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3 posts from November 2006

2006.11.25

「文部科学大臣からのお願い」をマーケティング的に検証する

 遅ればせながら子供がくだんのプリントを持ち帰ってきた。
様々な議論がなされているが、改めてそれを眺めて考えてみた。

(内容は以下のサイトを参照のこと)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/06110713.htm

 このような前例のないメッセージを大臣自身が発信するという行為自体にはまずは敬意を表したい。
しかし、内容がどうもいけない。

 まず、問題なのが、一枚のプリントに「いじめる側」と「いじめられる側」に向けたメッセージが併記されていること。
 もう一枚の父兄向けのプリントには「子供の心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう」とあるが、だとすれば、
いじめる側に向けたメッセージより先に、いじめられる側に向けたメッセージを持ってくるべきではないか。できるなら、プリントは2枚に分け、生徒各々に2枚ずつ配布すべきではないか。受け取った生徒はどちらが自分に向けられたメッセージであるか認識できよう。
 ターゲットを明確にし、そのターゲットに適したメッセージを送ること。基本中の基本だ。

 さらに問題なのが、「いじめる側」と「いじめられる側」に向けたメッセージが「未来ある君たちへ」という一つのタイトルでくくられていることだ。そのタイトルの直後は「いじめる側」向け。いじめる側に「未来ある君たち」はメッセージとして適切なのか。しかも、「いじめるのは、はずかしいこと」とある。
 「未来ある人間としてはずかしいことをしないように」という文脈と解釈できるが、いじめという行為をしている人間が、この文脈で「そうかはずかしいことだったんだ。やめなきゃ!」と思うだろうか。メッセージにインパクトがなさすぎる。
 この場合、「はずかしいこと」ではなく、「いじめは犯罪である。脅迫、場合によっては恐喝、暴行など刑事罰に相当すること。そしてそのような行為を続ける限り決して未来はない」と明確に言い切るべきだ。メッセージを受け入れにくいターゲットに対して有効なのは「恐怖訴求」である。「君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ」という一文もあるが、そんな想像力が働くようであれば、そもそもいじめを行わないだろう。このメッセージではいじめる側に、「自らに関係のあるメッセージ」として届かない。

 後半のいじめられる側へのメッセージも、「はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう」とあるが、いじめられる側の多くは「誰にも相談できない」ことに悩み、最終的に「自殺」という選択肢を選んでしまっている現状に対する認識が甘いのではないだろうか。話せないで悩んでいる者に対して、「ゆうきをもとう」「話せば楽になるからね」では問題の解決策を提示していることにはならない。話せというなら、「だれでもいいから」ではなく、「誰に」「どのように」はなし、その結果「どのような解決につながるのか」まで明確にしなくては、話せず悩んでいる者の口を開かすことはできないはずだ。インサイト(洞察)不足である。
 具体的な例を挙げるなら、「話せば警察が介入して問題を解決してくれる」ぐらいのことを明言すべきなのだ。
警察は学校への介入を嫌うが、今回のメッセージは「自殺の連鎖という非常事態の解決」のために行われているのであれば、それぐらいの対策を提示しなければ空手形を切っていることになる。「きっとみんなが助けてくれる」と最後を結んで、文部科学大臣の署名があるが、署名しているにもかかわらず、自らは解決策を提示せず「みんなが」と他人任せにしているようでは、該当者の信頼は得られない。

 マーケティングの基本は「いかにターゲットの潜在的なニーズを洞察できるか」が眼目である。そこから考えると、いじめる側、いじめられる側双方に対する洞察が非常に表面的すぎであり、文章が上滑りしている。問題は学校で起きている。そこを束ねる長としては、もっと問題を深く見据えて、当事者の心の洞察にもっと務めてもらいたかった。

