に、鰻の蒲焼きが二重に仕込まれているという逸品。「鰻の蒲焼き」の旨味を形成するに欠かせない馥郁たる香り。冷めた弁当となっては随分と魅力を失うが、香気を醸し出すために製造業者は心を砕いているはずだ。確かに幕の内弁弁当と比べれば、少々香気が立ち上ったかもしれない。駅弁となっても主張する鰻の香りが隣人は気に食わなかったようだ。

恐らく、執務をこなしている彼からすると、「昼休みの時間外に臭気を発する弁当を広げ、ビジネスを妨げるとは何たる行為」と受け取られたのだろう。確かにオフィスで定められた昼食時間以外に鰻弁当を広げられるのは迷惑だ。


「平日に商用で移動するビジネスマンがほとんどの新幹線車両内は、ビジネスルールが適用されて然るべき」というのは、ひとつの今日的なCommon Senseであろう。乗客比率を見ても、その乗客たちの行動を見ても頷ける部分は多少ある。今回の筆者のように、自らも商用のさなかに呈された不満であれば、まだ許容すべき解釈もできる。
だが、商用中に食事の時間がずれたというようなことではなく、「たまに休暇が取れた」というような「ハレの日」だとしたらどうなのか。
平日なので、幸いにも混雑が回避できるかもしれない。秋の京都の紅葉はさぞや綺麗だろう。休日なら大混雑な京都を少しでも空いた状態で楽しめる僥倖に感謝して新幹線に乗る。駅弁の一つも広げたくなるだろう。休みとあれば、少々ビジネスタイムとはずれることもあるだろう。そんな時に隣席から苦情が呈されたとしたら、せっかくの休日が、随分と興醒めになってしまう。

「平日の新幹線はビジネス空間」と決めつけては、そんなほんの少しの多様性も飲み込んでしまいはすまいか。
かつて、新幹線の中でオフィスと変わらぬぐらいの激務をこなすことなど考えられなかっただろう。テクノロジーの進化と社会環境の変化はCommon Senseを時と共に移り変わらせる。しかし、敢えて旧来の価値を認めて保つべきこともあるのではないか。

移動は商用の一部に組み込まれても、他の目的を持った乗客の存在を黙殺していい理由にはならない。
多様性を失った社会。それは何とも息苦しい世の中だ。自らの変化した環境に基づくCommon Senseだけを人に強いることは避けたいと思う。


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2007.11.13

「奴ら」と言うな。「我々」であれ。

組織はとかく「対立の構図」を生みやすい。昨今の人材の流動化と雇用形態の多様化は、それを一層加速する。一人二人の派遣社員ならまだしも組織に溶け込みやすいが、集団で送り込まれてくる業務受託チームは、既存の正社員から見て「よくわからない奴ら」になりがちだ。本来であれば、同じ社内の「我々」として連携し、業務を効率化すべき所であるが、対立の構図がそれをスポイルするのだ。


業務受託チームが送り込まれてくるのは、コンタクトセンターではごく見慣れた風景になっている。人件費圧縮と、増大する問い合せ業務。更に離職率の高さから、正社員はもとより、派遣社員を使ったセンター管理すら難しくなっている。
派遣社員は正社員が雇用管理や業務の指揮命令責任を持たなくてはならないが、業務委託であれば、発注者と受託者が一定のサービス基準を満たす業務契約に合意できれば(Service Level Agreement:SLA)、受託者は実行チームを編成し、そのチーム内で人のローテーションや業務品質の管理までを確約する。委託側としては手間が大幅に軽減されることからその比率が急増しているのである。


指揮命令系統がチーム内で完結していることから、当然閉じた小集団として派遣先のセンターに存在することになる。さらにそのチームはセキュリティーの関係から、首から提げるIDカードなども色を変えるなど、見た目からの差別化がなされる。その結果、既存の社員から見れば「異質な集団」として映ることになる。「仕事はこなしているようだが、よくわからない人たち」と言われる受託側のメンバーにはやはり孤立感が否めない。
メンバー各々は、受託企業とはアドホックな雇用契約で結ばれている場合が多い。ただでさえ細い絆が、派遣先でも「よくわからない奴ら」と評されることによって、更に揺らぐ。そんな環境で高いモチベーションを維持し、業務成果を上げて行けるはずがない。

