「文脈の崩壊をもたらす"小集団化"と"右脳ブーム"」
日経BizPlusの連載が更新されました。
今回はここ数年来思っていたことと、昨今の流行を合わせて原稿にしたためてみました。
間違いなく、今日の日本人はコミュニケーション能力が落ちてきていると思います。
回復のキーワードは標題にある「文脈」構成力であるというのが金森の持論です。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
----------------<以下バックナンバー用転載>-----------------------
最近「何の話をしているのかわからない人々」にしばしば遭遇する。筆者は仕事の幅が広いせいか、様々な人々と出会う。すると、出会った人々と「会話が成立しないケース」が少なからず発生する。どうやら、人々の「会話の仕方」が変わってきているように思えてならない。
■「言わずもがな」のムラ社会化も一因
日本語はもともと「主語を省略しても内容が伝わる」という特性を持っている。しかし、最近は「主語を省略する」傾向が一層加速しているようだ。
その一因として「専門領域の細分化(=専門特化)」「趣味・嗜好の多様化(=細分化したコミュニティーの発生)」「年代間の差異性の細分化」などで、同質の特性を持った集団(セグメント)が形成されていることが挙げられる。「小集団内」であれば、会話の主語は「言わずもがな」なので、問題を引き起こさない。しかし事情がわからない人がこうした「小集団」に入り込んで会話をすると、「何の話をしているのかがわからない」ということになる。
「主語の省略」と同様、クセモノなのが「ワンフレーズ化」だ。筆者はあるマーケティングの講義で「このケースで企業の成功理由を説明してください」と問い掛けた。すると、受講生の回答はたった一言、「顧客満足!」であった。
質問の意図は「どのような状況に、どのような施策が選択・実施され、成功に至ったのか説明せよ」である。確かに「顧客満足を獲得したこと」は成功の主要因ではあるが、そこに至る過程を省略してしまったら解答とは言えない。
しかし、当の受講生は自らの答えに満足気だ。確かにマーケティングのクラスという「小集団」では、そのワンフレーズで途中の過程を推測できる。しかし、「推測を加えて理解できる」では、本当の意味で「説明した」とはいえないだろう。
「主語の省略」と「ワンフレーズ」は小集団においてのみ、成立するコミュニケーションだ。しかし、それは「言わずもがな」が通用するムラ社会に限られている。社会で多様な小集団が多数構成されていくのに伴い、「隣ムラ」との会話はますます成り立たなくなっていくわけだ。
文脈を構成しようとするのは「相手にきちんと伝えようという意思」の表れだ。しかし、居心地の良い小集団に身を置いている限り、その努力の必要はない。社会の細分化→小集団化→集団内でしか成立しない会話→「文脈力」の欠如→他人への働きかけの欠如→自己中心的・自己満足社会の拡大?? 何やら社会の危機を感じざるを得ない。
■最近はやりの脳力開発ブームへの疑問
こうした「文脈力」を軸に考えると、最近の「脳力開発ブーム」にも何となく危うさを感じる。アンチエイジング(抗加齢)や教育など、ブームの背景は様々だ。しかしゲームソフトの内容を見てみると、ほとんどが「右脳強化」を目的としたものであることに気がつく。
「右脳」はイメージ、直感、芸術性、創造性、潜在意識などを司っており、右脳を強化することで芸術的な感性やアイデアも開花するといわれている。しかし、「文脈を構成する力(=相手にこちらの意図を伝えようとする力)」を司るのは言語認識、論理的思考などを処理する「左脳」だ。左脳を置き去りにした脳力開発。ここでも「相手に意思を伝える力」という観点が欠落しているように思える。
「文脈力」はこまぎれの知識からは生まれにくい。例えば、日本語能力の向上という意味では、平成4年から始まった「漢字検定」がある。年を追う毎に受験者数は増え、10年間で200万人を突破した。しかし「漢字検定」はあくまで読み書きの能力を測るものであり、文章の構成力を問うものではない。日本の学生の数学(算数)では「数式を解く能力の低下」ではなく「文章問題の文脈を理解する能力の低下」が指摘されている。「漢字能力」と「文脈力」の関係と、「計算力」と「文章問題を読み解く力」の関係――いずれも問題の本質は同じではないだろうか。
■美しい日本語・正しい日本語を鍛えるには
「文脈力」の訓練は、文章を書くことに尽きる。「書く」という行為は不特定多数の人に理解してもらおうと努力するが故に、「相手が理解できるようにする」ため文章の構成に力を注がざるを得ないからだ。
「文章を書く機会は昔より増えている」との反論もありそうだ。本当にそうだろうか? 流行のブログ(Blog=日記風簡易ホームページ)は、「誰が読んでくれるか分からないけど、とりあえず思ったことを書いてみよう」と文章を綴るのでは訓練にならない。「モノローグ」には「人に何か伝えよう」という意識はないからだ。
「携帯電話からのメール」は「特定の相手にのみ向けられたメッセージ」である故に、思いついたことを打ち込んでいるに過ぎない。文章を書くのとは、頭の働きは全く異なる。
パソコンや携帯は打ち込む時間も短縮できるし、頭に浮かんだことを次々と文章にできる。しかし、「書く」は原稿用紙のマス目をカリカリと埋めていくことが基本だ。それは頭に浮かんだことを腕とペンを使って、文字として出力していくという手間のかかる作業。ある意味、肉体労働だ。アタマでは何度も「この表現で正しいのか? 人に伝わるか?」という推敲の作業が行われている。
ところがペンと原稿用紙がパソコン・携帯に置き換わったとき、そうした思考回路は脇に押しやられる。手軽さと軽便さの裏返しとして「読み手に伝えようとする意識」が希薄になり、「文脈力」はないがしろにされてしまう。
■「文脈力」欠如は過度のコンピューター依存の産物?
コンピューターは情報の処理はできるが、ストーリーを組み立てることはできない。それは人間の役目だ。しかし、その人間の側が情報処理とストーリー構成を連携させる能力を喪失し始めている。急増する陰惨な事件も「この行為によって、どのような結果が引き起こされるのか」という因果関係をイメージできなくなっていることが一因ではないだろうか。
コンピューターの普及に伴い、私たちは以前では考えられないほどの情報にさらされている。当然「情報処理のため」脳を使う場面は増えた。いきおい、左右の脳の連携という脳の一番大切な機能を十分使わなくても済む場面が増えている。
社会のデジタル化は今さら止められないだろう。だからこそ右脳だけでなく、左脳を鍛える機会こそもっと増やすべきなのである。今日の右脳ブームは、「感性」「創造」を無視した「左脳偏重教育」の反動でもてはやされている側面が強い。しかし、それではバランスのとれた脳の教育にはならない。「読み手に伝えようとする意識」を持ち、論理構成力・文脈構成力を養うには左右の脳をバランス良く鍛える教育機会「文章を書く」の重要性を見直す必要がありそうだ。