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23 posts from August 2007

2007.08.31

「お客様の声は宝の山」をただの伝説にしてはいけない

書店へ行くと平積みで「クレーム対応本」が販売されている。売れているようだ。
しかし、いわゆる「クレーマー」という定義は未だ世間で曖昧なままな気がする。
当Blogでも幾つかの企業や店舗での顧客対応における問題を取り上げているが、そうすると「このクレーマーが!」と指弾するメールが来る。

確かにこの手の記事は可燃性が高く、また突っ込まれるのは嫌なのだが、この辺りで少し整理してみようと思う。

そもそも「クレーム」とは何か。
これがまた曖昧。

一応、Wikipediaから引用する。
<クレーム(英:Claim )とは、原義では「要求」やその要求の正当性を主張する事。苦情(くじょう)を指すが、他の意味では契約違反における損害賠償に関しても同語が用いられる。日本語に於ける和製英語としてのクレームでは、しばしばごり押しによる不当な強迫行為と混同されるケースも見られる。>

要素が少し渾然としているようだ。
そもそもが”claim”と”complaint”が一緒になっている。
ジーニアス英和辞典では以下のようにある。(主な部分抜粋)

【claim】
1.求める,必要とする 
2. (当然の権利として・自分の所有物として)〈物・事・損害賠償〉を要求する,請求する

【complaint】
1.不平,不満,泣きごと,愚痴
2.不平[不満]の種;[遠回しに] (身体の)病気
3.不平[不満]の訴え
4.〔法〕不服申立て;告訴;((米))(民事訴訟における)原告側の最初の申し立て

上記を見ると、claimの2とcomplaintの4が似ていて混乱を招くきやすいが、語義としてはclaimは「求めること」。complaintは「(不明・不満を)言うこと」であろう。
しかし、Wikipediaが指摘する「日本語に於ける和製英語としてのクレームでは、しばしばごり押しによる不当な強迫行為と混同されるケースも見られる」という点が日本独自の問題点であろう。

クレームという言葉で問題になるのは「狭義の」claimの方。
Wikipediaが指摘する「ごり押しによる不当な強迫行為」を指しているのであろう。
「東芝クレーマー事件」などの記憶がよりそれを強めている感もある。

言葉の定義というものは重要だ。「クレーマー」を指弾するなら、「悪質な、ごり押しによる不当な強迫行為を為す者」を、「悪質なクレーマー」と明確に分類してはどうか。

生活者が企業や行政に物を言うことは少しも悪いことではない。
それが、指弾されるのであれば、言論に対する抑圧である。
そこに不当性があるかどうかが問題なのだ。

例えば、claimにおいて、本来の意義通り「 (当然の権利として・自分の所有物として)〈物・事・損害賠償〉を要求する,請求する」ことに何の問題があろうか。そこに「客観的な正統性」があるのであれば。

また、ここで大事なのは「当然の権利としての”事”」に、「誠意ある対応」や「謝罪」が含まれていることだ。
サービス提供者も完璧ではない。いや、何らかの明確な落ち度を指摘されているケースも少なくない。
では、落ち度があるのであれば、それを認め、、「誠意ある対応」や「謝罪」を行うのは至極当然なことである。

また、complaintとして、「不平,不満,泣きごと,愚痴」ぐらい言ってもいいではないか。社会的な通例から逸脱していないのであれば。また、多少なりとも問題があったなら。
claimもcomplaintも、「忌むべきもの」とされてしまえば、企業・行政と生活者の溝は埋まらず、サービスレベルも向上することはない。


一番恐れているのは、「クレーム対応本」の流行において、本来問題となる「悪質なクレーマー」ではなく、本当に不本意な対応にあっている無辜の生活者までが十把一絡げにされてしまうことだ。

何冊も話題の本を読んだが、本来必要な「顧客対応接点」の担当者に、本当に必要なノウハウを教えるものではなく、抑えたトーンながら「こんな困ったヤツがいて、こうして切り抜けた」という「読み物」として一般に供されていることも少なくない。
極端な例が一般化されている。

金森自身も、コンタクトセンター時代や、広告会社でのキャンペーンを担当していた時代に、様々な苦情に対応した。
しかし、そこに一般に公開するような「読み物」としての面白さは感じない。

確かにインターネットの普及によって、行政・企業と生活者の垣根はなくなり、簡単にモノを言えるようになった。また、それが伝播しやすくなった。
だが、それはネガティブなことばかりではない。
「お客様の苦情は宝の山」という言葉がある。
そこから貴重な意見が抽出され、優良なサービスや製品が開発された事例もある。

より環境が整った今日、「宝の山」が単なる「伝説」とならず、さらに活性化されるように祈らざるを得ない。
一生活者として。かつての顧客担当業務従事者として。

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2007.08.30

アナログ探索によって時空を超える

グーグルで検索して調べ物。「ググる」という言葉も随分一般化した。
だが、「検索サイト利用の落とし穴」として、8月29日の日経夕刊文化面で東京大学総長の小宮山氏が語っている。

<グーグルの検索結果は整理されすぎている。みんなが大事だと思う情報にしか上位に表示されない。下位の情報が実は自分の目的にとっては重要かもしれないのに、無視されてしまう恐れがある。>などの問題点を指摘されている。


しかし、同日の午後、そうしたデジタルの問題点とは全く無縁なナレッジに関わる体験をした。

20070829
9月1日(土)まで古本市が開かれている事務所横の新橋SL広場でのことだ。

前回は大好きなエル・グレコの画集を手に入れた。
実際に、何かを一生懸命探すのではなく、無心で探索してみると意外な発見があるものなのだ。
「検索」ではなく、足で歩き探す「探索」である。

普段はGoogleでインターネット空間を検索しまくり、また、コンサルティングの業務ではEnterprise Searchという最近のキーワードに乗って、いかに社内ナレッジを活用するかとか、文書管理を行うかとか、非常にデジタルな「検索」の世界にドップリ浸っている。
一方で、こうしたアナログの極みの空間で、ぶらりと目的もなく「探索」を行うのは実に楽しい。

古本が並べられている出店の棚には、何となく文庫や画集、写真集や古い雑誌、古地図などが固まって置いてあるため、まぁ、興味の向きに合わせて手に取るべきものを探すことはできる。
これが、デジタル的には各々の本の種類やカテゴリーを属性としてタグ付けをし、インデキシングしようと考えるだろうが、そんなものとは無縁だ。
心地よいカオス。

さて、今回手に入れたものは二点。

070829
一つが「愛と幻想のシャガール・ポスター芸術」。730円也。
1986年2月・東京を皮切りに、全国15カ所の大丸を中心とした百貨店の美術館をまわった展覧会の画集だ。
思えばこの頃はまだ1980年代後半~1990年代初頭のバブル経済のまっただ中。
百貨店の美術館は元気いっぱいだ。
ポスターにスポットを当てた141点もの作品はさぞや見応えがあっただろう。

また、この展覧会は、ちょうどマルク・シャガールの没後1周年というタイミングで開かれている。
シャガールは1985年3月に97歳で永眠している。
没後1周年といっても、正確には1年経たずに開催されている。何と対応の早いことか。
恐らく、バブルのさなか、シャガールの絵は高値で売れたのだろうなとも思う。
当時の世情が思い起こされて実に興味深い。

ちなみに、「1986 シャガール ポスター」という検索クエリでGoogleを検索してみる。
かろうじて1件のオンライン書店でこの画集を見つけ1,890円の値がついているも、売り切れ。
そもそも、筆者は同書の存在を知ってはいなかったので、デジタルの世界では出会ってもいなかったわけであるが・・・。

070829_2
もう一つが大正8年刊「新選各科教授法」。500円也。
「本書は師範学校における教育科の系統的教科書として編纂したるものにして、明治四十三年初版発行以来、幸に全国各府県に於いて師範学校用又は教員検定試験用として採用され、既に数版を重ねたり」と巻頭言にある。
今日、教育がゆれている。また、戦前教育への批判はかねてより強い。
しかし、まだざっと見ただけであるが、注目すべき点も多い。

本書の第六節「綴り方教授」、第四「教授の主義」においては、文章の書き方を児童に教える時、いかに自由な発想をのばしつつ、一方で文法や論旨組み立てなどは統制をかけ指導をするかという、そのバランスが重要であるなど、非常に重要なポイントが示されている。
基本的にはこの教本においては、学問の基本は国語にありとする考えがあり、極めて賛同できる。
また、文法教育が主かと思いきや、そうでもないようである点は発見だ。

一方、国語に次ぐ重要な教科は歴史であるとしている。
第四章「日本の歴史」のこあたりは、今回うっかりしたことを書くには惜しい内容だ。
ちょっと読んだだけでも当時の歴史観と今日の歴史観の違いは鮮明で面白い。
敗戦国となった日本の歴史観といかに違うのか。
また、戦前を全否定する色眼鏡でなく、まっすぐにこの本を見た時に何が見えてくるのか。
これは時間をかけてじっくり読み込んでみたいものだ。
・・・旧字体と文語調なので、だいぶ時間がかかってしまうが。

しかし、こんな書籍がネットの世界で発見できようか。
専門家でもない人間が出会い、インスパイアされて思索の幅を広げることなどあろうか。
何とも素晴らしきアナログ探索の結果であろうことか。