受託チームのリーダーは実際には、モチベーションの低下によるメンバーの突発休や、離職の穴を埋めるために汲々とし、SLAで縛られた応対品質や受電件数といった目標数字をギリギリクリアすることに精一杯なのだ。

チーム全体やメンバーのモチベーションを高揚することができれば、更に高い業務成果を上げられ、委託企業もメリットがあるはずなのだが、なかなかその認識が高まらない。同じ業務料を支払うのであれば、受託チームがより高いモチベーションを維持し、企業の一員となって貢献してくれる方が良いに決まっている。しかし、その好循環がなかなかできない。


解決策は、まず、委託側の企業とその社員が変わることしかない。受託チームを「奴ら」として差別しないことだ。
委託・受託の契約関係は確かに存在するが、現場にその関係を引きずっても一つも良いことはない。SLAで目標数値を押しつけるだけではなく、「より良い顧客サポートを実現する」といった同じ目標を共有する「我々」として一体化することが必要だ。
その目標に対して、コンタクトセンターでは、発祥の米国式として伝統的に行われる「コンテスト」のようなモチベーション向上施策にも巻き込み、一体感を形成することが重要だ。SLAは委託企業にとっては黙っていても目標をクリアさせる便利なしくみであるが、だからといって、それだけを当てにしていては更なる成果は望めない。


この業務委託という契約形態。受託チームが送り込まれるという環境は今後より多くなってくるだろう。それはコンタクトセンターだけの現象に留まらないはずだ。
組織における対立の構造、「奴ら」という位置づけを排し、「我々」として成果を出していくことがこれからはより重要になることは間違いないのである。

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2007.11.12

清潔空間からの逃亡者たち

ビジネスパーソンのためのパーソナルプロデューサーを名乗る株式会社パーソナルデザイン 代表取締役の唐澤 理恵さんのコラムを読んだ。(ツバを吐く男 Part2)
街中で紳士然とした姿で路面にツバを吐く男性の姿が描かれ、それは「男性ホルモン”テストステロン”の働きによる、男らしさの表現かもしれない」と推察されていた。

確かに生理学的な解釈としては正解かもしれない。しかし、別の切り口でも考察してみようと思う。切り口は、その舞台となっている「都市空間」だ。


同コラムではあるアンケートで、ツバを吐いた経験のある男性ビジネスマンは6割。タバコのポイ捨ては4割ということであったが、比率はともかくいずれも高率であることは間違いない。確かに街中でどちらもよく目にする。しかし、記憶を辿ってみるとその姿が昔と変わってきている気がするのだ。

タバコが短くなる。それを唇から指でつまんで、流れるような自然さで路面に落とす。火を消すことすらしない。ツバを吐くにしてもそうだ。吐きたくなったら所構わず。正にアスファルトの路面に速射である。
昔の風景を思い起こすと、タバコを路面に捨てるのは喫煙者比率が高かったことから今日よりもよく見られた。路面に吸い殻も多かった。しかし、捨てる人は、ちょっとどこに捨てようかとキョロキョロし、道の隅に投げ、その上から靴で踏みつけていたのではないか。ツバを吐くにも植え込みなど、吐いたツバがそのままの状態で残らない、人の目に触れにくい場所にしていなかっただろうか。この変化は何なのだろうか。

一つにはその行為以前に、都市空間が変化しているのではないだろうか。空間とは、そこに存在する人々も含めてである。


都市は清潔になった。路面もほとんど舗装整備された。街行く人々のマナーも向上した。
反面、それについて行けない人を生んだのではないだろうか。空間が美化され、マナーが厳しくなる。街を汚損する行為はもとより、そもそもの喫煙行為自体が非難の対象になる。ある意味、耐えられない息苦しさを感じる人もいるだろう。
ある程度我慢を重ねる。しかし、ある日、「もういいっか!」とエスケープしてしまうのだ。
一端、エスケープするともはやポイ捨ては無意識の行為になる。タバコを吸い終わる。不要になる。不要な物はそのまま捨てる。流れるような動きの完成だ。


