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17 posts from July 2007

2007.07.31

"可処分時間の奪い合い"が始まった

日経BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ)が更新されました。

http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm

今回は以前からずっとこだわっている「可処分時間」にフォーカスしてみました。
「自らが費やす時間に対する価値」について、様々な時間の過ごし方から考えてみた次第です。

では、ご覧ください。


----------------<以下バックナンバー用転載>---------------------

時間に余裕のある時は大いに楽しめてありがたいが、忙しい時には絶対手を出してはいけないもの。それは「YouTube(ユーチューブ)」のような動画サイトの閲覧である。ふと気が付けば、取り返しのつかない時間が経過している。しかし、よくもまあ、この手のサービスに人が集まるものだと思っていたら、何と5月1カ月間の日本の利用者数は1165万人に上ったとか。その巨大な集客力が評価され、昨年秋、インターネット検索最大手のグーグルに創業わずか2年で買収され、2人の創業者は810億円相当のグーグル株を手に入れ、一夜にしてbillionaireになった。


■「お金がない!」より「時間がない!」


 格差社会の到来と言われ、様々論議されているが、一部の世代や属性を除いて、日本の格差は世界的に見れば大きなものではない。一方、リタイア世代以外、誰しもが体感しているであろう「忙しい」という感覚。一向に減らない労働時間。大人は仕事以外にも趣味や自己研さんや健康維持、子供は学校に塾、習い事、ゲーム・・・。要するに、「時間がない!」のだ。


 しかも、ネット上には、ブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、オンラインゲームなど、時間を費やす場や情報があふれかえり、幾何級数的に増殖を続けている。YouTube人気の高まりをみて、日本ではドワンゴの子会社が今年、「ニコニコ動画」を開始。月間利用者数こそまだYouTubeより1ケタ少ないが、ユーザー1人当たりの平均閲覧時間は2時間強と、YouTubeの倍以上となっている。携帯電話向けゲームサイト兼SNSの「モバゲータウン(モバゲー)」は若者を中心に人気を集めているし、話題の「セカンドライフ」も、日本語版登場で利用者拡大に弾みがつきそうだ。


 このように時間を使う対象は増える一方だが、肝心の時間は、お金と違って増やすことができない。可処分所得も可処分時間も少ないワーキング・プアと呼ばれる層に対し、高所得者層であれば、家事代行やハウス・クリーニングサービスなどで、時間を買うこともできよう。しかし、お金を出してまで買った時間は貴重である。どの階層においても「時間の貴重さ」は変わらない。1年は365日、1日は24時間と、貧しき者にも富める者にも等しく配分されている。そのうち自由になる時間をどう使うか、という極めて悩ましい問題に、現代人は直面しているのだ。


■誰が「生活者の2時間」を押さえるか


 7月18日付の日本経済新聞朝刊で、6月末に就任したフジテレビジョンの豊田皓社長がインタビューに答え、「放送以外の収入比率を早期に30%に引き上げたい」と述べている。その背景には、テレビの視聴時間は平均4時間ほどで頭打ちだが、「2時間でコンパクトに楽しむ娯楽の需要が増えている」という事情がある。例として芝居、ミュージカル、映画、自動車レースのF1などが挙げられ、「今後も国内外の有望な興業を招致する」という。


 となれば今後、テレビの世界を飛び出したフジテレビと、生活者に2間程度の時間を使わせるビジネスは、すべてガチンコ勝負をすることになる。スポーツその他のイベント関連だけでなく、先のニコニコ動画のユーザー1人当たり平均閲覧時間も2時間だ。普段の生活に溶け込んでいる外食や飲み会、カラオケetc.も2時間程度。はやりのヨガ教室や英会話スクールは1~2時間、新書やビジネス書を読む時間も個人差はあるものの、1冊おおむね2~3時間か。


 テレビを見るか、サッカー観戦に行くか、SNSに浸るか、はたまた読書か、フィットネスか・・・。いずれにしても、これら生活者に時間を使わせるモノやサービスは、必ずしも必需ではないだけに、すべて競合関係になりえる。


 先のYouTubeにしてもドワンゴにしても、バナーや動画などの広告収入は得ているものの、単独では黒字化しておらず、ビジネスモデルとしてはまだ不完全だ。にもかかわらずなぜグーグルはYouTubeを買収し、ドワンゴは投資を続けるのだろうか。それは、ビジネスが業際や有料・無料の枠を超えて「時間の奪い合い」の様相を呈するなか、まずは「恐ろしいほど多くの人間を、長時間囲い込む」ことが力の源泉になり、さらなるビジネスチャンスを切り拓くと期待しているからにほかならない。


■「時は金なり」か「タダより高いモノはない」か?


 可処分時間がひっ迫してくると、生活者は時間の使い方について、これまで以上に吟味する必要がでてくる。どのように時間を過ごすかの選択は、各々の将来にも影響してくるだろう。


 例えば新しい生活を始め、自分の部屋に様々な品物を買いそろえていったとする。徐々にモノが増え、やがて収納スペースに余裕がなくなる。そのままにする人もいるかもしれない。しかし、より上質な品物に囲まれて過ごそうとするなら、不要な物、価値が低いものは捨てていくしかない。高いか安いかだけでなく、「本当に必要かどうか」「本当に価値があるかどうか」がこれまで以上に問われるはずだ。


 商品なら失敗しても廃棄したり、買い換えたりすればいい。しかし、時間は不可逆であり、取り戻すことはできない。インターネットには無料のコンテンツがあふれている。街ではフリーペーパーが大量に配られている。価値あるものも多数あるだろう。しかし、それらを「タダだから」といって漫然と消費していたのでは、結果として「タダより高いモノはない」かもしれない。


 企業には、従来以上にシビアな生活者の取捨選択が待ち構えていることは言うまでもない。生活者から受け取る「可処分所得」と「可処分時間」の両方に配慮し、それらに見合った価値を提供しなくては、生き残ることさえおぼつかないだろう。支払う対価と費やす時間と、そこから得られる価値。そのバランスについて、提供する企業にも、受け入れる生活者にも、熟慮が求められる時代になったのだ。


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2007.07.30

ファクトを明確化し、意味合い出しを確実に!

マーケティングはまず、環境分析によってファクト(事実)を明確にし、「そこから何が言えるのか」という意味合いだしから始まる。その原則に則って、今回の参院選を振り返ってみたい。
結果からいえば、「自民党は改選の64議席から37議席に減らし、89年に宇野首相が退陣した過去最低の36議席に匹敵する歴史的大敗」であるそうだ。また「公明党も惨敗。非改選を含む与党の議席は過半数を割り込んだ。」という結果になった。これはファクト。
選挙結果を受けて、中川幹事長は辞表を提出したが、安倍首相は続投の意向だ。これもファクトである。
さて、ここから第一の意味合い出しであるが、今後の政局がどう動いていくかを考えることから始めよう。
以下、アサヒコムより。<大勝した民主党は選挙結果を「首相への不信任」として、安倍政権の正統性を問うとともに首相退陣を要求する構えだ。参院で議長など主要ポストを獲得することで国会運営の主導権確保を狙う。小沢代表は与党への攻勢を強めて衆院解散・総選挙に追い込み、一気に政権交代を実現する戦略を描いている。 >とのことだ。
ここで勘違いしてはいけないのは、今後政権の担い手が誰になろうとも、山積した政治的課題を解決されなければならないということだ。
いみじくも、選挙前に自民党自身がその総括をしている。
「社会保険庁問題」「公務員制度問題」「教育制度改正問題」「農業改革問題」。「拉致問題の解決」も忘れてはならない。
今回の選挙は、社保庁の杜撰な年金管理問題に端を発し、相次ぐ閣僚の失言や疑惑が発覚。国民の不信・不満が爆発した結果を示していると言えよう。その意味では、きちんと投票を行った人は溜飲を下げたことにはなろう。しかし、現段階ではまだ何も変わっていないのである。
また、当Blog、一つ前、土曜日の記事でも指摘したとおり、「日本の税収約50兆円。歳出予算は80兆円。積み上がった国債は約800兆円」という破綻への秒読み状況がそこにある。しかし、民主を初め、野党はどこも「税上げ」に関しては消極的だ。どう解決していくのか。
選挙は一過性の祭りではない。せっかく国民の政治への関心が高まった状態になっているのだ。一人一人が参加意識を継続して、今後の日本がどうなっていくのかをしかと見守っていくことが重要なのだ。


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2007.07.27

こんな日本に誰がした?