ちなみに、この本は最終ページに持ち主の名前が書かれている。
「台南第一高等女学校 酒井知恵」とある。
本には持ち主の書き込みがいくつかあり、重要とおぼしきポイントが示されている。
1919年から2007年までの88年の時間と、台南から東京まで約2,000㎞の距離の彼方からこの本の読み方がナビゲートされている。
これはまさに、時空を超えたアナログならではの”ナレッジ・トランスファー”である。


本書には落書きが2点ほどある。
1点は女子学生の制服姿が描かれている。この女子師範学校の制服だろうか。
もう1点は「神田先生」と記された、七三分けに小振りなメガネ、髭を蓄え教本に目を落とした紳士の姿。
あこがれの先生なのだろうか。
もうとうに亡いであろう人の思いまで伝わってくる。


デジタルに染まっている身だからこそ感じる感慨かもしれないが、アナログとは何とも心動かされる味わい深いものであろうか。

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2007.08.29

iフォンに学ぶ:「技術」は誰がためにある

マーケティング環境分析には「技術」というキーワードは必ずついて回る。
マクロ環境分析・PEST(Political・Economical・Social・Technological)では、その分析項目の一つになっているだけでなく、お馴染みのSWOT分析でも頻出する。
そして、分析の際によくあるのが、「技術力がある」などという表現だ。
研修などであれば、まさにそこは「突っ込みどころ」である。
「その”技術”って一体どんな技術なの?」・・・と。

「技術」という言葉は、ともすると「最先端の技術」がイメージされやすい。
広辞苑によれば「科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工し、人間生活に役立てるわざ」とある。
ポイントは「科学を応用・人間生活に役立てる」だろう。つまり、最先端であるか否かは問題ではない。

日経新聞8月27日朝刊に「使い手本位でiフォン旋風」「アップル、来月100万台へ」「技術至上の日本に教訓」の見出しが躍る。
最後の「技術至上」という表現が記事の内容を端的に表している。
<アップルがiフォンで申請した特許は二百件にも及ぶが、実際の技術の多くは他社からの「借り物」でそろえた>とある。
それに対し<半導体や液晶などの自前技術を生かすため、使い手に何の利点があるのか分かりにくい独りよがりな製品を作ることも多い日本メーカー>とし、
<「(部品から最終製品まで手がける)垂直統合が強さの源泉」>というソニーが引き合いに出されている。

ここでは二つのものの見方ができよう。

独自の、最先端の技術を追い求めることは、その企業の力、ひいては国力を衰えさせないために重要なことである。
目先の収益確保に限り基礎研究をおろそかにし、中央研究所や技研を縮小するメーカーは長期的な成長の芽を摘んでいることにもつながる。
また、国立大学の独立法人化は大学発の基礎研究が圧迫され、国力を衰えさせるという批判もある。
そうした動きは避けねばならない。

しかし、生活者・顧客を目の前にしたビジネス、マーケティングにおいては、技術はその使われ方を機軸に考えねばならない。
「技術」という言葉本来の「人間生活に役立てるわざ」という部分だ。
スティーブ・ジョブズはiフォンにおいては彼の独特のデザインに対するこだわりもあるが、徹底して顧客の使い勝手にこだわったという。
そのためには通信キャリアの仕様まで変えさせ、独自機能も実現させている。
現在、自分の傍らにある携帯電話で、使いこなせていない機能、必要ない機能、必要だが使いにくい機能はどれほどあるだろう。
また、そうしたユーザーの不満を内包しながらも、最先端技術満載の日本の携帯電話は国際市場では特異な仕様に執着するため僅かなシェアしか確保できていない。

技術は最先端であればいいわけではない。
過去の工業製品の歴史を見れば、古くは精巧さ、緻密さは、加工する職人のまさに「職人技」という「技術」が担ってきた。
それが工業化が進み、工場生産のための「標準化」「大量生産化」という「技術」が重要になってきた。
さらに機能伸長を図るため「最先端技術」が用いられるようになってきた。
一方ではさらなる普及のため、場合によっては「簡易化」という「技術」も用いられる。
逆に希少性を高めるため「職人技」に回帰し珍重され製品もある。

マーケティングにおいてもう一つ重要な概念として「コンセプト」というものがある。
「”誰”が”いつ””どんな時”に使用し、”どんな便益”を得るのか」を考えるのだ。
繰り返すが、技術は「人間生活に役立てるわざ」である。

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2007.08.28

アマゾン森林破壊:ニーズを無視した便乗で森を焼くな

何度も当Blogに記してきたマーケティングの基本。
ニーズとウォンツの関係。
「ニーズとは、状態に対する欲求。ウォンツとはニーズを満たす手段やモノに対する欲求」。

もう少し詳しく記す。
「理想とする充足状態と現状の不足状態のギャップがニーズ。そのニーズのギャップを満たす具体的な方法がウォンツ」である。

有名な言い回しがある。
「顧客はドリルが欲しいのではない。穴を空けたいのだ」。
つまり「ドリルをください」と言っている顧客は、何らかの理由で穴を空ける必要に迫られている。
しかし、その道具が手元にない。
よって、穴を空ける実現手段としての「ドリル」を欲していると説明できる。

では、「バイオ燃料をください」という言葉は・・・当然「ウォンツ」だ。
とすれば、どんなニーズ、つまり「理想とする充足状態と現状の不足状態のギャップ」があるのか。

至極当然のことで、「理想とする充足状態」は、地球温暖化に歯止めがかかること。
「現状の不足状態のギャップ」は、従来の化石燃料では環境負荷が高いということ。
そして「ニーズのギャップを満たす具体的な方法」として、環境負荷が低いといわれるバイオ燃料への転換が求められているということになる。

しかし、全くそのニーズとウォンツの関係が根本から覆った光景が新聞紙面に掲載されていた。
8月25日(土)日経新聞夕刊・一面の特集「環境SOS」。「アマゾン森林破壊」「”バイオ燃料”農地の皮肉」とある。
大豆がバイオ燃料向けとして需要が増え、密林を切り開いた土地でも育てられているとある。
別の場所であろうが、同じバイオ燃料の原料であるサトウキビの栽培のため森が伐採され、このままでは生活の場を失うと訴えるアマゾン先住民族の老人が以前メディアに取り上げられていた。

アマゾンではここ5年で東京都の10倍に相当する熱帯雨林が失われたという。
アマゾンの熱帯雨林は地球上の酸素のおよそ20~30%作っている。
その熱帯雨林を伐採するということは、地球環境へ深刻なダメージを与えることは誰にでもわかる。
「バイオ燃料」が求められるのは、「理想とする充足状態」として、地球温暖化に歯止めをかけるため。
その根本的なニーズを無視して、「ウォンツの対象物」だけを供給するのは完全な「便乗」であり、許されることではない。

バイオ燃料は既存のエンジンを改造することなくそのまま使う事が最大の利点だ。
本来、「ニーズギャップ」を埋めることができる「ウォンツの対象物」として、「すぐにでも始められる環境対策の優等生」であるはずが、一部の人間の悪意で本来の価値がスポイルされてしまった。

温暖化対策はもはや一刻を争う故、普及のしやすさが求められるのは事実。
しかし、人は易きに流れるもの。
その生成が容易で分かるとなると、本来の意味を無視して私欲に走る輩が現れる。

代替品としては即効性が求められるのかもしれないが、その生産の過程、由来を厳重に監視して、ニーズを無視した便乗は戒めなければならない。
また、普及のしやすさという面にのみ捕らわれず、便乗の温床を許さないためにも、一層のイノベーションが促進されることを切に望む。
既に実用されているハイブリッドの一層の普及や、もうすぐ実用化されるであろう燃料電池などへの期待が、無惨な熱帯雨林の姿を見ると大きく高まる。

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2007.08.27

なんだか一言足りないなぁ

来店客に一言声をかける。確認をする。店の状況を伝える。適切な案内を行う。
飲食店に入ったら必ず行われるはずの「基本動作」だ。
「いらっしゃいませ!」「1名様ですか?」「順番にご案内しますので、お掛けになってお待ちください」・・・。

夏休みの土曜日の午後。汐留は日テレを中心に残り少ない夏休みを楽しもうとする家族連れで結構な賑わいだ。
昼食を摂ろうと覗き込んだカウンタースタイルの店には親子三人連れが先に待っていた。
だが、空席はある。さほど待たされないだろうと思い店に入った。

あれ?「いらっしゃいませ!」がない。
カウンターだけの店で、入り口は端っこ。カウンターの中の店員は気付いていないのか?
程なく姿が見え、目が合う。が無言。ヤツは目が悪いのか?
入り口に椅子が並べ立てある。外から見えた親子連れが座っている。黙って並んで座って待てということか。
おとなしく座って待つ。

しばらくしても店員に動きはない。明らかに空席があるのに。
厨房の限界を越えて新規オーダーが立て込んだときは、空席があっても席に通さないのはファミレスなどではよくある事。そんな状況かと思い、客の食事の進み具合をそれとなく覗く。
多くはほとんど終盤だ。時刻は13時過ぎ。そんな頃合いだ。厨房の混乱はなさそうだ。

カウンターに3つ並んだ空席がない事に気付く。
もしかすると、先に待っている親子連れを追い越して後の客を先に通さないポリシーなのか?どうにも合理的じゃない気がする。
それがポリシーだとしても、説明があってもいいんじゃないか?

所が、親子の会話。
「ママ、いつになったら食べられるの?」「うーん、どうなっているのか判らないわねぇ」。

食事中の客に「3名様がいらっしゃるので、お食事中申し訳ございませんが、一つ席をずれて頂けませんか?」とは言わないのは方針なのか。
それが先に食事をしている客にそんなに失礼にあたるとも思えない。
カウンター席なので、すっと一席ずれるだけのことだ。
そうでなくとも、「3つ並んだ席が空くまでお待ちください」とその親子連れの客に説明するべきではないのか?

