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4 posts from August 2006

2006.08.04

CRMとブランドエクスペリエンス~ブランドステートメントと本質的な価値~

ダイレクトマーケティングの専門誌「月刊アイエムプレス」に寄稿をしました。
http://www.im-press.jp/magazine/index.html

最新号が出ましたので、前回バックナンバーとして当BLOGに転載します。

最近同じようなことをあちこちで書いたりしゃべったりしているのですが、これは私の根幹の思想なので、少しずつ表現を変えて、できるだけ多く露出させていきたいと思っています。

セミナーなども人数に限定がないものがあればご紹介いたしますので、一度直にお話を聞いていただきたいと思っています。

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 「ブランド」というと、マーケティングという領域に於いても随分と重たい課題であり、また、CRMの世界とは切り離して考えがちである。そもそも、「ブランドはマーケティングの課題ではなく、経営の課題である」という論もある。確かに、ブランドそのものの揺らぎは経営を危うくする。しかし、その揺らぎは顧客基盤をも揺るがすことを考えると、あながち「対岸の火事」とも言っていられないことは誰しも分かるだろう。そこで、本稿は「顧客視点」でブランドを捕らえ直し、CRMとブランドがいかに密接な関係を持ち、両者を共に良好な状態を保つための方法を論じてみたい。

1:「ブランドステートメント」を作り守り通していく事の重要性
 日本を代表するブランドである「ソニー」が苦しんでいる。その原因の一つにはエンターテイメントやゲームなどに戦線を拡大しすぎたからであるとの論が少なくない。確かに現在のブランドステートメントにあたる、創業者・井深大の「設立趣意書」と現在の同社のブランドステートメントを比較すると随分と乖離してしまっていることに気付く。同設立趣意書をここに記そう。
 真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ
 自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設
 不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、
 徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ 経営規模トシテハ寧口小ナルヲ望ミ
 大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル
・・・これに対して、現在のSONYのブランドステートメントの冒頭は「ソニーの創造力は、あらゆる創造力とつながっている。夢を見る人すべての、さらに大きな夢を作り出す力になるために」である(全文はhttp://www.sony.co.jp/SonyInfo/dream/)。ソニーはSONYに変わっていく課程で規模と業務領域を拡大し続けた。それは創業者の設立の意をそのまま継承したものではないことは明らかである。
 確かに、資本主義経済のルールは利益を追求し規模を拡大することを要求する。しかし、その企業の魂たるべきブランドステートメントには飽くまで従うべきであろう。ブランドステートメントを書き換えるということは、別の企業になるに等しい。それほどの重要性を持っているのだ。
 そして今、SONYは肥大化したグループを筋肉質に再編し、さらにエレクトロニクス事業を再強化しようとしている。これはまさしく、生き残りをかけた、創業者の設立趣意書への回帰であるといえよう。

2:CRMとブランドは車軸の両輪
 ソニーのブランド拡張は経営的な機会を捕らえての判断の結果だったのか、もしくは顧客ニーズに従った、言ってみればCRM的所産であったのかは筆者は経済評論家ではないので筆者は論じようとは思わない。しかし、本節はCRMの側面から見たブランドとの関係。特にステートメントによって規定すべき理由について述べたい。
 結論から言えば、「ブランドとCRMは”顧客”という車軸を中心とした両輪である」ということである。CRMにとって、ブランドがなければ、かつて「お客様はみな大切」と採算性を無視した、妄信的で戦略なきCS(Customer Satisfaction=顧客満足)追求運動になってしまう。一方で、ブランドにとって、CRMがなければ顧客視点のない、「企業としてかくあるべし」というかつての独善的なCI(Corporate Identity)に代表される、企業革新運動になってしまう。
 顧客視点を持ってブランドを考えるなら、顧客を中心にブランドステートメントを再構築することからはじめる必要があるだろう。ここで一つのフレームワークを提唱したい。「ピラミッドチャート」という企業にとっても理想的な顧客を規定し、それと自社のフィロソフィーや個性をバランスさせながらステートメントを構築していくためのものだ。
 そのフレームワークは以下の5つの要素から構成される。
①価値理念・・・その企業の哲学を表す、ブランドの価値ともなる部分。「自社は顧客に対してそのような存在であるのか」を明確にすることが中心となる。
②個性・・・他の企業にはない、その企業の独自性を表す部分。自社にしかできない、顧客に提示できることは何かを明確にする。
③理想とする顧客・・・誰も彼も「大切なお客様」としていたのでは「強いブランド」とはなれない。いや、ブランドとしてのアイデンティティーが形成できないことになる。自社はどのようなお客様のために存在するのかを明確に設定する。
④機能的付加価値・・・理想的な顧客に提供できる物理的メリット。自社が自信を持って提供できるものは何なのかを明確にする。
⑤情緒的付加価値・・・理想的な顧客との各種コミュニケーションを通じて、顧客をどのような気分にさせることができるかという、無形の付加価値を明確にする。
 上記①~⑤を設定するためには、図のピラミッドでそれぞれのパーツがどのような相互関係を持っているのかを意識して検討していくことが大切だ。次のような文章に当てはまる言葉として作り込んでいくといいだろう。
○○会社は、【価値理念】を約束します。
私たちは、【個性】として、【理想的なお客様】に、【機能的な付加価値】を提供し、【情緒的な付加価値】を感じていただくため、努力をしていきます。この【 】内に当てはまる言葉が見つかったら、前述の図のピラミッドに載せて相互関係を再度点検してみよう。違和感なく、整合性が感じられればブランドステートメントが完成するはずだ。
 