さて、やはり心配なことが起き始めたようだ。
選挙直前で「自民叩き」の圧力が低下しているようなのだ。いや、無理に叩けと言うのではない。有権者は各々の信条に従い投票すればいいのだから。
しかし、そこに何らかの”世論操作”があったとすれば看過することはできない。

以前、当Blogの記事で「だから自公悪政はまだ続くという悲観論」という日刊ゲンダイの記事を紹介した。
「必要以上に自民大敗予測が出されているのは、巧みな与党のメディアへのリークによる世論操作ではないか」という内容であった。
今回注目したいのはコア・コンセプト研究所の大西さんのBlogで紹介されていた記事だ。
大西さんは「マスコミの自民党過半数割れかというマスコミ報道がガス抜き効果となりはじめているということにお気づきでしょうか」と記し、さらにある自民議員のBlogの内容を紹介している。

<以下転載>「しかし、今朝、いつものように朝霞台の駅で朝の挨拶をしていたら、驚くような反応があった。妙齢のご婦人が、しっかり頑張ってください、と優しく声をかけて通る。自民党、負けちゃだめだよ、と声をかける男性もいる。さすがに若い男性で自民党頑張れ、と言う人はいなかったが、嫌悪感を露にする人は一人もいなかった。日曜日のせいかもしれないが、気軽に話しかけてくれる人が多い。」<転載ここまで>

おいおい、ホントか?某議員。メディアへのリークによる世論操作が本当かどうかはさておき、議員がBlogで一人称でさらにガス抜きをしている。こんなこといいわけないでしょ。
選挙前なので、まさか公選法にこんな零細Blogが抵触するわけないものの、こっちだってタッチーなネタは避けてきたのに、議員本人がこんなネタ書いていいのか?
さて、ならこっちも書いちゃいましょう。「こんな日本に誰がした?」だ。

この日本という国の現状をおさらいしたい。
日本という国の「お金」を「家計」に例えて考えれば、現状が如何に異常事態なのかがよくわかる。
日本の税収は約50兆円。対して歳出予算は80兆円。・・・これだけでも異常事態だ。例えば年収500万の家庭が、年に800万もの消費生活をしているのだ。どえらい浪費家庭。もはや破綻している。
さて、破綻している家計はどこで帳尻を合わせるのか。 そう、「借金」だ。 国の借金。「国債」。発行残高は約800兆。
では、先の家計になぞらえて考えてみれば、50兆の税収が500万の年収と考えるなら、積み上がった借金は8000万に相当する。
8000万円もの借金ができるかは現実的でないが、仮に借りていたとして、家計で借りるにはまずは銀行ローンだろう。
一般的な銀行のカードローン(で8000万も借りられないが)の金利は年利12%。とすれば、年間の利息は960万。年収の約2倍弱。毎年年収の2倍近くの利息が雪だるま式に積み上がっていく。はい、完全に破綻。
でも、なぜ、国は破綻しないのか。では国債の利率はいくらでしょうか。・・・自分でも国債を結構持っているので泣けてくるぐらい低い。つまり、自分で借金して、その利息を勝手に決めているから破綻していないのが第一因だ。

しかし、借金をそのままにしておいていいはずがない。いつかは返さねば。ということで、「赤字国債の削減」はいつも掛け声として出るが、減らない。具体策が乏しいからだ。
さらに、収入と支出の差をどう埋めるか。普通に考えれば、収入を増やす努力をしつつ、支出を削減することだ。
消費税率上げに関して野党は反対しているが、今日の斯様な事態を招いた与党の長たる首相はさらに情けなく、何やらもごもご言っている。選挙前なので具体的な言及を避けているのだ。だが、上げねばこの破綻状況は改善されない。ならば具体的に言えばいい。言えないんだなこれが。
なぜ、言えないのか。それは、セットで語るべき、家計における支出の削減に相当する、公共事業などによる歳出削減策に全く現実性がなく無策に近いだからだ。
もっと指摘してしまおう。折しも選挙前に給与明細を見ることになっただろう。まだドカンと上昇している住民税に見慣れることはないだろう。首相は「最終的な納税額は変わらない」という旨の発言をしていたが、ホントか?と思うだろう。
思うのも無理はない。だって、800万もジャブジャブと消費する生活を改める手だてを示していないのだから、こっそりと500万の年収をアップしようとしていると考えるのが普通だろう。事実上の増税だろう?と。たぶんビンゴじゃないか?と。

さて、普通の家庭や個人が借金漬けでどうにもならなくなったらどうなるか。「自己破産」である。
個人ではなく、国家のことなので97年のアジア通貨危機の時の韓国のようにIMFの介入を受けることになのだ。
国の経済が破綻している。当然、影響は家計にも及ぶ。いや、その瀬戸際である今日でも、そのしわ寄せ、そのツケを、それだけではとても賄いきれるものではない国民に持ってこようとしている。
この状況を変えるには小手先の改善ではダメだ。大胆な改革をしなくては。「政権交代すれば解決するのか?」との論もあろう。しかし、その第一歩だけでも踏み出さなければ何も変わらない。

何度か当Blogで紹介している金森の好きな言葉を最後に記したい。
「今日は昨日の続きでも、明日は今日の続きではない」。
・・・今日と違う、明日のために。第一歩は29日。

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2007.07.26

20年間ずっと来ているDM

いつもリンクさせてもらっている知人のBlogに金森と同じような体験が綴られていたので、触発されてちょっと軽く書いてみる。(そのBlogに思わず反応して付けたコメントとダブるけど)。
その「毎年送られてくるDM」という記事によると、年1回かもめーるで事務所近くのメガネやからDMが届くとのこと。しかも、以前入居していた他人名義のものが!
・・・何ともひどい話だなぁと思っていたら、金森のところには実は20年間送りつけられて来ているDMがあったのだ。
思えば学生の頃、神田神保町、三省堂1階の特設会場で「化石・鉱物展示即売会」というのがあった。
ペーパーウェイトにちょうど良さそうな、アンモナイトの化石を購入。
その時、どのように住所を残したのか、なにぶん昔なので覚えていない。
その後、金森は実家を離れるが、毎年数回、「展示即売会」のお知らせDMが実家に送り続けられている。

20年、である。その時の長さを考えると呆然としてしまう。
当然、DMの最初の発送担当者から、その業務は引き継がれているのだろう。
にもかかわらず、何の疑問もなく送り続けられていたと言うことだ。
また、驚くべきことに案内の書式もずっと変わっていない。会場や日時、その時の目玉商品などの文面が差し変わっているだけだ。

リストクリーニングはしていないのか?まぁ、していないんだろうな。
と思いつつ、丁寧に実家にはそのDMがここ数年分保存されていたので、見直してみた。
ここでまたビックリ。
数年前から、宛名の「金森努」が「金森務」に間違われている。(ちなみに、この間違われ方、嫌い)。
恐らく、手書きの発送台帳を入力した際に、変換ミスをしたのだろう。
リストクリーニングはともかく、更新してるじゃん。
しかし、なぜ、その後DMによって来場したかどうかの検証を一度もしないのか。
「DM持参で粗品プレゼント」ぐらいやればいいのに。
カンタンに一度も来場していないことはわかるだろう。

世の中にはまだまだ、何とも不思議な販促施策をやっている例があるもんだなぁとあきれつつ、少し感心してしまった。
環境負荷を考えれば、DMの差し止めを求めるべきなのかもしれないが、いつまで続くのか、興味が湧いてきている。20年、無駄を続けて平気な会社だ。結構余裕はありそう。もしかしたら、こちらの方がお先に失礼かもね。