もちろん喫煙者の大半は喫煙禁止区域では我慢しているし、携帯灰皿を利用している。問題は、既にエスケープしてしまっている人々なのだ。さらに、その比率は増えているような気がしてならない。禁煙の高まりや、喫煙禁止区域の拡大に比例するように。

ツバを吐く行為についてもそうだ。路面に未舗装箇所はもはやない。土のある植え込みもきれいに整備され、花などが植わっていたりする。簡単にツバを吐く場所などない。すると、場所を選ぶ努力を放棄してしまう。ティッシュを使えばいいだろうと思うが、そこまでの努力は厭う。結果、そのまま吐き捨てる。


人によって清潔さを保つことに対するストレスは異なるし、ストレスに対する耐性、許容量も異なる。同じ都市という空間を共有する人々同士のその差異がトラブルを生む。ごく下らないことでいさかいが起る。
もはや見慣れた風景になりつつある、朝の小競り合い。清潔な都市空間からの逃亡者と、その規範内に留まる者の喧嘩であることも少なくないのだろう。

都市美化の動きは止まることはない。非喫煙者としては歓迎だが、無用なトラブルは遠慮したい。しかし、美化された路面に吸い殻やツバを発見するのもうれしくない。
どこかに“抜き所”を作るべきかもしれない。あちらこちらに整備されつつある喫煙所もいいだろう。ツバをどうすればいいのかはわからないが、都市に住む者同士が共存するため、もう少し知恵を絞る必要がありそうだ。


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2007.11.09

「指示待ち」社員は誰のせい?

若者を自らを比較して憂うことは、古くは平安の書物からも読み取れるという。
ビジネスの世界で言えば「近頃の若い社員は」ということになるのか。
その中で「最近の若い社員は”指示待ち”が多くて」という声がよく聞こえる。
それは誰のせいなのだろうか。


「指示待ち」と言われる態度は、逆に考えれば、指示に対する適切な業務遂行力と解釈もできるが、その何が問題なのか。
世の管理職が嘆く「指示待ち」とは、プログラミングのように事細かな指示をしないと主体的な動きをしないことを指しているようだ。
転じて、若い世代の自立性・自律性のなさを嘆き、「自分が若い頃は」と、若い頃の型破りな活躍を自慢する人もいる。
本当に若い世代はそんなに自立性・自律性がないのだろうか。


筆者はバブル入社世代だ。入社時には蝶よ花よで迎えられたが、多くはバブル崩壊後の苛烈な処遇が待っていた。耐えられずに離職した者も多い。そして事ある毎に「バブル組は・・・」と言われた。
しかし、入社時の景気は本人の与り知るところではないし、その後の育成は自助努力も大事であるが、上司・企業に負うところが大きい。
好景気を反映し、大量に採用された世代に対し、「現場優先」がまかり通る活況なビジネスの中、十分な教育がなされたのか。
同様の懸念が昨今の新入社員への教育でも感じられる。

教育の問題だけではない。
今日のビジネスは、CSRだのコンプライアンスだの、禁則事項が多い。
ベテラン社員にとっても「昨日のOKは今日のNG」という環境にとまどうことが多いはずだ。Do & Dont'sが日々移ろう。
そんな中、上司から部下へ明確な指示が出せているのであろうか。
自立性・自律性は繰り返し明確なDo & Dont'sを徹底された後に励行できるもの。それなくしていきなり動き出されたら、どんなトラブルが待っているかわからない。

「会社の方針をきちんと理解していれば、自ら動けるだろう」と言う声も聞こえる。
だが、会社の方針。つまり、大きな全体方針を咀嚼し、理解て行動に移せる能力が末端の社員に備わっているべき能力だと思ったら大間違いだ。
それができるなら、中間管理職の存在意義は何なのか。