何とも一言足りず、また、機転の利かない対応が続く。

斯くして、食事が終わった客が次々と席をたつも、3つ並び席は空かない。

先の客の食事が順次終わり、ひとしきりレジでの会計が終わると、ようやく親子連れとほぼ同時に席に通された。
その時、空いた席をちょうど埋めるように新たな客が入ってきた。
制約条件のない1、2名の客ばかりなので今度は遅滞なく席に通される。
その影響で、恐らく厨房の稼働率が一気に上がったのだろう。注文した料理はなかなか出てこなかった。

基本動作。
「いらっしゃいませ!3名様ですか?」(カウンターの一人客に)「お客様、お食事中申し訳ございませんが、一つ席をお繰り合わせ頂けませんでしょうか?」
「いらっしゃいませ!お後の1名様、こちらへどうぞ」。

カウンターの店員はフロントオフィスのポジションに相当する。
この担当者の基本動作ができておらず、また、席を繰り合わせるような機転が利かないため、顧客は待たされる。
厨房というバックオフィスの担当者は稼働が平準化されず、大変な思いをする。
斯様に顧客接点担当の働きは重要なのだ。

まぁ・・・結構普通のコトだと思うんだけどなぁ。

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2007.08.24

「朧気になる日常と非日常の境界」

 当たり前だと思っている自らの日常。しかし、思わぬところで非日常との境界線がおぼろげになっていることに気付く瞬間がある。夏期休暇中に南の島で考えた “日常”と“非日常”をキーワードに記してみる。

■ ニンテンドーをめぐる日常と非日常
ゲーム機として「NINTENDO」はそのまま英語で通用するそうだが、日本の子供たちにとってニンテンドーDSは日々の行動にもすっかり欠かせない存在になっている。旅の友としても空港の出発ロビー、機内などの退屈な時間をつぶすにはもってこいだ。だが、リゾート地に着いてからも暇さえあればゲーム機を開く。安くはない旅行代金を払った親たちは怒ったり嘆いたり。しかし、子供たちはどこ吹く風。ふと思うが、リゾートという非日常的な空間においてゲームの中の異世界に入っていくのはどんな気持ちなのだろう。
そのリゾート地の外れ。中心地を遠く離れた、かつてサトウキビ栽培や畜産で栄えた街。今では産業構造が変わり、街はすっかり寂れ、親たちは遠く離れた中心地のホテルなどの観光産業に従事するために、長い時間家を空ける。そんな街の子供たちにもニンテンドーは人気だという。リゾート客の目には非日常的な美しい海と豊かな自然と映る風景が、彼らにとっては退屈な日常でしかない。退屈な日常から逃亡するが如く、ゲームの世界へ。そんな話を聞くと、美しい景観ももの悲しく見えてくる。
しかし、傍らでゲームに興ずる日本の子供たちをもう一度見つめ、その日常を考えてみると、また違った姿がえてくる。日本の子供たちの日常といえば、学校に塾、習い事に受験などと忙しくも厳しい。その日常に代って、本来非日常であるはずのゲームの異世界が逆に日常化しているのではないか。置き去りにされた寂れた街の退屈な子供たち。忙しくも厳しい日々を過ごす日本の子供たち。全く環境は異なるが、日常から逃亡するが如くゲームの異世界に入っていく姿に両者が妙に重なって見えた。

■ ネットというバーチャル空間での日常・非日常
しかし、子供たちだけではなく、日々の生活の中で、日常と非日常を行ったり来たりしているのは筆者自身であると気付かされた。ネットへの接続をめぐっての出来事を通じてだ。
最初の島は田舎ながら“高速インターネット回線あり”とのことだったが、どうにもうまくつながらない。仕方がないのであきらめてリゾートに耽溺する。すると、かつてない開放感が押し寄せてきた。知らず知らずのうちに、ネットという網に絡め取られていた自分に気付く。
しかし、開放感も束の間。旅の後半は都会の島へ移動したが、そこでも無線LANにうまく接続できなかった。次第に“ネット飢餓状態”になってきた。現地での行動もネットでの検索に依存しようと思っていたし、旅行中に仕上げたい仕事も検索が欠かせなかったからだ。しかし、あきらめて旅行情報は現地で人に丁寧に聞く、パンフレットを収集するという情報収集の基本に戻った。仕事は頭の中の情報を頼りに仕上げた。すると、基本に立ち返った旅行の楽しさや、仕事における頭の中の棚おろしという、思わぬ効用が現れた。
最近ではGoogleで検索することを「ググル」という言い方もすっかり一般的になり、ふと気付くと自らの思考を働かせる前に「とりあえず検索」するという行為に慣れきっている人も多いだろう。だが、考えてみればそれは少々異常なことではないのだろうか。何かを考えるには人間はまず、自らの記憶装置である脳内のストック情報を参照するはず。インターネット上の情報を検索するという本来、補完的な行為が常態となってしまっている。思考は深まらず、とりあえず検索キーワード(検索クエリ)を考えるところまでで停止し、パソコンのブラウザに現れる検索結果を眺める。
ネットによる検索が日常化し、つながらないという状態が非日常化していたが、よく考えればインターネットはバーチャルな存在であり、そこに依存しすぎると自らの主体を見失う。この出来事に自らが戒められた気がした。

今回筆者は“夏季休暇”“海外”という非日常的な時間・空間に身を置いて様々な気付きを得たが、よく考えれば日々の日常の中にもふとした非日常が潜んでいる。それに気付き、日常・非日常の対比から一歩違った視点を持つことができれば様々な発見があることだろう。以前から“タウン・ウォッチからの発見“をお勧めしているが、さらにそこに日常・非日常という時間・空間の視点を加えてみることをお勧めしたいと思った夏であった。

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2007.08.23

ナレッジのアウト・インはリジリドゥを奏でる如く

オーストラリアの先住民、アボリジニの楽器「リジリドゥ」をご存じだろうか。
彼の民族音楽には欠かせない存在であり、空気を低く震わすその音色はいつまでも絶えることなく鳴り響き、聞く者の魂までも震わせる。

「リジリドゥ」。「ノンブレス」とも呼ばれる別名が表す通り、一人前の奏者は「一体、いつ息をしているのだろう?」と心配になるぐらい、いつまでもその楽器を吹き続ける。

その秘密は、彼らは「息を吐きながら吸う技術」を体得しているらしい。

現地では土産にリジリドゥが売っている。
購入して、少し練習すれば何とかそれっぽい音は出る。が、ちょっと鳴ってオシマイ。「吹き続ける」なんて状態には程遠い。
土台「息を吐きながら吸う技術」なんて一朝一夕にできるわけがないのだ。

転じて、思考プロセスの話。
常々思っているのは、自分自身の「ナレッジのインとアウトのバランス」。

コンサルティングやプランニング、講演や研修の講師、各種の執筆活動。
これらは基本的には「アウトプット」だ。
きちんと新たな情報やナレッジを「インプット」しなければ枯れてしまう。
枯れると「つまらない人」になり、仕事にならなくなる。とても困る。

なので、できるだけ最低でも自分の時間の10%は純粋にインプットのための時間として確保するように努めている。
だが、そうもうまくいかないのが現実。また、圧倒的なアウトプット量のためには僅か10%のインプットの時間では足りない。

そこで「リジリドゥ」である。
ナレッジをアウトプットしながらインプットするのだ。

コンサルティングでは、アウトプットしながらクライアントの反応や言葉から新たな情報や気付きをインプットする。
講師活動では、アウトプットしながら受講者とのやりとりでインプットを得る。
執筆活動では、頭の中にストックされている情報を再構築しながらアウトプットして、再び整理体系化してインプットする。
全てアウトプットしながらインプットを行う。自分の頭の中で、ナレッジを再生産していくことがポイントだ。
何か一つが終わった時に真っ白になり、また一から情報収集を始める苦労をしないためにも重要なことだ。

金森は誰に教わったことではないが、他にも知らず知らずにこうした頭の使い方をしている人も多いのではないだろうか。
「自分は今、何をアウトプットしていて、そこから再度インプットできるものはないか」を意識していれば難しくはない。
息を吐きながら吸うこと。恐らく無意識にできることではない。だが一度コツをつかんでしまえばいつまでも楽器を吹き続けることができるのだ。

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2007.08.22

中華航空機炎上:基本の励行なき奇跡は続かない

「奇跡の」「間一髪」という文字が紙面に躍る中華航空機炎上からの脱出劇。
結果として「90秒ルール」は守られた。
90秒ルールとは、米連邦航空局が制定した「機内の全非常用脱出口の半数以内を使って90秒以内に、乗員・乗客全員が脱出できるような機体の設計を航空機メーカーに求る」としたもので、欧州各国や日本も準じたルールを取り入れているという。

全員無事という、奇跡の結果はありがたいことだが、個人的にはこの90秒ルールが守られたこと自体が一番の奇跡だと考えている。
ここしばらく、航空機に乗る度に「危ないな」と思っていたことがあるからだ。

以前だと客室乗務員が機内のアナウンスに合わせ、安全確認のデモンストレーションを行っていた。
通路で非常口の場所を指し示したり、非常灯の説明。シューターからの脱出姿勢や、救命胴衣や酸素マスクの着用法などだ。
いつしかそれは客室内のスクリーンにビデオが投影されるだけになり、省略された。
しかし、実態は誰も見ていない。
シートポケットの安全のしおりを手に取る人もほとんどいない。