3:「モノの本質的価値」を理解すること
 上記のようにブランドステートメントを策定し、それに従ってビジネスを展開して行くにも、自社の商品・サービスの「本質的な価値」を理解していなければ顧客コミュニケーションも売り方も間違ってしまう。しかし、残念ながらそのような間違った例が散見されてならない。筆者がよく引き合いに出すのが生命保険という商品だ。生命保険という商品の本質的な価値とは何であろうか。「補償額」というものがある意味表面的な価値であろう。筆者は標準より割と高額な生命保険をかけている。その「高額な補償額」が生命保険の「本質的な価値」なのかといえば、答えは「否」である。高額な補償額は当然、月々の掛け金も高い。それを何のために払い続けているのか。その理由は「これだけの額を残せば何か自分にあっても遺された家族は大丈夫だろうという『安心感』」に対して支払っているのだ。つまり、筆者の保険の本質的な価値は「安心感」なのである。
 しかし、かつて筆者の保険の担当営業は非常に対応が悪く、コンタクトをしてこない、申し込みの意思を示しても対応が遅い、申込書類の記入を間違わせる、入院したときになかなか見舞いにも来ないというダメのオンパレードのような人物であった。当然、営業成績も悪いようだった。なぜか?それは、彼が自らが扱っている「生命保険」という商品の「本質的な価値」を理解せずに補償額や貯蓄性の有利さなどといった表面的なスペックだけを訴求し、契約が済んだ顧客はそっちのけで、またすぐに新規を追い始めるからだ。
 優秀な生命保険の営業担当者は、本質的な価値を理解しているが故に、顧客に対するケアは万全で、それ故、既顧客から紹介をもらい自らの顧客基盤を拡大再生産していくという成功法則を身につけている。元東京大学大学院教授・丸の内ブランドフォーラム代表の片平英貴氏が提唱している「AIDMAモデル」に代わる「AIDEES(Attention・Interest・Desire・Experience・Enthusiasm・Share)モデル」がある。それもExperience(経験)して、その対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)するというものだ。
 インターネットの普及でBlogやSNSでの推奨行為は気軽にできるようになっており、その伝播の速度と幅の広さは以前と比べるべくもない。とすれば、「対応の良さにEnthusiasm(惚れ込んで)、人にShare(推奨)する」という図式を達成するためにも、まずは「本質的な価値」を理解した行動や売り方、対応がいかに重要か分かるだろう。それだけではない。理解していない個人が企業の中に存在するだけで、その企業のブランドにダメージを与えることすらあるのだ。

4:顧客を「囲い込む」のではなく、顧客が離れたくなくなるようにすること
 昨今、「顧客の囲い込み」という言葉に対する風当たりが強い。どうやらそうした論者は、携帯電話の年間割引や様々な割引サービスに加入させ、途中解約しようとすると違約金を払わねばならなくなるというような、「アトリション・コスト」最大化戦略を批判の中心としているようだ。確かにそれは、「囲い込む」というよりも、さらにカギをかけて逃げられなくするという「ロック・イン」した状態になる。効率は良いが本来的には正しい姿ではないだろう。
 それよりも前項の「Enthusiasm」のように、「惚れ込んで離れられなくなる」という状態に顧客を導く経験(Experience)を提供することが重要であろう。
 個人的な体験をお伝えしよう。筆者はいつも”Tim Johl”というブランドの革のケースに入った手帳を肌身離さず持ち歩いている。これはコラムや各種原稿、企画書その他のネタ帳で、何か思いついたらすぐに取り出して書き留めるようにし、もうかれこれ5~6年前に銀座伊東屋の中二階で買ったものだ。ところが、うっかりと手帳のリフィル(メモ帳本体)のストックが切れていたことに気付いた。あわてて、伊東屋へ。しかし、現在は店頭に出している商品ではなく、リフィルの在庫もないため、外国製ゆえ取り寄せに2~3ヶ月かかるとのこと。ネタ帳無しに2~3ヶ月も過ごせるはずもなく、さりとて手になじんだネタ帳でなければ、まとまるアイディアもまとまらなくなるような気がして筆者は途方に暮れていた。すると、一人の店員が「リフィルがないので陳列していなかったのですが、新品が1つだけ在庫としてあったので、このケースだけ残して手帳本体(リフィル部分)を差し上げます」。とのこと。「ご愛用いただいているお礼」と担当氏は言っていたが、久々に感動した。
 ついでに電話取材をすると、結論からすると、ミッションステートメント化やマニュアル等によって応対をプロセス化しているのではなく、「徹底した理念教育を行い、顧客応対品質の向上を行なっている」ということであった。
 例えば
・常にお客様が気持ちよく来店し、お帰りになれることを考えなさい。
・自分自身がお客様の立場になって、うれしいと思うことは何でもしなさい。
 (例えば替え芯一本だけをお買い上げのお客様が、他にもお手荷物をたくさん
  お持ちのようであれば、「大きな手提げにおまとめ致しましょうか」というようなサ  ービスをしなさい)。
というようなことを、会長が直々に、常々社員に言っているとのことだ。また、マニュアル化に関しては「各店員の”考える力”を奪い、画一的な接客しかできなくなるため、
あえて作らないことが方針となっている」とのことであった。「本質的な価値」を理解させ、不文憲法で企業を統治しているということになるのだろう。
 1・2項で述べたようにステートメント化は重要である。しかし、それは全社員の認識を揃え、求心力を形成するためのものである。ステートメント化が目的となってはいけないことを、この事例は示してくれている。
 CRMの観点からブランドを考えれば、顧客体験を(Experience)を完璧にし、「Enthusiasm」の状態にさせることができればもはやゴールに達しているのだ。それ故、「文具の伊東屋」といえば誰もが知っているブランドになっており、多くのファンを抱えているのである。

