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2007.07.10

沈黙は「禁」では済まない!

先週の金曜日、日経新聞夕刊、題字下の「音波」に興味深いコラムが掲載されていた。
「音波」はタイトルを含めてわずか80文字あまりで様々な世相を切り取るコーナーだ。
毎夕、いつも一番はじめに見る欄である。
その日は『沈黙は「禁」』と題されていた。
主旨は以下の通り。
「最近”沈黙族”と呼びたい人々が増えている。その所行は電車で人を押し退け降車する。閉まるところを支えて建物のドアをすり抜ける。狭い歩道で道を譲ってもそのまま通り過ぎる。」と。
で、その主旨は「”ありがとう”も会釈もなく過ぎ去っていく」という。
それが『沈黙は「禁」』という由縁であり、「情報過多でコミュニケーション能力を低下させる人の増加が気になる」と結んでいる。
金森が評するのは些か日経記者殿に対し不遜であるかもしれないが、今日の場景を切り取った秀逸なコラムと言えよう。
しかし、もっと行数が許せば、さらに踏み込んだ指摘をしたかったに違いない。
勝手ながら、その胸中を推察し、代弁してみたい。

そもそも、文中にある「コミュニケーション」という、今日、片仮名英語になっているものの正体は何か。
以前、今日の「コミュニケーション不全」の正体を考察したコラムで指摘したが、「コミュニケーション」の語源は、ラテン語で「共有」を意味する。
コミュニケーションがうまくいかない(不全)という状態を象徴的に描いた映画、「バベル」の映画評を当Blogで展開したが、それは「言葉が通じない」という以上に悲劇的な状況があるということを伝えたかったのだ。
それが、今日のこの国(さらに拡大すれば”世界”)の姿である。
つまり、「沈黙」が「禁」ではないのだ。いくら言葉を発しても、その会話の相互に共通理解がなければ、何かを「共有」することはできない。
もちろん「共有すべき」は記事の文脈で考えれば「common sense(常識的な判断力・良識・分別)」であるはずだ。これもラテン語の語源からの派生であることはいうまでもない。

コラムは問題の原因を「情報過多」に求めている。情報発信側のメディアの立場でそう記している。
しかし、本当にそうなのだろうか。昨今のメディアが発する情報は、多少の立ち位置の違いはあるものの、「記者クラブ発」であり大差ない。
では、大手メディア以外のインターネットに代表される様々な情報が人々を惑わすのか。答えは”否”であろう。
インターネットでの情報受信者は、同時に発信者でもある。一方的に情報に踊らされているわけではない。

では、何が”混乱”を招いているのか。
それは、社会の規律・規範が曖昧になり、失われ、「箍が外れている(緊張や束縛がとれ、しまりのない状態になる:広辞苑)」ことによるのではないか。
人と人が共有できない社会。何とも恐ろしい世界ではないだろうか。
生物には基本的に(一時的にほんの小集団は形成しても)”個”として生きる存在と、”個”はほとんど確立されておらず、”集団”として存在している姿がある。
人間は「個が確立しつつ、集団という”社会”を形成している」という点で特異性があるのではないだろうか。

小さなコラムが切り取った日常。その先に透けて見えるものは、”社会”が混乱に晒されているという、真に恐ろしい現状なのではないだろうか。

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