「"知覚品質"という価値に着目してみよう」
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回は「マーケティングのど真ん中」「直球勝負」です。
色々な方に読んでいただきたいです。
が、4月から私の講義を履修する青学の学生、及び現在履修中のグロービスの大学院生、必読願います!!
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
「象が踏んでも壊れない」・・・40代以上の方なら懐かしいキャッチフレーズであろう。商品は、「サンスター文具の“アーム筆入れ”」。テレビCMは実際に象に筆箱を踏ませ、「わぁ~本当に壊れていないや」と男の子が目を丸くするというものだった。象が筆箱を踏むというシチュエーションはかなり謎であるが、「丈夫さ」という商品スペックを伝えるのに最大級のインパクトがあったことは確かだ。実はこの筆箱、最近復刻版が発売され、密かなブームになっているのはご存じだろうか。ではなぜまた売れているのか?
■人はモノを購入するにあらず
昨今のマーケティング論の基本は、この小見出しの通りである。では、モノではなく、何に対して対価を支払うのか。それは「価値」に対してである。生活者はそのモノが自らにもたらしてくれる「価値」を購入しているのだ。実はこの考え方がまだ理解できずに苦戦する企業が後を絶たない。
冒頭の「復刻版・象が踏んでも壊れない筆箱」の購入者は、再び「丈夫で長持ちする」という商品自体に対価を払っているわけではない。「子供の頃の懐かしい思い出」に「価値」を感じて対価を払っているのだ。もはや「丈夫」という商品特性・スペックは価値ではなくなっている点に注目すべきである。
少し歴史を振り返ってみよう。「“モノ”ではなく、“価値”に対価を払う」。このような生活者の意識転換が起こったのはそう古いことではない。
高度成長期、それこそ人は「モノに対して」対価を支払っていた。1950年代の三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、それに続く60年代の新三種の神器(カラーテレビ・クーラー・マイカー)。それらを何とか「人並みに手に入れよう」と汗水垂らして働いた。まさにマスプロダクト・マスセールスの時代、「迅速な生産と供給」が勝利の方程式であり、マーケティングなどあまり重要視されていなかった。
その後70年~80年代という豊かな時代を迎え、モノが満ちあふれるようになると、「市場のパイの奪い合い」が始まった。この時代のマーケティングにおける最大の課題は「いかに魅力的な商品を作り出すか」であり、「差別化戦略」が勝利の方程式となった。だが、「商品そのものの魅力」で勝負できたのは、実にこの時代までである。
■「コモディティー化」とこだわりの低下
バブル期の大量消費とその後のバブル崩壊を経て、生活者は「選択的な消費」と「買わない自由」を覚えた。一方、商品自体も技術的進歩によって質量ともに満たされ、従来の「高級品」と「普及品」もしくは「廉価品」の機能や品質の差がどんどん縮小していった。「コモディティー化」である。
あるアパレル関係者に聞いた話であるが、こと「品質」という点に関して今日一番恐ろしい存在は「ユニクロ」だという。例えばジーンズの生地の規格に一番厳しいのは、老舗のジーンズメーカーではなくユニクロらしい。また、インナーウエアなども、デザインはともかく、その生産技術や品質は専業メーカーともはや差異はないそうだ。
ジーンズのトップブランドといえばリーバイスであろう。しかし、そのマークが表す「二頭の馬が引き裂こうとしても破れない」というような「スペック」だけでは、もはや勝負ができないのである。
1万9,800円か2万9,800円で購入できる「2プライススーツ」の店に集っているのは、まだ薄給の若いサラリーマンばかりではない。スーツ自体にコストをかけることに意味を見出せなくなり、「コモディティー品で十分」と考える多くの人が購入していっている。
アパレルやブランド品に特に顕著な傾向であるが、身の回りを見渡すといかにコモディティー品があふれているかが分かる。例えば乗用車のうち小型車・軽自動車の比率がここまで高まったのは、何も低燃費やエコロジーを意識した結果だけではない。「車に対するこだわり」の低下も少なからず作用しているはずだ。
■任天堂 VS ソニーの雌雄を決したもの
技術の進歩によって製品のスペックには差異がなくなってきている。逆に、ここからさらにスペックを拡張させようとすればきりがなくなる。ともすれば、生活者の求めていないレベル、ついていけないレベルにまで先走ってしまう。
ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーが著した「ブランド・エクイティ戦略」(ダイヤモンド社)を読み返してみると、そこに世の「コモディティー化」を脱するキーワードがある。「知覚品質」という考え方である。
「知覚品質」とは「顧客が認めている、“その製品ならでは”の価値」である。スペックを重視する「工業的な品質」は当然、「客観的に測定可能な品質」であるが、それに対してアーカーの提唱する「知覚品質」は、目に見えない「顧客の頭の中の主観的な評価」である。言い換えれば、その顧客なりの“対価を支払う理由”である。
この考えをもう少し具体的な例で見てみよう。ソニーの次世代家庭用ゲーム機「プレイステーション3(PS3)」。グラフィックの描写機能は素晴ら しく、レースのゲームなど、あまりの現実感に見ていると車酔いしそうだ。また、単なるゲーム機にとどまらない拡張性も大きな魅力である。しかし、販売台数では任天堂の「Wii(ウィー)」に大きく水をあけられてしまった。
理由は価格差だけではあるまい。マシンの性能としては恐らくPS3の方が上だろう。しかし、そこまでの高性能を一般の生活者が求めていたのか。一方のWiiのコントローラーに搭載されている「三次元モーションセンサー」は、体感的にゲームを楽しむという新しい価値を生活者に提示した。今までの延長線上で性能を高めたPS3と、「新しいゲーム体験」を生活者に訴えかけたWii。まさに「工業的な品質」対「知覚品質」の戦いだったのではないだろうか。
冒頭「人はモノを購入するにあらず。価値を購入しているのだ」と述べた。PS3は「超・高性能な(ゲーム)マシン」という「モノ」だったのではないか。対してWiiは「新しいゲーム体験を提供してくれる存在」としての「価値」が評価されたのではないかと筆者は考える。
モノは飽和し、コモディティー化の波がとどまることはないだろう。「買わない」「こだわらない」消費者も、さらに増えていくことだろう。企業が顧客視点に立って、「顧客にとっての“価値”とは何なのか」を考えられるようになった時に初めて、生活者は消費の喜びを取り戻すことができるのではないだろうか。