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2006.08.02

センター・アイデンティティーの確立に向けて:第1回

LCAコミュニケーションズ社が発行しているコンタクトセンターの専門隔月誌「コンタクトセンターマネジメント」の6月号から連載を始めました。
昨日8月号が発売されましたので、バックナンバーを掲出します。


 各企業は生き残りをかけて顧客の囲い込みを図っている今日、顧客接点の重要性を誰もが口にする。しかし、最も重要な顧客接点の一つであるはずのコンタクトセンターは、その出自がバックエンド業務であった事から、顧客に対する認識や対応がトップからコミュニケーターまで徹底されておらず、応対品質にも影響を及ぼしている例が散見される。
 顧客に対する認識を新たにし、「センター・アイデンティティー」を確立することが急務であることは間違いない。本連載ではその要諦を述べる。


第1回「センターの精神的支柱となる”センター・アイデンティティー”」

■マーケティングの環境変化と顧客対応
 マーケティング環境の変化を遡ってみてみれば、1960年代から70年代の高度成長期、「作れば売れる」という時代に、ははっきり言って「マーケティング」という概念はあまり重要ではなかった。家の中にはまだ足りないものがたくさんあり、人よりいち早く、または人並みに家の中に揃ってくる家電製品などを人々は楽しみにしていた。そこで求められていたのは「迅速な生産と供給」。マスプロダクトの黄金期である。売り手市場でもあり、「顧客対応」などという概念もあまりなかった。「顧客」や「生活者」といった言葉もあまり使われず、市場の人々は「十把一絡げ」に「消費者」と呼ばれた。「消費者」。今にして思えば、生産したものを消費するという、何というプロダクトアウトなものの言い方だろうか。
 その後、80年代から90年代にかけて市場は成熟し、人々の家々にも一通りのものが揃い、生産者は買い換えか買い増しをさせることが一番の関心事となった。つまり、限られたパイの食い合いの時代に突入したのだ。この頃、マーケティングの重要性が脚光を浴び、何とか製品や広告で競合製品との「差別化」を図ろうとするのが主たる戦略手法であった。そしてマーケティングのキーワードが「マーケット・イン」つまり、今までの「作り手の都合や思い」だけでものを作って売ってきたことを「プロダクト・アウト」として反省し、「もっと市場の声を聞き、市場の欲するものを作って売ろう」という意識転換を企業がし始めたのだ。
 そして90年代後半、バブルの崩壊と共に市場は完全に飽和し、人々はもう既に手に持っているもので十分。「買わない自由」もあることに気がついてしまった。そうなると、「市場」という大括りに生活者を捉えていたのでは、個々の生活者の需要の節目に合わせたセールスチャンス発見などは、できようもないことに企業は気がついた。そこで、とにかく自社の顧客を囲い込み、個別に最適対応を行おうとCRM(Customer Relationship Management)と言った概念が登場したのだ。(図1)1_1