 さ末なことを付け加えるが、低学年の子供を意識して平仮名を多用していると思われるが、「立場」が平仮名であるのに対し、「仲間」が漢字であるなど、何年生でどの漢字を習うかを決めているのは文部科学省であるので、その整合性にも気を遣ってほしかった。さらに、いじめる側へのメッセージには「友だち」という表現を遣い、いじめられる側へは「友達」と表現しており、一貫性がない。細かいことであるが、一般の企業であれば、トップのメッセージであれば広報などが入念にチェックを行い、修正を加えるであろう。なぜなら、こうした細かなところでも信頼性を損ないたくないと考えるからだ。

 以上、雑ぱくではあるが、メッセージ内容を検証してみた。繰り返すが、賛否はあるものの、メッセージの発信自体に関しては賞賛に値する。しかし、巧遅より拙速を重んじたのかもしれないが、内容的には有効性に乏しいものである観が否めない。残念だ。

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2006.11.20

「秒読みに入った2007年問題~何が起き、どう乗り切るか、その先はどうなる?」

今回は、「財団法人公庫金融保証協会」の業界誌(非売品)「公庫団信レポート」の依頼原稿です。
金森は自らの文章力錬成のため、(あまりに割に合わない原稿料でなければ)お引き受けすることにしていますので、業界紙、社内誌の執筆も請け負っております。(但し、発行後のBlog公開可が条件ですが)。
といっても、同誌は結構著名な方がコラムを書いておられて、私の前の回はお天気キャスター(気象予報士)の森田正光さんでした。

で、今回の依頼は久々の「2007年問題」です。
恐らく、このジャンルの依頼はこれが最後か?と思いつつ、以前の原稿を踏まえつつ、(焼き直しではありません!)新たな視点をいくつか加えてみました。
やはり(焼き直しではないのですが!)骨格となる部分は、変わりようもないのですが、自分でも書いていて、特に結論部分などが明確になってきているのがわかります。

というわけで、一般公開されていないので、ここで転載しますので、ご覧頂ければ幸いです。

-----------------------------<以下転載>-------------------------------

「秒読みに入った2007年問題~何が起き、どう乗り切るか、その先はどうなる?」

 「数にものをいわせ」と言えば失礼になるであろうか。しかし、事実、圧倒的な同世代の同僚を持ち「ポスト不足」とわれる現象を起こしながらも、強力な一大勢力として企業内に存在していた「団塊の世代」。その彼らが定年退職という企業の制度によって、いよいよ去っていく日が近づいてきた。そのピークが2007年。その年、そしてそれ以降企業はどうなっていくのか。世に言う「2007年問題」の本質を突き止め、考察してみたい。

■もう解決した2007年問題?
最近企業に「2007年問題についてインタビューしたい」と企業に申し入れをすると、「当社では2007年問題は解決しておりますので・・・」と断られるケースが増えている。2007年問題といえば、もはや誰もが知っている経済のキーワードであるがその年は団塊の世代が定年退職を迎えるピークに当たり、彼らが持っている技術やノウハウが企業から消失してしまう事をどうやって防ぐかが最も大きな問題の焦点である。それがそんなに簡単に解決するものなのだろうか。言ってみれば、解決策は社内に残る主に若手にいかに「技術伝承」をするか、又は何か別の方法・別の形ですぐ使えるような状態で社内に重要な技術・ノウハウを保存する以外にない。それが一朝一夕で成し得ようはずがない。

■2007年問題を2012年問題にするのか?
インタビューの断られついでにもらった企業のショートコメントや、各種メディアで報じられている内容を総合してみると分かることがある。多くの企業の2007年問題対策は定年退職していく社員に対する「つなぎ止め」や「リレーションの確保」である。具体的に挙げれば、5年間の定年延長や、一旦退職した社員を嘱託として再雇用するという方法が多く、退職したベテラン社員にしか解決しできない問題が発生した時のための「ホットライン」を確保というものもあった。いずれにしても「OB頼み」の観が否めない。本当に単なるOB頼みが解決策だとしたら、それは2007年問題を先送りして、5年後に2012年問題に頭を悩ませることになるのだ。