先日の夏季休暇中に、ハワイ・オアフ島とハワイ島をローカル線で移動した。
その時は客室乗務員は、先に記したデモンストレーションを通路でやっていた。
実際、人間が実演するのと、ビデオが投影されるだけなのとでは、乗客の注目度が全く異なる。
乗り合わせたローカル線の乗客の視線は、きちんとデモンストレーションを行う乗務員に向けられていた。

「どうせそんなものを見ても、墜落したら助からないんだから」という半ば諦念もあるのかもしれない。
しかし、今回の事故のように脱出の際のスムーズさが生死を分けることもあるのだ。
果たして、中華航空機が客室乗務員のデモンストレーションを行っていたのかは分からない。
そうでなければ、今回の迅速な脱出劇は正に「奇跡」なのかもしれない。

マーケティングの分析作業でもそうだが、慣れてくると本来の手順を省略して結論を急ぎたくなる。
習熟度が上がれば、それでもさほど問題は起きないが、時として大事な部分でモレ・ヌケが発生し、
結果に大きく影響して痛い目を見ることもある。

やはり何事も基本の励行が重要なのだ。

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2007.08.21

500 ・ 700

500
N700

タイトルだけで分かった方。たぶん同好の士ではないだろうか。
正確には700ではなく乗ったのはN700。新幹線新型車両。
で500は同じく新幹線のレア車両。

スミマセン。思いきり今日は趣味に走った内容です。
が、「デザイン」という切り口で少しまとめてみたいと思います。

先週末の名古屋出張では、狙って行き500系、帰りN700系のグリーン車を取ってみました。
いや、座席予約の埋まるのが早いこと早いこと。
(写真左が500系・右がN700系)

N700系は現在の東海道新幹線の主力車種である700系をブラッシュアップした車両だ。
最高速を向上させるために、レールと台車の位置はそのままに、客車を遠心力に合わせて傾ける構造が特徴のようだ。
確か、中央線特急の「スーパーあずさ」もそんな構造だったと思うが、詳しくはオールラウンド鉄道オタクではないので不明。(新幹線専門なもんで・・・。)
一方の500系もかつて最高速向上と、トンネルの出入りにおける騒音軽減を目指し、極端なまでの流線型のフォルムを追求した車両だ。
あまりに尖鋭なフォルムは先頭と最後尾車両の座席数を犠牲にしたため、JRの営業サイドから待ったがかかり、現在はわずか2両だけが運行されているレアな車両だ。

と、まぁ、車両のうんちくは置いておいて、デザインの話。
さて、新幹線オタクではない方から見て、両車両のデザインはどう映るだろうか。

個人的には営業効率の悪さは乗客には関係ないので、圧倒的に500系の方がかっこよく思う。
実は、ベースになっている700系から既にその車両デザインは、見た目よりも空力特性の良さを追求したと聞く。
さらにNとしてブラッシュアップする際には、誰がデザインするのではなく、何度も何度もコンピュータでの空力シュミュレーションを繰り返し、最終形に至ったという。
人の感じる美しさと、コンピュータのはじき出す正解は必ずしも一致しないという一例になろうか。

では、先頭車両のデザインだけではなく、車体にも目を向けてみると、実は乗り心地の面でもコンピュータに軍配が上がる。
500系は好きなのだが、外観から見られる、車両全体がチューブのように丸みを帯びた側面は、そのまま座席側にも影響し、窓側の席がどうしても圧迫を受ける。
それでも「グリーン車なら、500系のシートの方がホールド感がよくて好き」とか言っても勝ち目は乏しい。
何と言ってもN700系の方が空力に優れ、また、何年もの技術の開きから消費電力が全然少ないのだ。
世界中で温暖化防止が叫ばれている昨今、消費電力まで持ち出されたら、新型車両の優位を認めざるを得ない。

これからの世の中、効率や環境負荷を考えた時には、人間の感性が入り込むより、コンピュータに任せた方がいいのだろうか。
何だか「カモノハシ」みたいで好きになれなかった700系車両(500系車両の写真左側に映っている)の顔が、今度はN700 系になって無表情なヘビみたいに見えてきた。
わざとらしいまでに尖鋭に引き延ばされた、どことなく「20世紀に考えた未来的デザイン」という感じの500系は、何だかデザイナーの意図や好みがにじみ出て人間くさい感じがする。
これからの世の中は益々効率と環境負荷軽減が最優先事項になっていくのだろう。確かにこのN700系はよくできた車両だと思う。
でも、あまりに人間味が感じられないデザインばかりに囲まれた暮らしはどうにも息が詰まってしまうと思うのはいけないことだろうか。

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2007.08.20

サービスと信頼の好循環

すっかり名古屋での定宿となったマリオット・アソシア。
その顧客サービスにすっかり満足しているのは以前記したとおり。(前回記事はこちら

先週末、また1泊したがいつも通り夜遅くチェックインし、部屋へ通される途中、おや?と思った。
階数は定まっていないが、いつもお気に入りの形の部屋番号ではない。
このホテルは全体が円形をしているため、各部屋の形状は微妙に異なり、また、窓の向きは全て異なる。
お気に入りの部屋は角部屋で、少々変わった間取りのため一般には好みが分かれるかもしれないが、広い感じがする。
また、窓からの景色は目の前に名古屋駅からまっすぐに伸びる桜通りと、有名な「大名古屋ビルヂング」、遠くに名古屋城が望める。

部屋に到着すると、やはりいつもとは全く違う部屋だ。特に不満を呈するほどのことではないが、とりあえず部屋の中を確認する。
いつもの変形の部屋ではない、四角い部屋だが希望通り角部屋のようだ。フロア図を見ると、数少ない建物の円形部分ではない部分の角部屋だ。
窓のカーテンを開けてみると、いつもと違った夜景が目に飛び込んでくる。
片側の窓は名古屋駅をまたいで「太閤口」側が一望できる。高い建物のない側なので、一面の夜景が美しい。
もう片方は窓から長く伸びた線路が遠くまで望め、その夜景も旅情を誘う。

最初に部屋に通された時は「さてはいつもの部屋が確保できなかったのか?」と思ったが、よく考えればこれはサービスなのかもしれない。
実際に、いくら気に入っている部屋、眺めでも毎回では飽きる。
そして、新聞、入浴剤、浴室の踏み台のセットのしかたまで、いつも通りパードナライズされたサービスは提供されている。
手違いでいつもの部屋と異なったでわけでない証拠だろう。
また、この部屋は確か同じ料金プランの中では最上階の部屋だ。

実際のところ、突き詰めて考えれば、これが本当にサービスなのか、はたまたいつもの部屋が確保できなかったからなのかは分からない。
しかし、毎度の厚遇を考えれば、これも心憎いサービスであると疑う余地はない。
顧客とサービス提供者間の信頼関係が創り出す好循環を感じた。
おかげでつい、習慣的にいつも同じものを選択してしまう悪いクセに捕らわれず、時々は新鮮に違う部屋に止まる楽しみを覚えた気がする。

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2007.08.17

灼熱の新橋・SL広場で考えた

Nec_0258
熱い。
・・・いや誤変換ではない。「暑い」というより「熱い」という文字が似合う。「酷暑」という表現も正に。
海外の読者もいらっしゃるのであまり気候ネタに終始したくはないが、何しろ昨日は岐阜の多治見市と埼玉の熊谷市で国内最高気温の”40.9℃”を記録した日だ。日本中が炙られている。

写真は事務所横の新橋SL広場の寒暖計。38℃。広場はコンクリートブロック敷きなので、恐らく地表温度は40℃を軽く超えているだろう。ブロックに生卵を落とせば目玉焼きが出来上がるはずだ。・・・炙られている。


「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」


暦の上ではもう立秋を過ぎ秋らしい。大暑は二十四節季では7月23日ごろから立秋までを云うのでいささか季節外れではあるが、この村上鬼城の俳句ほど今日の気候に似合う情景を表わしたものはないだろう。

こんな気候の中、昨日まで三連発で「モノの考え方」についての記事をアップしてしまったが、読者の方から「そうは言っても、暑くて無理です!」というメールを頂いた。そりゃそうだ。大変申し訳ない。

だが、敢えて今日のメッセージでシンプルにお応えしたい。
「暑くても、脳みそがトロケそうでも、とにもかくにも何か考えてみよう!理屈をこねてみよう!」だ。

正直、この暑さでは思考力は停止せざるを得ない。
が、敢えて考えてみることをお勧めしたい。
俳人、村上鬼城も恐らく大暑の季節に脳みそがトロケそうになった状態で先の句をひねり出したのだろう。
逆境を活かすとはさすがである。

・・・いや、正直に白状すると、金森も脳みそがトロケそうだ。
だが、この程度の理屈のコネ方をやってもらいたいというサンプルとして、今日の記事をアップする次第だ。

(一向に熱気が収まることのない、前日の夕刻に記す。)