■マーケティングの環境変化となぜか一致しない日本のコンタクトセンターの位置づけ
 前述のように、マーケティング環境の歴史は、「売り手から買い手へとの主導権の移動」と「顧客(個客)対応の重要性の増加」といった一連の流れを現している。しかし、不思議なことにコンタクトセンターの歴史は必ずしもそれと一致しない。世界的に見ると、コンタクトセンターの始まりは、20世紀中葉に米国においてシアーズ・ローバック社が電話受注センター(コールセンター)を開設したことに始まり、日本に於いては各企業がいわゆる「苦情処理窓口」を社内の一部署に一本化し始めたのが始まりだと言われている。日本でも米国に遅れること数十年、通信販売の受注窓口としてのコールセンター開設が相次いだのもセンターの相次ぐ開設を加速した。
 日本のコールセンターの発祥は「苦情処理窓口」であり、その業務内容は楽しかろうはずもない。しかも「苦情”処理”」という言葉が表すように、当時は「お客様の苦情から製品開発情報を抽出しよう」とか、「苦情顧客に良好な対応をして上顧客に変える」などという発想はなかった。ひたすら苦情を言ってきた顧客をなだめすかして事態を収拾するのが役割だった。社内の隅っこでひたすら謝り続ける仕事。どうしようもなくネガティブなイメージがつきまとう。
 通信販売の受注業務にしてもそうだ。米国はコミュニケーターの給与には歩合がかなり含まれ、セールスが達成できれば相応のインセンティブが手に入る。インセンティブ獲得を達成した者への賛辞も半端ではないほど盛り上げる。それ故、コミュニケーターは受注時にクロスセリング(関連商品のお勧め)や、アップセリング(買い増しや買い換えのお勧め)のトークを忘れずに、顧客とより親密なコミュニケーションを取ろうという努力を怠らない。しかし、日本のセンターはほとんどが時給一本であり、よくて「精勤手当」が付くような給与体系である。確かにインセンティブを乱発し、コミュニケーター同士を競わせるようなセンター運営は日本の風土に合わないとの論もある。しかし、ただただ、時給だけを受け取って「受注”処理”」をしている日本のセンターと比べて、米国のセンターを視察すると、その活気の差には本当に驚かされる。
 マーケティングの環境変化と顧客対応は製品志向から市場志向へ、市場という画一的な見方から顧客(個客)志向へと、顧客(個客)との距離をどんどん縮めて行く歴史であった。しかし、日本のコンタクトセンターの歴史は常に顧客と一定の距離を保ち、業務プロセスの”処理”を実行する役割を負っていた。これはどう考えてもおかしな事だと言えるだろう。

■その差はコミュニケーターの「モチベーション」という形で顕れる 
 はじめに(図2)を参照されたい。2_1
これはコンタクトセンター関連の仕事をする者であれば誰もが知っているべき「ジョン・グッドマンの法則」である。企業から提供された商品・サービスに対価を払った顧客のうち、4割程度は何らかの不満を持ち、そのうち6割は沈黙してしまう「サイレント・マジョリティー」となり、その層の再購入率は10%にしか過ぎない。しかし、クレームを行ってきたうち、その対応の陣属性によって差は出るものの、顧客が満足する対応をすれば半数以上が再購入してくれるというわけだ。端的に言えば、クレーム客は有り難い客であり、優良顧客に転換できるビジネスチャンスであることを現しているのである。
 しかし、このような理論通りになるようなオペレーションは非常にモチベーションが高く、「顧客志向」を理解しているコミュニケーターの対応が前提になるのは言うまでもない。日本のセンターの歴史は”処理”の歴史であり、「顧客志向」への転換が叫ばれ出したのは、1980年代後半から90年代初頭のCS(Customer Satisfaction=顧客満足)ブームの頃からである。しかしながら、「お客様を大切にしよう」という掛け声をかけるものの、肝心のそのお客様に対応するコミュニケーターのモチベーションを高める取り組みなどは、ほとんど為されてこなかった。良質なオペレーションによって企業がコンタクトセンターを費用ばかりかかる「コストセンター」から、「プロフィットセンター」を目指そうという機運がここ十年ほどでにわかに高まってきた。しかし、コミュニケーターにその意義が伝わっておらず、「顧客対応の重要性」などを説いてもそれを体系的に理解させられていない。顧客に接する際の考え方がきちんと理解させられていない。そして、相変わらず、待遇はそのままだ。日々の顧客対応の中で、顧客からのクレームに晒される度に彼女たちは「悪いのはワタシ?」と心の中で自問している。そして耐えきれなくなったときに離職する。モチベートができない故に良質なオペレーションが実現できず、顧客をグリップできない。また、コミュニケーターの離職によって採用・教育のコストかかかるというこの悪循環。どこかで断ち切らなければならないのは自明の理である。