■OJTという名の旧弊
しかし、企業も全く無策というわけではなさそうだ。各企業とも定年対象のベテラン社員から主に若手社員への「技術伝承」に勤めている様子である。しかし、調べていくとその方法論に問題点が見えてきた。
日本における技術伝承は、古くは西洋中世の手工業ギルドと同じく、「徒弟制度」による技術伝承が主であった。弟子は親方に張り付き、基本中の基本こそ厳しく躾けられるが、肝心要の部分は「技は見て盗め」と体系的に教えられるものではない。弟子自身が師匠を見習い体得していくのである。
しかし、さすがに現代の社会では、一部の人間国宝ものの親方に師事する場合以外、徒弟制度はなくなっている。企業においては「社員教育プログラム」が整備され、基本の座、実践的な現場教育と形は整っている。しかし、その現場教育が問題なのだ。「On the Job Training =OJT」などと洒落た名前こそ付けられているものの、先輩社員に新人を張り付け、いきなり現場に放り出しているような例も散見される。これではOJTと呼び名が変わっただけで徒弟制度と何ら変わりはない。
しかし、変わっている部分もある。それは、学ぶ側の若手である。徒弟制度の頃は学ぶ若手は親方からげんこつを喰らいながら歯を食いしばって頑張った。しかし、「今時の若い者」などという呼び方はしたくないが、現代の若手社員はそこまで根性を据えないのだ。自分に「その仕事が合わない」と判断したら、あっさりと離職する。就労して3年以内の離職率は中卒7割、高卒5割、大卒3割であり、「七五三問題」と呼ばれている。「石の上にも三年」が続かない現代の若手には、徒弟制度の延長的なOJTでは技術伝承はできないのである。まして、この人材の流動化の進む中、せっかく技術を伝承したとしても、技術を引き継いだ社員の「退職願」一枚でその技術は簡単に企業から流出してしまうのである。

■「シャドウイング」という解決策
企業内の知識共有によって生産性の向上を図ることを目的とした「ナレッジ・マネジメント(KM)」は、今日のビジネス界やIT業界においては第二次のブームも下火になりつつあるが、ここに2007年問題解決策が隠されている。KMは単なる社内の文書管理や情報共有という表層的なものではなく、「技術伝承」という課題に対しての解決策になるものだと言うことを筆者は一昨年前、米国で学んだ。米国では日本における2007年問題と同様の現象が、2010年にベビーブーマーの大量定年としてやってくる。
そして解決のヒントは、米国カリフォルニア州サンタクララ郡で開催された「KM World & Internet’s 2004」で聴講した一コマにあった。講演者は米サンフランシスコ市・郡立法管理局の管理委員会書記官である女性担当者である。彼女の職場は役所特有の複雑な業務プロセスが渦巻いていた。サンフランシスコ市ほどの巨大組織になると、日々の業務は脈々と行われ、職員の大半は何のためにその業務が行われているのかも分からず、組織は肥大化し、業務も増え続ける。その悪循環をホワイトカラーの技術伝承というテーマとともに解決しようとしたのだ。
そこで彼女は「シャドウイング」という手法を用いた。「シャドウイング」のシャドウの意味するところは、伝承すべき担当者に陰のように張り付く人間を指す。その実行チーム、「シャドウチーム」に参画する人間を彼女は市からでなく、外部の様々な機関から募った。なぜ、内部の人間ではないのかは、「既存の業務が当たり前に見えない、斬新な視点が必要」だと考えたからだ。
では、シャドウイングとは具体的どのようなものなのか。基本は、シャドウが有用な暗黙知を持っていると思われる担当者に張り付き、その業務を観察して文書化する事である。必要に応じて、「今行われた業務は何のためにやっているのか、ポイントは何か、どのようなイレギュラーケースがあるのか」などを業務が行われる都度、詳細に聞き出して文書化するのである。
ポイントは担当者自身が通常通り業務を行い、シャドウがすべて文書化する事にある。いかに業務のプロセスを細分化し、その細分化された各々の業務について、深く聞き出していく事に正否がかかっている。聞かれた本人も無意識に行っている、あるいは慣例的に行われているだけの業務も多く、即答できない場合も多い。その時は聞き方を変え、他の業務との関連性なども考えさせ、答えを引き出していくのだ。当然、アウトプットとしての文書は、本人に無理に作成させ、行間が抜け落ちたものよりも数段詳細で洗練されたものになる。そして、それらを精査し、適正プロセスを定義しマニュアル化する(形式知化しいつでも誰でも使えるように伝承する)ことで、シャドウイングは完成するのである。