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2007.08.16

自己流フレームワークのススメ

考え方のヒント第三弾。マーケティング教室的Blog記事。以前の内容を参照すると特に前半が理解しやすいです)。

昨日は、一度制約条件を外して過激にradicalに思考を飛ばすよう勧めた。しかし、そこから収束させることも記したが、その収束のさせ方に今日はスポットを当てたい。

マーケティングやロジカルシンキングを学ぶ時、やはり最初に引っかかるのが「フレームワーク」のようだ。
自分の思考を”型”にはめていくのは、ある意味かったるい。「要するにさぁ、こういうコトが言いたいわけよ!」と結論を急ぎたくなる。
しかし、自分の日頃の考え方や経験を一度、既存のフレームに落としてみることで「モレ・ヌケ・ダブリ」などを発見できるという効用は大きい。
また、フレームワークなしで考えているより、実際には思考が行きつ戻りつしない分だけ慣れてしまえばスピーディーに進めることもできる。

慣れてくればこっちのもの。最初は一通りのフレームワークを駆使して分析なり、プランの検討を行うことになるが、そのうち自分なりの得意なフレームワークが見つかり、それでカバーできる範囲は広がってくるはずだ。
例えば、マーケティングのフレームワークでは外部環境のマクロは「PEST分析」、ミクロは「3C分析」となるが、そので一気に解決してしまう手練れもいる。3Cのcustomerを「市場環境&顧客ニーズの洗い出し」として捉え、PESTを包含してしまう。また、company(自社)の中で、一気に自社が狙うべきsegment・targetとそれに対するpositioningを考え、さらに実際の打ち手である4P(product・price・place・promotion)の有り様まで固めてしまうというのだ。
まぁ、あまり慣れないうちに先を急ぐと「モレ・ヌケ・ダブリ」の原因になるのであまりお勧めはしないが、いずれにしろ自分なりの使いこなしができるようになることが重要なのだ。

さて、それらのフレームワークに慣れてくると、様々な「フレームワーク思考」ができるようになってくる。
例えば、誰でも知っている「5W1H」だって、単なる報告のための項目を表しているのではなく、立派な問題解決のフレームワークだということが分かる。
但し、単に5W1Hの項目を羅列するのではあまり効果的ではない。構造的に考えることが重要なのだ。
「問題を解決する」。というとき、こんな構造を5W1Hで作ってみてはどうだろうか。(図参照)。
W1h
問題をまずは明確化する。論理思考で言うところの「issueの明確化」である。
そのために、「What(何が)」「Why(なぜ)」・・・問題で・・・「Where(どこで起きているのか)」・・・を明らかにする。
そして、そのままissueをずらさず、「Who(誰が)」「When(いつ・いつまでに)」「How(どうやって)」・・・解決するのか、を検討していく。
問題の解決は、この5W1Hの項目が全て整わなくてはなされないことが構造化すればよく分かる。相互に関連しており、その相互関係を踏まえた上で、全てを検討しなくてはならないことが例えば複数人で話す場合でも共通認識できるのだ。

実は既存のフレームワークだけでなく、このBlogには金森のオリジナルや、あまり知られていないフレームワークが多数記載してある。
ある程度、フレームワーク思考ができるようになったら、オリジナルを考案したり、先の5W1Hのような当たり前な考えを構造化したりするのも有効なのだ。
・・・ということで、今回の教室はオシマイ。

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2007.08.15

ラディカル・シンキング(radical thinking)のススメ

今日も「考え方のヒント」の続き。第二弾。マーケティング教室的記事を一つお届けしたい。
マーケティングにおいては「論理的であること」は基本中の基本であり、昨今ビジネスマンだけでなくも、学生にでも求められる「論理思考(logical thinking)」は併せて身につけたいスキルである。
当然、金森もロジカルシンキングは専門ではないものの、マーケティングと同時に講義ずることも少なくない。
しかし、今日は少し観点を変えてみたい。

標題の「ラディカル・シンキング(radical thinking)」は世間一般に通用する考え方ではない。いわば造語だ。radical =”過激な”ととらえていただきたい。
つまり、論理的にモノゴトを考えるにしても、一度極端なぐらいに思考を発散させてほしいということだ。「えー、そりゃないだろう!」というようなことも一度俎上に上げ、そこからさらに別の方向に思考を伸長させてみる、又は別の思考と結合させてみるなど、広がりを作ってほしいのだ。
どうも、「論理思考」を意識しすぎるためか、思考の発散が足りない人が多くなったように思う。
広告の世界だけではなく、今日すっかり一般化した、オズボーンが開発した”ブレーンストーミング(ブレスト)”であるが、その基本は”拡散→収束”であり、最も基本的なルールは”1.初期段階は質より量でより多くの意見を出す。 2.判断は後回しにすること 3.しかる後に収束させること”である。
複数人で行うブレストだけでなく、自分の頭の中でも一度ラディカルに、”一人ブレスト”をしてみることをお勧めしたい。

ともすると、思考というものは小さくまとまりがちだ。知らぬうちに制約条件をかけてしまうからだ。
例えば、マーケティングの環境分析でおなじみの”3C分析”でもその手順を間違えると、がっちりと制約条件がかかり全く広がりがなく、謝った結果を導き出すことになる。
3C分析。Customer(市場・顧客)、Competitor(競合)、Company(自社)の3つのCからミクロ環境を分析するフレームワークだ。
このフレームワークでありがちな、広がりがない間違った手順としては、Company(自社)の環境(状況)から着手してしまうことだ。
自分の会社のことは、ある意味一番わかりやすい。ついここから手を付ける。そして、ナゼかみんな、ネガティブな部分を数多く洗い出す。「あれもできない、これもできない」「あれがダメ、これもダメ」・・・と。
そうすると、そのダメダメな環境が一気に制約条件となり、「競合はこんなコトもできるのに」「顧客のニーズには応えられないな」・・・ダメだ、どうしよう・・・。になってしまう。

正しい手順は、以前も別の記事で触れたが全く逆。まずは「市場の状況、顧客のニーズ」が何かを考える。考えられるだけ考える。次に「競合の動き」に注目する。市場環境への適合と顧客ニーズにどの程度応えられているのか。「ほかの会社のことはわからない」と言っては始まらない。わからなければ仮説を立てる。想像する。そして、顧客ニーズと競合の動きにギャップはないかを探り出す。
もし、そこに”ニーズギャップ”が見つけられれば、そこに「自社が成すべき事」が見えてくる。つまり、制約条件となる「何ができるか」ではなく「何を成すべきなのか」を明らかにするのだ。「できる、できない」ではなく「可能にする」という前提で考えることが肝要なのだ。

ラディカルに考えることはロジカルに考えることと相反することではない。”logical”の反語は”illogical(非論理的)”である。また、”illogical”には”無分別な・愚かな”という意味もある。思考に無分別な制約条件を設けてしまうことは愚かなことである。一度過激に、思考を飛ばしてみてほしい。

 

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2007.08.14

思考のボトルネックを取り除け。バイパスを造れ。

商用で東京・八王子郊外に出かけることがよくある。JR八王子駅から郊外に向けてタクシーで移動。しかし、この移動がクセモノだ。あまり優良とは言い難い八王子市の道路行政。狭い道にも車が満ちあふれている。混み具合を考慮してだいぶ余裕を持って出かけることが肝要だった。ところが、最近、やけに車の流れがスムーズなのだ。タクシードライバーに聞けば、理由は2つ考えられるという。
1つは市街地にありながら、何故か片道200円の通行料を徴収していた「ひよどりトンネル」が最近無料になり、トンネルを迂回するためにできていた、周辺道路のボトルネックが解消されたという。もう1つは高速道路の「圏央道」ができて、市内に通過するためだけの車が流入しなくなったとのことだ。
某ゼネコンの方から聞いた話であるが、道路の設計においてはどこをどういじると、どのように車の流れが変わるかを様々なシュミュレーションを繰り返すとのこと。すると面白いもので、まるで生き物のように車の流れはその姿を変えるという。

それを聞いて、後からふと思った。車の流れとは、なんだか脳神経回路を走り回る自分の思考のようだな、と。考えに詰まることは仕事でも、プライベートでもよくあることだ。考えがまとまらなかったり、先に進まなかったりする。そうした時は、無理に考えを進めようとせずに「一体何が思考の邪魔をしているのか?」を冷静に分析するよう努めている。一歩下がって分析してみると、八王子のトンネルのように何らかのボトルネックが見つかる。トンネルを無料化することによって、ボトルネックが解消して道路全体の流れがスムーズになるが如く、思考がスッキリと流れ始める。ボトルネックの原因はだいたい200円の通行料のように、些末なことへの拘泥である。それを取り除くのだ。
また一つのことに集中しているようでも、ふと気付くと同時に様々なことが頭の中に入り込み、思考が混濁していることを発見することも多い。当然、優先順位は主たる問題の解決だ。それを見定めれば、他の要素を取り除くことができる。思考の夾雑物にバイパスを造り、一旦、頭の外に追い出してやるのだ。

思考とはトレーニングだと思う。そのトレーニングの方法論として、昨今「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」を学ぶビジネスパーソンも多い。それらの思考の「型」を学ぶことは有効だ。だが、それだけでなく、自分自身の思考特性を認識し、どうすれば効果的・効率的な物事の考え方ができるかを会得していくことも有効だろう。今回は自ら体験した「道路」をメタファーとして、また一つ自己流の「型」を会得できたように思う。自らのメモ代わりであるが、金森と同じような思考特性を持った人はいれば参考になるかと記した次第である。

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2007.08.13

ブランドのコア・アイデンティティ

今日は少し趣を変えて、美しくも珍しい画像と共にお届けしたい。


ブランドを語るにはやはりデビット・A・アーカー先生の論を解説することが一番正統だと思い、度々そうしている。
その中で一番重要ではあるが、なかなか難解なのが、「ブランドの本質」を表す「コア・アイデンティティー」という概念。
金森としては、自説の「本質的価値」とニアイコールな関係にあると思うので、度々引用するが中々難しい。


まずは、アーカー先生の言葉を引用。
「コア・アイデンティティは、ブランドの永遠の本質を表す。それは、タマネギの何層もの皮や、チョウセンアザミの葉をむいて後に残っている中心部分である。」(”ブランド優位の戦略”より)

うーん、難しい。
しかし、そのこころは、次のように解釈できるだろう。

タマネギの皮をむいて、むいて、むいて・・・。すると、最後には何が残るだろう。
そう、何も残らない。
しかし、“タマネギ”が、その特徴である球形をもってそこに存在していたのであれば、目には見えなくとも確かにその中心たるものがそこに在ったのだ。
目には見えないが確かに存在し、全体を形作るもの。
ブランドの本質とはそういうものである、と。


些か哲学じみた記述をしてしまったが、その解釈の是非はともかく、原文の「タマネギ」ならわかりやすいが、単語として耳慣れないのが「チョセンアザミ」というもの。
何でしょう?と疑問符が頭に浮かんでしまう。

食材や料理に詳しい方なら分かるかもしれない。イタリアンではお馴染みの「アーティチョーク」のことだ。

「ああ、あれね」と思った方もいるだろう。食通だ。
しかし、その「花」を見た方は少ないのではないだろうか?