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2007.07.25

最近気になること:災害だけではなく事故も忘れた頃にやってくる

最近気になることを少々。
先日、道路公団の方と知り合いになった。普段どんな仕事をしているのか詳細には知らなかったので、中々興味深いお話を伺えたのだが、気になるのは、各種報道でも聞いていた、シートベルトの着用率の低下である。中でも子供の着用率低下が気になる。
読売新聞が7月11日に報じた所によると、「警察庁と日本自動車連盟(JAF)が今年5~6月に行ったチャイルドシート着用状況の全国調査では、着用率は46・9%にとどまり、合同で調査を始めた2002年以降では最低となった。」とのことだ。
同紙によれば「非着用の子供の致死率は、着用していた場合に比べ約9・8倍に上る」とのこと。
数字にして示されれば「着用しない理由がない」ように思える。

しかし、少々腑に落ちないのが逆に子供用の自転車同乗のための安全器具はどんどん進化・普及している事だ。
金森の自宅前の交差点は東京で一番自転車の交通量が多い交差点であると以前も紹介した。朝などはまるで十数年前の中国のようだ。
当然、自転車の接触事故や転倒などもよく起る。それ故の、地域独特の防衛策なのか。
親の自転車に同乗している子供のヘルメット着用率はざっと7割近いのではないか。娘が自分で自転車に乗る前、自転車のチャイルドシートに乗せていたほんの5~6年前はほとんど見なかったのだが。
調べても情報が見つからないのだが、確か東京都かどこかの団体がヘルメット1つに付き1,000円ぐらいの助成金を出していたような気もするが、だからといってそれだけでそんなに普及するものなのだろうか。
また、荷台に取り付ける自転車用チャイルドシートも子供の背当て部分が強化され、高くなり、首や頭の部分まで保護するような形状になっている。頭の横側までフレームが回り込んで、しかもクッションパットがついたものまで登場している。
そうした製品はメーカーが上市している以上、一地域限定モデルではなかろう。

車のシートベルトは子供の着用率が減少し、自転車の安全装備は強化され、どんどん普及している。この違いは何だろう。同じ子供を護ものであるにも関わらず。
考えてみると、それは恐らく「発生頻度」ではないか。
交通事故を起こす、または巻き込まれる。そうめったにあるものではない。加えて、ここ数年来、警察庁の発表によれば、平成9年から18年で死亡者は全国で9,640人から6,352人へと約34%減だ。
「万が一」の感覚が希薄になってはいまいか。
それに対して、自転車乗用中の交通事故死亡者数も減じてはいるものの、自転車同士の接触・転倒や、自損事故などはしょっちゅう目にする。荷台に載せられた子供も結構な勢いでダメージを負っている。
今年3月に警視庁はやっと重い腰を上げ、取り締まり強化に乗り出したほど、無謀運転の自転車も増加している。
要するに、車の事故は減り「まさか私が」という感覚が蔓延し、それに対して自転車事故は頻繁に起り、増加傾向にすらある。その差が安全装備に対する差に出ているのだろう。

金森がよく引合いに出す、E.M.ロジャースの「イノベーション普及学」にある「普及速度の5要件」に「観察可能性」というものがある。
観察可能性とは、「目に見えない効果ではなく、明らかに効率が上がるもしくは質が向上するなどの効果が観察・実感できる」という条件である。
目の前で事故が起り、子供が重篤な状況になっていることを見る機会などめったにない。しかし、自分自身が自転車で転ぶ。うっかり目を離して、止めておいた自転車が転倒し、子供が荷台から投げ出される。子供が泣く、怪我をする。そちらは日常茶飯事だろう。
目に見えないものは信じない。採用しない。人間の心理ではある。しかし、減少しているとはいえ、事故は起る。弱いものの命から先に危険にさらされていく。

目に見えないからシートベルトを着用しないのであれば、いっそ、免許の書換でみせられるような事故の写真やビデオをもっと頻繁に見せる機会を作るべきなのか。ところが、その写真やビデオさえも、免許更新期間が年数が長くなっているため見る機会が減っている。
緩んだ危機意識を再び喚起させることは難しいものである。
当Blogで指摘しているように、近頃とみに箍が緩んできているこの社会においては。
自分にできることは、少しでも気になったことについて警鐘を鳴らすことぐらいか。


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2007.07.24

そのモノの「価値」は何か?「対価」を払う意義は?

「マーケティングとは?」こうした根源的な問いに対する答え方は意外と難しい。様々な言い方や解釈があるが、筆者はマーケティングの大家であるフィリップ・コトラーの定義を下敷きにして説明することにしている。すなわち「マーケティングとは売り手と買い手の間で行われる“価値”の“交換”プロセスである」と。単なる「モノやサービス」と「対価」が交換されるのではなく、「価値」に対して「対価」が払われるのがポイントである。
 しかし、昨今、そのキーワードである“価値”と“対価”に対する考え方を少し多面的に見る必要が出てきている。
今まさに、7月21日から8月20日の間は、財団法人日本雑誌協会が主催する「雑誌愛読月間」だ。その雑誌とフリーペーパーの関係にに注目して、過去のコラムを加筆修正して改めて考えてみる。

■フリーペーパーが雑誌を喰う?
 筆者は「タウン・ウオッチ」が趣味なので、実によく街を歩く。そしてしばらく歩くと、必ず5、6部のフリーペーパーを受け取ることになる。その数は二年前の比ではない。社団法人日本印刷技術協会発行の「日本のフリーペーパー2006」が把握するデータでは、2005年現在国内の発行社950社。紙誌数は1,200種。年間総発行部数91億部で実に雑誌の倍に達しているという。恐ろしい勢いだ。
 有料の従来型の雑誌はどうかといえば、財団法人日本雑誌協会理事長の村松邦彦氏が今年の6月5日に行った講演内容が象徴的である。この10年間を振り返り、「1996年に雑誌の総発行部数は51億2千万冊だった。2006年は40億冊で、11億2千万冊減少した。21.8%の落ち込みだ」という数字を紹介した。フリーペーパーに対しては「コンテンツがしっかりしているわけではないので脅威にはなりえない」とする一方で、書店店頭や駅構内に無料設置され、生活者が手に取ってしまい、駅売店や書店での雑誌売り上げに対する影響はやはり大きいとも述べられていた。

■「時間」という「対価」に注目!
 さて、従来の雑誌を喰い始めたフリーペーパーであるが、その名の通り「フリー」なので、金銭的な「対価」を払ってはいない。では、読者は何を「対価」として「交換」しているのだろうか。それは「時間」だ。時間は1年365日。1日24時間と人間に等しく配分されている。そのうち、自らが自由にできる「可処分時間」をどう使うかは、極めて多忙な現代人にとって大きな関心事である。
 ここで「価値」に立ち戻ろう。実は「雑誌」対「フリーペーパー」は「有料」対「無料」という金銭的な勝負ではないと考えられる。確かに高価な雑誌もあるが、平均的には数百円。生活者の「可処分所得」の中から払いきれない価格ではないはずだ。一方、無料とはいえ、フリーペーパーも一読するにはそれなりの時間を要する。つまり「可処分時間」を消費しているのだ。となれば、やはり勝負のポイントは「コンテンツの価値」であろう。
 いかに無料であっても可処分時間を消費するに値しない内容であれば、やがて誰も手に取らなくなる。また、使えそうなクーポンだけ破り取って捨てられてしまうような内容であれば、媒体価値は認められず広告収入もなくなる。やがて淘汰されていくはずだ。
 先の講演で村松理事長はフリーペーパーのコンテンツがしっかりしているわけではないと指摘されていたが、実際にはかなり読みごたえのあるフリーペーパーも育っている。駅に設置された専用ラックがすぐに空になってしまうリクルートの「R25」などはその代表例である。コンテンツが充実してきているフリーペーパーもある中で、有料の雑誌は当然それを上回る内容でなければ金銭的な対価は支払われることはない。雑誌は購読者から受け取る「可処分所得」と「可処分時間」の両方に見合った価値を提供しなくてはならないのだ。従来よりも一層の研鑽が必要となることは言うまでもない。

