"可処分時間の奪い合い"が始まった
日経BizPlusの連載・ニッポン万華鏡(カレイドスコープ)が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回は以前からずっとこだわっている「可処分時間」にフォーカスしてみました。
「自らが費やす時間に対する価値」について、様々な時間の過ごし方から考えてみた次第です。
では、ご覧ください。
----------------<以下バックナンバー用転載>---------------------
時間に余裕のある時は大いに楽しめてありがたいが、忙しい時には絶対手を出してはいけないもの。それは「YouTube(ユーチューブ)」のような動画サイトの閲覧である。ふと気が付けば、取り返しのつかない時間が経過している。しかし、よくもまあ、この手のサービスに人が集まるものだと思っていたら、何と5月1カ月間の日本の利用者数は1165万人に上ったとか。その巨大な集客力が評価され、昨年秋、インターネット検索最大手のグーグルに創業わずか2年で買収され、2人の創業者は810億円相当のグーグル株を手に入れ、一夜にしてbillionaireになった。
■「お金がない!」より「時間がない!」
格差社会の到来と言われ、様々論議されているが、一部の世代や属性を除いて、日本の格差は世界的に見れば大きなものではない。一方、リタイア世代以外、誰しもが体感しているであろう「忙しい」という感覚。一向に減らない労働時間。大人は仕事以外にも趣味や自己研さんや健康維持、子供は学校に塾、習い事、ゲーム・・・。要するに、「時間がない!」のだ。
しかも、ネット上には、ブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)、オンラインゲームなど、時間を費やす場や情報があふれかえり、幾何級数的に増殖を続けている。YouTube人気の高まりをみて、日本ではドワンゴの子会社が今年、「ニコニコ動画」を開始。月間利用者数こそまだYouTubeより1ケタ少ないが、ユーザー1人当たりの平均閲覧時間は2時間強と、YouTubeの倍以上となっている。携帯電話向けゲームサイト兼SNSの「モバゲータウン(モバゲー)」は若者を中心に人気を集めているし、話題の「セカンドライフ」も、日本語版登場で利用者拡大に弾みがつきそうだ。
このように時間を使う対象は増える一方だが、肝心の時間は、お金と違って増やすことができない。可処分所得も可処分時間も少ないワーキング・プアと呼ばれる層に対し、高所得者層であれば、家事代行やハウス・クリーニングサービスなどで、時間を買うこともできよう。しかし、お金を出してまで買った時間は貴重である。どの階層においても「時間の貴重さ」は変わらない。1年は365日、1日は24時間と、貧しき者にも富める者にも等しく配分されている。そのうち自由になる時間をどう使うか、という極めて悩ましい問題に、現代人は直面しているのだ。
■誰が「生活者の2時間」を押さえるか
7月18日付の日本経済新聞朝刊で、6月末に就任したフジテレビジョンの豊田皓社長がインタビューに答え、「放送以外の収入比率を早期に30%に引き上げたい」と述べている。その背景には、テレビの視聴時間は平均4時間ほどで頭打ちだが、「2時間でコンパクトに楽しむ娯楽の需要が増えている」という事情がある。例として芝居、ミュージカル、映画、自動車レースのF1などが挙げられ、「今後も国内外の有望な興業を招致する」という。
となれば今後、テレビの世界を飛び出したフジテレビと、生活者に2間程度の時間を使わせるビジネスは、すべてガチンコ勝負をすることになる。スポーツその他のイベント関連だけでなく、先のニコニコ動画のユーザー1人当たり平均閲覧時間も2時間だ。普段の生活に溶け込んでいる外食や飲み会、カラオケetc.も2時間程度。はやりのヨガ教室や英会話スクールは1~2時間、新書やビジネス書を読む時間も個人差はあるものの、1冊おおむね2~3時間か。
テレビを見るか、サッカー観戦に行くか、SNSに浸るか、はたまた読書か、フィットネスか・・・。いずれにしても、これら生活者に時間を使わせるモノやサービスは、必ずしも必需ではないだけに、すべて競合関係になりえる。
先のYouTubeにしてもドワンゴにしても、バナーや動画などの広告収入は得ているものの、単独では黒字化しておらず、ビジネスモデルとしてはまだ不完全だ。にもかかわらずなぜグーグルはYouTubeを買収し、ドワンゴは投資を続けるのだろうか。それは、ビジネスが業際や有料・無料の枠を超えて「時間の奪い合い」の様相を呈するなか、まずは「恐ろしいほど多くの人間を、長時間囲い込む」ことが力の源泉になり、さらなるビジネスチャンスを切り拓くと期待しているからにほかならない。
■「時は金なり」か「タダより高いモノはない」か?
可処分時間がひっ迫してくると、生活者は時間の使い方について、これまで以上に吟味する必要がでてくる。どのように時間を過ごすかの選択は、各々の将来にも影響してくるだろう。
例えば新しい生活を始め、自分の部屋に様々な品物を買いそろえていったとする。徐々にモノが増え、やがて収納スペースに余裕がなくなる。そのままにする人もいるかもしれない。しかし、より上質な品物に囲まれて過ごそうとするなら、不要な物、価値が低いものは捨てていくしかない。高いか安いかだけでなく、「本当に必要かどうか」「本当に価値があるかどうか」がこれまで以上に問われるはずだ。
商品なら失敗しても廃棄したり、買い換えたりすればいい。しかし、時間は不可逆であり、取り戻すことはできない。インターネットには無料のコンテンツがあふれている。街ではフリーペーパーが大量に配られている。価値あるものも多数あるだろう。しかし、それらを「タダだから」といって漫然と消費していたのでは、結果として「タダより高いモノはない」かもしれない。
企業には、従来以上にシビアな生活者の取捨選択が待ち構えていることは言うまでもない。生活者から受け取る「可処分所得」と「可処分時間」の両方に配慮し、それらに見合った価値を提供しなくては、生き残ることさえおぼつかないだろう。支払う対価と費やす時間と、そこから得られる価値。そのバランスについて、提供する企業にも、受け入れる生活者にも、熟慮が求められる時代になったのだ。