「スルーパス現象」というものが見て取れる。
今日の変化の激しいビジネス環境の中、経営層から発せられる方針を、ミドルが十分咀嚼できず、ワンタッチもせずに下に落とし込む姿だ。
経営方針に準じた”粒度”の大きい話では現場は動けない。
故に、部下は理解できるレベルの指示を待つ。上司はそれを「指示待ち」と評価する。
何とも可哀相な話ではないだろうか。


ミドルの役割の一つは、とにかく部下が理解し、行動できるように、様々な会社の方針やビジネス環境を細かく分解して、必要に応じた構造化をして理解させる。理解させたら行動を促す。動けないなら原因を探し阻害要因を排除するということだ。
「指示待ち」を批判することは即ち、自らの業務不履行を公言しているようなものである。
そうは言っても、人材として問題のある部下もいるという意見もあるだろう。しかし、自らを採用してくれた会社の採用基準を疑うより先に、自分の部下指導が十分であるのかを疑うことも必要ではないだろうか。
自らの若い頃を誇ることより、数段難しくなっているビジネス環境で頑張る若い世代を応援し、さらにその世代を批判することなく使いこなせる、上司としての今の自分を誇れるようになりたいものである。

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2007.11.08

マーケティング視点の組織改革とその実際・その2

前回、ナレッジマネジメントによる組織改革をマーケティングの手法で展開する基礎として、環境分析を3CとSWOTで行った。次なるマーケティングの基本はS・T・P、「セグメンテーション」「ターゲティング」「ポジショニング」である。S・T・Pを如何にナレッジに適応していくのかを今回は考えてみよう。


■STPを理解しよう

マーケティングの基本は、自社が如何に市場・顧客のニーズに適応するのかを考えることにある。具体的な施策としては、有名な4P(Product・Price・Place・Promotion)で考えていくが、その前に必要なのがSTPだ。
STPをひとことで言えば以下のようになる。展開すべき市場を同質なニーズで括る(Segment)。さらにそのセグメントの中から目標を絞る(Targeting)。目標とした市場・顧客から選ばれるように自社の特徴を明らかにする(Positioning)。
上記を自社ナレッジの観点で考えるとどうなるのかを以下に解説する。


■ナレッジの棚卸しをしよう

まず、市場・顧客から求められる製品・サービスを創り出すために必要とされるナレッジとはどのようなものがあるのかを、くまなく洗い出す。「ナレッジの棚卸し」といわれる工程であり、極めて重要だ。さらに棚卸しされた内容を、大・中・小の階層に分類しよう。つまり、ナレッジのセグメンテーションである。これが完成すれば簡易な「ナレッジマップ」の原型が出来上がる。但し、ここではサラッと書いているが、実際にはかなり手間のかかる作業であることを申し添えておく。


■注力すべきナレッジ領域を特定しよう

次に、市場・顧客のニーズ適応のために、特に必要となるナレッジ領域を特定しておこう。つまりターゲティングだ。社内ナレッジをさらに強化していくための一つの指標は現状以上に市場・顧客のニーズに適応させること。そうすれば、競合にはできない自社ならではの強み、「バリュープロポジション」が構築できる。
強みを強化することと、弱みを克服すること。企業改革にはどちらも大切であるが、今日のビジネス環境では明確な強みを持っていなければ生き抜くことは難しい。ついつい、弱みを何とかしようという方向に目が向きがちだが、弱っている時こそ、強みが見えなくなり悪循環に陥りがちなのだ。注意が必要だ。
また、社内のミクロ環境にも注目しよう。誰が、どのようなナレッジを必要とし、供給すべきなのか。細かいレベルでのターゲティングにも注目することにより、組織内でのナレッジのあるべき流れが描けることになる。