先日、ある植物園で開花しているのを偶然にも撮影できたので、ここで紹介したい。
これです。

ね、なかなか綺麗でしょ。
Tyousenazami

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2007.08.10

お知恵拝借:ドネーションプログラム

今週末は少々皆さんに知恵をお借りしたい。コメント大歓迎。

些か旧聞に属するが、先月6月末の通貨流通量が発表され、少額硬貨の減少が鮮明になったと報じられた。
減っているのは1円、5円、10円、50円の硬貨。増加している100円、500円と相殺しても0.25%の大幅減とのこと。
原因はやはり、普及に弾みが付いている電子マネーだそうだ。年月別の増減グラフを見ても、01年Edy、Suicaの登場、07年Pasmo、nanacoなどの登場の度、如実に落ち込んでいる。
お金を使う側としては財布がジャラジャラしないで快適なことこの上ないが、ちょっと気になるのが「少額募金」だ。

コンビニ勤務の知人に聞いたところ、やはりレジ横の募金箱の入りがかなり減っているとのこと。
自分の経験からしても、かつては釣り銭で渡された1円玉、5円玉は必ず。銀貨も少し多く小銭入れにある時は10円玉も募金箱にチャランと入れていた。
たかが少額硬貨と侮れない。募金箱にはあるコンビニでは月に3万円程度も入るという。
意外と財布がジャラつくのを防ぎつつ、小さな善行を積んでいる人が多いようだ。

しかし、自分自身もモバイルSuicaにして以来、やはりそちらを使ってしまう。募金額が減った。
日本は赤い羽根共同募金の時期などを除いて、募金をする習慣がなかなかないように思う。
一方、欧米では様々な機会があり、ドネーション(donation)という概念が定着している。

donation:〔慈善・公共施設への〕寄付,寄贈
日本では馴染みのない言葉だ。
知られているのは「臓器提供者」を表すドナー(donor)だが、それは寄贈する者を表している。
ソフトウエアの世界では、フリーのソフトウエアだが、気に入ったらいくらか送ってねというスタイルを取るものを「ドネーションウェア (donation ware) 」とよんでいる。
海外の映画やドラマで見かける、教会で募金のカゴがまわってくるシーンがあるが、それもその一種だ。
また、米国のコールセンターを視察した際、猛烈な勢いでアウトバウンドの電話をかけているチームがあったが、何かと思えば、「ドネーションコール」だそうで、電話で寄附を呼びかけ、ているのだ。そんないきなり電話してきて募金してくれるわけないでしょ、と思ったら結構協力者がおり、募金が集まるという。コールセンターの定番業務だそうだ。ドネーションが定着している証拠だろう。

そんなに募金したいならユニセフからDMが来たらまとめて何万か寄附すればいいじゃん。と言われそうだが、小心者故、まとめてはどうも決心がつかない。
カードのポイントをそのまま寄附できるコースもあったように思うが、溜まっていくマイルや金券を償還できるポイントがなくなるのもちょっと寂しい。

自分の懐が痛まない方法ならクリック募金がある。
ユーザーが協賛スポンサーサイトを訪問し、その取り組みを見てクリックすると1クリックで1円、支援先にスポンサーがユーザーに代わって募金をしてくれるというしくみだ。
<例>
http://www.dff.jp/ 
http://www.ekokoro.jp/
http://kiga.be.happy.net/
企業のCSR活動としても有効だしいいかも。と、思うが、実際にやってみると、各サイトを一つ一つまわってクリックしていくのは結構手間がかかる。とても毎日継続的にやれる自信はない。

つまりは、コンビニの少額おつり募金は、さりげなく日々チマチマと自然に募金できるところがポイントだったのだ。
コンビニヘビーユーザーなので、改めて計算してみると、実に年間1万円程度募金していたようだ。
無理なく自然にチマチマと、大勢の人が募金できるしくみ。そんなものが考えられないかと、少額硬貨減少のニュースを見てからずっと考えている。
今日は結論がついていないが、お盆休みにでも考えていただき、是非お知恵拝借願いたい。

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2007.08.09

スポイルされる善意と形骸化する遵法

私憤ではない。私憤ではないが、少々気になったので記したい。

先週のうだるような暑い昼下がりのことだった、ある交差点で電子マネーカードを拾った。
カードのプラスチックも溶け出しそうに熱を持っている。
表に返して眺めてみると、JR西日本発行の”icoca”である。
随分珍しいものを拾ったと思いつつ、いくら中にチャージされているかはわからないものの、うっかり落としてしょんぼりしている関西人の姿が脳裏に浮かび、すぐさま交番に届けようと思いたった。

西城秀樹が熱唱する、かつての「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「走れ正直者」の主人公のようだ。
交差点で100円を拾い、すぐに交番に届けようとする”俺”はいつだって正直だという歌詞を思い出す。
いや、くだらないことでも考えていないと、この暑さの中、わざわざ遠回りして交番に行こうという気持ちが萎える。頑張れ、俺。


程なく交番に到着。私服と制服の警官がいた。
拾得物を提示して、「JRが調べてくれれば、カードの番号で持ち主に返せるでしょ」と言うと、「あーこれね、買った時に氏名登録してないから、本人が取りにこなけりゃわかんないナー」との返事。
そうか、定期のsuicaしか使ったことがなかったから忘れていた。あー、無駄足か?

「一応、預るかけど、”拾得物の権利放棄”でいいですよね」。

別に欲しくて届けたわけではない。結構ですと応える。
が、何か勝手に断定されるのはオモシロクナイ。
それに市民のささやかな善意に対して「暑い中、ご苦労様です!」のねぎらいぐらいあってもいいんじゃないの?

「一応、こっちで書類作っとくけど、拾得者のサインだけこの書類にしてください」。・・・また、一応か。
一応、サインをする。

「あ、あと念のため、住所と電話番号、この紙に書いてもらえますか」。
真っ白いコピー用紙とボールペンを手渡される。

「え、何で?」
「あー、別に書類が必要になった場合、こっちで作っておきますので念のためお願いしますよ。」
えぇー、何の説明もない白紙に、住所と電話番号を書けと。先にサインをしているから、氏名、住所、電話番号がセットになれば、立派な個人情報ですよ。
それに、何か書類が必要になったら勝手に作られちゃうの?何の書類?

しばし渋ったが、警官相手に押し問答するのもさらに気分が悪くなりそうだ。
後ろには何やら用事のありそうな人も並んでしまった。
”一応”、日本の警察を信用することにして、白紙に記入する。嫌な感じだ。

「はいじゃぁ、これで」。と受領される。
で、交番を退出。最後までねぎらいの言葉はない。

せっかくの市民の小さな善意がスポイルされている。
これだけ世間で騒がれている「個人情報保護法」に対する遵法精神が徹底されていない。

いつも気にしている、「世の中の箍の緩み」。
全ての交番の対応がそうだとは思わないが、
何だか社会の規律を守るべき交番という、とても大切なところでそれを見てしまった気がした。

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2007.08.08

都市伝説化する理論やセオリー

マーケティングの専門誌 「アイ・エム・プレス」より次号予告のメルマガが一昨日届いた。
次号特集は「ロングテール型ビジネスの成功の秘訣」だそうだ。
http://www.im-press.jp/magazine/そのメルマガの案内文。
<一部抜粋:最近では「ロングテール」という言葉を耳にしなくなっていると思いませんか?>

確かにそうだ。

<ロングテールという言葉を巡ってさまざまな解釈がなされ誤解や意味の混乱が生じたためでしょうか。>

その誤解を解くため、編集部では数々の事例を本誌で紹介するという。期待しよう。
しかし、気になったのは次の一文。
<「80%の売れない商品を束ねれば、上位20%の売れ筋商品以上に収益を上げることができる」という主張はその代表例と言えます。>

えぇ~?そんなこと言われてるのか!結構衝撃的。でも、確かにそうした誤解が一人歩きをしているのだろう。
ちなみに、80%の20%の、というのは有名なパレートの法則。
ここで念のためおさらい。
19世紀末のイタリアの経済学者、ヴィルフレム・パレートが「世界の富の偏在」を調べようと各国を巡った。その結果、「いずれの国でも約20%の富裕層がその国の約80%の冨を占有している」ということを発見した。
そして、それを様々な事象に当てはめてみると、上位20%の存在で結果の80%を生み出しているなどのことが発見され、ここからパレートの法則、もしくは20-80の法則といわれるようになった。

