映画「バベル」に見る「コミュニケーション」の真の意味
金曜日なので、週末に向けて映画の話題でも。
(まだ、公開しているところもあるのでネタバレには気を付けますが、週末に鑑賞予定の方はご注意ください)
ずいぶん前に鑑賞した。すぐに感想を書こうと思ったが、実は書けなかった。
巷では評価は大きく分かれている。
映画のラストは多くの人が言うようにかなり唐突なブツ切り感がある。それは制作者の「考えろ」というメッセージなのだろう。ずっと考えた。そして、自分なりの答えは、既に自分の中にあったことに気が付いた。
「バベル」は旧約聖書の「バベルの塔」における、「言葉が通じなくなったことによる混乱」をモチーフにしているとされているようだ。しかし、実はそこには全く逆、もしくは違う意味が隠されているのだとようやく気が付いた。
「言葉が通じない」つまり”conversation”の不成立ではない。”communication”の不成立を問題にしているのだ。
communicationは”verbal communication(言語的コミュニケーション)”と”non verbal communication(非言語的コミュニケーション)”に分類できる。
金森はコンタクトセンター出身であり、電話オペレーターとして学生時代にデビューした。
そのオペレーター研修の中で最初に言われたことがある。
「人と人のコミュニケーションは言葉で通じ合うのは、実は2割。残りの8割はお互いの表情や身振り手振り、雰囲気などを通じて感じ取るもの。その意味からも、電話だけでコミュニケーションをするというこの仕事がいかに難しいか、まず理解するように」。と。
上記の”verbal communication”と”non verbal communication”の話である。
映画「バベル」では、悲劇はモロッコ人兄弟、米国人夫婦、その夫婦の子供二人とメキシコ人乳母、日本人の父と聾唖者の娘に訪れる。
米国人の妻は旅先のモロッコでトラブルに巻き込まれ、瀕死の重傷を負う。その子供二人は乳母に連れられメキシコに行きトラブルに巻き込まれる。モロッコ人兄弟は逆にトラブルを引き起こしてしまう。遠く離れた日本では母を亡くした父娘が心のすれ違う日々を送っている。
それらの人間が一本の糸で結ばれていくのだが、それ自体がメインテーマではないのだろう。
「同じような悲劇が世界中で起っている。それらの根は繋がっている」という、いわば大テーマを支える暗示ではないか。
米国人夫婦は言葉の通じない異国・モロッコに放り出される。同じくその子供達も言葉の通じないメキシコでトラブルに遭う。確かにここは「言葉が通じない」という点でタイトルの意味を想起させるが、実はそうではない。
通じていないのは「言葉」ではなく、「心」なのだ。
別の言い方をすれば、「心が通じていない」は「コミュニケーションが成立していない」のである。
この点は後述するとして、映画の中身を整理する。
米国人夫婦は過去に夫婦を襲った悲劇から、夫が逃げるように心を遠ざけ、その関係修復を名目に夫婦でモロッコを訪れるが、二人の心は通じ合わない。
また、夫婦は子供を大切にしていると言いながらも、実際には乳母に預けきりで、十分親子の心が通じていない。
また、その使用人であるメキシコ人乳母と信頼関係が結ばれているように見えるが、一皮むけばそうではなく、故に子供達はトラブルに巻き込まれる。
日本人の父娘は娘が聾唖者であるため言葉が通じていない。しかし、過去に父娘を襲った悲劇により、父親は娘に表面的に気を遣っているようであるが、心の底から通じ合えているようには見えない。
モロッコ人兄弟も他愛のない兄弟げんかを繰り返すものの仲良しのように見えるが、愚直な兄と小器用な弟の間には、妬みと蔑みが見て取れる。本当の心は通じ合っていない。
旧約聖書は「言葉が通じないという状態から生じる混乱」を伝えているのだろう。
(宗教的解釈が間違っていたらご指摘ください)。
しかし、実は「言葉ではなく、(媒介としていた言葉の共通性を失うことが原因ではあるが)心が通じない。コミュニケーションが成立しなくなるという悲劇」を伝えているのではないか。
ここで「コミュニケーション」の話に戻ろう。
以前、日経ビズプラスにコラムとして執筆し、当Blogにも転載した「コミュニケーション不全・・・」である。
以下のような一文を記した。
コミュニケーション(communication)」の語源は、ラテン語の「共通したもの」を表す(コミュニス:communis)や、「共有物」を表す(コモン:common)にあるという説が有力だ。
金森は普段、研修の場でも力説するが、「コミュニケーションとは、会話をすること(言葉が通じること)ではない。それは過程である。コミュニケーションは相互の”共有”がなされなければならない」のである。
この「バベル」という映画に登場する人々は、裕福そうな米国人家族と日本人家族。貧しそうなモロッコ人家族とメキシコ人の仲間達。国や貧富は様々だが、一様に空虚な心のすれ違いが寒々しさとして伝わってくる。
「言葉面が通じていても、心は通じていない。思いが共有できているというような”本当のコミュニケーション”なんて誰もとれていないんだよ」という、この映画のタイトルから逆説的なメッセージを感じたのは金森だけであろうか。
とかく、今日、「コミュニケーション」という言葉が軽々しく遣われすぎてはいまいか。
アンケート、「企業の新入社員に期待するもの」第一位=「コミュニケーション力」。
上司の悩みによく登場する言葉「組織内のコミュニケーションが足りない」。
教育の現場で言われる「子供のコミュニケーション力の低下」。
・・・一体、誰と誰が、何を「共有」しようとしているのか?
お互いの「心」に目を向けているのか?
「心」とは何か。多義であるが、人と人の相互関係の中で考えれば、月並みだが「他者やお互いを思い遣る気持ち」ではないか。
無くしたものは「言葉」ではなく「心」なんだよ。と、金森はこの映画を受け止めた。
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so informative, thanks to tell us.
Posted by: mycleffiqueli | 2010.09.30 11:02 AM