■シャドウイングによる「マニュアル化」の先にある「機械化」
前述のようにマニュアル化してあれば、その技術を伝承した人間が異動・転職・退職した場合でもその影響は最低限に食い止められる。しかし、マニュアルから100%人が学び取ることは難しい。なぜなら複雑な業務なほど人はマニュアルに従おうとしても、自然に自己流の「解釈」をしてしまい、それがマイナスに働くことがあるからだ。だとすれば、「マニュアル」よりもさらに詳細に「プログラム化」し、解釈を差し挟まず100%忠実に再現するために「機械化」しようという発想が生まれてくる。
しかし、「そんなロボットを作るようなマンガじみたことが現実にできるのか?」と思われるかもしれない。マンガの世界の2005年は鉄腕アトムが誕生して既に1年が経ち、世界を股にかけて活躍している。確かに現実の世界での人型ロボット開発は昨今急速に発達しているが、鉄腕アトムには遠く及ばず、ベテランの技を再現するような芸当はまだまだできない。筆者が述べたいのは「産業用ロボット」のことである。産業用ロボットであれば、現在日本では年間10万台程度が既に生産され、輸出も数多くされている。特に溶接ロボットなどは歴史が長く2007年問題の到来など誰も想像していなかったであろう、1970年代初頭には製品化されている。
産業用ロボットのプログラムはロボットティーチングという手法が使われ作成される。 そして、産業用ロボットはティーチングによって「記録」された動作を「再生」する「ティーチングプレイバック」で作業を行う。つまり、ティーチングプレイバックの機能を持つ機械こそが産業用ロボットであると定義されている。前述のように今日では産業用ロボットのプログラムは洗練された手法化されているが、溶接ロボットの開発の時代などは試行錯誤の連続であった。前項の「シャドウイング」のように、開発者は何人もの溶接職人の技を研究し、それをプログラム化し、動作制御を実現したのである。つまり、「シャドウイング」による「マニュアル化」は突き詰めれば「機械化」まで辿り着くことになるのだ。
また、日本が世界に誇るお家芸、工業技術の一つである「金型製作」は究極の職人技と言われていたが、その金型製作すら機械化されつつある。株式会社インクス(神奈川県川崎市・山田眞次郎社長)は、多機種展開とモデルチェンジの激しさが特徴である、「携帯電話の金型の自動製作」で話題を集めた企業として有名であるが、現在同社は携帯電話に限らず、多くの製品の機械化を各企業に提供している。こうした取り組みこそが2007年問題の解決につながっていくのだ考えられる。

■団塊の世代と企業の新しい関係が始まる
筆者がなぜ、2007年問題の解決策として「機械化」まで急ぐのか。人材の流動化については既に述べたとおりであり、理由は他にある。それは今の団塊の世代がいつまで退職する企業に忠義を持って協力してくれるのかという疑問があるからだ。定年延長や再雇用された場合の待遇はそれまでの半分に下がるのが相場だ。にもかかわらず、留まるのは企業が自分を他に変え難い技能を持った人間であると認めてくれたというプライドが原動力となっているのであろう。
しかし、企業に留まることを求められず、退職し第二の人生を謳歌している元同僚の事も気になるだろう。今の団塊の世代は退職金も年金もしっかりもらえる経済的には恵まれた世代だ。市場には彼らを狙ったシニア向けサービスが次々と開発されている。それを楽しむ元同僚を見て、いくら自分の職業にプライドを持っているからといって、いつまで自分は滅私奉公を続けるのだろうかと我に返りはしないか。そう考えると、定年延長や再雇用の5年という期間は長すぎるぐらいだ。それ故、マニュアル化や機械化を急がねばならないと考えるのである。企業は定年退職していこうとする社員達を、助けを求める対象と見るより、早く「大きな購買力を持った消費者」と見られるようになるべきだ。
また、定年退職後はボランティア活動やNPOに加盟するシニアも多いだろう。一方企業も今日、「社会的貢献」が求められるようになっている。そうした社会環境の中で、企業と定年退職した団塊の世代・元社員は互いに頼れるパートナーとなることであろう。
2007年を過ぎても団塊の世代はその世代の末期の層まで次々と企業を去っていく。その現実に対応するためには、一日も早く各企業は自社に最も適した解決策を見出し、退職した社員との新しい関係構築ができるまでになることが急務なのである。