■金銭的対価を払うこと自体の「価値」?
 実は筆者が「フリーペーパーに負けるな!」とひそかに応援している雑誌がある。「THE BIG ISSUE(ビッグ・イシュー)」という。サブタイトルに「ホームレスの仕事をつくり自立を支援する」とあり、ホームレスの人に雑誌を販売委託し、「頑張って販売すれば自力で生活できる」という仕組みを提供するものだ。
 定価は200円。販売員は90円でこの雑誌を仕入れ、110円を収入とする。なかなかユニークな特集記事や、キラリと光るコラムも掲載されている。しかし、200円という価格からすると、ボリューム感が乏しいのは否めない。しかし、制作費は90円で賄われているので上出来とも言えよう。
 この少々ボリューム不足な雑誌に200円という「対価」を払う「価値」とは何だろうか。理想を掲げ、少ない原資で雑誌を作る事務局。フリーペーパーの無料配布の横で、自らの復活をかけ懸命に販売するホームレス。それを200円という対価を払い支える理解者。これは一種の「価値の循環構造」であると言えまいか。そして読者が対価を払っている「価値」とはその「理念」に対してである。
 もはや今日の消費は、単純な「提供者・売り手」と「受け取り手・買い手」という二者間の「モノ」と「カネ」の交換活動では語れなくなっている。前述の通り「時間」に注目することも重要であり、また、「THE BIG ISSUE」のように「理念」に対する「対価を払う“意義”」にまで注目する必要があるのだ。

■ただより高いモノはない・・・にならないように
 今回は今日の市場における「価値」の多様化について雑誌とフリーペーパーを題材に述べたが、最後に一つだけ。我々生活者は、自らが手にするモノの「価値」が何なのかをよく理解し、何を「対価」として払っているのか。また、それは価値に見合っているのかをよく考える習慣を、今まで以上につけなくてはならないと考える。
 今回のお題のフリーペーパーであるが、全てを安易に受け取っていいものだろうか。目につくフリーペーパーの中だけでも内容の薄いものが散見される。1,200種のも紙誌の中には、捨てられる、捨てることを前提で作られているものも少なくないだろう。「つまらなければ、捨てていただいて結構です」という提供者側の理論。「ぱっと見て、つまらなければすぐ捨てるし、たまに面白い記事や得するクーポンがあれば、めっけ物だから」という読者の理論。そう考えると、利害は一致しているようにも思える。
 しかし、年間総発行部数91億部という前出の数字を忘れてはならない。それらが製作され、廃棄処分される過程でどれだけの環境負荷が発生しているかを考えると、うっかり受け取れないはずだ。環境負荷というツケは、回りまわって自らに戻ってくる。やはり、「タダより高いものはない」のである。

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2007.07.23

久々に巡り会えた良好なサービス

”顧客の要望や嗜好をデータとして記録し、以降の最適なサービス提供に活用する”・・・CRMや1 to 1といわれるマーケティング手法においてはイロハのイである。
しかし、それが如何に”言うは易く行うは難し”であるかは実際にそのサービスを設計・実行したことのある者であればよくわかるだろう。
「一度要望を聞けば枕の堅さの好みまで全拠点で共有し、以降確実にサービス提供を行う」。リッツカールトンの逸話の一つだ。
それが実際には例外的に秀逸なサービスであるかということである。

しかし、「全拠点で」かどうかはわからないが、ほぼ同等なサービスを体験できた。
過日、名古屋に出張した。宿泊先は「ホテルマリオット・アソシア」名古屋駅上の高層ホテルである。
このホテルに宿泊するのは1年ぶり。昨夏~秋にかけても定期的に宿泊したが、その間に大怪我をし入院。最後の2回のうち1回は車椅子、1回は松葉杖姿での利用となった。
そして1年後、通された部屋はどこか見覚えがある造り。一番気に入っていた角部屋である。1年ぶりとはいえ、何とも懐かしい。怪我の体験もあるので何やら感慨もひとしおだ。
バスルームにはいると、入浴剤が3種類並べておいてある。その時点で明確に気付いた。
角部屋、入浴剤の用意、それは1年前最初に利用した際にホテルのコンシェルジュに頼み、以降秋まで利用している間ずっと提供されてきた個別サービスである。
新聞を頼んでおくのを忘れていたが、きちんと翌朝、日経が部屋に届けられていた。

このクラスのホテルであれば、当たり前なサービスレベルだといわれるかもしれない。
しかし、1年ぶりで訪れ、その要望が正確に再現されている様は、少々感動せずにはいられない。
コンシェルジェデスクにて宅配の出荷を依頼した際に名前を告げると、端末で確認し1年ぶりの再利用の礼を言われ、サービスに不備はないか、追加の要望はないかをさりげなく聞かれる。
当たり前かもしれないが、その当たり前をきちんと実行することは実は難しい。
この所、某ホテルを巡ってトラブルを引きずっていただけに、こうした対応のありがたさが身にしみる。
今後も年内は定期的に利用することになっている。サービスに感謝しつつ、度を過ぎない程度に他にも色々要望をして見ちゃおうかなとも思っている。
特筆すべきことがあれば、またお伝えする所存である。

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2007.07.19

ファクトからのメッセージ化

 好景気であり、多くの業種ではフォローの風が吹いているといえる今日のビジネス環境であるが、その変化はめまぐるしく、市場環境の把握とそれに伴った打ち手の見直しは手を抜けない。千年一日のごとき商売などもはやどこにも存在しないのだ。
しかし、様々な企業の戦略立案や施策立案のお手伝いをしていると、どうも忘れられがちな部分があることに気付く。それが「ファクトからのメッセージ化」である。

 「マーケティング」というと、すぐに「4P(Product戦略・Price戦略・Place戦略・Promotion戦略)」を想起されてしまいがちであるが、それは「打ち手」。まずは「市場環境の分析」が欠かせない。マーケティングのイロハのイである。
 ビジネススクールでの講義や企業研修では当然のようにその部分から入っていくのであるが、実際のビジネスシーンは残念ながらそうなっていない。「最近厳しいねぇ。で、どうする?」というような大雑把な会議が行われているのである。「厳しいねぇ」は確かに環境を表しているのだが雑駁に過ぎる。当然、マクロ環境・ミクロ環境を詳細に押える必要がある。その環境の詳細な分析が「ファクト」の抽出だ。

 マクロ環境の分析で代表的なフレームワークは「PEST分析」である。(分析事例のバックナンバーはこちら)。そして、ミクロ環境は3C分析が一般的だろう。3Cとは“Customer(市場・顧客)”“Competitor(競合)”“Company(自社)”の頭文字である。3つのCのどこに注目すべきかをさらに解説するなら、まず「市場の環境と顧客のニーズ」に注目し、「競合の動き」を見る。さらに「自社が顧客ニーズにどの程度対応できているのか。また、競合の動きで顧客ニーズに対応できていない部分をどの程度すくい取れるのか」を洗い出していく。

 まぁ、このフレームワーク通りかどうかはともかくとして、この内容の「ファクトの洗い出し」はある程度業務経験のある人ならばできるが、その「意味合い」=「メッセージ化」まで丹念に行っているケースはあまり見かけられない。ファクト→打ち手に走るのが上記の通りよくある姿だ。

 「意味合い」=「メッセージ化」のためのフレームワークは「SWOT分析」がよく知られている。しかし、上記のPESTと3Cとつなげて考えられていることは少ないように思う。「まずは分析」と着手するのはいいのだが、いきなりこのSWOTのブランクの表を前に、ウンウンと唸り、脂汗を流している人を見かける。それはそうだ。SWOTはPEST、3Cで洗い出されたファクトをメッセージ化(意味合い出し)するためのもの。慣れればできるが、普通はいきなりここから手を付けると苦労する。(参考:3CとSWOTの表のイメージはこちら
 当然、そこで用いる要素はPESTと3Cで洗い抽出したものだ。つまり、丹念に分析するためにはPEST、3Cと連続して行い、そこで用いる”要素(ファクト)”も一つのファクトからもプラス要因とマイナス要因という両面から見て「意味合い」を抽出していく。その多面的な分析こそがミソなのだ。