■何のためのナレッジか?を明確にする。

今日のマーケティングでは、STPにおいては実は「ポジショニングの明確さ」が最も重要であると言われている。自社が選ばれるためには「選ばれる理由」が明確でなければならない。同様に、組織内で「ナレッジの活用」を叫んでも、「何のためのナレッジなのか」が明確でなければ、誰も活用しようとはしなくなる。また、ユーザーがどのように活用すべきなのかも明示しなくてはならない。それができていないが故の失敗例は枚挙にいとまがない。つまり、ポジショニングが重要なのだ。
例えば、社内ユーザーに「気付き」を与えるために、社内ナレッジにアクセスするための検索環境を整備するという方向もあるだろう。その場合、できるだけ多くのユーザーが頻繁にアクセスするような働きかけが必要となる。社内ユーザーが相互扶助的にナレッジを交換し合う「QAコミュニティー」の展開もある。QとAとのトラフィックの多さがカギになることは言うまでもない。一方では業務を遂行するにあたって必ず参照すべきナレッジなどを体系化する場合もある。FAQを中心としたパターンだ。この場合は、いかにきちんと参照を励行するかという部分がカギだ。ここに挙げたのは一例であるが、いかなる場合でも前述の通り「何のためのナレッジなのか」「ユーザーがどのように活用すべきなのか」というポジショニングを明確にすることが欠かせない。


■ナレッジマネジメントを失敗しないための必須要件

かつてナレッジマネジメントは企業において一種のブームを形成していた。いくつもの成功例もある。しかし、それより多くの失敗例も残っている。失敗原因はいくつかの理由があるが、2回に渡って述べてきたように、自社の環境に適応するような導入をしていなかったり、導入に際してSTPを考慮しなかったりというケースが多い。その根底には、単純にシステムを導入すれば何とかなるという安易さが見え隠れしていた。
さすがに数々の失敗例を前にして、安易な導入を行う企業は減り、ブームは一服したかにみえた。しかし、企業内でドキュメントデータが爆発的に増加し、それを検索・抽出できる優秀な検索エンジンが新たに開発されたことを背景に、「エンタープライズサーチ」というキーワードが注目されるようになっている。
エンジンが優秀になっても、ここまでに述べてきたとおり、その前提が整理されなくてはうまく活用することはできない。せっかく導入するソリューションが、本当に「問題解決」するためには、安易なシステム依存を戒めることが必要なのだ。

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2007.11.07

マーケティング視点の組織改革とその実際・その1

筆者のコンサルティングにおける専門領域は、主にマーケティングとナレッジマネジメントである。というと、人からは「何を畑違いのこと二つに首を突っ込んでいるのか」と言われることがある。しかし、実は両者は密接に関係しているのだ。その展開の基礎を2回に渡ってご紹介しよう。


■組織改革における環境分析の必要性

ナレッジマネジメントの目的は、企業内の「知」を活かし、組織変革を促すことにある。しかし、現状に何らかの問題や不足を感じて「組織を変えよう!」といっても、何をどのように変えるのかわからず、闇雲に動いても成果は出ない。処方箋が必要だ。そのためにはまず、診断が必要となる。
社内のナレッジがどこに、どのような形で存在し、どのように活用されているのかという「ナレッジマップ」の構築。また、個々の構成員がどのようなナレッジを保有しているのかという「ナレッジセンサス」などが必要となるが、そうした専門的な手法の前に一般的な環境分析を行うだけでも改革の方向性は随分と明確になる。
如何なる方向に変革すべきなのか。それには、自社の相対的なポジションや、強み・弱みの明確が求められる。「相対的なポジション」「強み・弱み」とくれば、マーケティングでもお馴染みのフレームワークの出番だ。


■3C、SWOTで自社を分析してみる

3C、SWOTは環境分析のイロハのイだ。しかし、フレームワークはその要素をフレームに当てはめ、安心してしまったり、事実(ファクト)の整理に終始してしまったりしては意味がない。今、やろうとしているのは、如何に組織を改革するか。そして、その原動力として組織内の知(ナレッジ)をどう活用するのかということだ。明確な目標を意識すれば、分析の切り口もはっきする。