ただし、気を付けなければならないのは、「法則」とは言っても、おおもとは100年以上前の学者の「経験則」でしかないということ。
この20-80を鵜呑みにして、自社の上位2割の上顧客だけを優遇していたら、実は上顧客20%の貢献利益は半分以下で、意外とフラットな収益構造になっていたため、無駄な優遇措置費用と顧客に不公平感を与え離反が発生したという笑えない事例もある。
検証のためには顧客を利益貢献の高い順から10等分し、何番目までで何%の利益を生んでいるのかを見る「デシル分析」ぐらいは必須だ。
さらに、「80%の売れない商品を束ねれば、上位20%の売れ筋商品以上に収益を上げることができる」などとするのはもはや、「都市伝説化」していると言っていい。
ちなみに、昨年末の国連大学世界開発経済研究所の発表によれば、「2000年の世界の個人総資産は125兆ドル。上位10%の富裕層が85%を保有」とのことなので、10-85が今日の実態。100年間で富の偏在・格差は進み、パレートの経験則も役に立たなくなっているわけだ。

都市伝説化している法則やセオリーで有名なものをもう一つ紹介すると、「メラビアンの法則」もそのたぐいだ。
米国の心理学者メラビアンの実験結果から「人の印象は服装・姿勢・立ち居振る舞い・表情などの外見で55%、話し方や声のトーンで38%が決まり、話す内容ではわずか7%しか伝わらない」という解釈が一人歩きした。
しかし、実験は話す内容がいかに伝わるかを検証するものでは全くない。その誤解を解くため、メラビアン自身がコメントを発表する羽目になっている。
この誤解は一部のコンタクトセンターなどを中心として都市伝説化しているようだ。話の内容は7%しか占めていないので、話し方や声のトーンの38%がいかに大事かと。
確かに声の話し方・トーンは重要だが、余りそこにだけ注力しては、そもそもの話の内容、スクリプトを軽視することにも繋がりかねない。

経験的になり、実験でなり、先達が世の中の事象をわかりやすく法則やセオリーとして示してくれているものは大いに活用すべきだろう。
しかし、そのおおもとの意味を誤解しないことと、自分が当てはめようとしている事象に本当にマッチするのかという、批判的なものの見方を忘れると、とんでもない「都市伝説の妄信」になってしまう。
自分の頭にストックされているそうしたネタも一度見直してみる必要があるだろう。
これは自戒の意味も込めて書いている。

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2007.08.07

「根っこ」の教育:朝青龍と問題社員

企業研修の依頼を受けることがある。
クライアント企業ごとに抱えている課題は異なるため、多くの場合そのプログラムはオリジナルで開発することも多い。
また、「マーケティングとはビジネスにおける課題解決の手法である」というような捕らえ方がなされている場合も多く、そうなると研修でカバーすべき領域は通常のマーケティングの概念からほかの領域に踏み込まざるを得ない。「ビジネスの総合格闘技」の様相を呈してくる。
特に管理職研修においては、部下の教育やモチベーションに関する課題が呈せられる。多くは「コミュニケーション」に問題があるため、金森としては独自の「コミュニケーション論」をい持っているためその考えに従って解決策を考えることになる。

さて、上記のような「部下の教育やモチベーション」に関して最近特に多く聞こえてくるのが、「若い社員に主体性がない」「指示待ちの姿勢が多くて困る」というものだ。
多くの管理職が言う。「仕方がないのでその都度懇切丁寧に指示する。しかし、似たような事象があっても先の指示から類推し、自主的に解決する姿勢が見えないので困る」と。
はて、それは本当にその若い社員の問題なのだろうか。指導する側の管理職にも落ち度はないのか。

最近こればかり言っているが、「コミュニケーションとは共有である」。部下とのコミュニケーションは取れているのか。
「都度指示する」ことは実はコミュニケーションになっていない。場当たり的な指導にしかなっていないのだ。対処療法である。
何を共有すべきなのか。それは、部下に「なぜ、それを成さねばならないのか」という根本である。
いささか当たり前なこと過ぎると思われるかもしれないが、そもそも「自社のビジネスとは何なのか。企業として存在しているのは、顧客・株主・従業員に対して、どのような価値を提供しているのか」という本当の根っこの部分をまず理解しているかの確認からが必要である。
当の管理職自身すらも忘れていることかもしれない。しかし、人に教えるということは、自らが再度学ぶ機会でもある。再確認する価値は十分ある。
その根っこの部分が認識できたら、その企業内における自部署、また自分の業務はどんな意味を持つのか。常に留意すべきこととは何なのかを自ら考えさせ、その答えを見つける手助けを管理職としては行うべきだ。個別の事象の対処法を一つ一つ教えるより、根本を理解させれば、次第に自ら何をなすべきかが理解できるはずだ。
管理職にとって、業務を遂行し業績を上げることは重要だ。しかし、「部下の教育」という課題が自らの責務の過半を占めているという認識を持っている人は意外なほど少ない。人を育て、その人に業績を上げさせることが重要なのだ。

先週、巡業を放棄し、横綱・朝青龍が厳しい処分を受けた。横綱にあるまじき行為であると。
確かにその通りだが、横綱に巡業の重要性がどれだけ理解されていたのかという疑問も残る。最高位とはいえ、横綱は「現場の人」である。
管理職たる高砂親方、北の湖理事長はどのような教育を行っていたのだろうか。まして横綱は外国人だ。相撲の技だけでなく、国技としての心得、綱の重さなどをどの程度理解させられていたのだろうか。

根本の部分が理解できていない、優秀な社員ほど実は怖いものはない。
今日、企業の社会的責任が重要視されている。「指示待ち社員」などはまだかわいいものだ。横綱は企業の社員に例えれば「コンプライアンス違反事案を起こしたエース社員」というところか。
指示待ちボウヤや汚れたエースを出さないためにも、管理職たるもの、自らも再認識しつつ、「根っこ」を教えるべきだ。

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2007.08.06

コンセプトの明確さが売れる秘訣

少々タイミングが遅れてしまったが、先週の木曜に発表された日経新聞による「2006年の主要商品・サービスシェア調査」の結果を振り返ってみたい。
http://bizplus.nikkei.co.jp/genre/top/index.cfm?i=2007080200125b1
「メリットを明確に打ち出し、新たな機能でニーズをとらえた製品やサービスが成熟市場を活性化した」と新聞では分析しているが、「メリットの明確さ」だけでなく、例として出されていた東芝の洗濯機などは「コンセプトが明確」であることも上げられよう。
その東芝の洗濯機は<本体下部から冷風が吹き出るユニークな機能。洗濯機は湿気がこもる脱衣所に置くことが多い点に注目、入浴前前後にエアコン代わりに使えるようにし支持を集めた>とある。

さて、「コンセプト」とは普段何気なく使われる横文字言葉であるが、その意味を考えてみよう。
Concept: ((正式))〔…に関する/…という〕概念;観念;((略式))着想,発想,考え(ジーニアス英和辞典第3版)。

マーケティング的に捉える場合、金森はいつも次のように説明している。
”コンセプトとは、「誰が」「いつ」「どこで」使用して「どんな便益が得られるのか」で構成されている”と。

さて、上記の構成要素で東芝の洗濯機が売れた理由を考えてみる。

当該商品のサイト→http://www.toshiba.co.jp/living/laundries/tw_2500vc/
「誰が」
脱衣所に洗濯機を置いているのはマンションや都市部の比較的狭小な住宅が多いと推察できる。
また、容量が9㎏なので、少なくとも子供が一人はいる家族向けだろう。
「いつ」
湿気を気にし、また既に湿気った脱衣所に涼感を求める。つまりと連続して入浴する時。
「どこで」
設置スペースである脱衣所。及びそれに連なる浴室。
「どんな便益か」
入浴後、もしくは前の人との入れ替わり時に、涼風で清々しい。
また、機密性が高いマンションなどで、脱衣所と浴室の結露・カビ防止の役に立つ。

といったところだろう。

同じ東芝の洗濯機でも、以下の商品はコンセプトが異なっていることがわかる。
http://www.toshiba.co.jp/living/webcata/housekeep/tw_741ex2.htm

最大の「提供している便益」は”インバーターで静音。深夜でも早朝でも気がねなく洗濯できる”
しかも”4㎏までなら50分で洗濯・乾燥できる”
とすると、
「誰が」
時間がない共働き夫婦。
「いつ」
深夜帰宅後。
「どこで」
比較的専有面積が狭いマンション。
(設置スペースが少し小さめにできているのも特長)。
「どんな便益」
深夜でも気兼ねなく洗濯でき、手早く済む。
(入浴時間がずれることが多いだろうから、前出の機種のような涼風機能は不要か)。

どうだろう恐らく、当たらずとも遠からずなのではないだろうか。

このように売れる商品にはしっかりしたコンセプトがあるのだ。
逆に、曖昧なものは、生活者の方が良い使用用途を考えてくれたと言うようなケース以外では、売れないという結果になるだろう。

一度、自身の担当する商品・サービスの「コンセプト」を見直してみることをお勧めしたい。

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2007.08.03

人心を一新する

斜め読みしていた【安倍内閣メールマガジン 第40号】を何げなく読み直してみると、気になる表現があったので取り上げてみたい。
いつものコーナー[こんにちは、安倍晋三です]の今回のタイトルは”覚悟を決めて”であった。
確かに相当「覚悟を決めて」かからないと。

が、揚げ足を取るつもりはないが、気になったのは文中の<人心を一新します。改革をさらに前進させることができ、国民からも信頼される体制へと、内閣の陣容を改めていきます。>というところ。
選挙後のインタビューでも何度か「人心を一新」と言われていたが、聞き間違いかと思っていたら、文字にまでなってしまった。
何か変じゃないか?