 「意味合い」をよく考えれば、きちんとした「打ち手」が考えられる。逆に単なる「ファクト」からだけ、「打ち手」を考えたのでは結果は曖昧模糊とし、明確な打ち手は考えられない。また、抜け・モレも発生する。「意味合い」は以下のような例でよく説明される。
 「500mlのペットボトルのペットボトルに250mlの水が入っている」。これは「ファクト」。それをプラスの「意味合い」で表すなら「まだ半分も水が残っている」だ。マイナスで表せば「もう半分しかない」である。両面を考えてその状況で、プラスかマイナスのどちらかで解釈すべきかを判断することが肝要なのだ。例えば極端な例であるが、砂漠でもう少しでオアシスにたどり着くような状況であれば、同行者を励ますなら「まだ半分も水が残っている」だろう。で、打ち手は「とにかく頑張って歩こう」だ。逆のメッセージで考えてしまったら、共倒れ。このほど左様に、明確にメッセージ化すれば、正しい打ち手が考えられるのだ。

 何やらBlogマーケティング通信教育のようになってきたが、ビジネススクールも金森が担当するいくつかのクラスがスタートするし、企業研修も継続している。受講者は是非とも精読いただきたい。前期で講義が終了した青学の学生諸君も講義を思い出して欲しい。
 また、関心のある方がいるようであれば、今後も折に触れ、記していこうと考えている。次の機会にもお読みいただければ幸いだ。

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2007.07.18

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2007.07.13

「上司・部下のコミュニケーションのコツ」は「分解」と「再構築」にある

このところ「コミュニケーションの本質」にこだわったコラムをいくつも書いている。それは、昨年来、企業の管理職研修で「いかに上司・部下のコミュニケーションを確実に行うか」を力説している影響もある。
度々紹介しているが、「コミュニケーション」の語源は、「共有物」を表す(コモン:common)にあるといわれている。つまり、ポイントはよくある「最近、部下とのコミュニケーションが足りないので、個別面談をした」などという形式的に「話す」という行為をしても、具体的にその場で上司と部下が「何を共有したのか」が残らなければ「コミュニケーション」には、ならないということである。

さて、上記のように研修の受講者に話すと、「なるほど」と頷きはするのであるが、次に「では、どうしたら“共有”ができるのでしょう」という課題が待っている。
具体的な方法論に前に、上司と部下というポジションの違いを確認してみよう。大きな違いは、「どの程度の情報を持っているか」である、共有できない原因はその「情報の非対称性」にある。当然、企業内においては職階別に知っているべき情報レベルは異なる。しかし、得てして各職階において理解しているべき情報が上司からきちんと伝達されていない、もしくは理解できるように伝えられていないということが起きている。
例えば、ある職階にある上司は、その戦略の立案から関わっており、策定までに長い時間を費やしている。その下の職階の人間は策定された戦略をある程度の時間をかけてブリーフィングを受ける。そして、末端の部下は、日々の業務が忙しいために短時間で「方針」という形で落とされる。または、業務の中で断片的に指示される。これでは伝わらないし、共有もできない。末端に行けば行くほど「戦略」という理解しがたいものが、かえって大きな「カタマリ」となって落とされてしまう。もしくは全体像が理解できない「断片」として指示されるのである。

ではどうすればいいのかという「方法論」である。各企業や職場の状況によって委細は異なるが、基本はタイトルとして挙げた「分解」と「再構築」である。マーケティングの基本は“顧客視点”であり、顧客の目線、立場で考えることと、いつも金森は記しているが、この場合、上司は“部下視点”で考えることが基本となる。
「部下の立場や元から持っている知識や情報で、自らが伝えんとしていることがきちんと理解できる内容になっているのか」をまず考えること。恐らく、「部下の視点」になれたとしたら、「伝わらない」と気付くだろう。前述の通り、伝えようとしていることが「大きなカタマリ」になっていることに気付くはずだ。元々、上司の方が部下よりも情報も知識も持っているはずだ。だとすれば、伝えるべきことは「細かく分解」することが基本となる。できるだけ平易に。重要なことであれば、ある程度のキャリアを持った社員にでも、新入社員に理解させるぐらいのつもりで話してみることだ。また、断片的に伝えるのではなく、上記の通り、一度平易な言葉に分解したものを、言葉を補うなどしてわかりやすく再構築することも必要である。

このテーマは一度では語り尽くせない深い内容になるため、何度かに分けて記していこうと考えている。今回はまず、その導入部とお考えいただきたい。
※研修受講者の方は、研修内容を思い出して読んでいただければ幸いです。

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2007.07.11

ちょっと退屈なトレインジャック

「トレインジャック」・・・といっても列車乗っ取りテロではない。「トレインジャック広告」。交通広告の手法であるが、だいぶ一般的になってきた言葉ではないだろうか。
乗り込んだ電車の車内が、特定企業や商品の広告一色になっているあれだ。
最近では電車も車体広告が行われるようになってきたので、ホームに入ってきた時にすぐに「ああ、トレインジャックの列車だな」と予想が付くようになった。
一歩車内に踏み込んむと、うまい表現で、広告全体に統一感がある場合などは「おっつ!」というインパクトがあるのは確かだ。
また、中吊り、ドア横など、掲出位置によって内容を変え、うまくメッセージを伝えている場合などは「へぇ~」と思うこともある。

しかし、だ。やはり、2駅程度の移動なら飽きないが、それを超えると限界。
いつもの週刊誌の広告を読みたくなる。週刊誌の広告などはそれ自体が貴重な情報源であり、社内での格好の暇つぶし材料だ。
それが全くないのは、やはり車内が少々物足りない。

最近の新型車両の場合は、ドア上に液晶画面が付いており、そこで広告映像を流している。
その映像も広告主各社は工夫を凝らしており、自社商品やブランド訴求と視聴者(乗客)に注目させ、飽きさせないような工夫をしているので、中々楽しめる。ミニクイズ、ミニ英会話、ちょっとした雑学集、占い、売れ筋商品のランキング等々。その情報内容自体にも価値が見出せるし、移動時間の暇を埋める効果は十分だ。
しかし、トレインジャックの場合、この液晶画面での映像広告まで、その広告主からのメッセージに占拠される。
その内容が、先に挙げた通常の広告のように気の利いた情報で時間つぶし効果のあるものであればまだいい。
先日乗り合わせたトレインジャック広告車両の映像は、その企業のイメージ映像が何パターンかずっと流されていた。
ただでさえ、これでもかと、感じるトレインジャック広告。液晶画面でまでイメージを流し続けられると、少々辟易してしまう。

結構な費用をかけていると思われる広告手法であるだけに、逆効果になってはもったいない。
広告制作者も、広告主も、もう一度乗客の目線・立場になって、どこまで、どのような内容なら受容されるのかを考えてみてはどうだろうか。
「トレインジャック広告」はそんなに新しい手法ではないが、車体広告や液晶画面の登場などで、ともするとクドくなりすぎの傾向があるように思う。
やはりここでも生活者視点が重要なのだろう。

【追加情報】
読者の方から少し指摘があったので、追記します。
「ジャック」は広告の世界ではよく使われ、「タウンジャック」などは、例えば渋谷の街(といっても、だいたいは駅前ハチ公口界隈)で大規模に揃いのユニフォームを着たスタッフがパンフレットやギブアウェイの街頭配布を行ったりイベントを展開します。
しかし、「ジャック」は少々、不穏当な表現でもあるので、交通広告の世界では「アド・トレイン(Ad Train)」という表現の定着を図っていて、最近ではそちらの方が一般的になりつつあるようです。
以上、追加情報として。

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2007.07.10

沈黙は「禁」では済まない!