■「悪いのはダレ?」
 コミュニケーターのモチベーションが上がらないのは大きく3つの理由に分類できる。一つめは「社内におけるセンターの位置づけ」が不明確なまま、運営されてきている点。これは企業トップのディシジョンが明確でないことに起因する。センターに何を望み、どのようなポジションを与えるのか。それなくして「プロフィットセンター化しろ」などという指示を出すのは愚の骨頂である。海図もなく大海を宝島に向かって船を進めよというようなものだ。
 二つめはFAQシステムの整備などをせずに徒手空拳でコミュニケーターと戦えというような状態である。これはセンターの現状を理解して、必要な投資を行っていないセンターを統括するマネジメント層の罪であるといえよう。
 そして三つめはコミュニケーターだけでなく、スパーバイザーも含めて現場に前述のように、「顧客対応の重要性」を体系的に理解させ、具体的にどう顧客に接するべきかを理解させられていないセンターマネージャーの罪だろう。しかし、このように罪人を捜し出し挙げ連ねても何の解決にもならない。いかに、これらの現況を解決すべきかを考えていこう。
 第一に一番大きな「社内におけるセンターの位置づけ」であるが、あるべき姿を(図3)に示した。3_1
企業内に於いて、顧客情報を一元的に扱い、各部門と連動して一人の顧客に一貫性と整合性のある対応を行うためのハブとなれるのは、コンタクトセンター以外にあり得ない。筆者がよく使う例を以下に示そう。『あるメーカーのOA機器が故障した。すると、すぐにオフィスにメンテナンスマンがやってきて、手を汚しながら懸命に修理してくれた。彼は「ちょっと古いけどまだまだ使えますから、調子の悪いときはすぐ呼んでください」とさわやかに帰って行った。しかし、午後になると同じメーカーの営業マンがやってきて、さっき修理したばかりのOA機器を指さし、「あれ、随分古いんでリースアップして新型に替えた方がランニングコストもお得ですよ」という。午前中にやってきた人の良さそうなメンテナンスマンの顔が脳裏をよぎったものの、結局安くなるというなら仕方がない。早速見積もりをもらい、購入に稟議書を起票し上司に渡した。そして翌々日の朝、日経新聞の15段広告でそのメーカーの新製品が発表されていた。ほとんど変わらぬ価格で高性能になっている。会社に着くと早速、上司から「よく調べもしないで稟議を上げた」と怒られた。・・・まったく、何なんだあのメーカーは・・・。』
 もうお分かりであろう。同じ顧客情報をサービス部門、営業部門が共有しておらず、新製品情報がマーケティング部から営業部に伝わっていなかったため起きた悲喜劇だ。”One face One voice”一つの企業として一人の顧客に、一つの顔一つの声で接する。この重要性が分かっていただけただろうか。実現できないままなら、顧客からの信頼はどんどん低下していくことになるだろう。このように、全社顧客対応のハブとして情報がコンタクトセンターに集積されるのであれば、二番めの問題もかたがつきやすい。情報流さえ整えば、それを格納し、整理、表示するFAQのソリューションなどを導入すればよいのだ。ここ数年のFAQソリューションの発達は目覚ましいものがある。システム機能比較をするのが本稿の目的ではないので機会を改めることとするが、是非とも未導入の場合はいくつかのシステムベンダーからのプレゼンを受けることをお勧めしたい。

■センター・アイデンティティーという考え方
 コミュニケーターやスーパーバイザーといった現場スタッフに顧客対応の重要性を理解させ、各々の業務の重要性を認識させることで鼓舞し、高いモチベーションを持って業務に向かわせるためには何らかの精神的支柱が必要だ。前段で、「米国のコミュニケーターは歩合も多くモチベーションが高い」と述べたが、それをすぐに導入しても、確かに日本文化との親和性は高くはないだろう。とすれば、もっと精神的に鼓舞されるような手段を用いるべきだろう。それがセンター・アイデンティティーという考え方である。
 センター・アイデンティティーとは、そのセンターがそのような存在で、何を目指し、そのためには各々がどのように行動すべきかをステートメント化(明文化)したものである。(図4)4
それはいくつかの要素に分解されており、図の例では「理念」というセンターと、そこに所属するスタッフの存在意義と、本来あるべき姿というもっとも根源的な要素を規定している。次の「運営指針」は「理念」で規定された存在であるスタッフが、そのセンターのミッション、つまりセンターとしてのあるべき姿や向かうべき方向性を理解するために規定されている。そして、そこまでの理解がなされた後に「行動規範」で「運営指針」に従って、本来あるべき姿を理解したスタッフとしてそのように具体的に行動するべきなのかを規定している。
 具体的な明文化のトーン&マナーは各企業やセンター毎の文化や雰囲気によってどのように表すべきかはだいぶ異なるだろう。しかし、重要なのは末端のコミュニケーターが読んでもスッと理解できる文体であることと、自らの存在、業務に対してプライドを持ちポジティブな気分になれるような内容が記述されることである。次号以降、その内容を考えるにあたって、さらに深く自社や顧客のことを理解する方法なども紹介する予定である。

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個の時代にふさわしい食文化の開花を望む~イドラと同調行動の克服~

日経BizPlusの連載が更新されました。

今回も「食」をテーマにしてみました。が、やはり元々は「タウン・ウオッチもの」です。
高校生の時に習った人の名前も登場しますので、ちょっと懐かしんでお読みいただければ幸いです。


http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm


----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------


 「たまにはおいしいものを食べよう。どうせなら話題の店で」と友人に誘われた。そして、店の前で並んだ。待つこと2時間。筆者は40歳であり、70歳まで生きるとして、睡眠時間を除けば残りの人生は19万時間くらいであろう。19万時間のうちの2時間。それをもったいないと見るかどうかは、その人の価値観によるのだろうが、どうも損した気分が残った。そもそも筆者は「並ぶのが嫌い」だ。今回は「並び嫌い」が、人々の「並ぶ理由」を考えてみた。

■「イドラ」の合わせ技でエスカレートする行列

 哲学者、法律家で、現実の観察や実験を重んじる「帰納法」の父である、フランシス・ベーコン(Baron Verulam and Viscount St. Albans:1561~1626)。高校の倫理の教科書にも登場しているため既知の読者も多いだろう。教科書には「イドラ」という考え方も記載されていたのを覚えているだろうか。