・3C分析
ここで求められる3C分析の手順は以下の通りだ。ファクトを洗い出すだけでなく、明確な「意味合い」を出していきたい。
1.Customer:市場環境と顧客ニーズを明らかにする。
2.Competitor:競合が如何に市場環境と顧客ニーズに応えているのかという動きを明らかにする。
3.Company:自社が市場環境と顧客ニーズにいかに応えているのか。応えられていない点(ニーズギャップ)はないか。競合が応えられていない点で自社が勝っている点は何か。その逆は何か。

・SWOT分析
外部環境のプラス要因を機会(Opportunity)、マイナス要因を脅威(Threat)。内部環境のプラス要因を強み(Strength)、マイナス要因を弱み(Weakness)として抽出する。
しかし、有名な割には実際の分析に手こずる代表格がこのSWOTだ。客観的なファクトの洗い出しや、それをプラス面、マイナス面に適切に分類することが実は難しい。しかし、ここでは前項の3Cで導出された結果を勘案し、特に市場環境及び競合環境の中で市場及び顧客のニーズに応えられているか否か。内部的なニーズ適応の武器としてのナレッジの過不足という観点に注目するといいだろう。

今回ご紹介したように、マーケティングで使用される基本的なフレームワークを使用しただけでも自社を巡る環境が明らかになることが理解できただろう。ポイントは目の前の問題や課題に拘泥し、近視眼になることなくフレームワークを活用して客観的かつ、俯瞰的に分析すること。また、分析の視点を今回であれば、「ナレッジの活用」というように明確にすることである。

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2007.11.06

メタボ狂想曲を考える

マクドナルドの牛肉パテ4枚「メガマック」。すきやの牛の具3倍「メガ牛丼」。他にも持ち帰りやコンビニの弁当やでは、ボリュームのあるおかずがダブルに入っているメニューが多数、登場している。
それらのメニューが次々と上市されるのは、市場の強い要請があるからに他ならない。
そして、さらに危険なのが飲食店のランチメニューが「ガッツリ系」になってきていることだ。

関東人からするとお好み焼きや、焼きそばにご飯が付く、関西風「炭水化物定食」はなかなかガッツがいるものだったが、最近の流行はそんなカワイイものではないようだ。
弁当に習って「おかず二倍」。
先日洋食屋で食べたランチセットは「ドミグラソース・ハンバーグとサルサソース・チキングリル」。
脈絡のない二品が皿の上でサラダを挟んで牽制しあっていた。
昨日のランチは丼とうどんの店。
ランチのセットは「丼ORうどん」ではなく、全て「丼ANDうどん」。二倍だ。
しかもカレーうどんと味噌カツがお勧めらしく、味噌カツ丼と小カレーうどん(小といってもかなりボリュームあり)のセットが一押しでメニュー表示されている。総カロリー数は恐ろしくて想像もできない。

ファストフィードや弁当、ランチの「メガメニュー」や「二倍メニュー」は言うまでもなく「メタボ撲滅運動」の反動だろう。
やはり、ものごと、何らかの働きかけをすると、その「反作用」が起る。
働きかけが大きいほど、反作用も大きくなる。
男性のメタボリックと判定されるウエストサイズが85センチなのか、90センチなのかが激論の末、厳しい85センチのままに落ち着いた。
来年度からは企業は社員の健康管理、メタボリック防止も制度化される。
こうした厳しさがより大きな反動を生んでいるのは想像に難くない。

メタボリックシンドロームと、それによって引き起こされる様々な疾病が啓発されることは歓迎すべきことだろう。
しかし、一方で「疾病啓発」は実は「病気のマーケティング」となる側面も見落とせない。
世間の人々、例えばある程度の年齢以上の人ならば、概ね当てはまるような事項をもって、「病気、もしくはその予備軍です」と断定する。疾病啓発によって「病は作れる」のである。
さらに、その断定する基準を厳しくすればするほど、マーケットは拡大する。しかも予防が法制化されるとあっては、巨大マーケットが出現することになるのだ。
逆に基準を緩くすることは、その市場をシュリンクさせることになる。