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2006.11.14

久々の書下ろし:「21世紀は傍観者の思考停止社会なのか」

「21世紀は傍観者の思考停止社会なのか」

 間もなく21世紀に入り5年が過ぎようとしている。21世紀という言葉の響きはかつて輝かしい時代の幕開けを連想させた。しかし、この5年で世情は急速に悪化しているのは誰もが思うことであろう。あたかもパンドラの箱が開かれたかのように次々と明るみに出る、虐め問題の激化、耐震偽装、メーカーのクレーム隠蔽、学校の履修単位偽装等々。「政府の無策」と一言で片付けてしまい、「そのうち誰かが何とかするだろう」と先送りを決め込んでいた我々自身が、いよいよツケを払わねばならない時が来ているのではないだろうか。
 前号の日経Biz Plusの連載(http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm)で、ハンデキャッパーに優先席を譲るという基本動作が励行されない事象を「傍観者効果」の醜行であると述べた。よく考えれば、こんな一つの出来事だけではなく、今日、世の中そのものが「傍観者社会」になっているのではと、ふと気付くのだ。

■「傍観者効果」はナゼ起こるのか
 社会心理学的には、前回紹介したラタネらの実験から「傍観者効果」が発生する原因は大きく以下の3つが存在されるとしている。
・責任分散:自分の他にも人がいることで、その場にいる援助可能者全てが自ら援助しないことの罪悪感が希薄になり、責任が分散することで非難も起こらなくなること。
・多元的無知:周囲の誰もが援助行動を起こさないことにより、目の前の事象は援助を必要とするほどの自体ではないと認識してしまうこと。
・聴衆抑制:要援助者が本当は援助を必要としていなかった場合や、自らの援助が失敗に終わったとき、その場の他者からの評価を懸念し援助行動が抑制されること。
 以上からすると、今日、傍観者効果が起こりやすい状況にあることがよくわかる。つまり現代は組織や社会が官僚化、専門化、細分化されている。すると、自己と他者が隔絶されていることから、日本古来の「阿吽の呼吸」や「言わずもがな」が働かなくなる。その結果、皆が「これは自分の責任ではない」という「責任分散」が起こったり、お互いの心内が判らず結果として「多元的無知」が起こったり、他者の評価を気にして「聴衆抑制」が起こったりするのだ。

■自らも「当事者」であると気付かぬ恐ろしさ
 傍観者効果は要援助者に対する非情としてのみ発生するのではない。自らも当事者であるにも関わらず、傍観者であると思いこんでしまう所に真の問題があるのだ。
 身に覚えはないだろうか。通行人の多い交差点で信号待ちをしている時、ふとやけに歩行者信号が切り替わるのが遅いなと思うと、実は押しボタン式のボタンを誰も押していなかった、というようなことを。また、路線バスで大勢が降りるはずの停留所が近づいているのに誰も停車ボタンを押さず、停留所の直前で慌ててボタンを押すと案の定、大勢がバスから一緒に降りたというようなことを。
 これらは全て「誰かが行動するだろう」と「責任分散」が起こっており、自らが当事者であるにもかかわらず、傍観者になっていた結果、不利益を被る結果になっているのだ。これが社会全体で起こっていたらどうなるのか。自らの不利益にも気付かず、何の行動も起こさない。そして社会全体が劣悪化していくのだ。現実に今日の世情がそれを如実に映し出している。世の中で起こっていることの多くは、その世の中の構成員である以上、自らにも必ず何らか関連があるという認識を持つことがまず必要なのだ。