先週の金曜日、日経新聞夕刊、題字下の「音波」に興味深いコラムが掲載されていた。
「音波」はタイトルを含めてわずか80文字あまりで様々な世相を切り取るコーナーだ。
毎夕、いつも一番はじめに見る欄である。
その日は『沈黙は「禁」』と題されていた。
主旨は以下の通り。
「最近”沈黙族”と呼びたい人々が増えている。その所行は電車で人を押し退け降車する。閉まるところを支えて建物のドアをすり抜ける。狭い歩道で道を譲ってもそのまま通り過ぎる。」と。
で、その主旨は「”ありがとう”も会釈もなく過ぎ去っていく」という。
それが『沈黙は「禁」』という由縁であり、「情報過多でコミュニケーション能力を低下させる人の増加が気になる」と結んでいる。
金森が評するのは些か日経記者殿に対し不遜であるかもしれないが、今日の場景を切り取った秀逸なコラムと言えよう。
しかし、もっと行数が許せば、さらに踏み込んだ指摘をしたかったに違いない。
勝手ながら、その胸中を推察し、代弁してみたい。

そもそも、文中にある「コミュニケーション」という、今日、片仮名英語になっているものの正体は何か。
以前、今日の「コミュニケーション不全」の正体を考察したコラムで指摘したが、「コミュニケーション」の語源は、ラテン語で「共有」を意味する。
コミュニケーションがうまくいかない(不全)という状態を象徴的に描いた映画、「バベル」の映画評を当Blogで展開したが、それは「言葉が通じない」という以上に悲劇的な状況があるということを伝えたかったのだ。
それが、今日のこの国(さらに拡大すれば”世界”)の姿である。
つまり、「沈黙」が「禁」ではないのだ。いくら言葉を発しても、その会話の相互に共通理解がなければ、何かを「共有」することはできない。
もちろん「共有すべき」は記事の文脈で考えれば「common sense(常識的な判断力・良識・分別)」であるはずだ。これもラテン語の語源からの派生であることはいうまでもない。

コラムは問題の原因を「情報過多」に求めている。情報発信側のメディアの立場でそう記している。
しかし、本当にそうなのだろうか。昨今のメディアが発する情報は、多少の立ち位置の違いはあるものの、「記者クラブ発」であり大差ない。
では、大手メディア以外のインターネットに代表される様々な情報が人々を惑わすのか。答えは”否”であろう。
インターネットでの情報受信者は、同時に発信者でもある。一方的に情報に踊らされているわけではない。

では、何が”混乱”を招いているのか。
それは、社会の規律・規範が曖昧になり、失われ、「箍が外れている(緊張や束縛がとれ、しまりのない状態になる:広辞苑)」ことによるのではないか。
人と人が共有できない社会。何とも恐ろしい世界ではないだろうか。
生物には基本的に(一時的にほんの小集団は形成しても)”個”として生きる存在と、”個”はほとんど確立されておらず、”集団”として存在している姿がある。
人間は「個が確立しつつ、集団という”社会”を形成している」という点で特異性があるのではないだろうか。

小さなコラムが切り取った日常。その先に透けて見えるものは、”社会”が混乱に晒されているという、真に恐ろしい現状なのではないだろうか。

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2007.07.09

”社会的手抜き”禁止!選挙に行こう!!

最近、当Blogの記事が少々政治色を帯びているとの指摘をされた。
また、フリーで仕事をしていく上ではあまり政治的ポリシーを表面に出さない方がいいというアドバイスをくれた人もいる。
だがしかし、昨今の世情を見るにつけ、基本的にはノンポリの金森でも声を上げたくなるのだ。

「いつまでも続く不幸と云うものはない。じっと我慢するか勇気を出して追い払うかのいずれかである。」
ロマン・ロランの言葉である。
しかし、我慢も限界なのは世の多くの人も一緒であろう。また、我慢をしていればこの世の中が良くなるとも思えない。
ただ、我慢しているのはラタネの言う「社会的手抜き(social loafing)」とも同じである。

「社会的手抜き(social loafing)」とは、「集団の人数が増えれば増えるほど一人一人は本気を出さなくなっていく」という現象である。
わかりやすくいえば、例えば学校で体育マットを何人かで運んでいる時、一人二人、力をこっそり抜いている人間がいるという状態。
または、運動会の綱引きの時、全員が渾身の力を振り絞っているかというと、実はさほど本気を出さない人間も混じっているということ。
はい、心当たりのある人、アブナイです。

で、何を危惧しているのかといえば、29日の投票率である。
どうもきな臭く、アブナイ感じの報道を見た。
「だから自公悪政はまだ続くという悲観論(日刊ゲンダイ)」
http://newsflash.nifty.com/news/tk/tk__gendai_02032586.htm

要点は以下の通り。
「必要以上に自民大敗予測が出されているのは、巧みな与党のメディアへのリークによる世論操作ではないか」
「29日の投票日は全国的に夏休みで、夏祭りと重なる地域も多い。家族サービス優先で、選挙は二の次三の次になる恐れがある」

つまり、いわゆる「無党派層」の中で、先に記した「社会的手抜き(social loafing)」が起きるのではないかと金森は読み取った。
「どうせ自民大敗だろう。自分一人ぐらい投票に行かなくても、与野党逆転になるに決まっている」という動きを自民が狙っているのではないかということだ。

さて、今日はきちんと印象に残るように、メッセージは短くまとめます。(いつも記事が長すぎるという意見もあるし)。

「手抜きせずに、29日はきちんと投票しに行きましょう!!」
(レジャーと重なったら、きちんと事前に不在者投票を!)


・・・ちなみにもうちょっと読みたい方は、「社会的手抜き」と近い関係にある、ラタネの「傍観者効果」に関して記したこちらのバックナンバーをどうぞ。

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2007.07.06

傘に関する素朴な疑問

また、金曜日は軽めのつぶやきコラムをお届けしますが、今回はちょっと皆さんにも考えていただきたい素朴な疑問です。

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今週、水曜日にはまとまった雨が降り、やっと梅雨らしくなったと思えばまた、木・金と夏空を思わせる天気。
しかし、皮肉なことに、織り姫・彦星の年に一度の逢瀬である七夕を皮切りにやっと梅雨空が続くことになるようだ。

その、雨の水曜に街を歩いて思ったことがある。
どうも、昔に比べて”傘を差さない人”が増えた気がする。
どうでもいいことなのだが、気が付いてしまうと、その理由をとことん考えないと気が済まないたちなのだ。
観察眼とそこからの思考展開はマーケティングの基本でもあるし。

水に恵まれた日本。その分当然雨も多い。
”世界一雨に濡れることを嫌う国民性”ともかつて言われ、洋画のシーンにあるような、帽子にコートだけで雨の中を歩くような人はほとんどいなかった。
傘の消費量も世界一という。

だが、最近小降りの雨ならばかなりの割合で。結構な降りでも幾人か傘なし、濡れて歩く人々を目にする。
何故だろう。

その理由を少し考えてみると、以下のようなことが推察される。

・”カジュアルな服装”が増えたことによる?
個人的にはスーツを着ている時に一番嫌なのは雨だ。濡れるだけでなく、ズボンの折り目がなくなったり、どこかだらしなくなってしまう。
ところが、”クールビズ”の影響もあるのだろうが、ビジネスシーンにもカジュアルが随分と入り込んできている。金森自身も一人で事務所で仕事をする日などはかなりダレた服装だし、軽めの打ち合わせだけの日はコットンパンツにボタンダウン、軽いジャケット程度のビジネスカジュアルだ。
自分の行動を振り返ると、そんな服装の日はやはり多少の雨だと傘を差さない。
しかし、女性の場合はどうなんだろう。これだけでは説明が付かない気がする。

・個性を主張するファッションが増えた?
以前、「雨の原宿では圧倒的にビニール傘の比率が高い」というタウン・ウォッチのコラムを書いた。
その中で金森は以下のように理由を推察した。
『原宿や最近注目の裏原宿などのエリアの流行の変化は激しく、その年の大きなファッショントレンドに加え各店なりの多様性を持っている。その流行の変化を追い、さらにバリーエーションを取りそろえるには、かなりの労力と費用を要する。日々服を着るのも大変なのだ。あくまで想像ではあるが、その「日々」の中で「雨の日」という「非日常」に対応するのはビニール傘で十分というのが原宿の人々の本音なのではないだろうか。』
この話を毎年、教鞭を執っている青学の学生にすると必ず出る反対意見がある。それは「ビニール傘は傘自体が主張しないので、どんなファッションにも影響しない。オシャレな服を着た時にはとても便利だ。なので、ビニール傘はオシャレに必須なアイテムなのだ」と。
だとすると、もう一歩先を考えれば、服装へのこだわりがより強ければ、ビニール傘すら”邪魔”と考える人もいるかもしれない。近年、性・年齢に関わらず、服装へのこだわりが高い層が増えている。(一方で無頓着派も増えているのだが)。それも傘を差さない派の増加要因なのだろうか。