 イドラ(idola)とはラテン語で「偶像」を意味し、人間の持つ偏見、先入観、誤りなど表す。種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラの4つがあるがここでは後の2つが重要だ。市場のイドラとは、言語から生じる偏見であり、端的に言えば大勢の意見に左右されて誤った行動を取ることを指す。実態と乖離(かいり)した口コミに踊らされるのはその実例といえよう。 劇場のイドラとは、権威者の思想や学説を妄信して事実を見失い、誤った行動を取ることを指す。グルメをはじめとした流行をこの「イドラ」で解いてみると分かりやすい。

 1980年代頃から各種の雑誌がライフスタイルを「マニュアル化」したあたりから、生活者はメディアのもたらす「劇場のイドライドラ」にとらわれるようになった。グルメブームはバブル経済の繚乱(りょうらん)期に始まり、「グルメ評論家」といった人々も登場、各種メディアでもてはやされた。そ

して、人々は「あの雑誌に載っているなら」「あの評論家が推薦していたから」と自らの探求心と味覚を放棄して、思考停止状態で飛びつくという風習が一般化した。

 一方、「市場のイドラ」の主人公はイドラに踊らされる本人である民衆そのものである。自分たちの口コミが自己増殖し、真実を偏らせていく。しかし、ベーコンの時代と大きく異なるのは、口コミ伝播(でんぱ)の速度がインターネットの普及によってけた違いになっていることだ。ネット上のグルメ情報サイトにも一般の生活者のコメントが記載されているため、その効果は「劇場のイドラ」と「市場のイドラ」の合わせ技となり、強力無比なパワーを発揮する。

■本当にwin-win?

 生活者は当然、おいしくない店よりもおいしい店で食事がしたい。だから、おいしい店の情報を入手し、行列する。お客は情報通りおいしい食事が供されれば満足し、また、その情報を人に伝える。そして店には引きも切らずお客が集まり繁盛する。めでたしめでたし、である。

 個々人としては失敗の確率が低減でき、店も短期間で容易に客を集められる――。今日、ネット口コミとメディアによって「客」と「店」と「メディア」のwin-win-winが構築できたように見える。本当にそうだろうか。

 「合成の誤謬」という経済用語がある。「個々人としては合理的な行動であっても、多くの人が同じような行動をとると好ましくない結果が生じる」というものだ。

 「イドラ」に踊らされた生活者が行列を作る。その多くは新規客だ。今までの「馴染み客」はある日突然、ひいきの店が雑誌に紹介されたり、インターネットで話題になったりして、行列ができているのを発見する。当然、行列の最後尾に並ぶ気にはならなくなる。筆者自身もそうした理由で行かなくなってしまった店が何軒もある。

 もちろん心ある店は馴染み客をおもんぱかって掲載を断ることも多いようだ。しかし、話題のweb2.0の代表格であるブログやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で、個人が発信する情報までは制御できない。そして、今やその発信力は旧来のメディアに引けを取らない。かくして、情報を聞きつけた人々が列をなし、予約も取りづらくなり、馴染み客は行き場をなくす。

 これは店にとってもあまり幸せなことではない。確かに一時的に大量の新規客が集まることによる収益の増加はうれしいだろう。しかし、集い並んだ来店客は「おいしい店を見つけてそこの固定客になろう」とする人ばかりではなく、かなりの割合が「話のネタに」「話題だから」と一度来店してみた程度の客と思われる。その中からどれくらいがリピーターとして残るのか。さらにロイヤル顧客ともいうべき馴染み客になるのか。それと引き換えに元々の馴染み客がどれぐらい去っていくのか。店にもよるだろうが、長い目で見ればマイナス作用の方が大きい場合が多いのではないか。

 一時期のブームの去った店には悲しい末路が待っている。また、長蛇をなす来店客に対し、実力を勘違いするような店があれば、恐らく料理の味も落ちていくだろう。よくある例だ。

■「同調行動」超えた価値判断を

 人にはそもそも「行列を見ると並んでしまう習性」がないわけではない。ポーランド生まれでアメリカに亡命した社会心理学者、ソロモン・アッシュ(Solomon Asch:1907~1996年)は、「並ぶ習性」を「同調行動」として解明した。本人一人の時には正しい判断ができても、別の情報をあらかじめインプットされた「サクラ」を混ぜると、そのサクラの回答に惑わされ、判断を誤るというものだ。この説をそのまま実践して、いちげん客がほとんどの観光地には、「サクラ」を使って行列を作り出している飲食店もあるという。「サクラ」を本当に動員している店はそんなに多くはないとしても、「同調行動」を取っている我々自身が、「悪意無きサクラ」と化してしまっているのは事実だ。

 飲食にかかわらず、日本人は「同調行動」を取りがちだ。しかし、2000年頃からは、マーケティングのキーワードとしてone to oneが提唱され、「個の時代」と言われるようになってきた。モノがあふれ、誰もが同じモノを欲しがるような時代は過ぎ去り、十人十色、いや一人十色とまで言われるような多様な消費文化が花開いたのだ。いくらモノの作り手がはやし立てても、生活者は「買わない自由」までを覚えた。必要なものはお金を惜しまずに買うが、必要ないものには見向きもしない。メーカーの商品開発担当者は日々頭を悩ませている。