明鏡国語辞典より
人心:人の心。また、世の人々の気持ちや考え。「─を一新する」
一新:すべてが新しくなること。また、新しくすること。「気分が─する」「面目を─する」

人心が「世の人々の気持ちや考え」だとすると、「なぁ、ちょっとガラッと気分を変えてくれよ~」という国民へのメッセージなのだろうか。

ちなみにGoogleで検索してみると、様々なBlogで既に突っ込みが入っており、この件に関して数百件がヒットした。
皆、同じような疑問を抱いたようだ。

故松岡前農水相の自殺に際し、「慚愧の至り」と言ってしまい、後に同メールマガジンで「痛恨の極み」と言い換えていたが、今回は当のメルマガで書いているのだからこれは間違いない?
しかし、まさか「水に流してくれ」のようなことは言わないだろう。もう少し言葉の意味を調べてみる。

広辞苑第五版より
人心:(1)人間の心。ひとびとの心。民心。「―を掌握する」 (2)本然の性でない心。私欲におおわれた心。浄、凱陣八島「戯言(けげん)も思ひより出、戯動(けどう)もはかりごとより起こる。これ皆―のなせる所」
一新:古いことを全く改めて、万事を新たにすること。

なるほど、この広辞苑の(2)の方か。意味合いとしては、「(政治とカネをめぐる)”私欲におおわれた心”を”全く改めて、万事を新たにする”」と言いたかったのか!
だとすれば、反省の弁としても、今後の決意を表す言葉として誠に潔く、また期待できるものである。

・・・が、わかりにくい。
いつも言葉の問題にはこだわっており、昨日の記事も言葉とコミュニケーションについて述べた通りだ。
今日も言うが、「コミュニケーションとは共有である」。安倍首相は的確なメッセージを国民に発したつもりかもしれない。しかし、その思いは共有されていない。
市井のブロガーたち数百人からの突っ込みがその現れだ。広辞苑の(2)のような一般的でない言葉の遣い方をしてどうするのか。
どうも安倍首相の言葉は意味不明瞭なものが多いが、言葉の乱れが問題になっている昨今、一国の宰相としては範を示してほしいところだ。

ちなみに、産経新聞の報道では”「赤城徳彦農水相も含めて人事を一新する」と述べ”となっている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/72505/
新聞記者が「ここでさすがに”人心を一新”はオカシイだろ。聞き違いか」と思って”人事”と変えてしまったのだろう。記者の良識を首相の常識は遙かに超越していたのだ。

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2007.08.02

言葉の劣化を食い止めよう!

7月31日日経新聞夕刊一面「あすへの話題」。作家の柴田翔さんが「言葉の変化のよしあし」と題して気になるコラムを記されていた。
<知人の言語学者が「自分の世代ではない言語を憎む心情」が近頃はびこっているという>と。ところがその言語学者は<変化のいい悪いは自分の管轄外>だという。作家の柴田さんとしては<言葉を書くことで暮らしている自分としてはそうもいっていられない>とのことだ。そりゃそうだろう。
そして、”変化”の具体例として新聞記事から2点を挙げ、事故を起こした「運転手」という表記が<運転が職業なら運転手、たまたま運転しているのなら運転者><その区別が消えつつある>と。同じく<銃による殺害を意味する射殺と、銃による処刑を意味する銃殺を使い分けない文章も増えている>とし、<これらは悪い変化>と指摘している。
そして最後に、<事柄の違いをいい加減にして、人間の認識や感情を単純化して行く変化は、言葉と心を貧しくする>と述べられている。

このコラムを読んだ時、実に悪寒にも似た感覚に襲われた。何度か当Blogで指摘している「世の中の箍の緩み」の原因の一端を見た気がしたからだ。
知人の言語学者の語った「自分の世代ではない言語を憎む心情」などは別段問題ではないと思う。言葉の変化も含め、後の世代の変化に対する反感は、具体的な書名は失念したが、平安の日記文学にも登場する。現代語で言うなら「近頃の若いモンは」という類の記述だ。
怖いのは柴田さんが最後に記されている<事柄の違いをいい加減にして、人間の認識や感情を単純化して行く変化は、言葉と心を貧しくする>という行だ。これも何度も当Blogで述べてきたが、「コミュニケーションとは”共有”」なのである。何か相互に会話をする。言語を投げかけ合うことがコミュニケーションではない。相互に確かに共有ができる。乃至は共有したもの(目に見えるか否かは別として)が残った状態がコミュニケーションの成立なのである。
柴田さんの指摘はまさに「コミュニケーションが取れていない今日の社会」を表し、その原因を「言葉の悪い変化」にあると看破しているのである。

「知人の言語学者」は「管轄外」と言ったそうであるが、そんなことでは困る。作家として柴田さんはこの問題を提起されたのであるが、多少なりとも「言葉」に関わる者、コミュニケーションといわれるものに携わる者は、この「悪い変化」にどこかで歯止めをかけなければならない。そう感じるからこそ、この一介のマーケターも何度もBlogで叫んでいるのである。
思考は言語によって形成され、行動は思考の結果として表れる。言語を操る動物である人間にとって、言葉はその行動を決める重要な役割を担っているのだ。それが曖昧でいいわけがない。
例えば先の「射殺」と「銃殺」。曖昧になれば、それが悪しき行為なのか、断罪なのか、全く逆のことが同列に扱われることになる。米国などで相次ぐ銃乱射事件。多くの犯人は罪の意識を感じていない。その行為を「銃殺」と表現したら、是認したことになるだろう。あまつさえ、米語では学校で銃を乱射する者を称して”schoolshooter”などと一般名詞化しているのだ。”shooter”は”射手”である。その撃った先には無辜の学生・生徒がいることを表しもしていない。日本語も放っておけばこんな悪変化、劣化を起こすことになるだろう。
「言葉は世につれ」は致し方ない。しかし、世の人々がその意味を正しく共有できる変化でなければ、それを食い止めなくてはならないことを強く言いたい。

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2007.08.01

プロセス共有こそが成功の秘訣

帰宅時、列車内のドア横ステッカーで化粧品のロレアル社から発売されている「ダブルエクステンション」なるマスカラの広告が目にとまった。
ここ数年来、女性のメイクは目元が重視されており、「強いメヂカラ」を演出するため、睫毛をよりボリューム多く、より長くさせるための武器、マスカラが各社から数多く発売されていることは知っていた。
しかし、この「ダブルエクステンション」なる商品の特長は、1本のマスカラの容器両側にブラシが付いており、片方でベースを作って、乾いてからもう片方でより黒く・長くすることにあるようだ。
もはや女性には常識なのかもしれないが、何とも面倒なことを毎日やられているのかと驚き、また少々その努力には感服した。
確かにマスカラは付け方によってダマになったり、根本ばかりにボリュームが出て伸びなかったりと、それらを解決する「ベスト・ソリューション」を常に女性は探しているようだ。
「ダブル」は効果的なのかもしれないが、男の感覚では何とも手間のかかることだろうと思ってしまう。

しかし、ふと思う。もしかすると、手間をかけるということは、その効果もさることながら「手間をかけたことによる充足感」も重要なのではないだろうかと。
つまり、同じ効果だとしても2本のブラシを駆使し、二度に分けて時間をかけて塗る。そのプロセスが心理的な充足感と、もしかすると同じ効果だとしてもより効果が実感できるのではないだろうか。
やはり勝負は「メヂカラ」である。物理的には同じ効果だったとしても、その効果を信じればおのずと自信が生まれ、目元もキリリとするかもしれない。要するに「プロセス」も重要なのだ。

転じて、プロジェクトの進め方。何らかのソリューションを社内に導入しようとする時、いわゆるプロジェクトが発足する。
その際、プロジェクトチームだけで物事を決め、推進して、最後に「こう決まったから」と通達するようなスタイルはかなりの確率で失敗する。
社内に定着しない。ユーザーが言うことを聞かない。「聞いてないよ!」などと反発が来る。
大切なのは「ユーザーを巻き込むこと」であり、「プロセスの共有」である。同じことでもそのプロセスを共有することで、納得感が得られる。自分のこととして考えてもらえると、若干の手間は発生しても、その効用は大きい。

さて、なぜマスカラの話からプロジェクトマネジメントの話になったかといえば、ポイントは「プロセスの共有」だ。
女性たちは手間をかけてでも、より効果を実感するために「二度塗り」を」する。
もしかすると、メーカーもその手間をかけるという「プロセス」を踏ませることで、よりユーザーの納得感を引き出すことを考えているのではないか。
そのプロセスと納得感の醸成は化粧品とプロジェクトマネジメントでも共通するのではないかと考えた次第だ。
単にモノを作れば売れるという世の中ではない。また、上意下達だけでモノゴトが進むほど会社組織も単純でなくなっている。とすれば、この「プロセス」というものは様々な事象において共通するキーワードになり得るのではないだろうか。

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