・帽子の流行と服の素材の進化による?
最近、帽子をかぶっている人が増えている。その流行の兆しも以前Blogに記した
さらに、服の素材も、以前ではスポーツウェアやアウトドア用ぐらいにしか防水加工はされていなかったが、ごく日常的な服でも、雨に濡れてみると意外と撥水性に富んでおり、「あれ、これ撥水加工素材だったんだ」などと気付くこともある。
だとすると、帽子に撥水性のよい服であれば、冒頭に記した「洋画のシーン」のように、雨の中を「帽子にコート」だけで歩くことも苦にならない。
意外と「傘を差さなくても別に大丈夫なんだ」といつしか気付き、多少の雨なら傘を差さなくなった人も多いのかもしれない。

・・・とまぁ、3つぐらい理由を考えてみたがどうだろうか。
うっとうしい季節に街を歩く時でも、こんなことを考えながらだと、少し楽しくなるのは金森だけか。
さて、上記以外の理由を考えた方はいるだろうか?

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2007.07.05

人を感動させるには

「人を感動させるには、まず自らが感動しなくてはならない」。
この言葉は、「落ち穂拾い」や「晩鐘」で有名な画家、ミレーの言葉である。
実は、金森がこの言葉に出会ったのは、小学校の道徳の教科書。巻頭の言葉であった。以来、ずっと記憶している。

なぜ、またこの言葉を思い出したかというと、先日の大学での講義後、学生と会話した内容からだ。
金森はマーケティングの要諦として「顧客視点の重要性」を一貫して訴えている。
しかし、デザイナーを目指しているという学生は「人の意見を聞いていても、当たり前な話ばかりで、結局ちっともいいデザインにならない。結局は人も思いつかないような自らの発想力を頼りに、人が驚くようなデザインを仕上げるしかない」と力説していた。
よく似た話で、たたき上げの経営者も「結局は客の話に耳を傾けても、”安く””もっといい物”と勝手なことしか言わず、参考にならない。所詮自らの”勘と経験”の勝負なのだ」という。

まずここで問題なのは、昨日記した「DAKARA」の例のように、「人(顧客)の話を聞く」と言ってもどのレベルで「きちんと聞いているのか」である。件の例のように、通り一遍の定量調査と詳細な日記形式の定性調査では、実に結果が180度異なっていた。また、実際のユーザーに張り付いたり、販売現場で生活者に密着することで今まで見えていなかった、顧客となる生活者の真の姿が見えてきた。
通り一遍の「お客様アンケート」や「座談会」などで、「ちょっと話を聞く」程度で、新たな発見があれば苦労しない。
月並みな言葉であるが「聞く」のではなく「傾聴」。さらに「聴き出す」。さらに「自らも体験する」。そこまでの努力をして、まだ「価値はない」と言えるのだろうか。

次に、自分が創り出そうとしているモノ。または売ろうとしているモノ。そもそもなぜ、それを「創ろう」「売ろう」としているのか。ここで冒頭のミレーの言葉を思い出して欲しい。
画家は、恐らく自らの琴線に触れた光景に出会い、何とかその風景をキャンバスに切り取り残したいという「渇望感」に突き動かされて絵筆を振るったに違いない。まず、自らが感動して、その感動を形に残そうという思いがある。そして出来上がった作品が人にも感動を与える。
「商売」とは狭義には「利益を得るために品物を売り買いすること」である。しかし、利益だけを考えていてはうまくいかないことは自明の理である。
物作りであれば、まずはそのモノを作り上げたいという自らの強い思いがあり、そしてそれが生活者にどのように受入れられるのかという、DAKARAの例のような詳細な対話を経て、自らと生活者が協創していくということが肝要ではないか。
モノを売るということに関しても同様だ。何故自分はそれを売りたいのか。売ることによって生活者は何をもたらされるのか。売る側の強い思いが」明確にあり、それが買う側にどのように受入れられるのかを同様に対話の中から探っていくことが大切なのだ。

昨今、事件となっているいい加減な物作りや商売。どう考えても作る側、売る側の「思い」の存在は感じられない。また、生活者の言葉など聞く耳もない。
結局、物作りも商売も、ミレーが言うような、まず主体の強い思いがあり、それが伝わっていくことになるはずだ。
自らの思いと、受入れるが側の気持ちを聴き出し、その間を何度も行きつ戻りつして、よいモノや商売の形態が作られていくのは間違いない。
一刻も早く、全ての物作りと商売が、その原点に回帰してもらいたいものだ。

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2007.07.04

数字を見るな。顧客を観ろ。

先般、当Blogの左サイドにある「お勧め書籍」にアップした野中 郁次郎先生の「イノベーションの本質」について少々記したい。
わずか3年あまり前の刊行であるが、読み返してみて重要なポイントを忘れていたので、自戒と備忘の意味も込めてである。

同書にある13の事例のうち、一番はじめに取り上げられている「サントリー・DAKARA」はマーケティングの成功事例としてもよく知られている。
スポーツ飲料市場参入を狙うサントリーは、先行する「大塚製薬・ポカリスェット」、「日本コカコーラ・アクエリアス」に対抗すべく、新製品を企画していた。
まず「市場機会の発見」として、サントリーはスポーツ飲料飲用者のうち、実は「スポーツをしない」にもかかわらずスポーツ飲料を飲んでいる人が8割も存在することに気が付いた。
そこから、「スポーツをしないが、自らの体質改善に関心がある人」をターゲットとして、さらに「老廃物の”排出”」という、従来の飲料では考えられない”摂取”の逆、”排出”を初めてポジショニングとした。
具体的な施策(4P)の展開では、「からだをいたわる」ということを連想させる「DAKARA」というネーミングと、白地のボトルの中心に赤いハートあしらい、どこかメディカルっぽいパッケージが製品戦略の特長であり、コミュニケーション戦略は”排出”をストレートに表現した”小便小僧”をキャラクターとして登用。大量のCFを投入した。
その、市場機会の発見~具体的な施策までの一貫性・整合性が非常に優れているところが、マーケティングの事例としては秀逸であるといわれる所以である。

しかし、さらっと説明してみれば(実際に金森自身もこの事例を解説する時には上記のような内容で話している)こんなものなのだが、その「市場機会の発見」と「コンセプトメイク」の過程が同書には実に生き生きと描かれており、重要なパートとなっているのだ。

実は「どんなときにポカリやアクエリアスを飲むか」という一般的な質問を定量調査で行うと、「スポーツ時/スポーツ後」が76%を占めたという。しかし、対象者に「毎日いつ、どの飲料を何と一緒に誰と飲んだか」を詳細に記述させる日記調査では、スポーツ時/スポーツ後」はわずか18%。二日酔いの時や仕事の合間などが圧倒的に多かったという結果が出た。
当初考えられていた製品コンセプトは「もうひと頑張りできる働く男のスポーツドリンク」であったそうだが、この定量調査と、実体により近いと思われる日記調査のズレから、開発メンバーは、さらに生活者の生の姿に迫る必要性を感じたという。

あるメンバーは宅配ドライバーに密着し、夜ヘトヘトになるまで働き、留守宅があるため仕事が終わらず、家に帰れない姿を見た。そこで、仕事の合間に寂しげに自販機で買った”ポカリ”を飲むドライバーの姿に、どうして「もうひと頑張り」を強要する飲料を作れようかとハッとしたという。
また、別のメンバーはコンビニの店員になり、客の「食生活の乱れ」を間近で実感したという。そこから、飲料には”不足分を補充する”以上に、”余分なものを排出させる”という機能の重要性に気付いたという。

