「車中にて~ぼやけた物事の境目を憂う~」
日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
今回、文中にて援用させていただいたは、前職・電通ワンダーマン時代の同僚で、現在は独立されている松尾順氏のブログです。
日々、有用な情報をメール&ブログで公開されているので頭が下がります。
http://www.mindreading.jp/blog/index.html
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
目の前で化粧をしている。口紅を少し直す程度ではない。フルメイクだ。ビューラーでまつ毛をカール。マスカラをたっぷり。・・・いや、筆者は女性の化粧姿をのぞき込んでいるわけではない。ここは電車の中。向かいの席でせっせと化粧にいそしむ姿は、いやでも目に入る。しかし、ここで車中の化粧だけをとがめているのではない。最近、電車の中の風景がどこかオカシイのだ。
■「自分だけの世界」に埋没する人々
電車で化粧をするという行為。少し大きめの四角い折りたたみの鏡が若い女性の必携アイテムになったころから、彼女たちは堂々と車中で化粧をするようになった。鏡を取り出した瞬間に周りの人々の存在は意識から消え失せ、「自分だけの世界」に入り込んでいるのであろう。そういえば、車中でカメラ付き携帯電話をかざし、夢中で自分の顔を撮る姿もよく目にするようになった。
「自分だけの世界」という意味では、ゲームに興じている人々もそうだ。ポータブルゲーム機を持ち歩いている本格派だけではない。深刻そうな顔をして携帯電話を見つめているビジネスマンの、視線の先の画面はゲームであったりする。これももはや、日常的な光景である。
ゲーム以外に携帯電話をいじっているのはインターネット派だ。2003年に首都圏の鉄道各社が一斉に、優先席付近を除き携帯メールとWebブラウジングを解禁した。以来、身体は電車の中にありながら、心は携帯電話の画面を通じてその場にいない友人・知人の所に飛んでいってしまっている人が数多く出現した。
かくして、公共輸送機関に乗り合わせた彼ら、彼女らは各々、「自分だけの世界」にいるか「心ここに在らず」の状態なのだ。何とも異様な光景ではないか。
■崩壊する“TPO”と“マーケティングの基本原則”
Time, Place, Occasion 略してTPO。時と場所と場合に応じること。以前はよく使われていた言葉であるが、最近めっきり耳にしなくなったように思う。「自分だけの世界」「心ここに在らず」は、言い換えれば「いつでも・どこでも」自分に都合のよい時間と空間の感覚で行動していることを表している。つまり、TPOの逆である。昨今の風潮であり、技術の進化がそれをどんどん可能にしている。
「いつでも・どこでも」はユビキタスのキーワードでもあり、あるモバイルマーケティングの専門家は、今日の状況を「生活者にアプローチする機会が無限に増えた」と喜んでいた。退屈極まりない通勤・通学手段である電車の車内が、大きな可能性を秘めたプロモーション空間になったと言うのだ。だが、本当にそうであろうか。
TPOとは本来、その場に居合わせた人と人が、お互いを気遣うことで相互が快適に過ごすための最低限のルールである。しかし、人々が「自分だけの世界」か「心ここに在らず」で他者の存在を軽んじるようになれば、そのルールは崩壊する。
このことは、マーケティング的に考えても大きな問題である。なぜなら、顧客に対する「時と場所と場合」に応じたアプローチは、効果を上げる必須要件であるからだ。電車の中だけではなく、自分中心で時間も場所も他者もお構いなしという人間が増えたら、どのようなタイミングで、どのようなアプローチを行うかという設計ができなくなってしまう。“Right timing, Right approach.”というマーケティングの基本原則が崩壊してしまうことを意味しているのだ。
■マーケティングへの影響
分かりやすい事例を示そう。前述の通り、ターゲットとなる生活者のシチュエーションとタイミングをうまくとらえることは、マーケティングの要諦である。リクルート社のフリーペーパー「R25」について、あるマーケターが次のように分析している。(※)
曰く『「R25」は、「帰りの電車の中で読んでもらう」ことを前提に作られている。最初の方のページは固い内容。そして、読み進めていくうちにどんどん話題がやわらかくなり、気持ちもオフタイムモードへ切り替わっていく。そして、自宅の最寄り駅に着くころには、ちょうどコンビニ関連の記事を読んだばかりになり、自然と地元の店に足が向く。家に着いたらR25の深夜番組表で見たい番組を探し、PCやケータイWebですぐに手に入る通販商品のページをチェックする。』
つまり、同誌は生活者のライフタイルと心理変容を時間軸でとらえ、TPOに応じてその「文脈(context)」を適切に組み立てている。文脈とは本来、物事の脈絡や筋道、そして背景を表す言葉であり、人と人とのコミュニケーションにおいては相互理解のために欠かせない要素である。そして、マーケティングにおいては、売る側が顧客に「買うべき理由」を説明する大切なプロセスである。文脈が機能していれば、生活者を十把一絡(じっぱひとから)げにした絨毯(じゅうたん)爆撃的なマスアプローチではなく、一人一人に納得性も効果も高いアプローチをとることができる。昨今の技術の進化によって、かつてはできなかったこうしたOne to Oneのアプローチが、実現できるようになってきているのだ。
しかし、TPOが崩壊し、帰りの電車で雑誌を読んだり、家に帰ってからテレビを見たりするとは限らなくなれば、One to Oneアプローチの機軸となる「精緻な文脈の設計」=「売る側と買う側の相互理解のプロセス」も成り立たなくなってしまう。そうなると、顧客への接触機会としてモバイルの出番が増えたとしても、適切なマーケティングを展開する機会を見つけ、効果を上げられる保証はない。モバイルマーケティングといえども、打てども響かぬ状況になりかねないのだ。
■関係性の喪失がもたらすもの
鉄道各社が取り組んでいる「車内迷惑行為撲滅運動」。迷惑行為とは「痴漢」「破壊」「暴力」を指すが、「暴力」に発展しないまでも、車内でのトラブルを最近、随分と目にするようになった。乗客同士が、押されたの、荷物が当たったのと、ささいなことで諍(いさか)いになる。車内の混雑状況や、相手の荷物を持っている状況を考えれば致し方ないのではないかと思えるケースも多々ある。しかし、電車の中で、その場の状況を顧みず、自分だけの時間・空間の中に存在している人間にとって、自らの世界を侵されるような状況には、突発的に怒りが高まるようだ。
物事の境目があいまいになっている。別の言い方をすれば、公私の別もあいまいになり、モラルが低下しているともいえるだろう。それは今日の社会を象徴してはいまいか。筆者はマーケターである故、マーケティングへの影響という観点から論じたが、社会全体に及ぼす影響を考えれば、決して看過すべからざる問題であるように思う。
(※) 有限会社シャープマインド デイリーブログ「マインドリーダーへの道」から援用