■「官僚主義」が奪った「commitment」と「思考」
 自らを当事者と認知して何らかの行動を取るとしたら、最も簡単なのは「自分でやること」である。しかし、現実には行動を起こす人間は極めて少ない。何故か。それらは「傍観者」となった時点で、Commitmentを放棄しているからだ。Commitmentとは日本語で言えば、第一義には「関与」となる。その「関与」とは「ある物事にかかわりをもつこと」である。つまり、傍観者たる所以通り、自分は当事者であるにも関わらず、その事実から目を背け、関わりを持つことを拒絶してしまっているのである。
 筆者の推断では人々が「傍観者」となり、「commitment」を放棄してしまう理由は、この日本という国の不幸なしくみ(システム)によって生み出されていると考える。この国の歴史はある時から、イコール、タテ型社会あるいは官僚主義の完成に向けた進歩の歴史を刻んでいでる。本来の「官僚主義」=「悪」であるとは断じない。本来の官僚主義とは法や規制によって個人的な裁量を出来る限り制限することで、専横や情実を排することを旨としている。その思想は間違いではあるまい。日本が実質的に中央集権国家を志向した時点で何らかの、専横や情実を排するシステムは形成される必要があったからだ。
 しかし、実態としては「組織の構成員が、個別のケースに対して独自の裁量と責任で行動するのではなく、規則や前例、建前論を根拠に、画一的、形式的な対応をすること」=「官僚主義」と言われるようになった。独自の判断で行動して責任を追及されることを避けるという保身のため、結果として事ある毎に短絡的な「・・・できない」というネガティブな結論を導出する。熟考せずにネガティブな結論に到達する。それは「思考停止」以外の何ものでもない。自らの頭脳を十分に働かせる前に責任を上へ上へと擦り付けていく体質がこの国には染み付いてしまっている。擦りつけたあとは「傍観者」決め込むのである。
 特に、昨今の耐震偽装、メーカーのクレーム隠蔽、学校の履修単位偽装など、当事者が多数存在する場合は責任の所在が拡散してしまっている。つまり傍観者効果における「責任分散」と「多元的無知」の状態になってしまっているため、「責任の擦りつけが公然となっているシステムの構成員」にとっては極めて居心地のよい世界になっているのだ。

■Commitmentの回復と思考停止からの脱却を
 現代日本人の特質として、「傍観者」がはびこり、傍観者は「Commitment」=「関与(ものごととの関わり)」を放棄していると述べた。加えて、Commitmentには関与以外に執行・実行の意も含まれている。つまり、誰も現実に目の前で起きている出来事に関わりを持たず、誰も手を動かさないという状態を「Commitmentの放棄」として考えれば一層今日の状況が判りやすいだろう。それはもはや、現代日本人の習慣となってしまっているのだ。
 しかし、皮肉なことにCommitmentはCommunicationと語源を同じくする。これだけコミュニケーションの手段が多様化され、特に携帯文化にメール依存症、SNS中毒を生み出すまでに、人とつながること、コミュニケーション好きの日本人が、語源を同じくする一方のCommitmentは放棄し、思考停止に陥ってしまっているのである。何とも皮肉な光景としか言いようがない。
 最後に、19世紀に活躍したイギリスの哲学者・経済学者の言葉を紹介したい。ここから学ぶべきは、この現代社会が何らかの問題を抱えていると認識したのなら、それを他人の責任に転嫁するという習慣を打破し、Commitmentを取り戻し、何かできることから自律的に行動するということが第一歩だということある。
「人間の自由を奪うものは、悪法よりも暴君よりも、実に社会の習慣である。
 ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill・1806~1873)

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