日経BizPlusの連載が更新されました。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/kanamori.cfm
同サイトが動的サイトになったため、バックナンバーにうまくリンクできなくなってしまうので、文末に本文を転載します。但し、最新号はリンクをクリックして本サイトで読んでいただいた方が、図表やイメージフォトがあったり、構成もきれいなのでそちらをお勧めします。
バックナンバーのリンク切れは徐々に修復します。
さて、今回のコラム。「金森はついにファッションにまで口出すようになったのか!」と思われるかもしれませんが、お伝えしたかったのは、「大衆社会と社会構造、さらになんとなく時代を覆っている不安」というものをファッションの切り口から書いてみようということでした。
日経のデスクから、「芥川龍之介のいう『ぼんやりとした不安』を想起させる」と過分なお褒めの言葉を頂いてしまいました。←ほめられすぎ・・・。
では、以下はバックナンバー用の本編を転載します。
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第15回「ファッションの同質化現象を考える~個性喪失と安心感の狭間で~」(2006/02/17)
景気がめでたく回復し、消費も順調に伸びているようだ。しかし、階層社会の到来がささやかれ、生活者は将来に不安を抱え、モノの購入にもどこかおっかなびっくりの観が否めない。そんな生活者の消費の姿を、今回はファッションの世界から追ってみたい。
■ 「丸ごと購入」と「我も我も」現象
アパレル業の方から興味深い話を伺った。最近、そのブランドショップに来て、ファッション誌の切り抜きを提示して、「これと同じコーディネートを一式ください」と、「丸ごと購入」していく顧客が増えているという。
筆者は色気づく年頃になってから今日まで、ファッションに関しては自分流の「こだわり」を持っている。数多の選択肢の中から自分に合ったものを見つけ出し、その組み合わせの妙を楽しむ。ファッションとはそうしたものだと信じて疑わなかった。「丸ごと購入」は信じ難い行為だ。
別の機会にシューズショップの方からも面白い話を伺った。「Dragon Beard」というスニーカーブランドがファッション誌で紹介されるや否や、凄まじい勢いで問い合わせや来店が相次いだという。同ブランドは「世界に通用する日本発のスニーカー」をコンセプトに、シンボルのDragon Beard=龍のひげを靴の側面に配したユニークな商品だ。確かに人気が出そうな商品ではあるが、これほどの「我も我も」という勢いは、今まで経験したことがないという。
「丸ごと購入」と「我も我も購入」――この二つをどう考えるべきだろうか。一つの仮説として、モノが溢れかえったこの社会において、無限の選択肢を前に「選ぶことに疲れた生活者」の姿と見ることができる。「ファッション誌のお墨付きのコーディネートなら安心」「皆が欲しがっているシューズなら間違いないだろう」という感覚なのだろう。それでなくても、個々の生活者はまだまだ消費に対して慎重であり、買い物で失敗したくない。雑誌にも載っていて、皆と同じものを買えばリスクヘッジになる。
■「自由からの逃亡」
「選ぶことに疲れた生活者の姿」。それは同時に嫌なキーワードを連想させる。「自由からの逃亡(Escape from Freedom)」――ナチスからの亡命学者、エーリッヒ・フロムが1941年に、ドイツのナチズムの発生を心理学的に分析した社会心理学の古典である。「なぜ自由から逃避して全体主義に向かおうとするのか」。その答えは次の記述にある。『自由は近代人に独立と合理性を与えたが、一方個人を孤独に陥れ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独は耐え難いものである。人は自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性に基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる』。二者択一の結果、思考停止状態になって、当時人々がナチズムという全体主義に傾いていったのは、歴史に刻まれているところだ。
商品企画者やメーカーは「いかに他と差別化できるか」と思慮を巡らし切磋琢磨(せっさたくま)する。そうして今日の豊富な製品市場が形成されてきた。ところが、選択肢があまりに多いと生活者は選ぶことに疲れ、やがて「人と同じなら間違いはないか」と思考停止に陥る。生活者が選択の自由から逃亡し同質化を望むようになれば、市場の多様性は失われる。その果てに待っているのは、皮肉にも「選択肢の狭小化」だろう。
折しもメーカーは効率化のため、製品ラインナップの絞り込みに走っている。ヒットを出せたメーカーはその商品ラインに集中し、それ以外のラインを縮小することで効率化を図れる。他メーカーは二匹目のドジョウを狙い、ヒット商品に類似したモノを投入してそこに注力し、他のラインを縮小する。ただでさえ日本人は、「皆と同じようにしていれば安心」と思う国民性を持っている。かくして、「同質化した生活者」がそこここに大量発生する。昨今の購買行動に、何かSF映画に出てきそうな不気味な世界の予兆を感じてしまうと言ったら、うがち過ぎろうか。
■そもそもファッションって・・・
こと、ファッションや流行に関する格言を捜してみると、その数の多さに驚く。
フランスの詩人・思想家であるポール・ヴァレリー(Paul Ambroise Valéry:1871~1945)は、『流行とは、人目につきたくない人が、人目につきたい人を模倣することだ』と洞見している。デザインの神様であるココ・シャネル(Coco Chanel本名Gabrielle Bonheur Chanel:1883~1971)も、『ファッションは時代遅れを作るために作られる』という、アイロニーに満ちた言葉を遺している。
著書「幸福の王子」で有名なアイルランド生まれの劇作家、オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde:1854~1900)に至っては、『流行とはひとつの醜さの形であり、とても人を疲れさせるので3カ月ごとに変える必要がある』と痛烈だ。
これらの言葉から伝わってくるメッセージとは「ファッションは人の真似をしたり流行に乗ったりするだけでなく、オリジナリティーに満ちたものであれ」と解釈できる。高度成長期を経てモノが満ちあふれ、十人十色を超えて一人十色とまで言われるほど多様化した消費市場が形成されている。確かに、まだまだよちよち歩きの景気が個人還元してくれるマネーは少なく、懐の温もりは心許ない。しかし、ことファッションに関しては、人にどのように自分を見せるかという重要な役割を持っている。ファッションの同質化は、ひいては人間性の同質化にさえつながりかねない。
立春も過ぎた。もうすぐ春がやってくる。新しい服を買う季節だろう。どうやら今年の春物紳士服はパステル調のきれいな色が流行のようだ。ドブネズミと揶揄(やゆ)されたサラリーマンスーツがきれいな色になれば、街の景色も明るくなるだろう。だからといって、それも均質化され、誰も彼もピンクや水色のスーツで歩き回られたら気持ちが悪い。
さて、この春、読者諸兄はどのような装いをされるのだろうか。