 とはいえ、食べ物の場合は他の商品と異なり、「食べてみないと実態が分からない」という特性がある。おいしいものを求め、全く情報のない店にふらりと入るより、半信半疑の情報でも並ぶ方が無難と考えるのは、「同調行動」に支配されがちな人の性だろう。しかし、インターネットで検索して話題店ばかりを渡り歩くような行為はいかがなものかと思う。本来、知己に教えてもらった本当の意味での口コミや、自力で開拓した中から吟味を重ね、自分なりのお気に入りの店リストが徐々に出来上がっていくといった手間と過程を経なければ、自分自身の味覚も店も育たないのではないだろうか。

 そこで一つ提案がある。今後もグルメに関するネット口コミの文化がなくなりはしないだろう。だとすれば、各人が提供する情報の量・質共にさらにリッチにしていってはどうだろうか。例えば、試した店について簡単に評価するだけでなく、個々の料理やサービスについても詳細に記述する。さらに、一度で終わりにするのではなく、情報提供者は責任を持って二度、三度と来店し、その都度料理やサービスのレベルは安定していたか、その店には並ぶ価値があるのか、馴染みになる価値があるのか、という深いレベルまでリポートするのだ。

 そうしていくうちに他者に対しては有効な情報の提供者となり、自分自身の味覚・感性が磨かれ、漫然と行列の最後尾に並ぶ“流れに身を委ねた同調行動者”から脱却できるだろう。店の評価も自ずと多様化し、情報の独り歩きにもある程度歯止めがかかるはずだ。

 かのベーコンは、イドラを捨ててあるがままの現実を観察することによって初めて、人は真理を見出すことができると考えた。日本の食文化を画一的なものにしないためにも、あふれる情報に惑わされない、個々人の価値判断力が問われている。

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2006.08.01

「質問編」顧客視点”入門講座 第5回

「販促会議」の9月号が発売されましたので、前月号のバックナンバーを掲出いたします。

今回は少々趣を異にした内容となっています。
昨今の新聞紙上を賑わす事故・事件を見るにつけ、いてもたってもいられない気持ちになって書きました。
皆様はどのように思われるでしょうか?

 この連載は、前連載の各回のテーマに関連した読者からのご質問にお答えすることを主旨としているが、今回だけは「筆者からの追加のメッセージ」という形を取りたい。というのも、筆者が「顧客視点」の根幹である「カスタマーインサイト」(前連載第4回にて紹介・関連質問を本連載第1回に掲載)のさらに中核である「本質的価値」が理解されていない思われるビジネスの事象がこの所頻発しているからである。是非とも読者諸兄も他山の石としてお考えいただきたい。

■Peace of Mindにおける「本質的な価値」の提供
 何度も同じ内容を繰り返すつもりはないが、ごく簡単に振り返る。詳細はバックナンバーを参照されたい。「顧客の心を洞察する」という意味の「カスタマーインサイト」は最終的に顧客に「ああ、この企業と取引をしてよかった」「この商品を買って良かった」というPeace of Mindを提供することを旨としている。そしてそのためには、自社が提供している商品・サービスの「本質的な価値」を理解することが大切である。
 前連載で例示したが、生命保険の「本質的な価値」は「補償額」ではなく、「万が一の時の安心感」である。それが理解できている営業職員は、顧客への対応にも万全の安心感を与える対応をするが故に成績もよい。それが理解できている会社は広告などのコミュニケーションでも的確な訴求ができる。
 前回、もっと一般的なマーケティングのセオリーで類似した考え方として、フィリップ・コトラーが示した「製品特性分析」を使って説明をした。製品を大きく「コア」「形態」「付加機能」の三層に分かれて考えた時の「コア」が筆者のいう「本質的価値」に意味としては近い。顧客に提供するべき中核たる「ベネフィット(便益)」である。

■エレベーター事故にみる安全への無理解
冒頭述べたように、上記の「本質的な価値」や「コア」が理解されていないケースが昨今、散見される。某外資系エレベーター会社で人命が失われる重大事故が発生した。エレベーターの本質的価値とは何であろうか。通常の製品特性分析で考えれば、コアは「スムーズかつ、高速な上下移動」であろう。しかし、「上下移動」という方向感覚に惑わされてしまうが、エレベーターとは紛れもなく「乗り物」である。そして全ての、特に人を運ぶ事業に求められる本質的価値とは、「安全な移動サービスの提供」である。それはJR福知山線の大事故で、乗客の安全は効率や競合との戦いに比べれば、無限大に優先されるべきものであるということを、事業者も利用者もイヤというほど認識した。
エレベーター会社の海外本社は日本でのそんな認識を理解していたのか。調べが進めば進むほどずさんな管理に疑いを持ちたくなる。