「コンセプト」とは、「誰に」「どのようなシーンで」「どのような便益を提供するのか」が組み合わさってできあがるものだ。飲料は、年に1000ものアイテムが上市され、翌年まで生き残るのは3種類程度という、正に「千三つ」の世界である。「DAKARA」は「打倒ポカリ、アクエリアス」を賭けていたため、最初のコンセプトである「もうひと頑張りできる働く男のスポーツドリンク」に至るまで2年間の歳月を費やした。しかし、定量調査と日記調査の結果のズレから違和感を感じ、発売時期を延期し、さらに2年を費やして生活者に密着し、真のコンセプトに辿り着いたのである。

この記事のタイトルとした「数字を見るな。顧客を観ろ。」であるが、確かに数字は一定の判断基準や参考値にはなろう。しかし、それが真実を語ってくれているとは限らない。必ず、定性的な判断材料と、何より生の顧客・生活者に触れ、そこから何かを学び取ろうとする意識がなければ、いつまで経っても「千三つ」から抜け出られない。これは飲料の業界に限ったことではない。
「成功事例」も成功に至るまでのスタッフの生の姿に注目すれば、何が大切なのかがより理解できる。
重要なポイントを思い出したため、本日は珍しく書籍内容の詳細な解説などをしてみた次第だ。

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2007.07.02

宣伝会議寄稿「データベースマーケティングの実施のための最新基礎知識」

過日ご報告したとおり、宣伝会議6月1日号に金森の原稿が掲載された。
同社との約束の1ヶ月が経過したので、当Blogにて寄稿原稿をアップする。

その号の特集の一つは「プチセレブな人も大満足"細心"配慮型データベースマーケティングの活用法」であり、データベースマーケティングの基本の解説を金森が依頼されたというわけだ。
宣伝会議6月1日号の内容はこちら
特集の概要はこちら と こちら

では、以下転載。

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「データベースマーケティングの実施のための最新基礎知識」


■データベースマーケティングの定義とその歴史
 「データベースマーケティングとは何か?」一言で答えるならば、次の通りだ。「データベースに顧客の各種属性や購買履歴、行動記録などを格納し、顧客像を分析。そのデータから細分化した顧客セグメント層、又は個々の顧客に最適なアプローチを行う手法」。つまり、顧客を一律に扱わず、「優良顧客には良いサービスを。そうでない顧客にはそれなりに」という、顧客価値に応じたサービスやアプローチによって効果・効率の向上を図ることがこの手法の眼目である。
その歴史は古く、1960年代に米国の通信販売会社が顧客の購買履歴に着目し、購入日・購入頻度・購入額で顧客をランク分けする「RFM分析」が開発され、そのランクに合わせたサービスの提供やアプローチの展開が行われている。

■データベースマーケティングが機能する前提
 通信販売会社のように多様な商品を持ち、顧客が様々な属性を持ち、多様な購買行動をとる業種などではうまく活用できるものの、業種・業態によってはシステム構築をしたが成果が出なかったというケースも散見される。なぜか。それは顧客セグメントや、顧客に属性がうまく付与できないことに起因する。つまり、データベースマーケティングが機能する前提条件として、「顧客を区分(セグメント)する意義」がなければならない。
例えば、ごく特定の上顧客と、それ以外は余り差異のない一般顧客にしか意味のある区分ができなかったとする。その場合、特定の上顧客などは個別に担当者が対応すればよく、一般客は一律に扱わなければ効率の低下につながる。百貨店を例に取れば「外商」と一般の売り場の関係である。この場合、一般顧客のデータは単純なセールDMの発送ぐらいにしか使えないことになる。とかく日本においては高度成長期以来「一億層中流意識」が長く支配しており、一部の富裕層を除いては購買行動に大きな差異がないケースが多かった。データベースを活用し、個々の顧客や細分化されたセグメントに対する個別アプローチを展開するより、一律のアプローチの方が効率的なため、マスマーケティングが長く支配的であった所以でもある。

■変わる生活者の意識と新たなデータベースマーケティングの活用環境
 統計的に見れば、決して日本は本格的な階層社会に大きく変容したわけではない。しかし、好景気を背景に、従来の富裕層ほどの大きな資産があるわけではないが、比較的可処分所得が高く消費意欲が旺盛な「プチセレブ」とも呼ばれる「新富裕層」が出現しているのは事実だ。一方、所得格差指標の一つである「ジニ係数」で見れば、日本はまだまだ格差が大きい社会であるとは言えないのだが、日々格差拡大論が交わされている中では、一般の生活者の消費はさらに選択的になっていくはずだ。このような環境になってくると、決して一部の富裕層以外は全て「一般客」として扱うわけにいかなくなる。さらに、旧来の富裕層と比べれば、新富裕層は絶対数が大きくなるだろう。そうした場合、担当者が個別に張り付くわけにもいかない。データベースの出番だ。ターゲット顧客層の抽出と、購買行動や嗜好に合わせたアプローチを行うことは本来データベースマーケティングの要諦である。

■新たなターゲット顧客層発見の方法とは
 前述のようなターゲット顧客層を抽出し、最適なアプローチを展開するにも、まずその特定ができなければ始まらない。様々な分析方法があろうが、基本に立ち返り「RFM分析」でも十分だ。行数の関係で詳細な分析補方は割愛するが、基本的には個々の顧客の購買状況を把握すること。「どれぐらい直近に、どの程度の頻度で、累積でどのぐらい、購入があるか」という状況を明らかにする。これによって、「取引が最近も継続しており、一定以上の頻度と購入実績(累積額)がある」という条件をかければ「優良顧客」を抽出することができる。
さらに、サービス業ではなく、物品販売であれば、どのような品物を購入しているかということと、自家使用なのか、ギフトなのかという使用用途がわかればよい。何かの商品購入のお勧めをする場合、どのような好みを持っているかといった、いわゆるサイコグラフィックな項目を属性として把握しようとすることもある。しかし、人の好みなどは移ろいやすく、せっかくアンケートなどで聞き出したとしても、実際に使い物にならないケースが多い。それであれば、具体的にどのような品物を購入していたかがわかれば、類似した商品のお勧めができる。また、amazon.comのように、購買履歴をパターン化して、似通ったパターンを判別した場合、次に買いそうな商品をお勧めすることも可能だ。(協調フィルタリングという)。ポイントは、過度な属性項目の把握や、取引の中で自動的に蓄積できるデータ(トランザクションデータ)以外の、アンケートなどのようなアドホックに取得しなければならないデータに依存することを避けることである。手間・コストがかかる割には効果がない。過去のデータベースマーケティングの失敗原因は多くそこに存在する。

■ターゲット層を満足させ、購買のモチベーションを上げるためのポイントとは
 データベースを用いる利点の第一は、「顧客を個別識別できること」である。例えば、ダイレクトメール一つにしても、挨拶文中が自分の名前で語りかけられ、以前購入した商品についてお礼の言葉などが記されていれば嬉しいものだろう。今日ではWebサイトのマイページなどで珍しくもなくなったが、「パーソナライズ」と呼ばれるこの手法はダイレクトマーケティングの基本である。さらに重要なのは、前述の「新富裕層」にフォーカスして考えた場合、ほんの一握りの「富裕層」であれば、担当者が名前はもちろん、購入履歴や嗜好まで頭に入れて対応することができるだろう。しかし、それよりも絶対数が多いはずの「新富裕層」相手では、属人的な対応は困難だ。また、前項のように何かをお勧めする場合も、その履歴を活用すれば、顧客にとって「自分を理解し、利便性を提供してくれている」という満足感にもつながる。そうしたアプローチを重ねることで、顧客の満足感を高めていくことが、顧客との関係を永続化させ、購入モチベーションを高めていくポイントになるのである。さらに、様々なお勧めや御案内を行った結果、顧客がそれを受け入れたか否かの結果を蓄積していけば、企業が提供するサービスと、顧客が求めるもののズレを修正し、精度を高めていくこともできる。

 経済環境の変化から、生活者の意識が変化している今日、データベースマーケティングは「古くて新しい手法」として活躍することは間違いないだろう。

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