メタボを巡るこの狂想曲とも言うべき悲喜こもごも。
「たべた~い、でも、やせた~い」という名コピーでかつて女性向けダイエット食品が一世を風靡したが、世の男性はあまり我慢ならずに喰ってしまうようだ。
あまりに反作用が大きくならないように、適正な疾病啓発と、市場形成がなされることを願って止まない。
・・・最近はけなくなった30インチのジーンズを前にして。

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2007.11.05

制約条件を活かせ!:馬路村の伝説

「土地を自由に使って建物を作れ」といわれた時、広い土地と狭小な土地のどちらがユニークに仕上がるだろうか。要するに、制約条件をどれだけ活かせるかが問題なのだ。

筆者は現在、地域活性化のプロジェクトに参画している。どうやらその世界では結構有名なようなのだが、含蓄のある話を聞いたので紹介したい。
高知県の山間に馬路(うまじ)村というところがある。空港からローカル線と山間の道を辿った先にある。東京からは優に5時間を超える。時間的には海外、例えば上海よりも遠いのだ。
そこは日本有数の杉の産地である。つまり、本当に山の中。
その村が有名なのは、今は杉の産出ではない。「柚子」である。柚子の加工品。農協が行っている通信販売での売上が年間33億を超えるという。人口僅か1,000人強の村がである。
馬路村を有名にしたのは、無農薬栽培の柚子の各種加工品の通信販売。しかし、それは初めから狙ってのことではない。様々な制約条件をクリアしていった結果としてそこに辿り着いたのだ。


ご多分にもれず、馬路村も高齢化問題を抱えていた。そして、杉以外には柚子の栽培を行っていたが、畑は急峻な山肌にある。農薬をかけようとしても老人には無理な話だ。従って、無農薬栽培を選択することになる。

無農薬で、しかも手がかけられない柚子の果実。当然、不揃いで見た目がよくない。そのまま販売しても低単価となる。それ故、搾汁したり、煮たり、乾燥させたりと様々な加工を施すことになる。結果として、玉で出荷するより加工度が高いため、高単価・高利益となる。

さらに、当初は全国の物産展などに持ち込み販売していたが、瓶詰めの搾汁液は重い。出荷の問題もさることながら、購入客から宅配を依頼されることが多くなった。それに応えるため、宅配・通信販売を開始した。

村で作った各種の柚子加工品の人気が高まった。しかし、生産をすると柚子のいらない部分が廃棄物となる。狭い村のこと、その始末に困る。何よりもったいない。そして、数を出さないように様々な生産物を考案し、さらにバラエティー豊かな品揃えとなる。

更なる人気の高まりに、一目、馬路村を見ようと見学者が全国各地から集まってくるようになる。しかし、これといって見せるものがない。そこで、生産工場や受注現場などを見学スポットとして整備した。また、使われなくなっていた製材工場や鉄道跡も整備し、ちょっとした見学コースを造った。さらに注目が集まった。


上記のように、馬路村は一連の取り組みを狙ってやったわけではない。村が抱える制約条件の解決に努めながら、愚直に市場の要望に耳を傾けていった結果だ。
今、日本中に地域格差が満ちあふれている。そして、地方は「あれもない、これもない」と声を大にする。中央は「これ幸い」と、いわゆる道路などのインフラやハコモノを提供する。しかし、そんなものは何も生み出さない。いや、むしろ維持費の負担が増すだけだ。全国で問題になっている、整備不良の橋梁がその実態を如実に現わしている。

地方の活性化だけではない。ビジネス全般のこととして考えても、とかく制約条件に縛られ、その対応・解決を考える前に思考停止に陥っていることはないだろうか。
地方の小さな村の取り組みから学ぶことは大きい。

参考:馬路村WEBサイト http://www.inforyoma.or.jp/umaji/
    馬路村農協 http://www.yuzu.or.jp/

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2007.11.02

カードよりも声かけの徹底を望む

コンビニをよく使う。だいたい飲み物を買う。単品買いだ。当然、レジ袋などいらない。
そこで「袋をご利用になりますか?」とか、「このままでよろしいですか?」とか、声をかけられる確率は5割ぐらいか。
声かけを待つのも面倒なので、商品を提示すると同時に「このままでいいです」ということが多いのだが。