■同じ旅客業の航空会社でも・・・
あるビジネス誌の経営危機に陥っている航空会社の特集でも気になる記述を見つけた。あるチーフパーサーが機長から語られた言葉として、以下のような主旨が紹介されていたのだ。
「機長から『原油高のせいでジャンボ機は満席になっても利益が出ない状態だ』と聞かされ、『じゃあ私たちは何をしても無駄なのか』と茫然としてしまった。そうしたら、『マグロ』を大事にしろよと。貨物として運ぶ冷蔵マグロは儲かるから、人よりマグロだと。」
思わず筆者は目を疑った。この機長は間違いなく自分の仕事の「コア」を「効率的な運輸」であると認識している。しかし、その機長の操縦しているのは「旅客機」である。確かにマグロだの何だのと、貨物も当然積んでいるだろう。しかし、主たる輸送物は「人間」である。とすれば、「旅客機ビジネス」の本質的価値は何であるのか、もはや言うまでもない。しかし、その「本質的な価値」が判っていない人間が何百人もの人命を預かり操縦桿を握っているのだ。

■貸金業では・・・
業界大手の法令違反から、法改正も含めた政府の検討が始まり業界存亡の危機に立たされているのは消費者金融だ。確かに返せないぐらいの金額を高利で無理に貸し込み、強引に取り立てるといった悪質なケースもあっただろう。しかし、本当に消費者金融という存在自体が悪なのか。
答えは否であると筆者は考える。確かに消費者金融の利率は高い。しかし、低利の銀行で借りようにも長い審査期間や、与信の厳格さでお金を借りたくても借りられない人も少なくない。そんな時、無担保即日融資が原則の消費者金融が助けの神になる生活者も少なくないのだ。消費者金融の「コア」は単純に考えれば、「貸し金」である。しかし、実態は融資を求めてきた顧客に対して、その状況に応じた利率の提示や様々なアドバイスを行なっていたりする。とすれば、「本質的な価値」は「企業と顧客の間の相互信頼関係の元に、十分なアドバイスを行なった上で、適切な金額と利率でお金を貸すこと」であると定義できる。極端にいえば、銀行は紛れもなく「金融業」であるが、消費者金融は金融業であると同時に、「相互信頼関係の構築」や「アドバイス」などを要する「サービス業」の色彩も強い。法令違反をした企業はやはり、そんな側面を持った「本質的な価値」を見失っていたのだろう。

■結婚情報サービスの事件
少子高齢化対策の一環として、政府は結婚情報サービスの積極的な活用を後押ししようとしていた。日本では今ひとつマイナーな存在であるが、この手のサービスは米国では多くの人が利用しているメジャーなサービスだ。そして政府は、今まで規制していたテレビCFを解禁し、さらに優良業者に「マル適マーク」を交付しようとしていたのだ。
しかし、そんな矢先、業界の大手二社が会員の成婚率の水増しという誇大広告を行なっていたことが発覚した。水増ししようとした背景は、「とにかく会員数を集めなければ始まらない」という考えからだろう。しかし、会員同士ではなく、男女片方が会員であった場合や、既に退会していた過去の会員まで含めて成婚率に加えていたことからも、「結果を出す」ということが重要であるとの思いが駆ってのことであろうと推察できる。
確かに会員になる以上、「会員の中から伴侶が見つけられる」という「結果が出ること」を顧客が企業に求めるのは当然のことだ。しかし、実際には結果は男女の機微のこと。「確実に結果が出せる」などということは約束できるはずもない。しかし、問題の企業二社は、自社の「本質的価値」を「結婚というゴールに至までの結果を約束すること」と拡大してしまったのだろう。
「本質的価値」は「本質」である以上、実現可能で確実に約束できることでなければ意味がない。それもまた、誤った解釈となってしまうのである。

■「本質的な価値」を考えるヒント
ここまで前連載を含めて3回をこの「本質的価値」に関する解説で費やしてきたが、実際に「自社、もしくは自らのビジネスにおける本質的価値は何なのか?」を明確にすることはそんなに容易なことではない。
そこで、一つそれを理解するためのヒントを提示しよう。ブランド論の大家、デビッド・A・アーカーの「ブランド優位の戦略」(ダイヤモンド社)のブランドエッセンスとコア・アイデンティティを現す記述がある。ブランドエッセンスとコア・アイデンティティは乱暴にいってしまえば、「製品特性分析」の「コア」や、筆者の言う「本質的価値」と便宜的にニア・イコールと今回はとらえて欲しい。曰く、「コア・アイデンティティは、ブランドの永遠の本質を表す。それは、タマネギの何層もの皮や、チョウセンアザミの葉をむいて後に残っている中心部分である」。
なかなか難解な表現なので、かえって判らなくなるかもしれないが、ちなみに「チョウセンアザミ」とはイタリアンなどでおなじみの「アーティチョーク」のことだ。タマネギもアーティチョークも外側から何層にも皮がかぶっているのは判るだろう。そしてそれを担縁に一枚一枚むいていく。すると、最後に残るものは何か。実は最後までむききると、何も残らない。しかし、確かに目に見えなくともそこに「中心」が存在するから、それを取り巻く難渋もの様々な要素が存在できるのだ。「全てを取り去って目に見えないが、確かに存在する中心にあるものとは何か」。それをアーカーは問いかけている。そして筆者も同様に、「本質的価値」を突き詰めて考える際にはそうした思考を繰り返し、答えを導き出して欲しいと考えている。


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