だが、昨日から日本フランチャイズチェーン協会(FC協)加盟コンビニエンスストアがレジ袋が不要な消費者用のカードを一部店舗で導入したという。
東京では杉並区あたりが対象エリアらしいので、まだ遭遇していないが、袋がいらない客がカードを提示すると、商品をそのまま差し出されるようだ。

・・・ああ、また不自然な。

以前、高島屋の一部店舗で試行されている、店員から声をかけられたくない客が、「S.E.E.」カードというものを首から提げるというサービス(?)を紹介した。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/06/biz_b168.html
全く同様な違和感がある。

FC協・海江田哲専務理事のインタビューを見つけた。
http://eco.nikkei.co.jp/interview/article.aspx?id=20071031i3000i3

曰く、「2010年に2000年比で、1店舗あたりの使用総重量を35%削減する数値目標を立てた」
「2006年度で19.7%、目標に少し届かなかった」
「アルバイトが替わってしまったりして、お客様への声かけが徹底されていないケースが多い」
「2007年度は何とか目標をクリアするため”不要カード”を導入する」とのことだ。

削減の目標を持つのはいい。また、目標達成が困難な事情・理由もわかった。
が、どう考えてもその店頭での光景は不自然ではないだろうか。

店員への徹底がうまくできないので、来店客に意思表示のカードを出させる。
何とも不気味な無言のやりとりと感じるのは私だけだろうか。
高島屋のカードもそうだった。
声をかけてほしい客と、欠けてほしくない客の見極めを店員ができないので客に首からカードをかけさせる。
人と人の意思疎通が、努力ではなく代替手段によってどんどんスポイルされていくように感じる。

レジ袋削減による環境負荷軽減効果がどの程度なのかわからないが、確かにできるところからコツコツとやることも必要だろう。
削減努力が何らかの原因でできないのであれば、その解決に知恵を絞ることも。
しかし、前提として人と人のコミュニケーションを介することは忘れないようにしてほしい。


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2007.11.01

ある日のランチの風景

タイミング的にこの場を逃すとランチを取り損なう。
普段、めったに百貨店のレストラン街で昼食を摂ることなどないが、まぁ、たまにはいいかと足を運ぶ。

かつての「デパートの大食堂」のような、牧歌的というか、家族的な雰囲気はない。
百貨店自体が高級志向の店だからか、名店が軒を連ねる。
中高年の主婦グループか、子育てママグループが多く見受けられる。一様に身なりがいい。
ビジネスパーソンの姿は非常に少ない。
それもそのはず、メニューの平均的な価格は軽く1500円を超え、2000円オーバーも少なくない。毎日の昼食には少々予算オーバーだ。

若い男女と一人の中年男性のビジネスパーソンが店に入ってきた。
メニューを見てちょっと躊躇したようだが、若い人たちはちょっと奮発という判断をすぐにしたようだ。
中年氏は逡巡の色が隠せないが、やがてオーダーをした。
かくして運ばれてきたのは、どう見てもお腹いっぱいにはならないような、少食の人向けで単価の安いコース。ちょっと気の毒。
しかし、ビジネス街のランチ風景からすると、ここは異空間だ。

少し早めの時間だが、ランチを切り上げ駅に向かう。
改札に隣接したレストランでは、多くのビジネスパーソンがランチを摂っている。平均的な価格は1000円前後。
とても安心できる。随分と混んでいるけれど。

さらに電車に乗るためにホームへ。
片隅には立ち食い蕎麦の店。多くの人々が、鞄を脇に抱えたり、経った足下に挟んだりして、忙しく蕎麦をすすっている。単価は500円以下。この風景にも馴染みがある。

ホームから、改札まではエスカレーターで一本。
改札から少し歩いて、エレベーターで十数階上がると異空間のランチが展開されている。
これも同じ東京という街の、同じ時間の風景だ。

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